〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

日産デザインヨーロッパについて

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日産自動車には刺激的なデザインの車があります。古くはマイクラC+C、最近ではデュアリス、ジューク、などです。これらをデザインしているのが、イギリスのロンドンにある日産デザインヨーロッパ ( NDE ) です。日産には世界に六つのデザイン拠点があるのですが、その中でも優れたデザインを発表しているという意味では、NDEは傑出しているといえるでしょう。

 

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  1.   ロンドンの日産デザインヨーロッパ

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   NDEは2003年、ロンドンのかつてのイギリス国鉄のメンテナンス車庫を改修して創設されました。 

     

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    内部はSF映画っぽく見えます。

                         

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   社内の作業風景。

 

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画像は日産:NISSAN OWNERS' MAGAZINE | 世界各国のデザインセンターから。

 

 

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  2.   NDE発のデザイン:キャシュカイ  

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   2013年に欧州日産は新型のキャッシュカイ ( 日本ではデュアリスとして販売されたSUV ) を発表したのですが、同年に日本でエクストレイルの新型が発表された時、それはひとつの驚きとなりました。

 

   というのも新型エクストレイルが新型キャシュカイとほぼ同じデザインだったからです。新型エクストレイルの発売に伴い、デュアリスは販売終了となりましたが、これは日本におけるキャシュカイ ( 日本名:デュアリス ) の販売終了というわけではありませんでした。その逆で、少なくとも日本においてエクストレイルと名づけられていたモデルの販売が終了したというべきでしょう ( 新型エクストレイルが旧型とデザイン的に違う車であるのは明らかでしょう )。

 

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   事実は 新型キャシュカイが日本ではエクストレイル名で販売されているというわけです。それならば、エクストレイルではなく新型のデュアリスとして販売すればいいのにという気もしますが、将来的なモデルチェンジの可能性 ( 日本デザインによる ) を考えてエクストレイル名を残しているのかもしれませんね。いづれにせよ、NDEによるキャシュカイのデザインが優れているといると日産内で判断されたと考えていいと思います。

 

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  3.   NDEのカスタムデザイン

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   東京オートサロン2016で日産はフランスのファッションブランド ( というより香水ブランドとして今や有名でしょう ) Lolita Lempicka と共同でデザインした「 マイクラ Lolita Lempicka 」を展示しました。これはフランスの日産法人が販売しているものですが、欧州日産のデザインをNDEが担当している事から、これもNDEが関わっていると考えてもいいでしょう。

 

   これについてMONOist に記事が掲載されているのですが、そのタイトルが面白いです。

"日本で売れない「マーチ」、フランスではファッションブランド特別仕様車が好評"

となっています。フランスで販売するマイクラの2%を同モデルが占め、ヒットといえるのだそうです。日本では評価が高くない4代目マーチが上手くカスタマイズされ洗練されましたね。     

  

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   ルーフとピラーは皮革調の表面加工したステッカーで覆われ、ボタン引きのレザーシートが高級感を出しています。   

  

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画像は日本で売れない「マーチ」、フランスではファッションブランド特別仕様車が好評 から。

 

   これ以前の2007年には、3代目マーチをカスタマイズしてクーペカブリオレ型のマイクラ C+C を発表しています。電動式メタルトップはボタンひとつでオープンが可能 ( その間約22秒 )。

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  4.   日本型デザインから世界型デザインへ

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   NDEのデザインによる日産車が存在感を放っている事から分かるように、日産車を日本を中心にした感覚で捉える時代はもう終わっているのかもしれませんね。部品などのパーツは共通の規格化が進み、世界各地の日産工場で共有されていくと思います。その分デザインの斬新化が求められていくという意味では、日本発以外のデザインの採用度が高くなるのは、日産においてはもはや当然の事なのでしょう。

 

   とはいえ、誤解のないようにいっておきたいのですが、日本的なものが駄目でヨーロッパ的なものが素晴らしいという訳ではありません。世界各地にデザイン拠点があるという事は、より柔軟で、より大胆なアイデアが出やすいという事であり、それは多国籍的なものからハイブリッドなもの ( 雑種的なもの ) が現れるという事になりますね。

 

   事実、NED副社長だった田井 悟氏に行われたResponse掲載のインタビュー ( 2005年当時。現在、田井氏は日産のエグゼクティブデザインダイレクター。) で、彼はNEDのデザイナー構成についてこう言っています。

28人のデザイナーのうち、1人だけ日本人で、そのほかは韓国人が1人、あとはアメリカ人やヨーロッパ出身者です。全体で12ヵ国と、マルチナショナルな構成になるように配慮しています。いろいろな国の出身者を集めることで、いろいろな発想を混ぜたいと考えています

 

   斬新なデザインといえば、2010年に発表されたJUKEでしょう。NDEのデザインをベースにして日本のNDGC(日産グローバルデザイン本部)が開発を行ったのですが、NDEのJUKEチーフデザイナーの渡辺誠氏 ( 田井氏が先のインタビューでNDEの日本人デザイナーと言っていたのは、おそらく彼の事でしょう ) のオートックワン掲載のインタビューが興味深いです。そこで彼は SUV+コンパクトスポーツカー という斬新なコンセプトを打ち出し、ラグジュアリーカーに負けない脱ヒエラルキー的な車を目指したと言っています。この挑戦的で現状に安住しない姿勢は素晴らしいですね。

 

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画像はオートックワンの日産 ジューク デザイナーインタビュー/プロダクトチーフデザイナー 渡辺誠二 から。

 

 

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「 現実が夢ではないことを証明せよ 」という入試問題を哲学的に考える

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いくつかのブログで上智大 ( 大学院?) 哲学科の入試問題 "現実が夢でないことを証明せよ" が採りあげられていました。興味深いので僕もその問題について考えてみることにしましょう。

 

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 1.   現実と夢

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この問題文を見て、まず誰もが直感的に感じるのは、現実と夢の間には何らかの関係性がある ( 便宜的にこれを B と呼びます ) ということでしょう。次に、その B を何とか定義しながら「現実は夢でない」( これを A と呼びます ) に結び付けていこうとするのでしょうが、この手順では "上手い回答" を出すのは難しいでしょう。

 

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 2.  「 現実が夢ではない 」とは真理なのか?

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というのもAと B の間には、論理の飛躍というよりは、"断絶"があるからです。いくら現実と夢の関係性 ( B ) を必死に定義しようとしても、A が真理であると最初に証明されていなくては、B から A へと辿りつく事は出来ないでしょう。

 

もし A が真理でなければ、そもそもの前提 ( 現実が夢ではないという ) が間違っている事になり、いくら B を定義しても、それは無意味になってしまいます ( あくまでもAの立場から見た場合ですね )。

 

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 3.   論理操作が必要な証明

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しかし、その A を証明せよと問われているのだから、B について考えるのは当然じゃないかと思われるかもしれません。でも B のような関係性というのは、そもそも "内在的な哲学的論理" であるので、A のような証明や判断を下すといった後付けの設定に "哲学的に" 結びつけるのは難しいのです。A へ向かうためには、意図的な論理操作 ( A の結論を前提とする ) が必要になってくるからです。

 

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 4.   ゲームの規則

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でも、それは不可能ではありません。A を "哲学的真理" ではなく、"ある状況的なもの" と考えれば可能です。"ある状況的なもの"とはこの場合、A は入試の問題であり、回答者の哲学的な知識や素養を推し量るための設定であると考える事です。そうであるならば、回答者はこの "ゲームの規則" に乗っ取って、A を取り敢えず真理として受け入れ、A という結論へ無条件に向かうために、論理を好きなように組み立てていけます受験生の立場ですと、この方向性がベストでしょう。

 

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 5.  A の前提を崩すこと

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以上のことを踏まえた上で僕が思うのは、もう受験生ではない ( 僕以外の人を含めて ) のだから、もっと哲学的に考える事が出来るだろうという事です。A に対する回答として面白いのは、B について考える事が、そのまま A と言う前提を突き崩すことになるというものでしょう ( A への反論を最初から目指すということではありません、つまり反論のための反論ではないということです。とはいえ哲学的な考えに慣れている人にとって A の命題が不十分なことは直感的に気付くはず )。とりあえず考えていく事にしましょう。

 

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6.   夢は現実ではない

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ここで A の反対のテーマ ( 否定形は踏襲しておきます ) を設定してみます。つまり、「 夢は現実ではない 」 というテーマを設定し、これを C とします。おそらく、この C の方が、A よりも問題含みであり、だからこそ C を導入する事によって B をより興味深く練り上げる事が出来るのです間違っても、この C に対して、夢は眠っている間に見るのだから現実でないのは当然だなどという単純な結論は出すべきではないでしょう。C のような一見当り前のような命題に対して、いかに思考を働かせていくのかという事が、A について回答するための重要なポイントになります。

 

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 7.   父親が見た夢についてのフロイトの解釈

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夢について考える際、フロイトを参照する事が役に立つでしょう。特に『 夢判断 』における余りにも有名な "父親が見た燃える子供の夢" です。

 

父親は死んだ息子の通夜の晩に眠ってしまいます。蝋燭が倒れ息子の棺に火が移ってしまうのですが、父親は眠りの中で、まさにその息子の夢を見ているのです。夢の中で息子は父親に告げます、「お父さん、僕が燃えているのが見えないの?」。

 

父親はその後、目を覚ますのですが、フロイトはこれを願望充足 ( 生きている息子に会いたいという願望 ) のために、火の燃え移りという現実の出来事 ( 父親は熱や臭いにより、漠然とそれに気付いている ) を取り込んだ夢 ( 燃えている息子と会っているという ) が、眠りを継続させていると解釈します

 

目覚めて現実の出来事にすぐに反応する事よりも、息子に会いたいという願望充足によって引き起こされる夢を見続けたいがために、睡眠の継続がここでは選択されているという事ですね。

 

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 8.   父親が見た夢についてのラカンの解釈

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後にこれに対して、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンはさらにラディカルな解釈を行います。彼はフロイトの解釈についてこう考えます、夢の中で息子に会えているのに、なぜ目覚めたのかと夢によって睡眠の継続が選択されていたのに、それを中断させたのは何か、という事ですね

 

もしこれを単に火の燃え広がりが強くなってきたためだと現実の出来事だけを原因にするとしたら、夢の中に息子が出てきている意味がなくなってしまいます。父親は火について漠然と気付いていながらも、夢を見ていたのですから。

 

つまり、この時、父親にとっては外界の出来事よりも、夢の方が重要だったのであり、外界の出来事を上回るという意味で、夢のほうがよりリアルなもの ( ラカンはこれを現実界といいます ) だったのです。

 

この夢は、父親が息子を助けてやれなかったという現実がそこに込められているという意味で、ひとつの現実なのですが、だからこそ父親にはそれが耐えがたく目覚めてしまったという訳です。

 

フロイトの解釈においては、夢は睡眠を引きのばすものでしたが、ラカンにおいては、夢は強烈になると ( 端的に悪夢といってもいいでしょう )、耐え難い現実となり、睡眠を中断させてしまうというように、夢の地位が変化しているのですね。

 

ここで一端、整理しておきましょう。ポイントは "現実" という概念が侵入する事によって、夢の解釈が変わる事です。フロイトにおいては夢は睡眠をひきのばすための幻想の地位に留まっています。ラカンにおいても、夢は幻想なのですが、幻想に過ぎないものが夢見る本人に対して現実的な効果を発揮している ( 目が覚めてしまうくらいに ) という意味で現実以上に現実的なもの ( 現実界 ) になっているという事です。

 

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 9.   父親が見た夢についてのジジェクの解釈

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このラカンの解釈をスロヴェニアラカン派哲学者、スラヴォイ・ジジェクはさらに推し進めます。彼が言うには父親が夢の中で遭遇した物は、現実よりも強烈な外傷 ( 息子の死に対する彼の責任という ) です。この現実界から逃れるために彼は現実へと覚醒したという訳です。現実こそが私達を強烈な現実界から守ってくれる遮蔽幕だとも彼は言います。

 

そうであるならば、 現実界から逃避する事は、そこから目を背ける事を選択したという事であり、現実界を避けて現実へと覚醒するという言い方は厳密には違うと言えるでしょう。逃避するのは、さらに眠り続けるためだと考えるべきなのです物理的に睡眠する事から精神的な意味で睡眠し盲目になる事を、幻想としての現実 ( ジジェクはこの現実を幻想が構造化されたものとしています ) という場において選択したという事です。

 

ここにおいて現実は覚醒していくべき場ではなく、人が眠り続けていく場へと移行しているのです。それと共に覚醒するという概念も変質していきます。人は基本的に眠り続けているといえるでしょう、物理的にであれ、精神的にであれそこから覚醒するとはラカンのいう現実界を引き受けることであり、狂気に陥る可能性がある事なのです。

 

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 10.   CからDへ・・・

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フロイトラカンジジェクの解釈を参考にした上で C に戻るならば、もはや C は証明出来ないどころか、「夢は現実である」という新たなテーマを打ち立てる必要があるでしょう ( これを D とします )。この D を念頭におきながらB ( 現実と夢の関係性 ) について考えましょう。

 

通常、人が "現実と夢" という時は、両方を別のものだと考えていますね。別のものでありながら両方をくっつけて考えるのは、そこに隠された媒介項としての "眠り" があるからです眠っている時に夢を見る、眠りから覚めて現実に戻る、では現実と夢の関係は?という具合に考える事が出来る訳です。フロイトの解釈もこの延長上にあると考えられるでしょう。

 

しかしラカンの解釈を参照すると捻りが加わります。"現実と夢" をつなぐ媒介項が "現実界" になるのです現実界の観点からすると、より現実的なものは"夢"なのですD で表しているとおりですね。

 

では夢が現実であるならば、現実は一体何でしょう?現実は現実界に比べると現実的なものではありません。それは覚醒していく場所ではなく、現実界において覚醒しないように眠り続けるための場所であるのです。そこはジジェクがいうように幻想が構造化されたものとしての現実であるといえるでしょう。とするならば 「 現実は夢である 」 といえるでしょう ( これを E とします )。

 

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 11.   DからEへ・・・そしてA

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A ( 現実が夢ではない ) を証明するために、B ( 現実と夢の関係性 ) を考えながら、C ( 夢は現実ではない )D ( 夢は現実である )E ( 現実は夢である ) とテーマを移行させてきました。B を考えながら最終的に E へ至った訳ですが、E が真理であるかどうかは微妙であるにしても、A に対して E という相反する命題が考えられるという事は、少なくとも、A が真理ではない、つまり A が証明出来ない事を示しているといえるでしょう

 

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サミュエル・ベケットについて

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アイルランド出身、フランスの劇作家・小説家のサミュエル・ベケット ( 1906~1989 )。不条理劇「 ゴドーを待ちながら 」は余りにも有名で、今でも世界各地で公演されことがありますね。その彼の小説三部作「 モロイ 」・「 マロウンは死ぬ 」・「 名づけえぬもの 」の中でもオススメなのが第三部の「名づけえぬもの」です。

 

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  絶え間ないおしゃべり・・・

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   言葉を話す・・・。でも誰が話すのでしょう? 私でしょうか? だが言葉を話している最中は、私はどこにいるのでしょう? 言葉の外ですか? 言葉の外から、私は言葉をコントロールするのですか? いやいや、そもそも言葉がなければ "私"と呼べるものはないでしょう。"私"とは言葉の中にいるのですでは・・・言葉の外側にいる "もの" は "私" でなければ一体何でしょう しかもそれは、自分を人間的存在であると思い込んで言葉を話しているのですしかし、話せば話すほど、"私"は言葉の中に入り込み言葉の外にいる"もの"から離れていくのです

 

   では実際、私達はどちらなのでしょうか? もちろん言葉の外側にいる "もの"つまりベケットの言うところのワーム ( 蛆虫 ) であり"私"なのではありません。正確にいうなら、ワームが自分を "私" と称して人間であると思い込んでいるのです。そんなふうに人間だと思わせているのは、"言葉"の、"おしゃべり"の力によるものなのです。

 

   この真実に気付かずに大部分の人は一生を終えるのかもしれません。この真実を気付かせてくれるのは、言葉であり、おしゃべりであるのですが、普通にしゃべっているだけでは、そうはなりません。ベケットのように、途切れることなく、あらゆる隙間に入り込むような言葉の錯綜的な使用法によって、言葉がどうしても喚起してしまうイメージを断ち切る必要があるのです。"私" のイメージすら断ち切り消滅させてしまうのです。

 

   おしゃべりの最中、そこには言葉を話す "私" の代わりに "ワーム" がいます。そこでは、私達ワームが言葉によって貫かれ横断される経験が起こっている。そしてそこはイメージのない無であり、私もいないのであり、おしゃべりの声だけが響き渡っているのです。「 名づけえぬもの 」はそのような状況が極限化された作品であり、三部作の頂点に立つものです。

 

 

『・・・、続けなくちゃいけない、おれには続けられない、続けなくちゃいけない、だから続けよう、言葉を言わなくちゃいけない、言葉があるかぎりは、言わなくちゃいけない、・・・』

 

 

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パラティッシについて哲学的に考える〈2〉

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    パラティッシについて哲学的に考える〈1〉の続きです。

今回はかなり小難しい話になるけど、興味ある方は気軽に読んでください。

 

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    1.  芸術作品のアウラとは?

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a.   ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは「複製技術時代の芸術」において、"アウラ"という概念を提唱しました。オリジナルの芸術作品のもつ一回限りの特有性というものは複製技術によって失われていきますこの芸術作品が、ある時代とある場所に出現した時の一回性こそが、"ラ" であり、それは複製技術の反復性によって消滅していくと言うのです。

 

b.   オリジナルの作品が消滅するという事 ( アクシデントがない限りオリジナルの作品が存続するという条件付きですが ) ではありませんが、作品の持つアウラは複製技術が発達した現代社会では消滅するしかないのです。

 

c.   ベンヤミンはこの事態を悲観的に見て批判しているのでしょうか?そうではありません。彼はアウラの消滅の背後に、大衆層の芸術作品への積極的参加を見出しているのです。そこでは作品への接し方は、オリジナルの作品へ宗教的で礼拝的価値を置く事から大衆層が参加しやすい複製技術による展示的価値に重点を置くへと移行しているという訳です

 

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  2.  オリジナルと量産品の関係

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a.   以上の予備的な考察を踏まえて、この辺でパラティッシの方へと話を戻しましょう。ビルガー・カイピアイネンの芸術作品と量産品パラティッシの間には大きな差異があるのですが、量産品においては何が失われているのでしょうか?

 

b.   まず先に示したように芸術作品のアウラがそこでは失われてしまっていると言えます。ではそのような量産品の価値はどこにあるのか?オリジナル作品の複製でしかないという否定的特徴ばかりが目立つのでは、その価値を見出すのは難しいのではないでしょうか?ところが、その複製という特徴こそが、量産品の価値を哲学的に考えるための鍵となるのです。

 

c.   量産品はオリジナルに対する複製であるため、自らの内にオリジナルに対する距離を抱え込んでいます。つまりそのような距離を抱えるという形式でオリジナルと関係する事によってオリジナルを自分の中に保持しているともいえるのです。

 

d.   ここには"哲学的な生"があります。オリジナルから見たら全くの部外者である量産品の中に、不思議な事にオリジナルが生きているのですベンヤミンの概念を借りるならば、これは"死後の生"といえます

 

e.   このオリジナルが知らない量産品とは、オリジナルにとっては自分の死後の事だといえるのですが、自分の中でしか生きられない ( これだと本当に死ぬ可能性もあるのです、事故によりオリジナルが失われたり壊れたりという具合に ) のではなく自分とは別のものの中で自分が生きるこれが作品の "死後の生" なのです

 

f.   この意味で量産品のパラティッシの中にはビルガー・カイピアイネンの芸術が生きているといえるでしょう。彼の作品の中で唯一量産化されたパラティッシは、彼の死後も彼の作品を生かし続け、私達にその存在を知らせてくれているのです。

 

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   ベンヤミンは「写真小史」で "アウラとは時間と空間が織りなす特異な織物" だと言っています。これについてどう考えるべきでしょう?芸術作品はそれが出現したときの時間と空間を背景にして生まれます。逆に言うなら、違う時間と違う空間であれば今、芸術作品と呼ばれている物はそうならなかったと言えるのです。

 

   例えばフェルメールの作品は、あの時代、あの空間においてこそ必然的なものとなったのであり、違う時代、違う空間であれば、フェルメールの作品は偶然の産物の地位しか得られず見向きもされない可能性があったのです ( もっと言うならフェルメールという固有名すら歴史の表舞台に出てくる事が無かったといえます )。その意味で、芸術作品のアウラとは、時間と空間の線分が奇跡的に交錯した一回限りの出来事の必然性を示しているともいえるでしょう。

 

 

   大衆層の量産品への接し方という点からすると、フィンランドにおいてアラビア食器は市民の日常生活に浸透しているといえるでしょう。だからこそ前回の記事で触れたように、フィンランドにおけるアラビア工場の閉鎖について市民の間から反発の声が挙がったのです。

 

 

  「 翻訳者の使命 」を参照。このエッセイと「 複製技術時代の芸術 」は興味深い関係にあるといえます。複製技術時代の芸術」は "オリジナル" の視点から "複製品" について語っているのですが、原作と翻訳の関係を語った「翻訳者の使命」は "複製品 ( 翻訳 )" の視点から "オリジナル ( 原作 )" について語っているという見方ができるからです。

 

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パラティッシについて哲学的に考える〈1〉

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昨年の話になりますが、2015年は、北欧の陶磁器ブランド「ARABIA」の人気シリーズである"パラティッシ"のデザイナー、ビルガー・カイピアイネン ( Birger Kaipiainen )の生誕100周年でした。ここ日本でも、パラティッシは雑貨 ( 特に北欧雑貨 ) 好きな女性たちの間で大人気の食器です。でも男性を含めて考えると食器ブランドのARABIAに興味を抱く人って多くはないかな・・・と思いながらも書いていきますね、いつも通り哲学的な調子で。

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  1.  ARABIA社

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まずは簡単な説明を。

 

   ARABIA社とは、1873年フィンランドヘルシンキ郊外「アラビア地区」で創業された陶磁器ブランドです。現在に至るまで140年の歴史があるのですが・・・皮肉な事にビルガー・カイピアイネンの生誕100周年の2015年、アラビア工場が閉鎖される事が決定されましたフィンランドの企業における人件費の負担と経済のグローバル化の流れの中で、ARABIAの経営権を持つフィスカルスグループは生産拠点を海外の下請工場に移すことを選択したのです。この件についてはフィンランド国内からも反発の声が挙がっているようですね

 

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  2.  パラティッシ:paratiisi

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   そしてパラティッシparatiisi:フィンランド語で"楽園"の意味 ) です。これはプレートになりますね。他にもボウル、ティーカップ&ソーサー、コーヒーカップなどがあります。色の種類としては、ブラック( 白×黒 )、カラー( 黄×青 )、パープル、の三つになります。これ以上、華のある食器はもう出てこないのではと言っても言い過ぎではないでしょう。

 

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  3.  ビルガー・カイピアイネン:Birger kaipiainen

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   パラティッシを産み出した陶芸作家のビルガー・カイピアイネンです。

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   1915年生まれの1988年没。ARABIAのアート部門で数多くの作品を産み出しました。鳥や植物 ( 特にヴィオラ。カイピアイネンがお気に入りだったショパンの好きな花がヴィオラ ) などをモチーフにした装飾的模様を特徴としています。

そんな彼の作品です。

 

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 画像は カイピアイネン作品展 : ARABIA 通信 から ( 残念ながら今は更新されていないようです。2016年現在 )

 

 

   2013年フィンランドエスポー現代美術館で開催された Birger kaipiainen 展の様子です。

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 この貴重な写真は北欧雑貨のお店 Fukuya さんのブログからお借りしました。

 魅惑のビルゲル・カイピアイネン(Birger Kaipiainen)展 | Fukuya通信

 

 

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   4.  ARABIA社と芸術

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a.   いかがでしょう、この強烈な個性が発揮された作品たちは。先に挙げた一般家庭での食器として量産化された小奇麗でおしゃれなお皿とは違う生々しい ( もっというなら毒々しさ!) 生命力に溢れていますね。これらの作品の中には、当然パラティッシの原型になるものもありますが、この差を一体どう考えればいいのでしょう?

 

 

b.   彼は一陶芸家として自由な作風を追求したのだから、別に不思議なことではないと考えるとしたら、それは少し違います。というのも彼は独立した陶芸家であったのではなく、ARABIA社のアート部門に所属する陶芸家だったからです。普通に考えると、ARABIA社は家庭用食器を生産する会社なので、所属する陶芸家も当然、量産化を前提とした作品つくりに取り組むはずでしょう・・・。

 

 

c.   ところが上で見たように彼の作品は量産化を前提としているどころか、そんなものを無視したかのような大胆で個性的な作品になっています当時のARABIAのアート部門は、そのような自由な創作活動を保証し、生産ラインにおける量産品との統合を可能にしていました。所属の作家の作品を原型とした上でそれを量産品に上手く落とし込み優れた食器を提供する方針だったという訳です

 

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  5.  芸術作品と量産品

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a.   さて前振りが長くなりましたが、このことを踏まえた上で、僕が考えたいのは次のような事です。

 

b.   ビルガー・カイピアイネンが直接産み出した1点ものの作品の生々しさと量産品パラティッシの上品さとの間には誰の目にも明らかな落差があります ( 実際はそう感じていても、この事を語る人はほとんどいませんが )。これをそれぞれ用途が違う ( アート日常用との違い ) のだから原型と量産品との間に違いがあるのは当然としか考えられないのであれば、思考はそこで停止し、話はそれ以上進みません。僕はそこから話を先に進めたいという訳です。

 

c.   よく売れている量産型のパラティッシを所有する人達に、金額面は抜きにして ( 当然、1点ものの方に高値が付いてますからね ) 1点ものを所有したいか尋ねてみましょう。おそらく、ヴィンテージの北欧雑貨が好きなマニア以外は、所有したいとは思わないでしょう。

 

d.   なぜなら量産型のパラティッシを所有する人達は、"日常の食器使い"として購入しているのであり、その美しい食器が自分たちの食卓を華やかにする事に喜びを見出しているからです。そういう人達にとって日常生活で普段使い出来ないアートピースは別物なのであり、ましてやビルガー・カイピアイネンという作家すら後付の知識として得るものなのです ( マニアの人にとってはビルガー・カイピアイネンというネームバリューが大事なのですが )。

 

e.   このような事情に対して僕はビルガー・カイピアイネンの芸術性をもっと理解すべきだという単純な結論を出すつもりはありません。ここから先は話を進めるためには、幾つもの珠玉の論文・エッセイを書いたユダヤ人思想家 ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」を参照することにしましょう。話が長くなるので、続きは次回へ・・・。

 

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     パラティッシについて哲学的に考える〈2〉へ続く

 

 

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新国立競技場の建設問題を哲学的に考える〈 2 〉

 

 

 前回の記事 を書いている時国立競技場改修案のことも気になりました今回は建築物の改修について少し書いておきますちなみに国立競技場改修案はいつのまにか立ち消えになっていたのですがその辺の経緯についてはジャーナリストの大根田康介氏が興味深い記事を書いています国立競技場改修はなぜ消えた?:|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース

 

  それによるともともとJSCは2010年に国立競技場耐震改修基本計画の策定業務を依頼していたというそれに対する久米設計の国立競技場耐震改修基本計画はインターネット上でも見ることが出来ます ( 80ページの抜粋版ですが )

 

  そこまで話が来ていた改修案がなぜ建替えになってしまったのかそれに対して大根田氏は2010年11月に設立されたラグビー議連の政治力 ( 大物政治家が名を連ねています ) によるものだとしていますね詳しくは記事の方をまた以下に紹介する森山氏の記事でも久米設計の国立競技場耐震改修基本計画について取り上げています

 

 



  1章   世界のスタジアムの改修  

 


. 建築エコノミストの森山高至氏が世界のスタジアムの改修例を取り上げていて興味深いです新国立競技場問題シンポで世界のスタジアム改修事例を紹介 - ログミー

レアル・マドリードの「サンティアゴ・ベルナベウセリエA トリノFCの「スタディオ・オリンピコ・デ・トリノドイツの「ベルリン・オリンピア・シュタディオン」などが例として挙げられています

 

 

. では日本ではどうなのか? 日本では新築でないと銀行からの融資がおりにくい古い建築物には担保価値がないからお金を貸せないという事ですそのような状況を変えるためには改修建築の資産価値評価制度を確立する必要があると森山氏は言っています

 



 2章   北九州市立戸畑図書館

 

 

. そのあと日本における改修例として北九州市戸畑区役所 ( 1933年に建築された帝冠様式の建物 ) を取り上げていますがこれが素晴らしい建築家の青木茂と構造設計者の金箱温春氏によってこの建物は "北九州市立戸畑図書館 ( 2014年 )" として再生されました ( 青木氏はこのような改修をリファイニング建築として提唱しています )

 

 

. 既存躯体の調査の結果耐震補強を伴う再生工事だった訳ですが内部の耐震補強部材としてスチール製のアーチフレームを使用しそのほかにも円筒状の補強材や耐震壁を内部に設け地震時の水平応力を負担させているとのことです

 

 

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  上記の写真は青木茂建築工房のウェブサイトから

 北九州市立戸畑図書館|ワークス|WORKS|青木茂建築工房 

 

 

  工事前後の写真については

 

 

  この建物が素晴らしいのは1930年代の帝冠様式の外観を保存しているだけではなくスチールの補強材などを内部に設置して 目に見えるようしている点 だと思いますそれによって 私達の住む現在という時間もこの建物に痕跡として刻み込まれ、歴史の重層性を作り上げている事 が分かるようになっていますねこれはまさしく建築物が未来へ引き渡されていく遺産となっている事のよい例ではないでしょうか

 

 

新国立競技場の建設問題を哲学的に考える〈 1 〉

 

 

新国立競技場の建設問題は色々と考えさせるものがありましたね一体何が問題だったのでしょうザハ・ハディドのSFっぽい巨大なデザインばかりがクローズアップされて問題の本質が見えにくいなと思っていましたので僕なりのアプローチをしてみましたただし簡単にまとめられる類の話ではないので今回は建築家の 槇 文彦氏と 伊藤豊雄氏 に焦点を合わせながら考えますね

 



 1章   ザハ案への反対 

 

 

. まずはっきりさせておく必要があるのは今回の問題でザハ・ハディドに責任はないという事でしょう2012年9月にコンペの応募が締切られ同年11月に最優秀賞としてザハの案が選ばれたのですがその後当初の予算1300億円に対して約3000億円まで費用が膨らむ事が分かってくるにつれて問題が大きくなりましたねつまりザハの案はふさわしくなかったのではないかという声がメディア ( 特にTV ) で頻繁に取り上げられるようになりザハ案に対する懸念が市民の間でも強くなってきたという訳です

 

 

. もちろんそれ以前からザハ案に対する反対論はありましたJIA( 日本建築家協会 ) の機関紙 JIA MAGAZINE 2013年8月号にて掲載された建築家の槇文彦氏の記事「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」( http://www.jia.or.jp/resources/bulletins/000/034/0000034/file/bE2fOwgf.pdf ) を始めとして建築関係者の間ではザハ案への懸念及びコンペの在り方などに関する議論が交わされ続けていましたコンペに参加した建築家の伊東豊雄氏も人類学者の中沢新一氏や森山高至氏松隈洋氏と共に問題提起のためのシンポジウム

 ( 新国立競技場のザハ・ハディド案の問題点を中沢新一氏らが指摘 - ログミー)

を開催しています

 

 



  2章   議論の方向性 

 

 

. ただしここで注意しなければならないのは "議論の対象及び目的" をはっきりと定めることの必要性です。"何のために何をするのかそのための議論ではないか" という事ですねもし議論がコンペ審査の "見直し" を求めるという抽象的なものでしかなかったのならいくら細部に渡る議論をしても世論に届くものにはならなかったでしょうつまりザハ案で決定という審査結果を前提として見直しを求めるという考え方 ザハ案では駄目だとして審査結果をいや審査自体を "無効" にしようとする考え方 では全く違う事なんだと認識しなければなりませんこれは建築的な考え方ではなく、"戦略的な考え方" ですね建築の専門家であるのかどうかという区別よりも戦略的であるかどうかという事がここでは重要なのです

 

 

. そこについては建築関係者の間でも分かれる所ですほとんどの方は審査結果に批判的でありながらも実際の考え方としては ① の穏健派的なものだったでしょうこれは常識的な態度ではあるが状況に追随するあるいは状況に遅れて反応するという事でありこちらから状況に対して何かを仕掛けるというものではありません

 

 

. しかし少数の方は ② の考え方をして現実を動かすべきだとしました建築の専門家でありながら戦略家でもあろうとしたといえるでしょうでは誰がどのように戦略的であったのか考えましょう② の考え方の代表が槇文彦氏であり彼は先程挙げた新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考えるの後JIM MAGAJINE2014年3ー4月号においても「それでも我々は主張し続ける 新国立競技場案について( http://www.jia.or.jp/resources/bulletins/000/040/0000040/file/aBnW8H8Q.pdf  ) という記事を発表しました

 

 

. これは非常に興味深い記事で建設案の問題点とそれに対する批判も併せて上手く整理されています"新国立競技場" 2020年東京オリンピックを目標とするJSCの事業側の観点から脱出して何十年にも渡って存続するプロジェクトとして "市民主体" の観点から位置付けし直しているのですその点からザハ案および事業側的審査の在り方をはっきりと否定しています彼はそのような理論的位置付けと共にいろいろな人達と連携してザハ案の無効および新案の検討という流れを形成していきましたこれは槇文彦氏が現実を動かすことを意志していたことに他なりません彼は一連の騒動の中どこかで言ってました "自分はリアリストだ" この言葉は現実に繋がらないことはしないし何かを発信するなら現実に繋がるようにするという意味で捉えるべきでしょう

 



  3章   政治的行動 

 

 

. このような槇氏らによる行動を政治的だとして批判する向きもありますしかしこの場合どのような意味において政治的であるといえるのか考える必要があります彼は建築家としてのザハを否定している訳ではありません ( 好きか嫌いかの趣味の問題はあるでしょうけど ) が彼女のデザインは東京におけるコンテクスト ( 文脈 ) を無視するものとして疑問を投げかけたのは間違いありませんしかしそれ以上に問題なのはザハ案を選出したコンペの在り方とオリンピック開催を目標とする観点からしか物事を進めようとしない事業主なのですザハ案への批判はザハ自身に向けられたものではなく彼女の案を選出したコンペと彼女の案を遂行しようとする事業主に向けられたものだと理解すべき なのです槇氏はザハも今回の騒動の犠牲者であると言っていますね (A )。

 

 

. つまりは今回のコンペ自体が事業主側による新国立競技場建設という箱物事業のとっかかりに過ぎないものであり客観的審査が厳密に行われたものかどうか疑問が残るという意味で公平なものではなかったそのような一方的な政治的進行に対して介入するには槇氏らのような政治的行動を以ってする他はなかったでしょう

 

 

 

(A )

今回のコンペにおけるザハ・ハディドを擁護する磯崎新氏の意見も参考にしておかなければ公平ではないでしょう日本におけるコンペの国際的信用という観点から

 磯崎新による、新国立競技場に関する意見の全文 | architecturephoto.net


 



 4章   再コンペの公平性 

 


. 2015年7月17日安倍首相は新国立競技場の建設計画をゼロベースで見直すことを決めましたそれを受けての再コンペで隈研吾氏のよる A案 伊東豊雄氏による B案 のふたつに絞り込まれその結果2015年12月22日に隈研吾氏の A案 が採用されることになりましたしかし周知の通り伊東氏から A案 とザハ案が類似しているとの指摘がありましたね伊東氏のこの指摘に対して見苦しいなどと批判する見方もありましたがそうとは言い切れないでしょう再コンペが "公平" ではなかったと彼は言いたかったのです

 

 

. 今回の再コンペでは設計と施工が一体となった "デザインビルド方式" という一括発注 ( このためザハは組むゼネコンが見つからず応募出来ませんでしたね ) が条件でしたA案 のゼネコンはザハと組んでいた大成建設だったので工期の点からすると ( 鉄骨発注・資材置場の確保などの準備は既に行っていたでしょうから ) A案 有利のバイアスが初めからあったといわざるを得ないです事業主の立場からすれば建設を何としてでも間に合わせなければならない訳ですから審査委員も当然その点を考慮に入れたでしょう以上の見地からすると審査が "公平" であったかどうかは微妙なところという訳です

 



 5章   仮定の話 

 


. さてここから仮定の話ですがではもし伊東氏が大成建設と組んでいたなら選出されていたでしょうか? 大成建設の下準備を考えるなら選出されただろうと考えるのが通常でしょうしかしもし大成建設が伊東氏と何らかの理由で組む事を選択しなかったとしたらどうでしょう?

 

 

. その理由としては

推測 ①

伊東氏と大成建設は今までも一緒に仕事をしてきたことがあるので当然連絡をとっているはずですにもかかわらず組まなかったのはおそらく大成建設側の条件つまりザハ案をたたき台にするという条件がネックになったからではないか大成建設はザハ案での施工計画をすすめていたはずです部材が発注済みとすると巨額のキャンセル料などの損失が出てしまうそれを避けるために大成建設としてはザハ案を利用するしかないという訳です ( 実際隈研吾氏のA案 がザハ案と類似しているのはそのような事情からではないでしょうか )それに対して伊東氏は拒否するしか出来なかったでしょう自分が否定してきたザハ案を利用することは出来ないでしょうからそうすると大成建設は別の建築家を担ぎ出すしかないわけでそれが隈研吾氏という訳です一方伊東氏も別のゼネコンと組むしかないわけでそれで竹中工務店清水建設大林組という訳です

 

推測 ②

最初のコンペでザハに負けたというイメージのある伊東氏よりは別の建築家を担ぎだした方がイメージがいいと大成建設が考えた可能性はある伊東氏がザハ案に否定的なのも考慮した上で最初から別の建築家を担ぎ出してザハ案をたたき台とした施工計画を進めるつもりだったのかもしれないですね

 

 

. まあどちらの推測も正確ではないにしても伊東氏が大成建設のザハ案利用について何らかの事情で前もって知っていたといえるでしょうというのも再コンペで隈研吾氏の A案 が採用されてからのザハ案との類似を指摘したコメントは早すぎでしたあれは前もって疑いの目で見てなければすぐに出せるコメントではないですあら捜しは意識的にしようとしなければ見つかるものではないですからしかし伊東氏もそれ以上はコメント出来ないでしょう今後の仕事においても施工主との関係は続いていくのですから ( B )。

 

 

 

 

( B ) 2016年1/25追記分

最近週間ダイヤモンドによる伊東豊雄氏へのインタビューが行われたことを付け加えておきます (  国立競技場、B案も工期短縮は可能だった――建築家・伊東豊雄氏に聞く|『週刊ダイヤモンド』特別レポート|ダイヤモンド・オンライン  2016年1/22 )。この中で伊東氏は審査の議事録と各審査委員の得点公表を求めている事を明らかにしています旧競技場の杭の事前撤去という事前着工についてJSCとのやりとりが納得のいくものではないことも言っていますね ( A案では必要だと思われる事前着工の件は触れられていない )。いずれにせよ伊東氏はすべての事情を理解した上で審査における A案 へのバイアスがあったことをはっきりさせようとしていますねつまりこれは審査は公平であるべきと言いたいのだと理解すべきでしょうこのインタビューでダイヤモンドの記者と同席しているジャーナリストの大根田 康介氏は新国立競技場の建設問題で興味深い記事を書いていますね

 

 疑問だらけの新国立競技場:|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース

国立競技場改修はなぜ消えた?:|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース

 



  6章   コンペの在り方 

 


. いずれにせよ再コンペの在り方もゼネコンの思惑を含んだ箱物事業の進行によって支配されているという意味で "公平" ではなかったといえるでしょうしかし建築コンペにおける公平性とは何でしょう? 難しい問題ですねというのも公平というのは何か問題が発生した時に特定の利害関係から距離を置くという意味での抽象的観念でしかないからです果たしてそれが可能なのでしょうか?

 

 

. 今回の件でひとつの指針となるのがコンテクスト ( 文脈 ) の中で作品をどう位置付けるかという審査が必要という事ですこの場合コンテクストとは場所的・歴史的・経済的・生活圏的・建築思想的など( これらはあくまで僕の仮定です他にも考えられるでしょう )の複数の視点において読み込まれるべきものですそれと 応募資格の意味のない厳しい条件の廃止 ( 多様性を保つために ) ですねそういったものを徹底的に基準として確立する必要があるのかなと思いましたね少なくとも散々議論した挙句誰かの鶴の一声によって決まるというごり押し状態は避けるべきでしょう

 



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