〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(1)

 

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a.   エドガー・アラン・ポーの小説『 盗まれた手紙 』の読解から引き出した〈 手紙は宛先に必ず届く 〉という精神分析ジャック・ラカンのテーゼとそれに対する〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉という哲学者ジャック・デリダのアンチテーゼは、かつて興味深い対立のひとつでした。

 

b.   ラカンの影響力により、〈 手紙は宛先に必ず届く 〉というテーゼは精神分析的でありながらも哲学の圏域にも入り込んでくるものだった。そしてそのテーゼに対して〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉と デリダが言った時、そこで何が起こったのか。そのテーゼの中には精神分析概念の支配からは逃れていく別のものが紛れ込んでいる事を示したと言えるのです。テーゼが完成され閉じられてしまう前に、そこに異質なものがある事を示してテーゼを保留状態にしまうという異議申し立てでもあったのです。しかし〈 手紙は宛先に届かない こともありうる 〉とは何を示しているのか。これについて僕の考えを述べ、さらに展開していこうと思います。

 

c.   〈 手紙は宛先に必ず届く 〉というテーゼは、手紙がひとつの記号表現として、それの受取手である主体に向かう行程における転移関係によって構造化されていく象徴空間を示している。それは "記号表現"の大いなる行程とその主体への最終的帰着であり、記号表現というラカン的論理の軌跡が各対人間における転移関係を分配するという象徴空間の編成を描いているとさえ言えます。

 

d.   では逆にそのような転移関係から免れた、あるいは "上手くいかない" 象徴空間 は少なくとも精神分析といえるでしょうか。少なくともそのような象徴空間が 一体何を意味するのかを詳細に分析する事は、治療という限定的意味での精神分析的身振りには収まりきれないものを明らかにする事ではあるかもしれません。

 

e.   〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉、 それがもし転移関係が上手く構造化されない象徴空間もありえる、つまりラカンのテーゼが精神分析的に十分ではないという主張ならば批判的でありながらも、その立場は精神分析の一派に過ぎないものという事になるでしょう( 実際にそれを名乗っていないとしても )。しかし転移関係が上手く構造化されない象徴空間が、精神分析概念でありながらも精神分析が "全て" を囲い込む事の不可能性を示しているとすれば、それは自らの要素 ( シニフィアンなど ) の動きが予期出来ない場合がある事、つまり受取り手としての主体である 宛先に届かない事、に影響されているからではないでしょうか。その予期出来ない場合がある事によって象徴空間は十分に構造化されず、転移関係が行き渡らない事もあるのではないかと考える事も可能なのです。

 

f.   その前に〈 手紙は宛先に必ず届く 〉についての考え方に触れてみましょう。一見洗練されているように思えるが実は十分ではない考え方はこうです。

"手紙はそれが受け取られた主体においてその宛先が自分であるのだと認識される事によって初めて手紙となる"

しかしこういう手紙が届く事の必然性を説明する事後成立性の遡及効果は認識論的なものであり、既に届いてしまっているものの事しか、届いた後でしか、言及出来ない。つまり、それは手紙の "誤配" ( 言うまでもなく東浩紀によって概念化された ) により届かなかったものについては言及出来ないし、そもそも 手紙が出されたどうかすら永遠に気付かれないまま でいるかもしれないのです。

 

g.   この点からするとスラヴォイ・ジジェクの回答はもっと洗練されている。彼は手紙を入れた瓶を無人島から海に流すという例えで、実際には届かないかもしれないが海に流した瞬間にそれは象徴的なものとしての受取人である大文字の他者に届くというのです。受取人側の行為に基づくのではなく、差出人の手紙を出すという行為自体が既に〈 手紙は宛先に必ず届く 〉の象徴的行程として既に確定されているという訳ですね〈 続く 〉。

 

 

 以下 ( 次回 ) の記事に続く。