〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ピーター・グリーナウェイの映画『 ベイビー・オブ・マコン 』( 1993 )を哲学的に考える

 

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監督  ピーター・グリーナウェイ

公開  1993年

脚本  ピーター・グリーナウェイ

出演  ジュリア・オーモンド   ( 娘 )

    レイフ・ファインズ    ( 司教の息子 )

    フィリップ・ストーン   ( 司教 )

    ジョナサン・レイジー   ( コジモ・デ・メディチ )

 



  1章  演劇の中の現実的なもの

 

この映画は、17世紀のイタリアの町で上演される『 ベイビー・オブ・マコン 』という演劇を舞台にしています。興味深いのは、映画の中では、その演劇が純粋な虚構としてのみ導入されているのではなく、現実的な要素 を孕んだものとして描写されているという事です。いや、それどころかその現実的な要素が、演劇の虚構性を撹乱して舞台上の演者、それを見る観客、の区別を無くし双方を混合させる過程を絢爛とグロテスクさよって描き出しているのです。

 

ではその現実的な要素とは何でしょう。それは劇の冒頭で醜悪な老女が産んだ 赤子、そしてその赤子に関わった結果生じる に他なりません。赤子と死、この2つの要素こそが演劇の虚構性の中における唯一の 現実的なもの なのです。

 

観客は老女がまさか本当にその場で赤子を産んでるとは思いません。その真実に気付いているのは舞台上の演者たちと、そこに観客席から勝手に上がってきたコジモ・デ・メディチだけです。赤子の誕生という 現実なもの を間近で知ったコジモのセリフ「 キリストも聖母からこのように産まれたのか?」によって、この映画の重心が聖書の 処女懐胎 の方へと傾いていく事が示されています。ただし、それはスキャンダラスな、いかにもグリーナウェイ的な手法によってですが。

  

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赤子を産んだ老女の傍らで娘は、飢餓に苦しむ社会において赤子が 奇跡の子 として自分を幸せにしてくれることを夢見て母親 ( 老女 ) から赤子を奪い取る、つまり、赤子を自分の娘であるように周囲にアピールする。しかし、娘に相手はいないので、処女懐胎 を唱える羽目になります ( 11~24. )。

  

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注意すべきなのは、処女懐胎 は娘にとって赤子の母親の振りをするためのアリバイでしかない という事です。彼女は実際には子供の出産を望んでいたではありません。彼女が望んでいたのは 社会的な成功であって、赤子はそのために必要なものでしかなかった のですね ( 飢餓が蔓延して妊娠しにくい女性たちが増えているという社会不安が背景にある )。舞台の冒頭で赤子を産んだのは醜悪な老女でしたが、それはあくまで演劇上の見せかけに過ぎないと観客に思わせて自分こそが実の母親である事 ( もちろんそうではない ) を周囲にアピールするのが彼女の欲望なのです。

  

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その彼女の欲望が明らかになる場所は舞台上ではなく、舞台の地下です ( 25~38. )。言うまでもなく、この地下は娘の隠された欲望の象徴である と解釈出来るでしょう。ここで娘は司教の息子に赤子を産んだのは自分の母であると事実を打ち明けます。司教の息子へ隠しておきたかった事実 ( 自分が赤子の母親でなかったという ) を告白するによって、それまで社会的成功の欲望を抱くのみ ( 11~16. ) だった彼女の中に男を求める欲望が芽生えた事が露になる。つまり、彼女は司教の息子と肉体関係を持ちたいという欲望を膨らませていた のです。醜悪な老女が赤子を産んだ事実を信じようとしない司教の息子に対して、娘は自分と寝ればその事実が分かる ( 娘は処女なので赤子は産んでいない ) というように話を持っていくのです。

  

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  2章  〈 処女懐胎の欲望 〉と 〈 性行為の欲望 〉

 

家畜小屋 ( もちろんこれはマリアがイエスを家畜小屋で産んだとする聖書に則っている ) で娘が司教の息子と肉体関係を持とうとすると、幼子 ( 赤子が自分の意思を持った結果であることの象徴 ) が突然現れる。幼子は言うまでもなくキリストとして描かれています。

  

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娘と関係を持とうとする司教の息子に対して、幼子は家畜によって彼を残酷に殺します、処女懐胎という幻想の守護者 として。このシークエンスはグリーナウェイ的残酷さが顕著な見せ場のひとつであり、司教の息子役のレイフ・ファインズも一糸纏わぬ姿で熱演しています。この幼子の残虐さに娘は怒り、それを見た幼子は自分の命を家畜の中に預け、家畜を殺すことによって自分を殺すように娘を仕向けます。精神分析的に考えるならば、司教を殺された娘は 自分の性的欲望の対象を失った事に怒りを爆発させた のです。それ程までに性的対象に執着していた娘はこの時、自分の中にあった処女懐胎の欲望を完全に捨て去ってしまいます。そして、それまで彼女の中にあった処女懐胎の欲望 ( 社会的欲望 ) と性行為の欲望の均衡が崩れたこれ以降、彼女は性行為の欲望の中で溺れていく 事になるのです。

  

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    3章  性的なものによって滅ぼされる娘

 

幼子を殺した娘は町の法律によって処刑されようとします。ところがここで面白いのは、町の法律では 処女は処刑出来ない というひねりをグリーナウェイは加えている事です。これによって司教は娘を処刑する為に、彼女の処女を奪う事を許可するという倒錯性 を示します。娘を処刑する為ならば、彼女を多くの人間が襲っても構わない、つまり、処刑という大義の為ならば、道徳を破壊しても構わないという歪んだ論理が現れる のです。

 

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娘の処女を奪ってよいという司教の指示は、演者たちの性的欲望を掻き立ててしまう。性的欲望が〈 演劇の虚構性 〉 を破壊して、演劇を〈 単なる猥褻な現実 〉へと変貌させる のです。司教の息子が殺されて性的欲望の対象を失った娘でしたが、今度は 娘自身が不特定多数の男たちの性的欲望の対象となってしまった 訳です。ここにおいて娘は、倒錯的に回帰してきた自分の性的欲望に直面したのですが、やがて 性的なものの根源にある へと追いやられてしまいます ( 73~78. )。実は、処女懐胎の欲望 ( 社会的欲望 ) こそが恐るべき性的欲望の奔流を防いでいたのに、処女懐胎の欲望を放棄した代償は予想以上に大きかったのです。

  

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   4章  宗教的共同体とカニバリズム

 

グリーナウェイは娘の死によって映画を終わらせません。幼子の死が残っているからです。奇跡の子、あるいは神の子としての幼子の死をたんなる現実的な死として終わらせるのではなく、その死を皆で共有させる のです。どうやって共有させるのかというと、赤子の死体を皆で食すというカニバリズム的儀式によってです。幼子 ( 神 ) は食べられる事によって単なる現実的な死から、皆の連帯の象徴、つまり、宗教的共同体の象徴へと移行する のです。もちろん、カニバリズムグリーナウェイ的悪趣味として他の作品 ( 『 コックと泥棒、その妻と愛人 』など ) でも見られるのですが、この場合、カニバリズムキリスト教儀式の聖餐 ( イエスが自分の身体をパン、血をワインとして弟子たちに共食させた最後の晩餐に由来する ) にグロテスク的誇張を施したもの ( あるいは古代宗教における犠牲の儀式 ) として解釈すべきでしょう〈 〉。

  

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