■ パラティッシについて哲学的に考える〈1〉の続きです。
今回はかなり小難しい話になるけど、興味ある方は気軽に読んでください。
1. 芸術作品のアウラとは?
a. ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは「複製技術時代の芸術」において、"アウラ"という概念を提唱しました。オリジナルの芸術作品のもつ一回限りの特有性というものは、複製技術によって失われていきます。この芸術作品が、ある時代とある場所に出現した時の一回性こそが、"アウラ" 〈 ※1 〉 であり、それは複製技術の反復性によって消滅していくと言うのです。
b. オリジナルの作品が消滅するという事 ( アクシデントがない限りオリジナルの作品が存続するという条件付きですが ) ではありませんが、作品の持つアウラは複製技術が発達した現代社会では消滅するしかないのです。
c. ベンヤミンはこの事態を悲観的に見て批判しているのでしょうか?そうではありません。彼はアウラの消滅の背後に、大衆層の芸術作品への積極的参加を見出しているのです。そこでは作品への接し方は、オリジナルの作品へ宗教的で礼拝的価値を置く事から、大衆層が参加しやすい複製技術による展示的価値に重点を置く事へと移行しているという訳です〈 ※2 〉。
2. オリジナルと量産品の関係
a. 以上の予備的な考察を踏まえて、この辺でパラティッシの方へと話を戻しましょう。ビルガー・カイピアイネンの芸術作品と量産品パラティッシの間には大きな差異があるのですが、量産品においては何が失われているのでしょうか?
b. まず先に示したように芸術作品のアウラがそこでは失われてしまっていると言えます。ではそのような量産品の価値はどこにあるのか?オリジナル作品の複製でしかないという否定的特徴ばかりが目立つのでは、その価値を見出すのは難しいのではないでしょうか?ところが、その複製という特徴こそが、量産品の価値を哲学的に考えるための鍵となるのです。
c. 量産品はオリジナルに対する複製であるため、自らの内にオリジナルに対する距離を抱え込んでいます。つまりそのような距離を抱えるという形式でオリジナルと関係する事によってオリジナルを自分の中に保持しているともいえるのです。
d. ここには"哲学的な生"があります。オリジナルから見たら全くの部外者である量産品の中に、不思議な事にオリジナルが生きているのです。ベンヤミンの概念を借りるならば、これは"死後の生"といえます〈 ※3 〉
e. このオリジナルが知らない量産品とは、オリジナルにとっては自分の死後の事だといえるのですが、自分の中でしか生きられない ( これだと本当に死ぬ可能性もあるのです、事故によりオリジナルが失われたり壊れたりという具合に ) のではなく、自分とは別のものの中で、自分が生きる。これが作品の "死後の生" なのです。
f. この意味で量産品のパラティッシの中にはビルガー・カイピアイネンの芸術が生きているといえるでしょう。彼の作品の中で唯一量産化されたパラティッシは、彼の死後も彼の作品を生かし続け、私達にその存在を知らせてくれているのです。
〈 ※1 〉
■ ベンヤミンは「写真小史」で "アウラとは時間と空間が織りなす特異な織物" だと言っています。これについてどう考えるべきでしょう?芸術作品はそれが出現したときの時間と空間を背景にして生まれます。逆に言うなら、違う時間と違う空間であれば今、芸術作品と呼ばれている物はそうならなかったと言えるのです。
■ 例えばフェルメールの作品は、あの時代、あの空間においてこそ必然的なものとなったのであり、違う時代、違う空間であれば、フェルメールの作品は偶然の産物の地位しか得られず見向きもされない可能性があったのです ( もっと言うならフェルメールという固有名すら歴史の表舞台に出てくる事が無かったといえます )。その意味で、芸術作品のアウラとは、時間と空間の線分が奇跡的に交錯した一回限りの出来事の必然性を示しているともいえるでしょう。
〈 ※2 〉
■ 大衆層の量産品への接し方という点からすると、フィンランドにおいてアラビア食器は市民の日常生活に浸透しているといえるでしょう。だからこそ前回の記事で触れたように、フィンランドにおけるアラビア工場の閉鎖について市民の間から反発の声が挙がったのです。
〈 ※3 〉
■ 「 翻訳者の使命 」を参照。このエッセイと「 複製技術時代の芸術 」は興味深い関係にあるといえます。「複製技術時代の芸術」は "オリジナル" の視点から "複製品" について語っているのですが、原作と翻訳の関係を語った「翻訳者の使命」は "複製品 ( 翻訳 )" の視点から "オリジナル ( 原作 )" について語っているという見方ができるからです。