〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ イングマール・ベルイマンの映画『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 )を哲学的に考える〈 3 〉

 

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 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



 4章  顔からの解放

 

おそらく、この映画でのベルイマンの狙いとは、舞台における演技者同士のやり取りの本当の対象が第三者の観客であるならば、そのやり取りがどのようなものであれ第三者に届くという舞台あるいは映画における鑑賞の必然的形式に揺さぶりをかけるというものでしょう。そして、この実験的試みに賭けられたものが "仮面" という事なのです。

 

エリザベートが女医への手紙の中で自分の秘密話 ( かつて少年達と乱交した時の生々しい話 ) を暴露したことにアルマは怒りを覚える。エリザベートを尊敬の眼差しで見ていたアルマの中で何かが壊れることを表すシーン。ガラスが割れるかのようなシーン 43~45. から彼女の顔に穴が開くという実験的なシーン 46~47. が続き、白い画面へと至る。

 

このシークエンスの細かい解釈。憧れのエリザベートに興味を持ってもらおうと昔の乱交話までしたアルマが、もはやエリザベートの対象になろうとはせず怒りで彼女を逆に非難するという攻撃的主体になった事が示されている。アルマがエリザベートの退屈を紛らわす都合のいい対象であるのを拒否した事が、顔がないという事で現されてる訳ですね。ここから人格的な顔は常に誰かの "対象" であるのが分かるわけですが、逆にいうと、人格的であるのを止めた顔は、誰かの思い通り ( の対象 ) にはならない自由を手に入れる事になる のですこれこそが 人格的な顔からの解放 なのです

 

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ベルイマンは観客である私達に自分は一体誰を、いや何を見ているのかと撹乱させる事によって、顔=人格という無意識的思い込みによる同一性を解体しようというのです。注意しなければならないのは、"" それ自体が悪いわけではありません。まずいのは、顔にその人間の人格を含めたあらゆるものを統合するかのような象徴的機能を付与する事 なのです。顔がその人間の全てを統合してしまう事は、その人間自身が違う要素の方へと向かう事を封じてしまう、それは自分のキャラには似つかわしくないという具合に。

 

母親である事、女優である事、その狭間で悩むエリザベートは顔にこだわりすぎていたのです。顔に人格を込めすぎていたのです。そのような人格的な顔に固執して、母親の顔であり、同時に女優の顔を持とうとするのは自分に無理強いする事にしかならない。必要なのは、自分ではない別の誰かになるというような幾つかの顔を持つ事 ( 別の誰かに方に逃げるというアリバイ作りでしかない ) でもなければ、仮面の裏に隠された本当の自分をさらす ( そのようなものはないのだから ) というような事ではありません。

 

そうではなく、〈 3. 演技の虚構性 〉 で述べたように "" を映画のスクリーンであるかのようにホワイトウォール、ブラックホールという抽象機械と化して、あらゆる要素 ( シーン 1~6. のような非人間的なものを含めて ) が混ざった "風景" を自分の中から映し出していく事が重要なのです。あらゆる経験あらゆるイマージュあらゆる感情、が詰まった 人生の風景・・・、その風景が織り重なって作られる 自由な世界を見せていく事 こそが大切なのであって、それは少なくとも "" の上では可能になるのです。

 



 5章  仮面の裏側 ……

 

さて最後に 〈 1. 仮面とは何か 〉  で残した問題、仮面の裏側について考えておくべきでしょう。仮面の裏側に、本当の自己などないのならば、そこには何があるのか。答えは、何も無い。言い換えると、"" があるのです。こう言うと、元も子もないように聞こえるかもしれませんが、それは絶望でも何でもありません。無があるからこそ、人はそこに、本当の自己、想像的自我、小人などという擬似人格的な表現で示されるものを押し込む事が出来るのです。

 

そして注意すべきなのは、私達がそのような擬似人格的なものを自分の内側に定立しようとするのも、そこに主体による定立化の行為の自由があるからこそなのです。その 主体行為の自由を可能にしてくれているものこそ、"無" に他ならない。もし "無" がなく、人格的なものが本当に私達の内部の玉座に固定されていたら、私達は日常生活において出会う咄嗟の場面  ( ゆっくりと考えることの出来ない ) において主体的な行為が出来なくなってしまうでしょう。まず主体の自由に動ける "無" があるからこそ、その結果、擬人化の作業も可能になるという訳です。

 

この映画においても、ベルイマンは、仮面との同一化に悩むエリザベートをアルマに諭させる形で人間の内奥の "" について最後に語らせていますね〈 終 〉。

 

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