〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 映画『 魂のゆくえ ( 2017 ) 』( directed by ポール・シュレイダー )を哲学的に考える

 

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映画  『 魂のゆくえ ( First Reformed ) 』
監督  ポール・シュレイダー ( Paul Schrader : 1946~ )
公開  2017年
出演  イーサン・ホーク ( Ethan Hawke : 1970~ )        エルンスト・トラー
    アマンダ・サイフリッド ( Amanda Seyfried : 1985~ )    メアリー
    フィリップ・エッティンガー ( Philip Ettinger : 1985~ )   マイケル
    セドリック・カイルズ ( Cedric Kyles : 1964~ )      ジェファーズ牧師

 

 

ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるためでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 



 1章    宗教と環境問題

 

『 魂のゆくえ 』について、よく言われる謳い文句 "50年に渡って構想されてきた企画" を契機として、考えていくことにしましょう。というのも、そのような長期間の構想はポール・シュレイダーの集大成的な物だといえるでしょうし、そこにかかった時間は、シュレイダーの円熟さを示す指標にもなっているはずですから。

 

その円熟さがいかなるものであるのかについて考えるのは、細かな事ではあるものの、哲学的には無駄ではありません。今までの彼の作品とは違う現象が、この作品において現れているのはラストを見れば明らかであり、それが彼が辿り着いた地点がいかなるものであるのかを示しているのですから。

 

ただし、ここで注意しなければならないのは、『 魂のゆくえ 』における宗教と環境問題です。たしかにイーサン・ホーク演じる主人公トラーは牧師であるのですが、この映画は宗教と環境問題が余りにも短絡的に直結してしまっている という設定を多くの人が疑問を抱かずに受け入れてしまわざるを得ないという事です、映画の鑑賞という形式に従って。牧師が、その情熱を宗教的なもの以外 ( ここでは環境問題 ) に傾けてしまうのは、違う領域、つまり、環境問題という名を借りた政治 への移行であり、それが、シュレイダーによる牧師個人を描き出すための映画上の設定であり本気で信じていないものだとしても、宗教と政治を直結させる個人の恐るべき内面 が潜んでいる事に注意しなければならないでしょう。その行く末は "破滅的テロリズム" でしかないのですから ( *A )。 

 

A

カルヴァン主義が、その始祖であるカルヴァンによるジュネーヴでの神権政治でみられるように "宗教の政治化" に積極的であったことを思い起こすならば、トラーにおいて宗教と政治が結びついても不思議ではないと解釈する事も可能でしょう。しかし、そこから枝分かれしたものが、もし "個人的テロリズム" に行く着くとしたら、どう考えるべきなのか …… 。

 



 2章    社会から浮いた異質な男の存在

 

もちろん、シュレイダーは、この作品で政治的領域へと踏み込もうとしているわけではない ( 環境問題への具体的対策はない ) し、かといって宗教的なものについて語ろうとしているわけでもありません ( 彼のルーツであるカルヴァン派の教義を掘り下げたりしない )。

 

ここで思い起こすべきは、彼の今までの映画 ( 監督、脚本を含めて ) に共通する特徴的なモチーフ、つまり、周囲の人間とは明らかに異質な男の社会との関わり方を描く、というものです。『 ザ・ヤクザ  ( 1974 ) 』の田中健 ( 高倉健 )( B )、『 タクシー・ドライバー ( 1976 ) 』のトラヴィス ( ロバート・デ・ニーロ )、『 ローリング・サンダー ( 1977 ) 』のレーン少佐 ( ウィリアム・ディヴェイン )( C )、『 Mishima : A Life In Four Chapters ( 1985 ) 』の三島由紀夫 ( 緒形拳 )、『 ドッグ・イート・ドッグ ( 2016 ) 』のトロイ ( ニコラス・ケイジ )、マッド・ドッグ ( ウィリアム・デフォー )、など社会に馴染めない男たちの生き方を描くという手法が繰り返されている訳です。

 

シュレイダーのストーリーには、まず、異質な男の存在が出発点として固定されている、ここに彼に無意識的固着があるといえるでしょう。それは『 魂のゆくえ 』においても同様で、牧師であるトラーは最初から明らかに社会とは異質な存在として描かれています。しかし、トラーはシュレイダーが今まで描いてきた行動的男とは違い、内面的独白を用いた孤独によって、その異質さを醸し出しているように見えます。ここら辺は、シュレイダー自身が言うように、ロベール・ブレッソンの映画『 田舎司祭の日記 ( 1950 ) 』の影響が現れていますね。

 

ただし、それを以て、『 魂のゆくえ 』において彼の映画手法が変わったなどと早合点してはいけないでしょう。既に彼は昔から、ロベール・ブレッソン小津安二郎からの影響を公言しているのですから ( それが彼の映画に上手く生かされているかということになると話は別ですが )。

 

トラーの内面的孤独は、表面的にはシュレイダーが今まで描いた男たちとは違うように見えますが、それは、社会から引き籠ろうとする孤独ではなく、その鬱積が行動化の爆発へと至るまでに抑圧された "社会に対する不満としての内面的孤独" なのです。この意味で、実はトラーはシュレイダーの描く男たちとは変わらない。違う言い方をするなら、トラーは いかにして行動化 ( アクティング・アウト ) へ至るのか についてシュレイダーは描いているという事です。ここの描写を念入りに行っているのが今までの主人公とは違うといえるでしょう ( ただし、それに匹敵するのが『 タクシードライバー 』のトラヴィスの描写。それがシュレイダーの手腕によるのか、マーティン・スコセッシによるものなのかは微妙な所ですが )。

 

 

B

『 ザ・ヤクザ 』については次の記事を参照。

 

C

ローリングサンダー 』については次の記事を参照。

 



 3章    自爆テロと自殺

 

ではシュレイダーは彼の集大成といわれる『 魂のゆくえ 』においても以前と何ら変わりがないのでしょうか。いや、ラストを見ると、そうともいえないことが分かりますね。自殺した環境保護主義者のマイケルの思想に次第に浸食されたトラーはファースト・リフォームド教会の250周年の式典で、マイケルが遺した爆弾付きベストを着用して自爆テロを試みようとします。ファースト・リフォームド教会自体が間接的に、環境に悪影響を与えているとされるバルク工業の支援を受けていたこと、トラー自身が胃ガンであること、という要因によってトラーは自分が出来る最大の抗議として自爆テロを選択したわけです。

 

しかし、亡くなったマイケルの未亡人であるメアリーが式典にやって来る様子を偶然見かけたトラーは慌ててベストを脱ぎ捨てて自爆テロを止めてしまう。

 

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なぜ止めてしまったのか? それは言うまでもなく、トラーがメアリーのことを愛していたからです。いや、正確に言うなら、トラーはこの時、彼女を "本気で" 愛していることに気づいた。彼女を自爆テロに巻き込みたくない・・・私の愛する彼女を・・・という具合に。

 

この場面以前にも、彼らの関係性を示す伏線は張られていましたね。夜、悪夢ゆえに眠れないメアリーはトラーを訪ねて、生前のマイケルとしていたのと同じように体を重ねて、呼吸と動きを合わせることによってトリップする "マジカル・ミステリーツアー" で気持ちを整えるのです。

 

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もう既にこの時、2人はお互いを意識しているのは明らかなのですが、トラーの宗教家としての尊厳が、一線を越えることを踏みとどまらせているのでしょう。ちなみに、2人が宙に浮く場面は、アンドレイ・タルコフスキーの『 サクリファイス 』を彷彿とさせるものになっていますね( D )。

 

トラーは自爆テロを止めた後、自らの身体に有刺鉄線を必死になって巻き付けます。まるで自分を人類のために犠牲になったキリストに倣うかのように。

 

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続いてグラスに洗剤を注いで飲もうとするのですが、有刺鉄線で自らを縛り、洗剤を飲んで自殺しようとするこの一連の流れは、どう解釈すべきなのでしょう。

 

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ほとんどの人は、これを自爆テロが出来ない代わりに、せめて自殺することによって、抵抗の姿勢を示そうとしたのだと考えるかもしれません。しかし、それは少し単純すぎるといえるでしょう。ここでは有刺鉄線で自らを縛ることの宗教的意味を考える必要があります。その意味とは、罪を償うために自分に罰を与える という事です。

 

ではどんな罪をトラーは犯したというのでしょう。自爆テロを止めたことに対する罪でしょうか。いや、仮にそうだしても、多くの人を巻き込む自爆テロはそれ以上の罪なはずなのをトラーは最初から分かっていたはずです。自分は罪を犯している、と。それでもテロを決行しようとしたのですから、ここで考え直すべきは、自爆テロを停止させる理由が自爆テロ以上の罪となってしまうとするトラーの歪んだ主体性です。

 

 

( D )

サクリファイス 』については、次の記事を参照。ここでシュレイダーが『 サクリファイス 』を引用するのは、一般的に言われているような『 サクリファイス 』が核の脅威と平和への希求を謳った作品などではなく、女を真正面から愛する事の出来ない ( 性交渉を含めた ) 男の物語であるという真実 に無意識的に気付いているからなのでしょう。

 

 

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サクリファイス 』より。アレクサンデルとマリアが抱き合い空中浮揚する場面。

 



 4章    シュレイダーの変化

 

つまり、トラーは、たとえ自爆テロという政治的行為に走っても、宗教家であることに誇りを抱いている。その "誇り" こそが、孤独に落ち込む彼に人間としての尊厳を与える唯一つの "慰め" であり、その "誇り" ( もっと俗的な表現だと "意地" になるでしょう ) こそが、彼にテロ行為未遂へと突き動かしたともいえるのです。

 

その誇りによって構成されるトラーの宗教的主体性を抹消したものこそ、メアリーへの愛です。トラーは自爆テロを止めた時、彼の宗教的主体性を保証する神への愛という普遍的な物を捨て、悩み深き未亡人であるメアリーへの個人的な愛に走った。これこそが、彼の罪、すなわち、"神への裏切り"、です。だからこそ、トラーは自分を許さず、自分に怒り ( 有刺鉄線を巻き付ける際、トラーの表情から明らかに読み取れる感情 )、自殺しようとした訳です。

 

おそらく、ここまではどれほど過激に思えても、従来のシュレイダー路線の枠内に収まるものです。男の暴力的行動は、今までのシュレイダーの作品の中では予定調和的なものに過ぎません。真に過激なのは、様子を伺いに来たメアリーの姿を目の当たりにしたトラーの振舞いです。

 

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トラーは自殺を止めて、メアリーと抱き合い、キスするのですね。このトラーの振舞いの意味は、 彼のアイデンティティーである宗教的主体性を捨てて、メアリーを愛す"普通の男" になった、つまり、イデオロギーに拘って孤独に陥ることよりも、他人 ( メアリー ) と愛し合い、共存する生き方を選んだ、という事なのです。

 

これは、一見すると、平凡な選択なのですが、シュレイダーのこれまでの路線からすると、ひとつの変化だといえます。というのも、今までのシュレイダーが描く男とは、親密な女性から介入されても、自らの生き方を変えることはしない、その延長上で、復讐や暴力などに関わる極端な存在として異彩を放ってきたわけです。しかしそのような紋切型を自ら捨てるかのように、自殺を止めて女性と愛を確かめ合う描写をラストに持ってくる のは、シュレーダーの晩年において他者との関わり方について彼なりに考える事があったのだろうと推測出来ますね 〈 終 〉。