It ( Es ) thinks, in the abyss without human.

Not〈 I 〉 but 〈 It 〉 thinks, or 〈 Thought 〉 thinks …….

▶ ルイス・ブニュエルの映画 『 欲望のあいまいな対象 』( 1977 ) を哲学的に考える


初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

 

 

 

監督  ルイス・ブニュエル
公開  1977 年   
出演  フェルナンド・レイ    ( マチュー・ファベール )
    キャロル・ブーケ     ( コンチータ )
    アンヘラ・モリーナ    ( コンチータ )

 



 



 『 欲望のあいまいな対象 』、この謎めいて魅惑的なタイトルは、これを解釈せざるを得ない誘導的な響きを漂わせていますね。哲学的解釈、精神分析的解釈、はもちろん、そのような解釈を退けてしまうような天邪鬼的な "あいまいさ" も、そこには含まれている ( ブニュエル自身がそういう発言をしている )。それだけに、この映画はタイトルが、映画の内容を上手く強化している例として考察する価値があるといえますね。

 

 欲望のあいまいな対象・・・もちろん、これはマチュー ( フェルナンド・レイ ) にとっての、コンチータ・・・というよりは "女性という一般的なもの" ( A ) だと取り敢えず考えるのが妥当でしょう。コンチータが、キャロル・ブーケとアンヘラ・モリーナの2人の女優によって演じられるという奇妙な設定 ( B ) からは、そこに何か意味があるというよりは、2人の差異がマチューにとって気になるものではないという意味で、マチューはコンチータという個別的人間ではなく、"女性的なるものという一般性" を欲望の対象にしているという解釈を導き出すべきなのです ( C )。マチューにとっては、彼の思い抱く女性的なるものの投影先がたまたまコンチータであったという訳です。またブニュエルの一連の作品を見れば、"女性的なるものという一般性" が彼のテーマのひとつである事が分かりますね。

 

 だからこそ、マチューはコンチータとの愛憎劇を懲りずに何度も繰り返す事が出来るのです。彼はコンチータとの愛憎劇を通して、彼の欲望の対象である "女性的なものという一般性" に接近しようとする。仮にこの "女性的なもの" を考慮に入れずに解釈を進めてしまうと、マチューの振舞いは、自分の欲望の対象であるコンチータに向かう途上にいつまでも留まる事によって、欲望を終わらせずにいつまでも享楽しようとする歪んだものに他ならなくなってしまう ( D )。そうすると、この映画、いやブニュエルの映画における "女性的なもの" について考える方向性は閉ざされる事になる。つまり、ここにはなぜ男は女に魅了されるのか、という普遍的問題があるのであり、"女性的なもの" が果たして、男の欲望の彼岸にある "実在するもの" なのか、それとも、男の欲望が投影されただけの此岸からの "幻想" なのか について考える契機があるという訳ですね。

 

 それにしても、コンチータはマチューの思いどおりにならず、彼を振り回す。もし、これをマチューがそんなコンチータの我儘振りさえも自分の欲望の範囲内に含めていたと解釈しようとしても、マチューがコンチータの顔を叩く場面を目にすると、少なくとも、この映画においては、そのようなマチューの自己享楽的解釈から有益な何かを引き出す事は難しいと思われますね。

 

 そうすると、ここで欲望の運動の主導権を握っていたのは、マチューなのではなく、コンチータだったと考え直すべきでしょう。コンチータは身勝手な振舞いをしながらも、マチューの欲望の対象であり続けようとして彼を上手くその気にさせるのだから。そう、ここで支配的なのはマチューなのではなく、コンチータなのですね。コンチータへの終わる事ない欲望を維持させようとしているのは、マチューではなく、コンチータ自身であったという訳です。コンチータは自分がマチューの欲望の "対象" である事を意識した 上で、その対象であり続けようとする隠された主体性にどっぷりと浸っているのに対して、マチューは表面的な主体性 ( 経済力など ) にも関わらず、主導権を握れずにいる。

 

 ここがマチューとコンチータの振舞いの違いですね。コンチータはマチューの欲望を操作するために、母親や恋人などを使って、マチューの欲望が自分に集中するような状況作りを行う狡猾さがあるのに、マチューはそれが出来ずに、不器用にコンチータを思い続ける事しか出来ないが故に主導権が握れない。

 

 欲望の流れを支配するための状況を作り出す現実的能動性を発揮するコンチータに対して、マチューはコンチータの作り出す状況に追従するしかないという抑圧の中で自分の欲望を維持する。ここにおいてマチューの欲望の実存的形式が明らかになるでしょう。コンチータの打算的な振舞いに関わらず、マチューが彼女を求めてしまうのは、彼女を通じて "女性的なるもの" へ接近しようとしている からだといえますね。この "女性的なるものへの接近" こそが、マチューの欲望に他ならないのですが、その "女性的なるもの" は実在するかどうか分からないが、幻想のレベルでは存在する。この幻想に取り憑かれているのがマチューなのであり、彼の能動性は、その幻想を維持するだけという悲劇的なものであるのは明らかでしょう。

 

 

( A )

これは男を魅了するという意味で、謎めいているが、普遍的なものでもありますね。男はなぜ女に惚れるのか、それは女を "個別的なもの" として惚れるのではなく、"女性的なるものという一般性の具現者" として惚れる からなのではないでしょうか。つまり、男は個々の女性を好きになる以前に、既に "女性という一般的なもの" を好きであったという症候 が見れられるという事です。

 

ここには、男の "欲望のあいまいな対象" があるのであり、それは男が自分で気付くのではなく、女性によってドキリとさせられる形で気付かされる。女性の、男性のそんな症候に気付いているかどうか分からないが、自分を他の女性と差別化する形で、つまり "個別的なもの" として愛される事を望むという振舞いによって。

 

例えば、女性は、全ての人に親切な男を優しいと "考える" 事が出来ても、優しいと "感じる" 事が出来ない。優しいと "感じる" 事が出来るには、"自分だけ" を特別に扱ってくれなければならないと男に望むという訳です。もちろん、このような女性の振舞いは傲慢さから来るのではなく、"男の症候" を無意識的に察知している からだと考えるべきでしょう。例えば、フランク・ヴェーデキント ( 1864~1918 ) の『 地霊 ( 1895 ) 』でルルはシェーンに対して次にように言う。

 

( ルル ) あの人を誘惑してくれない。あなたはその道にくわしいんでしょ。あの人をよくない仲間とつきあわせてよ。知り合いもいろいろあるんでしょう。あの人にとってわたしはただの女でしかないの。わたしひどく傷つけられているのよ。ほかの女を知ればもっとわたしのことを誇りに思うでしょうあの人には区別がわかっていないのね

 

フランク・ヴェーデキント『 地霊・パンドラの箱 ー ルル二部作 ー 』p.67~68 岩淵達治 / 訳 岩波文庫 ( 1984 )

* 下線は引用者である私によるもの

 

  ( B )

四方田犬彦の説明では 

貞淑なコンチータ Aを演じるのがキャロル・ブーケ、淫乱なコンチータ B を演じるのがアンヘラ・モリーナ。彼女たちは性格が対照的なばかりではない。コンチータ A がフランス語しか話さず、ときに「 コンシータ 」とフランス風に呼びかけられ、相手を「 マチュウ 」とフランス語で呼びかけている。それに対し、コンチータ B は見るからにスペイン娘という雰囲気で、フラメンコを巧みに踊り、「 マテオ 」とスペイン語で呼びかける。

 

四方田犬彦ルイス・ブニュエル 』作品社 p.304 

 

( C

2人の女優によるコンチータ役は批評家による議論の対象となってきたのですが、言うまでもなく、ブニュエルはそういう解釈の類を拒否する。

解釈することは忘れてくれたまえ。解釈はないのだ。

 

トマス・ペレス・トレント / ホセ・デ・ラ・コリーナルイス・ブニュエル 公開禁止令 』フィルムアート社 p.346 

 

とはいえ、それはすべての解釈が間違っていることを意味しない。ある解釈が核心を突くことも十分にありうるのです。2人の女優によるコンチータ役についてトマス・ペレス・トレントはこう質問する「 また違う解釈もあります。それは女性そのものです。世界中の女という女を表象しています」。これに対してブニュエル

 

それはもっと駄目だな。象徴だ。いいや、私のまったく勝手気ままなのだ。もし友人のシルベルマンが、馬鹿げたことだと言っていたら、その時ただちに、そんな考えを放棄していただろう。何故、二人の女優のことを考えたか、説明はつかない。

 

トマス・ペレス・トレント / ホセ・デ・ラ・コリーナルイス・ブニュエル 公開禁止令 』フィルムアート社 p.346

 

ブニュエルのその全面否定振りがかえって、その質問が真実に近いことを明らかにしているのを読み取る必要があります。ここで『 欲望のあいまいな対象 』の7年前の作品『 哀しみのトリスターナ 』において、既にブニュエルがトリスターナ役を2人の女優に演じさせるアイデアが持っていたことを考慮しましょう。

 

とはいうものの製作者エドゥアルド・ドゥカイの証言によれば、監督はいっそのこと二人の異なった女性に前半と後半を演じわけさせればどうだろうかという、不気味な提案をしたことがあったようである。もちろんこの提案は却下されてしまったが、ブニュエルはこの着想を捨てきれなかったようで、遺作にあたる『 欲望のあいまいな対象 』では、それを実現させている。

 

四方田犬彦ルイス・ブニュエル 』作品社 p.531

 

その場での思い付きではない着想のきっかけとしては、主役女性の貞淑性と背徳性の強烈なギャップを表現するのに最も効果的なのは、1人の主演女優よりかは2人の女優を用いることだと考えたからだと推測出来るでしょう。1人の女優の演技では満足出来ないというのは、ブニュエルの中に、女性が、個別的存在ではなく、"女性的なるものという一般性" として問題化されていた と解釈出来るのです。

 

 

( D )

このような解釈は一見すると洗練されているかのように思えますが、この映画を見た人の多くが抱くであろうという意味でありふれたものに過ぎないでしょう。

 



 


 既に述べた事ですが、『 欲望のあいまいな対象 』をマチューの享楽の側面からの解釈について整理してみましょう。まずは、"対象というものの存在自体" が、欲望の動きを見えにくくしている可能性がある という事です。対象の存在に拘り過ぎる余り、欲望に織込まれている、自己の運動についての "無意識的内省面" を見落としているのではないか、という訳です。どういう事かというと、マチューがコンチータという対象を追いかけながらも、上手くかわされてしまうという話から、マチューの悲哀などではなく、対象をいつまでも追いかける事を望むマチューの "自己享楽的な側面" を引き出すべきだという事ですね ( 1章を参照 )。

 

 しかしそうすると、対象が何かという事より、対象へ向かおうとする欲望の回路の形成のされ方がいかなる症候を生むのか という、より精神分析的な解釈の方向性に傾き過ぎてしまう。それでは、ブニュエルの作品に現れる "女性的なもの" について考える事が出来なくなるのではないでしょうか。とはいえ、少なくとも、この作品においてはブニュエルは "女性的なものそれ自体" について語ろうとしているのではなく、"女性的なもの" が男性に与える影響、または "女性と男性という組合せ" の現実性 について語ろうとしているといえるのですが。

 

 欲望の実存的形式が違うマチューとコンチータの遭遇とは、まさに "衝突という現実性" に他ならない。磁力の両極が互いに引き合うように、2人は異なる者同士であるにも関わらず、引っ付いてしまうのですね。しかし、この "組合せ" は、"衝突" という奇妙な現実を産み出してしまう。ここには、2人の結びつきの "継続性" より、破滅的な方に向かう "衝突" が結びつきの帰結として提示されている のですね。

 

 2人の結びつきが、継続的なものなのか、破滅的なものなのかは実際の所、本人たちでさえ、その時は互いの欲望が邪魔をして分からないでしょう、後に状況が醜くなっていくのでなければ。しかし、この作品においては、その点について、今までの解釈を踏まえた上で、さらに極端な解釈が可能だといえます。つまり、マチューの一見、女性的なものを求める姿勢にはさらに "隠された欲望" がある という事です。

 

 ここで参照にすべきは、映画の中で度々差し込まれる有名なテロのシーンですね。このテロのシーンがブニュエル特有のシュルレアリスト的要素という意味での外部からの異化効果だとしても、そこに留まってしまっては解釈を放棄してしまう事になる。さらに解釈を施すには、テロのシーンを "マチューの欲望" として取り込む必要がある のです。映画の中でテロに言及するのはマチューであり、マチューの周辺で不穏な動きが起きる。これに対してマチューは積極的な発言や判断を下して、テロに対するはっきりとした距離を置くのではなく、"あいまいな態度" でテロを自分の周辺にあるものだとして無意識的に共存しようとしている かのようにも見える。

 

 もし、このテロのシーンがマチューの隠された本当の欲望であるならば、最初の印象とは違ってマチューは、コンチータより恐ろしい人間である事が分かりますね。つまり、彼が求めていたのは、女性ではなく、"破滅的な何か" であった という事です。極端に言うなら、破滅的なものへ向かう入口として自分を振り回す女性を経由しているという訳です。女性的なものとの結びつきにおいて、破滅的なものへと向かう事がマチューの隠された欲望である ならば、彼は意識的レベルでは自分の欲するものを分かっていないという意味で、『 欲望のあいまいな対象 』というタイトルは、その哲学性を十分に発揮している事になるでしょう〈 終 〉。

 

 



〈 関連記事 〉