〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(3)

 

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 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



a.   宛先における〈 死 〉・・・それは宛名人の〈 死 〉なのです。差出人が宛名を書く時、それは自分の言う事を聞いてもらう、あるいは受取ってもらう、受け入れてもらう為なのですが、それは同時にそうしてもらわねばならない、それしか出来ないよう宛名人の自由を奪い受取りの行為のみに特化させる事、しかも宛名人の許可なく彼らの知らない間にする事でもあるのです。それは宛名人の立場を奪い、自由を奪い、可能性を奪い、意思を奪う、つまり知らない間に殺す事でもあります。この言い方が耐え難いのであれば、殺すのではなく、死んだ者として扱う事 と言い変えましょう。

 

b.   そのような罪なくしては、そもそもメッセージを伝える事など出来ないのです。相手の人生を中断して割り込み、そこに自分のメッセージを差し込む。自分の思いや悩みなどの個人的告白や事務的連絡であれ、メッセージを宛名人に送るというのは、たとえそれが相手に非礼がないよう敬意が持たれていたとしても、それ以上に自分への愛や忠実さがなければ実行出来ない行為であるという意味で 宛名人を自らの犠牲にする事 なのです。相手に迷惑であるのなら止めるべきだろうかという憂慮を振り切り、自分のメッセージに根拠や信用がある、あるいは宛名人とって有益であるとさえ思わせる盲目的な愛がそこにはあるのです。

 

c.   もちろん実際にはそのメッセージを受取人がどう受取ろうが、あるいは受取らなかったように振舞おうが自由であるのですが、手紙を差出す事は相手を知らない間に( 受取人だけではなく差出人自身にとっても )殺す事なくして不可能なのであり、それは死者に手紙を送る事なのであり、それ故に、実際にそれが必ず受取られてたとしてもその瞬間から手紙は逃れ去り漂流する といえるのです。

 

d.   そうすると、今では手紙は宛先に届くという命題を違う意味で肯定する事も出来るでしょう。手紙は宛先に届かない事もありえるという命題はそれに反するものではなく、まさに手紙が宛先に届く時に何が起きているのかを説明する のです。

 

e.   手紙は宛名人の所に到着する時をもってそれとして認識され、その行程を終了するように見えるがそうではありません。手紙が手紙として認識されなければ、それは一体何なのか。それは手紙と呼ばれるべきものではないのか。そのような事態は考えられるのでしょうか。

 

f.   手紙が宛名人において受取られ認識されるという行為は、手紙の差出とは全く別の事態であり、象徴界の一地点における出来事です。しかし手紙の行程において、その 差出という行為は、到着点において受取りという行為に自動的に切り替わるのではない のです。

 

g.   手紙が受取られたとしても、差出は消滅せずに自分に忠実であり続ける。手紙の受取りとは象徴界における必然的な出来事ですが、まさにその受取りという行為の必然性故に、それ以前の 手紙の差出という事実を回収できずに野放しにして彷徨わせ続けている のです、未だに。手紙の差出という事実は、それが宛名人において受取られたとしても、消去できず、未だ終わりなく彷徨い続ける。それは象徴界に安定的に登録される行為ではなく、未だ上手く定義出来ない〈 死 〉に関する行為であるが故に象徴界に安住する地を持たず、〈 幽霊 〉として漂うのです。

 

h.   ここにおいてテーゼを次のように書き換える事が出来るでしょう。手紙は宛先に届く。しかし届くや否や、それは逃げ去り彷徨い続ける〈 続く 〉。

 

 

 以下 ( 次回 ) の記事に続く。

 



▶ 手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(2)

 

f:id:mythink:20181009103356j:plain 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



a.   先に述べましたが、手紙の受取りが上手くいかない場合がありえるように象徴空間が十分に構造化されていないのであれば、事態はどうなるのでしょう。言語を媒介にした対人関係としての象徴空間においては、手紙という記号表現とその行程は人間関係という結びつきを保障するはずだと精神分析的には考えれられるはずです。しかし、同時にその記号表現は並行しているが故に上手く交わらない二つの事態、つまり〈 差出す事 〉と〈 受取る事 〉をも奇妙に結び付けている奇妙な記号表現だとも考えれられるのです。なぜ上手く交わらないのでしょう。〈 差出 〉から〈 受取 〉への行程とは見通しの良い舗装された純粋な交通路ではないのでしょうか。それともそこは気付かれずに通過されてしまうものがあるのでしょうか。

 

b.   まさしくそこで分岐点となるのは 文字としての〈 手紙 lettreの概念をどう考えるのかという事です。これをラカンが言うところのシニフィアンの物質性、つまり、分割不可能なものとしての 〈 手紙文字 〉の理念的同一性( lettre が 文字 という意味も持つことから手紙はバラバラになっても、つまり単なる 文字の集まり になっても手紙であるというラカン的解釈 ) として受け止めるのではなく、手紙の理念性から逃れていく文字それ自体の( シニフィアンの、ではない )物質性 として受け止めようと僕は考えます。

 

c.   〈 手紙は宛先に必ず届く 〉とは、主体へと円環状に向かい再自己固有化する記号表現の理念により普遍的なものにまで高められた精神分析の公理ですが、もし文字としての〈 手紙 lettre 〉が記号表現という普遍性の中においてその理念を保障する特殊なものではなく、〈 手紙 - lettre 〉から〈 文字 - lettre 〉へと自らの属性を "分割・分離" して普遍性から遠ざかっていく特殊なもの であるとしたら、どうでしょうか。

 

d.   記号表現の換喩的な横滑りの行程には乗らずに、〈 手紙 - lettre 〉という理念を、他性的( "手紙" から見て )なものとしての物質それ自体である〈 文字 - lettre 〉へと転移させる 事で、自らを保留し何者からも離れて宙吊りにする。それは 切り離され何者も手を出せないひとつの "物質性" となって 書き込まれた事実 を示し、そのような 書き込むという行為 があった事、そして そのような行為を成した者 を浮かび上がらせる。私であれ、あなたであれ、〈 書く 〉という行為はひとつの事実を産み出す事であり、〈 文字 - lettre 〉とはたとえそれを書き込んだ者が消えてしまおうとも、自らの "痕跡" を刻むもの なのです。そしてそこからその事実に関わるものを生起させるのです。

 

e.   その意味でそこには〈 〉がある。〈 書かれたもの 〉という事実とともに、あるいはその傍らに、書き込む者の〈 死 〉だけではなく、書き込まれた者( つまり宛名 )の〈 〉もある・・・。

 

f.   これはジジェクが言うような〈 死 〉が私達すべてに訪れるという意味で〈 手紙=死 〉は必ず〈 宛先=私達 〉に届くという事ではありません。洗練されているように見える考え方ですが、〈 象徴的負債=死 〉の清算とは誰にでも共通して平等に訪れるという意味で不安を煽りながらも予定調和的な〈 死 〉でしかありません。しかし〈 宛名 〉における〈 死 〉はもっとラディカルな事態を示しているのです〈 続く 〉。

 

 

 以下 ( 次回 ) の記事に続く。

 



▶ 手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(1)

 

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a.   エドガー・アラン・ポーの小説『 盗まれた手紙 』の読解から引き出した〈 手紙は宛先に必ず届く 〉という精神分析ジャック・ラカンのテーゼとそれに対する〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉という哲学者ジャック・デリダのアンチテーゼは、かつて興味深い対立のひとつでした。

 

b.   ラカンの影響力により、〈 手紙は宛先に必ず届く 〉というテーゼは精神分析的でありながらも哲学の圏域にも入り込んでくるものだった。そしてそのテーゼに対して〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉と デリダが言った時、そこで何が起こったのか。そのテーゼの中には精神分析概念の支配からは逃れていく別のものが紛れ込んでいる事を示したと言えるのです。テーゼが完成され閉じられてしまう前に、そこに異質なものがある事を示してテーゼを保留状態にしまうという異議申し立てでもあったのです。しかし〈 手紙は宛先に届かない こともありうる 〉とは何を示しているのか。これについて僕の考えを述べ、さらに展開していこうと思います。

 

c.   〈 手紙は宛先に必ず届く 〉というテーゼは、手紙がひとつの記号表現として、それの受取手である主体に向かう行程における転移関係によって構造化されていく象徴空間を示している。それは "記号表現"の大いなる行程とその主体への最終的帰着であり、記号表現というラカン的論理の軌跡が各対人間における転移関係を分配するという象徴空間の編成を描いているとさえ言えます。

 

d.   では逆にそのような転移関係から免れた、あるいは "上手くいかない" 象徴空間 は少なくとも精神分析といえるでしょうか。少なくともそのような象徴空間が 一体何を意味するのかを詳細に分析する事は、治療という限定的意味での精神分析的身振りには収まりきれないものを明らかにする事ではあるかもしれません。

 

e.   〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉、 それがもし転移関係が上手く構造化されない象徴空間もありえる、つまりラカンのテーゼが精神分析的に十分ではないという主張ならば批判的でありながらも、その立場は精神分析の一派に過ぎないものという事になるでしょう( 実際にそれを名乗っていないとしても )。しかし転移関係が上手く構造化されない象徴空間が、精神分析概念でありながらも精神分析が "全て" を囲い込む事の不可能性を示しているとすれば、それは自らの要素 ( シニフィアンなど ) の動きが予期出来ない場合がある事、つまり受取り手としての主体である 宛先に届かない事、に影響されているからではないでしょうか。その予期出来ない場合がある事によって象徴空間は十分に構造化されず、転移関係が行き渡らない事もあるのではないかと考える事も可能なのです。

 

f.   その前に〈 手紙は宛先に必ず届く 〉についての考え方に触れてみましょう。一見洗練されているように思えるが実は十分ではない考え方はこうです。

"手紙はそれが受け取られた主体においてその宛先が自分であるのだと認識される事によって初めて手紙となる"

しかしこういう手紙が届く事の必然性を説明する事後成立性の遡及効果は認識論的なものであり、既に届いてしまっているものの事しか、届いた後でしか、言及出来ない。つまり、それは手紙の "誤配" ( 言うまでもなく東浩紀によって概念化された ) により届かなかったものについては言及出来ないし、そもそも 手紙が出されたどうかすら永遠に気付かれないまま でいるかもしれないのです。

 

g.   この点からするとスラヴォイ・ジジェクの回答はもっと洗練されている。彼は手紙を入れた瓶を無人島から海に流すという例えで、実際には届かないかもしれないが海に流した瞬間にそれは象徴的なものとしての受取人である大文字の他者に届くというのです。受取人側の行為に基づくのではなく、差出人の手紙を出すという行為自体が既に〈 手紙は宛先に必ず届く 〉の象徴的行程として既に確定されているという訳ですね〈 続く 〉。

 

 

 以下 ( 次回 ) の記事に続く。

 

 

▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学-(10)

 

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   ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(9)からの続き。



 10.   複数性としての幽霊 ②

 


a.   幽霊的なものの特徴は、時間的にも、場所的にも、複数的である可能性を保持しているにも関わらず、それらを束ねて単独的であるかのように振舞える事です。しかし、複数可能性を束ねるこの単独性、つまり、一者の効力は何に起因するのでしょう? それがなければ、何に対しての複数的であるのか分からなくなり、複数可能性は文字通り複数的なものとしてばらばらになり、もはや複数である事さえ分からなくなる。

 

b.  ならば、ひとつであるとはどういう事なのでしょう? 幾つかの数のまとまりが、複数的なものであると言うには、一者への対自性を獲得しなければならないが、問題は 一者が複数的なものからどのようにして出現するのか なのです。もし、一者が最初から複数的なものとは別に無条件にあるというのなら、それは間違っている。なぜなら、自らを一者とする為には、自らの単独性を証明するための判断基準としての複数的なものが隣接していなければならないからです。

 

c.   一者の出現は複数的なものを背景とするが、この一者を複数的なものとは全く別のものと考えてしまうと、一者は神的なものとして知的保留を示す標識でしかなくなってしまう。一者は同質の傾向性を共有する幾つかの数のまとまりが自らの運動の中で自らに向かう対自性を獲得しようとして自らを自己疎外する時に出現する。これは自己という対象が自らの元にはなく、自己に先立つ対象化の作用によって自らの元から離れることによってしか成立しないのと同様です。

 

d.   重要なのは、ここで出現する自己が、実在する個体ではないという事です。それは実在の個体ではないが、実在の個体の中で経験される対象からの反照であり、不可視のものとして存在する精神の経験なのです。自己という対象が自らの元にないという事は、実在の個体は自己であろうとする限り、永遠に自己という対象には到達出来ず、離れているしかない事 を意味する。

 

e.   複数的なものが自らに到達出来ない運動の中で、その近づき得ない距離それ自体が疎外された時単独的なものとしての一者が出現した といえるのです。それ故に、複数的なものは自己の運動として一者に向かう

 

f.  だが、その時、一者は既に実在する個体とは別のものであり、精神が全体的運動の過程において個体に留まる姿、すなわち幽霊なのです。そして、我々とは、実在する個体において経験される幽霊であると言えるでしょう ( 終 ) 。

 



▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー〈 9 〉

 

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    ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(8)からの続き。



 9.   複数性としての幽霊 ①

 


a.   精神は移行の運動という全体性において自らの真理を知る、つまり精神は知となる。しかし、移行に抵抗する個物が自らの中に収縮する時、精神は知に至らず、個物から離れる事が出来ず、個物の影として幽霊となる。最も個物的である人間という存在の最も人間的なものの表象が幽霊なのです。精神の側から見ると、幽霊とは 知へと至る事の出来ない精神 であり、人間が自らの存在をひとつの知としては理解出来ないものなのです。

 

b.   ヘーゲルの『 精神現象学 』が英語版において、ゲルマン語系の ghost ではなく、ラテン語系の spirit が採用されているのは、精神が知的なものという意味での一般性として了解されている事以外の何物でもないでしょう。しかし、もしその精神を個別的なものとしての ghost とするならば何が見えてくるのでしょう。ただし、既に述べたように、Ghost は個別的なものでもあるので、一般性としての精神が展開されるという現象性を意味するPhenomenology ではなく、『 Philosophy of Ghost ( 幽霊の哲学 ) 』という仮タイトルを付けた場合に何が見えてくるのだろうかという事です。

 

c.   これを別の言い方をするならば『個物の哲学』という事が出来るでしょう。個物は自らにこだわり、自らの中に収縮する。これに対して哲学はひとつの知として個物の外へ出て行こうとする。知は移行を積み重ね、自らがたんなる個物ではなく、絶対知である事を知る。つまり、哲学は人間という個物の中に収まりきれるものではなく、知の移行の運動として "人間的なものを越え出る非人間的なもの" なのです( これが反-人間的なものや野蛮なものではない事は既にヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(6)で述べました )。

 

d.   ではこの相反する組み合わせの哲学的言説をどう考えるべきでしょう。個別から一般性へのヘーゲル弁証法的移行でなければ、個別それ自体についての存在論的言説だというのでしょうか。しかし、 ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(8)で述べたように、ハイデガー存在論的言説も一般性から個別への崩壊である限り、一般性についての別ヴァージョンに過ぎません。

 

e.   そうすると考えられるのは、個物が自らを一般性との関係性において掴むのではなく、自らをひとつの "形象" として、つまり "一者" として掴む事 です。それこそ人間的なものの形象に固執する幽霊的な身振りだといえるでしょう。

 

f.  人間が自らの存在を知として理解するのを止める時、そこにあるのは一般性の残滓にしがみつく幽霊としての人間です。幽霊は消えてしまう事に抵抗し、何度でも回帰して現れ、あたかもずっとそこにいるかにように同じ〈 私 〉として振舞う。同じ〈 私 〉がそこにいて、しかも 一人であるかのように振舞う。肉体が滅びても、それは続く。

 

g.   この終わる事のない〈 私 〉の振る舞いこそが幽霊としての人間の本質なのです。幽霊は自らの居場所である〈 個物 〉を全力で支え、維持しようとする。ここにおいて幽霊は〈 個物 〉を "一者" として支えるべく複数的な可能性となる。複数的なものが同時に同じ場所にあるという事ではなく、違う時間、違う場所に散在するという意味での複数可能性です。この複数性を束ねる一者において作用しているのが離接的綜合の論理である訳です。

 

h.   ここでの重要なポイントは、複数性が最初からあるのではなく、〈 人間的形象 〉が常にバラバラに分割され、引き離され、散在している事の結果として生じるという事 です。もっと言うならば、分割されるのではなく、引きちぎられ、奪われ、食べられるのです。人間が集団である限り、誰かと共にいる限り、他者を見る視線、他者についてしゃべる事、他者に何かする事などの日常的なささいな事から既に、他者の存在を引き裂く簒奪行為が始まっている。ここから倫理的なものとしての人間的形象、つまり他者を支える〈 幽霊 〉が動き出す。

 

i.   この人間的形象である他者を最大限に高める行為のひとつが喪に服す事です。フロイトからデリダを経由する〈 喪 〉についての概念の作業は、他者の体内化の失敗、あるいは体内化に抵抗する他者を示している。しかし、それは果たして最初から他者であったのでしょうか。我々に対して〈 他者というもの 〉は最初から無条件に完成されてはいないのではないでしょうか。私達が持つ相手の〈 断片的表象 〉を相手の〈 全ての人間的形象 〉として形成する事の不可能性こそが他者の体内化の失敗の真実ではないでしょうか。

 

j.   そうすると他者という人間的形象とは何でしょう。 人間的なものを全て網羅する形象が不可能であるならば、他者とは何でしょう。それは我々の中にある相手の断片が帰っていこうとする〈 宛先 〉としての〈 一者だと考えられないでしょうか。 その相手が実際に生きていようが、いまいが、断片が帰っていこうとする他者は実在の人物とはおそらく違う。実在の人物がいなければ、他者はありえないが、それでも他者は実在の人物とは違う。

 

k.   バラバラに散在する相手の断片的表象が帰っていこうとする場所がもし実在の人物のみであるならば、実在の人物が亡くなると、我々の中の断片的表象も帰るべき場所をなくして消滅してしまうかもしれない。しかし、実在した人物が既に亡くなった後でも、他者の断片的表象が一者の元に帰っていこうとする動きがあるという事は、幽霊的なものとしての他者が消滅する事なく彷徨っている という事なのです〈 続く 〉。

 

 

 

 続きは以下の記事を参照。

 

 

▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー〈 8 〉

 

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  ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(7)からの続き



 8.   弁証法存在論 

 

a.   自分に先行するものとしての精神を否定して自らの存在に固執する人間とは何でしょう。ヘーゲルは『 精神現象学 』の 「理性」において現実に対する個人の二つの態度を挙げている。それを参考にして現実への対応を考えてみます。

 

b.   "ひとつは自分が現実に適応する事" です。これは自分を捨てて、現実に歩み寄るという単純な事ではありません。現実の一般的なものの視点から、自分を個別的なものではなく一般的な対象として扱う事に向かうのです。そのときには自分に可能な事・不可能な事、足りているもの・足りていないもの、などの区別が発生し、個人の行為化のための準備的状況 が発生する。

 

c.   "もうひとつは現実を自分の為に適応させる事" です。もちろんこれは全ての現実を変えるという物理的に不可能な試みの事ではありません。選び出した現実の対象に対抗させるかのように、自分の存在を特殊な現実として一般性のなかに組み込もうとする心理的試み です。

 

d.   では自らの存在に固執する人間の立場はどちらなのか? 言うまでもなく c. の後者です。ふたつの対場は見かけほど対等ではなく、"否定の力" が単純に働く後者こそ、人間的なものの力の源泉になっている。しかしこれは厄介な事でもある。なぜなら、自分の存在を一般的なものにしようとしているのに、目の前にある現実が自分の障害なので都合のいいように心理的に適合させる事は、精神の運動の要である移行に逆らい、自分は行動しない という事を意味するからです。

 

e.   移行抜きで無媒介に自分という個別の存在を一般的存在にしようとする この不可能な心理的試みは、人間的なものの内奥に、病理的な核が一般的なものの代償として備え付けられている事 を意味する。現実的には行動していなのに何かをしたつもりになっているこの心理的思い込みは行動の抑圧といえます。この行動化を阻むものこそ "存在という根本的なトラウマ" なのです。

 

f.   逆説的ですが、行動化こそ、存在というトラウマを脅かし、人間を不安定な状況に陥れるものです。なぜなら、存在する事こそ、人間に対して最も根本的で 原初になされた行動 という意味での移行の産物だから、自分以外の行動は自分を脅かすものとして抑圧しなければならないのです。自らに固執する人間の立場においては、個別から一般性への移行の為の行為化は存在という原初の移行によって抑圧されてしまう 訳です。

 

g.   では逆に、その存在という原初的移行は一般から個別への移行であるのでしょうか。 個別が自らを高め一般性へ移行する事は、物が精神へと至るという絶対知の哲学的意義を示しているが、一般性が再び個別へと戻る事は果たして精神の移行といえるのでしょうか。 実はそこでは精神の移行とは別の事が起きていると考えられるのです。

 

h.   人間の存在自体 ( 存在者 ) は個別的なものであるが、その人間を存在させる存在化の作用自体は一般的なものなのです。仮に、この存在論の巧妙さを無視して、一般的なものの正体が個物の現実から遡及的に反照された理念に過ぎないというマルクス的な弁証法的転倒を主張してしまうと、大切なポイントを見落とす事になります。

 

i.   つまり、個別から一般性に向かう精神の運動は、最初から対象物という物が自らを自己として認識していく過程であるという概念の主体的運動なのですが、一般から個別へと逆移行する存在論においては最初に一般性として把捉しておくべき対象物がない のです。この事が存在論を分かりにくくしている要因となっている訳です。

 

j.   存在論においては、一般的な対象は不明瞭だが個物の位相において初めて人間という対象が現れます。それはハイデガーが "個物における現れ ( 存在者 )" を一般性の次元で捕らえなおそうとして存在の概念を練り上げた事で示されている。この一般性の次元を考察する事によって、現れを何かの現象ではなく、"現れ自体という出来事" として考える事が可能になる。だから存在とは存在する何かの事ではなく、その何かをそこに存在させる存在化の作用あるいは出来事という一般性の事である のは言うまでもないでしょう。

 

k.   しかし、存在論において一般的なものとしての対象がないとはどういう事なのでしょう。 正確に言うなら、対象物のない一般性とは何か という事です。この点において存在論弁証法的移行とは違う のです。精神の弁証法的移行においては予め与えられていた物が究極的には自己であると主体的に理解される。

 

l.   それに対して、 存在論においては、なぜ自己であらねばならないのか、つまり、自己であると強制されている事こそが問題になる  ( *1 )。強制するとは、人間を存在させるという事( たとえ無でありたいと望んでも、残酷なことにそれはかなえられない )であり、人間を存在させるものとは何であるのかという事でもある。それこそが、存在論という視点からの一般性についての問題なのです。

 

m.   そして、おそらく存在論の一般性に対象がないのは、それが対象を持たないからではなく、まさに 一般的なものの内部についての問題である からです。つまり、一般性の次元で何かが起こった という事なのです。その結果、人間が存在する。

 

n.   この一般性から個物への移行は主体的なものではありません。それは一般性へと後戻りする事の出来ない偶然的事故、つまり、一般的次元の均衡が崩れた結果という意味での存在論的崩壊といえるもの です。初めから存在する何かが壊れるのではなく、一般的なものそれ自体が壊れる事によって存在という出来事が可能になるという事です。

 

o.  では対象物ではない一般的次元とは何か? これこそハイデガーが取り組みながらも未完のまま残した問題、つまり、時間( "時間と存在" )です。ただし、それは一日が二十四時間であるなどという個別的な時間ではなく、その個別的時間が可能になる永遠という "内在平面" の事です。

 

p.   この一般性である時間は、自らの時間の流れにより、一般的なものの変化のない持続が自らの同一性である事を否定する。つまり一般的なものでさえ、自らを持続できずに崩壊するという過程を保持しているのです。そして 存在は一般的なものの崩壊の過程において発生するもの なのです。個別に存在する ( 時間を持つ ) とは一般性 ( 時間性あるいは無時間性 ) において崩壊する事なのであり、これこそハイデガーが行き詰った問題であると言えるでしょう。

 

q.   弁証法の一般性に時間を導入する事によって存在論は可能になる。この意味で弁証法存在論もやはり、一般性についての問題であるのですが、個別的なものについての問題はまだ取り残されているのです〈 続く 〉。

 

 

( *1 )

ハイデガー的に言うなら、被投的存在という存在者の受動者的側面の事。

 

 

 

 次 ( 以下 ) の記事に続く。

 



▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(7)

 

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   ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(6)からの続き



 7.   人間的なものについて

 

a.   人間が〈 精神の過程 〉において発生したものに過ぎないのであれば、人間的なものとはいかなる意味を持つのでしょう。起源の分からない意識の中で、自らを人間であると漠然と思い込み、それ以外の物であるとは思わない生き物とは何か? おそらくはそれこそが、ここで問題になる人間的なものについての、いかなる規定よりも根本的な規定であるでしょう。つまり、誰しも自らを人間ではないと思わないという事 です。

 

b.   それは人間的なものについての積極的な規定があるのではない事を示しています。まず、その根本概念からして人間的なものそれ自体を普遍的に規定する事は不可能である事 を言っておく必要があるでしょう。それは規定される事によって成立するのではなく、ある状況下( 我々の存在を脅かすものが強力である状況 )において "偶然に出現したもの" です。その偶然としての我々の存在を維持する事によって様々な状況に抵抗する事こそが人間的なものの本質であると言えるのです。

 

c.   それは自らの存在をこの場から遠く ( 究極的に言うなら、それは "死" )に追放するような状況を否定する事によってひとつの力を有する事です。そのような状況とは、移行する精神の運動であり、現実の生活における危機( 政治、経済、環境、戦争、犯罪 )です。我々はその状況を何の媒介なしに直接的に否定するのではなく、我々自身の存在を媒介として、自らの存在を追放するであろう移行としての状況を否定するのです。

 

d.   "移行の否定を本質とする人間的なもの" 肉体の問題においても精神の移行を引き留める。この肉体こそが精神の運動に対抗するかのように強力な重力を発して距離を取ろうとする。ある意味では精神よりも肉体の存在こそが大いなる謎とも言えるでしょう。

 

e.   質量を有するこの塊が、世界の中で自らの存在を引き受けようとする時、移行する精神の運動の全体性とは別に、自らに留まろうとする個別の意志が、いやもっと率直に言うなら、かすかな "狂気" が動き出す。それは肉体が自らの存在をどう受け止めるべきか分からず、自らの中でひたすら痙攣しながら精神を自らの方に手繰り寄せ、我が物とするのです。

 

f.   想像してみるといいかもしれません。〈 肉体 〉という言葉でさえ、私達の事を指し示す利便的な表現に過ぎない。この言葉を抹消した時、その下に現れる現実としてのこの〈 物 〉を直感するならば、言葉の支えを途中で失う事によって人間の精神は現実の圧力に耐え切れず、いともたやすく崩壊するでしょう。この意味で私達の肉体とはひとつの〈 他者 〉なのです。驚くべき事に、精神はこの "他者において" 直接的統一をなす為に自らを見出すのです。

 

g.   肉体において精神は意識となり、自らを対象として扱い、自己を産み出す。精神の現象は、この肉体なしでは精神は先に進めないという意味で、肉体を資本とした論理であるとも言えます。人間が自らを確信するのは、意識という精神の側においてであるのですが、肉体は我々であるところの精神にとっての他者であり、その存在は謎であり、不安の元でもあります。自らの肉体が他者であるからこそ意識は自らを確信する際に自らの "位置取り" に苦労する のです。

 

h.   そうすると、デカルトのコギトは今までとは違う視点で捉えられるようになるでしょう。哲学的にも精神分析的にも詳細に論じられてきたコギトですが、それは自らの存在の確信の表明ではなく、"意識の自らの位置取りの困難さの表明" であると言える。つまり自らの意識の位置を自らの思考と紐付ける事により、何とか確保しようとする試みなのです。意識は自らが何者であるのか、自分がどこにいるのか知らない。ただこの肉体を経験を通して自分のものであると信じ込む事しか出来ないという意味で、意識それ自体が最も無意識的なもの なのです。

 

i.   この意識の地位の曖昧さは、それが人間的なものと非人間的なものの境界線上にある事に起因します。非人間的なものである精神の移行において意識は発生するが、肉体という強力な他者が意識を自らの元に引き留める為に、疎外関係を自らの運動の糧とする精神の移行それ自体が肉体において中断され疎外されるという "疎外" が発生している。ここでの出来事は、人間的なものによる精神の否定 なのです〈 続く 〉。

 

 

 次回 ( 以下 ) の記事に続く。