監督 : ラース・フォン・トリアー
公開 : 2011 年
出演 : キルスティン・ダンスト ( ジャスティン )
: シャルロット・ゲンズブール ( クレア / ジャスティンの姉 )
: キーファー・サザーランド ( ジョン / クレアの夫 )
: キャメロン・スパー ( レオ / クレアの息子 )
: アレクサンダー・スカルスガルド ( マイケル / ジャスティンの夫 )
: ジョン・ハート ( デクスター / ジャスティンの父親 )
ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるのを目的とするものでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかないのです。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。この出会いをもっと味わうべきでしょう。
1. 『 惑星ソラリス 』へのオマージュ : Homage to "Solaris"
a. この映画がアンドレイ・タルコフスキーの『 惑星ソラリス 』へのオマージュである事はよく言われるところです。宇宙探査ステーションのプロメテウスの図書室に飾られてあったブリューゲルの "雪中の狩人" が『 メランコリア 』にも登場するという場面から。
a. It is often said that this film is an homage to Andrei Tarkovsky's "Solaris" , from the scece that Bruegel's "Hunter in the Snow" , which was displayed in the library of the space exploration station Prometheus, also appears in "Melancholia".
"雪中の狩人 ( Hunter in the Snow )" by ブリューゲル ( Bruegel )
b. ただし、この絵画は『 惑星ソラリス 』においては故郷を感じさせる北方的なものの役割しか果たしていない。もちろん北方的だからとはいっても、この絵がソビエト連邦を象徴している訳ではないし、そうしようにも、まず描かれた当時はソ連も存在していない。にもかかわらず、北方的なものへの憧憬が時代や国を越えて人々を魅了するものとして、ここでは機能しているのです。この北方的なものに対するヨーロッパの憧憬は、トリアーにおいてゲルマン的なものへの憧憬へと極小化され、『 惑星ソラリス 』へのオマージュである『 メランコリア 』を生み出している。では『 メランコリア 』が『 惑星ソラリス 』へのオマージュであるからには、どのような関係性があるのか、以下で考えていきましょう。
b. However, this painting only plays a role in "Solaris" as Thing of the north that reminds people of homeland. Of course, this painting does not symbolize the Soviet Union because it is northern, and even if it try to do so, the Soviet Union did not exist when it was painted. Nevertheless, the longing for Thing of the north works here as Thing which fascinates people beyond time and country. This European fascination with Thing of the north was minimized in Trier to a fascination with the Germanic, which led to Melancholia, a tribute to the planet Solaris. Let's think how "Melancholia" relates to "Solaris", since "Melancholia" is a homage to it.
2. 『 メランコリア 』におけるドイツ的なもの : Things of Germanic in "Melancholia"
a. ラース・フォン・トリアーにとって、北方的なものへの憧憬とは、ソ連ではなく、ドイツにおける北方的なもの、つまり、ゲルマン的なものへの芸術的接近 を意味するといえるでしょう。タイトルの『 メランコリア 』からはアルブレヒト・デューラーの "メランコリアⅠ" を思い浮かべる事が出来るし、サウンドトラックはリヒャルト・ワーグナーの "トリスタンとイゾルデ" なのですから。
a. For Lars von Trier, the longing for Things of the North means the artistic approach not to the Soviet Union but to Things of the North in Germany, that is, to Things of Germanic. The title "Melancholia" could remind us of Albrecht Dürer's "Melancholia I" and the soundtrack is Richard Wagner's "Tristan und Isolde".
"メランコリアⅠ" by アルブレヒト・デューラー
b. そしてトリアーの例の悪名高い発言 "ナチスへの傾倒とヒトラーへの共感" を聞くと、それが冗談に過ぎないとしても、そのような考えが生まれる土壌がこの映画を作り上げる過程で形成されていたのは疑いようがないでしょう。問題なのはドイツ的なものの影響を受けている事を認める彼の中では、彼を魅了する "ドイツの美的なもの" というカテゴリーがナチスの反ユダヤ主義と切り離して論じるられると素朴に考えられている事です。トリアーは反ユダヤ主義には組しないという旨の発言をしていましたが、ナチスに言及するのであれば、そのような切り離しが不可能である事は、哲学者のジャン・フランソワ・リオタールやフィリップ・ラクー・ラバルトのナチスについての批判的説明以降では明らかなはずです。
b. And when hearing about Trier's infamous statement "devotion to the Nazis and sympathy for Hitler", even if it is only a joke, there is no doubt that such ideas were formed in the process of making this film. The problem is that in his acknowledging German influences, he naively believes that the category of "German aesthetic" that fascinates him can be discussed in separation from Nazi anti-Semitism. Although Trier has stated that he does not associate himself with anti-Semitism, it should be clear after the critical explanations of Nazism by philosophers Jean-François Lyotard and Philippe Lacoue-Labart that such the separation is impossible if one refers to the Nazis.
c. トリアーはあるインタビューの中で、マルセル・プルーストの 『 失われた時を求めて 』 を引き合いにしながらワーグナーの 『トリスタンとイゾルデ 』 の偉大さに言及しています ( プルーストがワーグナーの愛好家である事は有名ですね ) 。もちろん彼はワーグナーの中に反ユダヤ主義の要素がある事やヒトラーがワーグナーを好んでいた事を知らないはずはないでしょう。にも関わらず、"切り離し" が可能であるかのように彼は振舞っているのです。また、彼はそのインタビューの中で、ナチスの急降下爆撃機のシュトゥーカ ( Stuka ) について軍事オタクのように語りだし ( *1 )、ナチスのデザインの驚異に言及する事によってインタビュアーを困惑させてしまう程です ( このトリアーの発言にも関わらず、その時のインタビュアーは芸術的側面の観点からトリアーの映画に関して公平であろうとして苦心していた )。
c. In some interviews, Trier mentions the greatness of Wagner's "Tristan und Isolde", referring to Marcel Proust's "In Search of Lost Time" ( Proust was a famous Wagner lover ). Of course, he could not have known that there were elements of anti-Semitism in Wagner and that Hitler liked Wagner. Nevertheless, he acts as if it is possible to "separate" them.In the interview, he talks like a military geek about the Stuka ( *1 ), the Nazi dive bomber, and even embarrasses the interviewer by mentioning the wonders of Nazi design ( Despite this statement by Trier, the interviewer was struggling to be impartial about Trier's film from an artistic point of view ).
d. ただし、だからといってワーグナーの音楽やトリアーの映画が全く駄目だという事にはならないでしょう。というのもナチス的要素だけで彼らの芸術を全て説明する事は出来ないからです。注意すべきは、そのような要素がどれ程作用しているかを見逃すべきではないという事です。
d. However, that would not mean that Wagner's music and Trier's films are completely useless. Because only Nazi elements cannot explain all of their art. It is important to note that we should not overlook how much such elements have been at work.
3. 『 メランコリア 』における惑星が暗示するもの
a. 以上のことを踏まえた上で、『 惑星ソラリス 』と『 メランコリア 』の関係性について考えてみましょう。このブログでも以前書いたように、『 惑星ソラリス 』とはソラリスの海の秘密について迫るSF映画なのではなく、そこに登場する人物達の人間関係がソラリスの海によって鏡のように写し出されるという人間の精神についての映画なのです。つまりソラリスの海とは、人間の関係性の象徴となっている訳です。だから、そこでは人間関係を楽しむしかない。そういう理解をしないと長いだけの退屈な映画になってしまう。
b. では『 メランコリア 』における地球に接近するこの惑星は、どのような役割を果たしているのでしょう。それはソラリスにおける海の役割と同様、人間関係の象徴として機能しているのでしょうか。もちろん、そういう側面もありますが、それ以上に、惑星メランコリアはトリアーの恐るべき概念を暗示しているといえるのです。
c. よく指摘されるようにトリアーが鬱病の頃、セラピストから鬱病患者はある緊急な状況下においては、普通の人よりも冷静になる事があるのを聞いたという話がありますが、これを単なる鬱病患者の特徴に過ぎない話として片付けるべきでしょうか。たしかに『 メランコリア 』の第1部でキルスティン・ダンスト演じるジャスティンは結婚式において鬱病的な行動によって式を台無しにしたものの、惑星メランコリアが迫ってくるという切迫した状況下の第2部において、シャルロット・ゲンズブール演じる姉のクレアがうろたえるのと対照的に悟りきったかのように冷静に振舞います 〈 ※2 〉。しかし、これを鬱病患者の行動パターンの変化を描いたとしか読み取らないのであれば、トリアーの恐るべき本質を見逃してしまう事になります。
4. 鬱病患者の述べる真理・・・
a. ではトリアーは何を示そうとしたのでしょうか。鬱病患者だから戯言を述べている事を彼は示しているのではないのです。それどころか、彼は鬱病患者だからこそ振舞える冷静な言動の中に真理の一面を示そうとしているのです・・・。
b. ここには、精神的に病んでいる者が音楽や映画に没頭する事によって回復するなどという自己療法的なセラピーなど吹き飛ばしてしまう恐ろしさがあります。精神的に病む者だけが、まさに病気であるからこそ述べる事が出来る "哲学的真理" がある のです。フロイトやラカンが参照したドイツの官僚だったダニエル・パウル・シュレーバー〈 ※3 〉がその例です。
c. では映画の中で示される真理とは何でしょう。それについて考えるために以下の会話の場面を参照しましょう。
d. ジャスティンはクレアとの会話の中で、冷静に「地上の生命は邪悪だ」と言い放ちます。この発言はトリアーの作家性を考えると、思われる以上に過激なのです。というのも "地上の生命" と言う時、普通は娯楽的ストーリー ( ハリウッドのSF映画など ) の進行上必要な、象徴的生命 ( 人間以外の生命も含めた ) という設定なのでしょうが、トリアーの場合、"人間以外の何物でもない事" をオブラートに包んだ言い方だといえるからです。そもそもトリアーの映画自体が人間の存在の闇を描いたものに他ならない。なので、ジャスティンの発言を言い直すと「人間は邪悪だ」「滅んでも嘆く必要はない」という事になるでしょう。
5. トリアーの映画の本質としての〈 崩壊 〉
a. たしかに、人間の存在が悪だというのは、哲学的真理の一面を示していて詳細に考えなければならない問題ですが、ここから早急にトリアーの人間不信や人間嫌いを結論とするのは単純すぎます。「人間は邪悪だ」という発言の過激性にこだわり過ぎて、トリアーの映画の本質を見逃すべきではないでしょう。
b. そうではなく、この発言を可能にしているものこそ、トリアーの映画の哲学的本質だと考えるべきなのです。ではその本質とは何か。それこそ地球に迫る惑星メランコリアが人間の存在に及ぼす作用、つまり "崩壊" です。惑星メランコリアとは "崩壊" の作用を暗示しているのであり、トリアーの映画の本質とは 物事が崩壊していく様を描くこと にあると言えるでしょう。そして 崩壊の様子を最も具現化するのが人間という存在 であり、それを追及する事こそがトリアーの映画の秘密なのです。
〈 ※1 〉 2020年6月22日 追記
▶ このインタビューでのシュトゥーカについてのトリアーの言及は後の映画『 ハウス・ジヤック・ビルト 』( 2018 ) の中でそのまま具現化されている。
ラース・フォン・トリアーの映画『 ハウス・ジャック・ビルト 』( 2018 )を哲学的に考える〈 2 〉
〈 ※2 〉
▶ ジャスティンの振舞いが冷静になる兆候として、野外でのジャスティンを演じるキルスティン・ダンストのヌードシーンがありますが、これは単なる話題作りというよりはタルコフスキーの『 惑星ソラリス 』へのオマージュを示すひとつの例といえるでしょう。
▶ 『 惑星ソラリス 』においても、ハリーを演じるナタリヤ・ボンダルチュクの有名な半裸シーンがありますが、トリアーの映画マニアぶりが出ていますね。そうでなければ、キルスティン・ダンストのヌードシーンは果たして必要だったのかと思えますから ( 笑 )。
〈 ※3 〉
▶ シュレーバーについては以下の記事を参照。精神の狂気化と哲学的真理への接近が複雑に絡み合い、その過程において人間存在の真実が露になっていく。
〈 関連記事 〉
▶ 『 惑星ソラリス 』については次を参照。
▶ 『 メランコリア 』と同じく "終末論的映画" という事であればタル・ベーラの『 ニーチェの馬 』を挙げておかなければならないでしょう。