監督 : シドニー・ポラック
公開 : 1974年
原案 : レナード・シュレイダー
脚本 : ポール・シュレイダー、 ロバート・タウン
製作総指揮 : 俊藤浩滋
: ロバート・ミッチャム ( ハリー・キルマー )
: ブライアン・キース ( ジョージ・タナー )
: ハーブ・エデルマン ( オリヴァー・ウィート )
: 岸恵子 ( 田中英子 )
: 岡田英次 ( 東野 )
: ジェームス繁田 ( 田中五郎 "健の兄" )
: 郷 鍈治 ( スパイダー "五郎の息子" )
『 ザ・ヤクザ ( The Yakuza ) 』 というタイトルが示すように、田中健 ( 高倉健 )とハリー・キルマー ( ロバート・ミッチヤム )という違う国の男同士の関係をヤクザ (というより任侠と言った方がいいでしょう ) の世界における "義理" という概念で現し、その世界を垣間見せようとする映画です。今回はこの映画について考えていきましょう。
1. 任侠イデオロギーとしての〈 ザ・ヤクザ 〉
a. 『 ザ・ヤクザ 』に対するよくある反応は、監督がアメリカのシドニー・ポラックだという事だけで、外国人が作った割りには良く出来ているとか、所々で過剰な演出はあるものの任侠というものの扱いが結構分かっているとか、いう所でしょう。もちろん、このような見方は日本的なものを扱う外人に対する日本人の見方です。外人だけど結構、日本の事分かってるね、という感じですね。
b. しかし、この外人が日本人であれば、日本的なものを扱う日本人という訳で、日本の事を分かっているのは当然だという事になりますね。何が言いたいかというと、この映画の製作に当って、シドニー・ポラックが自分色に染める事が出来た部分は僅か ( シドニー・ポラックの映画を見たことがある人なら、この映画には僅かしか彼のカラーを見出せないと思うはず ) であり、大部分が日本の、いや東映の任侠的イデオロギーで占められているという事です。
c. その東映任侠的イデオロギーの中心にいたのが、東映の任侠映画製作の筆頭であった俊藤浩滋 ( この映画においては製作総指揮 ) と、原案がレナード、脚本がポールの、日本通のシュレイダー兄弟であり、撮影場所もまさに仁侠映画にふさわしい東映京都撮影所であった ( すべての撮影という事ではないですが ) という訳です。この任侠的イデオロギーの要素の強調を果たして、シドニー・ポラックが望んでいたかどうかは微妙な所だと思われますね。この部分に関しては、やはり、俊藤浩滋がその豪腕でもって、シュレイダー兄弟と共に任侠カラーを強く主張した ( ポラック、あるいは配給先のワーナーブラザーズに対して ) と考えるべきでしょう。『 ザ・ヤクザ 』というポラックなら付けそうにもない露骨なタイトル、高倉健さんを印象付けようとする田中健という配役名、などにその一端が現れていますね。
2. フィルム・ノワールとしての〈 ザ・ヤクザ 〉
a. ではポラックは、どのような映画を撮りたかったのか、という仮定の話を考えてみるのも 面白いでしょう。ここで参考になるのが、もう1人の脚本家のロバート・タウンです。ロバート・タウンといえば、ロマン・ポランスキーの『 チャイナタウン ( 1974 ) 』、ブライアン・デ・パルマの『 ミッション:インポッシブル ( 1996 ) 』などで脚本を担当しているように、フィルム・ノワールやサスペンスものが得意ですね。特にフィルム・ノワールに特徴的な登場人物のモチーフである探偵、そしてファム・ファタール ( 運命の女 ) は、この映画に当てはまるといえるでしょう。
b. フィルム・ノワールの虚無感を体現する探偵役のロバート・ミッチャム、ファム・ファタール ( 運命の女 ) としての岸恵子。ここにロバート・タウンを起用したポラックの狙いがあったするのは的外れではないでしょう。
c. ファム・ファタールの要素に、ポラック的手法である人間 ( 男女 ) 関係を交差させる事 ( 代表的な所では、彼の映画である『 愛と哀しみの果て 』。ここでは田中花子を巡る夫の健とハリーの関係 ) によって物語を進行させるという特徴を加える事によって彼なりのフィルム・ノワール的映画を作ろうとしたのだと今となっては言えますね。
3. 任侠映画でもフィルムノワールでもなく・・・カルト映画としての『 ザ・ヤクザ 』
a. もちろんポラックの試みは中途半端なものになっているのは言うまでもないのですが、その要因は東映の任侠イデオロギーとの折合いが上手くいってない、いやそれどころか押し切られているという所にあるのはお分かりでしょう。ポール・シュレイダーとかは、ポラックのストーリー構築の手法 ( 先に述べた人間関係の交差による物語の進行 ) が理解出来ずに、ラブストーリーを導入しようとしていると非難したくらいですから。しかしポラックによる田中花子を巡る健とハリーの複雑な関係性がなかったら、この映画は単なる海外向けの東映任侠映画でしかなく、ポラックが監督をする意味は全く無かったでしょう。
b. そんな状況でもポラックは、東映任侠イデオロギーと折合いを付けるべく、田中健とハリー・キルマーの関係を、ハリーが健に感じた負い目 ( 健を花子から遠ざけ、彼の娘までを死なせてしまった事 ) を清算すべく指詰めするという形で描き上げたというのは、仕方のない帰結だったのかもしれませんね。
目の前で健の指詰めを見ておきながら知らないふりをしても、日本の流儀の異文化性を浮彫りにするだけだし、かといってハリーが指詰めをしても、日本の流儀が似合わない外人の部外者性がつきまとうだけに終わったという難しさがそこに残る訳です。
ハリーことロバート・ミッチャムの指詰めシーン。
痛さが伝わってこない・・・。やる気あるのかな ( 笑 )。
c. この和洋折衷とでもいうべき『 ザ・ヤクザ 』は、映画の内容だけでなく、製作の舞台裏でも和洋間の微妙な力関係が働いていたわけですが、出演・製作者のほとんどが亡くなられた現在では、 この映画をひとつの娯楽作品として楽しむ事が適当なのでしょう。幾つかの力関係の中で作られてたこの映画は、年月の経過と共に視聴者にアナクロニズムを感じさせるものになっていますが、まさにそこを含めた〈 カルト映画 〉として味わう事こそが、ひとつの楽しみ方だという訳ですね。
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