〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 『 野生の叫び 』( 1972 : directed by ケン・アナキン ) を『 さらば、愛の言葉よ 』( 2014 : directed by ゴダール ) と共に哲学的に考える〈 2 〉

 

 

 



 

 

A. ケン・アナキンはこの作品の創造において、ジャック・ロンドンの方法論を無意識的に踏襲している。 動物の視線の先にある世界、彼らには見えているが人間には見えない世界、を 人間が動物を見る視線動物が人間を見る視線 と交錯させる事によって浮かび上がらせようとしている 。

 

B. しかし、人間には見えない動物の見ている世界があるとしても、それは世界が人間だけのものではなく、動物固有の世界があるのだというような動物尊重のパースペクティヴで以って話を終わらせるのは話が早すぎます。 というのも 動物の見る世界の中には、動物を見る人間 ( たんなる人間概念ではない ) も含まれている からです。 おそらくそこでは動物は人間を〈 人間 〉としては見ていない。 自分を〈 人間 〉であると思っているのは、人間の勝手な 自己言及的定位 であり、ジャック・デリダの批判する極めて 人間中心的な形而上学的振舞いに過ぎない からです。 動物の世界においては人間は〈 人間 〉ではないのだとするのなら、一体何なのか、それは双方同じ〈 動物 〉だというのも単純すぎる。 それでは動物の意識、動物の思考が全く考えられていない、彼らが〈 私たち 〉をどう捉えているのか、を全く考えていないのです。 動物は自分たちを〈 動物 〉だとは思っていない のですから。

 

C. このような思考の経緯が導かれるのは、そこでは人間が動物を見る視線と動物が人間を見る視線は互いに交錯的になっているが故に、すれ違っているからなのですね、先に述べたとおり。 お互いが、すれ違いつつ出会うのは、この視線の交錯する目には見えない不可視の圏域において なのです。

 

D. ケン・アナキンはこの作品において、一つのスクリーンの平面において、人間と動物の交錯する世界を並列的に描き、人間的なものでなければ動物的なものでもない、どちらか一方のみには属さない 不可視のもの を目に見えるよう試みている、無意識的な方法で以って。

 



 

 

A.  不可視のものを目に見えるようにする …… 、この一見すると矛盾であるかのような概念をジャン=リュック・ゴダールは 『 さらば、愛の言葉よ 』 においてクロード・モネを参照しながら 3D映像 で示している。 そこでは通常に眺めるとぼやけて見える3D映像が、粒子の粗い点描化された映像 へと静かに移行していく。

 

B. 雨の降る夜道を車の中のフロントガラス越しに見る光景 ( 41~42 )。 この時点では暗すぎて 〈 何も見えない 〉。 しかし、夜が明けて日光 ( モネが絵画制作において注意を払っていたもの ) が差して来ると 〈 違うもの 〉が見えて来る。 そこには 青と緑が点描化された光景が絵画のように 浮かび上がっている ( 43~46 )。 そう、ここでゴダールはモネの睡蓮を始めとした作品にオマージュを捧げている。 3D映像を普通に見た時の粒子の粗さを 意図的に モネの点描画に重ね合わせているのですね。

 

ジャン=リュック・ゴダール『 さらば、愛の言葉よ ( 2014 ) 』より

 

クロード・モネ『 藤 ( 1919~1920 ) 』


C. 「 見えるものを描いてはいない ( 42 ) 」、 「 だが 見えないものを描いているのでもない ( 43 ) 」、 「 見えないことを描く ( 44 ) 」 。 ゴダールが論じるこのモネの驚くべき到達点においては、人間であれ、動物であれ、各々が自分の視線で捉える世界が交錯した時に発生する 不可視のもの が、人間のものでも動物のものでもなく、3D映像原理において左右の眼の振り当てられた ふたつの映像の交錯的焦点化 によって浮かび上がる ひとつの可視化される映像 と重なり合う ( )。

 

D. 『 さらば愛の言葉よ 』 におけるモネの不可視のものの描写というひとつの帰結は、ジャック・ロンドンへのオマージュと共に導き出される。 クロード・モネジャック・ロンドン、この二人への参照は 『 さらば愛の言葉よ 』 の後半を支える哲学的基調となっていて、モネの風景画の世界は、ロクシ― ( 犬 ) が歩き回る自然の世界と繋ぎ合わされている。

 

 

E. ロクシ―は自然の中を歩き回る ( 47~50 )。 ただし、私たちとは違う見方で。 私たちとは違う事を考え、違う事を学びながら、自然から。 しかし、その自然は私たちの自然とは違う。 自然との接触。 人間が自らの意識の措定の根源を、ヘーゲル的な 他者との反照的関係 に求める ( 自己意識という知 ) のに対して、動物は自然から学ぶ、見えないものを見えるようにするという知 を自然から学ぶ。 流れる水としての川 がロクシ―に幾つもの事を教えてくれる、水という人間的概念を持たないロクシ―に。 水面に映る自分、周囲の自然、その中に佇む何者かとしての自分、その自分を写す水、を知る ( 51~53 )。 モネが水面から、そして水面下から、直接的な自然それ自体ではなく、不可視のものとしての自然を気付かせてくれる水面から、学ぶように ( 54~56 )。 水を ひとつの概念 として知ることが無くとも、水は流れる続ける川として動物に 見えない何か に対して動き続ける事を教え、その場に留まる池としてその水面で以って、動物とモネに 見えないものを見えるようにする観察という行為 を教える …… 。

 

 

 

F. モネは風景を、誰のものでもないが、たんなる物理的現実として描いたのではなく、誰かや何か ( それは生物に限られるものではない ) が互いに主体的に見つめる 脱人間的視線の交錯の中に出現しているもの として描いた。 人間のものでなければ動物のものでもない、しかし、人間や動物とは無縁に存在する世界でもない。 人間と動物が互いに同等の "視線の権利" で以って、互いを主体的に交錯させた時にしか生まれない世界 ( )。 見られるもの として出現する 見えないもの。 これは矛盾した世界が現れるという事ではなく、見えないもの・不可視のもの、が 見ようとする以前に視野に既に現れているからこそ の視線を可能にする 接触 の経験 ( 見る・触る・嗅ぐ・描く・書く、等の ) の具現化だといえるでしょう。 ジャック・ロンドンの描いた見えないものの世界は、ケン・アナキンによって可視化され、ゴダールによって深く掘り下げられ、私たちに接触させるようにしてくれたのですね。 この静かなる粘り強さ。静かなる喜び ……〈 終 〉。

 

 

( )

この 「 見えないことを描く 」 は 「 見えるようにすること 〔 Sichtbarmachen 〕」 を下敷きにしている。 パウル・クレー ( 1879~1940 ) が 『 創造者の信条告白  ( 1920 ) 』 の書き出しで書いた有名なこの言葉は、メルロ=ポンティによって 「 見えないものの可視性 」 という哲学的表現にまで高められている。 モネを一つの眼だと称賛したセザンヌ以降、〈 見えないものと見えるもの 〉はパウル・クレーの重要な芸術的関心であり続け、メルロ=ポンティにおいて哲学概念として練り上げられ、ゴダールの映画へと流れ込んでいく。

ただし、( 42~43 ) の言葉はモネ自身のものではなく、マルセル・プルーストの 『 ジャン・サントウィユ 』 における文章をモネのものであるかのようにゴダールは引用している ( 引用の多いゴダールではよく見られる改変ですね )。

 

( )

ジャック・デリダはこの人間と動物の視線の交錯について 自分の裸 / 裸の自分 を猫に見られる という状況を引き合いに出しながら粘り強く語る。 長くなりますが示唆に富むので引用しておきましょう。

 

 

 何が恥ずかしいのか、そして誰の前で裸なのか? なぜ恥が押し入るにまかせるのか? そしてなぜ、恥じることを赤面するあの恥なのか? はっきりさせておかなければなるまいが、わけても猫が、裸の私を、正面から、差し向かいで観察する場合、そして私が、猫の眼に対して裸である場合のことなのだ。猫は私を足先から頭まで見つめる、いわば、ただ見るために。

 

ジャック・デリダ『 動物を追う、ゆえに私は ( 動物で ) ある 』 マリ=ルイーズ・マレ / 編 鵜飼 哲 / 訳 筑摩書房 ( 2014 ) p.18  

 

 何が恥ずかしいのか、そして誰の前で恥ずかしいのか? 獣のように裸なのが恥ずかしいのである。一般に信じられているところでは、だが、まもなく私がたずねにいく哲学者たちは誰一人そのことに言及していないのだが、獣たちの固有のものとは、そしてそれらを人間から最終的に区別することとは、裸でありながら裸であることを知らないことである。ゆえに、裸ではないこと、おのれの裸ではないこと、おのれの裸についての知を、要するに善悪の意識を持たないことである。

 そうであるとすれば、それと知らずに裸である動物たちは、真実には、裸ではないことになるだろう。

 それらは裸であるがゆえに裸ではないことになるだろう。

 

前掲書 p.19 

 

 破廉恥であり続けなければ羞恥心を持ちえないのなら、またその逆も成り立つのなら、羞恥とは何か? 人間は裸であるという感覚を持つがゆえに、すなわち羞恥あるいは恥を知るがゆえに、もはやけっして裸ではないことになろう。動物は裸であるがゆえに裸ではないことのうちにあることになろうし、人間はおのれがもはや裸ではないところで裸であることのうちにあることになろう。これが二つの裸ならざる裸のあいだの差異である、これが両者のあいだの間〔 時間 temps 〕ないし間の悪さ〔 contretemps 〕である。

 

前掲書 p.20~21 

 

 裸の私を見つめる猫の前で、私はもはや裸であるという感覚を持たない一匹の獣として恥じているのだろうか? それとも反対に、裸であるという感覚を保持する一人の人間として恥じているのだろうか? そのとき私は誰なのか? 私は誰を追うのか? それを誰に問うべきなのか? 他者のほかに? そして、おそらくは、猫自身のほかに?

 

前掲書 p.20~21

 

 

デリダと同じくゴダールも 『 さらば、愛の言葉よ 』 で次のように語らせている。

 

 



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