〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ブライアン・シンガーの映画『 ユージュアル・サスペクツ 』( 1995 ) を哲学的に考える

 

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監督 : ブライアン・シンガー  
公開 : 1995 年
脚本 : クリストファー・マッカーリー
出演 : ガブリエル・バーン      ( ディーン・キートン
   :ケヴィン・スペイシー      ( ヴァーバル・キント )
   : ベニチオ・デル・トロ     ( フレッド・フェンスター )
   : スティーヴン・ボールドゥイン  ( マイケル・マクマナス )
   : ケヴィン・ポラック      ( トッド・ホックニー
   : ピート・ポスルスウェイト    ( コバヤシ )
   : チャズ・パルミンテリ     ( デヴィッド・クイヤン捜査官 )

 



 1章  カイザー・ソゼの謎

 

この映画のラストでは左側の手足が不自由な詐欺師のヴァーバル・キントこそが謎の黒幕カイザー・ソゼであったと分かりますが、哲学的にはカイザー・ソゼの正体は誰なのかという見方よりも、カイザー・ソゼという "虚像" がいかにして出現したのか という考え方が哲学的には重要でしょう。

 

ヴァーバル・キント ( Verbal・Kint ) という名前から分かる通り、"おしゃべりな ( Verbal )" キントは、巧みな話術でカイザー・ソゼの事をクイヤン捜査官に語りますが、カイザー・ソゼとは事件の黒幕としてのおしゃべりな自分をドイツ語とトルコ語で言い換えたものなのですね。"Kaiser" はドイツ語で "皇帝"、"Soze" はトルコ語で "おしゃべり"、を意味するので、黒幕としての自分を "おしゃべりな皇帝" と称したブラックジョークな訳です。

  

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勘のいい人はここでカイザー・ソゼのみならずヴァーバル・キントという名前もおそらく偽名に過ぎないんだなと気付くでしょう。そうすると、カイザー・ソゼの正体がヴァーバル・キントであるという言い方自体に意味が無い事が分かりますね。両方とも偽名なのだから。

 

確かに私達は映画のストーリーを把握する上で、便宜上、カイザー・ソゼの正体がヴァーバル・キントだと理解するしかないのですが、両方とも偽名であるならば、カイザー・ソゼ ( ヴァーバル・キントでもいいのですが ) なる人物の正体には、近づけていない のです。その人物の名前は本人にしか分からないのですから ( 少なくとも映画の中には出てこない )。

 

それでもストーリーの中で出てくる幾つかのカイザー・ソゼのエピソードによって、彼の本当の名前は分からなくても、私達は彼の本質に近づく事は出来ているのではないかと思う人もいるでしょう。例えばカイザー・ソゼが対立する組織に妻と娘を人質に捕られても彼女らを先に撃ち殺し、相手に恐怖を与えるというエピソード ( ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクがよく引用するもの ) がありますが、それも正直どこまで本当か分からないですね。

 

これもキントが目の前のクイヤン捜査官にカイザー・ソゼの存在を印象付けるために話している事を考慮に入れるならば、全くの嘘ではないにしろ、話を盛っていると考える方が自然でしょう。個人的にはその話が全くの嘘である方が面白いですけどね。

 



 2章    実在の効果を生む言葉の魔力

 

今一度言うなら、カイザー・ソゼあるいはヴァーバル・キントを名乗る男は誰なのかという問いは本質的なものではないという事です。おそらく彼が真実を語ることはないでしょうから。せいぜいのところ、また偽名と嘘を語るくらいです。そうすると、ここで有効な哲学的問いとは、1章で既に述べたように、カイザー・ソゼという虚像がいかにして出現したのか、という事になる訳です。

 

この問いを考えるには、カイザー・ソゼを名乗る男が 自らの名前において何をしようとしているのかを哲学的に考える必要があるでしょう。通常、名前とは特定の対象を名指すものであり、それによって特定の対象を周囲のその他の対象から区別する事が出来るようになりますね。いわゆる "言葉の名指し機能" です。もっと端的に言うなら "固有名詞" という事になります。

 

その名指し機能は、通常の状態だと、特定の対象が判別されるような "狭い生活圏" でしか機能していません。通常の状態というのは、例えば A という人物が周囲の人達から具体的な特性を持ったものとして、認識されていなければならないという事です。A は誰々の家の息子だという具合に。その時に初めて言葉の名指し機能が、名指しされる対象の特性と共に機能するのです。

 

しかし、そこには "言葉の流通機能" が不足しています。それでは名前は狭い生活圏でしか機能せず、その生活圏から外れてしまえば意味が無くなってしまう。A という名前が挙がったとしても、一体それが誰を名指ししているか分からないから です。私達の大部分はそのような狭い生活圏の中で名指し機能による自己同一性を保持して一生を過ごします。

 

ところが一部の有名人 ( 様々な分野における ) は "言葉の流通機能" によってその名前を広める のです。そのためには狭い生活圏における名指し機能による自己同一性を脱する必要があります。狭い地域における属性の "直接的認識 ( 名指し機能 )" は、言葉と映像による "間接的属性 ( 流通機能 )" に取って代わられ拡散していくのです。

 

ここは大切なところです。というのも "同じ名前" でも、限定的な生活圏においては "固有名詞" として機能するけど、より広い圏域においては固有名詞ではなく、"記号表現"  として流通して機能するのです。おそらく哲学や言語学を学んでいる人でも 名前=固有名詞 でしかないと思い込んでいる人もいるでしょうが、『 ユージュアル・サスペクツ 』はそんな思い込みを裏切ってくれます。固有名詞は、記号表現に対して常に優位に立っている訳ではないのです。ここで起こっている現象は 固有名詞の記号表現化 といえるものでしょう。

 

"記号" ではなく、"記号表現" としたのは、フェルディナン・ド・ソシュール言語学以来、記号表現 ( シニフィアン ) / 記号内容 ( シニフィエ ) という言語学的区分による組合せがかつて現代思想を席巻し、ラカン精神分析で頂点に達した 記号表現 ( シニフィアン ) を念頭に置いているからです。最近ではその事を問題にする人はほとんどいませんが、そういう状況だからこそ、記号表現 / 記号内容 の概念を道具として使い自由に考える余地が残されているといえるのです。

 

カイザー・ソゼと呼ばれる男は、自分を名指す固有名詞としてカイザー・ソゼを使っている訳ではありません。誰がカイザー・ソゼなのか皆知らないし、彼自身も自分を特定させるつもりもありません。彼は、その名前を記号表現として流通させているのです。それはただたんに浮遊しているイメージとしての記号表現ではなく、恐怖というソゼの内実を伴う記号表現として機能するのです。

 

その事を図式を使って考えていきましょう。まずは記号表現 / 記号内容 の関係性とそれをカイザー・ソゼに当てはめた場合です ( 図 A )。

 

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一見すると分かりやすい図式に思えますが、この 図 A には問題があります。というのも記号表現 / 記号内容 の組合が、暗黙の内に了承されたものになっているからです。私達は図式の 下段の記号内容の方を中心だと無意識的に思い込んでいる記号内容を名指すために記号表現を探して適用しなければならないという訳です。

 

しかし、これでは名指しが機能する狭い圏域の話になってしまい、そこでは当然、カイザー・ソゼと名指される事になる男の正体は知れ渡っていてる。つまり、カイザー・ソゼの謎めいた神秘さは出現する事はない。

 

カイザー・ソゼの存在を理解するには、記号表現を対象物を示す言葉としてではなく、それ自体としてある言葉、つまり、口から発せられた言葉の物質性 として考え直す必要があります。一端それが名前として発せられ流通すれば、後は不足する内実性 ( 記号内容を含めた ) を引き寄せるようになる。ここでは、名指しを待つ記号内容ではなく、流通する言葉としての記号表現がまず最初にあるのであり、その後に記号内容や内実性、そしてそれらを語る者、などの属性が引き寄せられるという "逆転現象" が起こるのです。

 

これを再び図式によって考えてみましょう。お分かりのように、通常の 記号表現 / 記号内容 の1対1対応の組合せは名指し機能に基づいた恣意的なものなので、カイザー・ソゼの存在を説明出来ない。なのでカイザー・ソゼという記号表現が様々な属性を引き連れて流通していく謎を図式で示しますね ( 図 B )。

 

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図 B において大切なのが、3. の『 ただし彼は自らを記号内容として正体をさらす事はしない 』です。この他の属性と違う点が、自らの存在を神秘的にしている訳です。逆に言うと、名指しの対象として自らの存在を明らかにしなくても自らの名前を記号表現として流通させる事が出来る という事です。これがカイザー・ソゼの秘密といえるでしょう。

 

これらは、『 ユージュアル・サスペクツ 』が公開された1995年の当時より、インターネット社会 ( 特にSNS ) が発達した現在においてこそ、より理解出来るといえるでしょう。ある人間に対する噂や中傷が何の確証も無く ( 確証がありそうな雰囲気だけで ) 拡散するし、何らかのニュースでさえ、当事者しか分からない詳細が省かれてると、偏った受け止め方をされ、非難が起こるという具合ですからね。そのように記号表現とは 人間を幻惑させ、行動を誘発するという意味で、人間主体を越え出て私達を規定する謎めいたもの だと言えます。そして、そこに人間の〈 欲望 〉が絡んでいるのは間違いないのです ( )。

 

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〈 関連記事 〉 

 

▶ ポール・バーホーベンの映画『 ELLE 』( 2016年 ) を哲学的に考える

 

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公開  2016 年
監督  ポール・バーホーベン
原作  フィリップ・ディジャン
出演  イザベル・ユペール   ( ミシェル・ルブラン )
    ジュディット・マール  ( イレーヌ・ルブラン )
    ジョナ・ブロケ     ( ヴァンサン・ルブラン )
    ロラン・ラフィット   ( パトリック )
    ヴィルジニー・エフィラ ( レベッカ
    クリスチャン・ベルケル ( ロベール )
    アンヌ・コンシニ    ( アンナ )

 

 

ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるためでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 



  1章  B級映画監督ポール・バーホーベン

 

ポール・バーホーベンといえばエロティックかつグロテスクなシーンを得意とし面白い作品 (ロボコッ プ』、『 トータル・リコール 』など ) を創ったかと思えばこき下ろされるような作品 (ショーガール ) を創るという意味でB級映画監督という印象を抱いている人がほとんどではないでしょうか

 

これほど評価の浮き沈みが激しい監督も珍しいこの安定感の無さは何に起因するのでしょうこれを単に映画監督としての力量が足らないからだと結論付けてしまっては話は終わるのですが彼の作品にはそう思わせない何かがあります

 

それについて考えるにはやはり彼特有のエログロを強調したシーンの意味を分析する必要があるでしょう彼の作品のエログロシーンが定番なのは何故かバーホーベンはどのような意図でそのシーンを使うのかその問いについて考えていく事がバーホーベンの映画の特徴を明らかにするのに繋がるでしょう

 



 2章    ストーリーが二転三転する『 ELLE 』

 

  ブラックブックなど比較的エログロシーンが押さえられた最近の作品から一転して『 ELLE 』にはエロどころか批判を浴びかねないイザベル・ユペール ( ミシェル・ルブラン役 ) がレイプされるシーンが登場します。 

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ここでこれまでの彼のエログロシーン ( *1 ) について考えてみるとそれは明らかに観客の性的嗜好や嫌悪感などのリアクションを掻き立てる機能を果たしていてバーホーベンの意図的な操作の結果な訳なのですねでも間違えないでほしいのはバーホーベン自身が欲情的であるからエログロシーンを撮るのではありませんそこには性的嗜好を刺激して観客の心情を操作しようとする無意識的試みに取り憑かれたバーホーベンの制作スタイルが現れている訳です ( *2 )

 

さてこれまでのエログロシーンならば観客の欲望を刺激してそこで終わりだったのですが、『 ELLE 』のレイプシーンはその先に行ってしまっているのですつまりレイプシーンは仮に欲情する者がいたとしても大多数はそのシーンに道徳的批判の声を挙げてしまうという事です

 

しかしレイプシーンに対する道徳的非難これをバーホーベンが予測していないはずがないいや正確に言うならば道徳的非難を引き起こすレイプシーンを見せながらもすぐにそれを打ち消すようなミシェル ( イザベル・ユペール ) の振舞いを演出するのですレイプというトラウマになりかねない出来事にショックを受けた女性がそこから立ち直るというような紋切型の話とはバーホーベンは縁を切る事によって観客が普通の反応 ( ここでは道徳的非難 ) が出来ないように操作しているという訳です。 ではレイプされた後のミシェルの振舞いとはどのようなものか見ていきましょう

 

護身用グッズを買うミシェルしかし小型の斧はもう護身どころか殺傷能力があるのでこの時点で彼女にはレイプ犯への復讐心が芽生えているのが読み取れる・・・あくまで上辺だけですけど。 

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レストランでの友人たちとの食事のシーンレイプされた事実をあけすけに語り彼らを引かせてしまう。 

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そして最も重要なのはミシェルがレイプされた後警察に通報しなかった事 ですこの映画のストーリーを設定する上でその事はレイプされた事よりも大切な要素になっているのですそれは不謹慎だという感情レベルでの反応以前に観客の通常の解釈と反応を斥けるあらゆるストーリー設定が可能になる条件 であると言えるでしょう

 

事実警察に通報しなかった事 ( これを便宜上 A とします ) によりそこに 幾つ物の話を差込んで接続する ( 以下の ①~ ) 事 をバーホーベンはやってのけています

 

 A それ自体はまず過去の父親の犯罪を巡って警察への不信感があるという話によってまず固定される

 

  A の背景には犯罪者の父の存在自体がミシェルのトラウマになっていて男自体への憎しみがあるのでミシェルが自分自身で犯人に復讐しようとする意図が隠されているかのように話が進む

 

  の話を強化するかのようにミシェルは度々襲われるレイプのフラッシュバック的妄想の中で犯人に抵抗し傷を負わせるシーンが差し込まれる

 

 しかしミシェルは再び襲われた時に犯人が向かいの家に住むパトリックだと分かったにも関わらずそのまま放っておくこの流れの伏線としては近所付き合いのあるパトリックに恋愛感情を抱いていたミシェルの振舞いがありますパトリックを挑発したり自宅から向かいの家のパトリックを見ながら自慰行為をするなど

 

 

から ③ で積重ねられたトラウマによる復讐行為という筋書きは によってあっさりと覆されますこれについてはミシェルはレイプのトラウマより彼女の中の欲望が勝ってしまったんだ と解釈するしか出来ないでしょうただしこの解釈ではA の時点で 実はミシェルは再びレイプされる事を望んでいたかもしれない ( バーホーベンならそう考えていても不思議ではない ) というとんでもない帰結が導きだされる可能性がありますね

 

そこでバーホーベンはそれをはっきり言明せず曖昧なままにする ( 正面切って主張するにはスキャンダラスであるので ) ためにひねりを加えた次の展開に移行します

 

事件の後パトリックの妻だったレベッカが引っ越すシーン

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驚くべきはレベッカは夫のパトリックがミシェルを襲っていた事を知っていた のですレベッカの設定は敬虔なキリスト教徒だったのですが彼女の発言 ( シーン10. ) によってその背景に 夫の病的な性癖 ( レイプすることでしか女性とSEXすることが出来ない ) に悩んでいた 事が推測出来るというオチが付くのです

 

レベッカ "彼に応えてくれて感謝している" というセリフは一見するとミシェルの立場を考えない身勝手なものに思えるかもしれませんがレベッカは日常近所付合いでのミシェルのパトリックへの恋愛感情に気付いていたしだからこそレイプも彼の性癖を分かった上での "ゲーム的行為" であると考えていたと解釈出来る訳ですね

 

つまりここでのレベッカミシェルの隠された欲望の真実を明らかにする役割を果たしているのですだからこの時のミシェルは自分の本質を見抜かれてしまったとして普通ならば驚きや気恥ずかしさを表現しそうなものですがそうはならない

 

そこで終わらせないためにバーホーベンは事をさらに曖昧すべく冗長なひねりを加えます物語の核心を担うはずのミシェルとパトリックの組合せからラストにおいてミシェルとアンナの女性同士の組合せを登場させるのです ( *3 )それによって ミシェルの欲望の対象がパトリックからアンナへ移行している 事を示そうとします

 

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もちろんこの女性同士の組合せはレズビアンに他ならないのですがこのミシェルの振舞いはスキャンダラスというよりはほとんど支離滅裂なものになっていますね果たしてこのミシェルとアンナの組合せを登場させる必要があったのでしょうか映画の前半にはミシェルとアンナがかつてレズビアンであった事を仄めかすシーンがありバーホーベンは最初からこのラストのオチを考えていたようですが散漫な印象になっている事は否めないでしょう何せこのラストのシーン ( 22~26. ) においてすら2人が仲睦まじくし過ぎているという事で控えめな演技をさせたとインタビューで語っていたくらいですから

 

結果としてバーホーベンはより曖昧な方向に進む事を自ら選択しているのでありその曖昧さはストーリーを練り上げる上で必要な複雑さから来ているというよりは観客に解釈させず宙吊りにする事を好む彼の欲望から来ているといえるのです

  

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( *1 )

スターシップトゥルーパーズ ( 1998 )のグロシーンブレイン・バグスに脳みそを吸い取られるザンダー ( パトリック・マルドーン )

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( *2 )

氷の微笑 ( 1992 ) シャロン・ストーンが足を組みかえる有名なシーン。 

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( *3 )

氷の微笑 ( 1992 )にもシャロン・ストーン演じるキャサリン・トラメルとレイラニ・サレル演じるロキシーレズビアンの組合せが登場する。 

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 3章    バーホーベンの映画の本質である倒錯的形式

 

ようやくここから本題に入れるのですが以上で述べてきたようにバーホーベンの映画の特徴はエログロシーンと二転三転するストーリーの組合せという事で大方説明が付くでしょうそしてその組合せが上手く機能すれば面白い作品 (ブラックブック ) になるし上手くいかなければ駄作になるという具合です

 

しかしエログロシーンと転調的ストーリーとは結局の所観客の目を引く事と観客の解釈を拒否する事 ( 事実、バーホーベンはインタビューで映画を解釈する事に否定的な発言をしている ) でありその観客の鑑賞スタイルを操作しようとする製作スタイルにこそバーホーベンの欲望が潜んでいるといえます

 

このバーホーベンの欲望について考える上で "倒錯" の概念を参照しましょう倒錯といっても一般的には "正常な状態から逸脱した" という意味ですが精神分析的に考えると通常なら性器における直接行為で得られる快楽が性器に辿りつく前の別の箇所あるいは状況における行為によって得られてしまう事を意味します ( まあこの考え自体が精神分析において古いことは否めませんが )

 

もちろんそのままではここでの展開に適用出来ないので哲学的に考え直す必要がありますね映画を製作する人間は通常は自分の考え方や主張なりを提示する事に満足を見出すのでしょうがバーホーベンは違う彼は観客に対して提示したい考えや主張などのメッセージ性が最初にあるのではなくまず 観客の視線や反応解釈などの他者の即物性 を想定してそれを 裏切る映画を作る事に快楽を見出している

 

だから彼の映画にはいつもエログロシーンが登場して観客の反応や欲望を誘導しようとするし観客の解釈を裏切るべく二転三転するストーリー ( 時として不必要だと感じる時があるくらい ) を展開させるのです

 

つまり観客の反応や解釈などの他者の即物性を先取りしている事こそがバーホーベンのスタイルの本質になっている のであり通常ならば映画の根幹である脚本はそんな彼のスタイルの中に溶かされていくそのような 偏執的な先取りが既に本質になっている彼のスタイルは倒錯的である ( 気を付けなければいけないのは彼の人間性が倒錯的なのではなく、映画の製作スタイルが倒錯的であるという事 ) と言う他はなく映画自体が倒錯的形式で構成されてしまうのは必然的であると言えるでしょう ( )

 

 



▶ 手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(4)

 

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 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



a.   このテーゼの内容を掘り下げる必要があるでしょう。手紙が彷徨うとはどういう事であるのか? 受取られても逃げ去るのはなぜなのか? それは手紙の行程そのものに関わる問題でもある。手紙は一体何処に向かうのか? 宛名人に向かってなのか? 確かにそうでしょう。しかしそれは宛名人が最終の目的地である事を意味するのか? もしそうであるならば、"最終" とはいかなる意味でそうであるのか? 手紙の行程がそこで全て終わる事を意味するのか?

 

b.   確かに象徴的身振りとしては受取りは差出しから始まる手紙の行程を完了させるものです。しかし、その身振りは手紙の内容に同意するにせよ、しないにせよ、 受容れ( 受取りとは違う )を一旦保留する事を意味する行為でもある のです。とりあえず受取りました、あなたの気持ちは受け止めておきますという事であり、そこから先どうするかは受取人の自由なのです。

 

c.   そのような自由の行使権は、受取人が既に手紙の行程の一部として巻き込まれている事に対する抵抗でもあります。手紙における宛名の署名が受取人本人ではなく差出人によって先取りされているという受取人の自由の剥奪に対して、受取人は自分の自由を行使して対応・対抗する のです。受取人が手紙を受容れる ( これはもちろん手紙の内容に全面的に同意する事を意味するとは限らない ) にせよ、手紙の受容れを拒否する ( 自分を手紙の行程の最終目的地としての受取人になるのを否定する事 ) にせよ、それは受取人の裁量に委ねられている。

 

d.   そしてそのような余地があるという事は、手紙の受取りが行程の最終目的地とする見方が局地的・限定的である事を意味しているのではないでしょうか。手紙の受取りが差出人の行為に賭けられたものを全て返済するものであるというのは困難であるのではないでしょうか。というのは 差出しという行為は手紙の内容を含む差出人の固有圏域の唐突な送り出しであり、それに対して受取人はいかなる態度で対応すべきなのか即座に判断する事は困難である からです。それがプライヴェートなもの ( 愛の告白など ) であればなおさらそうです。

 

e.   それ故に、一度動き出した差出人の固有圏域は、受取人がそれをすべて受容れる事の困難さによって、受取を最終地点としてそこに留まる事が出来ずに通過する。それが手紙が彷徨うという事の意味なのです。そのような自らを受取ってもらえない事の報われなさは悲劇であるのでしょうか。いや、そうではありません。その報われなさは確かに差出人を気落ちさせるかもしれないが、それこそが個人の 固有圏域 がある事を示しているのです。

 

f.   それは報われなさという否定性から展開される弁証法的論理ではありません。報われなさの身振りとしての彷徨いは、幽霊が取り囲むかのように、個人の固有圏域に触れる。いかなるものによっても定義する事が困難な( なぜなら個人という言い方でも十分に個人的でないから )個人の固有圏域は、何処にも届く事なく、承認される事なく、見向きもされなくても、実在する。ただし彷徨いながらであるが。それは終わる事のない差出しとして人々の間を通過し漂流する、そうする事しか出来ないのです。なぜならいかなるものも個人の人生を定義出来ないし、いかなるものも個人の世界を知らないから、手紙を差出す本人以外は。しかし、ここで言う本人とは僕であり、あなたであり、すべての者の事であるのです〈 終 〉。

 

 

▶ 手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(3)

 

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 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



a.   宛先における〈 死 〉・・・それは宛名人の〈 死 〉なのです。差出人が宛名を書く時、それは自分の言う事を聞いてもらう、あるいは受取ってもらう、受け入れてもらう為なのですが、それは同時にそうしてもらわねばならない、それしか出来ないよう宛名人の自由を奪い受取りの行為のみに特化させる事、しかも宛名人の許可なく彼らの知らない間にする事でもあるのです。それは宛名人の立場を奪い、自由を奪い、可能性を奪い、意思を奪う、つまり知らない間に殺す事でもあります。この言い方が耐え難いのであれば、殺すのではなく、死んだ者として扱う事 と言い変えましょう。

 

b.   そのような罪なくしては、そもそもメッセージを伝える事など出来ないのです。相手の人生を中断して割り込み、そこに自分のメッセージを差し込む。自分の思いや悩みなどの個人的告白や事務的連絡であれ、メッセージを宛名人に送るというのは、たとえそれが相手に非礼がないよう敬意が持たれていたとしても、それ以上に自分への愛や忠実さがなければ実行出来ない行為であるという意味で 宛名人を自らの犠牲にする事 なのです。相手に迷惑であるのなら止めるべきだろうかという憂慮を振り切り、自分のメッセージに根拠や信用がある、あるいは宛名人とって有益であるとさえ思わせる盲目的な愛がそこにはあるのです。

 

c.   もちろん実際にはそのメッセージを受取人がどう受取ろうが、あるいは受取らなかったように振舞おうが自由であるのですが、手紙を差出す事は相手を知らない間に( 受取人だけではなく差出人自身にとっても )殺す事なくして不可能なのであり、それは死者に手紙を送る事なのであり、それ故に、実際にそれが必ず受取られてたとしてもその瞬間から手紙は逃れ去り漂流する といえるのです。

 

d.   そうすると、今では手紙は宛先に届くという命題を違う意味で肯定する事も出来るでしょう。手紙は宛先に届かない事もありえるという命題はそれに反するものではなく、まさに手紙が宛先に届く時に何が起きているのかを説明する のです。

 

e.   手紙は宛名人の所に到着する時をもってそれとして認識され、その行程を終了するように見えるがそうではありません。手紙が手紙として認識されなければ、それは一体何なのか。それは手紙と呼ばれるべきものではないのか。そのような事態は考えられるのでしょうか。

 

f.   手紙が宛名人において受取られ認識されるという行為は、手紙の差出とは全く別の事態であり、象徴界の一地点における出来事です。しかし手紙の行程において、その 差出という行為は、到着点において受取りという行為に自動的に切り替わるのではない のです。

 

g.   手紙が受取られたとしても、差出は消滅せずに自分に忠実であり続ける。手紙の受取りとは象徴界における必然的な出来事ですが、まさにその受取りという行為の必然性故に、それ以前の 手紙の差出という事実を回収できずに野放しにして彷徨わせ続けている のです、未だに。手紙の差出という事実は、それが宛名人において受取られたとしても、消去できず、未だ終わりなく彷徨い続ける。それは象徴界に安定的に登録される行為ではなく、未だ上手く定義出来ない〈 死 〉に関する行為であるが故に象徴界に安住する地を持たず、〈 幽霊 〉として漂うのです。

 

h.   ここにおいてテーゼを次のように書き換える事が出来るでしょう。手紙は宛先に届く。しかし届くや否や、それは逃げ去り彷徨い続ける〈 続く 〉。

 

 

 以下 ( 次回 ) の記事に続く。

 



▶ 手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(2)

 

f:id:mythink:20181009103356j:plain 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



a.   先に述べましたが、手紙の受取りが上手くいかない場合がありえるように象徴空間が十分に構造化されていないのであれば、事態はどうなるのでしょう。言語を媒介にした対人関係としての象徴空間においては、手紙という記号表現とその行程は人間関係という結びつきを保障するはずだと精神分析的には考えれられるはずです。しかし、同時にその記号表現は並行しているが故に上手く交わらない二つの事態、つまり〈 差出す事 〉と〈 受取る事 〉をも奇妙に結び付けている奇妙な記号表現だとも考えれられるのです。なぜ上手く交わらないのでしょう。〈 差出 〉から〈 受取 〉への行程とは見通しの良い舗装された純粋な交通路ではないのでしょうか。それともそこは気付かれずに通過されてしまうものがあるのでしょうか。

 

b.   まさしくそこで分岐点となるのは 文字としての〈 手紙 lettreの概念をどう考えるのかという事です。これをラカンが言うところのシニフィアンの物質性、つまり、分割不可能なものとしての 〈 手紙文字 〉の理念的同一性( lettre が 文字 という意味も持つことから手紙はバラバラになっても、つまり単なる 文字の集まり になっても手紙であるというラカン的解釈 ) として受け止めるのではなく、手紙の理念性から逃れていく文字それ自体の( シニフィアンの、ではない )物質性 として受け止めようと僕は考えます。

 

c.   〈 手紙は宛先に必ず届く 〉とは、主体へと円環状に向かい再自己固有化する記号表現の理念により普遍的なものにまで高められた精神分析の公理ですが、もし文字としての〈 手紙 lettre 〉が記号表現という普遍性の中においてその理念を保障する特殊なものではなく、〈 手紙 - lettre 〉から〈 文字 - lettre 〉へと自らの属性を "分割・分離" して普遍性から遠ざかっていく特殊なもの であるとしたら、どうでしょうか。

 

d.   記号表現の換喩的な横滑りの行程には乗らずに、〈 手紙 - lettre 〉という理念を、他性的( "手紙" から見て )なものとしての物質それ自体である〈 文字 - lettre 〉へと転移させる 事で、自らを保留し何者からも離れて宙吊りにする。それは 切り離され何者も手を出せないひとつの "物質性" となって 書き込まれた事実 を示し、そのような 書き込むという行為 があった事、そして そのような行為を成した者 を浮かび上がらせる。私であれ、あなたであれ、〈 書く 〉という行為はひとつの事実を産み出す事であり、〈 文字 - lettre 〉とはたとえそれを書き込んだ者が消えてしまおうとも、自らの "痕跡" を刻むもの なのです。そしてそこからその事実に関わるものを生起させるのです。

 

e.   その意味でそこには〈 〉がある。〈 書かれたもの 〉という事実とともに、あるいはその傍らに、書き込む者の〈 死 〉だけではなく、書き込まれた者( つまり宛名 )の〈 〉もある・・・。

 

f.   これはジジェクが言うような〈 死 〉が私達すべてに訪れるという意味で〈 手紙=死 〉は必ず〈 宛先=私達 〉に届くという事ではありません。洗練されているように見える考え方ですが、〈 象徴的負債=死 〉の清算とは誰にでも共通して平等に訪れるという意味で不安を煽りながらも予定調和的な〈 死 〉でしかありません。しかし〈 宛名 〉における〈 死 〉はもっとラディカルな事態を示しているのです〈 続く 〉。

 

 

 以下 ( 次回 ) の記事に続く。

 



▶ 手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(1)

 

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a.   エドガー・アラン・ポーの小説『 盗まれた手紙 』の読解から引き出した〈 手紙は宛先に必ず届く 〉という精神分析ジャック・ラカンのテーゼとそれに対する〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉という哲学者ジャック・デリダのアンチテーゼは、かつて興味深い対立のひとつでした。

 

b.   ラカンの影響力により、〈 手紙は宛先に必ず届く 〉というテーゼは精神分析的でありながらも哲学の圏域にも入り込んでくるものだった。そしてそのテーゼに対して〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉と デリダが言った時、そこで何が起こったのか。そのテーゼの中には精神分析概念の支配からは逃れていく別のものが紛れ込んでいる事を示したと言えるのです。テーゼが完成され閉じられてしまう前に、そこに異質なものがある事を示してテーゼを保留状態にしまうという異議申し立てでもあったのです。しかし〈 手紙は宛先に届かない こともありうる 〉とは何を示しているのか。これについて僕の考えを述べ、さらに展開していこうと思います。

 

c.   〈 手紙は宛先に必ず届く 〉というテーゼは、手紙がひとつの記号表現として、それの受取手である主体に向かう行程における転移関係によって構造化されていく象徴空間を示している。それは "記号表現"の大いなる行程とその主体への最終的帰着であり、記号表現というラカン的論理の軌跡が各対人間における転移関係を分配するという象徴空間の編成を描いているとさえ言えます。

 

d.   では逆にそのような転移関係から免れた、あるいは "上手くいかない" 象徴空間 は少なくとも精神分析といえるでしょうか。少なくともそのような象徴空間が 一体何を意味するのかを詳細に分析する事は、治療という限定的意味での精神分析的身振りには収まりきれないものを明らかにする事ではあるかもしれません。

 

e.   〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉、 それがもし転移関係が上手く構造化されない象徴空間もありえる、つまりラカンのテーゼが精神分析的に十分ではないという主張ならば批判的でありながらも、その立場は精神分析の一派に過ぎないものという事になるでしょう( 実際にそれを名乗っていないとしても )。しかし転移関係が上手く構造化されない象徴空間が、精神分析概念でありながらも精神分析が "全て" を囲い込む事の不可能性を示しているとすれば、それは自らの要素 ( シニフィアンなど ) の動きが予期出来ない場合がある事、つまり受取り手としての主体である 宛先に届かない事、に影響されているからではないでしょうか。その予期出来ない場合がある事によって象徴空間は十分に構造化されず、転移関係が行き渡らない事もあるのではないかと考える事も可能なのです。

 

f.   その前に〈 手紙は宛先に必ず届く 〉についての考え方に触れてみましょう。一見洗練されているように思えるが実は十分ではない考え方はこうです。

"手紙はそれが受け取られた主体においてその宛先が自分であるのだと認識される事によって初めて手紙となる"

しかしこういう手紙が届く事の必然性を説明する事後成立性の遡及効果は認識論的なものであり、既に届いてしまっているものの事しか、届いた後でしか、言及出来ない。つまり、それは手紙の "誤配" ( 言うまでもなく東浩紀によって概念化された ) により届かなかったものについては言及出来ないし、そもそも 手紙が出されたどうかすら永遠に気付かれないまま でいるかもしれないのです。

 

g.   この点からするとスラヴォイ・ジジェクの回答はもっと洗練されている。彼は手紙を入れた瓶を無人島から海に流すという例えで、実際には届かないかもしれないが海に流した瞬間にそれは象徴的なものとしての受取人である大文字の他者に届くというのです。受取人側の行為に基づくのではなく、差出人の手紙を出すという行為自体が既に〈 手紙は宛先に必ず届く 〉の象徴的行程として既に確定されているという訳ですね〈 続く 〉。

 

 

 以下 ( 次回 ) の記事に続く。

 

 

▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学-(10)

 

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   ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(9)からの続き。



 10.   複数性としての幽霊 ②

 


a.   幽霊的なものの特徴は、時間的にも、場所的にも、複数的である可能性を保持しているにも関わらず、それらを束ねて単独的であるかのように振舞える事です。しかし、複数可能性を束ねるこの単独性、つまり、一者の効力は何に起因するのでしょう? それがなければ、何に対しての複数的であるのか分からなくなり、複数可能性は文字通り複数的なものとしてばらばらになり、もはや複数である事さえ分からなくなる。

 

b.  ならば、ひとつであるとはどういう事なのでしょう? 幾つかの数のまとまりが、複数的なものであると言うには、一者への対自性を獲得しなければならないが、問題は 一者が複数的なものからどのようにして出現するのか なのです。もし、一者が最初から複数的なものとは別に無条件にあるというのなら、それは間違っている。なぜなら、自らを一者とする為には、自らの単独性を証明するための判断基準としての複数的なものが隣接していなければならないからです。

 

c.   一者の出現は複数的なものを背景とするが、この一者を複数的なものとは全く別のものと考えてしまうと、一者は神的なものとして知的保留を示す標識でしかなくなってしまう。一者は同質の傾向性を共有する幾つかの数のまとまりが自らの運動の中で自らに向かう対自性を獲得しようとして自らを自己疎外する時に出現する。これは自己という対象が自らの元にはなく、自己に先立つ対象化の作用によって自らの元から離れることによってしか成立しないのと同様です。

 

d.   重要なのは、ここで出現する自己が、実在する個体ではないという事です。それは実在の個体ではないが、実在の個体の中で経験される対象からの反照であり、不可視のものとして存在する精神の経験なのです。自己という対象が自らの元にないという事は、実在の個体は自己であろうとする限り、永遠に自己という対象には到達出来ず、離れているしかない事 を意味する。

 

e.   複数的なものが自らに到達出来ない運動の中で、その近づき得ない距離それ自体が疎外された時単独的なものとしての一者が出現した といえるのです。それ故に、複数的なものは自己の運動として一者に向かう

 

f.  だが、その時、一者は既に実在する個体とは別のものであり、精神が全体的運動の過程において個体に留まる姿、すなわち幽霊なのです。そして、我々とは、実在する個体において経験される幽霊であると言えるでしょう ( 終 ) 。