〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Goodbye the clueless, cruel, crawful, world toward to the transworld.

▶ ポール・バーホーベンの映画『 ELLE 』( 2016年 ) を哲学的に考える

 

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公開  2016 年
監督  ポール・バーホーベン
原作  フィリップ・ディジャン
出演  イザベル・ユペール   ( ミシェル・ルブラン )
    ジュディット・マール  ( イレーヌ・ルブラン )
    ジョナ・ブロケ     ( ヴァンサン・ルブラン )
    ロラン・ラフィット   ( パトリック )
    ヴィルジニー・エフィラ ( レベッカ
    クリスチャン・ベルケル ( ロベール )
    アンヌ・コンシニ    ( アンナ )

 

 

ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるためでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 



  1章  B級映画監督ポール・バーホーベン

 

ポール・バーホーベンといえばエロティックかつグロテスクなシーンを得意とし面白い作品 (ロボコッ プ』、『 トータル・リコール 』など ) を創ったかと思えばこき下ろされるような作品 (ショーガール ) を創るという意味でB級映画監督という印象を抱いている人がほとんどではないでしょうか

 

これほど評価の浮き沈みが激しい監督も珍しいこの安定感の無さは何に起因するのでしょうこれを単に映画監督としての力量が足らないからだと結論付けてしまっては話は終わるのですが彼の作品にはそう思わせない何かがあります

 

それについて考えるにはやはり彼特有のエログロを強調したシーンの意味を分析する必要があるでしょう彼の作品のエログロシーンが定番なのは何故かバーホーベンはどのような意図でそのシーンを使うのかその問いについて考えていく事がバーホーベンの映画の特徴を明らかにするのに繋がるでしょう

 



 2章    ストーリーが二転三転する『 ELLE 』

 

  ブラックブックなど比較的エログロシーンが押さえられた最近の作品から一転して『 ELLE 』にはエロどころか批判を浴びかねないイザベル・ユペール ( ミシェル・ルブラン役 ) がレイプされるシーンが登場します。 

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ここでこれまでの彼のエログロシーン ( *1 ) について考えてみるとそれは明らかに観客の性的嗜好や嫌悪感などのリアクションを掻き立てる機能を果たしていてバーホーベンの意図的な操作の結果な訳なのですねでも間違えないでほしいのはバーホーベン自身が欲情的であるからエログロシーンを撮るのではありませんそこには性的嗜好を刺激して観客の心情を操作しようとする無意識的試みに取り憑かれたバーホーベンの制作スタイルが現れている訳です ( *2 )

 

さてこれまでのエログロシーンならば観客の欲望を刺激してそこで終わりだったのですが、『 ELLE 』のレイプシーンはその先に行ってしまっているのですつまりレイプシーンは仮に欲情する者がいたとしても大多数はそのシーンに道徳的批判の声を挙げてしまうという事です

 

しかしレイプシーンに対する道徳的非難これをバーホーベンが予測していないはずがないいや正確に言うならば道徳的非難を引き起こすレイプシーンを見せながらもすぐにそれを打ち消すようなミシェル ( イザベル・ユペール ) の振舞いを演出するのですレイプというトラウマになりかねない出来事にショックを受けた女性がそこから立ち直るというような紋切型の話とはバーホーベンは縁を切る事によって観客が普通の反応 ( ここでは道徳的非難 ) が出来ないように操作しているという訳です。 ではレイプされた後のミシェルの振舞いとはどのようなものか見ていきましょう

 

護身用グッズを買うミシェルしかし小型の斧はもう護身どころか殺傷能力があるのでこの時点で彼女にはレイプ犯への復讐心が芽生えているのが読み取れる・・・あくまで上辺だけですけど。 

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レストランでの友人たちとの食事のシーンレイプされた事実をあけすけに語り彼らを引かせてしまう。 

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そして最も重要なのはミシェルがレイプされた後警察に通報しなかった事 ですこの映画のストーリーを設定する上でその事はレイプされた事よりも大切な要素になっているのですそれは不謹慎だという感情レベルでの反応以前に観客の通常の解釈と反応を斥けるあらゆるストーリー設定が可能になる条件 であると言えるでしょう

 

事実警察に通報しなかった事 ( これを便宜上 A とします ) によりそこに 幾つ物の話を差込んで接続する ( 以下の ①~ ) 事 をバーホーベンはやってのけています

 

 A それ自体はまず過去の父親の犯罪を巡って警察への不信感があるという話によってまず固定される

 

  A の背景には犯罪者の父の存在自体がミシェルのトラウマになっていて男自体への憎しみがあるのでミシェルが自分自身で犯人に復讐しようとする意図が隠されているかのように話が進む

 

  の話を強化するかのようにミシェルは度々襲われるレイプのフラッシュバック的妄想の中で犯人に抵抗し傷を負わせるシーンが差し込まれる

 

 しかしミシェルは再び襲われた時に犯人が向かいの家に住むパトリックだと分かったにも関わらずそのまま放っておくこの流れの伏線としては近所付き合いのあるパトリックに恋愛感情を抱いていたミシェルの振舞いがありますパトリックを挑発したり自宅から向かいの家のパトリックを見ながら自慰行為をするなど

 

 

から ③ で積重ねられたトラウマによる復讐行為という筋書きは によってあっさりと覆されますこれについてはミシェルはレイプのトラウマより彼女の中の欲望が勝ってしまったんだ と解釈するしか出来ないでしょうただしこの解釈ではA の時点で 実はミシェルは再びレイプされる事を望んでいたかもしれない ( バーホーベンならそう考えていても不思議ではない ) というとんでもない帰結が導きだされる可能性がありますね

 

そこでバーホーベンはそれをはっきり言明せず曖昧なままにする ( 正面切って主張するにはスキャンダラスであるので ) ためにひねりを加えた次の展開に移行します

 

事件の後パトリックの妻だったレベッカが引っ越すシーン

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驚くべきはレベッカは夫のパトリックがミシェルを襲っていた事を知っていた のですレベッカの設定は敬虔なキリスト教徒だったのですが彼女の発言 ( シーン10. ) によってその背景に 夫の病的な性癖 ( レイプすることでしか女性とSEXすることが出来ない ) に悩んでいた 事が推測出来るというオチが付くのです

 

レベッカ "彼に応えてくれて感謝している" というセリフは一見するとミシェルの立場を考えない身勝手なものに思えるかもしれませんがレベッカは日常近所付合いでのミシェルのパトリックへの恋愛感情に気付いていたしだからこそレイプも彼の性癖を分かった上での "ゲーム的行為" であると考えていたと解釈出来る訳ですね

 

つまりここでのレベッカミシェルの隠された欲望の真実を明らかにする役割を果たしているのですだからこの時のミシェルは自分の本質を見抜かれてしまったとして普通ならば驚きや気恥ずかしさを表現しそうなものですがそうはならない

 

そこで終わらせないためにバーホーベンは事をさらに曖昧すべく冗長なひねりを加えます物語の核心を担うはずのミシェルとパトリックの組合せからラストにおいてミシェルとアンナの女性同士の組合せを登場させるのです ( *3 )それによって ミシェルの欲望の対象がパトリックからアンナへ移行している 事を示そうとします

 

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もちろんこの女性同士の組合せはレズビアンに他ならないのですがこのミシェルの振舞いはスキャンダラスというよりはほとんど支離滅裂なものになっていますね果たしてこのミシェルとアンナの組合せを登場させる必要があったのでしょうか映画の前半にはミシェルとアンナがかつてレズビアンであった事を仄めかすシーンがありバーホーベンは最初からこのラストのオチを考えていたようですが散漫な印象になっている事は否めないでしょう何せこのラストのシーン ( 22~26. ) においてすら2人が仲睦まじくし過ぎているという事で控えめな演技をさせたとインタビューで語っていたくらいですから

 

結果としてバーホーベンはより曖昧な方向に進む事を自ら選択しているのでありその曖昧さはストーリーを練り上げる上で必要な複雑さから来ているというよりは観客に解釈させず宙吊りにする事を好む彼の欲望から来ているといえるのです

  

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( *1 )

スターシップトゥルーパーズ ( 1998 )のグロシーンブレイン・バグスに脳みそを吸い取られるザンダー ( パトリック・マルドーン )

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( *2 )

氷の微笑 ( 1992 ) シャロン・ストーンが足を組みかえる有名なシーン。 

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( *3 )

氷の微笑 ( 1992 )にもシャロン・ストーン演じるキャサリン・トラメルとレイラニ・サレル演じるロキシーレズビアンの組合せが登場する。 

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 3章    バーホーベンの映画の本質である倒錯的形式

 

ようやくここから本題に入れるのですが以上で述べてきたようにバーホーベンの映画の特徴はエログロシーンと二転三転するストーリーの組合せという事で大方説明が付くでしょうそしてその組合せが上手く機能すれば面白い作品 (ブラックブック ) になるし上手くいかなければ駄作になるという具合です

 

しかしエログロシーンと転調的ストーリーとは結局の所観客の目を引く事と観客の解釈を拒否する事 ( 事実、バーホーベンはインタビューで映画を解釈する事に否定的な発言をしている ) でありその観客の鑑賞スタイルを操作しようとする製作スタイルにこそバーホーベンの欲望が潜んでいるといえます

 

このバーホーベンの欲望について考える上で "倒錯" の概念を参照しましょう倒錯といっても一般的には "正常な状態から逸脱した" という意味ですが精神分析的に考えると通常なら性器における直接行為で得られる快楽が性器に辿りつく前の別の箇所あるいは状況における行為によって得られてしまう事を意味します ( まあこの考え自体が精神分析において古いことは否めませんが )

 

もちろんそのままではここでの展開に適用出来ないので哲学的に考え直す必要がありますね映画を製作する人間は通常は自分の考え方や主張なりを提示する事に満足を見出すのでしょうがバーホーベンは違う彼は観客に対して提示したい考えや主張などのメッセージ性が最初にあるのではなくまず 観客の視線や反応解釈などの他者の即物性 を想定してそれを 裏切る映画を作る事に快楽を見出している

 

だから彼の映画にはいつもエログロシーンが登場して観客の反応や欲望を誘導しようとするし観客の解釈を裏切るべく二転三転するストーリー ( 時として不必要だと感じる時があるくらい ) を展開させるのです

 

つまり観客の反応や解釈などの他者の即物性を先取りしている事こそがバーホーベンのスタイルの本質になっている のであり通常ならば映画の根幹である脚本はそんな彼のスタイルの中に溶かされていくそのような 偏執的な先取りが既に本質になっている彼のスタイルは倒錯的である ( 気を付けなければいけないのは彼の人間性が倒錯的なのではなく、映画の製作スタイルが倒錯的であるという事 ) と言う他はなく映画自体が倒錯的形式で構成されてしまうのは必然的であると言えるでしょう ( )

 

 



▶ 手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(4)

 

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 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



a.   このテーゼの内容を掘り下げる必要があるでしょう。手紙が彷徨うとはどういう事であるのか? 受取られても逃げ去るのはなぜなのか? それは手紙の行程そのものに関わる問題でもある。手紙は一体何処に向かうのか? 宛名人に向かってなのか? 確かにそうでしょう。しかしそれは宛名人が最終の目的地である事を意味するのか? もしそうであるならば、"最終" とはいかなる意味でそうであるのか? 手紙の行程がそこで全て終わる事を意味するのか?

 

b.   確かに象徴的身振りとしては受取りは差出しから始まる手紙の行程を完了させるものです。しかし、その身振りは手紙の内容に同意するにせよ、しないにせよ、 受容れ( 受取りとは違う )を一旦保留する事を意味する行為でもある のです。とりあえず受取りました、あなたの気持ちは受け止めておきますという事であり、そこから先どうするかは受取人の自由なのです。

 

c.   そのような自由の行使権は、受取人が既に手紙の行程の一部として巻き込まれている事に対する抵抗でもあります。手紙における宛名の署名が受取人本人ではなく差出人によって先取りされているという受取人の自由の剥奪に対して、受取人は自分の自由を行使して対応・対抗する のです。受取人が手紙を受容れる ( これはもちろん手紙の内容に全面的に同意する事を意味するとは限らない ) にせよ、手紙の受容れを拒否する ( 自分を手紙の行程の最終目的地としての受取人になるのを否定する事 ) にせよ、それは受取人の裁量に委ねられている。

 

d.   そしてそのような余地があるという事は、手紙の受取りが行程の最終目的地とする見方が局地的・限定的である事を意味しているのではないでしょうか。手紙の受取りが差出人の行為に賭けられたものを全て返済するものであるというのは困難であるのではないでしょうか。というのは 差出しという行為は手紙の内容を含む差出人の固有圏域の唐突な送り出しであり、それに対して受取人はいかなる態度で対応すべきなのか即座に判断する事は困難である からです。それがプライヴェートなもの ( 愛の告白など ) であればなおさらそうです。

 

e.   それ故に、一度動き出した差出人の固有圏域は、受取人がそれをすべて受容れる事の困難さによって、受取を最終地点としてそこに留まる事が出来ずに通過する。それが手紙が彷徨うという事の意味なのです。そのような自らを受取ってもらえない事の報われなさは悲劇であるのでしょうか。いや、そうではありません。その報われなさは確かに差出人を気落ちさせるかもしれないが、それこそが個人の 固有圏域 がある事を示しているのです。

 

f.   それは報われなさという否定性から展開される弁証法的論理ではありません。報われなさの身振りとしての彷徨いは、幽霊が取り囲むかのように、個人の固有圏域に触れる。いかなるものによっても定義する事が困難な( なぜなら個人という言い方でも十分に個人的でないから )個人の固有圏域は、何処にも届く事なく、承認される事なく、見向きもされなくても、実在する。ただし彷徨いながらであるが。それは終わる事のない差出しとして人々の間を通過し漂流する、そうする事しか出来ないのです。なぜならいかなるものも個人の人生を定義出来ないし、いかなるものも個人の世界を知らないから、手紙を差出す本人以外は。しかし、ここで言う本人とは僕であり、あなたであり、すべての者の事であるのです〈 終 〉。

 

 

▶ 手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(3)

 

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 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



a.   宛先における〈 死 〉・・・それは宛名人の〈 死 〉なのです。差出人が宛名を書く時、それは自分の言う事を聞いてもらう、あるいは受取ってもらう、受け入れてもらう為なのですが、それは同時にそうしてもらわねばならない、それしか出来ないよう宛名人の自由を奪い受取りの行為のみに特化させる事、しかも宛名人の許可なく彼らの知らない間にする事でもあるのです。それは宛名人の立場を奪い、自由を奪い、可能性を奪い、意思を奪う、つまり知らない間に殺す事でもあります。この言い方が耐え難いのであれば、殺すのではなく、死んだ者として扱う事 と言い変えましょう。

 

b.   そのような罪なくしては、そもそもメッセージを伝える事など出来ないのです。相手の人生を中断して割り込み、そこに自分のメッセージを差し込む。自分の思いや悩みなどの個人的告白や事務的連絡であれ、メッセージを宛名人に送るというのは、たとえそれが相手に非礼がないよう敬意が持たれていたとしても、それ以上に自分への愛や忠実さがなければ実行出来ない行為であるという意味で 宛名人を自らの犠牲にする事 なのです。相手に迷惑であるのなら止めるべきだろうかという憂慮を振り切り、自分のメッセージに根拠や信用がある、あるいは宛名人とって有益であるとさえ思わせる盲目的な愛がそこにはあるのです。

 

c.   もちろん実際にはそのメッセージを受取人がどう受取ろうが、あるいは受取らなかったように振舞おうが自由であるのですが、手紙を差出す事は相手を知らない間に( 受取人だけではなく差出人自身にとっても )殺す事なくして不可能なのであり、それは死者に手紙を送る事なのであり、それ故に、実際にそれが必ず受取られてたとしてもその瞬間から手紙は逃れ去り漂流する といえるのです。

 

d.   そうすると、今では手紙は宛先に届くという命題を違う意味で肯定する事も出来るでしょう。手紙は宛先に届かない事もありえるという命題はそれに反するものではなく、まさに手紙が宛先に届く時に何が起きているのかを説明する のです。

 

e.   手紙は宛名人の所に到着する時をもってそれとして認識され、その行程を終了するように見えるがそうではありません。手紙が手紙として認識されなければ、それは一体何なのか。それは手紙と呼ばれるべきものではないのか。そのような事態は考えられるのでしょうか。

 

f.   手紙が宛名人において受取られ認識されるという行為は、手紙の差出とは全く別の事態であり、象徴界の一地点における出来事です。しかし手紙の行程において、その 差出という行為は、到着点において受取りという行為に自動的に切り替わるのではない のです。

 

g.   手紙が受取られたとしても、差出は消滅せずに自分に忠実であり続ける。手紙の受取りとは象徴界における必然的な出来事ですが、まさにその受取りという行為の必然性故に、それ以前の 手紙の差出という事実を回収できずに野放しにして彷徨わせ続けている のです、未だに。手紙の差出という事実は、それが宛名人において受取られたとしても、消去できず、未だ終わりなく彷徨い続ける。それは象徴界に安定的に登録される行為ではなく、未だ上手く定義出来ない〈 死 〉に関する行為であるが故に象徴界に安住する地を持たず、〈 幽霊 〉として漂うのです。

 

h.   ここにおいてテーゼを次のように書き換える事が出来るでしょう。手紙は宛先に届く。しかし届くや否や、それは逃げ去り彷徨い続ける〈 続く 〉。

 

 

 以下 ( 次回 ) の記事に続く。

 



▶ 手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(2)

 

f:id:mythink:20181009103356j:plain 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



a.   先に述べましたが、手紙の受取りが上手くいかない場合がありえるように象徴空間が十分に構造化されていないのであれば、事態はどうなるのでしょう。言語を媒介にした対人関係としての象徴空間においては、手紙という記号表現とその行程は人間関係という結びつきを保障するはずだと精神分析的には考えれられるはずです。しかし、同時にその記号表現は並行しているが故に上手く交わらない二つの事態、つまり〈 差出す事 〉と〈 受取る事 〉をも奇妙に結び付けている奇妙な記号表現だとも考えれられるのです。なぜ上手く交わらないのでしょう。〈 差出 〉から〈 受取 〉への行程とは見通しの良い舗装された純粋な交通路ではないのでしょうか。それともそこは気付かれずに通過されてしまうものがあるのでしょうか。

 

b.   まさしくそこで分岐点となるのは 文字としての〈 手紙 lettreの概念をどう考えるのかという事です。これをラカンが言うところのシニフィアンの物質性、つまり、分割不可能なものとしての 〈 手紙文字 〉の理念的同一性( lettre が 文字 という意味も持つことから手紙はバラバラになっても、つまり単なる 文字の集まり になっても手紙であるというラカン的解釈 ) として受け止めるのではなく、手紙の理念性から逃れていく文字それ自体の( シニフィアンの、ではない )物質性 として受け止めようと僕は考えます。

 

c.   〈 手紙は宛先に必ず届く 〉とは、主体へと円環状に向かい再自己固有化する記号表現の理念により普遍的なものにまで高められた精神分析の公理ですが、もし文字としての〈 手紙 lettre 〉が記号表現という普遍性の中においてその理念を保障する特殊なものではなく、〈 手紙 - lettre 〉から〈 文字 - lettre 〉へと自らの属性を "分割・分離" して普遍性から遠ざかっていく特殊なもの であるとしたら、どうでしょうか。

 

d.   記号表現の換喩的な横滑りの行程には乗らずに、〈 手紙 - lettre 〉という理念を、他性的( "手紙" から見て )なものとしての物質それ自体である〈 文字 - lettre 〉へと転移させる 事で、自らを保留し何者からも離れて宙吊りにする。それは 切り離され何者も手を出せないひとつの "物質性" となって 書き込まれた事実 を示し、そのような 書き込むという行為 があった事、そして そのような行為を成した者 を浮かび上がらせる。私であれ、あなたであれ、〈 書く 〉という行為はひとつの事実を産み出す事であり、〈 文字 - lettre 〉とはたとえそれを書き込んだ者が消えてしまおうとも、自らの "痕跡" を刻むもの なのです。そしてそこからその事実に関わるものを生起させるのです。

 

e.   その意味でそこには〈 〉がある。〈 書かれたもの 〉という事実とともに、あるいはその傍らに、書き込む者の〈 死 〉だけではなく、書き込まれた者( つまり宛名 )の〈 〉もある・・・。

 

f.   これはジジェクが言うような〈 死 〉が私達すべてに訪れるという意味で〈 手紙=死 〉は必ず〈 宛先=私達 〉に届くという事ではありません。洗練されているように見える考え方ですが、〈 象徴的負債=死 〉の清算とは誰にでも共通して平等に訪れるという意味で不安を煽りながらも予定調和的な〈 死 〉でしかありません。しかし〈 宛名 〉における〈 死 〉はもっとラディカルな事態を示しているのです〈 続く 〉。

 

 

 以下 ( 次回 ) の記事に続く。

 



▶ 手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(1)

 

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a.   エドガー・アラン・ポーの小説『 盗まれた手紙 』の読解から引き出した〈 手紙は宛先に必ず届く 〉という精神分析ジャック・ラカンのテーゼとそれに対する〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉という哲学者ジャック・デリダのアンチテーゼは、かつて興味深い対立のひとつでした。

 

b.   ラカンの影響力により、〈 手紙は宛先に必ず届く 〉というテーゼは精神分析的でありながらも哲学の圏域にも入り込んでくるものだった。そしてそのテーゼに対して〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉と デリダが言った時、そこで何が起こったのか。そのテーゼの中には精神分析概念の支配からは逃れていく別のものが紛れ込んでいる事を示したと言えるのです。テーゼが完成され閉じられてしまう前に、そこに異質なものがある事を示してテーゼを保留状態にしまうという異議申し立てでもあったのです。しかし〈 手紙は宛先に届かない こともありうる 〉とは何を示しているのか。これについて僕の考えを述べ、さらに展開していこうと思います。

 

c.   〈 手紙は宛先に必ず届く 〉というテーゼは、手紙がひとつの記号表現として、それの受取手である主体に向かう行程における転移関係によって構造化されていく象徴空間を示している。それは "記号表現"の大いなる行程とその主体への最終的帰着であり、記号表現というラカン的論理の軌跡が各対人間における転移関係を分配するという象徴空間の編成を描いているとさえ言えます。

 

d.   では逆にそのような転移関係から免れた、あるいは "上手くいかない" 象徴空間 は少なくとも精神分析といえるでしょうか。少なくともそのような象徴空間が 一体何を意味するのかを詳細に分析する事は、治療という限定的意味での精神分析的身振りには収まりきれないものを明らかにする事ではあるかもしれません。

 

e.   〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉、 それがもし転移関係が上手く構造化されない象徴空間もありえる、つまりラカンのテーゼが精神分析的に十分ではないという主張ならば批判的でありながらも、その立場は精神分析の一派に過ぎないものという事になるでしょう( 実際にそれを名乗っていないとしても )。しかし転移関係が上手く構造化されない象徴空間が、精神分析概念でありながらも精神分析が "全て" を囲い込む事の不可能性を示しているとすれば、それは自らの要素 ( シニフィアンなど ) の動きが予期出来ない場合がある事、つまり受取り手としての主体である 宛先に届かない事、に影響されているからではないでしょうか。その予期出来ない場合がある事によって象徴空間は十分に構造化されず、転移関係が行き渡らない事もあるのではないかと考える事も可能なのです。

 

f.   その前に〈 手紙は宛先に必ず届く 〉についての考え方に触れてみましょう。一見洗練されているように思えるが実は十分ではない考え方はこうです。

"手紙はそれが受け取られた主体においてその宛先が自分であるのだと認識される事によって初めて手紙となる"

しかしこういう手紙が届く事の必然性を説明する事後成立性の遡及効果は認識論的なものであり、既に届いてしまっているものの事しか、届いた後でしか、言及出来ない。つまり、それは手紙の "誤配" ( 言うまでもなく東浩紀によって概念化された ) により届かなかったものについては言及出来ないし、そもそも 手紙が出されたどうかすら永遠に気付かれないまま でいるかもしれないのです。

 

g.   この点からするとスラヴォイ・ジジェクの回答はもっと洗練されている。彼は手紙を入れた瓶を無人島から海に流すという例えで、実際には届かないかもしれないが海に流した瞬間にそれは象徴的なものとしての受取人である大文字の他者に届くというのです。受取人側の行為に基づくのではなく、差出人の手紙を出すという行為自体が既に〈 手紙は宛先に必ず届く 〉の象徴的行程として既に確定されているという訳ですね〈 続く 〉。

 

 

 以下 ( 次回 ) の記事に続く。

 

 

▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学-(10)

 

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   ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(9)からの続き。



 10.   複数性としての幽霊 ②

 


a.   幽霊的なものの特徴は、時間的にも、場所的にも、複数的である可能性を保持しているにも関わらず、それらを束ねて単独的であるかのように振舞える事です。しかし、複数可能性を束ねるこの単独性、つまり、一者の効力は何に起因するのでしょう? それがなければ、何に対しての複数的であるのか分からなくなり、複数可能性は文字通り複数的なものとしてばらばらになり、もはや複数である事さえ分からなくなる。

 

b.  ならば、ひとつであるとはどういう事なのでしょう? 幾つかの数のまとまりが、複数的なものであると言うには、一者への対自性を獲得しなければならないが、問題は 一者が複数的なものからどのようにして出現するのか なのです。もし、一者が最初から複数的なものとは別に無条件にあるというのなら、それは間違っている。なぜなら、自らを一者とする為には、自らの単独性を証明するための判断基準としての複数的なものが隣接していなければならないからです。

 

c.   一者の出現は複数的なものを背景とするが、この一者を複数的なものとは全く別のものと考えてしまうと、一者は神的なものとして知的保留を示す標識でしかなくなってしまう。一者は同質の傾向性を共有する幾つかの数のまとまりが自らの運動の中で自らに向かう対自性を獲得しようとして自らを自己疎外する時に出現する。これは自己という対象が自らの元にはなく、自己に先立つ対象化の作用によって自らの元から離れることによってしか成立しないのと同様です。

 

d.   重要なのは、ここで出現する自己が、実在する個体ではないという事です。それは実在の個体ではないが、実在の個体の中で経験される対象からの反照であり、不可視のものとして存在する精神の経験なのです。自己という対象が自らの元にないという事は、実在の個体は自己であろうとする限り、永遠に自己という対象には到達出来ず、離れているしかない事 を意味する。

 

e.   複数的なものが自らに到達出来ない運動の中で、その近づき得ない距離それ自体が疎外された時単独的なものとしての一者が出現した といえるのです。それ故に、複数的なものは自己の運動として一者に向かう

 

f.  だが、その時、一者は既に実在する個体とは別のものであり、精神が全体的運動の過程において個体に留まる姿、すなわち幽霊なのです。そして、我々とは、実在する個体において経験される幽霊であると言えるでしょう ( 終 ) 。

 



▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー〈 9 〉

 

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    ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(8)からの続き。



 9.   複数性としての幽霊 ①

 


a.   精神は移行の運動という全体性において自らの真理を知る、つまり精神は知となる。しかし、移行に抵抗する個物が自らの中に収縮する時、精神は知に至らず、個物から離れる事が出来ず、個物の影として幽霊となる。最も個物的である人間という存在の最も人間的なものの表象が幽霊なのです。精神の側から見ると、幽霊とは 知へと至る事の出来ない精神 であり、人間が自らの存在をひとつの知としては理解出来ないものなのです。

 

b.   ヘーゲルの『 精神現象学 』が英語版において、ゲルマン語系の ghost ではなく、ラテン語系の spirit が採用されているのは、精神が知的なものという意味での一般性として了解されている事以外の何物でもないでしょう。しかし、もしその精神を個別的なものとしての ghost とするならば何が見えてくるのでしょう。ただし、既に述べたように、Ghost は個別的なものでもあるので、一般性としての精神が展開されるという現象性を意味するPhenomenology ではなく、『 Philosophy of Ghost ( 幽霊の哲学 ) 』という仮タイトルを付けた場合に何が見えてくるのだろうかという事です。

 

c.   これを別の言い方をするならば『個物の哲学』という事が出来るでしょう。個物は自らにこだわり、自らの中に収縮する。これに対して哲学はひとつの知として個物の外へ出て行こうとする。知は移行を積み重ね、自らがたんなる個物ではなく、絶対知である事を知る。つまり、哲学は人間という個物の中に収まりきれるものではなく、知の移行の運動として "人間的なものを越え出る非人間的なもの" なのです( これが反-人間的なものや野蛮なものではない事は既にヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(6)で述べました )。

 

d.   ではこの相反する組み合わせの哲学的言説をどう考えるべきでしょう。個別から一般性へのヘーゲル弁証法的移行でなければ、個別それ自体についての存在論的言説だというのでしょうか。しかし、 ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(8)で述べたように、ハイデガー存在論的言説も一般性から個別への崩壊である限り、一般性についての別ヴァージョンに過ぎません。

 

e.   そうすると考えられるのは、個物が自らを一般性との関係性において掴むのではなく、自らをひとつの "形象" として、つまり "一者" として掴む事 です。それこそ人間的なものの形象に固執する幽霊的な身振りだといえるでしょう。

 

f.  人間が自らの存在を知として理解するのを止める時、そこにあるのは一般性の残滓にしがみつく幽霊としての人間です。幽霊は消えてしまう事に抵抗し、何度でも回帰して現れ、あたかもずっとそこにいるかにように同じ〈 私 〉として振舞う。同じ〈 私 〉がそこにいて、しかも 一人であるかのように振舞う。肉体が滅びても、それは続く。

 

g.   この終わる事のない〈 私 〉の振る舞いこそが幽霊としての人間の本質なのです。幽霊は自らの居場所である〈 個物 〉を全力で支え、維持しようとする。ここにおいて幽霊は〈 個物 〉を "一者" として支えるべく複数的な可能性となる。複数的なものが同時に同じ場所にあるという事ではなく、違う時間、違う場所に散在するという意味での複数可能性です。この複数性を束ねる一者において作用しているのが離接的綜合の論理である訳です。

 

h.   ここでの重要なポイントは、複数性が最初からあるのではなく、〈 人間的形象 〉が常にバラバラに分割され、引き離され、散在している事の結果として生じるという事 です。もっと言うならば、分割されるのではなく、引きちぎられ、奪われ、食べられるのです。人間が集団である限り、誰かと共にいる限り、他者を見る視線、他者についてしゃべる事、他者に何かする事などの日常的なささいな事から既に、他者の存在を引き裂く簒奪行為が始まっている。ここから倫理的なものとしての人間的形象、つまり他者を支える〈 幽霊 〉が動き出す。

 

i.   この人間的形象である他者を最大限に高める行為のひとつが喪に服す事です。フロイトからデリダを経由する〈 喪 〉についての概念の作業は、他者の体内化の失敗、あるいは体内化に抵抗する他者を示している。しかし、それは果たして最初から他者であったのでしょうか。我々に対して〈 他者というもの 〉は最初から無条件に完成されてはいないのではないでしょうか。私達が持つ相手の〈 断片的表象 〉を相手の〈 全ての人間的形象 〉として形成する事の不可能性こそが他者の体内化の失敗の真実ではないでしょうか。

 

j.   そうすると他者という人間的形象とは何でしょう。 人間的なものを全て網羅する形象が不可能であるならば、他者とは何でしょう。それは我々の中にある相手の断片が帰っていこうとする〈 宛先 〉としての〈 一者だと考えられないでしょうか。 その相手が実際に生きていようが、いまいが、断片が帰っていこうとする他者は実在の人物とはおそらく違う。実在の人物がいなければ、他者はありえないが、それでも他者は実在の人物とは違う。

 

k.   バラバラに散在する相手の断片的表象が帰っていこうとする場所がもし実在の人物のみであるならば、実在の人物が亡くなると、我々の中の断片的表象も帰るべき場所をなくして消滅してしまうかもしれない。しかし、実在した人物が既に亡くなった後でも、他者の断片的表象が一者の元に帰っていこうとする動きがあるという事は、幽霊的なものとしての他者が消滅する事なく彷徨っている という事なのです〈 続く 〉。

 

 

 

 続きは以下の記事を参照。