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「 バナナフィッシュにうってつけの日 」 アメリカ雑誌 NEW YOKER 初出 ( 1948 )
自選短編集「ナイン・ストーリーズ Nine Stories ( 1953 ) 」所収
著 : J.D. サリンジャー
訳 : 野崎 孝
発行所 : 新潮文庫 ( 昭和63年改版 )
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CHAPTER1 シーモア・グラスと女性 ①
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▶ 日本語訳版で30頁にも満たないこの短編をいかに理解すべきなのか。それは短いから解釈しやすいというものでもない。短くても読者に深い解釈を要請させる程の強度を備えているという意味で、非常に強力な作品性を発揮している。物語の背景を細かく説明しないサリンジャーの叙述方法は、余分な説明をカットする事で読者に対して敢えて行間の重層化、もしくは真実の伝達直前での緩衝地帯化、によって作品の謎めいた空気圏を作り出している。その結果、彼の作品は解釈を深める思索を読者に要求する事となった ( それこそサリンジャー研究本などのタイトルに、探求、謎解き、などのような言葉がよく見られるように )。
▶ 主人公はシーモア・グラスという元従軍兵士であり、彼を起点とするこの作品を構成する主要な人間関係は3つある。1つ目はシーモアと妻ミュリエルの夫婦関係。これを関係性Ⓐとする。2つ目は、シーモアと少女シビル・カーペンターの恋愛関係。これは問題のある表現なのですが、サリンジャーを語る時、避けて通る事は出来ない歪んだ関係性です ( 彼は聖人でもないし、人格者でもない。極めて癖の強い作家である。これを忘れない様に )。これを関係性Ⓑとする。そして3つ目は、ミュリエルとシビルの差異、もしくはシーモアの心理的布置の変化に呼応した女性への興味の移行、という抽象的三角関係です。これを関係性Ⓒとする。これらを軸として考えて行きましょう。
▶ まず関係性Ⓐについて。冒頭の場面。夫婦で宿泊しているホテルの部屋で女性雑誌のセックス特集記事を読んでいる妻ミュリエル。何気ない描写ではあるが、その記事のタイトルをご丁寧に「 セックスは楽しい ー さもなければ地獄か 」と書いている所に、シーモアが快楽に夢中になる妻の姿勢を冷ややかに見ている事 ( ここにはサリンジャー自身の視点も重なっている。地獄というのはシーモア / サリンジャー側からの視点 ) を含ませている。
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ホテルにはニューヨークの広告マンが九十七人も泊まり込んでいて、長距離電話は彼らが独占したような格好、五〇七号室のご婦人は、昼ごろに申し込んだ電話が繋がるのに二時半までも待たされた。でも彼女はその間を無為に過ごしたわけじゃない。ポケット判の婦人雑誌の「 セックスは楽し ー もしくは苦し 」と題する記事を読んだ。
「 バナナフィッシュにうってつけの日 」 p. 10 『 ナイン・ストーリーズ 』所収 J.D. サリンジャー / 著 野崎 孝 / 訳 新潮文庫 ( 1992 改版 )
そのような妻のセックスに夢中になる様は、続く下りにもそれとなく示されている。
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彼女はしかし、電話のベルが鳴ったからといって、やりかけてたことを慌てて止めるような女じゃない。年頃になってからというもの、彼女の家の電話は鳴りづめだったといわんばかりに悠然としたものだった。
前掲書 p. 10 * 下線は引用者の僕による
▶ ここで電話が鳴っても止めないというのは、直前で雑誌を読んだ後のマニキュアを塗るという行為を止めないという事だけを指しているのではありません。"年頃になってから" という言葉から分かるように、それは性的に成長したミュリエルを示唆しているのであって、つまり、この場合、電話が鳴ろうとも構わずセックスに耽る事を言いたい訳です。
▶ そしてミュリエルと母の電話での会話。ここで母は娘のミュリエルとシーモアの様子を心配している。そこでミュリエルはシーモアから "精神的売春婦" と呼ばれていると笑いながら話すが母は笑えない。野崎訳では、これは "1948年度の精神的ルンペン" となっているのですが、上で述べたようにそれまでの流れから "1948年度のミス精神的売春婦 ( Miss spiritual Tramp of 1948 ) " と訳した方がミュリエルの性的奔放さに対する皮肉さがより出ているといえるでしょう。
▶ それに続く話は内容が一転したかのようにミュリエルがシーモアにドイツの大詩人の本を読むように言われたというもの。この詩人とは名前こそ挙げられていないがライナー・マリア・リルケ ( 1875 ~ 1926 ) の事。愛というものが人間愛に留まらず、社会の閉塞性を超えての生への愛、最終的には生が発現する元である大地への愛 ( それは「 オルフォイスへのソネット 」で頂点に達する )、でもある事を謳った。愛の精神性を芸術的に昇華したともいえる。シーモアは、このような愛の精神性、単純に言うならプラトニックな愛、が性に溺れているミュリエルには足らないからリルケを読めといっている。ミュリエルの性的奔放さへの戒めの話だったのですね。それと同時に、リルケがシーモアの精神性を形成する大いなる参照基盤にもなっている事をも意味する。
▶ どういう事かというと、この先に登場する少女シビル・カーペンターの彼女の母との会話における言葉にそれが示されているのですね。シビルの言葉。「 もっとガラス見た? / See more glass ? 」。言うまでもなくこれは主人公 シーモア・グラス / Seymour Glass 」の名前をバラした言葉遊び …… なのですが、これはたんに鏡を覗き込むように読者にシーモアに注目せよという意味ではないのです、おそらく ( そう考える人は多いでしょうが )。glassには幾つもの意味がありますが、ほとんどの方 ( 研究者も含めて ) は意味の多義性を多く含むであろう "鏡" だと考えるでしょう。『 ライ麦畑でつかまえて 』においてもホールデンが弟アリーの死んだ夜、ガレージの窓ガラスを拳で割りまくる下りがあったりしますからね。
▶ しかし、「 バナナフィッシュ~ 」を書くにあたって、最も参照したリルケの本が「 オルフォイスへのソネット ( 1922 ) 」であるのならば、glassは水や酒を注ぐ盃としてのグラスだと考えるのが妥当かもしれない、少なくとも「 バナナフィッシュ~ 」においては。先程のミュリエルと母の電話での会話場面において唐突に、シーモアが車の運転中に木を気にする身振りに言及する箇所があるんです。
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「 あの人が運転したんですって? ミュリエル、あんた、約束したじゃないの、あの人には ー 」
「 お母様 」娘は母親の言葉をさえぎるように「 いま言ったじゃない。とっても模範的な運転だったって。ずっと五十マイル以下で走って来たの、実を言うと 」
「 木を見ても例のおかしな真似をやろうとしなかったかしら? 」
「 だから言ったでしょ、お母様、とても模範的な運転でしたって。もういいじゃない、それで〈 中略 〉」
前掲書 p. 12
▶ この唐突なエピソード。前後の文脈とは関係がなさそうな "木" の話に、ほとんどの方は意味が分からないでしょう。しかし、この後に "ドイツの詩人 ( リルケ )" に関する話が出てくる事を考慮すれば、"木" がシーモアにとってリルケを思い出させる特別なものかもしれないと推察する事が出来ますね、あくまでもひとつの可能性として ( 別の可能性については後で述べる機会があるので )。という訳で、リルケの詩「 オルフォイスへのソネット 」を繙くと、冒頭に次のような一節がある。
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そこに一本の樹が立ち昇った。おお、純粋な超絶よ!おお オルフォイスが歌う! おお 耳のなかに聳え立つ樹よ!そして万物が沈黙した。しかしこの沈黙のなかでも新しい始まりが、合図がそして変容がおこった。
「 オルフォイスに捧げるソネット 」p. 439 『 新訳リルケ詩集 』所収 ライナー・マリア・リルケ / 著 富岡近雄 / 訳 郁文堂 ( 2003 )
▶ 以上でリルケが語る木はたんなる植物的な木の意味では事は分かりますね。大地から発言する生命の象徴としての木なのです。これは大地の下にある死の堆積した世界、つまり、リルケがこの詩で依拠したギリシャ神話の冥界、の下降性・奈落性に抗する生命の上昇する力を讃えているのですね。その生命の上昇力の象徴が木なのであり、だからそれは死を克服する超越性を宿しているという訳です ( その生を歌う者こそオルフェウスという吟遊詩人 )。シーモアが木に興味を持つのは、このような知的背景があるからだといえるでしょう。
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【 以下の記事へ続く 】