〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ イングマール・ベルイマンの映画『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 )を哲学的に考える〈 1 〉

 

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監督 : イングマール・ベルイマン
公開 : 1967年
撮影 : スヴェン・ニクヴィスト
 
出演 : ビビ・アンデション       ( アルマ )
   : リヴ・ウルマン         ( エリザベート・フォグラー )
   : マルガレータ・クルーク     ( ドクター )
   : グンナール・ビヨルンストランド ( エリザベートの夫 )

 

 
ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるためでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 



 1章  仮面とは何か?

 

この映画を哲学的に考える上で、避けて通れないのは "仮面" について解釈でしょう。その時、まず気になるのは映画のタイトル『 ペルソナ 』の邦題表記の『 仮面 / ペルソナ 』が果たして正しいのだろうかという意見がたまに見受けられる事です。その意見は、看護師のアルマと女優のエリザベートの2人の人格が入れ替わる、あるいは融合するかのような内容を見て、ペルソナの別の表現である "人格" の方がふさわしいのではないかという疑念から来ている訳です。

 

もちろん、ここで "ペルソナ仮面" という表現が心理学者ユングのものである事を知っている人ならば、"仮面人格" であると理解して『 仮面 / ペルソナ 』というタイトルに疑問を抱く事はないでしょう。ところが、ここで注意しなければならないのは、ユングはこのペルソナを人間の外的側面だというのですが、これをそう実感する人がいるのだろうかという事です。外的側面という表現が意味するのは、ペルソナが他人との人間関係、つまり社会的なものへの適応機能を担うという事になるのですが、そのように理解した人でもペルソナが自分の外部にあると言われピンと来るのでしょうか。

 

何が言いたいかというと、心理学の概念に反して、実際の私達は "人格" が仮面として外側にあるのではなく、自分の "内部" にあると漠然と感じているという事です。つまり、ここにあるのは "仮面と人格の解離" なのです。『 仮面 / ペルソナ 』というタイトルに疑問を抱いて "人格" を持ち出す人はユングの概念に反しているように見えるがあながち的外れではありません。

 

そんな "仮面と人格の解離" から読み取れるのは、社会へ適応する機能を担うものは "人格" という表現よりは "仮面" という表現の方がしっくり来るだろうという事です。仮面はあくまでも外側に対して演じられるから仮面なのであって、人格はやはり内部にあるものだという訳です。

 

そのような事態の深刻さについて考えるには、仮面の裏に抑圧された "本当の自己" があるという危険な考えにどれほど多くの人がとりつかれているか ( セラピストや心理学者でさえ ) を思い起こす必要があるでしょう。何が危険かというと、"本当の自己" という擬似人格的なものが、実は表現を変えた "仮面" に過ぎない からです。仮面の裏に "本当の自己" があるのなら、人々は人生の様々な場面においてもっと自分に自信を持てるはずでしょう、自分の内奥の揺るぎない自己を確信しながら・・・。しかし自信を持てずに抑圧されていると感じるのは、"本当の自己" などない、つまり実は人格が内部的なものではない、からなのです。

 

にも関わらず、"本当の自己" という考えに頼るのは "表現を変えた仮面" を人格的なものと錯覚して自分の中にさらに押し込む事になる、つまり、それこそユングが危険視した "仮面との同一化" に他ならないという訳です ( 皮肉を込めて言うなら、本当の自己とは仮面との同一化が最も成功した例だ といえるでしょう )。そして、そのような "人格" が自分の内部にあると漠然と感じるのは、もうそこには抑圧ではなく、仮面によって人々の内部が既に浸食されている 事を示しているといえるのです。という事は仮面=人格 ( ペルソナ ) であるというユングの考え方は間違っていないのであり、問題なのは、仮面と人格が解離していると感じる ( 本当の自己があると思い込む ) 私達自身の方だという事 なのです。

 

では仮面の裏側はどうなっていると考えるべきなのか。そこが仮面によって浸食されているのなら、なおさら・・・。それについてはこの映画の解釈を進めると共に明らかにしていきましょう。

 



 2章  仮面から顔へ ……

 

映画の冒頭で流れる様々なカットの連続・・・、陰茎 ( ほんの一瞬なので気付かないかも )、映写機とフィルム、蜘蛛、血抜きされる羊、釘を打ち込まれる手。一体これをどう理解すべきでしょうか。シュールレアリスム的であり、ゴダール的でもあるこの前衛性は、理解せずにそのまま放置しておくべきベルイマンの遊びだとすべきでしょうか。

 

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しかし、多くの人がこれらの映像に対して解答する事が出来ていないという事実が、 ここで哲学的に解釈する事に価値を与えると考えられるでしょう。そのためのヒントをベルイマンは与えてくれています。シーン 1~6. に続く以下のシーン 7~8. について考えていきます。

 

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女優エリザベートの息子が目の前のスクリーンに大きく写しだされた母親らしき人物の顔を確かめるように触る。皮肉なのは、視力の悪い息子が眼鏡をかけても母親の顔がはっきりと見えない事。母親であるエリザベートの顔は一瞬くっきりとする ( 9. ) がすぐにぼやけて、エリザベートと似たアルマの顔が浮かび上がり、やがて2人の顔が重なっていく。

 

これについては、息子が母親の "" を認識出来ないという事態からエリザベートが母親としての役割を止めている事を示していると解釈出来ますね。そしてこの後、エリザベートがアルマと同一化していくような流れがある事を予告しているともいえるでしょう。これが普通の人の解釈だと思います。しかし、この後のシーン 13. によってさらに解釈を哲学的に深めていく事が可能になるのです。

 

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エリザベートとアルマが二重写しになったスクリーンが真っ白になり、そのままタイトルである『 PERSONA 』が現れる ( 13. )。この白い画面をタイトルを示すための背景だと思っていてはそれ以上解釈を拡げる事は出来ません。この白い画面をシーン 7~12. から意味が続く一連のものと考えるならば、ベルイマン"仮面" という言葉に "顔のイマージュ" を与えて、無意識的に解釈の拡がりを狙った といえるのです。

 

ここで上で述べた、仮面と人格の解離という現象を思い起こすならば、ベルイマンの無意識的試みは、分離した仮面の状態を、"" のイマージュで説明しようとしていると言い換える事が出来るのです。普通の人は、顔とは特定の個人を識別するための重要な要素と考えるでしょう。極端に言うなら、顔それ自体が、個人そのものだと言えます。しかし・・・それは仮に 人格が同じでも顔が違えば、その個人は誰だか特定されなくなってしまう事態が起きる という事でもあるのです。それこそが、この映画のストーリーにも繋がっていく話なのですが、もはや "" は人格を表すものではなく、たんなる "イマージュ" に過ぎない 事をベルイマンは無意識的に示唆していると考えられるのです。

 

そのイマージュこそが、シーン 1~6. で示された脈絡のないカットなのですが、私達がそれを見て 無意味なものの寄せ集め だと思う時、それは実は、人間主体をイマージュの視点から捉えた時の、真実の姿に他ならない のです。"顔" はまさにその真実を示すイマージュなのであり、その時、"顔" とは私達が通常考えるような顔では全くなくなっている。人間主体を構成する幾つもの 人間的ではないようなイマージュがその "" の元に集合している と理解しなければならない訳です。そう考えなければシーン 1~6. を解釈する事は到底出来ないでしょう。

 

そして次に大切な事は、顔の元に様々なイマージュが集まる様子を、ベルイマンは顔を白い画面に変移させる、つまり 映画のスクリーンそのものに準える 事によって示そうとしている。なので正確に言うなら、顔とはイマージュである事に留まらずに、自らをスクリーンそれ自体であるホワイトウォール としながらも、あたかも顔のパーツを構成するかのごとく抽象的かつ非人間的なイマージュを引き寄せるブラックホー にもなるという事になるのです。

 

この ホワイトウォールとブラックホールの組合せ に言及した哲学者こそドゥルーズ=ガタリに他なりません。『 ペルソナ 』が公開された1967年から約13年後の1980年、ドゥルーズ=ガタリは『 千のプラトー 』の7章、"零年顔貌性" において ホワイトウォールとブラックホールの組合せ概念 を示しました ( 言うまでもなくこの概念は映画通の哲学者であるドゥルーズのアイデア )。ドゥルーズはまさにベルイマンの『 仮面 / ペルソナ 』を見ながら、以下の文章を書いたのではないかと想像したくなりますね。

 

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ジル・ドゥルーズ ( 左 ) とフェリックス・ガタリ ( 右 )。2人は共著者として『 アンチ・オイディプス ( 1972 ) 』、『 千のプラトー ( 1980 ) 』、『 哲学とは何か ( 1991 ) 』などを発表し、20世紀後半の思想界に大きなインパクトを与えた。

 

顔は、少なくとも具体的な顔は、ホワイトウォールの上にぼんやりと描かれ始める。ブラックホールの中にぼんやりと現れ始める  

 

千のプラトーp.194 ( A )

顔はまさに抽象機械に依存しているからこそ、頭部を覆うことにはとどまらず、身体の他の部分や、必要に応じて、いかなる相似点もない事物にまでも働きかける  

 

千のプラトーp.196

粗雑に誇張されたクローズアップ、突飛な表現、等々。人間の中にある非人間的なものとして、顔とは最初から非人間的で、生気のない白い表面と輝くブラックホール、虚ろさと倦怠をともない、そもそもクローズアップである  

 

千のプラトーp.196

顔、何とおぞましいものだろう。それは本来的に月面の風景に似ており、数々の毛孔、面と面、くすんだ部分、輝く部分、白い広がりと穴をともなう。クローズアップにするまでもなく顔は本来的に非人間的である。もともと顔はクローズアップであり、もともと非人間的でグロテスクな頭巾なのだ  

 

千のプラトーp.216

 

 

( A )

これらの引用は、邦訳『 千のプラトー河出書房新社ハードカバー版 ( 1994年初版 ) からのもの。現在では河出文庫版『 千のプラトー ( 上・下 ) 』の入手が容易になっています。

 

 

  以下 ( 次回 ) の記事に続く。

 

 



〈 関連記事 〉 

 

▶ 映画『 マドモワゼル 』( 1966 : directed by トニー・リチャードソン )を哲学的に考える

 

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映画  『 マドモワゼル ( Mademoiselle ) 』

監督  トニー・リチャードソン ( Tony Richardson : 1928~1991 )

公開  1966年

脚本  ジャン・ジュネ ( Jean Genet : 1910~1986 )

    マルグリット・デュラス ( Marguerite Duras : 1914~1996 )

撮影  デヴィッド・ワトキン ( David Watkin : 1925~2008 )

出演  ジャンヌ・モロー ( Jeanne Moreau : 1928~2017 )    マドモワゼル

    エットレ・マンニ ( Ettore Manni : 1927~1979 )     マヌー

    キース・スキナー ( Keith Skinner : 1949~ )        ブルーノ

    ウンベルト・オルシーニ ( Umberto Orsini : 1934~ )    アントニオ

 



 1章  ジュネの原案とその修正についての推察

 

ジャン・ジュネの作品を読んでいる人ならば、この映画の脚本をジュネが書いていると知った時に、あれっと思うはずでしょう。この映画、ジュネ的要素が断片的なものになってしまっているのではないかという事ですね。この場合のジュネ的要素とは男色的なものではなく ( 男色に走る以前の子供時代が描かれているので ) 、自分の体験を介して人間関係や性的叙述を行うという自分を当事者として状況や集団に関わろうとする叙述的姿勢 ( A ) の事であり、それが所々で欠如しているという事です。

 

 

この映画でジュネの叙述的姿勢に合致するものといえば、彼が自分の子供時代を投影している ブルーノと女教師マドモワゼルの関係 ( a )、同じく ブルーノと彼の父親マヌーとの関係 ( b )、であるはずでしょう。以下で各々を説明。

 

( a ) 学校でいつもマドモワゼルに怒られるブルーノ。ヒザが不潔なので半ズボンは止めなさいと言われてしまう。元々は優しかったマドモワゼルだが、ブルーノの父であるマヌーに欲情を感じてからは必死にそれを抑圧する内に、外部に攻撃的になってしまった。だから息子であるブルーノは彼女の標的になっているという訳です。

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( b ) 俺のズボンを穿くなと父に怒られるブルーノ。ブルーノが父のズボンを穿くのは学校で女教師であるマドモワゼルに半ズボンはみっともないと言われるから。ブルーノが投げ返したズボンから女物のハンカチを見つけて大笑いするマヌー ( シーン17~20. )。お前もついに男になったのかという事でしょう。ちなみにこのハンカチはマドモワゼルが優しかった時期に彼女から盗んだ物。ジュネの盗み癖が垣間見える。

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ところが1960年代のこの映画を現在でもカルト的人気たらしめているのは ( a ) でも ( b ) でもなく、女教師マドモワゼルとブルーノの父親マヌーのエロティックな関係 ( c ) なのですね。それはDVDのパッケージを含め、世間に出回っているこの映画のイメージを思い起こせば十分でしょう。

 

おそらく ( c ) は当初のジュネの原案ではそれほど強調されてはなかったのではないかと思いますね。なぜなら ( c ) の強調によって、 ( a )、( b ) におけるジュネ自身であるブルーノの存在感が ( c ) に負けてしまっているから。それでは、ジュネ特有の当事者的叙述による当初の自伝的要素が込められた原案自体が成立しなくなってしまう。

なので ( c ) の強調は監督のトニー・リチャードソンの指示によるジュネの脚本修正とマルグリット・デュラスの修正によるものと考えられるでしょう。特にトニー・リチャードソンジャンヌ・モロー推しで、撮影後に妻で女優でもあるヴァネッサ・レッドグレイヴと離婚しモローと結婚したくらいですからね。

 

そんなトニー・リチャードソンのモローびいきによって、奇妙な結果になっているのがマドモワゼルとマヌーの肉体関係のシーンです。何が奇妙かというと、もエロティックなのが肉体関係のシーンではなく肉体関係に至る手前のシーン だという事です。それを示す以下のシーン。

 

学校に遅刻した息子を庇うマヌーだが、なぜか腹に蛇をまいている。もちろん、この場合、蛇は性的なものの象徴 になっています。

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そしてこの蛇がマドモワゼルの手から腕へと絡んでいくシーンが最もエロティックだといえるでしょう。

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それらに比べると、後の森における性交シーンはおよそ性交といえる程、興奮を覚えさせるものではありません。所々でお互いが相手の腰の前で跪くシーン ( DVDのパッケージにもなっている ) などがありますが、どちらかというと性行為に集中していない散漫な印象を与える描写となっていますね。それどころか2人は一瞬恋人にでもなったのかと思わせるかのようなイチャつきを見せたりします。ここら辺りは、性的結びつきから純愛を取り出そうとするマルグリット・デュラスによる修正の影響が見て取れるでしょう ( たとえば『 愛人 / ラマン 』)。

 

 

( A )

このようなジュネの姿勢は、後期の政治活動にも繋がっていくものです。詳しくない人のために補足しておくと、世間に広まっているジュネのイメージは、40歳くらいまでの小説を書いていた男色、泥棒としての作家というものでしかない。50代以降はアメリカのブラックパンサーや中東のパレスチナゲリラと生活を共にしている。それはかつての自分を捨てたという事ではなく、マイナーな集団の中に自分の居場所を見つけて共生する彼の昔からのスタイルであり、その延長に過ぎない。彼の言い方を借りれば、"自分を取り戻す" という事になるのですね。 

 



 2章  性的なものの抑圧とそこからの反発

 

既に指摘したように、この映画の特徴は、マドモワゼルとマヌーの関係 ( c ) が軸となっていて、ブルーノと女教師マドモワゼルの関係 ( a )、ブルーノと彼の父親マヌーの関係 ( b ) 、はその ( c ) を引き立てる断片的なものに過ぎなくなっているという事です。ここで僕は、ジュネの原案のおそらく骨子であった ( a ) と ( b ) に対して、 ( c ) という要素を強調するトニー・リチャードソンのやり方はジュネを裏切っていると言いたい訳ではありません。

 

そうではなく、映画とはまず監督のものであるのだから、トニー・リチャードソンが自分のやりたいように作るのは当然であるし、それによってこの映画が公開後、何十年も経っていても未だカルト的人気を得ているのを考えると、彼を称えこそすれ、けなす理由はないでしょう。第一、ジュネ自身が脚本の修正にきちんと協力しているくらいですからね。

なのでこの映画の主人公を少年のブルーノではなく、性的なもの抑圧とそこからの反発の間で揺れ動くマドモワゼル にしたのは、観る者にインパクトを与えるという意味では良かったのです。マドモワゼルは元々は優しい女教師だったのですが、木こりのマヌーを、いや正確にいうならばマヌーの木こりならではのがっちりした肉体に欲情を感じてからおかしくなっていきます。おそらくはそれまでは男性とはほとんど性的関係を持った事がないのでしょう。

 

マヌーの肉体に興奮して舌なめずりするマドモワゼル。生々しい演技。

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そんな性的興奮が自分の中から湧き上がってくるのを押さえつけるかのように、左右の乳首にテープを貼り付けるマドモワゼル。この振舞いの意味が分からなかった人も結構いるでしょう。

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しかし性的なものを抑圧し続けた結果、マドモワゼルは村に対してとてつもない被害を与える攻撃性を見せるようになる。村のため池の水門を開けて、村を水浸しにしてしまう。話はそれますが、マドモワゼルが水門を開けてから、水流のクローズアップに至るシークエンスからは撮影監督デヴィッド・ワトキンの緻密なカメラワークが見て取れます。この映画の至る所で彼の仕事振りに驚かされますね。各シーンがストーリーを説明するように構成されている。

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で、水浸しになった村から家畜を助けようと苦労する村人たち。そこにマヌーが現れ屈強な肉体を晒して動物を救い出す。その姿にまた興奮して欲求不満を高めてしまう悪循環に嵌るマドモワゼル

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そして一方で、マヌーの方も自分の女癖の悪さを自覚している所がタチが悪い ( 笑 )。"女には勝てない"、"もし見つめられたら拒めない" って・・・。亡くなった奥さんも困るでしょう。

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そんな2人だからお互いを求め合ってしまうのは必然だったわけなのですが。

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夜が明けるまでお互いを求め合った2人でしたが、マヌーは、自分を水門の解放、放火、家畜の飲み水への毒物の混入などの犯人扱いする村人達に危険を感じて息子を連れて村を出る事をマドモワゼルに伝える ( それらの犯行はいずれもマドモワゼルによるもの )。それを聞いたマドモワゼルは駆け出してマヌーの元を去っていく。

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さて、ここからは解釈が細かくなっていくのですが、人によっては愛したマヌーに逃げられると思ったマドモワゼルが怒って走り去ったと思うかもしれません。でも残念ながら、それは違います。というのも、マヌーに会う前にマドモワゼルは村人達が彼を犯人だと決め付け捕まえようと探し始めたのに気付いたからです。

 

マヌーが村人に捕まってしまえば、マドモワゼルは彼と会うことが出来なくなってしまう。ここで注意すべきは、マヌーはマドモワゼルにとって愛の対象ではなく、性欲の対象でしかない のを思い起こす事です。自分の性欲の対象である彼を村人に奪われる前に、自分が彼を "味わう" しかないと考え、彼を探しに森にわざわざ来たという事なのです。なので行為に最中にマドモワゼルを跪かせたマヌーが征服したかのように高笑いするシーンがありますが、実は主導権を握っていたのがマドモワゼルの方だった事が以下で明らかになります。

 

マヌーの肉体を味わったマドモワゼルは、彼を用済みと考え、彼に襲われたかのように村人たちに振舞います。そうしなければ彼女が実は事件の犯人である事がいずれはばれてしまいますからね ( ブルーノや学校の生徒の一部は彼女が犯人である事に気付いていた )。ここに彼女の計算高さが現れています。つまり、彼女はマヌーの肉体を味わうという自分の欲望を満たすのと同時に彼に罪をなすりつけるというふたつの行為を為している からです。この結果、マヌーは村人達のリンチによって殺されてしまう。

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そんなマドモワゼルの悪女っぷりを仄めかすシーンもあります。ジル・ド・レイを引き合いに出して悪を語り、なおかつその対極であるジャンヌ・ダルクマドモワゼルを強引に重ね合わせて "聖悪女" を匂わせたりする所は、ああ間違いなくジュネが脚本を書いているなと思えて興味深いですね。

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 3章    マドモワゼルとマヌーの方からブルーノへ

 

さて映画の最後で、マドモワゼルとマヌーの性的な力を前にして、片隅に追いやられていたブルーノの存在がようやく戻ってきますね。つまり、それまで事件の犯人であるマドモワゼルをかばいながらも彼女から罵倒され続けた惨めな存在から、彼女に対してはっきりと "否" をつきつけるひとりの "男" にようやくなれたという事です。

 

父親に説教されしくしく泣いていたブルーノが・・・

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マドモワゼルになじられ続けたブルーノが・・・

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マドモワゼル "アバズレ" と吐き捨て、動物をかわいがるという少年の繊細さをウサギを叩き殺す事によって捨て去り・・・

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かつては恋心を抱いていたマドモワゼルに向かって唾を吐きかけるようなれる程、"悪" を心に住まわせる程の大人の男になった・・・。これはたんに父親を罪に陥れたマドモワゼルに怒りをぶつけているだけではなく、大人や世間のずる賢さを味わい、自分もそうなる事でしか生きていけない事を知った瞬間でもあるでしょう。その後のジュネの生き方が普通の人とは違ったものである事を示唆するシーンだとも考えられますね。

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若き日のジュネの写真。偶然にしても映画のブルーノ役の子と似ている。

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▶ 映画『 存在の耐えられない軽さ 』( 1988 : directed by フィリップ・カウフマン )を哲学的に考える

 

はじめに

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この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもあるのです。この出会いをもっと味わいましょう。

 

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映画  『 存在の耐えられない軽さ ( The Unbearable Lightness of Being ) 』

監督  フィリップ・カウフマン ( Philip Kaufman : 1936~ )

公開  1988 年

脚本  フィリップ・カウフマン

    ジャン・クロード・カリエール ( Jean-Claude Carrière : 1931~2021 )

原作  ミラン・クンデラ ( Milan Kundera : 1929~ )

出演  ダニエル・デイ・ルイス ( Daniel Day-Lewis : 1957~ )    トマシュ

    ジュリエット・ビノシュ ( Juliette Binoche : 1964~ )    テレーザ

    レナ・オリン ( Lena Olin : 1955~ )              サビーナ

 


第1章 男女関係を先鋭化させる映画

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 この映画の原作、ミラン・クンデラの 小説『 存在の耐えられない軽さ 』を読んだことのある人なら分かると思いますが、それは小説というよりは、哲学エッセイの要素が強いスタイルを採っていますね。しかも、小説の途中に哲学エッセイが挟まれているとうよりは、哲学エッセイと小説が併記されている作品といっていいくらいです。

 

 それはそれで小説として面白いのですが、フィリップ・カウフマンはそこから物語の要素を上手く抽出して男と女の関係性をよりクローズアップした興味深い映画に仕立て上げています。それは原作の小説が哲学叙述をしているといっても深く分析する事のなかったトマシュとテレーザの関係性を先鋭化して、哲学的に解釈する自由を拡げてくれているという事でもあるのです。そこでは男女の関係が映像化される事によって、より生々しいものになって小説という虚構 ( フィクション ) を超えた現実感さえ漂わせている と言ってもいいでしょう。

 

 他の女と平気で寝るトマシュに対して一途に好きであるが故に苦悩するテレーザ。彼女のこの真剣さが、倫理観の希薄なトマシュを戸惑わせながらも魅了していく ( 1~6 )。

 

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 彼女の一途さはやがて夢から妄想へと移行していく ( 7~12 )。

 

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 水泳教室での女性指導者と生徒たちが、トマシュと全裸の女性たちに見えてしまうテレーザ。自分の妄想に驚いてしまう ( 13~18 )。

 

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 そんなテレーザはついに、トマシュが他の女と寝るのを手伝うという自虐的発言に至る。あなたはどうしようもない男だけど、そんなあなたについていこうという私の気持ちが分からないの? という訳です。このように映画では、テレーザの狂気性を淡々とですがクローズアップする事で、男女の関係性を強調しているのです ( 19~24 )。

 

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 ここで重要なのは、『 存在の耐えられない軽さ 』が1968年前後のチェコスロバキア ( 1993年からはチェコ共和国スロバキア共和国に分離している ) を舞台にしている事です。1968年に社会主義国チェコスロバキアでは、プラハの春と呼ばれる改革が進められる中、それを封じ込めようとするソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍に占領される ( チェコスロバキア事件 ) という状況が発生していました。

 

 クンデラはそんなチェコスロバキア出身で、共産主義に抵抗する作家として有名になったのですが、『 存在の耐えられない軽さ 』では彼は共産主義体制下における男女の赤裸々な関係を描くことで、体制への抵抗を示していた訳です。具体的には、トマシュを反体制の象徴として描き出しているのですが、それについては以下で考えていきましょう。

 


第2章 原作の哲学的真実を露にする映画

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 共産主義への抵抗の象徴的作家であるクンデラですが、この映画においてトマシュとテレーザの振舞いを細かく見るならば、抵抗といっても、彼が 創作の上で共産主義体制 ( あるいは過去の故郷 ) に無意識的に依存している ことが明らかになる。

 

 これについて考えるには、まずトマシュの役割について考える必要があります。彼は女癖の悪い軽薄な人物として描かれるのですが、軽薄ではあるものの、共産主義を批判する論文を発表するなど共産主義体制に抵抗する側面もある事が徐々に明らかになります。

 

 そうするとトマシュの軽薄さは、単に倫理的に問題があるという事ではなく、共産主義体制への過激な抵抗の象徴機能を示している と解釈出来ますね ( クンデラが意識的にそのように設定していないとしても )。

 

 ではトマシュが抵抗の象徴であるならば、彼への愛情を示すテレーザの役割とは何でしょう。トマシュの過剰な振舞いを改めようとする彼女の姿勢とは、体制への順応主義者 のそれ以外の何物でもないでしょう。ただ付け加えなければならないのは、それが共産主義などの特定の政治体制ではなく、自分の生活基盤がある "故郷" としての政治体制、つまりそれ以外は知らないし、それ以外は馴染めないという意味での "故郷" への順応 という事です。

 

 その証拠に、ソ連軍のチェコスロバキア侵攻によって一端はスイスに脱出したトマシュとテレーザですが、テレーザは結局、トマシュに見切りをつけてチェコスロバキアに戻る事を選択してしまうのです。ここでの遣り取りは、映画のタイトルにもつながる場面 ( 31. ) となっています。テレーザは体制を否定するトマシュ ( ) ではなく、チェコスロバキアの政治体制 ( 故郷 ) を選んだ という事なのですが、この時点で2人の関係は実質的に終わっているのですね。それを示すかのように、この後、トマシュはテレーザを追いかけてチェコスロバキアに戻るのですが、彼らはには死が待ち受ける。

 

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 2人が交通事故で死んでしまうというラスト。トマシュを捨てきれずに故郷で暮らすテレーザとテレーザを追いかけるために軽薄さを捨てたトマシュ。主体として中途半端な2人はチェコスロバキアの田舎で仲睦まじく暮らすものの、自分の生き方を捨てた代償として死を受容れてしまう。これはロマンスの終焉としての人間的な死というよりは、自分の生き方や信念に関わる政治的主体としての死 だと解釈すべきでしょう。

 

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 この映画 ( 原作も含めて ) が見た目よりも残酷なのは、恋愛関係にあろうとも政治的信念を捨てた者に対して ( ) を "巧妙に" 与えているという事です。共産主義体制が反乱分子に罰を与えるのに不思議はないとしても、共産主義に抵抗する側のクンデラ自身も "自由" を捨てる者に対して罰 ( 死 ) を与えるという反転した共産主義者的欲望を秘かに持っていた のです。この意味で、一般的な印象 ( 反体制作家 ) と違ってクンデラは創作の上で共産主義体制に無意識的に依存している ( 2章 ) という訳であり、それこそが彼の作家的特質を秘かに規定しているといえるのです。

 


 終

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ベルナルド・ベルトルッチの映画『 ドリーマーズ 』( 2003 )を哲学的に考える

 

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監督    ベルナルド・ベルトルッチ  

公開    2003

原作・脚本 ギルバート・アデア

出演    マイケル・ピット    ( マシュー )

      エヴァ・グリーン    ( イザベル )

      ルイ・ガレル      ( テオ )

      ジャン・ピエール・レオ ( ジャン・ピエール・レオ / 本人役 )

 



 1章    "映画" と "革命"   

 

ベルナルド・ベルトルッチはこの映画を、フランスで起きた1968年の5月革命と映画界の関わりについて語る事によって始めます。シネマテーク・フランセーズ創立者だったアンリ・ラングロワが当時の文化相アンドレ・マルローによって更迭されたのが、3ヶ月前の2月。結局、これは数々の映画監督・俳優によって結成されたシネマテーク擁護委員会のデモで覆され、4月にラングロワは復職するのですが、ベルトルッチはそこに5月革命へと流れ込んでいく革命的欲望の一端があった と考えているのですね。

 

革命の先端に映画があったというのはフランスならではの偶然に過ぎないのですが、ラングロワ事件は映画界に社会的なもの力 ( 権力も革命も含めた ) が流れ込んできたことを示すひとつの "出来事" だった。映画はたんに観客の幻想を満たす娯楽的要素であるだけではなく、社会に影響を及ぼす革命的要素をも備えている 事をベルトルッチはここから学んだと言えるでしょう。

 

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ラングロワ事件当時のモノクロのフィルムも差し込まれている。トリュフォーの映画で有名なジャン・ピエール・レオは聴衆の前で熱弁をする当時の本人役 ( 11. ) をこの作品でも演じている ( 8. )。モノクロのシーンには他に、俳優のジャン・ポール・ベルモンドフランソワ・トリュフォー、映画監督のマルセル・カルネ、の姿もある。

 

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シネマテークヌーヴェル・ヴァーグの作家たちとの関係が語られる ( 17~22. )。

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ラングロワ追放への反対運動をベルトルッチ"文化革命" だと位置付ける ( A )。

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イザベル ( エヴァ・グリーン ) とテオ ( ルイ・ガレル ) の双子と行動を共にするマシュー ( マイケル・ピット )。3人は映画愛好者として仲を深めていく。ゴダールの『 はなればなれに 』でのルーブル美術館を走り抜けるシーンを再現して疾走タイムを更新するという、まさにマニアとしか言いようがないベルトルッチのこの演出は有名ですね。

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( A )

もちろん、これは自分達の為した事を毛沢東文化大革命 ( 1966~1967 ) に擬えている訳なのですが、その前提としてフランス国内における左翼の思想潮流としてマルクス・レーニン主義の中から当時の世界を席巻した マオイスム ( 毛沢東主義 ) が出現していた状況があります。そのマオイスムを強調した映画がジャン・リュック・ゴダールの『 中国女 ( 1967 ) 』。

 



 2章    "映画" と "性"  

 

しかし、3人を結びつけるものが "映画" から "性的なもの" に変質していくあたりから、この映画の核心が少しづつ露になっていく。イザベルとテオは双子でありながら、互いに "性的なもの" の虜になっていたが一線は越えていない関係だった (  "最後" までには至っていない )。3人の性的場面に惑わされずに仔細に観察すると、実は2人は僅かに残っている "モラル" のために、近親相姦の関係になる事が出来なかったのが分かりますね ( 41~46. でイザベルが処女だった事が明らかになる )。

 

だからこそ、イザベルとテオの2人は行き詰まりから逃れるべく "外部" の象徴であるマシューを必要としていたと精神分析的に解釈出来るのです。

 

実は処女なのに、嫌がるマシューと無理矢理セックスしようとするイザベル。

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イザベルに誘惑されて彼女とセックスするマシュー。自分とイザベルが越えられなかった最後の一線を越えるイザベルとマシューの行為を、フライパンで卵を焼きながら苦々しい表情で見るテオ。行為の後、イザベルが処女だった事が分かる。

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この後、テオはマシュー、イザベルと共にデモに参加するのですが、火炎瓶を手に取るなどの過激な革命家的な気質を見せてしまいます。このような "性的なもの" において "モラル" を打ち破る事が出来ずに挫折や屈折を経験した主体が革命に走るというモチーフは、ベルトルッチの『 暗殺の森 』の主人公マルチェロにも見出せます ( B )。

 

 

( B )

暗殺の森 』についてはこちらを参照。ベルトルッチにおいて "性" と "革命" がいかにして結びついているのかを考えています。

 



 3章    "性" と "革命"  

 

それは偶然の一致ではありません。ベルトルッチにおいては、"性的なもの" における不均衡や不安定性が、世界に一時的な混沌をもたらす "革命" と並列的に描かれます。この事がベルトルッチの中でも面白い作品の原動力となっているといっても過言ではないでしょう。極端に言うならば、ベルトルッチにとっては、"性的なもの" ( 性行為自体の事ではない ) こそ "革命的" なのであり、それは主体と社会を十分に揺るがすひとつの "" になっているのですね。

 

ここで肝心なのは、"性的なもの" がベルトルッチにおいては快楽の次元で捉えられるものではなく、それどころか、それが引き起こす不安定性が主体にとっての "トラウマ" になるという事です。そのトラウマが主体を出口のない内的世界から外部に向かっての "革命" というアクティングアウトへと至らせる訳です。

 

しかし、そんなベルトルッチ作品にも例外と言うか、失敗作もあります。マーロン・ブランド ( ポール役 ) とマリア・シュナイダー ( ジャンヌ役 ) のセックスのみに焦点を合わせた『 ラストタンゴ・イン・パリ 』は "性的なもの" が主体を揺さぶらない ( 主体は性行為に成功しひたすら繰り返す ) という意味で、セックス以外は何も起こらないという致命的な失敗を犯してしまう。つまり、逆説的な事にベルトルッチにおいて、快楽的性行為 ( 哲学的な意味での "性的なもの" は消滅している ) は主体の死を招く ( 最後にポールはジャンヌに射殺されてしまう ) 以外にはない という事を証明してしまうのです。

 



  4章    革命の失敗 ……

 

デモなどの実際の行動に関わらないテオを皮肉るマシュー。ここでも彼はテオとイザベルの閉塞的な関係を壊そうとする "外部" の象徴的役割を果たしている。そもそも彼の役自体がアメリカからの留学生ですからね。

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3人の淫らな生活を知った両親が彼らを見捨て出て行ってしまうという状況に絶望したイザベルはガス管自殺をしようとするが、窓から投げ込まれた石をきっかけに外で起こっているデモに、マシュー、テオと共に参加する。

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さて、普通の監督なら3人がデモに参加した時点で、閉塞的な内部から外部へ脱出する事が出来たとして、そこでエンディングを迎えるようにするでしょう。しかし、ベルトルッチ"その続き" を描いてひねりを加えます。

 

デモの中で革命的主体の方へと向うテオは、火炎瓶を手にして過激な姿勢を露にしようとする。そんなテオの振舞いをマシューは止めるのです。テオとイザベルをデモという外部に連れ出したのはマシュー自身なのに止めるのかと思われる人もいるかもしれません。

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おそらく、ここでのベルトルッチの意図は、革命における暴力性を否定して平和的革命を目指すなどという日和見的なものではなく ( C )、いずれ失敗に終わる革命の一過性を示す という事です。ここには革命の失敗の後を見るベルトルッチの視線があります。それは彼が成熟して奔放な若さから脱したという事ではなく、それどころか彼は若い時から革命に付きまとう失敗の運命を十分に承知していたのです ( 例えば1964年の『 革命前夜 』は20代前半で撮られている )。

 

この革命に付随する失敗までをも含んだものとしての映画を彼は撮っているのであり、熱狂から失敗という終息に向かう状況の中での主体を描く事こそが、彼の "映画的欲望" だと言えるでしょう。最後の場面において、マシューはテオを諭すためにキスをするのですが、これはマシュー、イザベル、テオ、の三角関係の中で敢えて触れられずに残されていたマシューとテオの "同性愛的関係" を示すものとなっています。しかし、ここでもテオはモラルの壁を乗り越える事が出来ず ( テオはマシューのキスを拒否する ) に、おそらくは失敗する運命にある革命的主体の姿を予兆する役割を果たしているのです〈 終 〉。

 

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( C )

というのも "マオイスム ( 毛沢東主義 )" を経験したものならば、革命にある種の "暴力性" が付随するのは必然的だと理解するからです。そうでなければ革命は到底成し遂げられるものではないという事ですね。この過激な一過性とは、革命が次の時代へと変化する移行期の混乱のなかで 消滅する媒介的役割 を果たしている事を示す指標でもあるという事です。

 




〈 関連記事 〉

 

 

B級戦争映画:ジョン・ミリアスの『 戦場 』( 1989 )

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監督・脚本 : ジョン・ミリアス  公開 : 1989

原作 : ピエール・シェンデルフール 『 L'Adieu au Roi ( さらば王様 ) 』1969年

 

出演 : ニック・ノルティ      リーロイド

   : ナイジェル・ヘイヴァース  フェアボーン大尉

   : マリリン・トクダ      ヨー

   : フランク・マクレー     テンガ軍曹

   : アキ・アレオン       三田村大佐

   : マリウス・ヴェイヤース   コンクリン軍曹

   : ジェームズ・フォックス   ファーガソン大佐

 

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 1. ジョン・ミリアスの『 地獄の黙示録

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a.   フランシス・フォード・コッポラの『 地獄の黙示録 ( 1979 ) 』の脚本を書いたジョン・ミリアスによる別ヴァージョンの『 地獄の黙示録 』とでも呼べるB級戦争映画 。『 地獄の黙示録 』がジョン・ミリアスの着想でジョセフ・コンラッドの小説『 闇の奥 ( 1902 ) 』を基本にしているのは知られている所ですが、本作はフランスの作家・映画監督ピエール・シェンデルフールの『 さらば王様 ( 1969 ) 』を原作としつつも、ミリアスが監督として描きたかったもうひとつの『 地獄の黙示録 』だと言えるでしょう。

 

 

b.   この背景には、『 地獄の黙示録 』が自分の脚本通りに映画化されなかったというミリアスの不満があったという。だからこそ、彼はわざわざ似たような話の映画を自分で手がけたのですが、その結果、『 地獄の黙示録 』には及ばない代物が出来上がった・・・。普通なら、自分にはこんな映画は撮れないと思い、同じようなテーマは避けるはずなのに、余程、自分に自信があったのか、血が騒いだのか、という所でしょうか。

 

 

c.   ふたつの映画に共通するのは未開のジャングルに住む部族において白人が王となっているというモチーフなのですが、監督によってこんなにも違う映画になるという典型的な例となっています。もちろん、コッポラとミリアスでは集められる予算規模が違う とはいえ、描き方が全く違うものになっていて、同じ脚本家が関わっているとは思えない。これは到底、『 地獄の黙示録 』と同じレベルで語られる映画ではないと思う人がほとんどのはず。

 

 

d.   コッポラは圧倒的な力量で『 地獄の黙示録 』を重厚感のある映画に作り上げているのに対して、ジョン・ミリアスの『 戦場 』は戦争における敵対性を乗り越えた男達の熱い人間関係を描き出すB級映画となっています。そう、この映画に限らずジョン・ミリアスは時に男達の精神的な強さ ( もちろんそれは彼が考えるものという意味での強さでしかない ) という紋切型にこだわってきた。ただし、その描き方は起伏の無い平坦な道筋となっていて退屈さを感じさせる。もちろんそういう映画だと割り切って見ればそれなりに楽しめるかもしれません。でも、第二次大戦中のボルネオにおける山岳部族と日本軍の戦いという設定の中での日本軍の描き方 を見れば、素直に楽しめない人もいるかもしれない。

 

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   映画の原題が『 Farewell To The King 』、つまり『 さらば王よ 』となっているのに、あえて邦題を『 戦場 』としているのは、『 地獄の黙示録 』との関連性を打ち出そうとする商業的努力だと言えますね。僕が見たDVDのパッケージにも "もうひとつの地獄の黙示録" というキャッチコピーが載ってたくらいですから。でもこの映画ってよほどのマニアでない限り見ないでしょうね・・・。

 

  『 戦場 』の製作費は1600万ドル。『 地獄の黙示録 』は2倍の3150万ドル。しかし、これをどう見るべきなのか。『 戦場 』の内容で1600万ドルも使っていると見るべきなのか、それとも『 地獄の黙示録 』があの規模でよく3150万ドルに押さえたと見るべきなのか・・・微妙ですね。

 

   端的に言うと、日本兵によるカニバリズムの事。直接的な描写はないが、言及されるシーンがある。シーン33~38. を参照。

 

 

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 2. いくつかの場面

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   ボルネオの沿岸部に陣取る日本軍に対して戦う必要があると説くフェアボーン大尉と戦いを拒否する山岳部族の王リーロイド ( シーン 1~12. )

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   部族の村を日本軍飛行機に空襲され、リーロイドは村を守るべく連合軍と協定を結ぶ旨をフェアボーンに託す。しかしなぜか彼の上官たちの悪口を言い出す始末。そして今は王様だけどかつては労働組合員だったという興醒めの過去と共に、共産主義者からの政治的転向をしていたという衝撃の過去が明らかに ( 笑 )。続いて "共産主義者には戻らない" という皮肉がわざわざ込められる辺りはミリアスの反共主義者とも揶揄される一端が垣間見られます ( シーン 13~22. )

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■   違う部族の女性との間に出来た赤ん坊 ( 相手の男はリーロイドの部族 ) を巡っての騒動が起きる。女性の部族では出産した母親が死亡してしまうと、赤ん坊も殺さねばならないという掟があるが、フェアボーンは敢えて進んでその殺す役を買って出る事によってリーロイドに赤ん坊を助けさせるという振舞いに出る。リーロイドは最初その意図に気付かず怒るが ( シーン 23. ) 、フェアボーンの思い ( シーン 24. ) を知ってはっとする。そしてリーロイドの赤ん坊を助けた振舞いに対して "君は真の王だ" と熱血ドラマみたく唐突に賞賛するフェアボーン。

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    "幻の大佐" とは三田村大佐の事。リーロイドたちと戦い、彼らに打撃を与える。

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  三田村大佐の部隊が虐殺した部族の村を訪れたリーロイドたち。"ヤツらは人食いだ。人を食って生き延びてるんだ" と言うリーロイド。ここまで堂々と言われると返す言葉もない。でも、食うに困って人食いがあったのは事実だけど、それが組織的な行動だったかどうかは微妙な所なんですよね。この映画では部隊による組織的な行動だと断定されてしまう。

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   リーロイドたちと日本軍による数少ない戦闘シーン。

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   日本軍に先を越されて戦闘員ではない部族の村人たちを殺されてしまう。日本軍への復讐を誓うリーロイド。最初は日本軍との戦闘をすべきだと言っていたフェアボーンが、なぜか急にトーンが下がって命の大切さを説きだす。

"報復しても空しいだけだ大切なのは男らしさではなく命だ" 

 

 

   一説にはタカ派といわれるジョン・ミリアスにも平和的な部分もあるのかと思いきや、リーロイドの "血は血で償うものだ" というセリフから、彼にはタカ派などの政治的信念などではなく、内面世界の欠如したマッチョ主義 を描く事しか出来ない頑固さが垣間見える。おそらくは、それこそが彼の映画に共通するツマらなさの原因です。でもそういうのを分かった上で楽しむのがB級映画の見方でもあるでしょう。

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   怒ったリーロイドらは、ジャングルの谷間にいた日本兵たちを皆殺し!

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   しかし、その反動からか、一気に我に帰り、呆然となるリーロイド。戦いはもう御免だという感じ。

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  日本の敗戦が決まった後、三田村大佐はリーロイドに日本刀を献上するという形で、軍門に下る意志を示した。二人とも、ほとんど言葉を交わすことなく男らしい (?) 振舞いを強調する。

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   戦争終結後、ファーガソン大佐にリーロイドたちに干渉しないよう交渉するフェアボーン。彼はリーロイドらの部族との接触を冒険小説のようなものとしてお咎めがないよう気を配る。この時、字幕には出てないが、コンラッドの名前もフェアボーンは挙げている ( シーン 62~63. )。ここで、ミリアスは自分の思い入れのある小説である、コンラッド闇の奥 』 ( 彼が脚本を担当した『 地獄の黙示録 』の原作 ) をそれとなく仄めかしているという訳ですね。

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   子供へ別れのメッセージを伝えるというお涙頂戴のシーン。連行されるリーロイドの器の大きさを描く事にこだわる。

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  リーロイドに虐待を加えた下級兵に怒り、彼に謝罪を表す大佐。ここでも男同士の熱い関係性が描かれる ( シーン 87~96. )

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  かつてはリーロイドの敵であった三田村大佐。死刑の直前であるにも関わらず、自分の事はそっちのけで、リーロイドをここぞとばかり持ち上げる ( シーン 97~108. )

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■   船からリーロイドを脱走させるフェアボーン。軍規もヘッタクレもない。王を彼にふさわしい場所に返すべきだと思ったから自分はそうしたんだと言わんばかりの自己陶酔の笑顔を見せるフェアボーン ( シーン117. )。彼の唐突な振舞いにリーロイドの方が戸惑ってしまう。自分が彼を脱走させておきながら "彼は自由の民として生きる" というフェアボーン。そして、それに続く "さよなら 私の王" という彼の自己満足的発言が映画のタイトル ( 映画の原題『 さらば王よ) に繋がるという締め括りがいかにもB級映画らしい ( 笑 )。

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  関連記事

 

 

 

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▶ ラース・フォン・トリアーの映画『 アンチクライスト ( 2009 ) 』を哲学的に考える

 

 

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監督  ラース・フォン・トリアー  

公開  2009 年

出演  シャルロット・ゲンズブール 

    ウィレム・デフォー

 



 1章  崩壊する男女関係

 

ラース・フォン・トリアーがこの映画で描き出そうとしているのは崩壊する男女関係しかも女性の側に比重を置いた崩壊過程の話だと言う事が出来るでしょう ( A )セックスに夢中になっていたシャルロット・ゲンズブールウィレム・デフォーの夫婦の近くで息子が転落死してしまうスローモーション映像 ( それは観る者に美しさを感じさせる倒錯的な映像でもある ) で話が始まるのですがそこでは最初から夫婦の繋がりの象徴である子供の存在は排除されている

 

つまり彼らは夫婦ではなく夫婦以前の男女として描かれるそれは結婚し夫婦となり子供が出来ても安定とは程遠い不確実で破裂しかねない緊張が奥底に潜んでいる事を明らかにしようとするものであり男と女という異なる人間同士が結びつく時に起こる問題を示すものでもあるのです

 

その事はシャルロット・ゲンズブールウィレム・デフォーの夫婦自身がお互いの関係性を精神的な意味での夫婦に昇華する事が出来ず未だ問題を抱えた "男女" であ ことを露呈させます特に妻の方がその事に対して根強い気持ちがあるといえるのですこの映画においては

 

というのも後の回想シーンでセックスの最中に実は妻の方が息子が窓際によじ登っていくのを見ているのが明らかになるからですという事は息子が転落する予兆にも関わらず見て見ぬ振りをしてセックスに没頭していたのですね

 

ならば妻は何に対して罪悪感を覚えたのでしょう答えは偶然にでも子供を死なせてしまったという後悔ではなく子供が死んでも構わないと瞬間的にでも思いセックスに没頭した自分の肉欲に対してだといえるでしょう

 



( *A )

リアーの映画の本質としての崩壊作用については以下の記事を参照

 

 

 2章  自分をコントロール出来なくなるという女の本質

 

ということはよくいわれるように妻は子供の転落死をきっかけに精神を病んでいったというよりは自分の中のいや 自分を超えたエデンの森という環境的自然 ( ネイチャー ) で言い表されるように制御出来ない なるものの本質 ( ネイチャー )  に支配されていったと言うべきでしょうもちろんここから女性が男性の肉体にはない自然とつながっている周期的な生理現象の哲学的意味を考える事も出来ますね自分の中に自分を超え出る本質を抱え込んでいるという事こそ女性の "魔女性" というべきものなのです

 

人間を取り囲む環境的自然 ( ネイチャー )主体を超えた女性の本質 ( ネイチャー )。( 1~13 )

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セックスの最中に殴ってと無茶なお願いをする妻自分を制御出来ずに暴走が止まらない ( 14~19 )。

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さらに暴走は止まらず野外に出ての激しい自慰行為もうここまで出来る女優は世界中でもいないのではないかと思わせる凄さを見せるシャルロット・ゲンズブール ( 20~23 )。

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自分の本性を知った夫が逃げ出すのではないかという思いから罵倒しつつ上から夫を攻める妻のサディズムが炸裂するここまで来たら夫は逃げ出すしかない ( 24~29 )。

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 3章  トリアーの真実

 

妻の束縛はエスカレートしていき砥石器で夫の足を貫き固定するという束縛にまでいたるのですが最終的に夫は妻を殺す事によって妻との関係に終止符を打ちますここに至るまでの過程には過激な描写が行われていて観客の道徳観念を挑発するものであるのは間違いないのですがそれだけしか見なければこの映画からいかなる解釈も引き出す事は出来ないでしょう

 

というのもトリアーが男女関係の崩壊を描いているのは確かだとしてもそれが女性的なるものの恐ろしさ女性が自分ではどうにもする事が出来ない獰猛さによるものだとする視点にトリアーが無意識的に囚われているかもしれないからです

 

何が言いたいかというとトリアーが女性差別主義者だという事ではなく女性 ( ビョーク二コール・キッドマンシャルロット・ゲンズブールなど ) こそがトリアーの作品の中心的役割を果たしている事を考えればトリアー自身が女性的なものの獰猛な本質の中に自分の映画作りの真実を無意識的に求めているかもしれない という事なのです世間体や道徳観念などの枠組みを無視したあるいは挑発した映画作りは既存の形式性によって自分の衝動を表すというより形式性に囚われない衝動をどうにかして表そうという極めて "女性的な振舞い" であるかもしれないのです 〉。

 



〈 English version 〉

 

▶ Thinking philosophically about Lars von Trier's film "Antichrist ( 2009 )".

 

 

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 1. collapsing relations between men and women

 

a. What Lars von Trier is trying to describe in this film is  collapsing relationship between a man and a woman, even collapsing process that puts more emphasis on the woman's side ( *1 ).  The story begins with a slow-motion picture of Charlotte Gainsbourg and Willem Defoe's son falling to his death near their sex-obsessed married couple ( it is also a perverse image that gives the viewer a sense of beauty ), but from the beginning, the existence of the child, the symbol of the couple's connection, is excluded. 

 

b. In other words, they are described not as husband and wife, but as a man and a woman before marriage.  It is an attempt to reveal that even after they get married and have a child, there is still an uncertain and potentially explosive tension lurking in the depths of their relationship that is far from stable. It also shows the problems that occur when two different people, a man and a woman, come together.

 

c. This exposes  that the couple of Charlotte Gainsbourg and Willem Defoe are still a troubled "man and woman" who have not been able to sublimate their relationship into an internalized marriage. The wife, in particular, has deep-seated feelings about this, in this film.

 

d. Because it becomes clear in a later reminiscence scene that during the sex, the wife had actually seen her son climb up to the window. This means that despite the signs that her son was about to fall, she pretended not to see him and was immersed in sex.

 

e. Then what did she feel guilty about? The answer is not regret for accidentally letting the child die, but for her own carnal desire to have sex with husband, thinking for a moment that she didn't care if the child died.

 

 

( *1 )

▶ For more on the collapsive effect as the essence of Trier's films, see the following article.

 

 

 2. The essence of Woman that she loses control of herself.

 

a. So, as is often pointed out, wife did not become mentally ill as a result of the death of our child by a fall, but rather she became dominated by the uncontrollable the essence ( Nature ) of Mother , as expressed in the environmental nature ( Nature ) of the forest of Eden within and beyond herself.  Of course, from this we can also consider the philosophical meaning of the cyclical physiological phenomena of women being connected to nature, which is not found in the male body.  The fact that a woman holds within herself an essence that transcends herself is what I would call her "witchiness".

 

b. "The environmental nature ( Nature )" that surrounds human beings. = "the essence ( Nature )" of women beyond the subject ( 1~13 ) .

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c. Wife makes a reckless request to her husband to hit her during sex. She can't control herself and can't stop running wild ( 14~19 ).

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d. And the outbursts don't stop, she goes out in the open air and masturbates vehemently. Charlotte Gainsbourg shows us that there is no other actress in the world who can do this much ( 20~23 ).

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e. The wife's sadism explodes as she attacks her husband from above while cursing him out of fear that he will run away when he discovers her true nature. The husband has no choice but to run away ( 24~29 ).

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 3. The truth about Trier

 

a. The wife's bondage escalates to the point where she uses a whetstone to pierce her husband's leg and immobilize him, and finally he ends his relationship with his wife by killing her.  The process leading up to this point is described in series of extreme scenes that will definitely provoke the audience's moral sense, but if we only see that, we will not be able to draw any interpretation from this film.

 

b. The reason is that even though Trier is certainly describing the collapse of the relationship between men and women, he may be unconsciously trapped in the perspective that this is due to the horror of Woman, the ferocity that women cannot control.

 

c. What I mean, thinking not that Trier is a misogynist, but that just women ( Bjork, Nicole Kidman, Charlotte Gainsbourg, etc. ) play a central role in his films, he himself may be unconsciously seeking the truth of his filmmaking in the ferocious nature of the Woman. It means that Trier himself may be subconsciously seeking the truth of his filmmaking in the fierce essence of Woman.  Filmmaking that defies or provokes the frameworks of public opinion and morality may be a very "Woman behavior" that somehow tries to express impulses that are not confined by formalities, rather than expressing one's impulses through existing formalities ( End ).

 

▶ 映画『 地獄の黙示録 』( 1979 : directed by フランシス・フォード・コッポラ )を哲学的に考える

 

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映画  『 地獄の黙示録 ( Apocalypse Now ) 』
監督  フランシス・フォード・コッポラ ( Francis Ford Coppola : 1939~ )
公開  1979年
脚本  ジョン・ミリアス ( John Milius : 1944~ )
    フランシス・フォード・コッポラ
出演  マーロン・ブランド ( Marlon Brando : 1924~2004 )      カーツ大佐
    マーティン・シーン ( Martin Sheen : 1940~ )         ウィラード大尉
    ロバート・デュバル ( Robert Duvall : 1931~ )          キルゴア中佐
    フレデリック・フォレスト ( Frederic Forrest : 1936~ )      ジェイ・“シェフ”・ヒックス
    サム・ボトムズ ( Sam Bottoms : 1995~2008 )         ランス・B・ジョンソン
    ローレンス・フィッシュバーン ( Laurence Fishburne : 1961~ ) タイロン・“クリーン”・ミラー

 



 第1章  ジョン・ミリアスとフランシス・F・コッポラ

 『 地獄の黙示録 』、 この製作過程における幾つものアイディアの挿入と脚本の改変によって繋ぎ合わされた作品が注目されたのは奇妙な感じだった。  監督のコッポラをして何を主題にして撮っているのか途中で分からなくなったと言わしめた作品がカンヌ映画祭パルムドールを受賞 ( 1979年 ) してしまったのですから。  それは、 争いの絶えない国家でどこかの政権が樹立されるまで主導権の在処が不安定な様に、 コッポラがこの映画をコントロールするのにどれ程の苦労を味わされたかを察する事が出来る事態だったといえるでしょう。

 

 コッポラが映画化の権利を得る前から、 ジョセフ・コンラッド ( Joseph Conrad :  1857~1924 ) の小説 『 闇の奥 ( 1902 ) 』 を基にしてアイデアを練っていた ( 映画用の脚本を書き始めたのはコッポラが権利を得てから ) ジョン・ミリアスを発端として、 この映画は始まった。  なので基本的にはこの作品はジョン・ミリアスの脚本を骨子としつつコッポラの芸の細かい改変によって出来上がったのですね。  実際に、 この映画は『 闇の奥 』を基本モチーフにしているだけでなく、 原題の『 Apocalypse Now 』、 BGMのドアーズ『 The End 』、 爆撃シーンでのワーグナーワルキューレの騎行 』、 そしてキルゴア中佐のサーフィンシーン、 などの多くの映画ファンの関心を惹いたアイデアが実はコッポラではなくジョン・ミリアスによるのは今日では知られている所です。

 

 しかし、 もし彼がこの映画の監督だったとしたら、 コッポラほどの重厚さを産み出す事は出来なかったのは間違いないでしょう。 ジョン・ミリアスが自分で監督するより、 コッポラの方がジョンのアイデアを生かす演出が出来た事は、 ジョンが監督した映画を観た人であれば納得するはずです ( )。  ジョン・ミリアスの力量では特にジョセフ・コンラッドの 『 闇の奥 』 でも見せ場のひとつでもあるカーツが死ぬ場面の緊張感を再現出来たかどうかは怪しい。  観客にとっても分かりやすい戦争シーンが満載の前半よりも、 いまいちピンとこなくて人気の無い後半のシーンはコッポラでさえ苦労した跡が伺えますからね。

 

 ( )

ジョン・ミリアスによるB級戦争映画についてはこちら。 もっとも彼の中ではB級などではなく、 戦争大作を作ったつもりなのでしょうけど。 

 



 第2章  原作を必要とする映画、そしてその逆も ……

 この記事では、 そのカーツの死をクライマックスとするシーンを中心に考えていきます。  正直、 コッポラの演出は上手くいっているというよりは、 説明足らずで分かりにくいでしょう。  それは映画と原作の小説との形式的違いがその一因でもあるのです。  つまり、 映画は 客観的視線によって支えられるイマージュ であるのに対して、 コンラッドの 『 闇の奥 』 が最も面白くなるのは、 マーロウの 1人称による圧倒的独白 が続く所であり、 それは 主体の中の内的時間とでもいうべきものであって、 可視化されたイマージュには還元されない何か であるのです。  仮にそれを可視化しようとすれば、 "闇" の中でマーロウの声だけが延々と続くという観客には耐え難い結果になるでしょう ( )。  という事で、 クライマックスのシーンについてコッポラは明確な解釈を提示する事が出来ていないので、原作を解釈する事によって補完する必要があります。  それは 映画が原作を必要とするという一方的な関係性ではなく、 原作も映画によって新たな生命を得るという双方性 でもあり、 極めてヴァルター・ベンヤミン的な哲学テーマ ( ) なのです。

 

 なぜこんな事を書くかと言うと、 現在ではポストコロニアル批評による植民地批判の観点でのみコンラッドの 『 闇の奥 』 が語られてしまう傾向 ( 原住民への植民地的主義的描写がいくつかあるのは確かですが ) が強く、 そこでは "小説的なもの" が政治的なものが支配する空間に閉じ込められているからです。  そのような空間では小説はそれ自体を楽しむ事が出来ない、 つまりベンヤミン的視点では 『 闇の奥 』 は新たな生命を得る事が出来ないという事であり、 やがては消え行く傾向に呑まれていく。  そういうベンヤミン的視点に立った時、 『 地獄の黙示録 』 は製作者達の意図を超えて、 コンラッドの 『 闇の奥 』 を現代に甦らせる映画として興味深いものなのです。  ここに、 原作によって映画の解釈を補完する事の意義があるのですね。

 

 ( )

この 客観的視線によるイマージュ主体の内的時間としての独白 こそが、映画と小説との形式的差異を表す対立テーゼだと言えるでしょう。 小説の1人称による独白を映像化しようとする試みはほとんど失敗してしまう。 この形式的差異を考慮する事のない観客にとっては全く面白みを感じないという訳ですね。 その失敗例のひとつが、ジム・トンプスン ( Jim Thompson : 1906~1977 ) によるノワール小説  『 おれの中の殺し屋 ( 1952 : The Killer Inside Me ) 』  を映画化した マイケル・ウインターボトム ( Michael Winterbottom : 1961~ ) の 『 キラー・インサイド・ミー 』 です。 主人公の内的独白の "声" がほぼ失われているものの、サウンドトラックの "音楽性" がそれを補っているこの奇妙な映画については以下の記事を参照。 

 

( * )

哲学者  ヴァルター・ベンヤミン ( Walter Benjamin : 1892 ~ 1940 ) は、 『 複製技術時代の芸術 』 で "オリジナル" の視点から "複製品" について語り ( これをテーゼ A とします )、 『 翻訳者の使命 』 では "翻訳 ( 複製品 )" の視点から "原作 ( オリジナル )" について語っている ( これをテーゼ B とします )。 興味深いことに、AB では視点が逆になっているのです。

 

テーゼ A では、オリジナルが大量工業化社会における複製化に抗う事が出来ないものの、オリジナルは複製品によってこそ、その中に新しい生命を得る ( より多くの人の目に触れる ) とされる。

テーゼ B では、翻訳が原作に忠実である事が翻訳者に課せられた使命とされる。ただし、この忠実性さというのが問題で、ベンヤミンは決して読者に読みやすく翻訳する事が原作への忠実さであるなどという常識的な主張をしている訳ではないのです。 むしろ彼は逐語的な翻訳を望んでいて、読みやすさという視点は最初から廃棄されている。それについて解釈するには、 ジャック・デリダ ( Jacques Derrida : 1930~2004 ) の 『 バベルの塔 』 を参考にしつつ、多くの言語が存在する事自体が言語間の根本的な翻訳不可能性を示しているのを考慮に入れる必要がある。 つまり、逐語的翻訳で明らかになる読みづらさこそが、根本的に翻訳不可能な言語間の隔たりを乗り越えて、 原作が新しい生命を得ようとする際の "唯物的振舞い" である と解釈しなければならないのです。

 

以上の A B を踏まえて、ここで避けるべき過ちは、テーゼ B に依拠して映画は原作に忠実であるべきだという結論です。 そうではなく、少なくとも1人称形式が多用される小説と映画では、その存在形式が違うのだから ( 視線によって支えられるイマージュ 主体の内的時間としての独白 との違い ) 、根本的に原作に忠実である事が出来ない、いや、そこでは忠実さという考え方自体に意味が無い。 むしろ、映画の場合は、翻訳と違って 原作を 自由に解釈すべき なのです。 その結果、生じる原作との隔たり、軋轢、裏切り、などが根本的に移行が不可能な映画と小説との媒体的差異を明らかにし、それを乗り越えて出来た映画にこそ、小説の新しい命が宿ると考えられるのです。

 

つまり、原作  ( 小説 ) の映像化という紋切り型 ( 商業的意味での ) は、複製的な範疇に収まるものなの ( テーゼ A ) ですが、異なる媒体への移行作業である映画化においては解釈の自由性が必要となる のですね。 これこそ映画におけるテーゼ B の変形ヴァージョンとしての新しいテーゼ C"移行媒体物 ( 映画 )" の視点から "原作 ( オリジナル )" について考える というものなのです。

 



 第3章  原作から微妙にずれるコッポラの解釈

 カーツが地獄の恐怖について語りながら死ぬシーンこそ、 この映画のクライマックスと言えるでしょう。  以下 ( 1 ~ 5. ) は原作にはないカーツのセリフ。  地獄の恐怖と向き合い、 それをどうにかしたいという思いが吐露されている。 

 

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 そして死の直前の有名な "地獄だ。地獄の恐怖だ"  のセリフ。  原作では  "The horror! The horror! " ( )

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 さて、 ここで原作を知らずに映画を観た人は、 カーツは死ぬ事を恐れているのだろうかと思うでしょう、 ウィラード大尉が軍の命令によってカーツを殺しに来た事を考え合わせれば。  原作を読んだ人ならば、 そうではない事が分かるのですが、 実はカーツが死を恐れているという解釈は間違っていないのです、 少なくとも映画に関しては。  なぜなら、 それは コッポラ自身が原作から "微妙に" 逸れた解釈を提示した結果 だからです。  端的に言うと、 コッポラは "" "地獄" を同一視している のです。  恐れるべきものは "死" なのであり、 それはジャングルの奥地で増幅され、 カーツを狂わせたとコッポラは考えている。  だから "王殺しという神話的概念" を持込む事によって、 ジャングルの王であるカーツと王を殺しに来たウィラードとを "死" で結びつける三角関係によって話を進めるという脚色を行った訳です。

 

 そして、このコッポラの脚色は、かなり凝ったものになっていますね。 彼はコンラッドの 『 闇の奥 』 を骨子とするというジョン・ミリアスのアイデアに、同じくコンラッド繋がりで  T.S.エリオット ( T.S. Eliot : 1888~1965 ) を接続する事によって表面上は話の流れに一貫性を持たせようとしているのです。 20世紀モダニズムの詩人である T.S. エリオットは、詩作においてコンラッドを参照していた 事で有名なのですが、コッポラはその事を上手く利用している。 エリオットを導入する事によって、彼が参照していたコンラッド ジェームズ・フレイザー ( James Frazer : 1854~1941 ) の 『 金枝篇 』、 ジェシー・ウェストン ( Jessie Weston : 1850~1928 ) 祭祀からロマンスへ ( From Ritual to Romance : 1920 ) 』 を画面中に一気に登場させ、王殺しの脚色を確定させるという教養的荒技を出すのです ( )

 

 カーツが死に至るシークエンスにおいては皆、 コッポラの教養に惑わされて引用物に注目する事に留まり、 それ以上解釈する事を忘れてしまう ( どれほど多くの批評がそうである事か ) のですが、 王殺しの脚色はウィラードがカーツの王国に留まらずに外部に戻るという話によって破綻しているという事に注意すべきでしょう。  なぜなら王殺しの神話は王国の再建・復活というモチーフが必須なのですが、 ウィラードはそういう事に興味を示さないし、 そもそもカーツは "爆弾を投下してすべてをせん滅せよ" と言っているのです。

 

 そうすると、 ここから読み取るべきは、 王殺しの脚色はカーツの死にアクセントを付けるためのアリバイに過ぎず、 コッポラは、 カーツに忍び寄る死の実存主義的恐怖を描いた  というのが本当の所でしょう。 王国を築いたカーツは、 "死" というものが自分の肉体のみならず、 王国を含めた自分の世界そのものの滅亡である事を望んでいた。  それを実現するのが眼前のアメリカ軍の爆撃なのであれば、 コッポラは無慈悲な戦争の中で省みられない個人の世界を、死の実存主義に取り憑かれたカーツを通して浮かび上がらせた と言えるでしょう。

 

 

( )

この "The horror! The horror! " は現在、日本語訳の最新版である光文社古典新訳の 『 闇の奥 』( 2009 ) では "恐ろしい! 恐ろしい!" となっている ( p171 )。 この形容詞的翻訳では、クルツ自身の恐怖の心情を表していると受け止められかねないので、この部分に関しては中野好夫による訳 "地獄だ! 地獄だ!" ( 岩波文庫 1958年 ) の方が適切でしょう。

なぜならクルツは死の間際で、 死ぬ事の恐怖を "感じた" のではなく、 彼が生前から生活してきたジャングルの中で漠然と感じた闇を今まさに "見た" という事を訴えているからです。  彼は "地獄を目撃した" と言っている のですね。  そうすると "The horror! The horror!" は素直に名詞的に "恐怖だ! 恐怖だ!" と訳した方がいいのです。  とはいえ、 光文社古典新訳版の黒原敏行の訳はこれまでの先人の業績も踏まえたものになっているので現状ではこれが妥当なのかなと思います。

 

( )

コッポラはカーツにエリオットの詩 『 うつろな人々 』 を朗読させているのですが、その 『 うつろな人々 』 では 『 闇の奥 』 の一節 "クルツの旦那死んだよ" ( 光文社古典新訳版 p.172 ) が引用されている。  ここでコッポラは "入れ子構造" を導入するというちょっとした遊びを披露しているのですね。  それはつまり、『 闇の奥 』  の後年に書かれた 『 うつろな人々 』 を、『 闇の奥 』 を原作とする 『 地獄の黙示録 』 というさらに後年の映画において導き入れる事によって、『 闇の奥 』 と 『 うつろな人々 』 を 同時代で遭遇させている 訳です。

 



 第4章  映画から原作へ …… クルツの真実

 さて先程、 コッポラの解釈は、 カーツは死を恐れていて "死" と "地獄" を同一視するものだが原作は違うと言いました。  そこではクルツ ( ここでは映画ではカーツ、 原作ではクルツというように既存の呼び方に倣っている ) は死の間際において絶望こそするものの、 明晰さを保ちつつ決して死を恐れてはいないのです。  この意味で ( ) で述べるように、 クルツの最後のセリフ "The horror! The horror! " は "恐怖だ! 恐怖だ!" とする方が適切でしょう。  クルツが、死の間際の深淵の中で覗き見た "恐怖" とは自分が死んで還っていく無の世界などではなく、 それどころか、人間の存在がそこから産まれる "闇の胎動" だったのです。  人間の形象などはまだあるはずもなく、そこから何かが産まれるであろう予兆としての鼓動が闇に響き渡る幻想を、クルツは明晰に "恐怖" と呼んだ のですね。  『 闇の奥 』 をかつての植民地支配への批判の為の "資料" としてしか ( 小説としてではなく ) 読めない近年のポストコロニアル的批判では、 この解釈 ( 闇の胎動 ) について考える事は出来ないでしょう ( エドワード・サイードでさえ )。

 

 以下はクルツの事を語るマーロウ ( 映画ではウィラード役に当る ) の独白。

 俺も深淵を覗き込んだことがある人間だから、クルツのあの眼差しの意味はよくわかる。彼には蝋燭の炎が見えなかったが、その眼は宇宙全体が見えるほど大きく見開かれ、闇の中で鼓動するすべての心臓を見通せるほど鋭かった。彼はいっさいをまとめあげ ー 審判をくだした。『恐ろしい!』と。 

 

光文社古典新訳版  p.173 ~ 174 

 俺が一番よく憶えているのは俺自身が死にそうになった時のことじゃない ー 眼の前が何も形をなさない灰色一色になって、肉体的痛みがみなぎり、もうこの痛みを含めて、どうせ何かも儚いものだと、生きる努力を無造作に投げてしまう境地じゃない。違う! 俺はどうやらクルツが死に際に達した境地を経験してしまったようなんだ。 

 

光文社古典新訳版  p.174

 俺としては、自分がもう少しで口にするところだった人生最後の言葉は、生きる努力を無造作に投げてしまう言葉ではなかったはずだと考えたいところだ。そんなものよりは、クルツの囁きのほうがいい ー ずっといい。あれは一つのことをちゃんと述べていた。数知れない敗北と、恐ろしい行為の数々と、忌まわしい欲望充足という代償によって得られた精神的勝利ではあったが、ともかく一つの勝利だった!

 

光文社古典新訳版  p.174 ~ 175

 

 コンゴの奥地のジャングルは人間存在の源泉の闇と共鳴してクルツの中に正体不明の無意識的衝動として彼を刺激していた。  おそらく、 これこそがクルツの真実であり、 彼に魅了されたマーロウの真実でもあるのです。  最後まで闇の正体を見定めようとしていたクルツの言動を見ると、このコンラッドの 『 HEART OF DARKNESS 』 の邦題は 『 闇の心臓 』 と "逐語的に" 訳す方が相応しいと言えるかもしれません ( 商業的には、今更無理でしょうけど )

 

 それからクルツは、『 ああ、しかし私はまだこれからお前の心臓を絞りあげてやるからな!』と、見えない魔境に向かって声をあげた。 

 

光文社古典新訳版  p.169