〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

クリストファー・ノーランの映画『 インターステラー 』( 2014 )を哲学的に考える

 

初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

 

  

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監督  クリストファー・ノーラン   
公開  2014 年
脚本  クリストファー&ジョナサン・ノーラン
 
出演  マシュー・マコノヒー   ( ジョセフ・クーパー )
    ジェシカ・チャステイン  ( マーフィー・クーパー )
    マッケンジー・フォイ   ( マーフ幼少期 )
    エレン・バースティン   ( マーフ老年期 )
    アン・ハサウェイ     ( アメリア・ブランド )
    マイケル・ケイン     ( ジョン・ブランド )
    マット・デイモン     ( ヒュー・マン )
    ジョン・リスゴー     ( ドナルド・クーパー )

 




 クリストファー・ノーランはこの映画において驚くべき創造性のレベルに到達しているといっていいでしょう。驚くべき創造性とは、理論物理学者のキップ・ソーンの監修によるブラックホールワームホールの映像化の事ではありません。並みの監督なら、それだけで満足したでしょう。これは『 2001年宇宙の旅 』の延長上にある映画だ、というふうに。

 

■ それよりもノーランは物語の冒頭から、明らかに父と娘の関係を軸に据えて、最後までぶれる事はありませんでした。それはSFファンの人にとって面白くないかもしれませんが、そこが2001年宇宙の旅スタンリー・キューブリックと違う所です。確かにノーランは宇宙論に忠実な映像化に成功してるのでしょうが、それはあくまで映像的な至高性を求めての事であり、彼が本当に忠実なのは、宇宙論ではなく彼自身の創りだすストーリーなのです。

 

■ では彼のストーリーの創造性とは何でしょう?常識的な考え方をしていては、それについて深く考える事は出来ない。それは、"父と娘の関係性""宇宙での旅" をそれぞれ違う状況における話として、ひとつの作品の中に並べているという事ではありません。そうではなく地球にいたときの父と娘との "曖昧な距離" を、ジョセフが宇宙に行ってからの二人の "物理的距離" という形で、よりはっきりと浮かび上がらせている  〈1 〉 という事なのです。

 

■ 巨大な宇宙における父と娘の その "物理的距離" が縮められたとき、彼らの "精神的距離" ( 父が宇宙に行った時、彼女は自分が見捨てられたと感じている ) も解消されるという形で昇華される・・・。この物理的なものによる精神的なものの救済という非凡な唯物論的発想 ( 普通の監督は愛などの精神的なものによって物理的障害を乗り越えるというありふれたストーリーを作る ) を見逃すべきではありません。

 

■ 一見関係のないように見える巨大な物理的宇宙が、"父と娘の関係を媒介する物" として差し込まれているという仕込・・・。それこそが、この作品における強力な推進力であり、父と娘の関係性と宇宙を短絡 ( ショートカット ) させるというノーランの驚くべき創造性なのです。

 

■ そこらへんの映画監督ならば、せいぜい巨大な宇宙と無力な人間の奮闘、というありふれた筋書きになってしまうところですが、ノーランは父と娘の関係性という微妙で難しい距離感を巨大な宇宙とショートカットさせて、人間を超えた精神性 ( 宗教的ではなく哲学的な意味での ) を描ききっているのですね。

 



 

■ その短絡性の最たるものが、ブラックホールに吸い込まれたジョセフが、マーフの部屋の本棚の裏側に展開された4次元超立方体の中に現れ、そこからマーフにメッセージを送るというものです。しかし、なぜブラックホールという宇宙の領域から、日常的光景としてのマーフの部屋の本棚の裏側へと移動する事が出来たのかと思われる方もいるでしょう。

 

■ 宇宙という巨大な物理的領域とマーフの部屋という日常的領域を交わる事のない二つの並行的なものだと思い込んでいる限り、両者の溝は通常の手続きではロケットの地球への帰還というシーンの導入によってしか乗り越えられないからですね。ただ、これではありきたりなストーリーになってしまうでしょう、父と娘の関係性が宇宙での困難な旅が終わった "" でしか解決されないという具合に。

 

■ それに対して、ノーランは全く別の驚くべき創造性を発揮します。ジョセフが地球に帰還せず宇宙にいながらも、メッセージを送る事によって娘との関係性における "遠さ" を克服します。これが先に述べた、父と娘の関係性と宇宙の遠さを短絡 ( ショートカット ) させるノーランの創造性 という訳です。

 



 

■ この映画における創造性のモデルが  "4次元超立方体 ( テッセラクト )" なのですが、これこそが 宇宙と日常との短絡の象徴 ですね。ジョセフはあくまで本棚の裏側に隣接する4次元超立方体の中にいるのであってマーフの部屋に入る事は出来ない ( 本に触れる事は出来るけど )。つまり両方は違う次元にあるものとして設定されているのです。隣接するテッセラクトからジョセフがマーフの部屋を見る時、マーフの部屋における様々な時間継起の出来事 ( ジョセフが宇宙に行く前の出来事も含まれる ) が見えるようになっています。

 

■ これをどう理解したらいいのか、哲学的に考えて見ましょう。そのためには "4次元" について哲学的に考える必要があります。通常、4次元というと、"空間3次元 + 時間1次元" だと理解されるでしょうが、このままだと空間3次元に余剰次元の時間がひとつ加わっただけという理解のままです。ここに哲学的ひねりを加えて、時間の次元によって、それまでの認識を変えてみたいと思います。

 

■ 既に確立された3次元に、もうひとつ別の時間の次元が加わるという考え方では、おそらく事態はさほど変わらない。時間の次元を3次元に影響を及ぼすものと考える事によって、初めて、その余剰次元を加える意義が出てくるといえます。つまり、時間の次元の導入が、空間3次元の "確立性" を見直す契機になるという事です。空間3次元は、そこで事物が "発生" する事によって初めて認識される。空間が初めにあって、そこに事物が "発生する" という考え方は知識を得た事による事後遡及的なものです。そうではなく、事物や出来事の "発生" こそが空間3次元それ自体の認識を可能にする という事なのです。

 

■ では、その "発生" をどう考えるべきなのか。これを誘惑に屈して、場所論的な考えの方向に行くと、遡及的なものに過ぎない空間3次元の全能性に結局帰ってしまう。そうではなく、"発生" を "時間" として考える事 が重要になります。ただし、ここでいう "時間" とは、私達の通常の感覚、つまり1日が24時間、1年で365日、というような始めと終わりがあり、その繰返しがあるという理解では捉えられません。

 

■ 事物が発生する時、まずそこには前提として空間があるのではありません。空間は事物の発生ともに作り上げられ認識される次元でしかない。そこで真に機能しているのは、"永遠の時間" なのです。始まりもなければ終わりもない "ゼロ時間" が事象を可能にする "基盤" として無限に拡がっている。そして、この "ゼロ時間からの脱化" が事象の発生という運動であり、空間化であり、通常の時間化だ と考えられるでしょう。これこそが、空間3次元の疑似的な第一義性を脱構築するものとして時間の次元が付け加えられる事の意味なのです。

 

■ なのでテッセラクトから見える様々な時間継起の出来事は、"ゼロ時間" からの眺めであったとしておきましょう。それ故に、そこからはジョセフが宇宙に行く前の出来事すら、時間継起のひとつとして見えるのであり、そこにおけるジョセフの振舞いは、映画の冒頭における "こちら側" から見た時のマーフの部屋の奇妙な出来事に繋がるという訳です。さらに言うなら、そのような4次元超立方体がそれ自体として成立するには、4次元超立方体として閉じられていなければならないのであり、それを閉じるのは、もうひとつ別の余剰次元としての "重力" であるといえるでしょう。

 

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父と娘は表立って対立している訳ではありません。父は彼なりに愛情を娘に向けてはいるものの、娘は年頃のせいか上手く受け止める事が出来ない ( 嫌いな訳ではない )が、何とかしようとしている。父と娘の距離感とは、近くもあり遠くでもあるという両義的なものです。正確に言うなら、血縁関係としては親子なので当然近いが、精神的には離れている といえるでしょう。

 

そんな彼女の振舞いは、本棚から本が落ちる現象を見て、誰かからの二進法によるメッセージとして解読しようとする姿勢に象徴されている。もちろんこの時は、メッセージが父からのものである事は分からない、彼女にも、そして父自身にも。でも彼女は "誰か" からのメッセージを受け止めようとしている・・・。

 

そのメッセージを解読する事が出来た時、彼女は自分にメッセージを送る何者かが父であると認識する のです。つまり重要なのは、メッセージを送る何者かが父だと最初から分かりきっていたら、メッセージを真面目に受取ろうとしない ( いつもの小言か、というくらいで )。でも誰かは分からないが、メッセージを真剣に受取った結果、それが父からのものであると後から分かった時に、父を精神的に、つまり自分に近い存在として認識する といえるでしょう ( それまでの父への固定観念を脱しているという意味で )。

 

 



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