〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ マイケル・ウインターボトムの映画『 キラー・インサイド・ミー 』( 2010 )を哲学的に考える

 

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映画  キラー・インサイド・ミー ( The killer Inside Me ) 』

監督  マイケル・ウインターボトム ( Michael Winterbottom : 1961~ )

公開  2010 年     

原作  ジム・トンプソン ( Jim Thompson : 1906~1977 )

出演  ケーシー・アフレック ( Casey Affleck : 1975~ )     ルー・フォード

    ケイト・ハドソン ( Kate Hudson : 1979~ )        エイミー・スタントン

    ジェシカ・アルバ ( Jessica Alba : 1981~ )         ジョイス・レイクランド

    ジェイ・R・ファーガソン ( Jay R. Ferguson : 1974~ )  エルマー・コンウェイ

    ビル・プルマン ( Bill Pulman : 1953~ )          ビリー・ボーイ・ウォーカー

    サイモン・ベイカー ( simon Baker : 1969~ )        ハワード・ヘンドリックス

    トム・バウアー ( Tom Bower : 1938~ )          ボブ・メイプルズ

 



 1章    映画、小説、それぞれのタイトルの差 ……

 

キラー・インサイド・ミー 』…… この映画タイトルは原題の『 THE KILLER INSIDE ME 』をカタカナにしたものですが、扶桑社ミステリー文庫版タイトルは『 おれの中の殺し屋 』( 訳=三川基好 ) となっています ( *A )。カタカナの映画タイトルだと何となく見過ごしてしまう『 …… ME 』が示す "主観性" が『 おれの …… 』っていう邦訳の小説タイトルだとしっかり強調されているのですね。

 

よくある映画の客観的なタイトルとは違って、『 おれの中の殺し屋 』って主観性が強く刻まれた1人称のタイトルだという事ですね。"おれ" の中には殺人者がいるんだという告白にも思えるこのタイトル …… 。この物語が主人公のルー・フォードこと "おれ" の主観性によって彩られている ことに気付かなければ ( いや、この映画を見る人が小説を読んでるとは限らないので気付かないのは仕方ないけど )、この映画は嫌悪を覚えるたんなる快楽殺人鬼の客観的描写に過ぎなくなる可能性もある …… 、いや、そういうふうにしか見えない人の方が多いでしょう。

 

 

 ( *A )

邦訳では、これ以前に1990年に河出文庫より村田勝彦の訳で『 内なる殺人者 』として出版されている。このタイトルだと確かに語呂が良くかっこいいのだけど、『 THE KILLER INSIDE ME 』における "ルーの1人称の効果" を見えにくくしている。もちろん、それは翻訳スタイルの違いから来るもの。1人称の主体 ( 俺 ) を明示しなくても分かる場合は、"俺" を形式的なものという事で敢えて訳さないというこなれた感を出したりしますが、この小説のタイトルは文字通り訳すのが正解でしょう。

 



 2章    この小説における1人称の効果

 

というのも、主人公のルー・フォードは『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクターのようなミステリアスな存在などではなく、テキサス州セントラルシティの単なる保安官助手でしかないから。大して特徴の無い ( それこそ殺人を平気で犯すということ以外で ) 彼の振舞いが映像化されてしまえば、観客はストレート ( 彼を意味ありげな存在にさせる迂回的、間接的要素がないから ) に彼を快楽殺人者として認識する以外は出来ないでしょう。

 

しかし、そんな彼を特徴付けるのは、実は、外見や性癖 ( まあ、人を躊躇なく殺すというのが性癖といえるかもしれないけど ) などを示す客観的描写ではなく、ルー・フォードである "" が1人称で語るというこの "小説" の構造上の形式 だといえるのです。この "俺" が全て見て、全ての出来事を話し、時折、心境を話し、全てが進んでいく。ジョイス・レイクランドを殺し ( 実際は死んでなかったけど ) 、エルマー・コンウェイを殺し、エイミー・スタントンを殺し、最後に自分も死ぬ。おれたち、みんな。

 

この1人称の語りには、3人称の客観的描写にはない上っ面の裏に隠れた人間の本質に迫る生々しさがある。特に、周囲の状況について語る時ではなく、自分の心境を語る内省の時こそ、それを読む者に迫ってくる何かがそこにある。映像では冷酷な殺人者にでしかないルーですが、小説の1人称のルーこと "" の独白、建前の無い本音を聞かされる私達は、そこに人間の本質というものを否定的な形で知る ことになるのです。

 



 3章    1人称の哲学的意味

 

1人称の語りには、"" が一体、 "" に向かって話しているのか、という問題が関わって来ます。この1人称語りを自分の中で自分に向かって話しかけているだけじゃないのという単純な理解では、そこから哲学的意味を引き出す事は出来ないでしょう。1人称の哲学的意味には "俺" が "俺" に向かって話す、という形式的理解では捉えられない深みがあるのです。

 

ではどう理解すべきなのか? ここで参考になるのが、フランスの哲学者ジャック・デリダが閉じられた自己同一性の円環を打ち破るべく、提唱した定式 "自分が話すのを聞く" です  ( *B )。デリダはそこで "自分が話す""自分が聞く" とは同等の身振りではなく、円環が閉じられる事による自己同一性の形成を常にズラしていく 差延作用 を発生させる異なる身振りだと言っているのですね。

     

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             ジャック・デリダ ( 1930 ~ 2004 )

 

彼の考えをさらに解釈するなら、より重要な身振りは "自分が聞く" 方です。なぜなら、これは "自分が話す" 以上の驚くべき作用を持っているから。自分の中では、"自分が話す" のはまず当然の事。発話行為の起点が自分でなければ、発話行為自体が成立しないのだから。ところが、"聞く" 方は、"自分が話す" のはもちろん "他人が話す" のも "聞く" 事が出来る のです ( *C )。

 

そうすると何が起こるのか? それが行き着く先は "他人が話す" のも "自分が話す" かのように聞こえてしまう錯覚に陥る ことがあるのだという事 ( *D ) です。なぜなら、誰が話そうが、聞くこと自体は相変わらず一人称の主体的行為だから です。ここからさらに一歩踏み込むと、"自分が話す" のが "他人が話す" ように離人的に聞こえてしまう ( その時、"" "誰か" になっている )。これこそが、自分の中に他人を呼び込んでしまう 聞くという行為に伴う1人称の構造的な不安定性 であり、読む者に時間を越えて主人公の "" を経験させる危険な作用だと言えるでしょう ( その "俺" はルーのものなのか、それとも読者のものなのか … )。もちろん全ての1人称の小説がそれに成功している訳ではないのですが、ジム・トンプスンの『 おれの中の殺し屋 』はその点で非常に面白い作品になっているのです。

 

そして俺という1人称の効果が高まるのがラストの場面です。ルー・フォードこと "俺" の独り言は自宅での自爆の瞬間と共に頂点を迎え、そのまま独り言で物語の幕が下ろされる、客観的描写など無く…… 。扶桑社ミステリー文庫の表紙にも、その英文が載っけられていますね。

   

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「 うん、これで終わりだと思う。おれたちみたいなやつらにも次の場所でチャンスが与えられるなら別だが。おれたちのようなやつら。おれたち人間に。

ねじれたキューでゲームを始め、あまりに多くを望んで、あまりにわずかしか得られず、よかれと思って、大きな悪を為す者たち。おれたち人間。おれとジョイス・レイクランドとジョニー・パパスとボブ・メイプルズ、そしてでぶのエルマー・コンウェイに、ちっちゃいエイミー・スタントン。おれたち、みんな。おれたち、みんな。」

 

" Yeah, I reckon that's all unless our kind gets another chance in the Next place. Our kind, Us people.

All of us that started the game with a crooked cue, that wanted so much and got so little, that meant so good and did so bad. All us folks. Me and Joyce Lakeland, and Johnnie Pappas and Bob Maples and big of Elmer Conway and little of Amy Stanton. All of us. All of us. "

 

このラストで 1人称の作用は最終点に達し崩壊し始める。"俺" は、"俺が話す" のだけを聞くのではなく、ジョイス・レイクランドが話すのを聞き、エイミー・スタントンが話すのを聞き、それらを自分が話しているかのように聞く…… 。自分の欲望が起点となり、他人を巻き込み、ためらいなく彼女らを殺したという自分本位な振舞いは、全てを、彼ら、彼女ら、を一括りにして自分のもとに収めようとする分裂症的、別の見方をすれば偏執狂的な思い込みに収斂し、自分を壊していく …… 。おれたち、みんな。おれたち、みんな …… 。この小説を読むことによって、この1人称の特殊な経験を共有するおれたち、みんな ……。

 

 

 ( *B )

彼の著作『 声と現象 ( 1967 ) 』を参照。初期の代表的著作。以降の言い回しが複雑になる著作に比べて理論構成がはっきりしていて読みやすい。高橋允昭の翻訳による理想社版 ( 1970 ) と林好雄の翻訳によるちくま学芸文庫版 ( 2005 ) がある。

 

 ( *C )

違う角度から言うなら、"自分が話す" と "自分が話すのを聞く" という身振りに分節化するものこそ "" だといえる。つまり "声" とは、どちらかの身振りに属するものではなく、どちらからもはみ出る特殊なものであり、自分のものであって自分のものではない "物質的なもの" だという事です。この物質的なものに人は魅了され、翻弄される。

 

 ( *D )

これの典型的なパターンこそ、アルフレッド・ヒッチコックの映画『 サイコ ( 1960 ) 』 ( *E ) における ノーマン・ベイツ ( アンソニー・パーキンス ) の振舞いに他ならない。マリオン ( ジャネット・リー ) を殺害したノーマンの隠された振舞いとは、亡き母 ( ノーマン自身が殺したのだけど ) との "同一化" だった。そこで注意すべきは、女装するだけではなく、母の声色を真似てしゃべり、それを聞く事によって自分の中に母を住まわせる ( 自分自身が母であると錯覚して ) という "1人称の崩壊作用" が起きているという事です。

 

( *E )

アルフレッド・ヒッチコックの『 サイコ ( 1960 ) 』については次の記事を参照。

 



 4章    映画の中の主観性とその失敗

 

小説のことばかり話してきたので、この辺で映画の方に話を戻さなければいけませんね。今まで話してきた事から、1人称の小説の映像化には難しさが付いて廻ることが分かるでしょう。映像化するという事は、"おれ" ことルー・フォードも登場人物の1人 ( もちろん主人公として周囲とは差別化されてるけど ) として客観化されるという事であり、その時点で 1人称の主観性は大きく損なわれてしまう

 

そこで映画では、この点を補うために、"おれ" の独白 を所々で挟んでいる。それは冒頭から20分くらいまでは頻繁に行われるものの、次第に少なくなっていき、ラストで自宅ごと自爆する場面では完全に消えてしまう、残念なことに。

 

でもそれは1人称の小説側から映画を考えた場合の話であって、映画は 1人称の欠損を別の形式で補い 観客を楽しませようとしている。それこそ映画独自の "サウンドトラック" という形式に他なりません。

 

とはいえ、小説の1人称効果と映画のサウンドトラックが同等であるわけないと思うでしょう。確かにその通りですが、自分のものであるかのように他人の声を聞くことが出来る主体の振舞い という観点からすると、それらは鑑賞者の主体的経験を豊かにするという意味では同系統にあるものだとこの場合考える事が出来るでしょう。

 

特に、この映画のサウンドトラックは非常に興味深い。1950年代 周辺 のアメリカのR&B、カントリー、そしてマーラーなどのクラシック ( これはほとんどの人が知っているでしょう ) などがピックアップされているのですが、もちろん、それは『 おれの中の殺し屋 』が 1952年に出版されている事に焦点を合わせている。

 

しかし、その事は、映画を原作の出版当時の雰囲気で色付けようという洒落た試み以上の恐さを無意識的に観客に経験させている。おそらく誰も気付かない経験なのですが、説明していきましょう。

 



 5章    日常と狂気

 

余談になりますが、この映画のサウンドトラックを聞いた時、これってどうやって調べたのだろうと思いましたね。というのも、監督のマイケル・ウィンターボトムってイギリスの人なんです。しかも『 キラー・インサイド・ミー 』がアメリカでの初の撮影だったというくらいだから、1950年代前後のアメリカの音楽マニアだったか、その辺のアドバイスをしてくれる人がいたか、ということになりますよね。それくらいセンスのある選曲になっている。でも、あの頃のリトル・ウィリー・ジョン とか スペード・クーリー とかをイギリスの映画監督が知っていたとは思えないんですよね、彼がマニアでないかぎり。あの頃のアメリカの音楽を知っている人にとっては当り前でも、普通の人は到底知らないような選曲ばかりだから ( 細かい話だけど誰か知らないかな )。

  

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    マイケル・ウィンターボトム ( 1961 ~ )

 

このブログの以前の記事でも書いたけど、"fever"  を歌ったリトル・ウィリー・ジョンって殺人罪で服役中に亡くなったのですが、その "fever" は映画のオープニングに使われている。そして・・・アルコールをばら撒いた自宅でジョイス、保安官達を道連れにして自爆する ラストの場面ではスペード・クーリーの "Shame on You" が使われている のですが、彼もまた殺人 ( 妻を殺した ) による服役の経験があるのですね。

      

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LITTLE WILLIE JOHN "fever"

 

     

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SPADE COOLEY & the WESTERN SWING DANCE GANG "SHAME ON YOU"

 

 

そのことに気付いた人は余りいないでしょうけど、これは偶然の一致でしょうか。それとも製作者の隠された意図でしょうか。真相は分かりません。いずれにせよ、それは映画の内容を 隠れた所から規定している。しかも単にスキャンダラスな事件が映画の内容と被っているという点だけでなく、その popな曲調が、殺人という悲惨な事件とは一見対極であるかのような雰囲気を醸し出し、コミカルな方向に傾いている点でも規定していると言えるのです。

 

一体、そのことをどう考えたらいいのでしょう。殺人という狂気の出来事の衝撃を和らげている? いや、それならば最初からそのような小説を映画の題材として選んだりしなかったでしょう。この小説は、極端に言えば、殺人という出来事しか起こらないのだから。そうすると、考えるべきは殺人という狂気がどのようなものなのか、という事なのです。

 

たしかにルー・フォードの中に潜んでいた殺人への欲望は、それ自体が倫理的に許しがたい危険なものであるのは間違いありません。しかし、それが実行されて現実の世界に衝撃を与えながら起こったとしても、現実の世界は終わることなく続いていきます。つまり、殺人は世界をすべて滅ぼしてしまう ( 部分的には滅ぼしますが、その犠牲者など ) のではなく、現実の出来事のひとつとして世界と共に続いていくのですね。

 

この世界とは私達の日常と言い換える事も出来るでしょう。そうすると、殺人は日常として存在する ( 現実としてであれ、潜在的なものとしてであれ ) という残酷な現実を私達は見ている事になる。別の言い方をするならば、昔から変わることなく続く日常の流れは殺人という狂気の出来事さえ自らの内に取り込んで未来に進んでいく …… 、時には喜劇的な調子を帯びながら。そう、真の狂気は、殺人でさえ含んで続いていく日常なのであり、この 日常の狂気を表現しているものこそラストで流れる popな "Shame on You" という事になる訳です〈 終 〉。

 



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