哲学的考察と備忘録

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手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(3)

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僕の別ブログの記事 ( 3年前 ) をこちらのブログで備忘録的にまとめておこうと思い移動させたものです。

 

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手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(2)からの続き。

 

 

a.   宛先における〈 死 〉・・・それは宛名人の〈 死 〉なのです。差出人が宛名を書く時、それは自分の言う事を聞いてもらう、あるいは受取ってもらう、受け入れてもらう為なのですが、それは同時にそうしてもらわねばならない、それしか出来ないよう宛名人の自由を奪い受取りの行為のみに特化させる事、しかも宛名人の許可なく彼らの知らない間にする事でもあるのです。それは宛名人の立場を奪い、自由を奪い、可能性を奪い、意思を奪う、つまり知らない間に殺す事でもあります。この言い方が耐え難いのであれば、殺すのではなく、死んだ者として扱う事と言い変えましょう。

 

b.   そのような罪なくしては、そもそもメッセージを伝える事など出来ないのです。相手の人生を中断して割り込み、そこに自分のメッセージを差し込む。自分の思いや悩みなどの個人的告白や事務的連絡であれ、メッセージを宛名人に送るというのは、たとえそれが相手に非礼がないよう敬意が持たれていたとしてもそれ以上に自分への愛や忠実さがなければ実行出来ない行為であるという意味で宛名人を自らの犠牲にする事なのです。相手に迷惑であるのなら止めるべきだろうかという憂慮を振り切り、自分のメッセージに根拠や信用がある、あるいは宛名人とって有益であるとさえ思わせる盲目的な愛がそこにはあるのです。

 

c.   もちろん実際にはそのメッセージを受取人がどう受取ろうが、あるいは受取らなかったように振舞おうが自由であるのですが、手紙を差出す事は相手を知らない間に( 受取人だけではなく差出人自身にとっても )殺す事なくして不可能なのであり、それは死者に手紙を送る事なのであり、それ故に実際にそれが必ず受取られてたとしてもその瞬間から手紙は逃れ去り漂流するといえるのです。

 

 

d.   そうすると、今では手紙は宛先に届くという命題を違う意味で肯定する事も出来るでしょう。手紙は宛先に届かない事もありえるという命題はそれに反するものではなく、まさに手紙が宛先に届く時に何が起きているのかを説明するのです。

 

e.   手紙は宛名人の所に到着する時をもってそれとして認識され、その行程を終了するように見えるがそうではありません。手紙が手紙として認識されなければ、それは一体何なのか。それは手紙と呼ばれるべきものではないのか。そのような事態は考えられるのでしょうか。

 

f.   手紙が宛名人において受取られ認識されるという行為は、手紙の差出とは全く別の事態であり、象徴界の一地点における出来事です。しかし手紙の行程において、その差出という行為は、到着点において受取りという行為に自動的に切り替わるのではないのです。

 

g.   手紙が受取られたとしても、差出は消滅せずに自分に忠実であり続ける。手紙の受取りとは象徴界における必然的な出来事ですが、まさにその受取りという行為の必然性故に、それ以前の手紙の差出という事実を回収できずに野放しにして彷徨わせ続けているのです、未だに。手紙の差出という事実は、それが宛名人において受取られたとしても、消去できず、未だ終わりなく彷徨い続ける。それは象徴界に安定的に登録される行為ではなく、未だ上手く定義出来ない〈 死 〉に関する行為であるが故に象徴界に安住する地を持たず、〈 幽霊 〉として漂うのです。

 

h.   ここにおいてテーゼを書き換える事が出来るでしょう。

手紙は宛先に届く。しかし届くや否や、それは逃げ去り彷徨い続ける

 

 

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手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(4)へ続く。

 

 

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