公開 2018年 ( オリジナル版は1977年 )
監督 ウィリアム・フリードキン
出演 ロイ・シャイダー ( ジャッキー・スキャンロン "ドミンゲス" )
ブルーノ・クレメル ( ヴィクトル・マンソン "セラーノ" )
フランシスコ・ラバル ( ニーロ )
アミドゥ ( カッセム "マルティネス" )
音楽 タンジェリン・ドリーム
1章 『 恐怖の報酬 オリジナル完全版 』の評価
『 恐怖の報酬 オリジナル完全版 』を評価する上で、最も避けるべきは、この作品をアンリ・ジョルジュ・クルーゾーの『 恐怖の報酬 ( 1953 ) 』の "リメイク" だという考えです。たしかにフリードキンの『 恐怖の報酬 』はクルーゾーのストーリーを踏襲したものですが、それが1977年に北米で初公開された当初の原題が『 SORCERER 』( ソーサラー:魔術師 の意。マイルス・デイヴィスのアルバムから採られている ) という異様なものであったのを考慮すれば、フリードキンは仕上がった作品を見て、それがクルーゾーのものとは違う "異質な作品" である事を分かっていたと推測すべきでしょう ( *A )。
つまり、フリードキン版を見て、それがクルーゾー版に劣るという評価ほど的外れなものはないということです。フリードキンの世界観について考えることなく、本家であるクルーゾーの足元には及ばないと言うだけでは何も語っていないのと等しい。気付くべきは、フリードキンの世界観のいかなる要素がクルーゾー版とは違うと思わせるのか考えてみるという事です。そうすることは、フリードキン版を見て退屈だと思う人が、この作品の見方を変える上で役立つことでしょう。これは他の監督の作品についてもいえることですが、ある作品が "自分にとって" 本当に面白いかどうかを判断する時、その作品に対する "自分の見方" について今一度、考えることは無駄ではありません ( どれほど映画を観てきた人でも )。違う見方、違う考え方、も可能なのですから。
( *A )
1977年の北米での初公開は、ユニバーサルとパラマウントによる共同製作・共同配給。しかし、2000万ドルを超えた予算に対して北米での興行収入は590万ドルという不調だった。これを受けて、世界配給を担当したCICはフリードキンに無断で短縮版を編集した上で、クルーゾーのリメイクであることを示すためにタイトルを『 SORCERER 』から『 恐怖の報酬 』に変更。それでも世界興行収入は900万ドルにしかならなかった。
2章 フリードキンのイマージュへの拘り
この作品でフリードキンの特徴が現れている以下のシークエンス。3人の仲間が命を失い、1人で消火用ニトログリセリンをトラックで運搬するドミンゲス ( ロイ・シャイダー )。
南米ポルベニールのジャングルを困難の末、抜け出し、目的地の油田を近くにした山岳地帯を通行中にそれまでの出来事が悪夢のようにフラッシュバックしてドミンゲスを襲うのですが、その描き方がフリードキンらしい。( 2 ) でドミンゲスに山岳地帯の岩壁が重ね合わされ、( 3 ) でその岩壁がなぜか数秒映し出される。気付いた人もいるでしょうが、ここでフリードキンは岩壁の複雑な模様があたかも人の顔であるかのように匂わせ、不穏感を演出しているのですね。( 4 ) そして( 11~12 ) のドミンゲスの「 知らんだと? 」というセリフ。これはスキャンロンがアメリカから国外へ高飛びする為に会った仲介業者がスキャンロンがどの国へ連れていかれるのか知らないことに対するもの。それをあざ笑うかのように、先程、南米ゲリラに襲われて殺されたはずの相棒ニーロの高笑いの場面 ( 5 ) 。ちなみに、ドミンゲスというのはスキャンロンの南米での偽名 ( 違法入国なので )。
ドミンゲスのフラッシュバックは続く。記憶はさかのぼり、 アメリカで強盗をして車で逃走するドミンゲスたち。その際に事故を起こし、運転していたドミンゲス以外の3人の仲間は即死する ( 8 ~ 11 )。
さて、ここまで見ると、このフラッシュバックはドミンゲスの個人的な経験の総体のように思えるかもしれません。しかし、以下のシークエンスでは事情が少し違うことが示されています。( 13~14 ) はセラーノとマルティネスの2人が運転するトラックが道を踏みはずし転落して爆発死するシーンなのですね。これはドミンゲスの経験ではないし、彼が知らないことでもあるのです ( 少なくともその時は )。もちろん、これはフリードキンのちょっとしたミスであり、ほとんどの人は気にかけないことでしょう。しかし、このような些細な事が哲学的考察のための契機でもあるのです。
つまり、ここで考えたい事は、一見、ドミンゲスのフラッシュバックと思われた彼の記憶の積重ねという形式の中に、"イマージュ" というものに対するフリードキンの趣向が現れているという事です。それは作品のストーリーに合うように映像が組み込まれているというよりは、ストーリの流れから突出した映像の連続の方が、観念論的なストーリーを引っ張るという "唯物論的転倒" が展開されている という事 ( 例えば、腕解けのクローズアップ。そして以下で述べるトラックの吊橋シーン ) なのです。
セラーノが付けていた腕時計のクローズアップ
通常であれば、観客は観念論的であるストーリーを理解する事によって作品にアプローチするのですが、フリードキンの『 恐怖の報酬 』は フリードキンの映像への拘りという唯物論的手法の方がこの作品を動かす要因になっている と言えるのです ( 実際にこの作品のストーリー自体は冒頭から分かりにくく、予備知識がないと4人の別々のエピソードが展開されている事に気付かないかも )。そのようなイマージュへのフリードキンの拘りが現れた有名なショットが豪雨の中で脆い吊橋を渡るトラックでしょう。
このトラックの吊橋シーンは、ドミンゲスとニーロのコンビが乗るトラックと、セラーノとマルティネスのコンビが乗るもう1台のトラックがある為、計2回描写されるのですが、この辺のシークエンスの緊迫感はこの映画の中でも最も映像の "強度" が高まっているといえるでしょう。極端な言い方をするならば、ストーリーから突出したイマージュの強度だけで、この映画を成立させるという特異な "唯物論的出来事" が発生している のですね、その瞬間に限っては。
さらに哲学的に考えるならば、このジャングルへの困難な進入は、人間存在の実存的闇への侵入である と解釈出来ます。これは決して大袈裟な表現ではなく、フリードキンが追及する "悪夢のイマージュ" には、人間存在の背後に蠢く恐ろしい何かがあると直感する彼の無意識的探求の意志が込められていると考えられるのです。
3章 実存の闇
4人の男たちがジャングルへ進入するシークエンスを見て、フランシス・フォード・コッポラの『 地獄の黙示録 』を想起した人もいるでしょう。おそらく、その参照項は間違っていません、双方とも、奥深いジャングルで人間が自らの実存的闇に出会う という意味で。『 地獄の黙示録 』の原作であるジョセフ・コンラッドの『 HEART OF DARKNESS 』というタイトルが象徴的に物語っていますね ( *B )。
両者は、その唯物論的映像といい、BGMといい ( 『 地獄の黙示録 』はワーグナーの "ワルキューレの騎行"、『 恐怖の報酬 』はタンジェリン・ドリームによる "Betrayal" などのサウンドトラック ) 、人間が実存的闇、すなわち、 自らの存在の根源である "狂気" との出会いを象徴的に描き出している のです。
『 地獄の黙示録 』でマーロン・ブランド演じるカーツ大佐が恐怖について語る場面。
『 恐怖の報酬 』でドミンゲスに降りかかるフラッシュバックの嵐が頂点に達し、彼を通じて人間の狂気が垣間見える場面。
ここにおいて、フリードキンが『 恐怖の報酬 』のリメイク版に当初『 SORCERER ( 魔術師 ) 』というタイトルをなぜ付けたのか推察する事が出来るでしょう。おそらく彼の無意識的探求は常に 人間の存在自体が狂気を根源としている事に向かっている のです。ドミンゲス、セラーノ、ニーロ、マルティネス、たちの4人が運命に翻弄されながら不遇から何とか脱しようとしても ( 4人は大金を得るために危険なニトログリセリン運搬の仕事を引き受けた ) 、その選択こそが実は最悪なものに他ならなかったのです。つまり、最初から彼らは "死ぬ" 以外の選択をする自由が無かった事をフリードキンは描き出している。死に至る道の中でしか生きられず、死に至る以外の選択が与えられていない人間は、まさに死に踊らされる存在でしかありません。その意味で『 SORCERER ( 魔術師 ) 』とは、人間存在を操る "死の擬人化" である と解釈出来るのです〈 終 〉。
( *B )
『 地獄の黙示録 』についてはこちらの記事を参照。