哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

ダニエル・パウル・シュレーバーの『 シュレーバー回想録 ある神経病患者の手記 』( 1903 )を哲学的に考える〈 4 〉

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ダニエル・パウル・シュレーバーの『 シュレーバー回想録 ある神経病患者の手記 』( 1903 )を哲学的に考える〈 3 〉

からの続き

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6. 脱男性化について

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a.   シュレーバーの世界観の狂気を決定付けている "女性的なもの" の自分への取り込み、これについて考えるのを避ける訳にはいかないでしょう。彼が "女性的なもの" を取り込む際に持ち出す概念が "脱男性化" なのですが、おそらくほとんどの人はこの "脱男性化" "女性化" であると漠然的に考えている、もちろんシュレーバーの精神においてという意味で 。

 

b.   しかし、回想録を細かく読むと、少なくともシュレーバーにおいて "脱男性化""女性化" ではないと言わざるをえないのです。シュレーバーは男性的なものを廃棄して女性的なものへ走ろうとしているのではありません ( 彼の表現の中にはそう思えてしまうものもありますが )。もしそう解釈してしまえば、シュレーバーが保持しているのは単なる "変身願望" に過ぎなくなってしまう。変身願望であれば、その対象が女性であろうが他のものであろうが構わないという事になるでしょう、"脱=自分" という欲望が満たされる訳なので。

 

むしろ私は、自分が、男であると同時に女であるという人間として、自分自身と性交する様を思い浮かべ・・・  回想録 第21章 p283.

 

私の人生の終焉に至るまで、女性化は徴候のみにとどまり、結局は男として世を去ることになるのかもしれないし、実際その公算の方が大きいようにも思える。 回想録 第22章 p290.

 

 

c.   しかし、シュレーバーの "女性的なもの" へのこだわりを考慮に入れるならば、他のものではなく "女性的なもの" でなければならない必然性が "享楽" の次元によって保障されていると考えるべきなのです。この享楽のためにはひとつの足場が必要となるのですが、この場合はシュレーバー自身の "身体" に他なりません。例えば男性の立場で言うなら、通常は自分の肉体的快感を得るために、"他者との性行為という身体性" を媒介にする、あるいは "他者との性行為という妄想" を媒介にして自慰行為で快感を得る、のですね。いずれにしても、自分の身体上における物理的快感を得るために、"他者の肉体という余剰回路" を差し込んで自らの欲望を増幅させるという訳です。もちろんこの他者の肉体という回路は、主体が自分の欲望に都合よくするために作られた "幻想" に他なりません。

 

d.   しかし、驚くべき事にシュレーバーは自分の "男性的身体の上に女性的特徴を具現化する" という妄想によって快感を得る。彼は通常の男性が抱く妄想と違って、"想像的な女性" を相手にするのではなく "具体的な自分の身体を妄想の対象にする" 、つまり自分の身体をより直接的に享楽しようとしている訳です。細かく言うならば、自分から他者へ向かう妄想はエネルギーを放出する減産的なものですが、シュレーバーは自分の身体の中に留まる代わりに他者 ( シュレーバーが言うところの "" ) に自分を犯させるという倒錯性によってエネルギーを内部に蓄積させて強烈な快感を味わおうとするのです。

 

私にとっては、官能的愉悦を育むことが自分の義務となっているのであるが、それは決して、他の人間 ( 婦人 ) への性的な欲情だとか、あるいはまして性的な交わりを結ぶことではない。むしろ私は、自分が、男であると同時に女であるという人間として、自分自身と性交する様を思い浮かべ、さらに、性的に興奮することを目指して、もちろん決して自慰に類するようなことではないが、ー普通ならばおそらく卑猥とされるようなー ある種の行為をせねばならないのである。 回想録 第21章 p283.

 

 

e.   おそらくこの解釈は、フロイトシュレーバーから同性愛的傾向を読み取る事を誘発させた "他者の地位" についてのニュアンスを含んでいるともいえるでしょう。つまり、シュレーバーと他者の関係性について解釈者がどう考えているのかはその他者の地位に関わっているという事なのです。

 

f.   もしシュレーバーが他者に依存し過ぎているとするならば、フロイトが分析したようにシュレーバーは彼の担当医であるフレッヒジヒと無意識において同性愛的関係を持とうとしたと分析する事も出来るでしょう。しかし、彼は自らの肉体を脱男性化して直接的に享受するために他者 ( 神 ) を "利用する" だけなのです。つまり、彼は自分の世界観の構築及びその享受のために他者を "登場させている" のであって、依存している訳ではないという事です。

 

g  とはいえ、それは彼が自分以外の人間から影響を受けていないのではない事を再確認しておく必要はあるでしょう。ラカンが指摘したように、シュレーバーは父のシニフィアンの回帰に直面し、それと上手く折り合いを付けられなかったのが彼の症候形成の一因であったという事です、全てではないにせよ。ここで一因と言ったのは、父のシニフィアンだけでは、彼の世界観 ( 脱男性化 ) 及び症候 ( 例えば内臓がないという妄想 ) における "肉体性" を説明するには足りないからです ( ラカンは精神病と身体との関係があるのを前提としていますが )。

 

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7. 肉体という現実の崩壊

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a.   恐るべきことにシュレーバーはここで、"現実" という概念についてどの精神分析家よりも先に進んでいる、あるいはラカン現実界の概念を先取りする地点にまで到達していたという事が出来るのです。彼は自分の肉体を妄想上で創り変える事で、私達が通常抱いている "現実という感覚" を麻痺させてしまう。

 

b.   自分自身の肉体、それは他の誰のものでもない自分のものであるという経験的確信が私達の現実という感覚の根拠のひとつとなっています。ところがシュレーバーは、そんな "現実という感覚" でさえ、それは絶対的に揺るがないという根拠の無い思い込みによって支えられている事を明らかにするのです。

 

c.   そんな根拠の無い思い込みを支えているものこそ、象徴的なもの、つまり言葉なのですね。 言葉は、それが指し示す物事の真実を語っている訳ではありません。それどころか言葉は、物事の真実、つまり "言葉が全く取り払われてしまった恐るべき現実" に深入りしなくてもいいように私達を守ってくれています。では "恐るべき現実" とは何か。それは "意味が無い" という事に他なりません。言葉という保護膜が剥がされた時、そこで起こるのは、それまで言葉によって指示されていた当の "物" が "" それ自体へと変貌してしまう事なのです。逆説的な事に、物理的に何も無い空虚より ( 文字通りの無であるならば最初から認識されることもないから ) も、無価値なものがそこにある事こそが人間精神によりダメージを与えるのです。

 

d.   自分の人生、自分の存在、自分の顔、手、足、内臓、骨・・・・ およそこういったものが意味のない "無" であると分かった時、なぜそういったものがあるのか、いっそのこと最初から何も無い方がよかったのではと思いたくなる程の "無の必然性" こそが人間主体を形成しているという真実によって人間は狂気に陥るのです。

 

e.   もちろんシュレーバーも最初から人を狂気に走らせる "無という現実" へ直接的に向かった訳ではないでしょう。父のシニフィアンと向き合う中で、妻ザビーネとの間に抱えた問題によって発症した時、彼はおそらく自分自身を偏執狂的に創り変えようとしていた。自分の身体を構成する言葉、自分を定義付ける言葉、そういったものが全く自分のものではない強制された象徴でしかない事を無意識的に理解していた。彼はそれを剥ぎ取り、自分で自分自身に言葉を与え再定義し、新しい自分を産み出そうとしていた。だから彼は男性でありながらも女性であるような脱男性化を唱え、自分の身体各部位を解剖学的象徴網から解き放とうとした。そういった意味で『 回想録 』とは、まさしく彼にとっての『 創世記 』に他ならなかった訳ですが、アダムでありイヴでもあろうとした彼の試みは新しい自分を産み出すための最後の抵抗であったのかもしれません。残酷なことに、このような過程においてシュレーバー剥き出しの現実界に遭遇し狂気に陥った訳ですが、同時にそれらを余すところなく書き残すように駆り立てた文字 ( エクリチュール ) の力は彼にとっての希望であったに違いないとも考えるべきでしょう 〈 終 〉。

 

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