監督 タル・ベーラ
公開 2011年
脚本 タル・ベーラ
クラスナホルカイ・ラースロー
出演 デルジ・ヤーノシュ ( 父 )
ボーク・エリカ ( 娘 )
▶ Chapter 1 ニーチェは関係ない ……
[ 1 ] 『 ニーチェの馬 』・・・この邦訳タイトルは多くの人 ( 哲学の教師でさえ ) を勘違いさせるかもしれない、この映画はニーチェの思想と何か関係があるかもという具合に。また、映画の中身を見ても、人によっては、父と娘の静かな生活の繰り返しがニヒリズム、または永劫回帰を表していると解釈し、無意識的にニーチェ的方向に傾いている事に気付かない場合もあるかもしれない ( *A )。
[ 2 ] しかし、この映画はニーチェ的思想とは何の関係もないとはっきりさせておくべきであって、ニーチェという単語から即座にニーチェの思想をこの映画に見ようとするのは残念ながら短絡的でしょう。端的に言うならこの映画は、人間が "無" へと向かい消滅する生き物でしかない 事を静かに示す映画なのですね。そう、この映画はニーチェというよりは "ハイデガー的モチーフ" に貫かれています。父と娘の質素な田舎生活、いうことを聞かない馬、そんな貧しさを写すモノクロの世界・・・それらは静かな感動を呼ぶのと同時に、貧しさと慎ましさの中から哲学的真理を開示しようとするハイデガーの姿勢に危険なくらい近いかもしれない 、哲学的な意味で ( *B )。
[ 3 ] 話を戻して、紛らわしい『 ニーチェの馬 』という邦訳タイトルをどう解釈すべきか考えましょう。たしかに映画の冒頭で、1889年に、イタリア・トリノの広場で動かなくなった馬が御者に鞭打たれている所にニーチェが駆け寄り、その首を抱いて涙し、そこから発狂していったというエピソードがさしこまれている。そして、その後、その馬がどうなったかは分からない、という一文が付け加えられてますね。
[ 4 ] ニーチェ的補助線に頼りたくなるかもしれませんが、この一文によって、このエピソードにおけるタル・ベーラの興味は ニーチェから既に "馬" に移行している 事が分かる ( ニーチェを余り知らない人は、このエピソードでニーチェに興味を抱くでしょうけど )。ここで馬がタル・ベーラの興味を引いたのは、ニーチェのように感傷的な対象としてではなく ( タル・ベーラはセンチメンタリズムが嫌いだと言っている )、"動かない馬" が人間のそばにおいて、"終末" を予感させる何物かであると解釈した からでしょう。だからこそ、この映画のハンガリー語原題は『 A torinói ló 』、つまり、『 トリノの馬 』になっているという訳です。
[ 1 ] タル・ベーラが馬を使って試みたのは人間の終末についての映画なのですが、わざわざ馬を使わなきゃ人間の終末は描けないの?と思う人もいるでしょう。けれど、彼がおそらく漠然と描いていた終末論に、インスピレーション与えたのはニーチェの発作エピソード ( *C ) であり、彼はそれを強引に解釈して作品の形式を考えたと言うべきでしょう。なので彼の中では、馬があってこその終末論的作品を作るというのは筋が通っているのですね。
( *A )
Amazonのレビューを見れば、この映画を素朴にニーチェ的に捉えようとする人の意見が多いことが分かりますね。
( *B )
何が危険かというと、哲学者の学説と本人の人間性が乖離している事は珍しくないが、ハイデガーの場合はそれが極端だった。存在の概念を考え抜いた20世紀最高の哲学者は、ナチ党員であり ( 一時期だけど )、反ユダヤ主義の要素も持ち合わせていたし、不倫もしていた。そんな彼は貧しさや質素さの中から "存在" を開示する哲学的叙述を行っており、それが "本物" であるかのような印象を与えていた・・・。そんな哲学的学説を展開する一方で、本人の人間性がそれを裏切る場合のある事をハイデガーは証明してしまったのですね 。もちろん、それによって彼の学説が全て否定される十分な理由にはならないのは強調しておかなければいけないけど、貧しさや素朴さは単純に感動されるべきものではなく、隠された緊張状態がそこに潜んでいる 事に注意すべきです。
( *C )
そしてニーチェのエピソード以上にタル・ベーラにインスピレーションを与えたのはロベール・ブレッソンの『 バルタザールどこへ行く ( 1966 ) 』であるのは間違いないでしょう ( まあ、こっちはロバですけど )。彼はイギリスの映画雑誌 "Sight&Sound" の自分が選んだオールタイムベストに『 バルタザールどこへ行く 』を入れたくらいですから。
▶ Chapter 2 終末論的映画 ( *D ) としての『 ニーチェの馬 』
[ 1 ] もう既に述べてますが、この映画って終末論的映画なんですね。映画は旧約聖書の創世記になぞらえて6日間の章分けで構成されています。ただし、それは創世記の逆ヴァージョンであり終末に向けての6日間となっています。そして付け加えておかなければならないのは、この映画の終末論は、信仰のある人間は助かるというような救済のある聖書的な終末論とは一線を画しているという事です。ここでの終末論は・・・人間という "存在" それ自体が "無" に向かうもの であり、救済などという 余りにも人間的なもの ( ニーチェ的表現を使ってしまった・・・) が入る余地がないものなのです。
1日目の章からの数ショット。
( 1 ) ジャガイモの水煮。
( 2 ) 娘が父と自分の分ふたつを大皿に取る。
( 3 ) テーブルに置かれたジャガイモ・・・このゴッホ的なショット。
( 4 ) ジャガイモを食べる父。
2日目の章からの数ショット。
通りすがりに酒を求めてきた男と会話をする父。男は町が吹きすさぶ風によって駄目になったから田舎のここに来たと言う。そしてその惨状の原因が人間自身にあると続ける。
4日目の章からのショット
井戸の水が枯れてしまい生活が出来ないので他の場所に移動しようとするものの、父は高齢で馬は言う事を聞かないので娘が荷車を引くはめに・・・。でも女性がずっと引き続けられるはずがなく家に戻ってきてしまう。ちなみに馬が馬車の役割を果たしていたのは、映画の冒頭で父が外から家に戻る時だけで後はずっと言うことを聞かない。
5日目の章からの数ショット
( 12 ) 父と娘の食事。でも父は食事が進まない。
( 13 ) 食事を途中で止めて窓際に座る父。
( 14 ) じっと外を見る。
( 15 ) ランプに火を点けようとしても上手くいかない。ここから画面が徐々に暗くなる。
6日目の章からの数ショット。
( 16 ) 父と娘の食事。食べようとしない娘に父は "食え" 。
( 17 ) それでも食べない娘に父は "食わねばならん" 。でも娘は食べない・・・。
( 18 ) その後、画面は全て黒くなりエンディングとなる。
[ 2 ] 父と娘の食事・・・ここでのそれは食文化へと昇華されたものからは程遠い原始的な営みでしかなくなっている。もう他にすることが何もなくても、食べるしかない。食べないと死ぬ。しかし娘はそれを拒否する、いや、諦めて終末を受容れていると言った方がいいでしょう。
[ 3 ] ジャガイモだけの食事のこのシーンは、余分なものが削られた最低限の営みでしかないという意味で、終末の1歩手前にいる人間の "存在" を描こうとしている。しかし、このシーンだけでは人間の "存在" を浮かび上がらせることは出来ない。
[ 4 ] このシーンに続くブラックアウトの画面において、人間の存在を描くことに成功する。つまり、 終末という次元を超えた "無" こそが人間の 〈 存在 〉 を浮かび上がらせる事が出来るのです。かつてそこにいた人間がもういない …… 今は そこに 〈 無 〉 がある。しかし、その 〈 無 〉はかつて人間がいたからこそ "認識" される 〈 無 〉 なのです。〈 無 〉 が文字通りに "無" であったとしたら、もはやそれは "無" であると "認識" されることさえないでしょう。つまり、〈 無 〉 であると認識される事柄の中には、文字通りの "無" ではない 〈 何か 〉 がある のです。"無" は何物か 〈 である 〉 のです。誰かがこの世からいなくなったとしても、その時、そこには、誰かが消滅したという物理的な無を越えた、"無" の現実的形象としての〈 存在 〉が現れる。〈 存在 〉とは "無" がそこに 〈 ある 〉 事を原理的に示す哲学的真理 なのです。
( *D )
終末論的映画という事であれば、ラース・フォン・トリアーの『 メランコリア 』を参照する必要があるでしょう。