哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

ダーレン・アロノフスキーの映画『 ブラックスワン 』( 2010 )を哲学的に考える

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監督 ダーレン・アロノフスキー

公開 2010年

 

出演 ナタリー・ポートマン   ( ニナ・セイヤーズ )

   ヴァンサン・カッセル   ( トマ・ルロイ )

   ミラ・クニス       ( リリー )

   ウィノナ・ライダー    ( べス・マッキンタイア )

   バーバラ・ハーシー    ( エリカ・セイヤーズ )

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 ブラックスワン 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいたものです。なので、考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さを求める、という方はこの場所は適当ではないかもしれません。しかし、限られた人生の時間の中で物事を深く考えることに意義を見出す人にとっては、十分に刺激的な記事であるのは間違いないでしょう。

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 1. 黒鳥とニナ

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a.   二ナ ( この名前を聞くと、バレエダンサーのニーナ・アナニアシヴィリを思い出しますね ) が舞台の最後で自らの死と引き換えに黒鳥を演じきった結末をどう考えるべきなのでしょう。なぜ死ななければならなかったのか。ここで興味深いのは、"黒鳥という役柄との同一化" と "死の必然性" の両方が等しいものとして結びついてしまっているという関係性なのです。自分を追い詰める幻覚と戦いながらも見事に黒鳥となったニナのヒロイズムが頂点に達する結末は、私たちに奇妙な感動を覚えさせます。それが奇妙なのは彼女のヒロイズムと共に、精神の狂気が頂点に達していることを私たちが分かっているからに他なりません。このようなヒロイズムと狂気の結びつきを体現しているものこそ作品の主人公の演技なのですが、それについてここで考えていきましょう。

 

b.   この作品の見所は、ニナ役のナタリー・ポートマンによる狂気の演技と彼女が徐々に黒鳥に蝕まれていく様を描いたアロノフスキーの手法にあるのは間違いないのですが、まず考えてみたいのは、ニナが黒鳥を上手く表現出来ない事の原因を自分を解放していないからだと言う演出家トマの指導 ( 1~16. )についてです。

 

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c.   平たく言うと、黒鳥の官能性を上手く表現するには、ニナ自身も実生活から官能的である必要がある、つまり自分の中の官能性を解き放て、とトマは彼女に迫る ( 彼自身の欲望をそこに絡めて ) のですね。この役柄の内面に没入させるように指導するトマのやり方は通俗的なメソッド演技を極端にしたものだといえるでしょう。メソッド演技のアプローチ自体がややもすれば冷ややかな距離を以って見られている現代においてトマの指導は時代錯誤的なものなのです。

 

d.   とはいえ、アロノフスキーもそれくらいの事は承知なはず。極端化されたトマの指導はあくまでもストーリーを刺激的なものにするための誇張に過ぎないと考えるべきなのでしょう。そのような誇張的指導によってニナが黒鳥になろうとする過程を激的に描き出す事が可能になるという訳です。

 

e.   ただし、ここで気を付けなければならないのは黒鳥が官能性の象徴であるという設定です。いや、官能性という言い方は上品すぎますね。黒鳥とは性的なものの象徴であるという事です。そうすると、性的なものをどう表現するのかという問題にニナは突き当たります。これこそニナを悩まし続ける演技上の壁なのです。

 

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 2. 性的なものと演技

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a.   日常生活における性的経験の豊かさが、そのまま黒鳥の官能的演技に繋がるはずだというトマの一方的要求にニナはどうにか答えようとするのですが上手くいきません。しかし、それは無理もないのです。というのもトマが稽古以外の日常においてニナに要求するのはセックスや自慰などのエロティックな行為でしかないからです。率直に言うならトマがニナに求める官能性とは、ニナと肉体関係を持ちたいというトマの欲望でしかないという事です。

 

b.   そのようなエロティックな行為を求める事は、トマ自身のメソッド的手法の限界と同時に、そこに潜む性的なものについての浅はかな理解をも露呈させる事になるのです。ニナの立場からすると、トマの言う通りに官能的であろうとも、バレエという形式においてどう表現すればいいのかと悩むのは当然です。まさか舞台上でセックスや自慰をする訳にはいかないのですから。一方トマの立場では、日常生活での性経験が舞台上のニナの仕草や雰囲気から官能性を醸しだすはずだといういささか適当なものである事は否めないでしょう。ダンサーの振付自体は誰が踊っても変わらないのだから ( 実際、映画のラストでは舞台の開演に間に合わないかもしれないニナの代役はリリーという事で話が進んでいた )。

 

c.   このようにトマが黒鳥役に求める "性的なもの" とは性行為に他ならないという浅はかなものでしかなかったのですが、これに対するニナの反応はどうようなものだったか考えいきましょう。結局の所、ニナはトマの性的要求に答えていないのです。ニナにセックスを拒まれたトマはそれならば家で自慰をしろとニナに命じます。ニナは実家で寝起きに自慰をしようとするのですが、傍らで彼女の心配をしながら寝てしまった母親に気付いて途中で止めてしまうという具合なのです ( リリーとのレズ行為も二ナの妄想でしかなかった )。

 

d.   これはニナがトマの要求を拒んでいる事の表れだと考えるべきなのでしょうか。たしかにニナはエロティックな行為を結果的に拒んでいるのですが、だからといって "性的なもの" を拒んでいると単純に解釈すべきではないでしょう。これについて考えるにはフロイトのリビドー ( 欲動 ) の概念を参照する必要があります。

 

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  3. 性的なものとリビドー

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a.   フロイトのリビドーについてよくある一般的誤解は、リビドーを性の欲動と同一視する事です。つまりリビドーを性欲と同じ位相で考えようとする傾向があるという事ですね。これはフロイト自身が抱いていたリビドーについての初期の考え方でもあるのです。これが間違っているのは、本来、人間主体を何らかの行動に突き動かす普遍的なものとしてエネルギーの比喩が持ち出されているのに、そのエネルギーに特定の性質を付与してしまっているという事です。

 

b.   もしそうであるならば、性行為に直結しない諸々の人間行動については、その都度、何々エネルギーをという形式を際限なく持ち出さなければならなくなり、そこには理論的散漫さしか見出せなくなってしまう。なのでリビドーとはあくまで人間を何らかの行動化へと駆り立てる根源的エネルギーとして考える必要があるのですね。そのリビドーが肉体の器官 ( 性器や口唇、肛門など ) に流れ込んだ時、人間は性衝動を感じるという訳です。

 

c.   さてここで映画の方に話を戻しましょう。a. で述べたリビドーについての誤解こそ演出家トマの黒鳥という役柄に対する浅はかな理解と比することが出来るのです。黒鳥の演技上の秘密が官能性であるとしても、それを性的行為及びそこで消費される性的衝動としてしかトマは理解できません。彼は黒鳥の官能性に潜む崇高さに気付かないのです。

 

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 4. 死とリビドー、あるいは死と演技

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a.   d. においてニナは性的なものを拒んでいるのではないと言いました。これには条件を付けなければなりません。それはトマの言う性的なもの、すなわち性行為ではないという条件です。では性行為ではない性的なものとは何でしょう。それこそ 3. で述べた性衝動の根源であるリビドー、性的なものへと分化しようとする直前の緊張を孕んだリビドーに他なりません。

 

b.   ニナはトマに言われるがまま安易に性的なものへ身を委ねようとせずに、この根源的リビドーの激しさの中で黒鳥の演技の秘密を掴もうとするのです。なぜ根源的リビドーが激しいのかを考えるには、再びフロイトを参照する必要があります。フロイトは晩年、死の欲動と生の欲動という2つの考え方を提示したのですが、リビドーの根源性を考慮に入れるならば、欲動はやはりひとつのものだと考え直すべきでしょう。つまり、欲動は無差別的に動くものであり、生 ( 自己保存 ) と死 ( 自己破壊 ) はその欲動が向かう方向でしかないという事になります。この欲動が示す軌跡は生と死という両極の間で絶えず繰りかえされるという意味での激しさを備えているという訳です。

 

c.   おそらく、これこそが黒鳥の官能性の秘密であり、同時に、それは『 白鳥の湖 』の秘密でもあるのです。黒鳥に誘惑された ( 性的なものへの誘惑 ) 王子が最後に選択した行為は、白鳥と共に湖に投身自殺する事でしたね。自分の欲望を刺激して止まない性的なものの背後には "死" の背景があったという事です。もっと端的に言うなら、"性的なもの" とは、そのような "" の中から発生したリビドーに他ならないのです。単なる性的な演技を超えた先にあるものこそ、生きながら死ぬ、死につつ生きる、という未分化の両極であり、生と死のどちらが真でどちらが偽なのか見分けがつかない混沌に他なりません。ニナは黒鳥の演技において、リビドーの根源を身を以って示す事になるのです。

 

   黒鳥の舞台前にニナは控室で鏡に映る自分自身をリリーだと妄想して刺し殺してしまいます。黒鳥を演じるのは自分しかいないという執念のあまり ( 17~28. )。

 

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d.   つまり、ニナは黒鳥の舞台前に既に死んでいた。自分自身に起こった事に気付かない彼女は、まさしく生きながら死んでいたのです。そして彼女はこの状態で舞台に上がり死につつも生きて黒鳥を演じ切ります。しかし、最後の瞬間において彼女の表情には死への恐れは浮かんでいません。それどころか黒鳥を演じきった満足感で満ちているのです ( 29~36. )。

  

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e.   映画の結末において、ニナは黒鳥として生き、そして自分自身としては死にました。そのような生と死、あるいは希望と絶望、という両極は映画における自己言及的な演技設定、つまり演技についての演技、俳優が演技について演技するという設定の中で表す事が可能になったといえるでしょう。この映画における黒鳥の官能性というアロノフスキーによる設定は、ナタリー・ポートマンの狂気の演技がいかに迫真的なものであっても、それは演技についての演技であるという要素を既に含ませているという事でもあるのです。

 

f.   もしナタリー・ポートマンの狂気が演技ではなく本物であったならば、それは到底映画では使えないのであり、それが限りなく本物であるかのように匂わせる演技であるからこそ映画として成立する。つまり演技における狂気は、狂気それ自体の中にどっぷりと浸って本物であるかのように同調する事ではなく、狂気から身を引き離してどこまでも狂気であるかのように見せようとする冷徹さそれ自体の中にあるのです。そのような冷徹さに勝る狂気の演技はないのであり、そこにこそ演技の崇高さがあるといえるでしょう。

 

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