〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Goodbye the clueless, cruel, crawful, world toward to the transworld.

パラティッシについて哲学的に考える〈2〉

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    パラティッシについて哲学的に考える〈1〉の続きです。

今回はかなり小難しい話になるけど、興味ある方は気軽に読んでください。

 

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    1.  芸術作品のアウラとは?

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a.   ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは「複製技術時代の芸術」において、"アウラ"という概念を提唱しました。オリジナルの芸術作品のもつ一回限りの特有性というものは複製技術によって失われていきますこの芸術作品が、ある時代とある場所に出現した時の一回性こそが、"ラ" であり、それは複製技術の反復性によって消滅していくと言うのです。

 

b.   オリジナルの作品が消滅するという事 ( アクシデントがない限りオリジナルの作品が存続するという条件付きですが ) ではありませんが、作品の持つアウラは複製技術が発達した現代社会では消滅するしかないのです。

 

c.   ベンヤミンはこの事態を悲観的に見て批判しているのでしょうか?そうではありません。彼はアウラの消滅の背後に、大衆層の芸術作品への積極的参加を見出しているのです。そこでは作品への接し方は、オリジナルの作品へ宗教的で礼拝的価値を置く事から大衆層が参加しやすい複製技術による展示的価値に重点を置くへと移行しているという訳です

 

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  2.  オリジナルと量産品の関係

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a.   以上の予備的な考察を踏まえて、この辺でパラティッシの方へと話を戻しましょう。ビルガー・カイピアイネンの芸術作品と量産品パラティッシの間には大きな差異があるのですが、量産品においては何が失われているのでしょうか?

 

b.   まず先に示したように芸術作品のアウラがそこでは失われてしまっていると言えます。ではそのような量産品の価値はどこにあるのか?オリジナル作品の複製でしかないという否定的特徴ばかりが目立つのでは、その価値を見出すのは難しいのではないでしょうか?ところが、その複製という特徴こそが、量産品の価値を哲学的に考えるための鍵となるのです。

 

c.   量産品はオリジナルに対する複製であるため、自らの内にオリジナルに対する距離を抱え込んでいます。つまりそのような距離を抱えるという形式でオリジナルと関係する事によってオリジナルを自分の中に保持しているともいえるのです。

 

d.   ここには"哲学的な生"があります。オリジナルから見たら全くの部外者である量産品の中に、不思議な事にオリジナルが生きているのですベンヤミンの概念を借りるならば、これは"死後の生"といえます

 

e.   このオリジナルが知らない量産品とは、オリジナルにとっては自分の死後の事だといえるのですが、自分の中でしか生きられない ( これだと本当に死ぬ可能性もあるのです、事故によりオリジナルが失われたり壊れたりという具合に ) のではなく自分とは別のものの中で自分が生きるこれが作品の "死後の生" なのです

 

f.   この意味で量産品のパラティッシの中にはビルガー・カイピアイネンの芸術が生きているといえるでしょう。彼の作品の中で唯一量産化されたパラティッシは、彼の死後も彼の作品を生かし続け、私達にその存在を知らせてくれているのです。

 

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   ベンヤミンは「写真小史」で "アウラとは時間と空間が織りなす特異な織物" だと言っています。これについてどう考えるべきでしょう?芸術作品はそれが出現したときの時間と空間を背景にして生まれます。逆に言うなら、違う時間と違う空間であれば今、芸術作品と呼ばれている物はそうならなかったと言えるのです。

 

   例えばフェルメールの作品は、あの時代、あの空間においてこそ必然的なものとなったのであり、違う時代、違う空間であれば、フェルメールの作品は偶然の産物の地位しか得られず見向きもされない可能性があったのです ( もっと言うならフェルメールという固有名すら歴史の表舞台に出てくる事が無かったといえます )。その意味で、芸術作品のアウラとは、時間と空間の線分が奇跡的に交錯した一回限りの出来事の必然性を示しているともいえるでしょう。

 

 

   大衆層の量産品への接し方という点からすると、フィンランドにおいてアラビア食器は市民の日常生活に浸透しているといえるでしょう。だからこそ前回の記事で触れたように、フィンランドにおけるアラビア工場の閉鎖について市民の間から反発の声が挙がったのです。

 

 

  「 翻訳者の使命 」を参照。このエッセイと「 複製技術時代の芸術 」は興味深い関係にあるといえます。複製技術時代の芸術」は "オリジナル" の視点から "複製品" について語っているのですが、原作と翻訳の関係を語った「翻訳者の使命」は "複製品 ( 翻訳 )" の視点から "オリジナル ( 原作 )" について語っているという見方ができるからです。

 

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パラティッシについて哲学的に考える〈1〉

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昨年の話になりますが、2015年は、北欧の陶磁器ブランド「ARABIA」の人気シリーズである"パラティッシ"のデザイナー、ビルガー・カイピアイネン ( Birger Kaipiainen )の生誕100周年でした。ここ日本でも、パラティッシは雑貨 ( 特に北欧雑貨 ) 好きな女性たちの間で大人気の食器です。でも男性を含めて考えると食器ブランドのARABIAに興味を抱く人って多くはないかな・・・と思いながらも書いていきますね、いつも通り哲学的な調子で。

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  1.  ARABIA社

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まずは簡単な説明を。

 

   ARABIA社とは、1873年フィンランドヘルシンキ郊外「アラビア地区」で創業された陶磁器ブランドです。現在に至るまで140年の歴史があるのですが・・・皮肉な事にビルガー・カイピアイネンの生誕100周年の2015年、アラビア工場が閉鎖される事が決定されましたフィンランドの企業における人件費の負担と経済のグローバル化の流れの中で、ARABIAの経営権を持つフィスカルスグループは生産拠点を海外の下請工場に移すことを選択したのです。この件についてはフィンランド国内からも反発の声が挙がっているようですね

 

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  2.  パラティッシ:paratiisi

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   そしてパラティッシparatiisi:フィンランド語で"楽園"の意味 ) です。これはプレートになりますね。他にもボウル、ティーカップ&ソーサー、コーヒーカップなどがあります。色の種類としては、ブラック( 白×黒 )、カラー( 黄×青 )、パープル、の三つになります。これ以上、華のある食器はもう出てこないのではと言っても言い過ぎではないでしょう。

 

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  3.  ビルガー・カイピアイネン:Birger kaipiainen

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   パラティッシを産み出した陶芸作家のビルガー・カイピアイネンです。

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   1915年生まれの1988年没。ARABIAのアート部門で数多くの作品を産み出しました。鳥や植物 ( 特にヴィオラ。カイピアイネンがお気に入りだったショパンの好きな花がヴィオラ ) などをモチーフにした装飾的模様を特徴としています。

そんな彼の作品です。

 

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 画像は カイピアイネン作品展 : ARABIA 通信 から ( 残念ながら今は更新されていないようです。2016年現在 )

 

 

   2013年フィンランドエスポー現代美術館で開催された Birger kaipiainen 展の様子です。

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 この貴重な写真は北欧雑貨のお店 Fukuya さんのブログからお借りしました。

 魅惑のビルゲル・カイピアイネン(Birger Kaipiainen)展 | Fukuya通信

 

 

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   4.  ARABIA社と芸術

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a.   いかがでしょう、この強烈な個性が発揮された作品たちは。先に挙げた一般家庭での食器として量産化された小奇麗でおしゃれなお皿とは違う生々しい ( もっというなら毒々しさ!) 生命力に溢れていますね。これらの作品の中には、当然パラティッシの原型になるものもありますが、この差を一体どう考えればいいのでしょう?

 

 

b.   彼は一陶芸家として自由な作風を追求したのだから、別に不思議なことではないと考えるとしたら、それは少し違います。というのも彼は独立した陶芸家であったのではなく、ARABIA社のアート部門に所属する陶芸家だったからです。普通に考えると、ARABIA社は家庭用食器を生産する会社なので、所属する陶芸家も当然、量産化を前提とした作品つくりに取り組むはずでしょう・・・。

 

 

c.   ところが上で見たように彼の作品は量産化を前提としているどころか、そんなものを無視したかのような大胆で個性的な作品になっています当時のARABIAのアート部門は、そのような自由な創作活動を保証し、生産ラインにおける量産品との統合を可能にしていました。所属の作家の作品を原型とした上でそれを量産品に上手く落とし込み優れた食器を提供する方針だったという訳です

 

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  5.  芸術作品と量産品

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a.   さて前振りが長くなりましたが、このことを踏まえた上で、僕が考えたいのは次のような事です。

 

b.   ビルガー・カイピアイネンが直接産み出した1点ものの作品の生々しさと量産品パラティッシの上品さとの間には誰の目にも明らかな落差があります ( 実際はそう感じていても、この事を語る人はほとんどいませんが )。これをそれぞれ用途が違う ( アート日常用との違い ) のだから原型と量産品との間に違いがあるのは当然としか考えられないのであれば、思考はそこで停止し、話はそれ以上進みません。僕はそこから話を先に進めたいという訳です。

 

c.   よく売れている量産型のパラティッシを所有する人達に、金額面は抜きにして ( 当然、1点ものの方に高値が付いてますからね ) 1点ものを所有したいか尋ねてみましょう。おそらく、ヴィンテージの北欧雑貨が好きなマニア以外は、所有したいとは思わないでしょう。

 

d.   なぜなら量産型のパラティッシを所有する人達は、"日常の食器使い"として購入しているのであり、その美しい食器が自分たちの食卓を華やかにする事に喜びを見出しているからです。そういう人達にとって日常生活で普段使い出来ないアートピースは別物なのであり、ましてやビルガー・カイピアイネンという作家すら後付の知識として得るものなのです ( マニアの人にとってはビルガー・カイピアイネンというネームバリューが大事なのですが )。

 

e.   このような事情に対して僕はビルガー・カイピアイネンの芸術性をもっと理解すべきだという単純な結論を出すつもりはありません。ここから先は話を進めるためには、幾つもの珠玉の論文・エッセイを書いたユダヤ人思想家 ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」を参照することにしましょう。話が長くなるので、続きは次回へ・・・。

 

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■  アラビア・ファクトリー閉鎖のニュース Sad news about Arabia Factory  

■ 【 続報 】アラビア・ファクトリー閉鎖のニュース Updates about Arabia Factory

■ 【 続・続報 】アラビア・ファクトリー閉鎖のニュース

 

 

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     パラティッシについて哲学的に考える〈2〉へ続く

 

 

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新国立競技場の建設問題を哲学的に考える〈 2 〉

 

 

 前回の記事 を書いている時国立競技場改修案のことも気になりました今回は建築物の改修について少し書いておきますちなみに国立競技場改修案はいつのまにか立ち消えになっていたのですがその辺の経緯についてはジャーナリストの大根田康介氏が興味深い記事を書いています国立競技場改修はなぜ消えた?:|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース

 

  それによるともともとJSCは2010年に国立競技場耐震改修基本計画の策定業務を依頼していたというそれに対する久米設計の国立競技場耐震改修基本計画はインターネット上でも見ることが出来ます ( 80ページの抜粋版ですが )

 

  そこまで話が来ていた改修案がなぜ建替えになってしまったのかそれに対して大根田氏は2010年11月に設立されたラグビー議連の政治力 ( 大物政治家が名を連ねています ) によるものだとしていますね詳しくは記事の方をまた以下に紹介する森山氏の記事でも久米設計の国立競技場耐震改修基本計画について取り上げています

 

 



  1章   世界のスタジアムの改修  

 


. 建築エコノミストの森山高至氏が世界のスタジアムの改修例を取り上げていて興味深いです新国立競技場問題シンポで世界のスタジアム改修事例を紹介 - ログミー

レアル・マドリードの「サンティアゴ・ベルナベウセリエA トリノFCの「スタディオ・オリンピコ・デ・トリノドイツの「ベルリン・オリンピア・シュタディオン」などが例として挙げられています

 

 

. では日本ではどうなのか? 日本では新築でないと銀行からの融資がおりにくい古い建築物には担保価値がないからお金を貸せないという事ですそのような状況を変えるためには改修建築の資産価値評価制度を確立する必要があると森山氏は言っています

 



 2章   北九州市立戸畑図書館

 

 

. そのあと日本における改修例として北九州市戸畑区役所 ( 1933年に建築された帝冠様式の建物 ) を取り上げていますがこれが素晴らしい建築家の青木茂と構造設計者の金箱温春氏によってこの建物は "北九州市立戸畑図書館 ( 2014年 )" として再生されました ( 青木氏はこのような改修をリファイニング建築として提唱しています )

 

 

. 既存躯体の調査の結果耐震補強を伴う再生工事だった訳ですが内部の耐震補強部材としてスチール製のアーチフレームを使用しそのほかにも円筒状の補強材や耐震壁を内部に設け地震時の水平応力を負担させているとのことです

 

 

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  上記の写真は青木茂建築工房のウェブサイトから

 北九州市立戸畑図書館|ワークス|WORKS|青木茂建築工房 

 

 

  工事前後の写真については

 

 

  この建物が素晴らしいのは1930年代の帝冠様式の外観を保存しているだけではなくスチールの補強材などを内部に設置して 目に見えるようしている点 だと思いますそれによって 私達の住む現在という時間もこの建物に痕跡として刻み込まれ、歴史の重層性を作り上げている事 が分かるようになっていますねこれはまさしく建築物が未来へ引き渡されていく遺産となっている事のよい例ではないでしょうか

 

 

新国立競技場の建設問題を哲学的に考える〈 1 〉

 

 

新国立競技場の建設問題は色々と考えさせるものがありましたね一体何が問題だったのでしょうザハ・ハディドのSFっぽい巨大なデザインばかりがクローズアップされて問題の本質が見えにくいなと思っていましたので僕なりのアプローチをしてみましたただし簡単にまとめられる類の話ではないので今回は建築家の 槇 文彦氏と 伊藤豊雄氏 に焦点を合わせながら考えますね

 



 1章   ザハ案への反対 

 

 

. まずはっきりさせておく必要があるのは今回の問題でザハ・ハディドに責任はないという事でしょう2012年9月にコンペの応募が締切られ同年11月に最優秀賞としてザハの案が選ばれたのですがその後当初の予算1300億円に対して約3000億円まで費用が膨らむ事が分かってくるにつれて問題が大きくなりましたねつまりザハの案はふさわしくなかったのではないかという声がメディア ( 特にTV ) で頻繁に取り上げられるようになりザハ案に対する懸念が市民の間でも強くなってきたという訳です

 

 

. もちろんそれ以前からザハ案に対する反対論はありましたJIA( 日本建築家協会 ) の機関紙 JIA MAGAZINE 2013年8月号にて掲載された建築家の槇文彦氏の記事「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」( http://www.jia.or.jp/resources/bulletins/000/034/0000034/file/bE2fOwgf.pdf ) を始めとして建築関係者の間ではザハ案への懸念及びコンペの在り方などに関する議論が交わされ続けていましたコンペに参加した建築家の伊東豊雄氏も人類学者の中沢新一氏や森山高至氏松隈洋氏と共に問題提起のためのシンポジウム

 ( 新国立競技場のザハ・ハディド案の問題点を中沢新一氏らが指摘 - ログミー)

を開催しています

 

 



  2章   議論の方向性 

 

 

. ただしここで注意しなければならないのは "議論の対象及び目的" をはっきりと定めることの必要性です。"何のために何をするのかそのための議論ではないか" という事ですねもし議論がコンペ審査の "見直し" を求めるという抽象的なものでしかなかったのならいくら細部に渡る議論をしても世論に届くものにはならなかったでしょうつまりザハ案で決定という審査結果を前提として見直しを求めるという考え方 ザハ案では駄目だとして審査結果をいや審査自体を "無効" にしようとする考え方 では全く違う事なんだと認識しなければなりませんこれは建築的な考え方ではなく、"戦略的な考え方" ですね建築の専門家であるのかどうかという区別よりも戦略的であるかどうかという事がここでは重要なのです

 

 

. そこについては建築関係者の間でも分かれる所ですほとんどの方は審査結果に批判的でありながらも実際の考え方としては ① の穏健派的なものだったでしょうこれは常識的な態度ではあるが状況に追随するあるいは状況に遅れて反応するという事でありこちらから状況に対して何かを仕掛けるというものではありません

 

 

. しかし少数の方は ② の考え方をして現実を動かすべきだとしました建築の専門家でありながら戦略家でもあろうとしたといえるでしょうでは誰がどのように戦略的であったのか考えましょう② の考え方の代表が槇文彦氏であり彼は先程挙げた新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考えるの後JIM MAGAJINE2014年3ー4月号においても「それでも我々は主張し続ける 新国立競技場案について( http://www.jia.or.jp/resources/bulletins/000/040/0000040/file/aBnW8H8Q.pdf  ) という記事を発表しました

 

 

. これは非常に興味深い記事で建設案の問題点とそれに対する批判も併せて上手く整理されています"新国立競技場" 2020年東京オリンピックを目標とするJSCの事業側の観点から脱出して何十年にも渡って存続するプロジェクトとして "市民主体" の観点から位置付けし直しているのですその点からザハ案および事業側的審査の在り方をはっきりと否定しています彼はそのような理論的位置付けと共にいろいろな人達と連携してザハ案の無効および新案の検討という流れを形成していきましたこれは槇文彦氏が現実を動かすことを意志していたことに他なりません彼は一連の騒動の中どこかで言ってました "自分はリアリストだ" この言葉は現実に繋がらないことはしないし何かを発信するなら現実に繋がるようにするという意味で捉えるべきでしょう

 



  3章   政治的行動 

 

 

. このような槇氏らによる行動を政治的だとして批判する向きもありますしかしこの場合どのような意味において政治的であるといえるのか考える必要があります彼は建築家としてのザハを否定している訳ではありません ( 好きか嫌いかの趣味の問題はあるでしょうけど ) が彼女のデザインは東京におけるコンテクスト ( 文脈 ) を無視するものとして疑問を投げかけたのは間違いありませんしかしそれ以上に問題なのはザハ案を選出したコンペの在り方とオリンピック開催を目標とする観点からしか物事を進めようとしない事業主なのですザハ案への批判はザハ自身に向けられたものではなく彼女の案を選出したコンペと彼女の案を遂行しようとする事業主に向けられたものだと理解すべき なのです槇氏はザハも今回の騒動の犠牲者であると言っていますね (A )。

 

 

. つまりは今回のコンペ自体が事業主側による新国立競技場建設という箱物事業のとっかかりに過ぎないものであり客観的審査が厳密に行われたものかどうか疑問が残るという意味で公平なものではなかったそのような一方的な政治的進行に対して介入するには槇氏らのような政治的行動を以ってする他はなかったでしょう

 

 

 

(A )

今回のコンペにおけるザハ・ハディドを擁護する磯崎新氏の意見も参考にしておかなければ公平ではないでしょう日本におけるコンペの国際的信用という観点から

 磯崎新による、新国立競技場に関する意見の全文 | architecturephoto.net


 



 4章   再コンペの公平性 

 


. 2015年7月17日安倍首相は新国立競技場の建設計画をゼロベースで見直すことを決めましたそれを受けての再コンペで隈研吾氏のよる A案 伊東豊雄氏による B案 のふたつに絞り込まれその結果2015年12月22日に隈研吾氏の A案 が採用されることになりましたしかし周知の通り伊東氏から A案 とザハ案が類似しているとの指摘がありましたね伊東氏のこの指摘に対して見苦しいなどと批判する見方もありましたがそうとは言い切れないでしょう再コンペが "公平" ではなかったと彼は言いたかったのです

 

 

. 今回の再コンペでは設計と施工が一体となった "デザインビルド方式" という一括発注 ( このためザハは組むゼネコンが見つからず応募出来ませんでしたね ) が条件でしたA案 のゼネコンはザハと組んでいた大成建設だったので工期の点からすると ( 鉄骨発注・資材置場の確保などの準備は既に行っていたでしょうから ) A案 有利のバイアスが初めからあったといわざるを得ないです事業主の立場からすれば建設を何としてでも間に合わせなければならない訳ですから審査委員も当然その点を考慮に入れたでしょう以上の見地からすると審査が "公平" であったかどうかは微妙なところという訳です

 



 5章   仮定の話 

 


. さてここから仮定の話ですがではもし伊東氏が大成建設と組んでいたなら選出されていたでしょうか? 大成建設の下準備を考えるなら選出されただろうと考えるのが通常でしょうしかしもし大成建設が伊東氏と何らかの理由で組む事を選択しなかったとしたらどうでしょう?

 

 

. その理由としては

推測 ①

伊東氏と大成建設は今までも一緒に仕事をしてきたことがあるので当然連絡をとっているはずですにもかかわらず組まなかったのはおそらく大成建設側の条件つまりザハ案をたたき台にするという条件がネックになったからではないか大成建設はザハ案での施工計画をすすめていたはずです部材が発注済みとすると巨額のキャンセル料などの損失が出てしまうそれを避けるために大成建設としてはザハ案を利用するしかないという訳です ( 実際隈研吾氏のA案 がザハ案と類似しているのはそのような事情からではないでしょうか )それに対して伊東氏は拒否するしか出来なかったでしょう自分が否定してきたザハ案を利用することは出来ないでしょうからそうすると大成建設は別の建築家を担ぎ出すしかないわけでそれが隈研吾氏という訳です一方伊東氏も別のゼネコンと組むしかないわけでそれで竹中工務店清水建設大林組という訳です

 

推測 ②

最初のコンペでザハに負けたというイメージのある伊東氏よりは別の建築家を担ぎだした方がイメージがいいと大成建設が考えた可能性はある伊東氏がザハ案に否定的なのも考慮した上で最初から別の建築家を担ぎ出してザハ案をたたき台とした施工計画を進めるつもりだったのかもしれないですね

 

 

. まあどちらの推測も正確ではないにしても伊東氏が大成建設のザハ案利用について何らかの事情で前もって知っていたといえるでしょうというのも再コンペで隈研吾氏の A案 が採用されてからのザハ案との類似を指摘したコメントは早すぎでしたあれは前もって疑いの目で見てなければすぐに出せるコメントではないですあら捜しは意識的にしようとしなければ見つかるものではないですからしかし伊東氏もそれ以上はコメント出来ないでしょう今後の仕事においても施工主との関係は続いていくのですから ( B )。

 

 

 

 

( B ) 2016年1/25追記分

最近週間ダイヤモンドによる伊東豊雄氏へのインタビューが行われたことを付け加えておきます (  国立競技場、B案も工期短縮は可能だった――建築家・伊東豊雄氏に聞く|『週刊ダイヤモンド』特別レポート|ダイヤモンド・オンライン  2016年1/22 )。この中で伊東氏は審査の議事録と各審査委員の得点公表を求めている事を明らかにしています旧競技場の杭の事前撤去という事前着工についてJSCとのやりとりが納得のいくものではないことも言っていますね ( A案では必要だと思われる事前着工の件は触れられていない )。いずれにせよ伊東氏はすべての事情を理解した上で審査における A案 へのバイアスがあったことをはっきりさせようとしていますねつまりこれは審査は公平であるべきと言いたいのだと理解すべきでしょうこのインタビューでダイヤモンドの記者と同席しているジャーナリストの大根田 康介氏は新国立競技場の建設問題で興味深い記事を書いていますね

 

 疑問だらけの新国立競技場:|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース

国立競技場改修はなぜ消えた?:|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース

 



  6章   コンペの在り方 

 


. いずれにせよ再コンペの在り方もゼネコンの思惑を含んだ箱物事業の進行によって支配されているという意味で "公平" ではなかったといえるでしょうしかし建築コンペにおける公平性とは何でしょう? 難しい問題ですねというのも公平というのは何か問題が発生した時に特定の利害関係から距離を置くという意味での抽象的観念でしかないからです果たしてそれが可能なのでしょうか?

 

 

. 今回の件でひとつの指針となるのがコンテクスト ( 文脈 ) の中で作品をどう位置付けるかという審査が必要という事ですこの場合コンテクストとは場所的・歴史的・経済的・生活圏的・建築思想的など( これらはあくまで僕の仮定です他にも考えられるでしょう )の複数の視点において読み込まれるべきものですそれと 応募資格の意味のない厳しい条件の廃止 ( 多様性を保つために ) ですねそういったものを徹底的に基準として確立する必要があるのかなと思いましたね少なくとも散々議論した挙句誰かの鶴の一声によって決まるというごり押し状態は避けるべきでしょう

 



〈 関連記事 〉

 

 

 

 

▶ クリストファー・ノーランの映画『 メメント 』( 2000 )を哲学的に考える


初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

    

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監督  クリストファー・ノーラン
公開  2000 年   
出演  ガイ・ピアース        ( レナード・シェルビー )
    キャリー=アン・モス     ( ナタリー )
    ジョー・パントリアーノ         ( テディ )
 

 

 

 時間軸を逆転した作品と言われると通常どう考えるでしょうか? 冒頭に通常であればラストシーンと呼べるものが来てそこから事件の発端であるオープニングシーンへと巻き戻っていくようなものと考えるでしょうしかし作品を見れば分かるように実際にはそう単純じゃない幾つもの出来事が起きてその出来事を遡って説明していく為にストーリーはその説明が終わるところで幾つも区切られていきそこから又後で説明が必要になるストーリーが始まっていくという具合いです

 



■ もちろんこの区切りは主人公のレナード・シェルビー( ガイ・ピアース ) の記憶障害によって忘れ去られた10分前の出来事に対応していますそうすると観客である私達の目にはとりあえずこの説明の映像が "客観的事実" であるかのように話しが進んでいきますあくまでも取り敢えず・・・ですね

 



■ ストーリーの冒頭でテディ ( ジョー・パントリアーノ ) がレナードによって撃ち殺されてしまうので私達はこの時点でテディが何者かはよく分からないがレナードに殺されるのだから何らかの事件の "犯人" だったのだろうなと考えるしかない( 本当はそうじゃないけど ストーリーが進むにつれてレナードが記憶障害で10分前の事を忘れてしまうのでメモを取ったり自分の体に言葉を刻んだりするのだなと理解出来ますここから犯人の名前がジョン・Gである事と記憶障害も家に押し入った何者かに浴室で妻が襲われ彼らに抵抗した時に頭部に受けた外傷が原因なのだなという事も分かります

 



■ ここで注意しなければならないのはレナードの妻が実際に死んだのかどうか分からないという事ですレナードも浴室で気を失って妻の傍らに倒れたところで記憶を失っているからですただしそれは後のシーンでテディこと本名ジョン・エドワード・ギャメルがレナードに殺される直前に真実を述べるまではハッキリしません初めてそのシーンを見る人はレナードの妻は "誰かに" 殺されてしまったと何の疑問も抱かずにそう思い込むでしょう

 



 

■ おそらくは、ここからストーリーは秘かに巧妙に歪んでいきます。先程、僕は遡って説明する映像が取り敢えず "客観的事実" だと言いました。しかし、実際にはクリストファー・ノーラン"客観的事実" "レナードの主観" を組み合わせたストーリーを私達に提示しています。それがこの映画を複雑にしているのです。

 

■ "客観的事実" の映像は確かにレナードの10分前の状況を説明していますが、"レナードの主観" の映像( これは注意して見ないと分かりにくいと思う。レナードの妻が殺されたかのような映像、レナードが保険調査員時代の顧客であったサミーのエピソードなどモノクロ映像 )はレナード自身の歪んだ欲望によって捏造されたものです。

 



■ 私達はレナードの10分前の状況を説明する "客観的映像" を見て事件に巻き込まれてしまった彼の "受動者的側面" もちろん、彼は事件で殺されてしまった … はずの妻の復讐をするのだから、"能動者的側面" がある事は当然なのですが )を暗黙の内に受容れるしかないのですが … しかし後で明らかになる、実は "レナードの主観" であった映像は、彼の歪んだ欲望を示す "完全なる能動者" のものでありその事はこの作品を見る私達の立場を不安定にするものだといえるでしょう

 



■ この作品の最初の見方だとレナードによる殺人行為には自分の記憶の断片を辿りながらの殺された・・・はずの 〈 妻の復讐 〉 という大義名分があるという事になるでしょうここには法に背いているとはいえ自らの筋を通そうとする主人公の意地があるように思えます

 



 

■ ところが・・・テディことジョン・エドワード・ギャメルがレナードに殺される前に明らかにしたように犯人であるジョン・G は既にレナード自身が殺していてそれどころか麻薬捜査専門の警察官であるテディは自分が用意した麻薬取引に関わる人間をジョン・G だとレナードに思わせて何人も殺させていたのです

 

■ レナードはどこかでそれに気付いていたのでしょうナタリー( キャリー=アン・モス )からの情報( テディの本名がジョン・ギャメルである事。ジョン・Gを連想させますね )もあってテディを疑いの目で見ていたのは間違いないです

 

■ まあジョン・エドワード・ギャメルがテディという通称を使っていたのは( 自分が犯人である事を隠すためのように私達には思えるかもしれませんが )たんに犯人とたまたま名前が似ていてレナードに勘違いされて殺されてはたまらんと思ったからでしょう( 結局、殺されてしまいましたけど もし犯人であれば疑われる可能性があるのにレナードにわざわざ近づく必要はないでしょうからでもジョー・パントリニアーノの好演もあってテディがかなり怪しいので犯人っぽく見えるのは確かですそれもノーランの狙いのひとつでしょう

 



 

■ テディが新たなるジョン・G としてレナードの前に送り込んだ麻薬取引に関わるジミー・グラント( ジョン・G を連想させる名前ですね )からこの件にテディが関わっている事を聞きだしたレナードは自分が利用されている事を知ってテディに怒りをぶつけます

 

■ そしてテディは記憶がないレナードに 〈 真実 〉 を伝えますつまりジョン・G は既にレナード自身が殺した事レナードの妻は殺されてはいなかった事それどころか妻を殺したのはレナード自身である事それはレナードがよく話す記憶障害のサミーのエピソード( 妻に正常であるかどうか試されたサミーが妻の糖尿病のためのインシュリン注射を何回も打ちすぎて殺してしまう事 )がレナード夫妻自身の事であったという事などです

 



■ テディが "真実" を話した時レナードは愕然としますこの時レナードは自分が記憶障害である事をテディに利用され振り回されていた事を認識したのですテディの方からすると、"探偵ごっこ"( テディがレナードを皮肉った言葉です )を繰り返すレナードに付き合ってあげジョン・G らしき人間を与えて満足させてやった代わりに殺された麻薬密売人から金を奪っていたのでお互い様じゃないかという所でしょう

 



 

■ さてここからが倫理的にも哲学的にも考察が難しいところになっていきますというのもたとえレナードが記憶障害によってテディに利用されていたとしても"探偵ごっこ" を繰返し殺人は彼自身が行ったことなのは間違いないのですがそれを悔いることなく自分をこのような悪循環に追い込んだ張本人としてテディを始末することを即座に決断するのです

 

■ 映像では後で自分の判断の迷いのもとになるジミー・グラントの写真を燃やしてテディの写真に "奴のウソを信じるな。奴を殺せ" と書き込むシーンですこれは明らかに 10分後の記憶障害を算段に入れながら彼を殺す意図を達成させるためのもの ですレナード自身が言っています "カタをつける"と

 

■ ここからはもう少し詳細な説明が必要になるでしょうというのももしレナードがこの "探偵ごっこ"という自分の生きてきた世界をどう捉えるかによって解釈が変わってくるからです

 



 

■ 少し洗練された精神分析的考えだと"探偵ごっこ" という彼の捏造の世界をレナードは永遠に犯人探しをするという形で擬似満足的に享受しているとするでしょうそうするとそこにそうではないと真実を告げたテディは レナードの "享楽" を邪魔する者として排除される というわけですこれはまさに彼が自らの "歪んだ欲望" によって彼が能動的に動けるように創られた世界ですただしこの立場は"自分が妻を殺したという現実" を永遠に受容れないという代償 を払い続けなくてはなりません

 

■ もうひとつの考え方は "探偵ごっこ" という自分の世界の外に "別の世界" がある事にレナードが気付くというものですそのためには 自分がいる "悪循環の世界"( テディが真実として知らせくれたもの )をテディを殺す事によって断ち切るしかない という立場ですレナードはテディから真実を聞いた後運転中に車の中でベッドで妻と寄り添う場面を思い浮かべながら( 良き思い出として昇華させたと解釈すべきでしょうか )、"外の世界" について独り言をつぶやいてますね

 

■ この時彼の行動テーマは "妻の復讐" から "外部への脱出" へと秘かに移動しています自分をより客観的に存在させなければならない"自分という主体" へのこだわりですね。哲学的に言うならばハイデガーの言う "Ex - sistenz"つまり自分の外側に立つ事によって初めて自分を存在させる事が出来るという訳ですただしそれはテディのような他人の手の平の上ではなく自分自身の手で成し遂げなければならない自分の記憶障害を利用してでもそのための手段が "殺人"というのは余りにも罪深い事ですが ……

 



 

■ それにしても"探偵ごっこ"していた時の殺人は "妻の復讐" という大義名分によって遂行されましたが"テディがジョン・G ではない"( なぜならレナードはテディ自身から真実を聞いているから ) と分かる今レナードは自分の 〈 記憶障害 〉 を "故意に" 利用しるテディから聞いた "真実""記憶障害" を使って封印しテディを自分の中でジョン・Gに仕立て上げてしまうという確信犯的行為に走る のですそして10分後にはそれまでのことを忘れてテディを殺してしまうという訳です

 

■ 同じ "殺人" でもレナードの中では全く意味合いが違っていたのですしかし最終的には自らの記憶障害を利用しての確信犯的殺人の意図を帳消しにするという恐るべき謀略に至るのです〈 *1

 

 

1

メメントを解説している記事は他に多くありますがそれらから抜け落ちているのが自分の記憶障害を利用するレナードの悪意についての考察 ですこのポイントを押さえておかなければメメントを理解できていないと言っても言いすぎではないでしょう〈 *2

 

〈 *2

この意味でラカン精神分析の視点から『 メメント 』を分析した映画理論家のトッド・マガウアン でさえ『 メメント 』を完全に理解出来ていないといえるでしょう ( 映画とラカン精神分析の結びつきという事でピンときた人もいるでしょうけど、彼もスラヴォイ・ジジェクのスタイルを踏襲している )彼はクリストファー・ノーランの嘘 思想で読む映画論( フィルムアート社 2017 ) で50ページ近くに渡って『 メメント 』を詳細に論じているのですがメメント 』の真実つまり殺人の快楽に耽るレナード に気付く一歩手前で留まりそこから先に進むことが出来ないでいる

映画は、知る主体 ー あらゆる個人的な犠牲を払って真実を発見する事に没頭する主体、すなわち真実のために真実に身を捧げる主体 ー としてのレナードのイメージを作り出す。そして、映画の終わりでは、彼が実は欲望する主体であったことが明らかにされる 。

 

クリストファー・ノーランの嘘 思想で読む映画論p.85

 

ここまで考察出来ていながらもマガウアンはレナードが欲望していたものが実は "殺人行為" であったことに気付かないのです残念なことに

 



 

■ ここには "倫理的なものの恐るべき欠如" があります。"恐るべき"というのはテディが犯人ではないと知りながらも殺す決断したレナードが通常であれば後で自分を罪の意識で苛むことになるであろうその決断を 自らの記憶障害を利用して消去してしまう からです殺人の動機を自分自身から他人へと転嫁する事によって 殺人行為を正当化してしまう のですね

 

■ その狡猾さに気付くと私達の彼に対する見方は冒頭とは違うものへと秘かに変わっていきますつまり当初は "妻の復讐という大義名分" が彼の殺人行為を正当化するものであるように私達は思い込んでいましたがその大義名分ですら彼の殺人行為を正当化するための "アリバイ" であった事になるのです

 

■ そうするとここから引き出される最悪の結論は … 彼が殺人という行為自体を欲望していたというものです。レナードが所持するポラロイド写真の中にはテディが写したレナード自身の写真がありました殺人を犯した後の狂喜の表情を浮かべるレナードがそこには写っています

 

■ その写真は妻を殺した犯人( 実際にはレナードが殺した )をレナードが必死に探すというストーリーが進みながらもレナードに対する "異和感" を私達の中に引き起こすものでしたその "異和感" は間違っていなかったのですこのノーランの仕込みの凄さ …… 。でもその仕込が凄すぎてその "意味" を理解出来ていない人が殆どですが

 



 

■ クリストファー・ノーラン時間軸の逆転 という技術的手法で私達にストーリーの謎解きの楽しみを与えながらも"その傍ら" で倫理的次元の欠如したレナードの歪んだ欲望( 殺人のために自らの記憶障害を利用する狡猾さと悪循環の世界から抜け出したいという必死の思いが奇妙に結びついているという具合の )を提示していたのです

 

■ ノーランはインタビューでこの映画を見る人に自分の記憶について考えてもらいたかったと言ってましたが実際にはこの映画の効力は"記憶の問題" を飛び越えその裏に潜む "人間の欲望と倫理の問題" に到達していた といっても言い過ぎではないでしょう最もほとんどの人はその点に興味を示さないかもしれませんが

 

 

 

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▶ サム・メンデスの映画 『 007 スカイフォール 』( 2012 ) を哲学的に考える

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■ 監督 : サム・メンデス

■ 公開 :2012年   

■ 出演 : ダニエル・クレイグ

    ハビエル・バルデム

     : ジュディ・デンチ

 

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  1. メンデスの作家性

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a.   007シリーズの通算23作目、ダニエル・クレイグの新ボンドシリーズとしては3作目『 スカイフォールは、英国人監督のサム・メンデスによって創り上げられた傑作といえるでしょう。では、どのような意味で傑作なのでしょう? その技術的作風によるものなのか? それともシリアスなストーリーによるものなのか? それとも英国的なものを漂わす娯楽性によるものなのか?

 

b.   確かにそうなのですが、決定的なのは50年以上続くボンドシリーズにおいて、伝統の中に埋没することなく( これは、もちろん伝統を無視する事ではない。サム・メンデスがボンドシリーズにおける "英国的なもの" を尊重し、そこに回帰しようとしているのは明らかでしょう )、自らの "作家性" という力量を示す事が出来たという意味で傑作なのです

 

c.   もっと分かりやすく言うなら、"サム・メンデスという監督名" が 『 スカイフォール 』という作品名とダニエル・クレイグという主演俳優に負けないくらい見る者の印象に刻まれ、前面に出る007の作品を創り上げたということですね。

 

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  . 伝統の中に埋もれてしまわないメンデス

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a.   通常、シリーズもの ( 特に007のような長い歴史を持つシリーズ ) では、各作品はいい意味でも悪い意味でも、その中に飼い馴らされてしまう運命にあります。しかし、強力な "作家性" を持つ監督はシリーズという伝統の中にいながらも、自らの創った作品の足元にその他の作品を従えさせてしまう程の強度を放つ事があります。メンデスが、そのような "作家性" を持つ監督の一人である事は間違いないでしょう。ただし、伝統の中で、そのような作家性を保つには、自分の考え方や方法にこだわる強力な信念を持ち続ける必要があったでしょう。

 

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   3. クリストファー・ノーランの作家性とその影響

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a.   その信念を後押ししてくれたのが、メンデス自身もその影響を公言したクリストファー・ノーランの作品バットマン ダークナイト です。これはよく言われるように、その重厚かつシリアスな作風だけではなく、クリストファー・ノーラン"作家性" も含めて考えるべきかもしれませんね。

 

b.   というのも作家性の強いノーランの商業的成功は、映画を創る者にとって、ファンとは違う意味で衝撃だったと思われるからです。つまり作家性とは、監督の権力が発揮しやすいマイナーな作品においてしか保たれないものではなく、メジャー作品においても保てることをノーランは証明したという事です。それは同時に、マイナー作品を創り続けることが、必ずしも作家性を保障するものではないことを意味します。

 

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 4. 作家性という概念の哲学的考察

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a.   ノーランの出現は間違いなく、それまでの作家性の概念をふたつの意味で更新したと哲学的にいえるでしょう。ひとつはメジャー作品でも作家性は保てるのだから、マイナーであることが必ずしも作家性を保障しはしない事。もうひとつは、マイナーな作家性から出発した者がメジャー作品をつくりあげてしまったがゆえに、メジャー概念の同一性 ( 作家性にこだわっていてはメジャー作品に挑めないというような ) を打ち崩してしまった事です。

 

b.   もちろんサム・メンデスも、このノーランの作家性の概念に連なる監督です。その意味で『 007 スカイフォール、そしておそらく次回の『 007 スペクターも、ノーランの【 バットマン3部作 】と同様に語り継がれる作品になるでしょう。

 

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 5. 絵画的構図とカメラポジション

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a.   そして、サム・メンデスを語る上で欠かせないのが、よく言われる "絵画的構図の美しさ" です ( *1 )。余り気付かれないかもしれませんが、この絵画的構図を可能にしているのが、"カメラポジションの安定性" ですね

 

b.   つまり、絵画的構図とは、それを見る者の視線の動きを止めることであり、そのためにはカメラ・ポジションが安定していないといけない。"カメラポジション" に対して "カメラワーク" が勝っていては、見る者の視線の動きは落ち着かず、絵画的構図を味わうことが出来ないという事です。

 

c.   この "カメラポジションの安定性" が抜群のサム・メンデスが007というアクション要素の大きい映画の監督を引き受けた時、アクションをどう表現するのだろうかと思ったのですが・・・・・

 

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( *1 )

a. 絵画的構図の最たる例が、メンデスの監督デビュー作である『 アメリカン・ビューティー ( 1999 ) 』 における以下のショットでしょう。レスター ( ケヴィン・スペイシー ) の妄想の中で、大量のバラの上に横たわるアンジェラ ( ミーナ・スヴァーリ )。

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b. ちなみに『 アメリカン・ビューティー 』では、娘のチアリーディングを見に行くレスター ( ケヴィン・スペイシー ) とキャロライン ( アネット・ベニング ) の車の中での会話で 007 の話が出るシーンがあります。サム・メンデスの007好きが分かりますね。

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 6. アクションとカメラポジション  

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a.   それに対してメンデスは『 スカイフォール 』で答えを示しました。アクションシーンでさえも、"安定したカメラポジション" で収めてしまったのです。どういう事かというと、あるアクションの運動性を捉えようとしてアクションを追いかけるような "カメラワーク" に向かうのではなく、逆に安定した "カメラポジション" によるフレーミングの中にアクションをいかに表現していくかという方法をとったという事ですね。

 

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 7. フレームの映画作家

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a.   この意味で、メンデスは何よりも "フレームの映画作家" といえます。安定したフレームこそ、観客が映画を覗き込む為の視線の誘導口なのです。

 

b.   ただし、それはフレームの中に表現される内容次第にかかっています。メンデスは、それをカメラワークによって成し遂げるのではなく、"絵画的構図"によって、自らの作品をまさに "フレーム( 額縁 )によって縁取られた絵画" として観客の目を楽しませていることに成功しているといえるでしょう。

 

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 8. フレームの哲学的考察

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a.   では、このフレームを "作品という内部""それを見る外部""境界" に位置するものと哲学的に考えて見ましょう。普通に考えたらフレームとは作品を際立たせるために作品を縁取る飾り的なものであり、"作品に付属するもの" とみなすでしょう。

 

b.   しかし、この "フレーム" は外部からの視線のために予め与えられた、より覗き見るための "窓枠" といえます。これは、観客の視線に晒されることを先取りしている、つまり、作品完成後の観客による鑑賞という事後の行為を、事前に先取りした結果としての形式的装置なのです。

 

c.   なので観客は、作品の見方を予め秘かに与えられていて、無意識的にそれを受容れているのです。観客がどんなに自発的に作品を見ているつもりでも、その作品は既に監督または撮影監督の見方が嵌め込まれているので、私達は彼らのフィルターを通してしか作品に接する事が出来ないという訳です。

 

d.   もっといえば、作品のストーリーを追う以前に、既にストーリーの追い方自体( 結局の所、私達は映像を目で追いかけるしかないのですから )を気付かないうちに与えられているということなのです。

 

e.  ゆえに "絵画的構図" を得意とするメンデスは、フレームをどう使えば、観客の視線をコントロールして作品に釘付け出来るかを知っている。その絵画的構図は、観客の視線を可能な限り画面の中に引き込んで、作品の中に同化させる力があるといえるでしょう。

 

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TV【 相棒13 最終回 】を哲学的に考える【2】

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   TV 【 相棒13 最終回 】を哲学意的に考える【1】 の続き

 

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 6.   杉下右京と甲斐亨という組合せ

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■   杉下右京と甲斐亨という組合せは、それぞれ人間関係における不安定的要素(それが魅力でもありますが)を体現したもの同士の組合せであり、それは危険な者同士の組合せであるとさえ言えます。時に自制出来ない程の【 知的正義 】を持つ杉下右京と父親などの権威に対する【 反抗的正義 】を持つ甲斐亨の組合せは【 正義 】を掲げる者同士でありながら【 対抗的関係 】にあり常に緊張を伴うものでした。

 

■   この点、過去の相棒と比較してみると面白いでしょう。一代目の亀山薫寺脇康文は甲斐亨と血気盛んな所が似通っていて一見、杉下右京と対抗関係にあるように思えます。二代目の神戸尊(及川光博亀山薫とは対照的にクールで知的な所が杉下右京とかぶっているようで、その意味でこれも対抗的関係にあるように思えます。

 

■   しかし両者とも甲斐亨と違うのは、事件の解決に当たって自らの信念を貫き通せないという現実(事件の捜査方法であり解決方法であり、あるいは杉下右京の信念との違い)に耐えうるという意味で大人であり、そうした大人として杉下右京と相棒関係を結んでいるのです

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  7.   甲斐亨の信念

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■   それに対して甲斐亨は自らの信念にこだわり、悪への制裁という形でそれを実行に移した。しかしその信念がいかに正義であると本人が思い込んでいても、信念にこだわり貫く為に採られる方法は信念の中身とは別の問題です。

 

■   つまり信念が正義であるように思えても、それを実行する方法が悪魔的であるならば、その信念は歪んだ正義である他はない。この場合、歪んだ正義とは甲斐亨が自分の欲望を満たす為のものであり、大河内監察官の取り調べにおいて世間からのダークナイトに対する賞賛に心地よさを覚えたのではないかと指摘された通りです。

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 8.   甲斐亨にとっての強大な存在としての杉下右京

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■   さらに問題なのは、何が甲斐亨にそこまで自らの信念にこだわらせたのかという事ですね。自らの刑事という立場を考えれば信念を放棄する事も出来たはずなのに、そうしなかった。いやそうする事が出来なかったと解釈すべきでしょう、自分の隣に常にいる杉下右京という存在によって。

 

   甲斐亨にとって杉下右京とは自分の中に入り込んでくる強大な存在でした、その知性、正義感において、そして一人の男として・・・。父である警察庁次長の甲斐峯秋にも強気の虚勢でもって自分への敷居を跨がせなかったのに、その一線を越えて来るほどの存在であったという事です。甲斐峯秋自身が右京に対して杉下右京という存在が倅をダークナイトに駆り立てたと言ったように。

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  9.   甲斐峯秋による息子と杉下右京の関係についての分析

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■   これは言われる程、単なる陳腐な台詞の遣り取りではないでしょう。倅の犯罪の原因を右京に求めているのではなく、杉下右京と倅である甲斐亨の特殊な関係性について述べていると解釈する方が興味深く(甲斐峯秋は後悔や落胆の表情をしているというよりは淡々と論じているように見える)思えます。

 

   甲斐峯秋は父親である自分が変えられなかった倅を変えた ( 結果として悪い方ですが  ) 杉下右京に実の親子以上の特殊な関係性を見たのでしょう。これをもって杉下右京を甲斐亨の父親的存在とする見方もあるでしょうがが、それは微妙な所です。

 

■   なぜなら杉下右京も甲斐亨と同様に大人になり切れていない存在である事は、そのキャラクター性から明らかだからです。つまり杉下右京と甲斐亨は未だ人間形成の過程にあるもの同士が拮抗する状態、いわゆる【 対抗的関係 】にある【 相棒 】という事ですね。

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 10.   杉下右京の内面

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■   甲斐亨は杉下右京に多くを学びながらも、同じくらい多く内面的に抵抗したはずです、自分の存在を守る為に。杉下右京によって感化され自分が変わっていくのを感じながらも、自らの存在に固執し防衛した。甲斐亨の恋人の笛吹悦子の妊娠と病気の話が脚本的に回収出来ていないのは甲斐亨の自らの内面への深い耽溺性とそれが上手く処理出来ていないからではないかと思えるくらいです。

 

■   この内面への耽溺性 こそ杉下右京に欠けているもの、どこかに置いてきたものなのです。もちろん推理力を行使して捜査を展開するプレーヤーとしての杉下右京にそれは必要はないはずのものです、実際自らの事を語らないのだから。

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   11.   刑事ではなく人間同士としての【 相棒 】

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■   しかしこの最終回に限ってはそれまでの刑事物語ではなく、主役である杉下右京と甲斐亨というキャラクターの成立に関わる存在問題としての物語に書き換えられています。そこでは杉下右京と甲斐亨は事件を解決する者同士としての【 相棒 】ではなく、互いに自らの【 存在 】に立ち向かう者同士としての【 相棒 】になっているのです。

■   香港のバスの中で出会った二人は刑事として幾つもの事件を解決してきた末に、最後の空港の場面において無期限の停職になった刑事(杉下右京)と犯罪を犯した元刑事(甲斐亨)として互いが【 相棒 】であるのを再確認する時、それは普遍的な意味での【 相棒 】に近づいた瞬間でした。

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 12.   二人の組合せの奇跡

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■   出発点で偶然に出会った二人(哲学的には【 偶然の必然 】とでもいうべき所でしょう)は最後の場面において互いの結びつきの必然性を確認するという回帰的ストーリーは二人の象徴的地位の剥奪という高い代償を支払うという失敗であるかもしれませんが、そこには二人にとって今までとは違う何か別のものが到来し、動き出している。

 

■   おそらくその可能性を展開していく事は次のシリーズがあるとしても、そこでは無理であろうし(相棒が違うのだから)、その意味でこの最終回は相棒史上、最もファンを不快にさせる異質なものでありながらも同時にほとんど気付かれる事のない二人の組合せの奇蹟性を備えた回であったといえるでしょう。
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