監督 ジョセフ・ルーベン
公開 1993年
出演 マコーレー・カルキン ( ヘンリー・エヴァンス )
イライジャ・ウッド ( マーク・エヴァンス )
ウェンディ・クルーソン ( スーザン・エヴァンス / ヘンリーの母 )
ダニエル・ヒュー・ケリー ( ウォレス・エヴァンス / ヘンリーの父 )
デヴィッド・モース ( ジャック・エヴァンス / マークの父 )
1章 少年と悪
今ではほとんど観られることのないB級サスペンス映画。共に子役時代のマコーレー・カルキンとイライジャ・ウッドが共演している ( 2人とも当時12才くらい ) ことで記憶している人もいるでしょう。この映画の照準はマーク ( イライジャ・ウッド ) のいとこであるヘンリー ( マコーレー・カルキン ) の中に巣食う残虐な 悪 なのですが、ここではその悪の原因などは触れられることはありません。
例えば、ヘンリーが妹のコニー ( クイン・カルキン 〔 マコーレーの実妹 〕) を殺しかけたり、弟のリチャード ( ロリー・カルキン 〔 これもマコーレーの実弟 〕) の死におそらく関わっている事、そして最後には母親を殺そうとするなどの残酷非道振りの前では、もはやその原因を問う事など問題にもならないという訳です。
もちろん、原因を推測する事は可能です。例えば、自分以外の者が母から可愛がられる事への嫉妬などに起因を求める事は出来ますが、そのような結果から原因を推測する事の経済性は、行為のあまりの残虐さによって破綻してしまっている。
つまり、そこにこそ 悪それ自体 がクローズアップされる意味があるのです。ヘンリーの悪に何らかのきっかけがあったとしても、その悪はもはやその原因から大きく解離して、より自らの残酷さを享楽しようとする悪の純粋さに既に移行してしまっている という事なのです。
それが分かるのがマークと児童心理学者アリスとの会話シーン ( 1~8. )。ここでは悪が、たとえ少年にでも存在する可能性に気付かない大人の素朴な振舞いが示される。
マークはヘンリーの母親ウェンディにヘンリーの残酷さに気付いてもらおうと話すが信じてくれない。
しかし、子供の態度に敏感な母は、ヘンリーに少しづつ異和感を覚えていく。
一方、ヘンリーも自分を疑う母親の態度に気付いて、殺すことを計画する。そして事もあろうか、母親の葬式で泣くというシュミレーションをする恐るべき振舞いを見せる。
母親をためらうことなく崖から突き落とすヘンリー。そこに一切の迷いはない。
崖の途中にかろうじて留まる母親にトドメを刺すために石を投げようとするヘンリー。それを阻止したマークとヘンリーの争いの中で、母親は何とか崖から這い上がり、今度は崖から落ちそうになる2人を彼女が助ける。
体力的にに2人を同時に助けることが出来ないという究極の選択の場面で、彼女は実の息子であるヘンリーではなく、甥のマークを助けます ( 手を離されたヘンリーは落下死する )。このラストの帰結は、彼女が ヘンリーに息子の形象を見たのではなく、悪の本質を見た という事です。つまり 自分の理解を超えた異様な悪を絶つしかないという母親の悲壮な決意が最後に示された 訳ですね。
2章 悪の象徴としての少年
この映画におけるヘンリーは、まさに悪の象徴として描かれています。一見純粋であるかのような少年のあどけなさとのギャップという意味で悪が存在するのではなく、まさに少年の幼さこそが純粋な悪の象徴になっている と理解する必要があるのですね。なので少年の未来に配慮して、彼の悪を矯正すべく原因を求めても無駄だという事です、この映画に関しては。それどころか少年とはまさに悪の萌芽であって、少年の未来とは、悪の未来に他ならないと予感させるのです。
この映画と同様に、社会の中に蠢く悪が少年という形象において先鋭化された映画がブライアン・シンガーの『 ゴールデンボーイ 』です。『 ゴールデンボーイ 』において主人公の少年トッド ( ブラッド・レンフロ ) はナチスという悪と共鳴しながら自らの悪を覚醒させていくのですが、『 ゴールデンボーイ 』が『 危険な遊び 』よりも不気味なのは ブライアン・シンガーが原作とは結末を変えてトッドを生き延びさせている 所です。『 危険な遊び 』ではヘンリーは落下死して一応のケジメはつけられていますが『 ゴールデンボーイ 』では 悪 は死ぬ事なく、社会の中で自らを現実化させようとする可能性を残しているという意味で、より生々しいリアルなものになっているといえるのです〈 終 〉。
ブライアン・シンガーの映画『 ゴールデン・ボーイ 』を哲学的に考える