〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ルイス・ブニュエルの映画 『 欲望のあいまいな対象 』( 1977 ) を哲学的に考える


初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

 

 

 

監督  ルイス・ブニュエル
公開  1977 年   
出演  フェルナンド・レイ    ( マチュー・ファベール )
    キャロル・ブーケ     ( コンチータ )
    アンヘラ・モリーナ    ( コンチータ )

 



 



 『 欲望のあいまいな対象 』、この謎めいて魅惑的なタイトルは、これを解釈せざるを得ない誘導的な響きを漂わせていますね。哲学的解釈、精神分析的解釈、はもちろん、そのような解釈を退けてしまうような天邪鬼的な "あいまいさ" も、そこには含まれている ( ブニュエル自身がそういう発言をしている )。それだけに、この映画はタイトルが、映画の内容を上手く強化している例として考察する価値があるといえますね。

 

 欲望のあいまいな対象・・・もちろん、これはマチュー ( フェルナンド・レイ ) にとっての、コンチータ・・・というよりは "女性という一般的なもの" ( A ) だと取り敢えず考えるのが妥当でしょう。コンチータが、キャロル・ブーケとアンヘラ・モリーナの2人の女優によって演じられるという奇妙な設定 ( B ) からは、そこに何か意味があるというよりは、2人の差異がマチューにとって気になるものではないという意味で、マチューはコンチータという個別的人間ではなく、"女性的なるものという一般性" を欲望の対象にしているという解釈を導き出すべきなのです ( C )。マチューにとっては、彼の思い抱く女性的なるものの投影先がたまたまコンチータであったという訳です。またブニュエルの一連の作品を見れば、"女性的なるものという一般性" が彼のテーマのひとつである事が分かりますね。

 

 だからこそ、マチューはコンチータとの愛憎劇を懲りずに何度も繰り返す事が出来るのです。彼はコンチータとの愛憎劇を通して、彼の欲望の対象である "女性的なものという一般性" に接近しようとする。仮にこの "女性的なもの" を考慮に入れずに解釈を進めてしまうと、マチューの振舞いは、自分の欲望の対象であるコンチータに向かう途上にいつまでも留まる事によって、欲望を終わらせずにいつまでも享楽しようとする歪んだものに他ならなくなってしまう ( D )。そうすると、この映画、いやブニュエルの映画における "女性的なもの" について考える方向性は閉ざされる事になる。つまり、ここにはなぜ男は女に魅了されるのか、という普遍的問題があるのであり、"女性的なもの" が果たして、男の欲望の彼岸にある "実在するもの" なのか、それとも、男の欲望が投影されただけの此岸からの "幻想" なのか について考える契機があるという訳ですね。

 

 それにしても、コンチータはマチューの思いどおりにならず、彼を振り回す。もし、これをマチューがそんなコンチータの我儘振りさえも自分の欲望の範囲内に含めていたと解釈しようとしても、マチューがコンチータの顔を叩く場面を目にすると、少なくとも、この映画においては、そのようなマチューの自己享楽的解釈から有益な何かを引き出す事は難しいと思われますね。

 

 そうすると、ここで欲望の運動の主導権を握っていたのは、マチューなのではなく、コンチータだったと考え直すべきでしょう。コンチータは身勝手な振舞いをしながらも、マチューの欲望の対象であり続けようとして彼を上手くその気にさせるのだから。そう、ここで支配的なのはマチューなのではなく、コンチータなのですね。コンチータへの終わる事ない欲望を維持させようとしているのは、マチューではなく、コンチータ自身であったという訳です。コンチータは自分がマチューの欲望の "対象" である事を意識した 上で、その対象であり続けようとする隠された主体性にどっぷりと浸っているのに対して、マチューは表面的な主体性 ( 経済力など ) にも関わらず、主導権を握れずにいる。

 

 ここがマチューとコンチータの振舞いの違いですね。コンチータはマチューの欲望を操作するために、母親や恋人などを使って、マチューの欲望が自分に集中するような状況作りを行う狡猾さがあるのに、マチューはそれが出来ずに、不器用にコンチータを思い続ける事しか出来ないが故に主導権が握れない。

 

 欲望の流れを支配するための状況を作り出す現実的能動性を発揮するコンチータに対して、マチューはコンチータの作り出す状況に追従するしかないという抑圧の中で自分の欲望を維持する。ここにおいてマチューの欲望の実存的形式が明らかになるでしょう。コンチータの打算的な振舞いに関わらず、マチューが彼女を求めてしまうのは、彼女を通じて "女性的なるもの" へ接近しようとしている からだといえますね。この "女性的なるものへの接近" こそが、マチューの欲望に他ならないのですが、その "女性的なるもの" は実在するかどうか分からないが、幻想のレベルでは存在する。この幻想に取り憑かれているのがマチューなのであり、彼の能動性は、その幻想を維持するだけという悲劇的なものであるのは明らかでしょう。

 

 

( A )

これは男を魅了するという意味で、謎めいているが、普遍的なものでもありますね。男はなぜ女に惚れるのか、それは女を "個別的なもの" として惚れるのではなく、"女性的なるものという一般性の具現者" として惚れる からなのではないでしょうか。つまり、男は個々の女性を好きになる以前に、既に "女性という一般的なもの" を好きであったという症候 が見れられるという事です。

 

ここには、男の "欲望のあいまいな対象" があるのであり、それは男が自分で気付くのではなく、女性によってドキリとさせられる形で気付かされる。女性の、男性のそんな症候に気付いているかどうか分からないが、自分を他の女性と差別化する形で、つまり "個別的なもの" として愛される事を望むという振舞いによって。

 

例えば、女性は、全ての人に親切な男を優しいと "考える" 事が出来ても、優しいと "感じる" 事が出来ない。優しいと "感じる" 事が出来るには、"自分だけ" を特別に扱ってくれなければならないと男に望むという訳です。もちろん、このような女性の振舞いは傲慢さから来るのではなく、"男の症候" を無意識的に察知している からだと考えるべきでしょう。例えば、フランク・ヴェーデキント ( 1864~1918 ) の『 地霊 ( 1895 ) 』でルルはシェーンに対して次にように言う。

 

( ルル ) あの人を誘惑してくれない。あなたはその道にくわしいんでしょ。あの人をよくない仲間とつきあわせてよ。知り合いもいろいろあるんでしょう。あの人にとってわたしはただの女でしかないの。わたしひどく傷つけられているのよ。ほかの女を知ればもっとわたしのことを誇りに思うでしょうあの人には区別がわかっていないのね

 

フランク・ヴェーデキント『 地霊・パンドラの箱 ー ルル二部作 ー 』p.67~68 岩淵達治 / 訳 岩波文庫 ( 1984 )

* 下線は引用者である私によるもの

 

  ( B )

四方田犬彦の説明では 

貞淑なコンチータ Aを演じるのがキャロル・ブーケ、淫乱なコンチータ B を演じるのがアンヘラ・モリーナ。彼女たちは性格が対照的なばかりではない。コンチータ A がフランス語しか話さず、ときに「 コンシータ 」とフランス風に呼びかけられ、相手を「 マチュウ 」とフランス語で呼びかけている。それに対し、コンチータ B は見るからにスペイン娘という雰囲気で、フラメンコを巧みに踊り、「 マテオ 」とスペイン語で呼びかける。

 

四方田犬彦ルイス・ブニュエル 』作品社 p.304 

 

( C

2人の女優によるコンチータ役は批評家による議論の対象となってきたのですが、言うまでもなく、ブニュエルはそういう解釈の類を拒否する。

解釈することは忘れてくれたまえ。解釈はないのだ。

 

トマス・ペレス・トレント / ホセ・デ・ラ・コリーナルイス・ブニュエル 公開禁止令 』フィルムアート社 p.346 

 

とはいえ、それはすべての解釈が間違っていることを意味しない。ある解釈が核心を突くことも十分にありうるのです。2人の女優によるコンチータ役についてトマス・ペレス・トレントはこう質問する「 また違う解釈もあります。それは女性そのものです。世界中の女という女を表象しています」。これに対してブニュエル

 

それはもっと駄目だな。象徴だ。いいや、私のまったく勝手気ままなのだ。もし友人のシルベルマンが、馬鹿げたことだと言っていたら、その時ただちに、そんな考えを放棄していただろう。何故、二人の女優のことを考えたか、説明はつかない。

 

トマス・ペレス・トレント / ホセ・デ・ラ・コリーナルイス・ブニュエル 公開禁止令 』フィルムアート社 p.346

 

ブニュエルのその全面否定振りがかえって、その質問が真実に近いことを明らかにしているのを読み取る必要があります。ここで『 欲望のあいまいな対象 』の7年前の作品『 哀しみのトリスターナ 』において、既にブニュエルがトリスターナ役を2人の女優に演じさせるアイデアが持っていたことを考慮しましょう。

 

とはいうものの製作者エドゥアルド・ドゥカイの証言によれば、監督はいっそのこと二人の異なった女性に前半と後半を演じわけさせればどうだろうかという、不気味な提案をしたことがあったようである。もちろんこの提案は却下されてしまったが、ブニュエルはこの着想を捨てきれなかったようで、遺作にあたる『 欲望のあいまいな対象 』では、それを実現させている。

 

四方田犬彦ルイス・ブニュエル 』作品社 p.531

 

その場での思い付きではない着想のきっかけとしては、主役女性の貞淑性と背徳性の強烈なギャップを表現するのに最も効果的なのは、1人の主演女優よりかは2人の女優を用いることだと考えたからだと推測出来るでしょう。1人の女優の演技では満足出来ないというのは、ブニュエルの中に、女性が、個別的存在ではなく、"女性的なるものという一般性" として問題化されていた と解釈出来るのです。

 

 

( D )

このような解釈は一見すると洗練されているかのように思えますが、この映画を見た人の多くが抱くであろうという意味でありふれたものに過ぎないでしょう。

 



 


 既に述べた事ですが、『 欲望のあいまいな対象 』をマチューの享楽の側面からの解釈について整理してみましょう。まずは、"対象というものの存在自体" が、欲望の動きを見えにくくしている可能性がある という事です。対象の存在に拘り過ぎる余り、欲望に織込まれている、自己の運動についての "無意識的内省面" を見落としているのではないか、という訳です。どういう事かというと、マチューがコンチータという対象を追いかけながらも、上手くかわされてしまうという話から、マチューの悲哀などではなく、対象をいつまでも追いかける事を望むマチューの "自己享楽的な側面" を引き出すべきだという事ですね ( 1章を参照 )。

 

 しかしそうすると、対象が何かという事より、対象へ向かおうとする欲望の回路の形成のされ方がいかなる症候を生むのか という、より精神分析的な解釈の方向性に傾き過ぎてしまう。それでは、ブニュエルの作品に現れる "女性的なもの" について考える事が出来なくなるのではないでしょうか。とはいえ、少なくとも、この作品においてはブニュエルは "女性的なものそれ自体" について語ろうとしているのではなく、"女性的なもの" が男性に与える影響、または "女性と男性という組合せ" の現実性 について語ろうとしているといえるのですが。

 

 欲望の実存的形式が違うマチューとコンチータの遭遇とは、まさに "衝突という現実性" に他ならない。磁力の両極が互いに引き合うように、2人は異なる者同士であるにも関わらず、引っ付いてしまうのですね。しかし、この "組合せ" は、"衝突" という奇妙な現実を産み出してしまう。ここには、2人の結びつきの "継続性" より、破滅的な方に向かう "衝突" が結びつきの帰結として提示されている のですね。

 

 2人の結びつきが、継続的なものなのか、破滅的なものなのかは実際の所、本人たちでさえ、その時は互いの欲望が邪魔をして分からないでしょう、後に状況が醜くなっていくのでなければ。しかし、この作品においては、その点について、今までの解釈を踏まえた上で、さらに極端な解釈が可能だといえます。つまり、マチューの一見、女性的なものを求める姿勢にはさらに "隠された欲望" がある という事です。

 

 ここで参照にすべきは、映画の中で度々差し込まれる有名なテロのシーンですね。このテロのシーンがブニュエル特有のシュルレアリスト的要素という意味での外部からの異化効果だとしても、そこに留まってしまっては解釈を放棄してしまう事になる。さらに解釈を施すには、テロのシーンを "マチューの欲望" として取り込む必要がある のです。映画の中でテロに言及するのはマチューであり、マチューの周辺で不穏な動きが起きる。これに対してマチューは積極的な発言や判断を下して、テロに対するはっきりとした距離を置くのではなく、"あいまいな態度" でテロを自分の周辺にあるものだとして無意識的に共存しようとしている かのようにも見える。

 

 もし、このテロのシーンがマチューの隠された本当の欲望であるならば、最初の印象とは違ってマチューは、コンチータより恐ろしい人間である事が分かりますね。つまり、彼が求めていたのは、女性ではなく、"破滅的な何か" であった という事です。極端に言うなら、破滅的なものへ向かう入口として自分を振り回す女性を経由しているという訳です。女性的なものとの結びつきにおいて、破滅的なものへと向かう事がマチューの隠された欲望である ならば、彼は意識的レベルでは自分の欲するものを分かっていないという意味で、『 欲望のあいまいな対象 』というタイトルは、その哲学性を十分に発揮している事になるでしょう〈 終 〉。

 

 



〈 関連記事 〉

 

▶ ベルナルド・ベルトルッチの映画『 暗殺の森 』 ( 1970 )を哲学的に考える

 

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公開  1970 年  

監督  ベルナルド・ベルトルッチ

出演  ジャン・ルイ・トランティニャン   ( マルチェロ・クレリチ )   

         ドミニク・サンダ          ( アンナ・クアドリ )     

         エンツォ・タラシオ         ( ルカ・クアドリ教授 )    

         ステファリア・サンドレッリ     ( ジュリア・クレリチ )

 

 

 1章    "政治" ""

 

この映画の秘密は、"政治と性" を描いている所にあるのですが、『 暗殺の森 』という邦題タイトルは、幾分その事を見えにくくしていると言えますね。確かにイタリアからフランスへの政治的亡命者であったクアドリ教授と、その妻アンナが森でファシストの連中に殺される場面は、ひとつの見所ですが、やはり最大のクライマックスは、ラストでマルチェロ ( ジャン・ルイ・トランティニャン ) が、自分の人生の真実を知り、狂ったように叫びまくる場面でしょう ( 23 ~ 28. )。

 

ここにおいてこそ映画の原題である『 Il conformista 』が意味を持つものとなり、"政治と性に関する哲学的考察" ( *A ) が可能になる訳です。"conformista" には、" 同調者" " 追従者" などの意味がありますが、この場合、マルチェロに影響を与えていたのが、ファシズム ( 第2次大戦中のイタリアの国家イデオロギー ) であった事を考えれば、"信奉者" だという意味も重ね合わす事も出来るでしょう。

 

ここで重要なのは、マルチェロファシズムの信奉者になる前の段階として、"少年時代の性体験のトラウマ" を設定としてベルトルッチが導入している事です。マルチェロの少年時代の罪 ( リーノをピストルで撃ち殺したと信じている、が、実際には死んでいない ) を神父に告白する中での話しなので、私達は何気なく見過ごしてしまうけど、哲学解釈的には、ここは "性的領域" が "政治的領域" に差し込まれていく過程であるという意味で注意すべきところですね。

 

次のシークエンスでは、軍服姿のリノ ( 彼は本当の軍人ではなく、コスプレをしている。帽子を取ったら長髪 ) が少年時代のマルチェロを誘うシーン。ここで彼は唐突に "蝶々夫人を知っている?" とマルチェロに聞く。"蝶々夫人" といえば、プッチーニのオペラで有名ですが、長崎での15歳の蝶々さんとアメリカ海軍士官のピンカートンの恋愛劇でしたね。しかし、ここでの "蝶々夫人" は "同性愛の符号" ( *B )  に変化しているのです。

 

" 来いよ。東洋のキモノもある。蝶々夫人を知っている?"   by リーノ

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しかも驚くべき事に、蝶々さんは15歳だったので、少年のマルチェロにその役割をさせるかと思ったら、リーノ自身が蝶々さん役の "ネコ" で、マルチェロにピンカートン役の "タチ" をさせるように仕向けるという、リーノの年齢差を無視した変態的趣向が露になる (  6. )。

 

結局、マルチェロは性的関係をためらい、ピストルでリーノを撃ってしまう。この時、マルチェロはリーノを殺してしまったと勘違いし、この現実から逃げるようにファシストになっていく。このような、1人の男の政治的趣向に性的経験が関わっているという短絡 ( ショートカット ) こそが、この映画を面白くしているといえるでしょう。主体の行動化 ( マルチェロファシスト化 ) へと突き動かすものは性的なものという訳なのですが、ここで言う "性的なもの" とは ( *A ) で記したように、たんなる衝動的なものではなく、"革命的要素としての性" ( *C ) なのです。

 

 " いいから撃て。蝶々夫人を殺せ "  by 自分の事を蝶々夫人と言ってしまうリーノ

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( *A )

ベルトルッチの映画の中で面白い作品は、"政治と性" の両極を "並列的に" 描いているものです。そこでは "性" の領域における人間関係という出来事を、"政治" の領域に対して、最終的に如何にして拮抗させるかという事がベルトルッチの隠された "映画的欲望" となっていて、そこで起きる事は、ベルトルッチの秘かな "革命" だと言えるのです。

 

彼の映画は、性的なスキャンダラスの側面ばかりが時としてクローズアップされるけれど、それを倫理的なタブーへの侵犯だとしか捉えないのであれば彼の本質を見落としてしまう。重要なのは彼が "性" をどう考えているかという事です。"性" をそれ自体としてエロス的なものだとする単純な考え方のみに、彼はとり憑かれている訳ではないでしょう ( もちろん、そういう側面は否定出来ないけど。例えば政治的なものを削ぎ落とした『 ラストタンゴ・イン・パリ 』。そこでは、"性" のもう一方の極は "人間性" になってしまっている。"人間性を越え出る奔放な性" が、結局、最後にはマーロン・ブランド演じるポールが、マリア・シュナイダー演じるジャンヌによって殺されてしまうというラストによって、常識的な "倫理" として呼び戻されてしまう )。

 

彼は "性" を 衝動が渦巻くという意味での "性それ自体" としてではなく、もう1つの極である "政治" に対する "何物か" だと考えているのです。つまり、どの時代、どの場所、どの状況であっても、"性" は "政治" に取り込まれずに "対抗するもの" である訳です。

 

 細かく言うなら、"性" とは、政治的には未だ定義する事の出来ないもの ( "政治" は基本的に "男と女という2つの性" を前提とするが、現実はそれだけではない事は言うまでもない。例えば、LGBT。そしてドゥルーズ=ガタリの "n個の性" ) なのに "政治" の傍らにあるが故に、彼にとっては "政治を揺さぶる革命の要素" なのであり、映画を撮る事によって彼は "革命" を孤独に引き継いでいるというといえるでしょう ( 例えば、3人の男女の性的関係と1968年のパリ5月革命を描いた『 ドリーマーズ ( 2003 ) 』)。

 

( *B )

蝶々夫人に "同姓愛的要素" の萌芽を植えつけた映画が、この『 暗殺の森 』であるとすれば、それを極度に拡大化した映画こそ、劇作家デヴィッド・ヘンリー・ファンの戯曲を経由した、デヴィッド・クローネンバーグの『 エム・バタフライ 』に他ならないでしょう。 

 

同性愛と言っても、この場合、正確には、"男性" 対 "男性"といった "ゲイ的関係" ではなく、"女性の振りをする男性" と "通常の男性" という "擬似男女関係" である訳ですね。そうすると、ここで何が起きているかというと、"女性的なもの" が実際の女性の肉体を離れて、"男性が所有する幻想" になってしまっているという事です。そうすると、その幻想は、実際の女性だけでなく、実際の男性にも投影される可能性が出てくる訳ですね。

 

その結果が、ジェレミー・アイアンズ演じるルネ・ガリマールがジョン・ローンが演じる舞台女優のソン・リンを本物の女性だと信じ込む『 エム・バタフライ 』の非現実的なストーリー ( しかし、この話に実話がある事は有名な話 ) なのです。

 

ただし、『 暗殺の森 』の方が、少しひねりがある。というのも、リーノは、相手の男性に女性の幻想を投影するのではなく、"自分を受身にする擬似女性的快楽に耽るという倒錯的欲望" に塗れているからです。

 


( *C )                                

これには少し説明が必要でしょう。"革命的要素としての性" とは、政治に取り込まれずに対抗する "敵対性" として言い表す事が出来る。ただし、それは敵対という形式的距離性を取り除いた時に、自らの権力性や欲望に囚われてしまう危険もあると言えるでしょう。例えば ( *A ) でも記したように、"性" が単なるエロティックなもの自体としか見られず、それ以外の考察が受けいれられない状態を示した『 ラストタンゴ・イン・パリ 』。

 

 

 2章    マルチェロのトラウマ

 

しかし、ファシストらしくない雰囲気を漂わすマルチェロは、クアドリ教授にもその事を指摘されてしまう。実際に、森の暗殺場面でも、マルチェロは、クアドリ教授と、その妻のアンナに自ら直接手を下す事はない。組織の連中が殺すのを眺めているだけです。要は "中途半端" という事ですね。これは決して些細な事ではないでしょう。

 

ファシストに成り切れてないマルチェロの過去のトラウマは、リーノとの性行為でしたが、厳密に言うなら、性行為を始めようとした矢先に、マルチェロはそれを拒否したのです ( 少年だったのだから嫌がっても不思議はないだろって意見もあるでしょうけど )。そうすると、マルチェロのトラウマがリーノとの性行為だったという言い方は、この場合、正確ではない。

 

マルチェロにとって、トラウマになったのは、未知の行為を最後まで成就する事を自ら拒否してしまったという事です。つまり、性行為を拒否したのに加えて、ピストルでリーノを撃ってしまったという一連の自分の行為そのものがトラウマになったと考えられるのです。

 

この事が意味するものは何か? 自分に何かを強制したり、圧力をかけるものから自分を守るための過度の身振りが、自分にとって衝撃的だったという訳です ( ピストルを撃ったくらいですからね )。そこには 自分を守らなければならないという強迫観念が潜んでいると言えるでしょう。

 

 

 3章    ファシストになりきれなかったマルチェロの本性

 

そして、そのようなマルチェロの姿勢が、自分を中途半端なものにしている、ファシストとしても。注意すべきは、彼は忠誠心からファシズムへ "信奉者 ( conformista )" となったとのではなく、自分を守るためにファシズムへの上辺だけの "同調者 ( conformista )" になったという事です。

 

ファシストの仮面があれば、自分を守るための防護壁という事で、マルチェロは、偽りの自信を持つことが出来た ( クアドリ教授には見透かされていたけど )。しかし、ファシズムの崩壊と共に、ファシストである事が必要なくなった彼に残されたものは、長い間、ファシストの仮面によって抑圧されていた事による内面のヒステリックな解放しかなかった・・・・・。

 

友人である盲目のイタロとファシズム崩壊後の街を歩いていたマルチェロ。そこで浮浪者と彼に声をかけている男娼らしき白いスーツの男の会話を耳にする ( 1114. )。

 

" 蝶々夫人・・・" この言葉はかつて少年時代のマルチェロがリーノから聞いたものでしたね。マルチェロは白いスーツの男がリーノであり、彼が生きていた事を確信する ( 15~16. )。

 

" 蝶々夫人みたいなキモノもある。蝶々夫人だぜ "  by 白いスーツの男 

"リーノ! 拳銃を持ってただろ?"  by マルチェロ

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しかし、リーノの方は突然、自分を猛烈に追及してくる男に戸惑い、昔の事を思い出すどころじゃないよう ( 17~22. )。

 

" 何の話だ?" by リーノ

" 生きていたのか " by マルチェロ

" いったい何の用だ? " by リーノ  

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困惑して逃げ出すリーノ。ここからマルチェロは激昂してリーノに罪をなすりつけるがごとく叫び始める ( 23~28. )。

 

" 人殺し。政治亡命者を殺した、クアドリ教授を。"

" 妻のアンナも殺した。"

" あいつはホモだ。ファシストだ!" by 全てを他人のせいにするマルチェロ

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リーノが生きていた事を知り、自分がファシストになるきっかけだと思っていたトラウマ ( リーノをピストルで撃ち殺した ) が、実は自分の思い違いであった事を知ったマルチェロ

 

ここで、注意しなければならないのは、マルチェロが "何に怒ったのか" という事です。これを常識的に、自分の人生が虚構に過ぎなかった事に怒ったと考えては哲学的な拡がりは得られないでしょう。もし、自分の人生が虚構だったとしたら、人は怒るより、取り返す事の出来ない年月の経過に落胆するはずですから。

 

しかし、マルチェロは落胆するのではなく、"怒った" のですね ( 26. の表情 )。これを解釈する上で幾つかの考え方がありますが、最も刺激的なのは、マルチェロは、私達が通常考えるのとは違って、トラウマを自分のアイデンティティーの為の無意識的基盤としていた という考え方です。

 

こう考えるにはトラウマの "両義性" を考慮する必要があります。通常、トラウマというと、私達はそれを成長する上での障害なので、乗り越え捨て去るべきものだと考えがちです。ところが、そのトラウマと共に人生を歩むと、人は経過した時間の積み重ねによって、"逆説的な無意識的愛着" を抱くようになる事があるといえます。誰だって自分の人生の時間を無駄だとは考えないでしょうから。

 

そのような無意識的愛着が露わになる瞬間が、他人によって邪魔される時です。すなわち、人は自分がトラウマに苦しんでいる事を告白するけど、いざ他人がそれを取り除いてあげようと助言すると、そうじゃない、分かっていない、と抵抗する事があるのです。

 

これこそ、自分を守ろうとするマルチェロの強迫観念的態度に他ならない。ここでもう一度、ラストシーンについて整理します。通常の理解だと、マルチェロはリーノが生きていた事によって、トラウマを含めて自分の人生が虚構であった事を認めたのだとするでしょう。しかし、マルチェロが "一体何に怒ったのか" を念頭において極度に解釈しなおすならば、マルチェロは自分の大切なトラウマが、その登場人物であるリーノに裏切られ破壊された事 ( 彼が生きていたという事実それ自体に他ならない ) に対して理不尽的に激昂した。それ程、彼は自分への強力な愛着があったという訳ですね ( 終 )。

 

 

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僕を楽しませてくれた映画『 007 カジノ ロワイヤル 』のオープニングをクリス・コーネルの死から再び見直した

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   長髪がトレードマークだった彼にしては珍しく短めの髪を立てている

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain 2017年5月17日クリス・コーネル が自殺しました 享年52歳早過ぎる死ですね・・・。元々はサウンドガーデンオーディオスレイヴのバンドにおけるヴォーカルとして出発しましたが近年ではその歌唱力で1人のヴォーカリストとしてのパブリックイメージを確立していたと言っていいでしょう最近ではサウンドガーデンを再結成したりしましたがそこで彼がかつてバンドマンだったんだと知った若いファンもいるのではないでしょうか

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   そして彼のヴォーカリストとしてのイメージに大きく貢献したのが、『 007 カジノロワイヤル 』の主題歌 "You know My Name" ( 2006年 ) であった事は間違いないでしょう。『 007 カジノロワイヤル 』ダニエル・クレイグが初めて起用された新生ジェームズ・ボンドの第1作でありそのオープニングを飾るにふさわしい主題歌として、" You know My Name" は展開されるグラフィックアニメーションと共に、私達を楽しませてくれましたね

 

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 1.   007の孤独を歌い上げる " You Know My Name " f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210503025937j:plain   " You know My Name ( 俺の名前は知っているはずだ ) " ・・・もちろんこの歌は007の孤独について歌われたものですが孤高という意味では007の主題歌を歌うのにクリス・コーネルほどの適任者はいなかったといえるでしょうというのも彼のキャリアを振り返った時に分かるのが特定のジャンルに安住するようなタイプの人間ではなかったつまり何かのジャンルに縛られないが故に音楽的には説明しにくい人間だったという事です普通は自分が売れたジャンルの音楽をずっと作らざるを得ないのですけどね生活のために・・・。でも彼はそんなタイプの人間ではなかった音楽界において自分の趣向にこだわった数少ない人間だったという訳です

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   例えばサウンドガーデン時代においてもグランジロックの祖として紹介されたりしますがそれはアルバム『 Superunknown (1994) 』の時期でありそれ以前の『 Badmotorfinger (1991) 』などはへヴィロック的に評価が高くアグレッシヴであったりする ( ちなみに、このアルバムのプロデュースは、パンテラでもお馴染みのテリー・デイトが担当している )

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   その後はオーディオスレイヴレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのメンバーと共にグランジを源泉とするオルタナティヴ・ロックをより洗練し簡素化させた方向 ( 結局の所、これは普遍的なロックに近づく事を意味するのだけど ) に向かうそしてソロアルバムを4枚出している事を考えれば彼が自分のその時々の音楽的嗜好 に忠実であった事が分かりますね

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   コレは悪く言えば一貫性がないとかいうことになるのかもしれませんがクリス・コーネルは自分の歌声が特定のジャンルではなくより普遍的なロックにおいてこそ生きる事を実感していったという事の結果なのでしょう

 

 

     

 

 

   007 カジノロワイヤルのオープニングクリス・コーネル " You Know My Name " と相俟ってカッコいいそれも007シリーズの中でも間違いなくカッコいい部類に入ると言っていいでしょう展開されるモーショングラフィックと歌詞のシリアスさの相乗効果が007の孤独を一層浮かび上がらせる

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f:id:mythink:20210503025937j:plain   メタリカのジェイムズ・ヘットフィールドはクリス・コーネルの死についてインタビューで答えている

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今回の一件で、誰しもが自分自身にある闇に出くわして、それに捕まってしまったような心地になってしまいかねないんだってことを気付かされたよ

  

そして、そうなってしまったらーー少なくとも俺は時々自分の闇の深さを思い知るんだけどさーー自分の闇の中に入ってしまったら、そこには自分を救ってくれる誰かがいることや、前にも乗り越えたことのある闇だってことに気が付くのは難しいんだよ。時には本当に自分を喪失してしまうことだってある。当然、俺には……クリス・コーネルが何に苦しんでいたかは分からない。けどさ、俺たちは誰しもが自分の闇を抱えているんだよ。お互いにチェックしないといけないんだ。お互いにチェックし合うんだよ。お互いが元気にやれてるか確認するんだ

  http://nme-jp.com/news/38395/ より

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   ジェイムズ・ヘットフィールド自身も過去のインタビューでドラッグ・アルコール依存症であった事がありそういうものに手を出してしまう弱さが自分の中にある事を語っているクリス・コーネルアルコール中毒であった時期があるそして何よりも昔から彼の周囲に死の影 がありそういった事に彼も気を配っていたであろうに残念な結果になってしまった事にはやるせなさを感じてしまう

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   最も有名な所では同じくグランジを代表するバンドニルヴァーナカート・コバーン によるショットガン自殺 ( 1994年 )これ以前には、マザー・ラヴ・ボーンのフロントマンだった アンドリュー・ウッド がヘロインのオーヴァードーズによる死亡 ( 1990年 )これまた同じグランジバンドのストーン・テンプル・パイロッツ スコット・ウェイランド が薬物中毒が一因である事によって死亡 ( 2015年 )

 

        ニルヴァーナ "Smells Like Teen Spirit"

  

 

                       マザー・ラヴ・ボーン "Stardog Champion"     

     

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   マザー・ラヴ・ボーンのアンドリュー・ウッド死後クリス・コーネルはマザー・ラヴ・ボーンのメンバーだったジェフ・アメンストーン・ゴッサードと共に追悼の意味で Temple of the Dog を結成当然マザー・ラヴ・ボーンをカバーしている

 

      Temple od the Dog "Stardog Champion ( Mother Love Bone cover )"

  

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   スコット・ウェイランド・・・素行に色々と問題のある人だったが声は好きだったな

      ストーン・テンプル・パイロッツ "Interstate Love Song"

  

 

 

f:id:mythink:20210503025937j:plain   キャット・スティーヴンスやニック・ドレイクなどフォーク・ロックの影響を受けるようになった事をインタビューで語っている

 http://rollingstonejapan.com/articles/detail/25094/1/1/1 を参照

 

                           キャット・スティーヴンス "Wild World"

  

 

       ニック・ドレイク "Day is Done"

  

 

 

 

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〈 関連記事 〉

 

 

 

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▶ 映画『 ゴールデン・ボーイ 』( 1998 : directed by ブライアン・シンガー ) を哲学的に考える

 

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映画  『 ゴールデンボーイ ( Apt Pupil )
公開  1998 年
監督  ブライアン・シンガー ( Bryan Singer : 1965~ )
原作  スティーヴン・キング ( Stephen King : 1947~ )
出演  ブラッド・レンフロ ( Brad Renfro : 1982~2008 )     トッド・ボーデン
    イアン・マッケラン ( Ian Mckellen : 1939~ )       クルト・ドゥサンダー
    デヴィッド・シュワイマー ( David Schwimmer : 1966~ )   エド・フレンチ

 

 

ユージュアル・サスペクツ 』、『 XーMEN 』シリーズ、『 ワルキューレ 』の監督で知られる ブライアン・シンガー がホラー作家スティーヴン・キング原作の『 ゴールデンボーイ 』を映画化した作品。彼の事を知っていても ( 現在では幾つもの性的トラブルでゴシップ的に有名になった感がありますが )、この作品を観る人は今ではほとんどいないでしょう。それくらい地味な印象の作品。しかし、この作品で描かれる〈 悪 〉のモチーフは、彼の映画作りの一端を間違いなく成しているし、その〈 悪 〉が私達の日常の中に常に潜んでいる事を主人公トッドの変貌と共に明るみに出すその描き方は、ショッキングというより淡々と成されている。そこには〈 怖さ 〉というより〈 不気味さ 〉があるのですが、そこに気付かない人は不気味なものに対して無感覚になっているとさえ言えるでしょう。

 

ちなみに『 ゴールデンボーイ 』という日本における映画タイトルは、小説の邦訳タイトルを踏襲しようという配慮から来ているのでしょうが、作品のイメージを伝えているとは言い難いですね。というのも "pupil" という単語が、教え子、弟子、門下生、などの "師匠との絆" 的なニュアンスがある事を考慮すれば、原作タイトルの『 Apt Pupil 』とは『 出来のいい教え子 』という意味になり、作品中で描かれる ドゥサンダーとトッドという〈 悪の継承 〉にまつわる師弟関係を含ませた皮肉的な表現 に他ならないからです ( もちろん、この映画の英語版タイトルも『 Apt Pupil 』)。それが『 ゴールデンボーイ 』になる ( 商業的なタイトルとしては響きがいいのかもしれないけど ) と、師匠であるドゥサンダーとの絆は消え失せ、トッドの単独性しか示せていない物足りなさを露呈してしまっているという訳です。

 



 1章  ナチスの "悪" に同調していくトッドの "悪" 

 

原作と同じく、この映画でも一番の見所といえば、トッド ( ブラッド・レンフロ ) に強要されてナチスの制服を着用したドゥサンダー ( イアン・マッケラン ) が、最初は嫌がっていたものの、かつての強制収容所の副所長としての血が騒ぎ、次第にその気になって軍隊式行進を行う場面ですね。

            

アーサー・デンカーと名乗る老人が、実は元ナチスのクルト・ドゥサンダーである事に気付いた高校生トッド・ボーデンは、正体をばらされたくなければ、自分の言う事を聞くように脅す。

 

「 着てみろよ 」  by トッド

「 わしを苦しませおって。張り倒すぞ 」  by ドゥサンダー

ユダヤ人の苦しみにくらべたら何でもない 」  by トッド

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言われた通り、ナチスの制服を着て軍隊式行進を始めるドゥサンダー。次第にかつての姿の戻ったかのように熱を帯び、ナチス式敬礼まで行ってしまう ( 8~9. )。その余りの迫力にトッドは自分が言い出したにも関わらずひいてしまう。

 

「 やめろ! 」  by トッド

「 気をつけろ 坊や 」 「 これは危険な遊びだ 」  by ドゥサンダー

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ここに至るまでのポイントは、トッドが元々、無邪気な少年で、ドゥサンダーと出会ってから悪に目覚めていくという設定ではなく、彼はドゥサンダーと出会う前から既に〈 悪の萌芽 〉を自分の内側に抱えていた ( A ) という事です。映画の冒頭で、トッドは高校の授業でナチスによるホロコーストについて知るという場面があります。

 

通常ならば、多くの生徒はナチスの非人道的な虐殺という事実から、たとえ形式的にであれ、倫理的な教訓を引き出すのですが、稀にその倫理性よりも、命の尊重から懸け離れた野蛮な好奇心 ( ユダヤ人がどんな殺され方をしたのか、などの詳細を知りたがる欲望 ) ( B  ) を優先させる特異な生徒がいる。それがトッドだったという訳です。

 

つまり、ここには 過去に実在したナチスの悪とは別の、1人の少年の中に存在する〈 〉が、ナチス〈 悪 〉と出会い、覚醒していく過程 があります。トッドは強制収容所での殺しの詳細を聞くなどしていたドゥサンダーとの関係に終止符を打とうする ( 学校の成績が下がってきたため ) が、もう手遅れだとドゥサンダーは言う、つまり、お前はもう悪の領域に踏み込んでいるという事ですね ( 23~24. )。

 

「 君は まだ人を殺すことを決心できないでいる 」

「 殺すパワーはあるか?」  by ドゥサンダー

「 こんなことは終わりだ 」 「 もうここへは来ない 」  by トッド

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「 はじまりと終わりに乾杯 」  by ドゥサンダー

「 勝手にしろ 」  by トッド

「 わからんのか わしらは互いに地獄の底まで一緒だ 」  by ドゥサンダー

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この後、ドゥサンダーは自分の命に保険を掛ける意味 ( これまでの関係を清算すべくトッドが自分を殺さないように ) で、トッドに、自分達のやり取りを記した手紙を銀行の貸金庫に預けていて、自分が死ねばそれが公開される事になっていると脅す ( 結局、手紙の件はドゥサンダーの嘘なのですが )。

 

ドゥサンダーは、あるきっかけで家に招きいれた浮浪者をナイフで殺そうとする。刺された浮浪者はドゥサンダーの家の地下へと転げ落ちたが、ここでドゥサンダーは心臓発作を起こしてしまい、後始末が出来なくなってしまう。動けないドゥサンダーは電話でトッドを呼び出す。トッドはドゥサンダーと距離を置いていたが、銀行の貸金庫にある手紙の件が気になり助けに行かざるをえなかった。トッドはドゥサンダーを死なせないために、救急車を呼ぼうとするが、息を吹き返した浮浪者を殺してしまう・・・。

 

その一連の流れは、トッドの中の "潜在的な悪" がドゥサンダーによって引き出され、現実へと実在するようになった事を示す象徴的なシークエンスですね。それはトッドが自らの手で殺人を犯したという事だけでなく、それがばれない様に隠蔽し、自らの立場を守ろうとするズル賢さを同時に発揮するという "悪と知が結びついた恐ろしさ" を示しています。つまり、"生き延びようとする悪" という事です。これこそ、イスラエルの追求から逃げて生きるドゥサンダーの存在様式であり、それを継承しようとしているのがトッドという訳ですね。

 

入院したドゥサンダーは、トッドに手紙の件は嘘だと告げる。その後、ドゥサンダーは隣のベッドの元強制収容所の捕虜だったユダヤ人に正体を見破られ、訪れたイスラエル機関とFBIの人間にエルサレムに送還する ( 裁判にはかけられるものの、それは死刑を意味する。例えば、実際のイスラエルによるアイヒマン裁判は余りにも有名 ) と言われ自殺してしまう。

 

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( A )

このようなトッドと同様の少年悪を描いたB級サスペンス映画が『 危険な遊び ( 1933 ) 』。子役時代のマコーレー・カルキンイライジャ・ウッドが共演している。

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ジョセフ・ルーベンの映画『 危険な遊び 』( 1993 )を哲学的に考える

 

( B )

そこにあるのは、他人の殺害の中に、自分を満足させてくれる何かがあるかもしれないと期待する歪んだ欲望に他ならない。

 



  2章  引き継がれて生き延びる悪、トッドあるいはカイザー・ソゼ

 

トッドの高校の卒業式で、カウンセラーのエドはトッドの両親との会話から、かつて面会 ( ドゥサンダーはトッドの成績が下がった時に、トッドの両親にバレないように、トッドの祖父だと偽って会っている。両親はこの事を知らない ) したトッドの祖父であるはずの男が、元ナチスのデンカー ( ドゥサンダーの偽名 ) だった事を知るに至る。真相を確認すべくエドはトッドの所に向かう・・・。

 

しかし、トッドは怯むどころか逆にエドを、"性的関係の強要" という嘘の演出で以って脅す。自分を守る為なら何でもする男になっていたトッド・・・・・。

 

「 ぼくが初めてか?」

「 成績を裏取引し電話番号を教え 会いにくる 」  by トッド

「 何の話だ?」  by エド

「 男子生徒に手を出すとは 」  by トッド

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「 思い入れたっぷりに握手したな 」  by トッド

「 まさか 私が君に何かしたと言うつもりか?」  by エド

「 必要なら何だってやる 」  by トッド

「 私は君を助けようと 」  by エド

「 悪い噂を流せば汚名は一生消えない。どうだ エド 」  by トッド

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このシークエンスでのトッドのズル賢さは、ブライアン・シンガーの前作『 ユージュアル・サスペクツ 』の犯人であるキント ( ケヴィン・スペイシー ) と共通するもの があります。左の手足に麻痺のある ( 自分が犯人ではないと思わせるための演技 ) キントが巧みな嘘を語り通し ( それこそが映画のストーリーとなっていた事が最後に分かる )  警察の取調べから解放され、徐々に姿勢を正しながら歩いていく姿は、彼こそが真犯人のカイザー・ソゼである事を示す有名なラストシーンですね ( 43~48. )。

 

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ゴールデンボーイ 』を見た後では、トッドこそ、カイザー・ソゼの少年時代だったのではないか と想像したくなるほど、"生き延びる悪" という存在が2つの映画の共通モチーフとしてある事が分かります。原作者スティーヴン・キングの凄い所は、"少年" というものを、未来に開かれた希望などではなく、そんな価値観を打ち砕くが如く、"社会を脅かす悪の萌芽" として描いている所です。社会を混乱に陥れる悪の存在とは、遠い世界の住人ではなく、最も身近な存在でありながら、時として理解不能な行動をする "怪物" である事の象徴として少年を取り上げているという訳です。

 

原作では、トッドは最終的に銃による無差別殺人という狂気の行動に出て警察に殺される ( 邦訳ではそれが上手く伝わっていないけど ) ので、後味はよくないとはいえ、キングなりのケジメをつけているといえるでしょう。ところがブライアン・シンガーは映画では変更を加えています。トッドはキレて自分の立場を危うくするようなマネをせず、冷静にエド ( 原作ではトッドに殺されてしまう ) を脅迫するのですね。つまり、ブライアン・シンガーは、カイザー・ソゼと同様に トッドを生き延びらせるという選択をして、原作との差別化を図っている のです。

 

この事は何を意味するのでしょう? 一見すると、原作のラストの方がセンセーショナルですが、映画の方がより不気味だといえます。社会に混乱をもたらす〈 悪 〉が排除される事なく、いつ爆発するか分からない危険物として留まっている事を示してるからです。いや、正確に言うなら、社会からそのような〈 悪 〉を取り除く事の不可能性が示されている という意味で、映画は原作以上に救いが無いと言えるし、それは同時に、よくある映画的な結末よりも、決着の無い、より現実的な方向に近づけたものだと言えるでしょう〈 終 〉。

 

 
〈 関連記事 〉

 

ギレルモ・デル・トロの映画『 パンズ・ラビリンス 』を哲学的に考える

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監督 : ギレルモ・デル・トロ   

公開 : 2006

出演 : イバナ・バケーロ  ( オフェリア )

   : アリアドナ・ヒル  ( カルメン 〈 オフェリアの母 〉 )

   : セルジ・ロペス   ( ビダルフランコ軍大尉。カルメンの再婚相手 〉 )

   : ダグ・ジョーンズ  ( パン 〈 牧神 〉 )

   : マリベル・ベルドゥ ( メルセデス 〈 小間使い 〉 )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 パンズ・ラビリンス 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたいという方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

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 1.  〈 幻想 〉と〈 現実 〉f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain この映画通常思われている以上に哲学的な深みがある少なくとも僕はそう感じましたね大学などのアカデミックな哲学界では哲学を人生論的な観点から語るというのは素人的な身振りであり問題にすらならないのですがこの映画はその素人的な身振りは間違っていない事を示しています

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   人が他の誰でもない自分の人生を背負う限り人生をどう考えてどう生きるのかという問題がその人にとって第一義的な哲学であるのは当然ですそれ無くして自分が存在するこの世界を理解する事は出来ないし逆に言うとこの世界をどう理解するかは自分の人生をどう考えどう生きているかという事によって左右される

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   なぜこんな話をするのかというと 現実 〉の世界と自分の〈 人生 〉の間には一定の〈 距離 〉があるからです人間誰しも成長していく過程で社会という〈 現実 〉に参加するようになる生きていくために …… 。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   その際人はその〈 現実 〉に適応するために水面下で自分を作り変える ( あるいは半ば強制的に作り変えらされる )ではどう作り変えるのかそれは僕が思うにそれまで自分の中に保持していた自分の〈 世界 〉を改変していく事ですね自分の〈 世界 〉とは端的に言って〈 幻想 なのですがその 幻想 〉の改変 ( 哲学的、精神分析的にいうなら "幻想の横断 " ) を実行する という事になります

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   そういう言い方をするとすごく崇高な印象を持つかもしれませんが実際には各人の体験度合いによってはそれは横断というよりは切り刻む切り裂くという耐え難い経験である場合もある はずですこの時各人において興味深い事が起きます自分の〈 幻想 〉を横断して 現実 〉の世界に適応する事が出来る人もいれば 幻想 〉を切り裂く事に対する否定的な身振りを〈 現実 〉の世界へと転化する人もいるでしょう ( 攻撃的になったり、ひきこもったり、などの極端な行動化 )

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   以上の事をアカデミックな哲学的・精神分析的観点から見ると幻想 〉とは主体が〈 現実 〉の世界へと踏み出す ( アクティング・アウト ) ために必要な〈 要素  〉としての価値しかないもちろんここには最初に述べたように人生を背負うのが他の誰でもない自分であるという〈 孤独 〉から来る人生論的観点が入り込む余地は全くない御自分の人生哲学についてはどうぞ御勝手にという訳です

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   この映画が興味深いのはそんな幻想 〉を〈 要素 〉ではなくひとつの〈 世界 〉として提示している 所です外の〈 現実 〉も〈 世界 〉だけど幻想 〉も〈 世界 なのですつまり 幻想 〉も〈 世界 〉であるからには現実 〉に対して否定的に扱われる必要はないしましてや〈 現実 〉を構成する形而上的な〈 要素 〉でもない幻想 〉と〈 現実 〉は並列的に人が生きるに足る〈 世界なのでありもし同時に生きにくいのであればそれは自分が〈 幻想 〉を保持する事を自ら放棄しようとしているからです

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   これを哲学的に非難しようとするのならその人は他人の人生を背負えるかどうか自問するべきですねそれが出来ないからアカデミックな哲学は人生論を放棄しているのです 1 〉自分の人生を背負うならば人生を生き抜くために幾つもの〈 世界 〉を自分の〈 聖域あるいは〈 秘密 〉として持つことは必要だ と言えるでしょう

 

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 2.  〈 幻想 〉というもうひとつの〈 世界 〉f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain   ギレルモはこの映画を魔法の王国が地底にありそこに住んでいるお姫様が地上の人間界を夢見て抜け出すという形で始める魔法の王国は太陽がなくわずかな月の光に照らされているかのように青暗い色調で描かれている ( シーン 1 8. )。

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   そして徐々に地上の世界に移行していく様子 ( 太陽の光に照らされている通常の風景 ) を交えながら現在の話を始めていく ( シーン 9 14. )。一応ここでは地上で死んだお姫様が魔法の王国に戻るという映画の結末がそれとなく仄めかされている

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   魔法の王国の妖精 ( 妖精というには若干グロいけど、これこそギレルモ的キャラですね ) に誘われてオフェリアは住処の近くにある森の迷宮に入り地下へと降りていく

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   ここでオフェリアは迷宮の守護神パン 2 〉 に出会うオフェリアは自分が魔法の王国のプリンセスである事を告げられる ( シーン 21 26. )。ここからオフェリアは日常の〈 現実 〉と〈 幻想 〉のふたつの〈 世界 〉を生きる事になる のですがギレルモはこの落差を強烈な対比でもって描き出します現実 〉においてはフランコ政権下におけるスペイン内戦をオフェリア周辺で起きる局地的な緊張状態として描き幻想 〉の〈 世界 〉においてはオフェリアの内面を誰にも知られる事のない秘密として描いているのです

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   この辺りはギレルモのこの映画を政治的に解釈しようとする人にとっては打ってつけなのかもしれませんしかし僕はそのような解釈は部分的にしか同意出来ませんなぜならギレルモはあくまでも個人の〈 幻想 〉の世界を擁護しようとしているのであって政治的物語はあくまでもそのための対比としてしか機能していないと考えるからですそうでなければギレルモのオタクカルチャーへの愛着はうわべだけのものでしかないという事になるでしょうそれにしてもこのパンも特徴的な造型で仮面ライダーの敵キャラに出てもおかしくない・・・。ギレルモのオタクぶりが表れていますね

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   途中の過程は省略しますが最終的にオフェリアは魔法の王国に帰る条件として生まれたばかりの弟を一緒に連れてくるようにパンから指示されますしかし連れて来たのはいいもの弟の血が必要だと言われ拒否した結果王国への帰還の話は無かった事になるそして子供を取り返しに来た義父のビダルによって射殺されてしまうという残酷な結果に・・・。でもギレルモはこれだけで話を終わらせませんここからが大切なのですがオフェリアの死は揺るぎのない〈 現実 〉であるにも関わらずギレルモは〈 幻想 〉の世界を回収しようとする のです

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   死に行く意識の中でオフェリアはようやく王国に帰る事が出来ます弟を殺す代わりに自分が殺された事で流した血によってそれが可能になったという訳ですさてこの場面をどう解釈すべきでしょう

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   現実逃避という事でしょうかいやそれでは十分な説明にならないなぜなら〉という最大の〈 現実 〉がオフェリアには既に訪れてしまっているからですそれにオフェリアは死の直前まで弟を守るという現実的な行動を採っていたならばこの場面はオフェリアは現実的な死の際にも自分の中の〈 幻想の世界 〉を守るべきものとして最後まで手放さなかったという意味で彼女の主体的な振舞いで満ちている と解釈すべきです

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain これは自分の人生を背負う者としての孤独な主体にとって大きな教訓ではないでしょうか厳しい現実を前にして幻想 〉を自ら廃棄してあきらめて死ぬのかそれとも 〉にも関わらず自分の〈 幻想=秘密 〉を守り抜こうという主体としての使命を果たすのかという訳ですもちろんそれは他の誰でもなく自分にしか分からないのですが …… 。

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   この後ギレルモは〈 現実 〉のオフェリアの死の場面に戻します

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   ラストの一輪の花は幻想 〉の象徴 だというべきでしょう

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 f:id:mythink:20180708164544j:plain1 〉

f:id:mythink:20210212192015j:plain   人生論を説いた ( もちろんそれだけではない ) といえる最後の偉大な哲学者はニーチェですねニーチェそれまでのヘーゲルを頂点とするドイツ観念論哲学の流れとは異質な哲学者であり読者 ( ニーチェ的にいうなら人類 ) に強烈なメッセージを残したそれはマルクス主義的な革命のメッセージではなく読者に自分の人生を再び生き直す( 永遠回帰 ) べきだという人生論的メッセージ だった ( 構造主義ポスト構造主義以降、このようなニーチェ像は薄まったけど )彼は読者の人生に踏み込んでくる哲学者だったが他人の人生を背負う代わりに自分の破滅過程を差し出した ( たとえば、『 この人を見よ 』)

 

 

2 〉

f:id:mythink:20210212192015j:plain   パンとはギリシャ神話における森や山牧畜の神で笛を吹く半人半獣の神ローマ神話ではファウヌス文学や芸術分野ではよく用いられてきたモチーフでもある最も有名な所でフランスの詩人 ステファヌ・マラルメ象徴詩 牧神の午後 ( 1874 ) 』。それにインスパイアされたのが同じくフランスの作曲家クロード・ドビュッシー『 牧神の午後への前奏曲 (1892~1894) 』。これに基づいてディアギレフのロシア・バレエ団のダンサーであったヴァーツラフ・ニジンスキーが振付した『 牧神の午後 ( 1912年初演 ) 』は伝統的バレエを無視したモダンバレエの元型として余りにも有名

 

 

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ギレルモ・デル・トロの映画『 クロノス 』を哲学的に考える

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公開 : 1998年  

監督 : ギレルモ・デル・トロ

出演 : フェデリコ・ルッピ    ヘスス・グリス

   : タマラ・サナス      ( アウロラ

   : ロン・パールマン    アンヘル

   : クラウディオ・ブルック( クラウディオ

   : マルガリータ・イザベル( メルセデス

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 クロノス 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたいという方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

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 1.   ギレルモ・デル・トロの初期の傑作『 クロノス 』f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain ギレルモ・デル・トロの『クロノス 』には彼が影響を受けたと思われる幾つかの要素が見られますね映画監督をする前には特殊メイクの仕事をしていた事もあって小道具この映画ではクロノスの作り込みにはこだわりがあるようでデビッド・クローネンバーグ的なグロテスク要素と共通するものが感じられます

       

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       クローネンバーグの『裸のランチ』のバグライター

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain そしてそのクロノスが果たす機能のモチーフが漫画 JOJOの奇妙な冒険の石仮面から来ているのではないかと多くの方が感じたであろう事はギレルモが日本の漫画・アニメに影響を受けている事を考えれば当然でしょう吸血動物が組み入れられた機械仕掛けのクロノスは通常は収納されている触手を人間に突き刺し血を吸う事でその人間を吸血鬼と化し肉体を大きな損傷を与える事故にでも遭わない限り永遠に生きる事を可能にするという訳ですそのためには人間の血を吸わなければならない・・・だから吸血鬼なのですがその点でこの映画は吸血鬼に完全になる事を拒否する主人公ヘススの振舞いが興味深いものとなっているのです

 

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 2.   『 クロノス 』のストーリーf:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain   中世の錬金術師ウベルト・フルカネリは迫害から逃れて渡ったメキシコの地で永遠の生命を与える事が出来る "クロノス" を作った

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   そしてフルカネリはそのクロノスを自らの身体に使用し400年間生き続けたのですが建物の天井崩落事故に遭い息絶えてしまう

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   しかしフルカネリに関する事は謎のままでありクロノスも天使像の中に隠されたままで知られる事はなかった・・・そしてタイトルクレジットクロノスここから話が動き出す

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f:id:mythink:20210212192015j:plain 骨董屋を営むヘスス・グリス ( フェデリコ・ルッピ ) は天使像の中からクロノスを見つけるのですがそれが何なのか分からない・・・。ヘススの側にはいつも孫娘のアウロラ ( タマラ・サナス ) がいる事がポイントですねこの娘との結びつきによってこの映画がたんなるヴァンパイア・ホラーにならずに済んでいます

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   ここで手のひらにクロノスを乗せていたヘススはクロノスから突然延びて来た触手というか甲殻類的な爪に突き刺されてしまう必死になってそれを引き剥がすヘススこの辺りはジョジョの石仮面を彷彿とさせますね

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 f:id:mythink:20210212192015j:plain   中盤の話は省略しますがヘススはクロノスによる吸血鬼化によって大理石のような肌を焼けただれ引きちぎられた皮膚の下から覗かせながらクロノスを手にいれようとするクラウディオとアンヘルと戦わざるを得ない宿命に巻き込まれていきます終盤には因縁のあるアンヘル ( ロン・パールマン ) と戦い建物の上層部から2人とも落下してしまい息絶えてしまうそこにヘススと行動を共にしていたアウロラが現れヘススを優しく撫でる

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f:id:mythink:20210212192015j:plain   アウロラはクマのぬいぐるみの中 ( ヘススはクラウディオとアンヘルに見つからないよう、クロノスをぬいぐるみの中に隠していた ) からクロノスを取り出しヘススの身体にあてがう ( シーン32~34. )。つまりアウロラはクロノスによってヘススが長生き出来る事を彼の過去の行為 ( ヘススは度々、クロノスを自分の身体に突き刺す事によって生命を永らえさせる衝動に突き動かされていた ) を見て知っていたのですねそしてクロノスに支配されたヘススが人間の血を吸わざるを得ない事も彼女は知っていた …… 。

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f:id:mythink:20210212192015j:plain なんとなく見ていると見逃してしまうかもしれませんが38. のシーンではアウロラは手から血を流し ( いつ彼女が自分の手を傷つけたかは、そのシーンがないので分かりづらいけど )その手を自分の口元に持っていくのですねつまり私の血を吸っていいよおじいちゃん・・・という彼女の意思表示な訳です復活したヘススは最初吸血鬼としての欲望に負けそうになるのですがこのアウロラの自己犠牲的な献身と彼女の "おじいちゃん" というセリフ ( 彼女はこのセリフ以外、この映画で言葉を発しない ) によって我に帰るのですね

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f:id:mythink:20210212192015j:plain 我に帰ったヘススはいつもなら高揚感を覚えたはずのクロノスの爪に突如痛みを感じて惹き剥がし石で叩き潰す吸血鬼の欲望に打ち勝ち人間性を取り戻したという事 ( この時、彼は何度も "自分はヘスス・グリスだ" と叫ぶ ) ですね吸血鬼化を拒否したヘススはダメージのため死ぬしかないのでしょうが自宅のベッドでアウロラと妻のメルセデスに看取られながら束の間の平穏に包まれるというラストで映画は終わります

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 3.   『 クロノス 』の哲学的解釈f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain この映画の特徴はヘススが怪物になろうとも孫娘アウロラの彼への親しさに揺るぎはないという点ですしかしそこから安易なヒューマニスム的感傷に浸るのは一端止めてもっと細かい解釈をしていく事にしましょう

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain それはヘススへのアウロラの振舞いが 彼女の内面から語りだされるものでは無いつまり彼女の内面描写がない からです彼女は 感情を豊かに表す主体としては描かれていない ( たとえ監督の意図がどうであれ、結果としてという意味で ) という訳です。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   物語の冒頭からアウロラはヘススと一緒にいるのですが子供らしい喜怒哀楽を前面に表す訳ではないもちろんこれは彼女の唯一のセリフシーン 38. の "おじいちゃん" という部分とも繋がります彼女の感情が余り見えないため多くの観客は彼女の存在につい無関心になるのでしょうがもし彼女の感情表現が最初から豊かであったならこの物語はヘススという主人公に拮抗するもう1人の女性をヒロインとして描かざるえを得なかったでしょう

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   しかしそうすると物語の軸はヘススとアウロラの間の心理的緊張関係にひきずられる 事になっていたかもしれないつまりこの映画の世界観は2人の主体の内面的関係性によって構築されるというヒューマンドラマになってしまっていた 可能性があったという訳です

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   おそらくそのような世界観はギレルモは望まなかったでしょうなぜならこの映画の設定を考えるならばゴシック小説 ( ドラキュラやフランケンシュタインなどの ) の系譜に連なる怪物的世界観 をいかにして作り上げていくかという事が彼のテーマであったと推測出来るからですこの種の怪物映画によくあるのが人間から怪物に移行しきれずに揺れ動きながらも人間性に回帰する ( たとえ死ぬ事になろうとも ) というストーリーですね

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   ギレルモもこのモチーフに沿っているのですが彼はヘススの内面を直接的に深刻に描くのではなくアウロラメルセデス ( ヘススの妻 ) との 家族関係という形式にヘススの内面を外化させる 事によって世界観を作り上げるという手法を採っているのですつまりヘススの内面性はアウロラメルセデスとのその時々の日常的関係を描写する場面によって "間接的に" 示されている という訳ですねそうするとヘススへの揺ぎ無い優しさを持つアウロラとは吸血鬼へと変貌したヘススの中に残っている人間性を象徴する存在 だと解釈する事が出来るでしょう

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   この "内面の外化" というやり方のいいところは登場人物の内面性に振り回される事なく( 逆に言うと、人間の内面とはそれくらい強力で凶暴なものだという事です )確固とした世界観を構築出来る所ですねこの映画におけるギレルモの世界観は怪物的要素による破滅的決着へと向かわずに登場人物たちが形作る "家族" という在り方へとその悪夢が回収されていくようにまとめ上げられている ものだと言えるでしょう

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain   ラストの場面 ( シーン 47. ) がその事を象徴しているしオープニングタイトル後の最初の場面もヘススアウロラメルセデスの3人の食卓シーンで始まっていますねこのようなギレルモの世界観を一言で表すなら、"ゴシック・ファンタジー" という事になるでしょう

 

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain でも戦うといってもアメコミの映画ヒーロー ( バットマンスパイダーマンなど ) のように強靭な戦闘能力を獲得する訳じゃないおじいちゃんが多少若返った分だけ元気になるっていう話だから戦闘というよりはトラブルに巻き込まれるっていうのが正確なところその辺は期待してはダメです ()

 

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記憶に残したいカルト映画:シドニー・ポラックの『 ザ・ヤクザ 』( 1974年 )

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監督 : シドニー・ポラック

公開 : 1974  

原案 : レナード・シュレイダー

脚本 : ポール・シュレイダー、 ロバート・タウン

製作総指揮 : 俊藤浩滋

 

出演 : 高倉健        ( 田中健 ) 

   ロバート・ミッチャム  ( ハリー・キルマー )

   : ブライアン・キース   ( ジョージ・タナー ) 

   : ハーブ・エデルマン   ( オリヴァー・ウィート )

   : 岸恵子         ( 田中英子 ) 

   岡田英次        ( 東野 )

   ジェームス繁田     ( 田中五郎 "健の兄" )

   郷 鍈治        ( スパイダー "五郎の息子" ) 

   待田京介        ( 加藤二郎 )

 

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『 ザ・ヤクザ ( The Yakuza ) 』 というタイトルが示すように、田中健 ( 高倉健 )とハリー・キルマー ( ロバート・ミッチヤム )という違う国の男同士の関係をヤクザ (というより任侠と言った方がいいでしょう ) の世界における "義理" という概念で現し、その世界を垣間見せようとする映画です。今回はこの映画について考えていきましょう。

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  1.   任侠イデオロギーとしての〈 ザ・ヤクザ 〉

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a. 『 ザ・ヤクザ 』に対するよくある反応は、監督がアメリカのシドニー・ポラックだという事だけで、外国人が作った割りには良く出来ているとか、所々で過剰な演出はあるものの任侠というものの扱いが結構分かっているとか、いう所でしょう。もちろん、このような見方は日本的なものを扱う外人に対する日本人の見方です。外人だけど結構、日本の事分かってるね、という感じですね。

 

b.   しかし、この外人が日本人であれば、日本的なものを扱う日本人という訳で、日本の事を分かっているのは当然だという事になりますね。何が言いたいかというと、この映画の製作に当って、シドニー・ポラックが自分色に染める事が出来た部分は僅か ( シドニー・ポラックの映画を見たことがある人なら、この映画には僅かしか彼のカラーを見出せないと思うはず ) であり、大部分が日本の、いや東映の任侠的イデオロギーで占められているという事です。

 

c.   その東映任侠的イデオロギーの中心にいたのが、東映任侠映画製作の筆頭であった俊藤浩滋 ( この映画においては製作総指揮 ) と、原案がレナード、脚本がポールの、日本通のシュレイダー兄弟であり、撮影場所もまさに仁侠映画にふさわしい東映京都撮影所であった ( すべての撮影という事ではないですが ) という訳です。この任侠的イデオロギーの要素の強調を果たして、シドニー・ポラックが望んでいたかどうかは微妙な所だと思われますね。この部分に関しては、やはり、俊藤浩滋がその豪腕でもって、シュレイダー兄弟と共に任侠カラーを強く主張した ( ポラック、あるいは配給先のワーナーブラザーズに対して ) と考えるべきでしょう。『 ザ・ヤクザ 』というポラックなら付けそうにもない露骨なタイトル、高倉健さんを印象付けようとする田中健という配役名、などにその一端が現れていますね。

 

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  .  フィルム・ノワールとしての〈 ザ・ヤクザ 〉

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a.   ではポラックは、どのような映画を撮りたかったのか、という仮定の話を考えてみるのも 面白いでしょう。ここで参考になるのが、もう1人の脚本家のロバート・タウンです。ロバート・タウンといえば、ロマン・ポランスキーチャイナタウン ( 1974 ) ブライアン・デ・パルマの『 ミッションインポッシブル ( 1996 )などで脚本を担当しているように、フィルム・ノワールやサスペンスものが得意ですね。特にフィルム・ノワールに特徴的な登場人物のモチーフである探偵、そしてファム・ファタール ( 運命の女 ) は、この映画に当てはまるといえるでしょう。

 

b.   フィルム・ノワールの虚無感を体現する探偵役のロバート・ミッチャムファム・ファタール ( 運命の女 ) としての岸恵子。ここにロバート・タウンを起用したポラックの狙いがあったするのは的外れではないでしょう。

 

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c.   ファム・ファタールの要素に、ポラック的手法である人間 ( 男女 ) 関係を交差させる事 ( 代表的な所では、彼の映画である『 愛と哀しみの果て 』。ここでは田中花子を巡る夫の健とハリーの関係 ) によって物語を進行させるという特徴を加える事によって彼なりのフィルム・ノワール的映画を作ろうとしたのだと今となっては言えますね。

 

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3.   任侠映画でもフィルムノワールでもなく・・・カルト映画としての『 ザ・ヤクザ 』

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a.   もちろんポラックの試みは中途半端なものになっているのは言うまでもないのですが、その要因は東映の任侠イデオロギーとの折合いが上手くいってない、いやそれどころか押し切られているという所にあるのはお分かりでしょう。ポール・シュレイダーとかは、ポラックのストーリー構築の手法 ( 先に述べた人間関係の交差による物語の進行 ) が理解出来ずに、ラブストーリーを導入しようとしていると非難したくらいですから。しかしポラックによる田中花子を巡る健とハリーの複雑な関係性がなかったら、この映画は単なる海外向けの東映任侠映画でしかなく、ポラックが監督をする意味は全く無かったでしょう。

 

b.   そんな状況でもポラックは、東映任侠イデオロギーと折合いを付けるべく、田中健とハリー・キルマーの関係を、ハリーが健に感じた負い目 ( 健を花子から遠ざけ、彼の娘までを死なせてしまった事 ) を清算すべく指詰めするという形で描き上げたというのは、仕方のない帰結だったのかもしれませんね。

目の前で健の指詰めを見ておきながら知らないふりをしても、日本の流儀の異文化性を浮彫りにするだけだし、かといってハリーが指詰めをしても、日本の流儀が似合わない外人の部外者性がつきまとうだけに終わったという難しさがそこに残る訳です。

 

健さん指詰めシーン。やはりサマになっています。

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ハリーことロバート・ミッチャム指詰めシーン。

痛さが伝わってこない・・・。やる気あるのかな ( 笑 )。

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c.   この和洋折衷とでもいうべき『 ザ・ヤクザ 』は、映画の内容だけでなく、製作の舞台裏でも和洋間の微妙な力関係が働いていたわけですが、出演・製作者のほとんどが亡くなられた現在では、 この映画をひとつの娯楽作品として楽しむ事が適当なのでしょう。幾つかの力関係の中で作られてたこの映画は、年月の経過と共に視聴者にアナクロニズムを感じさせるものになっていますが、まさにそこを含めた〈 カルト映画 〉として味わう事こそが、ひとつの楽しみ方だという訳ですね。

 

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