〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 3 〉

 

 

 前回 ( 上記 ) の記事の続き。

 



 5章 悪の出現



ようやく、ここにきて『 白いリボン 』におけるハネケの無意識的狙いを哲学的に解釈出来ますね。そのためには、ハネケの『 ファニーゲーム 』を念頭に置いておく必要があります。『 ファニーゲーム 』は通常は大雑把に暴力的映画として語られてしまうのですが、この映画は暴力ではなく "悪"、それも悪の暴力的行為についてではなく、"悪の出現"、あるいは "悪の生成"、についての映画だといえるのです。

 

ハネケは『 ファニーゲーム 』について、次のように言っています。 

 

( ハネケ ) この映画は、挑発という点において、私が望んだように機能してくれて、何人かの人たちを激怒させることになりました! しかし、実際には、観客が激怒しなければならないのは、自分自身に対してなのです。この映画を最後まで観ることのできた人はそれに相応しいと私はずっと思っています。なぜなら、彼らを上映室に残るように強いるものは何もないのですから。私の目的は、暴力の真の姿を見せること、そして、観客がいかにして虐殺者の共犯になりえるかを示すことにありました。

 

ミヒャエル・ハネケの映画術 彼自身によるハネケ 』  p.213 ミシェル・スィユタ / フィリップ・ルイエ 訳・福島 勲 水声社 2015年  

 

今一度、確認しておくと、ハネケが『 ファニーゲーム 』で試みようとしたのは、殺人者たちと観客との共犯関係に他なりません。共犯関係・・・これは細かな解釈が必要な概念だといえるでしょう、少なくとも、ハネケが示そうとする哲学的身振りにおいて。ここで最も避けるべき凡庸な解釈は、ハネケは殺人行為の傍観者たる観客に罪の自覚を求めているという擬似神学的なものです。残念ながら、その解釈では、共犯という関係性によって接続された結果としての "殺人犯 観客という集団的なもの" において、いかなる力学が働いているか、が見えてこないのです。

 

では、集団的なものにおいて作用する力学とは何か。それは "権力" です。 ただし、ここで注意しなければならないのは、ここで言う "権力" は政治的パワーゲームとしての権力ではないし、"集団的なもの" に関しては、指導者とそれに従うフロイト的集団心理学が適用できる集団の深層心理ではないのです。

 

ここで言う "権力" とは、政治以前の権力、つまり、人間が何人か集まると自然発生する "支配的力学" だといえるでしょう。この支配的力学は集団的の内部で働く場合もあれば、集団の外部に向かう場合もあります。例えば、内部の場合、子供たちが通う学校の1クラスでのいじめを考えてみましょう。何らかのきっかけである子供がいじめの標的となるとしても、そこに直接的には関わりのない周囲の大多数の子供たちが細かい事情を知らなくとも、標的の子供をいじめるという雰囲気を共有することで支配的力学を無自覚に形成するのです ( もちろん、そこにはいじめに関わっていない子供たちもいるのですが、いじめを "知っている" 事で支配的力学に関わっている )。

 

これと似たような事例はラカンマルクス主義哲学者スラヴォイ・ジジェクの小話にも見出すことが出来ます。どこで読んだかは忘れたのでうろ覚えですが、ジジェクは次のような話をしています ( スロヴェニア出身の彼は一時期、東欧にちなんだ小話や経験談を定番的に用いていた )。ある戦争に衛生兵として参加したジジェクは、兵士たちのテントでの隠語による卑猥な会話を理解出来ない真面目な1兵士が、話を理解する皆に嘲笑されてしまう状況を目の当たりにします。ジジェクがここから引き出す結論は、真に猥褻なのは、兵士たちの会話ではなく、真面目な兵士をあざ笑う集団性であり、それこそが隠れた権力の卑猥さに他ならない、という事です。つまり、集団性には、人間が人間を標的化する事で自らを維持しようとする権力の萌芽が猥褻的に潜んでいる と解釈出来る訳です。これこそが、権力は "下から発生する" とジジェクが言うところ ( フーコーを経由して ) の意味だといえるし、ここには、どんな集団であれ、そこには何らかの権力が発生している 、と付け加える事が出来るでしょう。

 

ここで、今度は、5章 で述べた集団が外部に向かう場合を考えてみます。これこそが、『 白いリボン 』においてハネケが描き出す、集団的なものの支配力学が "悪" の出現基盤として権力を振る過程なのです。『 白いリボン 』の子供たちは幾つもの犯罪行為を犯すのですが、それははっきりと明示されないし、子供たち自身も自らをプロの犯罪集団とは意識していません。彼らは、子供たち同士の何となくの結びつき ( それは集団の明確さを未だ持ち得ていない故に "集団的なもの" と呼ぶべきでしょう ) の中で犯罪行為を "歪んだ無自覚さ" を以って為すのです。

 

子供たちがその支配力学を外部に向けるというのは、標的に対して具体的な行動化を起こす ( 犯罪行為 ) という事なのですが、その過程において集団的なものは、標的へのアクティング・アウトと同時に、集団的なものにおける内部性である結びつきを外部へと拡張させて接続を求めようとする。犯罪を犯しながら集団的接続を求めていく。 『 ファニーゲーム 』の殺人犯は観客と結びついていく。いじめを行う生徒たちは、周りの傍観者を引き込もうとする。『 白いリボン 』の子供たちは、犯罪行為を行いながら自分達の集団性を形成し、大人の目を眩まそうとする。いずれも、集団性という構造が、犯罪行為の責任主体を炙りだすどころか、消失させる機能を作動させてしまう のです。これによって集団的なものにおける支配的悪の出現が可能になるといえるでしょう。誰が犯人なのかは分からないという不特定性がさらなる悪の行為を連鎖させる 訳です。

 

そして『 白いリボン 』における子供たちが恐ろしいのは、自分が子供であるが故に犯罪から遠い無邪気な存在であるのを大人に対して演じられると "信じている" 点です。それを見破られそうになり子供たちが焦る以下の場面。

 

子供に問いただす教師。もう既に教師は、子供たちが事件の犯人であるのに気付いている。子供たちも教師の考えていることを察して内心追い詰められ、親を呼ぼうとする ( 15~30. )。

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教師の追及は、子供たちの親の介入によって失敗してしまうのですが、これによって、真犯人が誰だか分からないように謎めいた結末をハネケが用意したのだと考えてしまうのは余りにも平凡すぎるといえるでしょう。ここで、刺激的な哲学的解釈をするならば、ハネケは結末を謎にしたのではなく、犯人が誰だか分からない不特定性を本質とする 集団的なものの最悪の権力行使 をはっきりと描いたのだ という事です。そして、最終的には、この集団的なものは、子供という階層を超え、子供を取り巻く尋常ではない大人たちを超え、人格を超えた猥褻な権力の原型である "村それ自体" として象徴されるに至る 訳です〈 続く 〉。

 

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  次回 ( 下記 ) の記事に続く。