初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。
監督 クリストファー・ノーラン
公開 2000 年
出演 ガイ・ピアース ( レナード・シェルビー )
キャリー=アン・モス ( ナタリー )
ジョー・パントリアーノ ( テディ )
■ 時間軸を逆転した作品と言われると、通常どう考えるでしょうか? 冒頭に通常であればラストシーンと呼べるものが来て、そこから事件の発端であるオープニングシーンへと巻き戻っていくようなもの、と考えるでしょう。しかし、作品を見れば分かるように、実際にはそう単純じゃない。幾つもの出来事が起きて、その出来事を遡って説明していく為に、ストーリーはその説明が終わるところで幾つも区切られていき、そこから又、後で説明が必要になるストーリーが始まっていくという具合いです。
■ もちろんこの区切りは主人公のレナード・シェルビー( ガイ・ピアース ) の記憶障害によって忘れ去られた10分前の出来事に対応しています。そうすると観客である私達の目には、とりあえずこの説明の映像が "客観的事実" であるかのように話しが進んでいきます、あくまでも取り敢えず・・・ですね。
■ ストーリーの冒頭でテディ ( ジョー・パントリアーノ ) がレナードによって撃ち殺されてしまうので、私達は、この時点でテディが何者かはよく分からないが、レナードに殺されるのだから何らかの事件の "犯人" だったのだろうなと考えるしかない( 本当はそうじゃないけど )。ストーリーが進むにつれて、レナードが記憶障害で10分前の事を忘れてしまうので、メモを取ったり、自分の体に言葉を刻んだりするのだなと理解出来ます。ここから犯人の名前がジョン・Gである事と、記憶障害も家に押し入った何者かに浴室で妻が襲われ、彼らに抵抗した時に頭部に受けた外傷が原因なのだなという事も分かります。
■ ここで注意しなければならないのは、レナードの妻が実際に死んだのかどうか分からないという事です。レナードも浴室で気を失って、妻の傍らに倒れたところで記憶を失っているからです。ただし、それは後のシーンでテディこと本名ジョン・エドワード・ギャメルがレナードに殺される直前に、真実を述べるまではハッキリしません。初めてそのシーンを見る人はレナードの妻は "誰かに" 殺されてしまったと何の疑問も抱かずにそう思い込むでしょう。
■ おそらくは、ここからストーリーは秘かに巧妙に歪んでいきます。先程、僕は遡って説明する映像が取り敢えず "客観的事実" だと言いました。しかし、実際にはクリストファー・ノーランは "客観的事実" と "レナードの主観" を組み合わせたストーリーを私達に提示しています。それがこの映画を複雑にしているのです。
■ "客観的事実" の映像は確かにレナードの10分前の状況を説明していますが、"レナードの主観" の映像( これは注意して見ないと分かりにくいと思う。レナードの妻が殺されたかのような映像、レナードが保険調査員時代の顧客であったサミーのエピソードなどモノクロ映像 )はレナード自身の歪んだ欲望によって捏造されたものです。
■ 私達は、レナードの10分前の状況を説明する "客観的映像" を見て、事件に巻き込まれてしまった彼の "受動者的側面"( もちろん、彼は事件で殺されてしまった … はずの妻の復讐をするのだから、"能動者的側面" がある事は当然なのですが )を暗黙の内に受容れるしかないのですが … 。しかし後で明らかになる、実は "レナードの主観" であった映像は、彼の歪んだ欲望を示す "完全なる能動者" のものであり、その事は、この作品を見る私達の立場を不安定にするものだといえるでしょう。
■ この作品の最初の見方だと、レナードによる殺人行為には、自分の記憶の断片を辿りながらの、殺された・・・はずの 〈 妻の復讐 〉 という大義名分があるという事になるでしょう。ここには、法に背いているとはいえ、自らの筋を通そうとする主人公の意地があるように思えます。
■ ところが・・・テディことジョン・エドワード・ギャメルがレナードに殺される前に明らかにしたように、犯人であるジョン・G は既にレナード自身が殺していて、それどころか麻薬捜査専門の警察官であるテディは自分が用意した麻薬取引に関わる人間をジョン・G だとレナードに思わせて何人も殺させていたのです。
■ レナードはどこかでそれに気付いていたのでしょう。ナタリー( キャリー=アン・モス )からの情報( テディの本名がジョン・ギャメルである事。ジョン・Gを連想させますね )もあってテディを疑いの目で見ていたのは間違いないです。
■ まあ、ジョン・エドワード・ギャメルがテディという通称を使っていたのは( 自分が犯人である事を隠すためのように私達には思えるかもしれませんが )たんに犯人とたまたま名前が似ていて、レナードに勘違いされて殺されてはたまらんと思ったからでしょう( 結局、殺されてしまいましたけど )。もし犯人であれば、疑われる可能性があるのにレナードにわざわざ近づく必要はないでしょうから。でもジョー・パントリニアーノの好演もあって、テディがかなり怪しいので、犯人っぽく見えるのは確かです。それもノーランの狙いのひとつでしょう。
■ テディが新たなるジョン・G としてレナードの前に送り込んだ麻薬取引に関わるジミー・グラント( ジョン・G を連想させる名前ですね )から、この件にテディが関わっている事を聞きだしたレナードは自分が利用されている事を知って、テディに怒りをぶつけます。
■ そしてテディは記憶がないレナードに 〈 真実 〉 を伝えます。つまり、ジョン・G は既にレナード自身が殺した事、レナードの妻は殺されてはいなかった事、それどころか妻を殺したのはレナード自身である事、それはレナードがよく話す記憶障害のサミーのエピソード( 妻に正常であるかどうか試されたサミーが妻の糖尿病のためのインシュリン注射を何回も打ちすぎて殺してしまう事 )がレナード夫妻自身の事であったという事、などです。
■ テディが "真実" を話した時、レナードは愕然とします。この時、レナードは自分が記憶障害である事をテディに利用され振り回されていた事を認識したのです。テディの方からすると、"探偵ごっこ"( テディがレナードを皮肉った言葉です )を繰り返すレナードに付き合ってあげ、ジョン・G らしき人間を与えて、満足させてやった代わりに殺された麻薬密売人から金を奪っていたので、お互い様じゃないかという所でしょう。
■ さて、ここからが倫理的にも哲学的にも考察が難しいところになっていきます。というのも、たとえレナードが記憶障害によってテディに利用されていたとしても、"探偵ごっこ" を繰返し、殺人は彼自身が行ったことなのは間違いないのですが、それを悔いることなく、自分をこのような悪循環に追い込んだ張本人として、テディを始末することを即座に決断するのです。
■ 映像では、後で自分の判断の迷いのもとになるジミー・グラントの写真を燃やして、テディの写真に "奴のウソを信じるな。奴を殺せ" と書き込むシーンです。これは明らかに 10分後の記憶障害を算段に入れながら彼を殺す意図を達成させるためのもの です。レナード自身が言っています "カタをつける"と。
■ ここからはもう少し、詳細な説明が必要になるでしょう。というのも、もしレナードがこの "探偵ごっこ"という自分の生きてきた世界をどう捉えるかによって解釈が変わってくるからです。
■ 少し洗練された精神分析的考えだと、"探偵ごっこ" という彼の捏造の世界を、レナードは永遠に犯人探しをするという形で擬似満足的に享受している、とするでしょう。そうすると、そこにそうではないと真実を告げたテディは レナードの "享楽" を邪魔する者として排除される というわけです。これはまさに、彼が自らの "歪んだ欲望" によって彼が能動的に動けるように創られた世界です。ただし、この立場は、"自分が妻を殺したという現実" を永遠に受容れないという代償 を払い続けなくてはなりません。
■ もうひとつの考え方は "探偵ごっこ" という自分の世界の外に "別の世界" がある事にレナードが気付くというものです。そのためには 自分がいる "悪循環の世界"( テディが真実として知らせくれたもの )をテディを殺す事によって断ち切るしかない という立場です。レナードはテディから真実を聞いた後、運転中に車の中で、ベッドで妻と寄り添う場面を思い浮かべながら( 良き思い出として昇華させたと解釈すべきでしょうか )、"外の世界" について独り言をつぶやいてますね。
■ この時、彼の行動テーマは "妻の復讐" から "外部への脱出" へと秘かに移動しています。自分をより客観的に存在させなければならない。"自分という主体" へのこだわりですね。哲学的に言うならば、ハイデガーの言う "Ex - sistenz"、つまり自分の外側に立つ事によって初めて自分を存在させる事が出来るという訳です。ただし、それはテディのような他人の手の平の上ではなく、自分自身の手で成し遂げなければならない、自分の記憶障害を利用してでも。そのための手段が "殺人"というのは、余りにも罪深い事ですが …… 。
■ それにしても、"探偵ごっこ"していた時の殺人は "妻の復讐" という大義名分によって遂行されましたが、"テディがジョン・G ではない"( なぜならレナードはテディ自身から真実を聞いているから ) と分かる今、レナードは自分の 〈 記憶障害 〉 を "故意に" 利用しる。テディから聞いた "真実" を "記憶障害" を使って封印し、テディを自分の中でジョン・Gに仕立て上げてしまうという確信犯的行為に走る のです。そして10分後にはそれまでのことを忘れてテディを殺してしまうという訳です。
■ 同じ "殺人" でもレナードの中では全く意味合いが違っていたのです。しかし最終的には自らの記憶障害を利用しての確信犯的殺人の意図を帳消しにするという恐るべき謀略に至るのです〈 *1 〉。
〈 *1 〉
メメントを解説している記事は他に多くありますが、それらから抜け落ちているのが、自分の記憶障害を利用するレナードの悪意についての考察 です。このポイントを押さえておかなければ、メメントを理解できていないと言っても言いすぎではないでしょう〈 *2 〉。
〈 *2 〉
この意味で、ラカン派精神分析の視点から『 メメント 』を分析した映画理論家のトッド・マガウアン でさえ『 メメント 』を完全に理解出来ていないといえるでしょう ( 映画とラカン派精神分析の結びつきという事でピンときた人もいるでしょうけど、彼もスラヴォイ・ジジェクのスタイルを踏襲している )。彼は『 クリストファー・ノーランの嘘 思想で読む映画論 』( フィルムアート社 2017 ) で50ページ近くに渡って『 メメント 』を詳細に論じているのですが、『 メメント 』の真実、つまり、殺人の快楽に耽るレナード に気付く一歩手前で留まり、そこから先に進むことが出来ないでいる。
映画は、知る主体 ー あらゆる個人的な犠牲を払って真実を発見する事に没頭する主体、すなわち真実のために真実に身を捧げる主体 ー としてのレナードのイメージを作り出す。そして、映画の終わりでは、彼が実は欲望する主体であったことが明らかにされる 。
『 クリストファー・ノーランの嘘 思想で読む映画論 』p.85
ここまで考察出来ていながらも、マガウアンはレナードが欲望していたものが実は "殺人行為" であったことに気付かないのです、残念なことに。
■ ここには "倫理的なものの恐るべき欠如" があります。"恐るべき"というのは、テディが犯人ではないと知りながらも殺す決断したレナードが、通常であれば、後で自分を罪の意識で苛むことになるであろうその決断を 自らの記憶障害を利用して消去してしまう からです。殺人の動機を自分自身から他人へと転嫁する事によって 殺人行為を正当化してしまう のですね。
■ その狡猾さに気付くと、私達の彼に対する見方は、冒頭とは違うものへと秘かに変わっていきます。つまり、当初は "妻の復讐という大義名分" が彼の殺人行為を正当化するものであるように私達は思い込んでいましたが、その大義名分ですら彼の殺人行為を正当化するための "アリバイ" であった事になるのです。
■ そうすると、ここから引き出される最悪の結論は … 彼が殺人という行為自体を欲望していた、というものです。レナードが所持するポラロイド写真の中には、テディが写したレナード自身の写真がありました。殺人を犯した後の狂喜の表情を浮かべるレナードがそこには写っています。
■ その写真は、妻を殺した犯人( 実際にはレナードが殺した )をレナードが必死に探すというストーリーが進みながらも、レナードに対する "異和感" を私達の中に引き起こすものでした。その "異和感" は間違っていなかったのです。このノーランの仕込みの凄さ …… 。でもその仕込が凄すぎて、その "意味" を理解出来ていない人が殆どですが。
■ クリストファー・ノーランは 時間軸の逆転 という技術的手法で、私達にストーリーの謎解きの楽しみを与えながらも、"その傍ら" で倫理的次元の欠如したレナードの歪んだ欲望( 殺人のために自らの記憶障害を利用する狡猾さと悪循環の世界から抜け出したいという必死の思いが奇妙に結びついているという具合の )を提示していたのです。
■ ノーランはインタビューでこの映画を見る人に自分の記憶について考えてもらいたかったと言ってましたが、実際には、この映画の効力は、"記憶の問題" を飛び越え、その裏に潜む "人間の欲望と倫理の問題" に到達していた といっても言い過ぎではないでしょう。最も、ほとんどの人はその点に興味を示さないかもしれませんが。
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