〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

園子温の映画『 ヒミズ 』を哲学的に考える

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監督 : 園 子温

公開 : 2012年  

原作 : 古谷実

出演 : 染谷将太      ( 住田祐一 )  二階堂ふみ   ( 茶沢景子 )

   : 渡辺哲         ( 夜野正造 )     光石研         ( 住田の父 )

   : 渡辺真起子   ( 住田の母 )    黒沢あすか   ( 茶沢の母 )

   : でんでん      ( 金子 )    テル彦         ( 窪塚洋介 )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 ヒミズ 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたいという方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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   1.   原作と映画

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a.    『 映画ヒミズは原作の 『 漫画ヒミズとは違うべきものとして見るべきだと言っても、この映画を見た人なら異存はないでしょう。しかし、違うとは言っても、決して原作に見劣るようなものではないです。それどころか原作を見た事がない人にでも、この映画だけで十分に楽しませる事が出来るといえます。これは監督である園子温の力量によるものですね。

 

 

b.   漫画では主人公の住田を通して人間の内部に巣食う暗黒がクールに描かれています。この場合、クールといってもスタイリッシュであるという意味ではなく、冷たく覚めているという意味です ( 住田と茶沢の存在自体が冷めたものとして描かれていますね、映画と比べて )。この漫画は人間をどこか遠くに在るモノとして描いているいや理不尽な世界に投げ出されている人間という存在を遠くから見る視線によって貫いているといえます

 

 

c.   この遠さこそが、この漫画のクールな世界観を支えているのですが、逆説的なことに ( ここがこの漫画の恐るべきところですが ) 蓄積した鬱憤父親殺し自殺といった暗黒がこの遠さを縮めるものとして描かれているのです。

 

 

d.   ただし距離を縮めるといっても私達にとって共感できるというものではなく、それまでの冷徹な世界に対して物理的に生々しく温度を持つものになっているという事です。この得体の知れない生々しいものが既にある冷酷な世界に染みのように広がっていくというのがこの漫画の凄味といえるでしょう。

 

 

e.   この冷たい世界が基盤である漫画に対して、映画の世界は明らかに熱を持っている、いや熱を持とうとしている、希望という熱を・・・。周知の通り、映画の撮影中に福島の災害事故があり、園子温はこれを見過ごす訳にはいかなかったと言って脚本を書き換えています。つまり基本的には原作を踏襲しながらも、実際の被災地及びそれへの言及を映像として取り込む事によって、独自の "ヒミズ" を作り上げたという訳です。これに対してヒミズ"それら" を持ち込む必要があったのかという声もありましたが・・・。

 

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  2.   映画は原作とは違うものとして見るべき?

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a.   この映画は、"映画と原作の関係はどうあるべきか" という問いについて、ひとつの答えを出しているといえるでしょう。つまり、映画は原作を踏まえながらも別物であるべきだという事です。これに対しては、原作ファンは "それならば原作をそもそも持ち出す必要があるの? 原作なしのオリジナル脚本にすればいいのに" と言うでしょう。

 

 

b.   確かにその気持ちは理解できますが、残念ながら映画というメディアは、原作があろうがなかろうが、作品の製作過程において、私達がそれを見る以前に既に監督の物の見方というフレームを与えられているのです。鑑賞者の目に触れる以前の純粋な客観的状態の作品などない、つまり、私達が客観的映像だと思い込んでみている作品は既に監督の思い描くフレームで縁取られた主観的映像でしかないのです

 

 

c.   だから映画が原作に近いかどうかという考え方は、原作の世界に浸っている人のものでしかないのであり、映画に対する感想や批評になり得ていないのです、少なくとも映画の世界ではそれとは別の事が起こっているのですから。問題は、その映画が作品として面白いかどうかという事でしょう。

 

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  3.   映画の当初の脚本を変えさせた〈 現実界

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a.   園子温に当初の脚本を変更させてまで言及した福島の災害は、この映画においていかなる意味を持つのでしょう?ここでフランスの精神分析ジャック・ラカンが提唱した概念である現実界を参照して考えて見ましょう

 

 

b.   現実界とは、言葉では語れない世界それ自体という純粋な客観性であるといえます。通常、僕達は言葉を使うという象徴化作業を通じて世界を語れるものとして、現実界の手前で僕達が動き回れる ( あるいは動いているつもりになれる ) 象徴界を構築しています。この幻想の横断を可能にする象徴界があるからこそ、現実界に触れずに生きていけます。しかし、言葉ではその全てを語りえない純粋な客観性としての世界に触れたとき人は自分の主観性を奪いつくす客観性の波に飲み込まれる事に耐え切れず狂気に陥るのです

 

 

c.   福島の災害事故は象徴界への現実界の侵入であったといえます。前代未聞の "普通ではない事" が起きてしまった。人々の生活を問答無用で奪い、悲しみの底に突き落としたこの出来事は、言語に絶する "普通ではない経験" でした。そうであったからこそ、その経験をヒミズに持ち込む意味があったのだと僕は理解します。

 

 

d.   住田は "普通" が一番だと考えていた。その普通が普通じゃない異様な暗黒によって侵食されていく過程がヒミズの辿る道筋だったのですが、その前提が災害によって突き崩されてしまったのです。つまり、住田の暗黒以上の "普通じゃない" 獰猛な出来事が僕達の目の前で起きてしまった漫画以上の出来事が。この漫画の前提が崩れたのを直感した園子温が作品を何とか完成させるためには〈 現実 〉を取り込むしかないとして脚本を変更したのは、映画に対する誠実さがあったからではないでしょうか。

 

 

e.   ラストの方では、前日に茶沢に警察に自主するように説得された住田が金子 ( でんでん ) が預けていた拳銃を持ち、川の中に進んでいきながら死のうとしますが、死ねずに空に向かって発砲します。発砲音で目が覚めた茶沢が小屋から飛び出し、川に向かいますが住田の姿はありません。茶沢が泣き叫んでいると川の中から、いつの間にか消えたはずの住田がこちらに向かって歩いてきます。ここは原作に配慮しながらも、園子温の原作のラストとの決別をうかがわせるものとしても読み取る事も出来ます。

 

 

f.   そして住田と茶沢が、たまっていた鬱憤をはらすかのように土手の道を叫びながら走っていくラストは、この物語に希望という熱気を持ち込もうとする園子温の気持ちを示しているといえるでしょう。また染谷将太二階堂ふみでなければ、この役どころに立ち向かう事はできた俳優はいないのではないかとも思えましたね。

 

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   これについては、サム・メンデスの映画【 007 スカイフォール 】を哲学的に考えるにおいて"フレームの哲学的考察"を書いているので参考に。

 

 

   ラカン現実界については 「現実が夢ではないことを証明せよ」という入試問題 を哲学的に考えるでも述べているので参考に。

 

 

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〈 関連記事 〉

 

   熊切 和嘉の映画〈私の男〉を哲学的に考える

二階堂ふみの女優としての早熟ぶりが露になっている作品。見る人によっては耐え難いかもしれないが、個人的には面白いと感じた異色作。

 

 

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熊切和嘉の映画 『 私の男 』を哲学的に考える

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公開:2014年

 

監督:熊切和嘉   

原作:桜庭一樹『私の男』

脚本:宇治田隆史  

音楽:ジム・オルーク

 

出演:浅野忠信    ( 腐野淳吾 )  

  :二階堂ふみ   ( 腐野花 )

  :藤竜也     ( 大塩 )     

  :河井青葉    ( 大塩小町 )

  :大賀      ( 大塩暁 )  

  :モロ師岡    ( 田岡 )  

  :高良健吾    ( 尾崎美郎 )  

  :三浦貴大    ( 大輔 )

 

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二階堂ふみが十代後半にして、その女優としての凄みを見せつけた作品。これを見れば彼女がいかに早熟の女優であったかが分かる。個人的には、これが、彼女の才能が最も発揮された代表作であり、今後もこれ以上の作品はないのではと思えますね。それはこの作品が、たんに性的に過剰であるからだけでなく、その過激さに飲み込まれない彼女の存在感がここでは際立っているからです。これを見た人は、彼女のこれ以降の出演作品に物足りなさを感じるくらいに圧倒されるといっていいでしょう。

 

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   1.   二階堂ふみの存在感

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   まず言っておきたいのは、二階堂ふみの演技と存在感が、この映画を見るに値する作品たらしめているということです。淳吾 ( 浅野忠信 ) の娘役くらいの年頃で、この難しい役を演じ切ることが出来た女優は彼女以外いないのではないか、つまり彼女でなければ見るに堪えない単なる近親相姦的映画になっていた可能性もあったという事です。浅野忠信の存在感に負けない彼女であったからこそ、この映画は見る人の倫理観を冒涜するだけの映画に成り下がらずに済んでいると僕は考えます。

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  2.   花の衝動

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   花 ( 子役は山田望叶 ) は10歳で孤児になり、家族を欲していた淳吾に引き取られてオホーツク海に面した北海道の紋別で暮らすようになります。映画の冒頭に、成長した花 ( 二階堂ふみ ) が流氷のオホーツク海から突然、上がってくるシーン があります。これは花と淳吾の近親相姦の関係を目撃して淳吾から離れて暮らすよう説得する大塩 ( 藤竜也 ) を沖へと追いやった後 ( 結果として大塩は凍死します ) で、そこから逃げ出してくるシーンの続きなのです。大塩は男女の関係はやっかいだと説得しましたが、花は言いました 「 すべて私のものだ 」 「 男とか女とか関係ない 」 「 あの人は心が欲しいんだよ、だからあげたんだ 」「 私がすべて許す、あれが私のすべてだ 」 と。

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  3.   花の衝動をどう理解するか

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   ここで、この台詞をどう受取るかによってこの映画の印象は変わってきます。細かく考えて見ましょう。もしその台詞を以って、花が近親相姦だと分かりながらも "父親"を好きな思いに逆らえなかったと常識的に理解してしまったなら、この映画は近親相姦のタブーと侵犯を巡る作品としか受取られないでしょう。しかし難しい事に、原作と違って映画では主人公を淳吾と花というダブルキャストにしてしまっているため、近親相姦的な色合いが強くなっています。原作者の桜庭一樹二階堂ふみとの対談 で述べているように、原作は主人公の女の子の一人称の語りが強いのです。

 

   この違いは重要なポイントです。というのも『 私の男 』というタイトルを素直に受け止めるならば、これは本来、花を中心とした話であるはずなのに、映画ではもうひとつ、淳吾という支柱を持ち出してきているため、花の視点がかなり弱められています。もし花を並みの女優が演じていたら、浅野忠信の存在感に食われて、『 私の男 』というタイトルが無意味な作品になっていたでしょう。

 

   しかし、ダブルキャストだからこそ、淳吾との対比によって花の存在を明確に考える事が可能になるとも言えます。淳吾は小町 ( 河井青葉 ) と付き合い、肉体関係も持っていましたが結局の所、彼女を真剣に愛す事が出来ませんでした。なぜなら彼が本当に愛しているのは花だからです。他人を愛せず、血のつながった身内しか愛せない淳吾。これでは大塩に言われたように家族をつくることは出来ない ( そもそも妻は他人なのですから )。このような淳吾の性向は近親相姦的であるとしか言えないでしょう。

 

   それに対して花はどうなのでしょう?端的に言うと、彼女は近親相姦的ではないといえます。彼女は淳吾を父親ではなく一人の男、自分にエネルギーを向ける一人の "" として見ている のです。彼女の欲望は男である淳吾とは違い、近親相姦のタブーを侵犯することを享楽するのではなく、父親を他人として見る事で最初からタブーなど持たず自分の欲望を奔放に放流させる事を享楽している のです

 

   だから花は 「すべて許す」というのであり、彼女の中では すべてが可能になる という訳です。男の淳吾にとって花はたったひとつの絶対的対象ですが、花にとって淳吾はただひとつの対象ではなく、自分を満足させる幾つもの対象のうちのひとつに過ぎません。実際に花は淳吾を捨てて別の男と結婚しますからね。

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■   以下はインタビューからの抜粋。

( 桜庭 ) 『 私の男 』ですが、原作は主人公の女の子の一人称の語りが強くて、この娘に寄り添うから感情移入してしまうっていう書き方をしたんです。映画のほうは、ヨーロッパの映画にあるような、感情移入させるというよりは、こういう人たちがいる、こういう現象があるというふうに撮られるんだろうな、と思っていたので、試写で観て、ストーリーとテーマは原作と一緒だけどアプローチがすごく違うな、と感じました。

桜庭一樹×二階堂ふみ『私の男』との運命の出会い(前編) 「オール讀物」2014年6月号より転載 | インタビューほか - 文藝春秋BOOKS

 

■   おそらく、桜庭一樹がインタビューで映画のアプローチが原作と違うと感じたのは、映画のラスト ( 原作では第1章。原作は過去に遡る章立てになっている ) でしょう。原作では、大人になった花が、淳吾との "関係" を断ち切りたくても出来ない葛藤の描写こそが最も面白いからです。もっと細かく考えるなら、原作では、形式的な親子関係元々は他人である故の男女関係 が重ね合わされた二重性の中で花は苦しむのですが、映画の花は親子関係から男女関係へと移行する "強さ" を見せているのですね

 

 

  このような花の特徴については、二階堂ふみもインタビューで次のように言っています。もうこれ以上はない、というくらい見事な回答ですね。

 

( 二階堂 )   〈 中略 〉それから熊切監督がずっとおっしゃっていたのは、花を受け身にさせない、花を被害者にしない、ということですね。

 

( インタビュアー   原作との大きな違いですよね …… 花が自分で自分の人生を選んでる。

 

( 二階堂  花自身が、自分からどんどん進んでいこうとしている訳じゃありませんし、べつに暴れている訳でもないですけど、彼女がそこにただ居ることによって渦が出来ていくというか、周りの人たちがどんどん呑みこまれていく。

 

( インタビュアー )    原作だともう少し、花が翻弄されてるというか、淳悟に迷い続けている ……

 

( 二階堂  逃げていますよね。映画の花は逃げない。逃げない花であるべきというか …… あるべきではなくって、映画の中ではそうあったというか ……

 

( インタビュアー  それがこの映画をすごく魅力的にしてると思うんですよね。

 

( 二階堂  二階堂   彼女自身は、別になにか特別な、まわりと違う変な子、っていう訳ではなくて、たぶん女性なら誰でも自分では気付かない一面を持っていると思うんですよ。 少女が女性に変わる瞬間って、たぶん女性がいちばん無敵である状態というか。…… なんか女子高生とかって、すごく私、無敵だと思うんです。

 

( インタビュアー )   無敵、ですか?

 

( 二階堂  はい。そういう「無敵」さを感じているのが、江口寿史さんや、会田誠さんで、だからその年頃の女性を描きつづけていて、きっと、あの無敵さに魅了され続けているんだろうなと、作品を拝見していていつも思うんです。

 

( インタビュアー )   なるほど。

 

( 二階堂  この『私の男』は、特にそういうタイプの女性の、いちばん多感な時期を切り取って、描いているんだと思うんですね。 中学生から25歳っていう大人の女性に変わっていく時期に、いろんなものを捨てて、いつのまにか失っていて、一方で大きなものを手に入れていて、っていう、女性が一番変化している時期を、この映画は切り取っているんだと思うんです。

 

二階堂ふみ インタビュー 映画『私の男』 ツイナビインタビュー Vol.32 全部、私のもんだ。

 

 

■   原作『 私の男 』については次の記事を参照。

 

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   4.  『 私の男 』というタイトルの意味

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   気付かれないでしょうが、これはある意味で 淳吾の近親相姦的欲望よりも強力な欲望である と言えるでしょう。映画においては、二階堂ふみの演技が、この花子の強い欲望を描く事を可能にしています。原作以上に『 私の男 』というタイトルの効果が発揮されているのです ( これは映画の結末に関わる事なのですが、それについては次の5. を参照 )。『 私の男 』というタイトルはそれくらい、言い得て妙なのです。もしタイトルが「私の父」、あるいは「私と父」という近親相姦を予感させるものであったなら、花の持つ奔放かつ獰猛な欲望は見えないままになっていたでしょう。

 

 

   それでも『 私の男 』というタイトルには、父ではなく『 男 』という言葉があるからこそ、その前に来る『 の 』という言葉が全ての男を所有しようとする花の "強力な欲望" を示している と言えます。つまり、この『 の 』は花にとっての男という説明的な意味ではなく、『 男 』が花の『 ものである 』と言う所有的意味での『 の 』であると考える事が出来る のです。これが『 男 』ではなく、『 父 』であったなら、『 の 』は単なる説明的なものでしかなく、つまらないものになっていた事は言うまでもないでしょう。だから花にとっての父とは、結局の所、花が所有しようとする男というものの象徴でしかなかったのです、少なくとも花が働きだして他の男を知るまでは・・・。

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  5.   結末は一体・・・

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   では映画のラストシーンはどう解釈すべきでしょう?淳吾が姿を消してしまう原作と違い、映画では独自のひねりが加えられています。レストランのディナーで花は婚約者と共に淳吾を会うのですが、しばらくすると婚約者はいつの間にか姿を消し、見つめ合う花と淳吾のシーンになってしまうのです。そしてテーブルの下では花が足で淳吾の足を挑発的になぞっている所で終わります。

 

 

   おそらくこれは原作の結末を覆すつもりで、熊切監督が用意したのでしょう。近親相姦の関係が終わらずに続くのを暗示する事によって映画を見る者の倫理観を挑発しようとしているのかもしれません、今度は花が大人として優位に立ち、落ちぶれた淳吾を支配するという昔とは逆転した関係性を導入する事によって。

 

 

   しかし、この場面では花、いや二階堂ふみの存在感が、淳吾を圧倒しているため、淳吾の近親相姦的欲望よりも、花の奔放な欲望が勝っている。お金がないであろう淳吾がスーツを着てきたのを見て、無理しちゃってといわんばかりに花は言う「どうしたの、その服?」。この時、淳吾は父親の威厳を失い、一人の男に成り下がっている。ここでの二階堂ふみの存在感によって、花は男を手玉に取る奔放な女性として近親相姦的関係から脱しているのかもしれないのです。少なくとも二階堂ふみによって、この映画は救われているといえるでしょう。

 

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〈 関連記事 〉

 

   園 子温の映画〈ヒミズ〉を哲学的に考える

二階堂ふみ つながりという事で。

 

 

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サム・ライミの映画『 ダークマン 』を哲学的に考える

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監督 : サム・ライミ

公開 : 1990年

出演 : リーアム・ニーソン

   : フランシス・マクドーマンド

   : コリン・フリールズ

   : ラリー・ドレイク

 

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  1.   B級映画監督サム・ライミによるダークヒーロー

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a.   かつては『 死霊のはらわた 』などのホラー映画でB級映画の監督として知られたサム・ライミが『 スパイダーマンシリーズ 』以前に作ったダークヒーローものの原典といえる映画です。ダークヒーローといえば、今ではクリストファー・ノーランの『 バットマン ダークナイト 』が有名ですが、それに影響を与えているといっても過言ではないでしょう。この風貌からして異形のダークヒーローというしかないです。『 ダークナイト 』のトゥーフェイスことハービー・デント検事を思い起こさせますね。

         

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  2.   ダークマンの誕生

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a.   人工皮膚製作の研究に取り組んでいる科学者のペイトン・ウェストレイク ( リーアム・ニーソン ) は、一緒に暮らしている恋人の弁護士ジュリー・ヘイスティングス ( フランシス・マクドーマンド ) が持つ書類 ( 土地開発に絡む収賄事件の証拠 ) を盗りにきたロバート・G・デュラント ( ラリー・ドレイク ) らのマフィアに襲われて全身に重度の火傷を負ってしまいます。

 

b.   収容先の病院で痛覚を取り除くための神経を切られた事によって感情の抑制が難しくなったペイトンは怒りに伴うアドレナリンの増大で超人的な力を発揮できるようになります。寝台にしっかりと固定されたペイトンは目を覚まし怒りのパワーで固定バンドを外し、病院を抜け出してからマフィアへの復讐を始めるのです。自らの研究であった人工皮膚を被り、誰にでも成りすませる事も出来ます。ただし、人工皮膚は暗闇では維持出来るが、光のある場所では99分間しかもたない。つまり、これはペイトン自身が人前に本来の姿を晒せず、闇の中で生きていく事しか出来ない事を象徴しています。このとき、ダークマンが誕生したのですね。

 

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  3.   ダークヒーローは正義ではない?

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a.   マフィアを裏で操っていた不動産業界の大物ルイス・ストラック・Jr ( コリン・フリールズ ) によって連れ去られたジュリーを救うために、ペイトンは骨組みだけの建設中の高層ビルでルイスと戦います。ルイスは若い頃このような場所で父親に働かされていたらしく戦闘的に優位なのに対して、ペイトンは足元がおぼつかなく苦戦を強いられる。右手を釘で鉄骨に打ちつけられ身動きできず万事休すかと思われましたが、ここでアドレナリンを分泌による超人的パワーで釘を引っこ抜くと、その勢いでルイスに反撃します。その間にジュリーを先に助けたりして最後にルイスを吹っ飛ばすのですが、落下しそうになるルイスの片足を引っ張り、踏み留めます・・・。

 

b.   そこでルイスは言います、私を殺したら、お前は私以上の悪人になる。お前にはそんなこと出来ない 。しかし、ペイトンは目を閉じて手を離す。そして落下するルイスを見ながら 良心を鍛えるだけだ と言い放つのです。

 

c.   戦いの最中にルイスにも言われましたが、ペイトンは自分の振舞いが正義などではなく、復讐に過ぎない事を承知していたのです。では復讐が正義でなければ、それは何でしょう? 端的に言うと、それは もうひとつの悪 です。復讐という名の悪が、自分を苦しめた最初の悪を滅ぼしたに過ぎないのです。ここには正義は残念ながらないといえるでしょう。それでも正義というのなら、それは悪自身が、自らに対して良心の呵責を持ち始めた事を示す標識としての言葉に過ぎないものであるが、残念ながらそれは自分から目を逸らす悪の振舞いに過ぎません。

 

d.   なのでダークマンからスパイダーマンバットマンに連なる系譜としてのダークヒーローの特徴とは、自分も ひとつの悪に過ぎない のであり、そこから逃げ出そうにも逃げ出せず、自分の中でそれを背負い続ける宿命を持った者だといえるでしょう。

 

 

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   本作に出演したラリー・ドレイクが2016年3月17日、ハリウッドの自宅で亡くなられました。享年66才。ご冥福をお祈りします。

 

 

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日産デザインヨーロッパについて

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日産自動車には刺激的なデザインの車があります。古くはマイクラC+C、最近ではデュアリス、ジューク、などです。これらをデザインしているのが、イギリスのロンドンにある日産デザインヨーロッパ ( NDE ) です。日産には世界に六つのデザイン拠点があるのですが、その中でも優れたデザインを発表しているという意味では、NDEは傑出しているといえるでしょう。

 

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  1.   ロンドンの日産デザインヨーロッパ

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   NDEは2003年、ロンドンのかつてのイギリス国鉄のメンテナンス車庫を改修して創設されました。 

     

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    内部はSF映画っぽく見えます。

                         

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   社内の作業風景。

 

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画像は日産:NISSAN OWNERS' MAGAZINE | 世界各国のデザインセンターから。

 

 

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  2.   NDE発のデザイン:キャシュカイ  

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   2013年に欧州日産は新型のキャッシュカイ ( 日本ではデュアリスとして販売されたSUV ) を発表したのですが、同年に日本でエクストレイルの新型が発表された時、それはひとつの驚きとなりました。

 

   というのも新型エクストレイルが新型キャシュカイとほぼ同じデザインだったからです。新型エクストレイルの発売に伴い、デュアリスは販売終了となりましたが、これは日本におけるキャシュカイ ( 日本名:デュアリス ) の販売終了というわけではありませんでした。その逆で、少なくとも日本においてエクストレイルと名づけられていたモデルの販売が終了したというべきでしょう ( 新型エクストレイルが旧型とデザイン的に違う車であるのは明らかでしょう )。

 

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   事実は 新型キャシュカイが日本ではエクストレイル名で販売されているというわけです。それならば、エクストレイルではなく新型のデュアリスとして販売すればいいのにという気もしますが、将来的なモデルチェンジの可能性 ( 日本デザインによる ) を考えてエクストレイル名を残しているのかもしれませんね。いづれにせよ、NDEによるキャシュカイのデザインが優れているといると日産内で判断されたと考えていいと思います。

 

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  3.   NDEのカスタムデザイン

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   東京オートサロン2016で日産はフランスのファッションブランド ( というより香水ブランドとして今や有名でしょう ) Lolita Lempicka と共同でデザインした「 マイクラ Lolita Lempicka 」を展示しました。これはフランスの日産法人が販売しているものですが、欧州日産のデザインをNDEが担当している事から、これもNDEが関わっていると考えてもいいでしょう。

 

   これについてMONOist に記事が掲載されているのですが、そのタイトルが面白いです。

"日本で売れない「マーチ」、フランスではファッションブランド特別仕様車が好評"

となっています。フランスで販売するマイクラの2%を同モデルが占め、ヒットといえるのだそうです。日本では評価が高くない4代目マーチが上手くカスタマイズされ洗練されましたね。     

  

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   ルーフとピラーは皮革調の表面加工したステッカーで覆われ、ボタン引きのレザーシートが高級感を出しています。   

  

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画像は日本で売れない「マーチ」、フランスではファッションブランド特別仕様車が好評 から。

 

   これ以前の2007年には、3代目マーチをカスタマイズしてクーペカブリオレ型のマイクラ C+C を発表しています。電動式メタルトップはボタンひとつでオープンが可能 ( その間約22秒 )。

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  4.   日本型デザインから世界型デザインへ

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   NDEのデザインによる日産車が存在感を放っている事から分かるように、日産車を日本を中心にした感覚で捉える時代はもう終わっているのかもしれませんね。部品などのパーツは共通の規格化が進み、世界各地の日産工場で共有されていくと思います。その分デザインの斬新化が求められていくという意味では、日本発以外のデザインの採用度が高くなるのは、日産においてはもはや当然の事なのでしょう。

 

   とはいえ、誤解のないようにいっておきたいのですが、日本的なものが駄目でヨーロッパ的なものが素晴らしいという訳ではありません。世界各地にデザイン拠点があるという事は、より柔軟で、より大胆なアイデアが出やすいという事であり、それは多国籍的なものからハイブリッドなもの ( 雑種的なもの ) が現れるという事になりますね。

 

   事実、NED副社長だった田井 悟氏に行われたResponse掲載のインタビュー ( 2005年当時。現在、田井氏は日産のエグゼクティブデザインダイレクター。) で、彼はNEDのデザイナー構成についてこう言っています。

28人のデザイナーのうち、1人だけ日本人で、そのほかは韓国人が1人、あとはアメリカ人やヨーロッパ出身者です。全体で12ヵ国と、マルチナショナルな構成になるように配慮しています。いろいろな国の出身者を集めることで、いろいろな発想を混ぜたいと考えています

 

   斬新なデザインといえば、2010年に発表されたJUKEでしょう。NDEのデザインをベースにして日本のNDGC(日産グローバルデザイン本部)が開発を行ったのですが、NDEのJUKEチーフデザイナーの渡辺誠氏 ( 田井氏が先のインタビューでNDEの日本人デザイナーと言っていたのは、おそらく彼の事でしょう ) のオートックワン掲載のインタビューが興味深いです。そこで彼は SUV+コンパクトスポーツカー という斬新なコンセプトを打ち出し、ラグジュアリーカーに負けない脱ヒエラルキー的な車を目指したと言っています。この挑戦的で現状に安住しない姿勢は素晴らしいですね。

 

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画像はオートックワンの日産 ジューク デザイナーインタビュー/プロダクトチーフデザイナー 渡辺誠二 から。

 

 

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「 現実が夢ではないことを証明せよ 」という入試問題を哲学的に考える

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いくつかのブログで上智大 ( 大学院?) 哲学科の入試問題 "現実が夢でないことを証明せよ" が採りあげられていました。興味深いので僕もその問題について考えてみることにしましょう。

 

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 1.   現実と夢

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この問題文を見て、まず誰もが直感的に感じるのは、現実と夢の間には何らかの関係性がある ( 便宜的にこれを B と呼びます ) ということでしょう。次に、その B を何とか定義しながら「現実は夢でない」( これを A と呼びます ) に結び付けていこうとするのでしょうが、この手順では "上手い回答" を出すのは難しいでしょう。

 

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 2.  「 現実が夢ではない 」とは真理なのか?

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というのもAと B の間には、論理の飛躍というよりは、"断絶"があるからです。いくら現実と夢の関係性 ( B ) を必死に定義しようとしても、A が真理であると最初に証明されていなくては、B から A へと辿りつく事は出来ないでしょう。

 

もし A が真理でなければ、そもそもの前提 ( 現実が夢ではないという ) が間違っている事になり、いくら B を定義しても、それは無意味になってしまいます ( あくまでもAの立場から見た場合ですね )。

 

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 3.   論理操作が必要な証明

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しかし、その A を証明せよと問われているのだから、B について考えるのは当然じゃないかと思われるかもしれません。でも B のような関係性というのは、そもそも "内在的な哲学的論理" であるので、A のような証明や判断を下すといった後付けの設定に "哲学的に" 結びつけるのは難しいのです。A へ向かうためには、意図的な論理操作 ( A の結論を前提とする ) が必要になってくるからです。

 

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 4.   ゲームの規則

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でも、それは不可能ではありません。A を "哲学的真理" ではなく、"ある状況的なもの" と考えれば可能です。"ある状況的なもの"とはこの場合、A は入試の問題であり、回答者の哲学的な知識や素養を推し量るための設定であると考える事です。そうであるならば、回答者はこの "ゲームの規則" に乗っ取って、A を取り敢えず真理として受け入れ、A という結論へ無条件に向かうために、論理を好きなように組み立てていけます受験生の立場ですと、この方向性がベストでしょう。

 

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 5.  A の前提を崩すこと

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以上のことを踏まえた上で僕が思うのは、もう受験生ではない ( 僕以外の人を含めて ) のだから、もっと哲学的に考える事が出来るだろうという事です。A に対する回答として面白いのは、B について考える事が、そのまま A と言う前提を突き崩すことになるというものでしょう ( A への反論を最初から目指すということではありません、つまり反論のための反論ではないということです。とはいえ哲学的な考えに慣れている人にとって A の命題が不十分なことは直感的に気付くはず )。とりあえず考えていく事にしましょう。

 

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6.   夢は現実ではない

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ここで A の反対のテーマ ( 否定形は踏襲しておきます ) を設定してみます。つまり、「 夢は現実ではない 」 というテーマを設定し、これを C とします。おそらく、この C の方が、A よりも問題含みであり、だからこそ C を導入する事によって B をより興味深く練り上げる事が出来るのです間違っても、この C に対して、夢は眠っている間に見るのだから現実でないのは当然だなどという単純な結論は出すべきではないでしょう。C のような一見当り前のような命題に対して、いかに思考を働かせていくのかという事が、A について回答するための重要なポイントになります。

 

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 7.   父親が見た夢についてのフロイトの解釈

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夢について考える際、フロイトを参照する事が役に立つでしょう。特に『 夢判断 』における余りにも有名な "父親が見た燃える子供の夢" です。

 

父親は死んだ息子の通夜の晩に眠ってしまいます。蝋燭が倒れ息子の棺に火が移ってしまうのですが、父親は眠りの中で、まさにその息子の夢を見ているのです。夢の中で息子は父親に告げます、「お父さん、僕が燃えているのが見えないの?」。

 

父親はその後、目を覚ますのですが、フロイトはこれを願望充足 ( 生きている息子に会いたいという願望 ) のために、火の燃え移りという現実の出来事 ( 父親は熱や臭いにより、漠然とそれに気付いている ) を取り込んだ夢 ( 燃えている息子と会っているという ) が、眠りを継続させていると解釈します

 

目覚めて現実の出来事にすぐに反応する事よりも、息子に会いたいという願望充足によって引き起こされる夢を見続けたいがために、睡眠の継続がここでは選択されているという事ですね。

 

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 8.   父親が見た夢についてのラカンの解釈

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後にこれに対して、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンはさらにラディカルな解釈を行います。彼はフロイトの解釈についてこう考えます、夢の中で息子に会えているのに、なぜ目覚めたのかと夢によって睡眠の継続が選択されていたのに、それを中断させたのは何か、という事ですね

 

もしこれを単に火の燃え広がりが強くなってきたためだと現実の出来事だけを原因にするとしたら、夢の中に息子が出てきている意味がなくなってしまいます。父親は火について漠然と気付いていながらも、夢を見ていたのですから。

 

つまり、この時、父親にとっては外界の出来事よりも、夢の方が重要だったのであり、外界の出来事を上回るという意味で、夢のほうがよりリアルなもの ( ラカンはこれを現実界といいます ) だったのです。

 

この夢は、父親が息子を助けてやれなかったという現実がそこに込められているという意味で、ひとつの現実なのですが、だからこそ父親にはそれが耐えがたく目覚めてしまったという訳です。

 

フロイトの解釈においては、夢は睡眠を引きのばすものでしたが、ラカンにおいては、夢は強烈になると ( 端的に悪夢といってもいいでしょう )、耐え難い現実となり、睡眠を中断させてしまうというように、夢の地位が変化しているのですね。

 

ここで一端、整理しておきましょう。ポイントは "現実" という概念が侵入する事によって、夢の解釈が変わる事です。フロイトにおいては夢は睡眠をひきのばすための幻想の地位に留まっています。ラカンにおいても、夢は幻想なのですが、幻想に過ぎないものが夢見る本人に対して現実的な効果を発揮している ( 目が覚めてしまうくらいに ) という意味で現実以上に現実的なもの ( 現実界 ) になっているという事です。

 

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 9.   父親が見た夢についてのジジェクの解釈

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このラカンの解釈をスロヴェニアラカン派哲学者、スラヴォイ・ジジェクはさらに推し進めます。彼が言うには父親が夢の中で遭遇した物は、現実よりも強烈な外傷 ( 息子の死に対する彼の責任という ) です。この現実界から逃れるために彼は現実へと覚醒したという訳です。現実こそが私達を強烈な現実界から守ってくれる遮蔽幕だとも彼は言います。

 

そうであるならば、 現実界から逃避する事は、そこから目を背ける事を選択したという事であり、現実界を避けて現実へと覚醒するという言い方は厳密には違うと言えるでしょう。逃避するのは、さらに眠り続けるためだと考えるべきなのです物理的に睡眠する事から精神的な意味で睡眠し盲目になる事を、幻想としての現実 ( ジジェクはこの現実を幻想が構造化されたものとしています ) という場において選択したという事です。

 

ここにおいて現実は覚醒していくべき場ではなく、人が眠り続けていく場へと移行しているのです。それと共に覚醒するという概念も変質していきます。人は基本的に眠り続けているといえるでしょう、物理的にであれ、精神的にであれそこから覚醒するとはラカンのいう現実界を引き受けることであり、狂気に陥る可能性がある事なのです。

 

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 10.   CからDへ・・・

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フロイトラカンジジェクの解釈を参考にした上で C に戻るならば、もはや C は証明出来ないどころか、「夢は現実である」という新たなテーマを打ち立てる必要があるでしょう ( これを D とします )。この D を念頭におきながらB ( 現実と夢の関係性 ) について考えましょう。

 

通常、人が "現実と夢" という時は、両方を別のものだと考えていますね。別のものでありながら両方をくっつけて考えるのは、そこに隠された媒介項としての "眠り" があるからです眠っている時に夢を見る、眠りから覚めて現実に戻る、では現実と夢の関係は?という具合に考える事が出来る訳です。フロイトの解釈もこの延長上にあると考えられるでしょう。

 

しかしラカンの解釈を参照すると捻りが加わります。"現実と夢" をつなぐ媒介項が "現実界" になるのです現実界の観点からすると、より現実的なものは"夢"なのですD で表しているとおりですね。

 

では夢が現実であるならば、現実は一体何でしょう?現実は現実界に比べると現実的なものではありません。それは覚醒していく場所ではなく、現実界において覚醒しないように眠り続けるための場所であるのです。そこはジジェクがいうように幻想が構造化されたものとしての現実であるといえるでしょう。とするならば 「 現実は夢である 」 といえるでしょう ( これを E とします )。

 

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 11.   DからEへ・・・そしてA

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A ( 現実が夢ではない ) を証明するために、B ( 現実と夢の関係性 ) を考えながら、C ( 夢は現実ではない )D ( 夢は現実である )E ( 現実は夢である ) とテーマを移行させてきました。B を考えながら最終的に E へ至った訳ですが、E が真理であるかどうかは微妙であるにしても、A に対して E という相反する命題が考えられるという事は、少なくとも、A が真理ではない、つまり A が証明出来ない事を示しているといえるでしょう

 

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サミュエル・ベケットについて

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アイルランド出身、フランスの劇作家・小説家のサミュエル・ベケット ( 1906~1989 )。不条理劇「 ゴドーを待ちながら 」は余りにも有名で、今でも世界各地で公演されことがありますね。その彼の小説三部作「 モロイ 」・「 マロウンは死ぬ 」・「 名づけえぬもの 」の中でもオススメなのが第三部の「名づけえぬもの」です。

 

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  絶え間ないおしゃべり・・・

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   言葉を話す・・・。でも誰が話すのでしょう? 私でしょうか? だが言葉を話している最中は、私はどこにいるのでしょう? 言葉の外ですか? 言葉の外から、私は言葉をコントロールするのですか? いやいや、そもそも言葉がなければ "私"と呼べるものはないでしょう。"私"とは言葉の中にいるのですでは・・・言葉の外側にいる "もの" は "私" でなければ一体何でしょう しかもそれは、自分を人間的存在であると思い込んで言葉を話しているのですしかし、話せば話すほど、"私"は言葉の中に入り込み言葉の外にいる"もの"から離れていくのです

 

   では実際、私達はどちらなのでしょうか? もちろん言葉の外側にいる "もの"つまりベケットの言うところのワーム ( 蛆虫 ) であり"私"なのではありません。正確にいうなら、ワームが自分を "私" と称して人間であると思い込んでいるのです。そんなふうに人間だと思わせているのは、"言葉"の、"おしゃべり"の力によるものなのです。

 

   この真実に気付かずに大部分の人は一生を終えるのかもしれません。この真実を気付かせてくれるのは、言葉であり、おしゃべりであるのですが、普通にしゃべっているだけでは、そうはなりません。ベケットのように、途切れることなく、あらゆる隙間に入り込むような言葉の錯綜的な使用法によって、言葉がどうしても喚起してしまうイメージを断ち切る必要があるのです。"私" のイメージすら断ち切り消滅させてしまうのです。

 

   おしゃべりの最中、そこには言葉を話す "私" の代わりに "ワーム" がいます。そこでは、私達ワームが言葉によって貫かれ横断される経験が起こっている。そしてそこはイメージのない無であり、私もいないのであり、おしゃべりの声だけが響き渡っているのです。「 名づけえぬもの 」はそのような状況が極限化された作品であり、三部作の頂点に立つものです。

 

 

『・・・、続けなくちゃいけない、おれには続けられない、続けなくちゃいけない、だから続けよう、言葉を言わなくちゃいけない、言葉があるかぎりは、言わなくちゃいけない、・・・』

 

 

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パラティッシについて哲学的に考える〈2〉

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    パラティッシについて哲学的に考える〈1〉の続きです。

今回はかなり小難しい話になるけど、興味ある方は気軽に読んでください。

 

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    1.  芸術作品のアウラとは?

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a.   ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは「複製技術時代の芸術」において、"アウラ"という概念を提唱しました。オリジナルの芸術作品のもつ一回限りの特有性というものは複製技術によって失われていきますこの芸術作品が、ある時代とある場所に出現した時の一回性こそが、"ラ" であり、それは複製技術の反復性によって消滅していくと言うのです。

 

b.   オリジナルの作品が消滅するという事 ( アクシデントがない限りオリジナルの作品が存続するという条件付きですが ) ではありませんが、作品の持つアウラは複製技術が発達した現代社会では消滅するしかないのです。

 

c.   ベンヤミンはこの事態を悲観的に見て批判しているのでしょうか?そうではありません。彼はアウラの消滅の背後に、大衆層の芸術作品への積極的参加を見出しているのです。そこでは作品への接し方は、オリジナルの作品へ宗教的で礼拝的価値を置く事から大衆層が参加しやすい複製技術による展示的価値に重点を置くへと移行しているという訳です

 

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  2.  オリジナルと量産品の関係

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a.   以上の予備的な考察を踏まえて、この辺でパラティッシの方へと話を戻しましょう。ビルガー・カイピアイネンの芸術作品と量産品パラティッシの間には大きな差異があるのですが、量産品においては何が失われているのでしょうか?

 

b.   まず先に示したように芸術作品のアウラがそこでは失われてしまっていると言えます。ではそのような量産品の価値はどこにあるのか?オリジナル作品の複製でしかないという否定的特徴ばかりが目立つのでは、その価値を見出すのは難しいのではないでしょうか?ところが、その複製という特徴こそが、量産品の価値を哲学的に考えるための鍵となるのです。

 

c.   量産品はオリジナルに対する複製であるため、自らの内にオリジナルに対する距離を抱え込んでいます。つまりそのような距離を抱えるという形式でオリジナルと関係する事によってオリジナルを自分の中に保持しているともいえるのです。

 

d.   ここには"哲学的な生"があります。オリジナルから見たら全くの部外者である量産品の中に、不思議な事にオリジナルが生きているのですベンヤミンの概念を借りるならば、これは"死後の生"といえます

 

e.   このオリジナルが知らない量産品とは、オリジナルにとっては自分の死後の事だといえるのですが、自分の中でしか生きられない ( これだと本当に死ぬ可能性もあるのです、事故によりオリジナルが失われたり壊れたりという具合に ) のではなく自分とは別のものの中で自分が生きるこれが作品の "死後の生" なのです

 

f.   この意味で量産品のパラティッシの中にはビルガー・カイピアイネンの芸術が生きているといえるでしょう。彼の作品の中で唯一量産化されたパラティッシは、彼の死後も彼の作品を生かし続け、私達にその存在を知らせてくれているのです。

 

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   ベンヤミンは「写真小史」で "アウラとは時間と空間が織りなす特異な織物" だと言っています。これについてどう考えるべきでしょう?芸術作品はそれが出現したときの時間と空間を背景にして生まれます。逆に言うなら、違う時間と違う空間であれば今、芸術作品と呼ばれている物はそうならなかったと言えるのです。

 

   例えばフェルメールの作品は、あの時代、あの空間においてこそ必然的なものとなったのであり、違う時代、違う空間であれば、フェルメールの作品は偶然の産物の地位しか得られず見向きもされない可能性があったのです ( もっと言うならフェルメールという固有名すら歴史の表舞台に出てくる事が無かったといえます )。その意味で、芸術作品のアウラとは、時間と空間の線分が奇跡的に交錯した一回限りの出来事の必然性を示しているともいえるでしょう。

 

 

   大衆層の量産品への接し方という点からすると、フィンランドにおいてアラビア食器は市民の日常生活に浸透しているといえるでしょう。だからこそ前回の記事で触れたように、フィンランドにおけるアラビア工場の閉鎖について市民の間から反発の声が挙がったのです。

 

 

  「 翻訳者の使命 」を参照。このエッセイと「 複製技術時代の芸術 」は興味深い関係にあるといえます。複製技術時代の芸術」は "オリジナル" の視点から "複製品" について語っているのですが、原作と翻訳の関係を語った「翻訳者の使命」は "複製品 ( 翻訳 )" の視点から "オリジナル ( 原作 )" について語っているという見方ができるからです。

 

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