新国立競技場の建設問題は色々と考えさせるものがありましたね。一体、何が問題だったのでしょう? ザハ・ハディドのSFっぽい巨大なデザインばかりがクローズアップされて問題の本質が見えにくいなと思っていましたので僕なりのアプローチをしてみました。ただし、簡単にまとめられる類の話ではないので、今回は建築家の 槇 文彦氏と 伊藤豊雄氏 に焦点を合わせながら考えますね。
1章 ザハ案への反対
1. まず、はっきりさせておく必要があるのは、今回の問題でザハ・ハディドに責任はないという事でしょう。2012年9月にコンペの応募が締切られ、同年11月に最優秀賞としてザハの案が選ばれたのですが、その後、当初の予算1300億円に対して約3000億円まで費用が膨らむ事が分かってくるにつれて問題が大きくなりましたね。つまりザハの案はふさわしくなかったのではないかという声がメディア ( 特にTV ) で頻繁に取り上げられるようになりザハ案に対する懸念が市民の間でも強くなってきたという訳です。
2. もちろん、それ以前からザハ案に対する反対論はありました。JIA( 日本建築家協会 ) の機関紙 JIA MAGAZINE 2013年8月号にて掲載された建築家の槇文彦氏の記事「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」( http://www.jia.or.jp/resources/bulletins/000/034/0000034/file/bE2fOwgf.pdf ) を始めとして、建築関係者の間ではザハ案への懸念及びコンペの在り方などに関する議論が交わされ続けていました。コンペに参加した建築家の伊東豊雄氏も人類学者の中沢新一氏や森山高至氏、松隈洋氏と共に問題提起のためのシンポジウム
( 新国立競技場のザハ・ハディド案の問題点を中沢新一氏らが指摘 - ログミー)
を開催しています。
2章 議論の方向性
1. ただし、ここで注意しなければならないのは "議論の対象及び目的" をはっきりと定めることの必要性です。"何のために、何をするのか、そのための議論ではないか" という事ですね。もし議論がコンペ審査の "見直し" を求めるという抽象的なものでしかなかったのなら、いくら細部に渡る議論をしても世論に届くものにはならなかったでしょう。つまり、① ザハ案で決定という審査結果を前提として見直しを求めるという考え方 と ② ザハ案では駄目だ、として審査結果を、いや審査自体を "無効" にしようとする考え方 では、全く違う事なんだと認識しなければなりません。これは建築的な考え方ではなく、"戦略的な考え方" ですね。建築の専門家であるのかどうかという区別よりも、戦略的であるかどうかという事がここでは重要なのです。
2. そこについては建築関係者の間でも分かれる所です。ほとんどの方は審査結果に批判的でありながらも、実際の考え方としては ① の穏健派的なものだったでしょう。これは常識的な態度ではあるが、状況に追随する、あるいは状況に遅れて反応するという事であり、こちらから状況に対して何かを仕掛けるというものではありません。
3. しかし少数の方は ② の考え方をして現実を動かすべきだとしました。建築の専門家でありながら戦略家でもあろうとしたといえるでしょう。では誰がどのように戦略的であったのか考えましょう。② の考え方の代表が槇文彦氏であり、彼は、先程挙げた「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」の後、JIM MAGAJINE2014年3ー4月号においても「それでも我々は主張し続ける 新国立競技場案について」( http://www.jia.or.jp/resources/bulletins/000/040/0000040/file/aBnW8H8Q.pdf ) という記事を発表しました。
4. これは非常に興味深い記事で、建設案の問題点と、それに対する批判も併せて上手く整理されています。"新国立競技場" を2020年東京オリンピックを目標とするJSCの事業側の観点から脱出して、何十年にも渡って存続するプロジェクトとして "市民主体" の観点から位置付けし直しているのです。その点からザハ案および事業側的審査の在り方をはっきりと否定しています。彼はそのような理論的位置付けと共に、いろいろな人達と連携してザハ案の無効および新案の検討という流れを形成していきました。これは槇文彦氏が現実を動かすことを意志していたことに他なりません。彼は一連の騒動の中、どこかで言ってました "自分はリアリストだ" と。この言葉は、現実に繋がらないことはしないし、何かを発信するなら現実に繋がるようにするという意味で捉えるべきでしょう。
3章 政治的行動
1. このような槇氏らによる行動を政治的だとして批判する向きもあります。しかし、この場合、どのような意味において政治的であるといえるのか考える必要があります。彼は建築家としてのザハを否定している訳ではありません ( 好きか嫌いかの趣味の問題はあるでしょうけど ) が、彼女のデザインは東京におけるコンテクスト ( 文脈 ) を無視するものとして疑問を投げかけたのは間違いありません。しかし、それ以上に問題なのは、ザハ案を選出したコンペの在り方とオリンピック開催を目標とする観点からしか物事を進めようとしない事業主なのです。ザハ案への批判は、ザハ自身に向けられたものではなく、彼女の案を選出したコンペと、彼女の案を遂行しようとする事業主に向けられたものだと理解すべき なのです。槇氏は、ザハも今回の騒動の犠牲者であると言っていますね ( *A )。
2. つまりは、今回のコンペ自体が、事業主側による新国立競技場建設という箱物事業のとっかかりに過ぎないものであり、客観的審査が厳密に行われたものかどうか疑問が残るという意味で、公平なものではなかった。そのような一方的な政治的進行に対して介入するには、槇氏らのような政治的行動を以ってする他はなかったでしょう。
( *A )
今回のコンペにおけるザハ・ハディドを擁護する磯崎新氏の意見も参考にしておかなければ公平ではないでしょう、日本におけるコンペの国際的信用という観点から。
磯崎新による、新国立競技場に関する意見の全文 | architecturephoto.net
4章 再コンペの公平性
1. 2015年7月17日、安倍首相は新国立競技場の建設計画をゼロベースで見直すことを決めました。それを受けての再コンペで隈研吾氏のよる A案 と伊東豊雄氏による B案 のふたつに絞り込まれ、その結果、2015年12月22日に隈研吾氏の A案 が採用されることになりました。しかし周知の通り、伊東氏から A案 とザハ案が類似しているとの指摘がありましたね。伊東氏のこの指摘に対して、見苦しいなどと批判する見方もありましたが、そうとは言い切れないでしょう。再コンペが "公平" ではなかったと彼は言いたかったのです。
2. 今回の再コンペでは設計と施工が一体となった "デザインビルド方式" という一括発注 ( このためザハは組むゼネコンが見つからず応募出来ませんでしたね ) が条件でした。A案 のゼネコンはザハと組んでいた大成建設だったので、工期の点からすると ( 鉄骨発注・資材置場の確保などの準備は既に行っていたでしょうから ) A案 有利のバイアスが初めからあったといわざるを得ないです。事業主の立場からすれば、建設を何としてでも間に合わせなければならない訳ですから。審査委員も当然その点を考慮に入れたでしょう。以上の見地からすると、審査が "公平" であったかどうかは微妙なところという訳です。
5章 仮定の話
1. さてここから仮定の話ですが、ではもし伊東氏が大成建設と組んでいたなら選出されていたでしょうか? 大成建設の下準備を考えるなら選出されただろうと考えるのが通常でしょう。しかし、もし大成建設が伊東氏と何らかの理由で組む事を選択しなかったとしたらどうでしょう?
2. その理由としては
推測 ①
伊東氏と大成建設は今までも一緒に仕事をしてきたことがあるので当然連絡をとっているはずです。にもかかわらず組まなかったのは、おそらく大成建設側の条件、つまりザハ案をたたき台にするという条件がネックになったからではないか。大成建設はザハ案での施工計画をすすめていたはずです。部材が発注済みとすると巨額のキャンセル料などの損失が出てしまう。それを避けるために大成建設としてはザハ案を利用するしかないという訳です ( 実際、隈研吾氏のA案 がザハ案と類似しているのは、そのような事情からではないでしょうか )。それに対して伊東氏は拒否するしか出来なかったでしょう、自分が否定してきたザハ案を利用することは出来ないでしょうから。そうすると大成建設は別の建築家を担ぎ出すしかないわけで、それが隈研吾氏という訳です。一方、伊東氏も別のゼネコンと組むしかないわけで、それで竹中工務店・清水建設・大林組という訳です。
推測 ②
最初のコンペでザハに負けたというイメージのある伊東氏よりは、別の建築家を担ぎだした方がイメージがいいと大成建設が考えた可能性はある。伊東氏がザハ案に否定的なのも考慮した上で、最初から別の建築家を担ぎ出してザハ案をたたき台とした施工計画を進めるつもりだったのかもしれないですね。
3. まあどちらの推測も正確ではないにしても、伊東氏が大成建設のザハ案利用について何らかの事情で前もって知っていたといえるでしょう。というのも再コンペで隈研吾氏の A案 が採用されてからのザハ案との類似を指摘したコメントは早すぎでした。あれは前もって疑いの目で見てなければ、すぐに出せるコメントではないです。あら捜しは意識的にしようとしなければ、見つかるものではないですから。しかし伊東氏もそれ以上はコメント出来ないでしょう、今後の仕事においても施工主との関係は続いていくのですから ( *B )。
( *B ) 2016年1/25追記分
最近、週間ダイヤモンドによる伊東豊雄氏へのインタビューが行われたことを付け加えておきます ( 国立競技場、B案も工期短縮は可能だった――建築家・伊東豊雄氏に聞く|『週刊ダイヤモンド』特別レポート|ダイヤモンド・オンライン 2016年1/22 )。この中で伊東氏は、審査の議事録と各審査委員の得点公表を求めている事を明らかにしています。旧競技場の杭の事前撤去という事前着工についてJSCとのやりとりが納得のいくものではないことも言っていますね ( A案では必要だと思われる事前着工の件は触れられていない )。いずれにせよ伊東氏はすべての事情を理解した上で、審査における A案 へのバイアスがあったことをはっきりさせようとしていますね。つまりこれは審査は公平であるべきと言いたいのだと理解すべきでしょう。このインタビューでダイヤモンドの記者と同席しているジャーナリストの大根田 康介氏は新国立競技場の建設問題で興味深い記事を書いていますね。
疑問だらけの新国立競技場:|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース
国立競技場改修はなぜ消えた?:|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース
6章 コンペの在り方
1. いずれにせよ、再コンペの在り方も、ゼネコンの思惑を含んだ箱物事業の進行によって支配されているという意味で "公平" ではなかったといえるでしょう。しかし、建築コンペにおける公平性とは何でしょう? 難しい問題ですね。というのも、公平というのは何か問題が発生した時に、特定の利害関係から距離を置くという意味での抽象的観念でしかないからです。果たしてそれが可能なのでしょうか?
2. 今回の件でひとつの指針となるのが、コンテクスト ( 文脈 ) の中で作品をどう位置付けるかという審査が必要という事です。この場合、コンテクストとは、場所的・歴史的・経済的・生活圏的・建築思想的、など( これらはあくまで僕の仮定です。他にも考えられるでしょう )の複数の視点において読み込まれるべきものです。それと 応募資格の意味のない厳しい条件の廃止 ( 多様性を保つために ) ですね。そういったものを徹底的に基準として確立する必要があるのかなと思いましたね、少なくとも散々議論した挙句、誰かの鶴の一声によって決まるというごり押し状態は避けるべきでしょう。
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