哲学的考察と備忘録

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手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(4)

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手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(3)からの続き。

 

 

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a.   このテーゼの内容を掘り下げる必要があるでしょう。手紙が彷徨うとはどういう事であるのか? 受取られても逃げ去るのはなぜなのか? それは手紙の行程そのものに関わる問題でもあります。手紙は一体何処に向かうのか? 宛名人に向かってなのか? 確かにそうでしょう。しかしそれは宛名人が最終の目的地である事を意味するのか? もしそうであるならば、最終とはいかなる意味でそうであるのか? 手紙の行程がそこで全て終わる事を意味するのか?

 

b.   確かに象徴的身振りとしては受取りは差出しから始まる手紙の行程を完了させるものです。しかし、その身振りは手紙の内容に同意するにせよ、しないにせよ受容れ( 受取りとは違う )を一旦保留する事を意味する行為でもあるのです。とりあえず受取りました、あなたの気持ちは受け止めておきますという事であり、そこから先どうするかは受取人の自由なのです。

 

c.   そのような自由の行使権は、受取人が既に手紙の行程の一部として巻き込まれている事に対する抵抗でもあります。手紙における宛名の署名が受取人本人ではなく差出人によって先取りされているという受取人の自由の剥奪に対して、受取人は自分の自由を行使して対応・対抗するのです。受取人が手紙を受容れる ( これはもちろん手紙の内容に全面的に同意する事を意味するとは限らない ) にせよ、手紙の受容れを拒否する ( 自分を手紙の行程の最終目的地としての受取人になるのを否定する事 ) にせよ、それは受取人の裁量に委ねられている。

 

d.   そしてそのような余地があるという事は、手紙の受取りが行程の最終目的地とする見方が局地的・限定的である事を意味しているのではないでしょうか。手紙の受取りが差出人の行為に賭けられたものを全て返済するものであるというのは困難であるのではないでしょうか。というのは差出しという行為は手紙の内容を含む差出人の固有圏域の唐突な送り出しであり、それに対して受取人はいかなる態度で対応すべきなのか即座に判断する事は困難であるからです。それがプライヴェートなもの ( 愛の告白など ) であればなおさらそうです。

 

e.   それ故に一度動き出した差出人の固有圏域は、受取人がそれをすべて受容れる事の困難さによって、受取を最終地点としてそこに留まる事が出来ずに通過する。それが手紙が彷徨うという事の意味なのです。そのような自らを受取ってもらえない事の報われなさは悲劇であるのでしょうか。いや、そうではありません。その報われなさは確かに差出人を気落ちさせるかもしれないが、それこそが個人の固有圏域がある事を示しているのです。

 

f.   それは報われなさという否定性から展開される弁証法的論理ではない。報われなさの身振りとしての彷徨いは、幽霊が取り囲むかのように、個人の固有圏域に触れる。いかなるものによっても定義する事が困難な( なぜなら個人という言い方でも十分に個人的でないから )個人の固有圏域は、何処にも届く事なく、承認される事なく、見向きもされなくても、実在する。ただし彷徨いながらであるが。それは終わる事のない差出しとして人々の間を通過し漂流する、そうする事しか出来ないのです。なぜならいかなるものも個人の人生を定義出来ないし、いかなるものも個人の世界を知らないから、手紙を差出す本人以外は。しかしここで言う本人とは僕であり、あなたであり、すべての者の事であるのです( 終 )。

 

 

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