〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー〈 1 〉

 

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 1. 精神とは幽霊ではないのか?

 

a.   ヘー ゲルにおいて〈 精神 〉とは〈 幽霊 〉の意味を含んではいないのでしょうか。なぜ、そう考えるかというと、ヘーゲルが強力に練り上げた概念である精神、そのドイツ語が持つ意味のひとつとしてあるはずの幽霊が文字通り幽霊的に彷徨っているからです。それはドイツ語だけではなく、英語やフランス語のヘー ゲル翻訳においてもそれは自らの居場所を消して〈 幽霊 〉として彷徨っている。しかし、それはヘーゲルが精神の語から〈 幽霊 〉を意図的に排除したからではなく、自らの哲学のために精神を純粋概念として抽象化した結果としての事だといえます。それは哲学的概念の練上げ作業の過程において、創造された概念としての〈 精神 〉に別の意味( この場合は幽霊 )がまさに幽霊的に付き纏っているという事にもなるのです。

 

b.   ヘー ゲルは間違いなく〈 精神 〉という哲学概念を創り出した。ヘーゲル自らの哲学的意図で精神の持つ幾つかの意味から〈 知 〉を抽出して概念として抽象化した、彼の主観的思考によってという条件付きで。

 

c.   というのも〈 精神 〉という言葉の特殊な使用法( 哲学的な意味での ) が意味の主観的選択によるものでなければ、主観以前に先験的にプログラム化されている事はありえないからです。言葉を一定の方向=意味で使用するには、個人の主観的思考抜きにはありえないし、 主観的思考でもって言葉に一定の方向=意味の負荷を与えなければ言葉を使用して哲学的作業を行っていく事は出来ない、どのような哲学者であれ。もし精神という言葉がヘーゲルの哲学的叙述において、主観的使用法とそれ以外の意味が彼の意図に関わらず常に拮抗する事態になってしまうとすれば、精神がある時は知であり、別の時には幽霊であるというようになり、その恣意的な意味の交代は哲学作業の構築を不可能にするでしょう。なのでヘーゲルの〈 幽霊 〉という意味を消した〈 精神 〉という語の主観的使用は哲学的戦略上、当然の事だといえますね。

 

d.   それでは精神の傍らにある〈 幽霊 〉という意味的参照項は、〈 精神 〉という概念の方へより接近していく事は出来ないのでしょうか。先程述べたように〈 精神 〉という語の哲学的使用が主観的なものに支えられているのである限り、それは語の一般的意味性を土台にしている事からは逃れられない。

 

e.   まず、出発点においてヘーゲルによる精神という語の哲学的使用は一般的意味性に対する特殊なものであり、ヘーゲルはその特殊を最終的に哲学的個物という普遍的次元にまで高めた。その時、問題であるのが元の普遍性である一般的意味性の中に含まれる〈 幽霊 〉がそれにどう関係するのかという事です。いや、もっと正確に言うならば、〈 精神 〉という哲学概念 としての新たなる個物の普遍性は、一般的意味性という元の普遍性との関係が曖昧でなのであり、その曖昧な関係性こそが幽霊的だといえるのです。なぜ曖昧なのかというと、それこそまさに〈 精神 〉という概念の本質、つまりその哲学的運動の特性に関わるからです〈 続く 〉。

 



 次回 ( 以下 ) の記事に続く。

 

▶ アンジェイ・ズラウスキーの映画『 シルバーグローブ 』( 1989 ) を哲学的に考える

 

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監督   アンジェイ:ズラウスキー  
公開   1989 年  
原作   イェジー・ズラウスキー  ( 『 月三部作 』)
製作国  ポーランド

 



 1章 『 シルバーグローブ 』の成り立ちと演出

 

映画『 シルバーグローブ 』は、アンジェイ・ズラウスキーの大叔父であった イェジー・ズラウスキー ( 1874~1915年 ) ( A ) が発表したSF小説『 月三部作 』の第一部『 Na srebrnym globie ( 銀の惑星で ) 』( 1903年 ) と第二部『 Zwycięzca ( 勝利者 ) 』( 1910年 ) を原作としています ( B )。もちろん映画『 シルバーグローブ 』のタイトルは、『 月三部作 』の第一部『 Na srebrnym globie ( 銀の惑星で ) 』から来ているという訳です。

 

ただし、この映画を見た人なら分かると思いますが、SF的なのは設定だけで中身は全く違う。これは原作に基づいた脚本を正確に表現していくような映画ではなく、俳優に振り切った演技をさせる事で "過剰性" を演出する演劇的映画 ( C ) なのですね。それこそがアンジェイ・ズラウスキーならではの演出方法であり、そこではSF的設定は俳優が演技する上での必要な枠組みでしかなくなっている。なので設定やストーリーを理解しようとすることに気を取られて、この映画の特異性を見失わないようにしたいですね。

 

とはいえ参考のため、ストーリーを要約しておきましょう。ある惑星に不時着した宇宙飛行士の内のピョートルとマルタから始まる子孫が、巨驚異的なスピードで数世代まで増えていき、宗教的とでもいうべき集団を形成する。宗教的というのは、彼らの父であったピョートルを殺しマルタを大いなる母とする父親殺しの神話をなぞる行動と、新たに到来した宇宙飛行士マレックを半人半鳥の民族シェルン (D ) との戦いのための救世主として崇めるという身振りから示される。そのマレックもシェルンとの戦いの後で、十字架に磔にされて仲間達に殺される・・・。

 



 2章 『 シルバーグローブ 』のメタ映画的視点

 

この映画の内容で特徴的なのは、ある惑星 ( 原作では月だけど映画では明言されていない ) に到着した宇宙飛行士たちが惑星での生活を小型カメラで記録する ( 原作ではヤン・コレツキーの手記 ) 事です。最初はマルタとピョートル ( 原作ではペドロ ) が、そして彼らからカメラを取り上げたイェジー ( 原作ではヤン・コレツキー ) が記録を続ける。それを小型ロケットで地球に届け、それを見たマレックがその惑星に仲間を探しに来るという流れになっている。

 

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原作ではコレツキーの手記という形が、映画ではイェジーによるカメラでの記録という形に変わっているのですね。これだけだと現代風になっただけではと思うかもしれませんが、ここにアンジェイ・ズラウスキーは大きなひねりを加え、彼ならではの演出を行います。そのひねりとは、ストーリーの進行上必要なのかと思われかねないのですが、カメラに向かって俳優に哲学論と俳優論を語らせることによって "メタ映画的視点 a " ( 5~17. ) を映画の中に導入してしまう事です。

 

地球に思いを寄せ哲学を語るイェジー

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地球に思いを寄せ哲学を語るイェジー

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突然語られる俳優論・・・

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これは非常に興味深い事です。というのも、この映画が撮影中止に追い込まれた旨のナレーションが冒頭から入り、ラストでもズラウスキー本人が出演し撮影中の1977年にポーランド文化省から撮影中止に追い込まれた事が語られるという事実に基づいた "メタ映画的視点 b " ( 18~23. ) がやはり導入されているからです。

 

この ab の双方のメタ映画的視点の存在をどう理解すべきでしょう。少なくとも、撮影時の a の時点では 後年の b のきっかけとなる撮影中止を予期出来るはずもなかったので a b の並列は偶然的だと考えるべきでなのでしょうか。いや、そもそも唐突な a のメタ映画的視点がどうして必要だったのかを考えてみると、それらが偶然ではなく、なるべくしてなった結果だという事が分かるはずです。

 



 3章 メタ映画的視点の出現する背景

 

一言でメタ映画といっても、それが映画の中の映画なのか、監督の自伝的要素が込められたという意味での自己言及的映画なのか、あるいはそれらが混ざった映画なのか、と様々な見方が出来ます。ここで僕の関心を惹くのは、監督の自伝的要素の強い自己言及的映画なのですが、自伝的要素と言うと聞こえは良くても大概は夫婦関係に問題があるパターンが多い ( 苦笑 )。

 

自己言及的映画というと、ジャン・リュック・ゴダール の『 軽蔑 ( 1963 ) 』を挙げておきましょう。この映画は、女優アンナ・カリーナと結婚したばかりのゴダールが彼女との上手くいかない当時の状況 ( 1965年に二人は離婚 ) を反映させています。こういうエピソードは作品の裏側にあるものとして語られたりしますが、それは作品の創造過程の余白に書きとめられる類のものではなく、それどころか創造性の不安定な起源であるとさえ言えるのです。

 

夫婦同士の揉め事が続いていても、仕事を休む訳にはいかないし、子育てを止める訳にもいかない。解消する事の不可能な不安定さが行き場を失くし、くすぶり続ける。もう既に夫婦の絆など壊れている事は分かりきっているのに、その崩壊の現場に居続けることの苦痛。そして自分が否定されていると感じずにはいられない苦痛・・・。

 

そのような不安定さは、現実の夫婦関係においては解消できない困難でも、創造的的活動においては、驚くべき集中力の源泉になる事がある。自分の人生の一部が既に壊れているのに、逃げることが出来ず、それと背中合わせになった時、人は自分を創造的活動の方に押し出す事が出来る、まるでその不安定さから力を借りて来ているかのように・・・。

 

それが『 軽蔑 ( 1963 ) 』の時のゴダールであり、『 シルバーグローブ 』の脚本執筆時に妻マウゴジャータ・ブラウネックと離婚したアンジェイ・ズラウスキーだった。おそらくこの時、ズラウスキーは映画製作を通じて意識的に自分の映画監督としてのアイデンティティーを強化する選択をした事は容易に推測出来ます。映画の中で唐突に語られる哲学論、俳優論、そして俳優達によるSF映画どころか、暗黒舞踏的ともいえる振り切ったパフォーマンス ( E )・・・およそこれらはズラウスキーの強力な主導権の痕跡であり、自己言及的なメタ映画であるとも解釈出来るのです。

 

そうズラウスキーはこの映画を通じて夫婦関係において壊れた自分のアイデンティティーを回復しようとしたのであり、だからこそ1977年にポーランド文化省によって制作中止に追い込まれた後でもこの映画に執着し、1989年の公開に漕ぎ着けた。自分のアイデンティティーを喪失する訳にはいかないという事で。何よりもこの映画のラストでのズラウスキー自身の言葉 "私はアンジェイ・ズラウスキー。『 シルバーグローブ 』の監督だ" がその事を示していると言えるでしょう。

 

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( A )

『 シルバーグローブ 』は難解な映画だと言われますが、大まかなあらすじを理解する上で一番いいのは、ウィキペディア イェジイ・ジュワフスキ のページ、特に小説 ( 念のためですが映画とは細部で違いがありますので ) の項目 ( 月三部作 ) を参照する事でしょう。それを念頭において映画を見れば、原作との差異を認識しながら整理をしていく事が出来ると思います ( 日本ではマイナーな作家なので再編集されて内容が大幅に変更される事はほとんどないでしょうから )。それと共に、若い頃にベルン大学でスピノザの論文で博士号を取り、ニーチェショーペンハウエルポーランド語訳を出したり、『 月三部作 』でスタニスワフ・レ ( F ) に影響を与えるなど、イェジイ・ズラウスキーが知的教養のある人物であった事がわかりますね。

 

(B )

ほとんど気付かれる事がないが、イェジイ・ズラウスキーと同時代を過ごした作家が同じくポーランド出身のイギリスの作家、ジョゼフ・コンラッド ( 1857~1924年1884年イギリスに帰化 ) です。16才でポーランドを出て船乗りとなった彼の作品は、帝国主義時代の雰囲気を漂わす冒険文学 ( そこに東欧的なものはほとんど感じられない ) ですが、航海先の現地民族の中でただ一人の別民族である男の英雄としての一生を描くという紋切型モチーフ ( 『 闇の奥 』1899年、『 ロード・ジム 』1900年、など ) はZwycięzca ( 勝利者 ) 』( 1910年 ) のマレクの一生と共通していて興味深い。コンラッドについては以下の記事を参照。

 

 

(C )

過剰性の演出という事であれば、 アンジェイ・ズラウスキーの『 ポゼッション 』におけるイザベル・アジャーニサム・ニールの狂気の演技を思い浮かべれば十分でしょう。この過剰性こそが彼の映画の特徴であり、そのために俳優を追い込んで演技させることも彼は厭わない。イザベル・アジャーニはあるインタビューで "監督の要求は暴力的で、あの作品でやったようなことはもう出来ない" と言っている。

 『 シルバーグローブ 』でマレク役のアンジェイ・セヴェリンも "監督は気難しく要求も厳しかった。この撮影以降はどんな相手とも仕事が出来ると思ったくらいだ" と言っている。

 そしてズラウスキーの晩年の制作助手であり、『 シルバーグローブ 』のデジタルリマスター版の作業に関わったダニエル・バードも『 映画秘宝2018年7月号 』のインタビューで "映画監督は、まるで攻撃的な生物とかテロリストのような生き物であり、自分で作った爆弾を爆発させる存在なんだ。観客に刺激を与えるのが映画監督の仕事なんだ " というズラウスキーの言葉を語っている。

 

 ( D )

シェルン・・・異形の怪物を何のためらいもなくあっさり登場させる所はズラウスキーらしい。これを見て同じくズラウスキーの 『 ポゼッション 』でイザベル・アジャーニとセックスする怪物を思い出すのは僕だけじゃないでしょう。『 シルバーグローブ 』でもシェルンと女性がセックスするシーン ( 過激なものではない ) がちょっとだけありますからね。

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(E )

マレクを救世主と崇め、彼を取り囲む白塗りの人の群れ・・・これはもう映画というより舞台を見てるような気分になるシーンです。 

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そしてここで突然の俳優の自己言及的演技・・・ぶっ飛んでますね。

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( F )

スタニスワフ・レムといえば、やはりSFの古典『 ソラリスの陽のもとに 』でしょう。それを映画化したアンドレイ・タルコフスキーの『 惑星ソラリス 』については以下の記事を参照。

 

僕の記憶に残したいモーショングラフィックを使用したしたミュージックビデオ:U2 の "Get On Your Boots ( 2009 )"

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■   2009年に発表されたU2の12枚目のスタジオアルバム『 No Line on the Horizon 』からの1st シングル "Get On Your Boots" のMVを紹介する・・・というか自分のための備忘録として記録しときます。何回も見たMVだけど、このMVのモーショングラフィックは本当に印象深い。フランスの映像作家の Alex Courtes と Martin Fougeral1 】 によるこのMVの総制作費が5億円って聞いた時驚いた、だって映画じゃなくてたった数分のMVですよ。でも、MV制作に5億円払えるミュージシャンも U2 しかいないよなって変に感心もした (笑)。

 

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U2 の "Get On Your Boots"

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   このMVはたんなるモーショングラフィックではなく、U2 の演奏と絡めたスペーシーでサイケデリックなグラフィックがカッコよく仕上げられている。ここまでカッコいいのはそう見られるものじゃないでしょう。

 

   ギターのエッジは『 男達は、物事をどんどん悪くしていく、政治的にも、経済的にも、社会的にも、だから、今こそ物事の実験を女性に渡すべきなんだというアイディアが元になっているんだ。完成したビデオは本当に素晴らしいよ。釘付けになるね。』とコメントしている。たしかに背景には女性の姿が多く見られる。

 

 

 

 

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【 ※1 】

   ちなみにMartin Fougeral は B'z の『 SUPER LOVE SONG 』のMVも制作している。

 

 

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▶ タル・ベーラの映画『 ニーチェの馬 』を哲学的に考える

 

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監督   タル・ベーラ  
公開   2011年
脚本   タル・ベーラ  
     クラスナホルカイ・ラースロー
出演   デルジ・ヤーノシュ  ( 父 )
     ボーク・エリカ    ( 娘 )

 

 

ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるためでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 



 1章  ニーチェは関係ない …

 

ニーチェの馬 』・・・この邦訳タイトルは多くの人 ( 哲学の教師でさえ ) を勘違いさせるかもしれないこの映画はニーチェの思想と何か関係があるかもという具合にまた映画の中身を見ても人によっては父と娘の静かな生活の繰り返しがニヒリズムまたは永劫回帰を表していると解釈し無意識的にニーチェ的方向に傾いている事に気付かない場合もあるかもしれない ( *1 )

 

しかしこの映画はニーチェ的思想とは何の関係もないとはっきりさせておくべきであってニーチェという単語から即座にニーチェの思想をこの映画に見ようとするのは残念ながら短絡的でしょう端的に言うならこの映画は人間が "" へと向かい消滅する生き物でしかない 事を静かに示す映画なのですねそうこの映画はニーチェというよりは "ハイデガー的モチーフ" に貫かれています父と娘の質素な田舎生活いうことを聞かない馬そんな貧しさを写すモノクロの世界・・・それらは静かな感動を呼ぶのと同時に貧しさと慎ましさの中から哲学的真理を開示しようとするハイデガーの姿勢に危険なくらい近いかもしれない哲学的な意味で ( *2 )

 

話を戻して紛らわしい『 ニーチェの馬 』という邦訳タイトルをどう解釈すべきか考えましょうたしかに映画の冒頭で1889年にイタリア・トリノの広場で動かなくなった馬が御者に鞭打たれている所にニーチェが駆け寄りその首を抱いて涙しそこから発狂していったというエピソードがさしこまれているそしてその後その馬がどうなったかは分からないという一文が付け加えられてますね

 

ニーチェ的補助線に頼りたくなるかもしれませんがこの一文によってこのエピソードにおけるタル・ベーラの興味は  ニーチェから既に "" に移行している 事が分かる ( ニーチェを余り知らない人は、このエピソードでニーチェに興味を抱くでしょうけど )ここで馬がタル・ベーラの興味を引いたのはニーチェのように感傷的な対象としてではなく ( タル・ベーラはセンチメンタリズムが嫌いだと言っている )"動かない馬" が人間のそばにおいてその "終末" を予感させる何物かであると解釈した からでしょうだからこそこの映画のハンガリー語原題はA torinói ló 』、つまり、『 トリノの馬になっているという訳です

 

タル・ベーラが馬を使って試みたのは人間の終末についての映画なのですがわざわざ馬を使わなきゃ人間の終末は描けないのと思う人もいるでしょうけれど彼がおそらく漠然と描いていた終末論にインスピレーション与えたのはニーチェの発作エピソー ( *3 ) であり彼はそれを強引に解釈して作品の形式を考えたと言うべきでしょうなので彼の中では馬があってこその終末論的作品を作るというのは筋が通っているのですね

 

( *1 )

Amazonのレビューを見ればこの映画を素朴にニーチェ的に捉えようとする人の意見が多いことが分かりますね

 

( *2 )

何が危険かというと哲学者の学説と本人の人間性が乖離している事は珍しくないがハイデガーの場合はそれが極端だった存在の概念を考え抜いた20世紀最高の哲学者はナチ党員であり ( 一時期だけど )反ユダヤ主義の要素も持ち合わせていたし不倫もしていたそんな彼は貧しさや質素さの中から "存在" を開示する哲学的叙述を行っておりそれが "本物" であるかのような印象を与えていた・・・。そんな哲学的学説を展開する一方で本人の人間性がそれを裏切る場合のある事をハイデガーは証明してしまったのですねもちろんそれによって彼の学説が全て否定される十分な理由にはならないのは強調しておかなければいけないけど貧しさや素朴さは単純に感動されるべきものではなく隠された緊張状態がそこに潜んでいる 事に注意すべきです

 

( *3 )

そしてニーチェのエピソード以上にタル・ベーラにインスピレーションを与えたのはロベール・ブレッソンの『 バルタザールどこへ行く ( 1966 ) 』であるのは間違いないでしょう ( まあ、こっちはロバですけど )彼はイギリスの映画雑誌 "Sight&Sound" の自分が選んだオールタイムベストに『 バルタザールどこへ行く 』を入れたくらいですから

 



 2章  終末論的映画〈 ※4 〉としての『 ニーチェの馬

 

もう既に述べてますがこの映画って終末論的映画なんですね映画は旧約聖書の創世記になぞらえて6日間の章分けで構成されていますただしそれは創世記の逆ヴァージョンであり終末に向けての6日間となっていますそして付け加えておかなければならないのはこの映画の終末論は信仰のある人間は助かるというような救済のある聖書的な終末論とは一線を画しているという事ですここでの終末論は・・・人間という "存在" それ自体が "" に向かうもの であり救済などという 余りにも人間的なもの (  ニーチェ的表現を使ってしまった・・・) が入る余地がないものなのです

 

1日目の章からの数ショット

( 1 ) ジャガイモの水煮

( 2 ) 娘が父と自分の分ふたつを大皿に取る

( 3 ) テーブルに置かれたジャガイモ・・・このゴッホ的なショット

( 4 ) ジャガイモを食べる父

 

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 2日目の章からの数ショット。

通りすがりに酒を求めてきた男と会話をする父。男は町が吹きすさぶ風によって駄目になったから田舎のここに来たと言う。そしてその惨状の原因が人間自身にあると続ける。

 

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4日目の章からのショット 

井戸の水が枯れてしまい生活が出来ないので他の場所に移動しようとするものの父は高齢で馬は言う事を聞かないので娘が荷車を引くはめに・・・。でも女性がずっと引き続けられるはずがなく家に戻ってきてしまうちなみに馬が馬車の役割を果たしていたのは映画の冒頭で父が外から家に戻る時だけで後はずっと言うことを聞かない

 

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5日目の章からの数ショット

( 12 ) 父と娘の食事でも父は食事が進まない

( 13 ) 食事を途中で止めて窓際に座る父

( 14 ) じっと外を見る

( 15 ) ランプに火を点けようとしても上手くいかないここから画面が徐々に暗くなる

 

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6日目の章からの数ショット

( 16 ) 父と娘の食事食べようとしない娘に父は "食え"

( 17 ) それでも食べない娘に父は "食わねばならん"でも娘は食べない・・・。

( 18 ) その後画面は全て黒くなりエンディングとなる

 

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父と娘の食事・・・ここでのそれは食文化へと昇華されたものからは程遠い原始的な営みでしかなくなっているもう他にすることが何もなくても食べるしかない食べないと死ぬしかし娘はそれを拒否するいや諦めて終末を受容れていると言った方がいいでしょう

 

ジャガイモだけの食事のこのシーンは余分なものが削られた最低限の営みでしかないという意味で終末の1歩手前にいる人間の "存在" を描こうとしているしかしこのシーンだけでは人間の "存在" を浮かび上がらせることは出来ない

 

このシーンに続くブラックアウトの画面において人間の存在を描くことに成功するつまり 終末という次元を超えた "" こそが人間の "存在" を浮かび上がらせる事が出来る のですかつてそこにいた人間がもういない・・・今はそこに無 〉 があるしかしその 〈 無 〉はかつて人間がいたからこそ "認識" される なのです。〈 が文字通りに 無 であったとしたらもはやそれは であると認識されることさえないでしょうつまり、〈 あると認識される事柄の中には文字通りの ではない 何か ある のです は何物か である のです誰かがこの世からいなくなったとしてもその時そこには、誰かが消滅したという物理的な無を越えた〈 無 〉 の現実的形象としての〈 存在が現れる存在 とは〈 無 〉がそこに ある 事を原理的に示す哲学的真理 なのです〈 終 〉

 

( *4 )

終末論的映画という事であればラース・フォン・トリアーの『 メランコリア 』を参照する必要があるでしょう

 

 



記憶に残したいシンガー〈 クリス・コーネル 〉

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以前このブログの記事

f:id:mythink:20210503025937j:plain 僕を楽しませてくれた映画『 007 カジノ ロワイヤル 』のオープニングをクリス・コーネルの死から再び見直した

クリス・コーネルについて触れ

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain 記憶に残したいグランジロック〈 サウンドガーデン 〉

でクリスの出発点であるグランジバンドのサウンドガーデンについても触れましたのでここで彼のソロアルバムについて語っておきますね

 

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 1.   Euphoria Morning 』

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f:id:mythink:20210503025937j:plain Euphoria Morning 』、1999年に発表されたソロアルバム1作目。"Euphoria Morning"・・・文字通り訳すなら "朝の幸福感" というところでしょうでもアルバムを聞けば分かるけどそれは幸福が溢れているというよりはクリス・コーネル自ら創りだした世界に心ゆくまで浸るという内省的な幸せに包まれている感じですね曲調としてはサウンドガーデン時代のアルバムに入っていてもおかしくないような曲 ( 彼らのアルバムの中にしばしば見られるクリスの内面を掘り下げたようなもの ) がソフトなロック調になったものといえるでしょう彼のシンガーとしての才能を再認識させてくれるほとんど捨て曲の無い名盤

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain サウンドガーデン時代には見られなかった癒しの雰囲気があるアートワーク

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f:id:mythink:20210503025937j:plain Chris Cornell  "Can't Change Me"  fromEuphoria Morning 』

アルバムの冒頭を飾ったヒット曲

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain Chris Cornell  "Preaching the End of the World"  fromEuphoria Morning 』

アルバム製作時にクリスがあまりにもありふれた曲調だとしてアルバムに入れるのを躊躇した曲確かにサウンドガーデンっぽさはほとんどない普通の曲だがその装飾のないシンプルさが心に響く1曲



 

f:id:mythink:20210503025937j:plain Chris Cornell  "When I'm Down"  fromEuphoria Morning 』

この曲を聴くと彼がグランジ出身とかそれを捨てようとしていたとかそんな類の話なんてどうでもよくなるくらい純粋に彼の歌声を堪能できる素晴らしい1曲



 

f:id:mythink:20210503025937j:plain Chris Cornell  "Wave Goodbye"  fromEuphoria Morning 』

親友であったジェフ・バックリィ ( 1997年にミシシッピ川で溺死 ) に捧げた曲



 

f:id:mythink:20210503025937j:plain Chris Cornell  "Sweet Euphoria"  fromEuphoria Morning 』

後年のソロアルバム『 Higher Truth 』の萌芽とでも言うべきブルースロック調の味わい深い1曲



 

 

 2.  『 Carry on 』

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f:id:mythink:20210503025937j:plain 『 Carry on 』、2007年に発表されたソロアルバム2作目1枚目のEuphoria Morning 』が内省的なアルバムであったのに対しこちらはロックンロール調 ( あくまでクリス・コーネル流だけどね ) でまとめられた秀作悪くはないのだけどEuphoria Morning 』の出来が良すぎたものだからちょっと物足りなさが残るかもそんな中でも『 You Know My Name 』だけは突出しているこの曲のために他の曲があるといってもいいくらいのカッコよさ。『 007 カジノロワイヤル 』で主題歌として聞きそのためだけにアルバムを買った人もいるでしょう

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain アップに耐えられる顔のカッコよさでいっぱいのアートワーク渋いね

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f:id:mythink:20210503025937j:plain Chris Cornell   "You Know My Name  from 『 Carry on 』

このMVでの髪を逆立てたクリス・コーネルを見て映画ファイトクラブ ( 1999年 ) 』の頃のブラッド・ピットを思い出したカッコいいね

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain Chris Cornell   "Billie Jean  from 『 Carry on 』

このアルバムで "You Know My Name" と並んで聞き応えのある1曲マイケル・ジャクソンのカバーだけどクリス・コーネルの世界観でブルージーに歌い上げた傑作



 

 

 3.  『 Scream 』

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f:id:mythink:20210503025937j:plain 2009年発表のソロアルバム3枚目の『 Screamラッパーであるティンバランドがプロデュースしたことでも話題になった作品ティンバランドのプロデュースということから分かる通りこの作品はデジタルロックあるいはデジタルR&Bというべきデジタル感満載の仕上がりになっている故にそれまでの路線とは違うということから賛否両論となった

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain ティンバランドがプロデュースしたジャスティン・ティンバーレイクの作品のように彼のプロデュースとはミュージシャンの能力 ( 歌やギターが上手い、楽曲がカッコいい ) を前面に出すロック的なものではなく打ち込みのビート様々な効果音などを駆使したクールなデジタル空間 ( ヴォーカルもその中の 1要素 ) を包括的なものとして提供するところに特徴 ( いわゆるヒップホップ的手法 ) がある

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain なのでティンバランドクリス・コーネルにいかに敬意を持っていたとしてもそもそも彼のやり方はクリスの能力を全開に引き出すロック的なものではないのでつまらないという批判 ( 気持ちは分かるけどね ) は1, 2枚目のソロアルバム側の視点に立っているに過ぎずこのアルバムについては何も語っていないのと同じということになるでしょう

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain アルバムの内容と噛み合っていないアートワーク・・・。これ見てアルバムを買った人は内容を聴いてあれっと思ったはずまあクリスとしてはそれまでのロック的なイメージを打ち壊すということを主張したかったのかもしれないけど

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f:id:mythink:20210503025937j:plain Chris Cornell  "Enemy"  from 『 Scream 』

ティンバランドのデジタル的サウンドクリス・コーネルの声の融合以前のソロアルバムのファンからしたらつまらないだろうけどこのようなデジタルロックはティンバランドでなければ出来なかったという意味では新鮮味があるこういうクールなサウンドが好きな人にはタマラナイでしょうただしこれがライブでどれだけ再現出来てたかというと正直キツかったと思う



 

f:id:mythink:20210503025937j:plain それと少し前に発表されたジャスティン・ティンバーレイクのアルバム『 Man of the Woods ( 2018 ) 』ティンバランドがプロデュース ( その他の多くの曲はネプチューンズがプロデュース ) した曲 "Say Something" を聴くと、『 Scream 』も上手くやればロックファンが面白く感じるアルバムになってたかもって今更だけど思いましたね

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain Justin Timberlake  "Say Something" ft.Chris Stapleton  from 『 Man of the Woods 』

この曲では今最も知名度の高いカントリーミュージシャンの クリス・ステイプルトン をフィーチャーしてアーバンR&Bとでもいうべきスタイルを披露しているああティンバランドってこういうプロデュースも出来るんだなって思ったこういうのを『 Scream 』でもやってほしかったな

 

 

 

 4.   『 Higher Truth 』

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f:id:mythink:20210503025937j:plain 2015年に発表された4枚目のソロアルバムであり生前のクリスの最後の作品となったこれまでのソロアルバムに垣間見られたサウンドガーデンっぽさは余り感じられないもののアコースティックサウンドのブルースロックでまとめられ渋い仕上がりになっている

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   この作品は前作『 Scream 』の賛否両論からの反動として原点回帰したものと説明できるけどもはやソロ1枚目のEuphoria Morning 』を通り越しレイドバックし過ぎてカントリーやブルースロックに至っているとも言える

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   この背景には前作『 Scream 』のセールス的な問題もあったかもしれないけど先にも述べた通りライブでの再現性の問題があったティンバランド的デジタル空間はライブでは思うように再現しにくいが故にステージ上のスカスカのサウンドは観客の盛り上がりを得ることが出来なかったと思う

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   それならばいっその事自分の声や楽曲を純粋に味わってもらうためにアコースティックサウンドに回帰したのは容易に推測出来ますね。『 Scream 』『 Higher Truth 』の間に発表されたアコースティックライブアルバム『 Songbook ( 2011 ) 』がその事を示していると言えるでしょう

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   天に向かって鋭く尖っている山頂とそこに重なる太陽というデザインのアートワークがレトロっぽくアルバムの内容 ( ブルースロック ) も象徴しているようでカッコいい

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f:id:mythink:20210503025937j:plain   Chris Cornell  "Nearly Forgot My Broken Heart"  from 『 Higher Truth 』

このMVはアルバムのアートワークを踏襲していて素晴らしいもちろん曲もね

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   Chris Cornell  "Worried Moon"  from 『 Higher Truth 』

ホント聞き入ってしまうよ素晴らしい



 

 

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記憶に残したいグランジロック 〈 サウンドガーデン 〉

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以前このブログの記事

f:id:mythink:20210503025937j:plain 僕を楽しませてくれた映画〈 007 カジノ ロワイヤル 〉のオープニングをクリス・コーネルの死から再び見直した

クリス・コーネルについて書いたので彼の出発点のバンド "サウンドガーデン" について触れておくべきでしょう

 

  

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 1.   『 Louder Than Love 』

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f:id:mythink:20210503025937j:plain   1989年に発表された2枚めのアルバム ( メジャーデビューとしては1枚目 )A&M というメジャーレーベルからリリースされたグランジのアルバムということで注目を浴びた

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   ライブの熱気が伝わるアルバムアートワーク

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f:id:mythink:20210503025937j:plain   でも僕の中ではグランジといえば余りにも一般的な意見だけどニルヴァーナなんですよねサウンド的にも風貌的にも彼らの音楽って従来のロック的なものを破壊しようというパンク的な意志が強く感じられるでもサウンドガーデンの音楽はロックあるいはメタルの枠組みの中で如何に自分達の意志を強烈に示すかという感じでロック・メタル寄りだと思うレッド・ツェッペリン的要素ブラックサバス的要素変拍子の多用バンドサウンドを決定するグランジで多用されるディストーションをかけたギター音そしてグランジにしては歌が上手いヴォーカルこれこそがサウンドガーデンの特徴でしょうシアトルを中心に盛り上がったグランジシーンでしたがバンドによって違いがやっぱりあるんですよね

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   普通ならこのアルバムを紹介する時は"Hands All Over""Get on the Snake""Loud Love" とかを選んだりするんだけどここでは殆ど紹介されることのないブラックサバス的な曲 "Gun" をピックアップしますねこれはダークでドゥーミーでいかにもサバスいやサバス以上にサバス的な1曲になってますだってサバスの方がまだメロディがあるけどそんなもん振り切ってる重苦しいリフが繰り返される最初はあまりのダークさに受容れにくさを感じるかもしれないけど何回か聞いてるとクセになる

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   Soundgarden  "Gunfrom『 Louder Than Love 』

"Gun" を聞いているとメタリカのカーク・ハメットが "Enter Sndman" のメインリフのインスピレーションを『 Louder Than Love 』から得たというエピソードを思い出すまあ、『 Louder Than Love 』のどの曲かについては彼は言及してないですけどメタリカ史上おそらく世間に最も有名な "Enter Sndman" がこうして出来たというのは興味深いですね

 

                                         

f:id:mythink:20210503025937j:plain   Metallica  "Enter Sandman  fromMetallica

今ではもう見ることがない長髪が懐かしい。『 Metallica ( 1991年 ) 』( 通称ブラックアルバム ) を発表して間もない頃でメンバーも20代だったからパワーがある

 

 

 

 2.   『 Badmotorfinger 』

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f:id:mythink:20210503025937j:plain   1991年に発表された3枚目のアルバム個人的にはサウンドガーデンの中で一番好きなアルバム初めて聞いた時これグランジじゃないだろメタルだよって思ったそれくらいカッコよかったし激しさが伝わってきた久し振りに聞いても若い頃に聞いて湧き上がった衝動が甦ってくるそれくらい良いアルバムこのアルバムをへヴィロックの名盤として紹介した人もいたくらいだから

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   でも一番好きなアルバムが傑作とは限らない。『 Badmotorfinger 』の路線のままだったらそこそこ有名なグランジバンドで終わってたかもしれないサウンドガーデンが唯一無二のバンドになるのに『 Superunkown 』は必要な傑作だったと思うあのアルバムがあったからこそ彼らは今でも語り継がれるのでしょう

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   いかにもロックなアルバムアートワーク 

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f:id:mythink:20210503025937j:plain   Soundgarden  "Rusty Cagefrom『 Badmotorfinger 』

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   Johny Cash  "Rusty Cage from『 Unchained 』

あのジョニー・キャッシュ "Rusty Cage" をカバーしているカントリーロック調で渋いサウンドガーデンジョニー・キャッシュの組合せがいい

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   Soundgarden  "Jesus Christ Posefrom『 Badmotorfinger 』

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   The Dillinger Escape Plan "Jesus Christ Pose" from Plagiarism 』

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   カオティック・ハードコアバンドの The Dillinger Escape Plan ( 1997~2016 ) が EP『 Plagiarism ( 2006 ) 』でカバーしているこのEPではナイン・インチ・ネイルズの "Wish" もカバー The Dillinger Escape Plan はハードで前衛的な音楽性で知られるけどこの2曲は基本的にオリジナルに忠実に演奏しているちなみに、『 Superunkown 』が全米チャート初登場1位を獲得した時2位だったのがナイン・インチ・ネイルズ 『 The Downward Spiral 』。でもサウンドガーデンクリス・コーネルナイン・インチ・ネイルズトレント・レズナーは仲が悪かった

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   そんな彼らの仲をまるで取り持つかのようにThe Dillinger Escape Plan は2006年の『 Plagiarism 』で彼らをカバーし8年後の2014年には一緒にツアーを始める彼らのオープニングアクトを努めたという話には不思議な縁を感じますね

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   Nine Inch Nails  "Wish"  from 『 Broken 』

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   The Dillinger Escape Plan  "Wishfrom 『 Plagiarism 』

 

 

 3.   『 Superunkown 』

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f:id:mythink:20210503025937j:plain   1994年発表のアルバム初の全米1位を獲得この作品によってサウンドガーデンは名声を得たといえる前作『 Badmotorfinger 』でのストレートなへヴィ路線から変化してクリス・コーネルの内面の世界観がより反映されたそれと相俟ってサウンドは単純な重みを表現するのではなく幾分か軽く抜けが良くなったものの "澱み" が表現されているという相反するいかにもグランジ的な不安定さが集約された作品となったでもこの作品が発表された時は自分も若かったこともあって、その良さがあまり分からなかった …… 。

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   この人っぽい謎の姿がグランジ感を煽っているアルバムアートワーク

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f:id:mythink:20210503025937j:plain   Soundgarden  "Let Me Down"  from『 Superunknown 』

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   Soundgarden  "Black Hole Sun"  from『 Superunknown 』

このアルバムを象徴する1曲どうしようもない絶望感が漂っているのに逆にそれが感動的であるかのように思えてしまう危険なグランジだからこそ多くの人を惹きつけカバーもされているそしてデイヴ・グロールをしてビートルズ + ブラックサバスと言わしめた傑作でもある

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   "Black Hole Sun by  Norah Jones

2017年ノラ・ジョーンズ が米デトロイトのフォックスシアターの公演でサウンドガーデン "Black Hole sun" をカバーしたそこはクリス・コーネルが死去する数時間前に行われたサウンドガーデンとして最後の公演場所 ( 2017年5月17日 )であり彼女の公演はその数日後のもの彼に対して哀悼を込めたノラ・ジョーンズのパフォーマンスが感動的な1曲

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   "Black Hole Sun by  Peter Frampton

生前のクリスと『 Black Hole Sun 』の演奏で共演したことのある ピーター・フランプトン によるギターインストゥルメンタルカバートーキングモジュレーターの名手である彼の紡ぎだす "" がクリスの不在を感じさせずにはいられない哀悼に満ちたパフォーマンスが感動を誘う

 

 

 4  『 Down on the Upside 』f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210503025937j:plain   1996年に発表本作で一度解散しているアルバムアートワークはカッコいいんだけどジャケ買いして後悔した若い頃の記憶が今でもある ( 笑 )。音もスカスカだし楽曲的にも響くものがなく緊張感もないと感じたキツい言い方かもしれないけどこれまでの作品が良かったからね前作と差がありすぎるよ全米チャートで2位になったのが今でもよくわからないバンド自体に勢いがあったのかな

 

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f:id:mythink:20210503025937j:plain   Soundgarden  "Ty Cobb"  from 『 Down on the Upside 』

このアルバムからは "Pretty Noose"  とかが当然のように紹介されたりするけど僕的には1曲選ぶとしたらこれかなアルバムの退屈さをこの1曲で打破するパワーがある

 

 

 5  『 King Animal 』

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f:id:mythink:20210503025937j:plain   Soundgarden再結成後の6thアルバム 『 King Animal ( 2012 ) 』。彼らのアルバムアートワークの中では一番好きですね雪原に集まった無数の動物達の骸の中央に君臨する王の亡骸という構図がカッコいい

 

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f:id:mythink:20210503025937j:plain   音楽的には成熟しているなという印象が強いです彼ら自身がサウンドガーデンらしさというものを理解した上での楽曲作りが余裕を持って行われているしクリス・コーネルのソロっぽい曲を挟んでくる懐の深さも見せている一言で表すなら安心して聞いていられるアルバムという感じでしょうたしかにかつてのグランジブームは去っていたし、彼ら自身もピリピリするような緊張感から抜け出していたかもしれないそれでもそこそこ良いアルバムをつくっちゃうという所に彼らの経験の積み重ねを感じましたね

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   Soundgarden  "Been Away Too Long"  from 『 King Animal 』

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   Soundgarden  "By Crooked Steps"  from 『 King Animal 』

フー・ファイターズデイヴ・グロールがこのPVの監督をしている



 

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 〈 関連記事 〉

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain  僕を楽しませてくれた映画『 007 カジノ ロワイヤル 』のオープニングをクリス・コーネルの死から再び見直した

 

2017年5月17日に52才で死去したロックシンガークリス・コーネルが歌う "You Know My name" 『 007  カジノ・ロワイヤル ( 2006 ) 』のオープニングで印象的なグラフィックアニメーションと共に僕を楽しませてくれた

 

 

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▶ マイケル・ウインターボトムの映画『 キラー・インサイド・ミー 』( 2010 )を哲学的に考える

 

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映画  キラー・インサイド・ミー ( The killer Inside Me ) 』

監督  マイケル・ウインターボトム ( Michael Winterbottom : 1961~ )

公開  2010 年     

原作  ジム・トンプソン ( Jim Thompson : 1906~1977 )

出演  ケーシー・アフレック ( Casey Affleck : 1975~ )     ルー・フォード

    ケイト・ハドソン ( Kate Hudson : 1979~ )        エイミー・スタントン

    ジェシカ・アルバ ( Jessica Alba : 1981~ )         ジョイス・レイクランド

    ジェイ・R・ファーガソン ( Jay R. Ferguson : 1974~ )  エルマー・コンウェイ

    ビル・プルマン ( Bill Pulman : 1953~ )          ビリー・ボーイ・ウォーカー

    サイモン・ベイカー ( simon Baker : 1969~ )        ハワード・ヘンドリックス

    トム・バウアー ( Tom Bower : 1938~ )          ボブ・メイプルズ

 



 1章    映画、小説、それぞれのタイトルの差 ……

 

キラー・インサイド・ミー 』…… この映画タイトルは原題の『 THE KILLER INSIDE ME 』をカタカナにしたものですが、扶桑社ミステリー文庫版タイトルは『 おれの中の殺し屋 』( 訳=三川基好 ) となっています ( *A )。カタカナの映画タイトルだと何となく見過ごしてしまう『 …… ME 』が示す "主観性" が『 おれの …… 』っていう邦訳の小説タイトルだとしっかり強調されているのですね。

 

よくある映画の客観的なタイトルとは違って、『 おれの中の殺し屋 』って主観性が強く刻まれた1人称のタイトルだという事ですね。"おれ" の中には殺人者がいるんだという告白にも思えるこのタイトル …… 。この物語が主人公のルー・フォードこと "おれ" の主観性によって彩られている ことに気付かなければ ( いや、この映画を見る人が小説を読んでるとは限らないので気付かないのは仕方ないけど )、この映画は嫌悪を覚えるたんなる快楽殺人鬼の客観的描写に過ぎなくなる可能性もある …… 、いや、そういうふうにしか見えない人の方が多いでしょう。

 

 

 ( *A )

邦訳では、これ以前に1990年に河出文庫より村田勝彦の訳で『 内なる殺人者 』として出版されている。このタイトルだと確かに語呂が良くかっこいいのだけど、『 THE KILLER INSIDE ME 』における "ルーの1人称の効果" を見えにくくしている。もちろん、それは翻訳スタイルの違いから来るもの。1人称の主体 ( 俺 ) を明示しなくても分かる場合は、"俺" を形式的なものという事で敢えて訳さないというこなれた感を出したりしますが、この小説のタイトルは文字通り訳すのが正解でしょう。

 



 2章    この小説における1人称の効果

 

というのも、主人公のルー・フォードは『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクターのようなミステリアスな存在などではなく、テキサス州セントラルシティの単なる保安官助手でしかないから。大して特徴の無い ( それこそ殺人を平気で犯すということ以外で ) 彼の振舞いが映像化されてしまえば、観客はストレート ( 彼を意味ありげな存在にさせる迂回的、間接的要素がないから ) に彼を快楽殺人者として認識する以外は出来ないでしょう。

 

しかし、そんな彼を特徴付けるのは、実は、外見や性癖 ( まあ、人を躊躇なく殺すというのが性癖といえるかもしれないけど ) などを示す客観的描写ではなく、ルー・フォードである "" が1人称で語るというこの "小説" の構造上の形式 だといえるのです。この "俺" が全て見て、全ての出来事を話し、時折、心境を話し、全てが進んでいく。ジョイス・レイクランドを殺し ( 実際は死んでなかったけど ) 、エルマー・コンウェイを殺し、エイミー・スタントンを殺し、最後に自分も死ぬ。おれたち、みんな。

 

この1人称の語りには、3人称の客観的描写にはない上っ面の裏に隠れた人間の本質に迫る生々しさがある。特に、周囲の状況について語る時ではなく、自分の心境を語る内省の時こそ、それを読む者に迫ってくる何かがそこにある。映像では冷酷な殺人者にでしかないルーですが、小説の1人称のルーこと "" の独白、建前の無い本音を聞かされる私達は、そこに人間の本質というものを否定的な形で知る ことになるのです。

 



 3章    1人称の哲学的意味

 

1人称の語りには、"" が一体、 "" に向かって話しているのか、という問題が関わって来ます。この1人称語りを自分の中で自分に向かって話しかけているだけじゃないのという単純な理解では、そこから哲学的意味を引き出す事は出来ないでしょう。1人称の哲学的意味には "俺" が "俺" に向かって話す、という形式的理解では捉えられない深みがあるのです。

 

ではどう理解すべきなのか? ここで参考になるのが、フランスの哲学者ジャック・デリダが閉じられた自己同一性の円環を打ち破るべく、提唱した定式 "自分が話すのを聞く" です  ( *B )。デリダはそこで "自分が話す""自分が聞く" とは同等の身振りではなく、円環が閉じられる事による自己同一性の形成を常にズラしていく 差延作用 を発生させる異なる身振りだと言っているのですね。

     

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             ジャック・デリダ ( 1930 ~ 2004 )

 

彼の考えをさらに解釈するなら、より重要な身振りは "自分が聞く" 方です。なぜなら、これは "自分が話す" 以上の驚くべき作用を持っているから。自分の中では、"自分が話す" のはまず当然の事。発話行為の起点が自分でなければ、発話行為自体が成立しないのだから。ところが、"聞く" 方は、"自分が話す" のはもちろん "他人が話す" のも "聞く" 事が出来る のです ( *C )。

 

そうすると何が起こるのか? それが行き着く先は "他人が話す" のも "自分が話す" かのように聞こえてしまう錯覚に陥る ことがあるのだという事 ( *D ) です。なぜなら、誰が話そうが、聞くこと自体は相変わらず一人称の主体的行為だから です。ここからさらに一歩踏み込むと、"自分が話す" のが "他人が話す" ように離人的に聞こえてしまう ( その時、"" "誰か" になっている )。これこそが、自分の中に他人を呼び込んでしまう 聞くという行為に伴う1人称の構造的な不安定性 であり、読む者に時間を越えて主人公の "" を経験させる危険な作用だと言えるでしょう ( その "俺" はルーのものなのか、それとも読者のものなのか … )。もちろん全ての1人称の小説がそれに成功している訳ではないのですが、ジム・トンプスンの『 おれの中の殺し屋 』はその点で非常に面白い作品になっているのです。

 

そして俺という1人称の効果が高まるのがラストの場面です。ルー・フォードこと "俺" の独り言は自宅での自爆の瞬間と共に頂点を迎え、そのまま独り言で物語の幕が下ろされる、客観的描写など無く…… 。扶桑社ミステリー文庫の表紙にも、その英文が載っけられていますね。

   

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「 うん、これで終わりだと思う。おれたちみたいなやつらにも次の場所でチャンスが与えられるなら別だが。おれたちのようなやつら。おれたち人間に。

ねじれたキューでゲームを始め、あまりに多くを望んで、あまりにわずかしか得られず、よかれと思って、大きな悪を為す者たち。おれたち人間。おれとジョイス・レイクランドとジョニー・パパスとボブ・メイプルズ、そしてでぶのエルマー・コンウェイに、ちっちゃいエイミー・スタントン。おれたち、みんな。おれたち、みんな。」

 

" Yeah, I reckon that's all unless our kind gets another chance in the Next place. Our kind, Us people.

All of us that started the game with a crooked cue, that wanted so much and got so little, that meant so good and did so bad. All us folks. Me and Joyce Lakeland, and Johnnie Pappas and Bob Maples and big of Elmer Conway and little of Amy Stanton. All of us. All of us. "

 

このラストで 1人称の作用は最終点に達し崩壊し始める。"俺" は、"俺が話す" のだけを聞くのではなく、ジョイス・レイクランドが話すのを聞き、エイミー・スタントンが話すのを聞き、それらを自分が話しているかのように聞く…… 。自分の欲望が起点となり、他人を巻き込み、ためらいなく彼女らを殺したという自分本位な振舞いは、全てを、彼ら、彼女ら、を一括りにして自分のもとに収めようとする分裂症的、別の見方をすれば偏執狂的な思い込みに収斂し、自分を壊していく …… 。おれたち、みんな。おれたち、みんな …… 。この小説を読むことによって、この1人称の特殊な経験を共有するおれたち、みんな ……。

 

 

 ( *B )

彼の著作『 声と現象 ( 1967 ) 』を参照。初期の代表的著作。以降の言い回しが複雑になる著作に比べて理論構成がはっきりしていて読みやすい。高橋允昭の翻訳による理想社版 ( 1970 ) と林好雄の翻訳によるちくま学芸文庫版 ( 2005 ) がある。

 

 ( *C )

違う角度から言うなら、"自分が話す" と "自分が話すのを聞く" という身振りに分節化するものこそ "" だといえる。つまり "声" とは、どちらかの身振りに属するものではなく、どちらからもはみ出る特殊なものであり、自分のものであって自分のものではない "物質的なもの" だという事です。この物質的なものに人は魅了され、翻弄される。

 

 ( *D )

これの典型的なパターンこそ、アルフレッド・ヒッチコックの映画『 サイコ ( 1960 ) 』 ( *E ) における ノーマン・ベイツ ( アンソニー・パーキンス ) の振舞いに他ならない。マリオン ( ジャネット・リー ) を殺害したノーマンの隠された振舞いとは、亡き母 ( ノーマン自身が殺したのだけど ) との "同一化" だった。そこで注意すべきは、女装するだけではなく、母の声色を真似てしゃべり、それを聞く事によって自分の中に母を住まわせる ( 自分自身が母であると錯覚して ) という "1人称の崩壊作用" が起きているという事です。

 

( *E )

アルフレッド・ヒッチコックの『 サイコ ( 1960 ) 』については次の記事を参照。

 



 4章    映画の中の主観性とその失敗

 

小説のことばかり話してきたので、この辺で映画の方に話を戻さなければいけませんね。今まで話してきた事から、1人称の小説の映像化には難しさが付いて廻ることが分かるでしょう。映像化するという事は、"おれ" ことルー・フォードも登場人物の1人 ( もちろん主人公として周囲とは差別化されてるけど ) として客観化されるという事であり、その時点で 1人称の主観性は大きく損なわれてしまう

 

そこで映画では、この点を補うために、"おれ" の独白 を所々で挟んでいる。それは冒頭から20分くらいまでは頻繁に行われるものの、次第に少なくなっていき、ラストで自宅ごと自爆する場面では完全に消えてしまう、残念なことに。

 

でもそれは1人称の小説側から映画を考えた場合の話であって、映画は 1人称の欠損を別の形式で補い 観客を楽しませようとしている。それこそ映画独自の "サウンドトラック" という形式に他なりません。

 

とはいえ、小説の1人称効果と映画のサウンドトラックが同等であるわけないと思うでしょう。確かにその通りですが、自分のものであるかのように他人の声を聞くことが出来る主体の振舞い という観点からすると、それらは鑑賞者の主体的経験を豊かにするという意味では同系統にあるものだとこの場合考える事が出来るでしょう。

 

特に、この映画のサウンドトラックは非常に興味深い。1950年代 周辺 のアメリカのR&B、カントリー、そしてマーラーなどのクラシック ( これはほとんどの人が知っているでしょう ) などがピックアップされているのですが、もちろん、それは『 おれの中の殺し屋 』が 1952年に出版されている事に焦点を合わせている。

 

しかし、その事は、映画を原作の出版当時の雰囲気で色付けようという洒落た試み以上の恐さを無意識的に観客に経験させている。おそらく誰も気付かない経験なのですが、説明していきましょう。

 



 5章    日常と狂気

 

余談になりますが、この映画のサウンドトラックを聞いた時、これってどうやって調べたのだろうと思いましたね。というのも、監督のマイケル・ウィンターボトムってイギリスの人なんです。しかも『 キラー・インサイド・ミー 』がアメリカでの初の撮影だったというくらいだから、1950年代前後のアメリカの音楽マニアだったか、その辺のアドバイスをしてくれる人がいたか、ということになりますよね。それくらいセンスのある選曲になっている。でも、あの頃のリトル・ウィリー・ジョン とか スペード・クーリー とかをイギリスの映画監督が知っていたとは思えないんですよね、彼がマニアでないかぎり。あの頃のアメリカの音楽を知っている人にとっては当り前でも、普通の人は到底知らないような選曲ばかりだから ( 細かい話だけど誰か知らないかな )。

  

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    マイケル・ウィンターボトム ( 1961 ~ )

 

このブログの以前の記事でも書いたけど、"fever"  を歌ったリトル・ウィリー・ジョンって殺人罪で服役中に亡くなったのですが、その "fever" は映画のオープニングに使われている。そして・・・アルコールをばら撒いた自宅でジョイス、保安官達を道連れにして自爆する ラストの場面ではスペード・クーリーの "Shame on You" が使われている のですが、彼もまた殺人 ( 妻を殺した ) による服役の経験があるのですね。

      

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LITTLE WILLIE JOHN "fever"

 

     

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SPADE COOLEY & the WESTERN SWING DANCE GANG "SHAME ON YOU"

 

 

そのことに気付いた人は余りいないでしょうけど、これは偶然の一致でしょうか。それとも製作者の隠された意図でしょうか。真相は分かりません。いずれにせよ、それは映画の内容を 隠れた所から規定している。しかも単にスキャンダラスな事件が映画の内容と被っているという点だけでなく、その popな曲調が、殺人という悲惨な事件とは一見対極であるかのような雰囲気を醸し出し、コミカルな方向に傾いている点でも規定していると言えるのです。

 

一体、そのことをどう考えたらいいのでしょう。殺人という狂気の出来事の衝撃を和らげている? いや、それならば最初からそのような小説を映画の題材として選んだりしなかったでしょう。この小説は、極端に言えば、殺人という出来事しか起こらないのだから。そうすると、考えるべきは殺人という狂気がどのようなものなのか、という事なのです。

 

たしかにルー・フォードの中に潜んでいた殺人への欲望は、それ自体が倫理的に許しがたい危険なものであるのは間違いありません。しかし、それが実行されて現実の世界に衝撃を与えながら起こったとしても、現実の世界は終わることなく続いていきます。つまり、殺人は世界をすべて滅ぼしてしまう ( 部分的には滅ぼしますが、その犠牲者など ) のではなく、現実の出来事のひとつとして世界と共に続いていくのですね。

 

この世界とは私達の日常と言い換える事も出来るでしょう。そうすると、殺人は日常として存在する ( 現実としてであれ、潜在的なものとしてであれ ) という残酷な現実を私達は見ている事になる。別の言い方をするならば、昔から変わることなく続く日常の流れは殺人という狂気の出来事さえ自らの内に取り込んで未来に進んでいく …… 、時には喜劇的な調子を帯びながら。そう、真の狂気は、殺人でさえ含んで続いていく日常なのであり、この 日常の狂気を表現しているものこそラストで流れる popな "Shame on You" という事になる訳です〈 終 〉。

 



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