哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

ルイス・ブニュエルの映画 『 欲望のあいまいな対象 』( 1977 ) を哲学的に考える

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監督:ルイス・ブニュエル

公開:1977 年   

出演:フェルナンド・レイ  ・・・・・ マチュー・ファベール

  :キャロル・ブーケ   ・・・・・ コンチータ

  :アンヘラ・モリー  ・・・・・ コンチータ

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 欲望のあいまいな対象 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。

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1. 欲望のあいまいな対象とは・・・?

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a『欲望のあいまいな対象』この謎めいて魅惑的なタイトルはこれを解釈せざるを得ない誘導的な響きを漂わせていますね哲学的解釈精神分析的解釈はもちろんそのような解釈を退けてしまうような天邪鬼的な "あいまいさ" もそこには含まれている ( ブニュエル自身がそういう発言をしている )それだけにこの映画はタイトルが映画の内容を上手く強化している例として考察する価値があるといえますね

 

 

b.   欲望のあいまいな対象・・・もちろんこれはマチュー ( フェルナンド・レイ ) にとってのコンチータ・・・というよりは "女性という一般的なもの" だと取り敢えず考えるのが妥当でしょうコンチータキャロル・ブーケとアンヘラ・モリーナの2人の女優によって演じられるという奇妙な設定からはそこに何か意味があるというよりは2人の差異がマチューにとって気になるものではないという意味でマチューはコンチータという個別的人間ではなく"女性的なるものという一般性" を欲望の対象にしているという解釈を導き出すべきなのですマチューにとっては彼の思い抱く女性的なるものの投影先がたまたまコンチータであったという訳ですまたブニュエルの一連の作品を見れば"女性的なるものという一般性" が彼のテーマのひとつである事が分かりますね

 

 

c.   だからこそマチューはコンチータとの愛憎劇を懲りずに何度も繰り返す事が出来るのです彼はコンチータとの愛憎劇を通して彼の欲望の対象である "女性的なものという一般性" に接近しようとする仮にこの "女性的なもの" を考慮に入れずに解釈を進めてしまうとマチューの振舞いは自分の欲望の対象であるコンチータに向かう途上にいつまでも留まる事によって欲望を終わらせずにいつまでも享楽しようとする歪んだものに他ならなくなってしまう そうするとこの映画いやブニュエルの映画における "女性的なもの" について考える方向性は閉ざされる事になるつまりここにはなぜ男は女に魅了されるのかという普遍的問題があるのであり"女性的なもの" が果たして男の欲望の向こう側にある "実在するもの" なのかそれとも男の欲望が投影されただけの "幻想" なのかについて考える契機があるという訳ですね

 

 

d.   それにしてもコンチータはマチューの思いどおりにならず彼を振り回すもしこれをマチューがそんなコンチータの我儘振りさえも自分の欲望の範囲内に含めていたと解釈しようとしてもマチューがコンチータの顔を叩く場面を目にすると少なくともこの映画においてはそのようなマチューの自己享楽的解釈から有益な何かを引き出す事は難しいと思われますね

 

 

e.   そうするとここで欲望の運動の主導権を握っていたのはマチューなのではなくコンチータだったと考え直すべきでしょうコンチータは身勝手な振舞いをしながらもマチューの欲望の対象であり続けようとして彼を上手くその気にさせるのだからそうここで支配的なのはマチューなのではなくコンチータなのですねコンチータへの終わる事ない欲望を維持させようとしているのはマチューではなくコンチータ自身であったという訳ですコンチータは自分がマチューの欲望の "対象" である事を意識した上でその対象であり続けようとする隠された主体性にどっぷりと浸っているのに対してマチューは表面的な主体性 ( 経済力など ) にも関わらず主導権を握れずにいる

 

 

f.   ここがマチューとコンチータの振舞いの違いですねコンチータはマチューの欲望を操作するために母親や恋人などを使ってマチューの欲望が自分に集中するような状況作りを行う狡猾さがあるのにマチューはそれが出来ずに不器用にコンチータを思い続ける事しか出来ないが故に主導権が握れない

 

 

g.   欲望の流れを支配するための状況を作り出す現実的能動性を発揮するコンチータに対してマチューはコンチータの作り出す状況に追従するしかないという抑圧の中で自分の欲望を維持するここにおいてマチューの欲望の実存的形式が明らかになるでしょうコンチータの打算的な振舞いに関わらずマチューが彼女を求めてしまうのは彼女を通じて "女性的なるもの" へ接近しようとしているからだといえますねこの "女性的なるものへの接近" こそがマチューの欲望に他ならないのですがその "女性的なるもの" は実在するかどうか分からないが幻想のレベルでは存在するこの幻想に取り憑かれているのがマチューなのであり彼の能動性はその幻想を維持するだけという悲劇的なものであるのは明らかでしょう

 

 

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2. マチューの欲望の真実

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a.   既に述べましたがもちろん『 欲望のあいまいな対象 』を違うように解釈する事も出来ますね"対象" というものの存在が欲望の動きを見えにくくしている可能性があるという意味で対象の存在に拘り過ぎる余り欲望に織込まれている自己の運動についての無意識的内省面を見落としているのではないかという訳ですどういう事かというとマチューがコンチータという対象を追いかけながらも上手くかわされてしまうという話からマチューの悲哀などではなく対象をいつまでも追いかける事を望むマチューの自己享楽的な側面を引き出すべきだという事ですね ( 1 c. を参照 )

 

 

b.   しかしそうすると対象が何かという事より対象へ向かおうとする欲望の回路の形成のされ方がいかなる症候を生むのかというより精神分析的な解釈の方向性に傾き過ぎてしまうそれではブニュエルの作品に現れる "女性的なもの" について考える事が出来なくなるのではないでしょうかとはいえ少なくともこの作品においてはブニュエルは "女性的なものそれ自体" について語ろうとしているのではなく"女性的なもの" が男性に与える影響または "女性と男性という組合せ" の現実性 について語ろうとしているといえるでしょう

 

 

c.   欲望の実存的形式が違うマチューとコンチータの遭遇とはまさに "衝突という現実性" に他ならない磁力の両極が互いに引き合うように2人は異なる者同士であるにも関わらず引っ付いてしまうのですねしかしこの "組合せ""衝突" という奇妙な現実を産み出してしまうここには2人の結びつきの "継続性" より破滅的な方に向かう "衝突" が結びつきの帰結として提示されているのですね

 

 

d.   2人の結びつきが継続的なものなのか破滅的なものなのかは実際の所本人たちでさえその時は互いの欲望が邪魔をして分からないでしょう後に状況が醜くなっていくのでなければしかしこの作品においてはその点について今までの解釈を踏まえた上でさらに極端な解釈が可能だといえますつまりマチューの一見女性的なものを求める姿勢には隠された欲望があるという事です

 

 

e.   ここで参照にすべきは映画の中で度々差し込まれる有名なテロのシーンですねこのテロのシーンがブニュエル特有のシュルレアリスト的要素という意味での外部からの異化効果だとしてもそこに留まってしまっては解釈を放棄してしまう事になるさらに解釈を施すにはテロのシーンをマチューの欲望として取り込む必要があるのです映画の中でテロに言及するのはマチューでありマチューの周辺で不穏な動きが起きるこれに対してマチューは積極的な発言や判断を下してテロに対するはっきりとした距離を置くのではなくあいまいな態度でテロを自分の周辺にあるものだとして無意識的に共存しようとしているかのようにも見える

 

 

f.   もしこのテロのシーンがマチューの隠された本当の欲望であるならば最初の印象とは違ってマチューはコンチータより恐ろしい人間である事が分かりますねつまり彼が求めていたのは女性ではなく破滅的な "何か" であったという事です極端に言うなら破滅的なものへ向かう入口として自分を振り回す女性を経由しているという訳です女性的なものとの結びつきにおいて破滅的なものへと向かう事がマチューの隠された欲望であるならば彼は意識的レベルでは自分の欲するものを分かっていないという意味で『 欲望のあいまいな対象 』というタイトルはその哲学性を十分に発揮している事になるでしょう

 

 

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   これは男を魅了するという意味で謎めいているが普遍的なものでもありますね男はなぜ女に惚れるのかそれは女を "個別的なもの" として惚れるのではなく"女性的なるものという一般性の具現者" として惚れるからなのではないでしょうかつまり男は個々の女性を好きになる以前に既に "女性という一般的なもの" を好きであったという症候が見れられるという事です

 

 

   ここには男の "欲望のあいまいな対象" があるのでありそれは男が自分で気付くのではなく女性によってドキリとさせられる形で気付かされる女性の男性のそんな症候に気付いているかどうか分からないが自分を他の女性と差別化する形でつまり "個別的なもの" として愛される事を望むという振舞いによって

 

 

 例えば女性は全ての人に親切な男を優しいと "考える" 事が出来ても優しいと "感じる" 事が出来ない優しいと "感じる" 事が出来るには"自分だけ" を優しく扱ってくれなければならないと男に望むという訳ですもちろんこのような女性の振舞いは傲慢さから来るのではなく男の症候を無意識的に察知しているからだと考えるべきでしょう

 

 

 

 

   四方田犬彦の説明では

" 貞淑なコンチータ Aを演じるのがキャロル・ブーケ淫乱なコンチータ Bを演じるのがアンヘラ・モリー彼女たちは性格が対照的なばかりではないコンチータ Aがフランス語しか話さずときに「 コンシータ 」とフランス風に呼びかけられ相手を「 マチュウ 」とフランス語で呼びかけているそれに対しコンチータ Bは見るからにスペイン娘という雰囲気でフラメンコを巧みに踊り「 マテオ 」とスペイン語で呼びかける"

 四方田犬彦ルイス・ブニュエル 』作品社 p304.

 

 

 

 

   2人の女優によるコンチータ役は批評家による議論の対象となってきたのですが言うまでもなくブニュエルはそういう解釈の類を拒否する

" 解釈することは忘れてくれたまえ解釈はないのだ "

 トマス・ペレス・トレント / ホセ・デ・ラ・コリーナルイス・ブニュエル 公開禁止令 』フィルムアート社 p346.

 

 

   とはいえそれはすべての解釈が間違っていることを意味しないある解釈が核心を突くことも十分にありうるのです2人の女優によるコンチータ役についてトマス・ペレス・トレントはこう質問する「 また違う解釈もありますそれは女性そのものです世界中の女という女を表象しています」これに対してブニュエル

" それはもっと駄目だな象徴だいいや私のまったく勝手気ままなのだもし友人のシルベルマンが馬鹿げたことだと言っていたらその時ただちにそんな考えを放棄していただろう何故二人の女優のことを考えたか説明はつかない "

 前掲書 p346.

 

 

   ブニュエルのその全面否定振りがかえってその質問が真実に近いことを明らかにしているのを読み取る必要がありますここで『 欲望のあいまいな対象 』の7年前の作品『 哀しみのトリスターナ 』において既にブニュエルがトリスターナ役を2人の女優に演じさせるアイデアが持っていたことを考慮しましょう

" とはいうものの製作者エドゥアルド・ドゥカイの証言によれば監督はいっそのこと二人の異なった女性に前半と後半を演じわけさせればどうだろうかという不気味な提案をしたことがあったようであるもちろんこの提案は却下されてしまったがブニュエルはこの着想を捨てきれなかったようで遺作にあたる『 欲望のあいまいな対象 』ではそれを実現させている "

 四方田犬彦ルイス・ブニュエル 』作品社 p531.

 

 

   その場での思い付きではない着想のきっかけとしては主役女性の貞淑性と背徳性の強烈なギャップを表現するのに最も効果的なのは1人の主演女優よりかは2人の女優を用いることだと考えたからだと推測出来るでしょう1人の女優の演技では満足出来ないというのはブニュエルの中に女性が個別的存在ではなく"女性的なるものという一般性" として問題化されていたと解釈出来るのです

 

 

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  このような解釈は一見すると洗練されているかのように思えますがこの映画を見た人の多くが抱くであろうという意味でありふれたものに過ぎないでしょう

 

 

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