〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

僕を楽しませてくれた音楽のアルバムジャケット〈メガデス〉

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2016年5月21日、へヴィメタルバンドメガデスの元ドラマーのニック・メンザがLAのクラブBaked Potatoで演奏中に心臓発作で倒れ亡くなりました。享年51才。早過ぎですね。御冥福をお祈りします。

 

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ニック・メンザ在籍のメガデス黄金時代

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f:id:mythink:20160530210142j:plain その彼がメガデスに在籍していた黄金期のラインナップ。手数の多いドラミングでメガデスを支えました。

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左からマーティ・フリードマン(g)、デイヴ・ムステイン(vo&g)、ニック・メンザ(dr)、デイヴ・エルフソン(b)。この4人の編成時代が最強だと多くの人が認めるでしょう。

 

f:id:mythink:20160530210142j:plain その黄金期の4枚の傑作アルバムのジャケット。曲を聴かずに判断するのはやめましょう(笑)。優れた楽曲揃いです。メンツ的にも、リーダーのデイヴ・ムステインが個性的というか性格に少々難ありというくらいで、いたって普通のバンドです。

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〈 ラスト・イン・ピース 〉

     " Holy Wars・・・The Punishment Due "

     

 

     " Hanger 18 "

     

 

〈 破滅へのカウントダウン 〉

     " Skin O' My Teeth "

     

     

     " Symphony Of Desruction "

     

 

〈 ユースネイジア 〉

     "Reckoning Day"

     

 

     " I Thought I Knew All "

     

 

〈 クリプティック・ライティングス 〉

               " Trust "

     

     

          " Almost Honest "

              

 

       " The Disintegrator "

              

     " She-Wolf "

      

 

f:id:mythink:20160530210142j:plain ここに挙げた4枚のアルバムの特徴は、スラッシュメタルからより普遍的なハードロック・へヴィメタルへの変化に尽きると言えるでしょう。

 

f:id:mythink:20160530210142j:plain スラッシュメタルという事でいえば、1990年の〈ラスト・イン・ピース〉で既に完成されていました。今でもメタルの愛好者の間では評価の高いアルバムです。ここからメガデスは、ミドルテンポやメロディに特徴のある楽曲を増やしていきます。メタルファンだけでなく、より一般的な聴衆へのアピールを強めていったといえます。それが〈破滅へのカウントダウン〉、〈ユースネイジア〉です(ジャケットのアートワークは相変わらず異様な雰囲気ですが)。

 

f:id:mythink:20160530210142j:plain そして1997年の〈クリプティック・ライティングス〉において、一般的なものへの路線は頂点を迎えました。ミドルテンポ・メロディのある楽曲とメタルの曲("The Disintegrators" や "She-Wolf"など)がバランスよく配置されメタルファンでなくても十分に楽しめる内容になっています。その意味で、メタルファンの間で人気のある〈ラスト・イン・ピース〉などの純粋なメタルには及び腰になるかもしれない人にも、この〈クリプティック・ライティングス〉はぜひオススメ出来ますね(ジャケットのアートワーク的にも、笑)。

 

 

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ドン・シーゲルの映画『 アルカトラズからの脱出 』を哲学的に考える

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公開:1979             監督:ドン・シーゲル  

原作:J・キャンベル・ブルース   脚本:リチャード・タークル

出演:クリント・イーストウッド   ( フランク・モリス )

  :パトリック・マクグーハン   ( 所長 )

  :ポール・ベンジャミン     ( イングリッシュ )

  :ロバーツ・ブロッサム     ( ドク )

  :ラリー・ハンキン       ( チャーリー・バッツ )

  :フレッド・ウォード      ( ジョン・アングリン )

  :ジャック・チボー       ( クラレンス・アングリン )

  :ブルース・M・フィッシャー   ( ウルフ )

  :フランク・ロンジオ      ( リトマス )

  :ダニー・グローヴァー     ( 囚人 )

 

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  1.   脱獄映画の王道的作品

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a.   これは脱獄映画の王道と言ってもいいでしょう。まあ実際に脱獄に成功した人達の実話化なので当然かもしれないですけど。それにしても当時40代後半のクリント・イーストウッドの佇まいが渋すぎる。派手なアクションも、印象的な音楽もなく、ひたすら脱獄への道程が描写される地味な映画ですが、イーストウッドの存在感だけでも観る者を引きつける事が出来ているといえるでしょう。

 

b.   冒頭からアルカトラズ刑務所の象徴である所長とモリス ( クリント・イーストウッド ) の対立構造が、この物語の明確な軸として描かれていますそこに他の囚人とのエピソードが差し込まれ、脱獄の準備と脱獄シーンの緊張感ある描写が続く後半へと話が進んでいきます。

 

c.   脱獄映画についての解説では、どうしても脱獄のシーンやそのための小道具ばかりに注目が集まってしまいがちですが、所長とモリスの対立構造という脚本上の明確な構成によって、この映画の面白みが増している事にも注意すべきでしょう。

 

 d.   モリスが入所するなり、一方的に偉そうにしゃべり続ける所長。

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e.   でも黙って聞いているだけのモリスじゃない。この時、所長が自分の机から離れて鳥かご ( もちろん、この鳥かごと中の鳥は、刑務所と中の囚人たちの比喩となっている ) をいじりながらじゃべり続ける間に、モリスは身体をすっと机の方に寄せ、2個ある爪切りの内、1個を手に入れてしまうのでした。これは部屋の壁を掘るための重要なアイテムになります。

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f.   所長の囚人への嫌がらせ。絵が得意なドクが描いた自らの肖像画を見つけた所長。ドクが絵を描く自由を取り上げてしまいます。彼はショックの余り、自分の指を斧で切断してしまう・・・。少しグロテスクなシーンです。

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g.   この件で、所長に皮肉を言うモリス。かましてます。

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h.   もうひとつ所長の嫌なエピソード。モリスたちが食事するテーブルに置かれたドクが好きな菊の花。そこに近づいた所長は菊の花を握りつぶす。それに激高したリトマスは所長に掴みかかるが心臓発作で倒れてしまう。そこで所長のセリフ "もう脱獄もできんな"。嫌な奴を演じきっています。

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i.   脱獄する直前に別れを確認するモリスとイングリッシュ。いつものように雑誌と本を配りに来たイングリッシュ。雑誌を渡し、"またな" といって立ち去ろうとするイングリッシュにモリスは言います "さよならさ、坊や"。手を差出すモリスに、脱獄する事を悟ったイングリッシュはそれ以上何も聞かずに握手して言い返します "あばよ"。味わい深いシーンです。

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j.   脱獄に成功したモリスたち。起こしに来た看守は、モリス本人ではなく、張りぼての頭部がそこにあるのを見て驚く。ここに至る脱獄のための描写シーンは実際に映画を見て頂いて味わってもらうのがいいでしょう。サスペンスタッチの緊迫感溢れるシーンの連続は観る人を飽きさせずに最後まで引っ張ってくれます。

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  2.   "脱獄"についての哲学的考察 

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a.   さて、ここで "脱獄" について哲学的に考えて見ましょう。というのも映画の結末では明確にならない事、3人が途中で死なずに海を泳ぎきったのかどうか ( 実際にもどうなったか分からない ) が、"脱獄" について考えさせるきっかけとなるからです。3人が海を泳ぎきったかどうかという事に人々の好奇心が集まるという事態 は、詰まるところ、それは "脱獄" が哲学的にいかなる意味を持つのか を考える契機である事を意味しますただし、それは "脱獄の成功" が誰にとっての事であるかを考える必要がありますね。もちろん、この場合、 "脱獄の成功" とは好奇心を持つ私達に対してのみだという事は言うまでもありません。

 

b.   なぜなら3人が生き残った事が分かっているのなら、その時点で捜索する警察側に3人の動向が抑えられている事になり、捕まる可能性が強いと言えるからです。つまり、当事者3人にとっては自分らの生存が不明な方が "捕まらない可能性" が高いという意味で、"脱獄" は成功しているといえるのです

 

c.   しかし、それはあくまで "捕まらない" という意味であって "生きている" という意味ではありません逆に言うと、"死んでいたら捕まりようがない" という事になるのですが、それは3人が望んだ結末ではないでしょう最も望ましい結末は、"生きていながら捕まらない" という事なのですが、そのためには逆説的な事に "命を賭けること" ( 死ぬ可能性 ) を最初に選択しなければならなかったのです。

 

d.   なので3人にとっては脱獄する事は、生きるか死ぬかのどちらかに命を賭けて身を委ねる行為以外の何物でもないという意味で、刑務所を脱出した時点で成功したといえるのです。この点からすると、脱獄の準備が遅れて刑務所を脱出出来なかった4人目の仲間、バッツは命を賭ける事が出来なかったと言えるでしょう。

 

e.   では、3人が死なずに海を泳ぎきったのかという事に興味を抱く私達自身については、どう考えるべきなのでしょう。精神分析的に言うなら、それは脱獄という行為をただ一度きりのものではなく、永遠のものとして象徴化しようとする欲望だといえるでしょう ( なので私達の中では3人は生きているという事になる )刑務所が強固であればあるほど、そこに開いた "脱獄という穴" は私達の欲望を呼び寄せ、自らの周囲を縁取らせつつ、"穴自体" を強力なものにしようとするのですそして、私達は自分が絡み取られたこの世界からの代理的脱出としての脱獄ロマンを紡ぎ出し、満足を得ようとする訳です。

 

 

f.   この象徴化を示すものとして以下の記事を参照する事が出来るでしょう。

 

「ザ・ロック」と呼ばれた絶海の孤島で難攻不落の刑務所「アルカトラズ」から生きて脱獄したかもしれない3人の男 - GIGAZINE

 

実際に彼らが途中で死んでいたとしても、私達の間では彼らを生かそうとする欲望がある事を示す記事だといえますね。

 

 

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 〈 関連記事 〉

 

ジャック・ベッケルの脱獄映画

 

 

 

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ジャック・ベッケルの映画『 穴 』( 1960 )を哲学的に考える

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監督ジャック・ベッケル

公開1960 年   

原作ジョゼ・ジョヴァンニ

 

出演マルク・ミシェル      ( ガスパール )

  フィリップ・ルロワ     ( マニュ )

  ジャン・ケロディ      ( ロラン )

  ミシェル・コンスタン    ( ジョー )

  レイモン・ムーニエ     ( ボスラン )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 穴 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。

 

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  1.  『 穴 』 は果たして "脱獄劇" なのか?

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a.   ジャック・ベッケルの遺作。この作品は単なる娯楽的な脱獄劇ではないと言えるでしょう。脱獄をテーマにしつつも、その裏側で蠢く人間心理を露にしているのです。ただし、その様子は映画のラストまで秘かに蓄積され、ラストにおいて圧倒的な描写によって爆発します。

 

b.   この映画が単なる脱獄劇でない事を示す分岐点は、以下のシーンでしょう。5人の仲間は部屋の床に穴を掘り続け、地下の下水道脈に通じるのですが、マニュとガスパールの2人はそこから刑務所外のマンホールへと到達する事に成功します・・・。

 

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c.   ここで2人は脱獄の成功という誘惑に負け、仲間を置いて2人だけで逃げる選択肢も可能なのですが、そうせずに仲間の所に戻ります。脱獄に成功したにも関わらず、そこから引き返すというこの場面によって、"単なる脱獄という行為" から "脱獄にまつわる人間心理劇" へと移行していく事が示されているのです。

 

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  2.  異端分子ガスパール

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a.   この後のラストの伏線として、脱獄をしないと決めたジョーの話があります。

 

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b.  もう後は、全員で脱獄するのみという時になって、ジョーはここに残る事を伝えます。理由は病気の祖母に警察の捜索が及ぶ事を心配しての事ですが、誰も特に反対する事なく受容れます。このシーンは後のガスパールへの疑惑とは対照的なものとして描かれているのです。ジョーの決断に対して誰も"裏切りではないのか"という疑惑を向ける事はありません。この事は、もとから仲間だった4人の連帯意識が変わりない事を示しているのと同時に、後から仲間に加わったガスパール1人が異端分子である事を後のシーンでハッキリさせる為の予兆として機能しています。

 

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  3.  仲間を裏切る事の出来ない人の良いガスパール・・・

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a.   ガスパールは急遽、所長に呼び出され、妻が訴えを取り下げる旨を聞きます ( ガスパールは夫婦喧嘩の際、誤って妻を負傷させた事で訴えられていた )。

 

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b.   脱獄前に、こんな話を聞いてもガスパールは当然、素直に喜べるはずもありません。脱獄をやめる事は仲間への裏切りになるからです。さて注意すべきは、ガスパールは所長の話を真面目に受け取り、悩み始めてしまった 事です。所長の話が本当かどうか疑う事をしませんここに彼の人の良さが出ています。彼は所長が自分の人の良さを利用しようとしている事に気付かないのです ( 彼自身、自分の人柄に安住しているタイプです。それが周囲にどのように受取られるか、あるいはどう利用されるかという事には無頓着だといえます )。

 

c.   そう、所長は彼の人柄の良さを利用している のです。ここでは妻の訴えの取り下げが本当かどうかは問題ではありません。仮にそれが所長による嘘であり、ガスパールが信用しないとしても ( いや、彼は信用するでしょう )、人の良い彼はこのやりとりを仲間に話すしかないのです。そうするとこの時点で彼の話を聞いた仲間は、真実がどうであれ、ガスパールと所長の話し合いという事実自体が、"裏切り" の符丁である としてガスパールを怪しむ事になるという訳です人の良い彼は脱獄をやめないと言うのですが・・・。

 

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d.   やはり仲間は彼を信用しないようです。

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e.   ガスパールは自虐的になって落ち込む・・・。

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   4.  脱獄の失敗、そして4人と1人・・・

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a.   5人がいよいよ脱獄しようとする夜、見回りが様子を見に来て立ち去るのを見張り役のジョーがガラスの破片を張り付けた歯ブラシで確認します。ドアの覗き穴から歯ブラシを出して通路の様子を見るという訳ですね。有名な小道具です。この歯ブラシを反対方向に向けた時、そこには看守達がズラリと勢ぞろいしているというこれまた有名なシーンによって一気にラストシーンに流れ込みます。ガスパールはそれまでの落ち着いた役柄から豹変して "違う!俺じゃない" と叫びます。それと同時にマニュはガスパールに飛びかかり首を執拗に絞めようとしつつも、なだれ込んできた看守たちによって引き離されるのです。このシーンはそれまで蓄積していたガスパールへの疑念が一気に噴出し、脱獄という目的がとうに吹き飛んだ混乱を示しています

 

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b.   4人は看守たちに取り押さえられ、服を脱がされ通路の壁に手をついて立たされます。1人 部屋の中に立ち尽くすガスパールは現れた所長の指示に促された看守によって独居房に向かわされます。部屋を出る時、ロランと顔が合うのですが、その時のロランのセリフが印象的です、 "哀れだな"

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c.   このロランのセリフをどう理解すべきでしょう? 俺たちを裏切った挙句に自分も所長に裏切られるとはなという意味でしょうか。そうすると相変わらずガスパールは裏切り者と見られているという事になりますが、そのセリフを発するのがロランではなく、マニュであればその通りでしょう。それに対してロランはガスパールが所長に利用されていた事を理解した上で ( 所長が現れてガスパールを独居房へ連れて行くよう指示したのを見ていたでしょうから )、ガスパールの存在自体に対して "哀れだな" と言っていると解釈すべきでしょう。

 

d.   ある意味、ガスパールのような人間にとっては、裏切り者の烙印を押されるより、自分の存在を哀れまれる方がキツイかもしれません。なぜなら裏切り者と言われるだけなら、前のシーンで叫んだように自分の誠実さでもって "違う" と言い返す事が出来る。しかし、誠実であるはずの自分の存在自体が哀れまれるのなら、もはやガスパールは言い返す事すら出来ない、つまりガスパールは自分の存在に向き合うしかないという重荷を背負う事になるのです

 

e.   このようなガスパールの異質性は、"脱獄" という元々の4人の行動目標を宙吊りにしてしまうものとして機能しています。もちろん、それは所長の思惑によってなされるものであるのですが、4人の脱獄という目標への一直線のベクトルが、異質な1人の存在によって呼び起こされる仲間内での心理的疑惑によって壊れてしまうという意味で成功している といえるでしょう。なのでガスパールが4人の部屋に送り込まれた時点で、"脱獄"それ自体は既に失敗していたと考えられます。故にこの作品は単なる "脱獄劇" ではなく、"脱獄にまつわる心理劇" であったと解釈できるのです。

 

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〈 関連記事 〉

 

 クリント・イーストウッド主演の脱獄映画。

 

 

 

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ジョン・カサヴェテスの映画『 こわれゆく女 』を哲学的に考える

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監督 ジョン・カサヴェテス

公開 : 1974

出演 ピーター・フォーク     ( ニック・ロンゲッティ )

   ジーナ・ローランズ     ( メイベル・ロンゲッティ )

   : キャサリン・カサヴェテス  ( マーガレット・ロンゲッティ )

 

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 1.   日常を映画に昇華させるカサヴェテスf:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain 最もありふれたものだが最も取り扱うのが難しい映画のテーマが "日常" でしょうそれが夫婦であるならなおさら …… 。この "夫婦という日常" をカサヴェテスは映画に見事に昇華してしまった。"夫婦" とは身内である以前に本来他人同士である男と女であるが故に、"問題" が常につきまとうものである事をカサヴェテスは率直に示しています

 

人生とは、そして結婚とは、結局は女と男の闘いなんだ。それは途切れることなく続く、愛すべき闘いだ。男と女は根本的に異なっているんだよ。

John Cassavetes (@cassavetes_bot) | Twitter

 

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain  そしてこの "日常" は映画の中だけの虚構ではないつまり "日常" は映画の中に回収されない "強力な現実" であるが故に日常についてのこの映画もまた日常に結びついたひとつの "現実" であるとカサヴェテスは言っています

 

( 『 こわれゆく女 』について ) 僕はこれを映画とは思わない。これはまさに ……、家庭の謎、継母、それに ……、僕らはみんな、同時に愛し合い、憎み合う、この狂った世の中に生きているという事実に結びついているんだと感じる。

John Cassavetes (@cassavetes_bot) | Twitter 

 

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 2.   A WOMAN UNDER THE INFLUENCE f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain 結婚した事のある男なら以下のシーンは落ち着いて観る気分にはならないでしょう誰であれこんな経験はあるでしょうからニックの帰りを一人で待つメイベル子供たちは義母の元に預けているしかし水道工事員であるニックは急な仕事で帰る事が出来ない

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain 恐る恐る電話するニックメイベルは落ち込む

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f:id:mythink:20210212192015j:plain こんな具合に、"日常" が深く掘り下げられ描写されていくそしてこの "日常" の中の "狂気" を体現しているのがニックの妻であるメイベルです彼女は常に興奮し落ち着きがないのですがカサヴェテスはこれを他人そして社会との関係においてそれらの影響と圧力を受けながらもそこでしか生きていると感じられない女性の特徴として描き出している のです

 

( 『 こわれゆく女 』において ) 他人との相互作用によって、他人との一種の競合に加わることによってだけ、メイベルは生きていると感じることができる。ここで強調されているのは、女性であると同時に社会でもある。社会が振るう、メイベルへの圧力と影響力だ。

 

よし、本当に何かを言うために映画を作るぞと思った ……。凄まじい試練を体験した、ほとんどの時間孤独だった一人の女についての映画だ。それに彼女は男の気まぐれ、親分風、無知、不安、裏切りに従属している。それがこの映画 ( 『 こわれゆく女 』 ) の主題だった。

 

女たちは人生で常に裏切られている。裏切られた彼女たちは孤独、不安、男の仕事への嫉妬、そして僕らの社会で評価されていない身分 - 母親であること、夫に献身的な何者かであることに苦しむ。女が男の影響下にあるべきだなんて一体何で言えるんだ?

 

John Cassavetes (@cassavetes_bot) | Twitter

 

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain ある意味でメイブルは自分以外の他者に関わり過ぎているといえますその他者を愛したり ( 彼女の子供たち )嫌ったり ( ニックの母親 )楽しませたり ( ニックの労働者仲間達 )そして共に居続けようとして ( ニック・・・)他者の中で生きようとしているのですこれは何を意味しているのでしょう孤独を紛らわすため仮にそうだとしてもメイブルはそれが上手く出来ずに狂気の度合いを強めていく……。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain それは 彼女が "自分自身" に関わろうとして耐え切れずに壊れていく過程 だといえますこの点において女性の内面には自分自身では制御する事の出来ない獰猛な何かがある女性はそれを避けるために外部の他者に向かうのではないでしょうか

 

女性は孤独で、自分たちの愛に囚われていると思う。女性は囚われている。何かにのめり込むと、すっかりのめり込んでしまい、それが拷問になる。

 

夫を愛しながら、結婚してしばらく経つ女性はすべて、自分の感情をどこに向けていいか分からず、そのせいで狂気に陥るんだと僕は確信している。

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain しかし結局の所カサヴェテスも言うようにその外部からも揺さぶられてしまうために不安定な存在になってしまうのですこの映画の原題 "A WOMAN UNDER THE INFULUENCE" まさにその事を言い表していますそれに対して "こわれゆく女" という邦題は悪くはないのですがそれだとどうしてもメイブルの狂気の過程ばかりを観る人に読み取らせてしまう ( とはいえ "何かの影響下にある女" という直訳では商業的に難しい・・・)カサヴェテスはそうしたものを越えた二人の絆を描き出そうとしている事を忘れるべきではないでしょう

 

ジーナはこの登場人物とこの登場人物の背後に隠れている女性について、かなりじっくり考えている。彼女は自分の演じている人物を下品に演じたり、戯画的に演じたりしないように心がけているんだ。彼女はメイベルを「 犠牲者 」や「 変人 」にしたくないんだ。

John Cassavetes (@cassavetes_bot) | Twitter 

 

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 3.   男と女、二人でいる事f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain 女性は自分の "外部" 内面に沈み込みそうな自分を引っ張り出してくれる "" を求めているあるいはカサヴェテスの言葉でいえば女性は男が尽くしてくれるのを望んでいるという事になるでしょう

 

女性は1人の男性 - 魅力的な王子様が献身的に尽くしてくれるのを望んでる。おとぎ話じゃなくて、それが女性の望んでることなんだよ。女性にとって、子供を生むのと同じくらい本質的なことなんだ。

John Cassavetes (@cassavetes_bot) | Twitter

 

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain しかし女性の "理想" とする " " は現実にはほとんどいない理想に照らし合わせてこの男ではないと思う限り、"" と一緒にいる事は難しいはずですなぜならそんな理想は "日常" の中にはないからです大切なのは "日常" の中で時にすれ違い時にぶつかり合う "" と一緒にいたいと思えるかどうかですそう思える時男が不器用で少々がさつでも男が自分と一緒にいたいと思っているかどうかも分かるはずです互いにそう思っている男と女は一緒にいる事の幸せを掴んでいるといえるでしょう

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain ニックとメイブルは紆余曲折を経た上で互いの事をそのように再確認しています言葉には出さないけど一緒にいたいという思いを抱きながらそれはロマンチックなものではなくあらゆる困難や感情が渦巻く日常生活の中においてしか維持されないものですそこには二人で一緒にいる事の意味がつまり本来他人同士である男と女が一緒にいる事を互いに選択しているという奇跡があるその経験は男であれ女であれ一人でいる者が決して辿りつけない出来事なのです

 

( 『 こわれゆく女 』において ) ニックとメイベルはあらゆる問題を抱えている。問題は山ほどある。それでも他人といるより二人で一緒にいるときの方が快適だった。彼らが二人きりでいれば、これほどお互いに好きで尊敬し合っている二人がいるかどうか分からないくらいだ。

 

僕が思うに …… 今日の男女の間には根元的な敵意がある。だから、僕はこの映画 ( 『 こわれゆく女 』 ) の中で、根元的な敵意ではなく、愛を選んだ。そこには奇妙な愛がある。それは奇妙だが、決定的だ。

John Cassavetes (@cassavetes_bot) | Twitter

 

   

f:id:mythink:20210212192015j:plain なので病院から帰ってきて気を使うぎこちないメイブルに対してニックがいつものように振舞えと言って、"日常" を再開した時それは単に以前の生活に意味無く戻ったのではなく、"日常" こそ二人が一緒にいる事を再確認するものとして "新しい日常" になっていると解釈できるでしょうそこにロマンティックな言葉はないがカサヴェテスはそんな瞬間的なものより永遠の男女関係を描き出したのです

 

人生に影響を与えるのは、男と女の相互関係だけだ。確かに現代は政治的な衰退と混乱の時代だ ― でも、そんなものは面白くない。持ってる情報ですべてが決まる知的なことだからね。男女の関係は人間の本能に永遠に具わったものだ。幻想じゃなくてね。

John Cassavetes (@cassavetes_bot) | Twitter

 

 

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僕を楽しませてくれた映画『 キラーインサイドミー 』のサウンドトラック・・・リトル・ウィリー・ジョンの "Fever" とともに・・・

      

 

監督  マイケル・ウインターボトム

原作  ジム・トンプソン

出演  ケーシー・アフレック   ( ルー・フォード )

    ケイト・ハドソン     ( エイミー・スタントン )

    ジェシカ・アルバ     ( ジョイス・レイクランド )

    ネッド・ビーティ     ( チェスター・コンウェイ )

    ジェイ・R・ファーガソン  ( エルマー・コンウェイ )

    ビル・プルマン      ( ビリー・ボーイ・ウォーカー )

    サイモン・ベイカー    ( ハワード・ヘンドリックス )

    トム・バウアー      ( ボブ・メイプルズ )

公開  2010

 



 1章  オープニング

 

ジム・トンプソンの "おれの中の殺し屋" を原作とするこの映画、リトル・ウィリー・ジョンの "Fever" に乗せて始まるオープニングクレジットの軽快さは見る者を自然に引き込みますね。その後は、オープニングの軽快さを裏切るかのようなルー・フォードの殺人劇へと流れ込んでいくのですが・・・。

 

思えばトンプソンの "おれの中の殺し屋" が出版されたのが1952年、リトル・ウィリー・ジョンの "Fever" が発表されたのが1956年。1950年代のアメリカの空気の中で生まれた両者が50年以上経て、この映画において出会うというのは興味深い事です。そしてリトル・ウィリー・ジョンが、喧嘩相手をナイフで刺殺した罪 ( 本人は正当防衛を主張していた ) で服役中に心臓発作で死亡した事 ( 1968年、享年30才 ) は、映画の内容を暗示するものだと考える事も可能でしょう。

 

POPなオープニングクレジットがリトル・ウィリー・ジョンの "Fever" ともに軽快に始まる。

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リトル・ウィリー・ジョンの "Fever"やはり本家は格好いい。

   

               

 "Fever" といえば、ペギー・リーが有名なのですが、実はリトル・ウィリー・ジョンのカバーだった訳ですね。         

   

 

エルヴィス・プレスリーもカバーしています。

       

 

リトル・ウィリー・ジョンの詳しい説明については、こちらのブログを参照。

 ・リトル・ウィリー・ジョン Fever by Little Willie John - Audio-Visual Trivia

・Feverの真実―Little Willie John|紅花紅子のブログ

 



 2章   その他のサウンドトラック

 

この映画には"Fever"以外にも、優れた楽曲が流れているので幾つか紹介しておきますね。

 

"Jolie Blond Likes the Boogie"  by Bob Wills and His Texas Playboys

           

 

"Baby won't You Please Come Home"  by Helen Forrest

    

 

"One Hand Loose"  by Charlie Feathers

    

 

"Take It Away Lucky"  by Eddie Noack

    

 

"Symphony No.2 in C Minor 'Resurrection' "  by Gustav Mahler

    

 

 "I'm Waiting Just For You"  by Lucky Millinder [ vocals:Annisteen Allen&John Carol ]

    

 

"Una furtiva lagrima from [ L'elisir d'amore ] "  by Marcelo Alvarez

    

 

"Im Abendrot in [ Four Last songs ]by Elisabeth Schwartzkopf

    

 

"The Tickle Toe song"  by Adolph Hofner&The Pearl Wranglers

    

 

"Shame on You"  by Spade Cooley and The Western Swing Gang

    

 

"Al's Steel Guitar Wobble"  by Jack Rhodes&Al petty

    

 

"Ich Bin der Welt Abhanden Gekommen ( Rückert-Lieder )"   by Violeta Urmana

    

 

 

長くなるので映画の内容については別の機会に。

 

 

【 関連記事 】

 

 

 

 

【 僕を楽しくさせる花森安治のデザイン〈 1 〉 】

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1. 大橋鎭子花森安治

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   2016年4月スタートのNHK朝ドラ "とと姉ちゃん" は、雑誌『暮らしの手帖』とその出版元の"暮らしの手帖社"の創業者である大橋 鎭子をモデルにした物語ですね(ヒロインは高畑充希)。日本読書新聞編集部にいた大橋 鎭子は戦後、花森 安治と知り合います。当時24歳の大橋は、日本読書新聞編集長の田所太郎に "独立して女性の役に立つ雑誌を出版したい" と相談し、彼から花森安治を紹介されたのです。大橋は彼に、父を結核で亡くし女手ひとつで3人の娘を育てた母親を幸せにするためにお金持ちになりたいという話をし、彼から君の親孝行を手伝おうと言われました。

 

 

   こうして社長・大橋鎭子、編集長・花森安治とする "衣装研究所" を銀座に設立します。昭和21年5月には『スタイルブック』第1号を発行します1

 

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   そして昭和23年9月には、『美しい暮らしの手帖』を創刊する事になります。

 

 

2. 花森安治の『暮らしの手帖』表紙デザイン

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■  『暮らしの手帖』の表紙デザインは編集長・花森安治の仕事でした。1号から100号 ( 1948年9月~1969年4月 )、そして2世紀1号から2世紀53号 ( 1969年7月~1978年4月 ) まで質・量ともよくぞここまで書いたと思わせるの程のものですね。

 

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   1号から9号までの表紙は、その手書フォントと相俟って、今見ても圧倒的な存在感を放っています。作家の太田治子は、子供時代の母親 ( 太田静子。言うまでもなく彼女は太宰治の愛人でした。つまり太田治子太宰治の私生児という事です2) との表紙にまつわるエピソードを語っています。

 

 

"「花森さんの『暮らしの手帖』の表紙は、素敵ね。とても明るいわ」( 母 )

そういって、いつまでも表紙をみつめていたことも思い出した。近所の古本屋さんで買った創刊まもないころのものであった。赤いオルガンの横の木の椅子の上に、丸い毛糸玉がふたつ置かれていた。毛糸玉には毛糸棒が二本さしこまれていて、暖かな家庭のぬくもりが伝わってきた。きっとこのようなお家には、優しいおとうさんがいるのに違いなかった。こういうお家の子供に生まれたかったなあと、私はその表紙をみつめながら思った。"

 

"「花森さんは、私の本の表紙も描いてくださったのよ」( )

母はその時初めてそうと教えてくれたのである。それまでにも何度かみたことのある母の本3 の表紙を描いた人と、毎号有名な『暮らしの手帖』の表紙を描く人が同じだなんてとても素敵だわと思った。・・・ "

 

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   22号から、"美しい"の文字がなくなり、『暮らしの手帖』のタイトルとなる。

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   44号から、写真画像が取り入れられ、ヴァリエーションがひろがっていく。

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1

   この時に日本読書新聞編集部での同僚であった時代小説家の柴田錬三郎大橋鎭子の事を"オール・マイティの女性だった"と評価している。

                           

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" 物資がなくなって、なにかと不自由をしていた戦争中でも、大橋鎭子に頼めば、砂糖でござれ、汽車の切符でござれ、ありとあらゆるものを、なんでも手に入れることができた。どんなルートをもっていたのかは知らないが、とにかくなんでも欲しいといった物資を揃えてくれる。彼女の異常に近い才能で、われわれ一同は、どんなに助かったか知れない。"

"(・・・)彼女はいつもの伝で、たちまち二十万円の金と、銀座八丁目にある日吉ビルの一室を花森にもたらしたのである。銀座のドまん中の一室は、大の男が奔走しても、半年はかかる時代に、二十万円の金もいっしょにもってきたのだから、花森ならずともどんなにか頼母しい女にみえた。"

 

 

2

   太田治子"治" は、太宰治の本名である津島修治の "治" からとられている。ただし、太宰は、別の愛人である山崎富栄と共に玉川上水入水自殺 ( 1948年6月 ) したため、治子 ( 1947年11月誕生 ) と会う事はなかった。ちなみに1948年は暮らしの手帖が創刊された年。

     

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3

   母の本、つまり太田静子の本とは、斜陽日記の事。もともとは太宰の『斜陽』の題材として提供した日記で1945年の春から12月までの日々が書かれている。で、『斜陽』はベストセラーとなる。太宰の自殺後、井伏鱒二伊馬春部らから10年ほど伏せて置くようにいわれたものの、生活苦から1948年の10月に石狩書房から出版。この時の装釘を手がけたのが花森安治

         

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〈このブログ内の関連記事〉

 

 ◆ 僕を楽しくさせる花森安治のデザイン 2. 

 

 

 

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クリストファー・ノーランの映画『 インターステラー 』( 2014 )を哲学的に考える

 

初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

 

  

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監督  クリストファー・ノーラン   
公開  2014 年
脚本  クリストファー&ジョナサン・ノーラン
 
出演  マシュー・マコノヒー   ( ジョセフ・クーパー )
    ジェシカ・チャステイン  ( マーフィー・クーパー )
    マッケンジー・フォイ   ( マーフ幼少期 )
    エレン・バースティン   ( マーフ老年期 )
    アン・ハサウェイ     ( アメリア・ブランド )
    マイケル・ケイン     ( ジョン・ブランド )
    マット・デイモン     ( ヒュー・マン )
    ジョン・リスゴー     ( ドナルド・クーパー )

 




 クリストファー・ノーランはこの映画において驚くべき創造性のレベルに到達しているといっていいでしょう。驚くべき創造性とは、理論物理学者のキップ・ソーンの監修によるブラックホールワームホールの映像化の事ではありません。並みの監督なら、それだけで満足したでしょう。これは『 2001年宇宙の旅 』の延長上にある映画だ、というふうに。

 

■ それよりもノーランは物語の冒頭から、明らかに父と娘の関係を軸に据えて、最後までぶれる事はありませんでした。それはSFファンの人にとって面白くないかもしれませんが、そこが2001年宇宙の旅スタンリー・キューブリックと違う所です。確かにノーランは宇宙論に忠実な映像化に成功してるのでしょうが、それはあくまで映像的な至高性を求めての事であり、彼が本当に忠実なのは、宇宙論ではなく彼自身の創りだすストーリーなのです。

 

■ では彼のストーリーの創造性とは何でしょう?常識的な考え方をしていては、それについて深く考える事は出来ない。それは、"父と娘の関係性""宇宙での旅" をそれぞれ違う状況における話として、ひとつの作品の中に並べているという事ではありません。そうではなく地球にいたときの父と娘との "曖昧な距離" を、ジョセフが宇宙に行ってからの二人の "物理的距離" という形で、よりはっきりと浮かび上がらせている  〈1 〉 という事なのです。

 

■ 巨大な宇宙における父と娘の その "物理的距離" が縮められたとき、彼らの "精神的距離" ( 父が宇宙に行った時、彼女は自分が見捨てられたと感じている ) も解消されるという形で昇華される・・・。この物理的なものによる精神的なものの救済という非凡な唯物論的発想 ( 普通の監督は愛などの精神的なものによって物理的障害を乗り越えるというありふれたストーリーを作る ) を見逃すべきではありません。

 

■ 一見関係のないように見える巨大な物理的宇宙が、"父と娘の関係を媒介する物" として差し込まれているという仕込・・・。それこそが、この作品における強力な推進力であり、父と娘の関係性と宇宙を短絡 ( ショートカット ) させるというノーランの驚くべき創造性なのです。

 

■ そこらへんの映画監督ならば、せいぜい巨大な宇宙と無力な人間の奮闘、というありふれた筋書きになってしまうところですが、ノーランは父と娘の関係性という微妙で難しい距離感を巨大な宇宙とショートカットさせて、人間を超えた精神性 ( 宗教的ではなく哲学的な意味での ) を描ききっているのですね。

 



 

■ その短絡性の最たるものが、ブラックホールに吸い込まれたジョセフが、マーフの部屋の本棚の裏側に展開された4次元超立方体の中に現れ、そこからマーフにメッセージを送るというものです。しかし、なぜブラックホールという宇宙の領域から、日常的光景としてのマーフの部屋の本棚の裏側へと移動する事が出来たのかと思われる方もいるでしょう。

 

■ 宇宙という巨大な物理的領域とマーフの部屋という日常的領域を交わる事のない二つの並行的なものだと思い込んでいる限り、両者の溝は通常の手続きではロケットの地球への帰還というシーンの導入によってしか乗り越えられないからですね。ただ、これではありきたりなストーリーになってしまうでしょう、父と娘の関係性が宇宙での困難な旅が終わった "" でしか解決されないという具合に。

 

■ それに対して、ノーランは全く別の驚くべき創造性を発揮します。ジョセフが地球に帰還せず宇宙にいながらも、メッセージを送る事によって娘との関係性における "遠さ" を克服します。これが先に述べた、父と娘の関係性と宇宙の遠さを短絡 ( ショートカット ) させるノーランの創造性 という訳です。

 



 

■ この映画における創造性のモデルが  "4次元超立方体 ( テッセラクト )" なのですが、これこそが 宇宙と日常との短絡の象徴 ですね。ジョセフはあくまで本棚の裏側に隣接する4次元超立方体の中にいるのであってマーフの部屋に入る事は出来ない ( 本に触れる事は出来るけど )。つまり両方は違う次元にあるものとして設定されているのです。隣接するテッセラクトからジョセフがマーフの部屋を見る時、マーフの部屋における様々な時間継起の出来事 ( ジョセフが宇宙に行く前の出来事も含まれる ) が見えるようになっています。

 

■ これをどう理解したらいいのか、哲学的に考えて見ましょう。そのためには "4次元" について哲学的に考える必要があります。通常、4次元というと、"空間3次元 + 時間1次元" だと理解されるでしょうが、このままだと空間3次元に余剰次元の時間がひとつ加わっただけという理解のままです。ここに哲学的ひねりを加えて、時間の次元によって、それまでの認識を変えてみたいと思います。

 

■ 既に確立された3次元に、もうひとつ別の時間の次元が加わるという考え方では、おそらく事態はさほど変わらない。時間の次元を3次元に影響を及ぼすものと考える事によって、初めて、その余剰次元を加える意義が出てくるといえます。つまり、時間の次元の導入が、空間3次元の "確立性" を見直す契機になるという事です。空間3次元は、そこで事物が "発生" する事によって初めて認識される。空間が初めにあって、そこに事物が "発生する" という考え方は知識を得た事による事後遡及的なものです。そうではなく、事物や出来事の "発生" こそが空間3次元それ自体の認識を可能にする という事なのです。

 

■ では、その "発生" をどう考えるべきなのか。これを誘惑に屈して、場所論的な考えの方向に行くと、遡及的なものに過ぎない空間3次元の全能性に結局帰ってしまう。そうではなく、"発生" を "時間" として考える事 が重要になります。ただし、ここでいう "時間" とは、私達の通常の感覚、つまり1日が24時間、1年で365日、というような始めと終わりがあり、その繰返しがあるという理解では捉えられません。

 

■ 事物が発生する時、まずそこには前提として空間があるのではありません。空間は事物の発生ともに作り上げられ認識される次元でしかない。そこで真に機能しているのは、"永遠の時間" なのです。始まりもなければ終わりもない "ゼロ時間" が事象を可能にする "基盤" として無限に拡がっている。そして、この "ゼロ時間からの脱化" が事象の発生という運動であり、空間化であり、通常の時間化だ と考えられるでしょう。これこそが、空間3次元の疑似的な第一義性を脱構築するものとして時間の次元が付け加えられる事の意味なのです。

 

■ なのでテッセラクトから見える様々な時間継起の出来事は、"ゼロ時間" からの眺めであったとしておきましょう。それ故に、そこからはジョセフが宇宙に行く前の出来事すら、時間継起のひとつとして見えるのであり、そこにおけるジョセフの振舞いは、映画の冒頭における "こちら側" から見た時のマーフの部屋の奇妙な出来事に繋がるという訳です。さらに言うなら、そのような4次元超立方体がそれ自体として成立するには、4次元超立方体として閉じられていなければならないのであり、それを閉じるのは、もうひとつ別の余剰次元としての "重力" であるといえるでしょう。

 

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父と娘は表立って対立している訳ではありません。父は彼なりに愛情を娘に向けてはいるものの、娘は年頃のせいか上手く受け止める事が出来ない ( 嫌いな訳ではない )が、何とかしようとしている。父と娘の距離感とは、近くもあり遠くでもあるという両義的なものです。正確に言うなら、血縁関係としては親子なので当然近いが、精神的には離れている といえるでしょう。

 

そんな彼女の振舞いは、本棚から本が落ちる現象を見て、誰かからの二進法によるメッセージとして解読しようとする姿勢に象徴されている。もちろんこの時は、メッセージが父からのものである事は分からない、彼女にも、そして父自身にも。でも彼女は "誰か" からのメッセージを受け止めようとしている・・・。

 

そのメッセージを解読する事が出来た時、彼女は自分にメッセージを送る何者かが父であると認識する のです。つまり重要なのは、メッセージを送る何者かが父だと最初から分かりきっていたら、メッセージを真面目に受取ろうとしない ( いつもの小言か、というくらいで )。でも誰かは分からないが、メッセージを真剣に受取った結果、それが父からのものであると後から分かった時に、父を精神的に、つまり自分に近い存在として認識する といえるでしょう ( それまでの父への固定観念を脱しているという意味で )。

 

 



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