哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

ロマン・ポランスキーの映画『 反撥 』( 1965 )を哲学的に考える

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監督 ロマン・ポランスキー

公開 1965年

脚本 ロマン・ポランスキー

 

出演 カトリーヌ・ドヌーヴ   ( キャロル )

   イヴォンヌ・フルノー   ( ヘレン )

  ジョン・フレイザー    ( コリン / キャロルの恋人未満の男 )

   イアン・ヘンドリー    ( マイケル / ヘレンの不倫相手 )

  パトリック・ワイマーク  ( 家主 )

   ヴァレリー・テイラー   ( マダム・ドニーズ )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 反撥 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいたものです。なので、深く考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしか出来ない )、という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

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  1. 性的なものへの反撥

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A.   『 反撥 』の原題は『 Repulsion 』なのですが、内容に照らし合わせれば『 反撥 』よりも、repulsion の別の意味である "嫌悪" をタイトルに据える方が、この映画の主人公キャロルの内面性、つまり、"男嫌い"を上手く示せるかもしれません。この映画のタイトルが『 嫌悪 』だとするならば、その点についてはこの映画は明快で、主人公のキャロル ( カトリーヌ・ドヌーヴ ) は、姉のヘレンが家に連れ込む不倫相手のマイケルに拒否反応を示すように、男に "嫌悪" を抱いているのです。

 

B.  ところが面白いことに、ストーリーが進んでキャロルの内面の力学が秘かに変化していくつれて『 反撥 』という repulsion の物理学的比喩を想起させる意味の方がやはりふさわしいと思えてきます。まずはキャロルの男嫌いというこの映画の基本的モチーフを見ていきましょう。

 

C.   キャロルとどうにかして恋仲になろうとするコリンを後ろから殺害するキャロル ( 1~4. )。自分の仕出かしたことに驚くキャロルは家の扉を塞ごうとする ( 5~6. )。このコリンを殺害した時点で、キャロルの内面に巣食っているのがたんなる男嫌いではない事が分かりますね。彼女を殺人行為へと走らせるものは、男嫌いという単なる生理的嫌悪を通り越した "性的なものに対する反撥 ( repulsion )" なのですね。

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D.   ここで思い出しておきたいのは、フロイトが自らの精神分析を練り上げる上で、物理学的比喩を用いた概念を考えているという事です。その最たる代表例がリビドー ( 物理的エネルギーの比喩 ) ですね。それの良い所は、物理学概念がそれ独自の法則に従っているように、フロイト精神分析概念も、人間主体の感情や思考とは別に、それ自身の法則に従う人間精神の領域がある事を物理的に ( もちろんそれがあくまでも比喩である事に注意を払わなければならないのですが ) 表そうとする試みだという事です。これによって人間の感情が精神において主導権を握っているどころか、そんな事を無視するかのような精神の独自の運動こそが人間を支配しているのだと考察する事が出来るのです。

 

E.   そうすると、この映画におけるキャロルの男嫌いという主要モチーフは、彼女の精神が引き起こした運動の徴候に過ぎない事が分かる訳です。ならば彼女の精神の運動とは何か。それこそ、先程、記した "性的なものに対する反撥 ( repulsion )" という物理学的緊張なのです。『 反撥 』という邦題は、キャロルの精神が物理的緊張に囚われている事を示す精神分析的真理だと解釈出来るでしょう。

 

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 2. "性的なものへの反撥" から "殺人の欲望" へ

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A.   キャロルは殺人という大胆な行為をした自分に驚く ( 5. ) のですが、その時から、彼女の内面は男嫌いという生理的嫌悪から "殺人の欲望" へと移行してしまっているのです。キャロル自身が自分の内面の変化に後でしか気付かない。この "殺人の欲望" を媒介しているものこそ "性的なものに対する反撥 ( repulsion )" に他ならないのですが、そもそもなぜ彼女は性的なものに反撥したのでしょう。これは映画の中で明言されているわけではないのですが、人間関係を見ると自ずと明らかになります。

 

B.   キャロルが姉へレンの不倫相手であるイアンに対して嫌悪感を抱いているというこの映画の主要モチーフは、キャロルが直面する "性的なもの" との緊張関係をクローズアップさせてしまうので、彼女と姉の関係性を見えにくくさせてしまっています。

 

C.   もちろん、キャロルと姉の元々の関係性 ( イアンが介入してくる以前の ) は直接的には描かれていないので、どのようなものであったかは分かりませんが、少なくともイアンの出現によって姉妹という家族関係が壊れていくのがキャロルにとって耐え難いものである事は間違いないでしょう。姉のヘレンからすると自分がいくら不倫していても妹が妹である事に変わりはないのですが、おそらくキャロルはそう考えていないのです。

 

D.   というのもイアンは不倫相手なのだから家族になる事は出来ない。キャロルからすると、イアンは姉妹という元々の家族関係を壊す外部から来た不安要素でしかないのですね。キャロルとヘレンが同居しているという基本的設定自体が異質な外部要素が排除された家族関係の象徴となっている訳です。決定的なのは、姉へレンとイアンの性行為が隣の部屋のキャロルに否応なしに聞こえてしまう事なのですが、この時、キャロルにとって "性的なもの" は家族関係を壊すものでしかなくなっています。姉のヘレンが "性的なもの" に嵌っていく事によってキャロルは自分が疎外されていくように感じるのです。

 

E.   本来、"性的なもの" は身体の発達や変化と共に、主体を自分に関わらせる ( 自分のセクシャリティや性癖、他者との関係性、などの構築 ) 力動的なものなのですが、キャロルの場合、"性的なもの" は外部から到来する異質なもの ( その象徴がイアンや家主 ) でしかない。なのでキャロルは徹底的にそれを排除しようとした挙句、殺人というアクティングアウトを選択してしまったのですね。

 

F.   性的なものは、主体の欲望を刺激して止まないものであるはずなのに、キャロルはそれを排除してしまった。そして、その排除の手段として選択した殺人行為こそが彼女の欲望となってしまうのです。ここからキャロルはヘレンの妹に過ぎなかった者から、人を殺すことで欲望を満足させるという異常者として倒錯的に自立する立場へと移行してしまう。

 

G.   コリンを殺したにも関わらず、何事もなかったかのように裁縫をするキャロル ( 7. )。さらに次の場面は私たちにショッキングな出来事を想像させるものとなっていますね。それは "カニバリズム" です ( 8. )。直接的に食べる場面が描写されているわけではありませんが、( 8. ) は明らかに、キャロルはコリンの死体の一部を食べていた事を示しています。よく見ると、肉が乗った皿にはハエが数匹たかっていて、グロテスクさが強調されている。人間にとって食事という文化形式 ( 皿に盛る、フォークとナイフを使うなど ) が、喰うという本能が普遍的レベルにまで高められたものである事を考えるならば、( 7. )、( 8. ) の場面では、殺人という行為がキャロルの内面においては既に日常的なものになっているという不気味さが現れています。

 

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H.   殺人行為によって "性的なもの" を排除しようとするキャロルですが、"性的なもの" は回帰してきます。ただし、キャロルの欲望を刺激するものではなく、"妄想" として回帰して来るのです ( 9 ~12. )。この後、キャロルは "殺人の欲望""性的妄想" の狭間で揺れ動き、精神の崩壊へと至るというラストへ話は続いていきます。

 

   家賃を取り立てに来た家主に執拗に迫られるキャロル ( 13~18. )

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   剃刀で家主を残虐に切り刻むキャロル。もうそこには明確な殺意しかない ( 19~24. )。

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    コリン、家主、と立て続けに男を殺害したキャロルは、最後まで性的妄想を振り払う出来ずに自らの精神を崩壊させる ( 25~28. )

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ダーレン・アロノフスキーの映画『 mother ! 』( 2017 )を哲学的に考える

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監督 ダーレン・アロノフスキー

公開 2017年

 

出演 ジェニファー・ローレンス ( )

   ハビエル・バルデム    ( )

   エド・ハリス       ( 客人・夫 )

  ミシェル・ファイファー  ( 客人・妻 )

  

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 mother ! 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいたものです。なので、深く考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしか出来ない )、という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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  1. 『 mother ! 』というタイトル

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A.   この映画のタイトル『 mother ! 』の頭文字が小文字であること、そして最後に感嘆符の ! が付けられていることを考え合わせるなら、これは『 母 』という名詞なのではなく、ある種の呼びかけに近い『 母よ ! 』と意味で捉えるべきでしょう。

 

B.   ただし、もしそうであるのなら、その呼びかけがいかなる意味を持つのかについて注意して考えなければなりません。母に対する賛歌なのか、それともため息混じりのつぶやきなのか、それとも・・・ "母なるもの" に対する執着なのか。アロノフスキーのこの驚異的な作品を見る限り、その呼びかけは、狂乱的騒ぎを起こすある集団が "母なるもの" を常に追い求める身振りであると同時に、1人の女性の自分の全てがその集団によって奪われてしまうことの悲劇的運命に対する叫びである、という少なくとも2つの事態を表していると言えるのです。そのことについて考えていきましょう。

 

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   2. タルコフスキーサクリファイス 』へのオマージュ

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アンドレイ・タルコフスキーサクリファイス 』( 1986 ) より

 

A.   この記事の先頭画像、草原の中で燃え尽きた家の印象的なシーンは、タルコフスキーサクリファイス 』の草原の家の炎上シーンを思い起こさせますね。このシーンが『 サクリファイス 』へのオマージュだと考えるのは哲学的解釈をする上で有益になるでしょう【 1 】。『 サクリファイス 』が新約聖書 ( ヨハネ福音書 ) をテーマにしている対して『 mother ! 』は旧約聖書 ( 主に創世記 ) をテーマにしていると言えるのです。だからといって双方ともたんなる宗教についての映画なのではありません。宗教的なものを背景として登場人物たちがそこに絡み止められ、抵抗し、脱出しようとし、最後には服従あるいは同調してしまう行動過程を圧倒的な力で描写した哲学的映画なのですね【 2 】。

 

B.   もっと焦点を絞るなら『 サクリファイス 』は父と子の関係性を描き出し、『 mother ! 』は母というよりは "母なるもの"、そしてそれとの対比として1人の女性、を描き出しているのです。ただし、その描き方は不気味でグロテスクでもあり、アロノフスキーの流儀が十分に示されたものとなっています。そして興味深いのは、ユダヤ人であるアロノフスキー自身が旧約聖書的共同体を否定的に描いていている事です。家の中に集まった多くの人々による狂乱は観る人に嫌悪感を抱かせるのに十分なものとなっていますね。事実、この映画は客人とそれに続く人々を平気で家に招き入れる夫 ( ハビエル・バルデム ) に対する妻 ( ジェニファー・ローレンス ) の不満から始まるのです。つまり、妻は共同体的なもの ( その共同体は明らかに宗教的共同体、それもユダヤ的なものとして描かれている ) に対して否定的な立場にあるという訳です。

 

   ようやく子供を身篭った幸せを2人で味わおうとせず客人をどんどん招き入れる夫に不満をもらす妻 ( 1~6. )。

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   余りにも多く集まり過ぎた客人たちによる狂乱に耐え切れなくなった妻 ( 7~12. )。

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   客人たちの騒ぎから逃れて子供を出産する妻 ( 13~18. )。

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   出産の後、客人たちを追い払うように言う妻 ( 19~24. )。

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   生まれた子供を夫に抱かせようとしない妻 ( 25~30. )。

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1

   通常、こういうオマージュや影響の例として監督自身の発言が右にならうかのように引用されたりしますね。例えば、『 mother ! 』に対するルイス・ブニュエルの『 皆殺しの天使 』、『 ブラックスワン 』に対するロマン・ポランスキーの『 反撥 』【 3 】、などです。たしかにそれはたんなる事実の寄せ集めである "映画知識" としては正しいのですが、映画を "哲学的に考える" 場合、それは参考程度に留めておくというのが僕の考えです。つまり、哲学的解釈する上で他に有効な例 ( ここではタルコフスキーの『 サクリファイス 』) があれば、それを "接続" させて解釈を深めるべきなのです。監督や出演者の "言葉" や "意図" に拘りすぎていては何も目新しい考えは出てこない。それでは結局、核心的なことはなにひとつ引き出す事が出来ないといえるでしょう。映画知識を集めたいだけで、それ以外は考えたくない・・・というのなら話は別ですけど。

 

 

2

   アンドレイ・タルコフスキーの『 サクリファイス 』については以下の記事を参照。

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アンドレイ・タルコフスキーの映画『 サクリファイス 』( 1986 ) を哲学的に考える - 哲学的抽象機械

 

 

3

   ロマン・ポランスキーの『 反撥 』については以下の記事を参照。

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ロマン・ポランスキーの映画『 反撥 』( 1965 )を哲学的に考える - 哲学的抽象機械

 

 

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 3. 子供を奪われる女

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   睡魔に負けて眠った妻が目覚めた時、子供は夫から客人たちの手に渡っていた ( 31~36. )。

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   以下のシーンからがこの作品を解釈する上でのポイントとなりますね。子供を取り戻そうと客人たちの中に分け入った妻が見たものは、体中の肉を抉り取られた無残な子供の死骸でした ( 38. )。そこで繰り広げられていたものは狂気のカニバリズム的祝祭に他ならなかったのです ( 40. )。

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   ブチ切れる妻。しかし逆に客人たちによる集団リンチで半殺しの目に会う。

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   妻を助けに来た夫。しかし、客人たちを赦そうという理不尽な理屈を述べ始める。そんな夫に "正気じゃない" という妻。当然ですね。

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A.   ここで重要なのはカニバリズムのシーンをどう解釈するかという事です。これをそのまんま受け止めてしまってはただのホラー映画になってしまう。この映画の製作スタッフの中にも "これはホラー映画だ!" って言う人もいましたけど (笑)。しかしこれがホラー映画でないことは今までのアロノフスキー映画の傾向を見れば明らかでしょう。これをアロノフスキーが影響を受けているポランスキーの『 ローズマリーの赤ちゃん 』を引き合いに出してかろうじてサスペンスホラーの系譜に位置付けようとする人もいるのでしょうが、子供が母親の手から奪われているという事がそれとは決定的に違うものとして考察させるのです。

 

B.   まずカニバリズムのシーンは象徴的なものとして解釈する必要があります。では何の象徴なのかというと、宗教的共同体の象徴なのですね。細かく解釈するなら、子供は生まれた瞬間から母親のものではなく、共同体の一員であるという事が示されている訳です。

 

C.   しかし、それだけならありふれた話なのですが、カニバリズムという狂気の振舞いは子供を奪われた母親の視点から見られたものだと解釈すべきものです。そこには子供を失って狂わんばかりに高まった母親の感情が投影されているのです。その感情はそのまま家を燃やすという行為へと彼女を突き動かしていくのですが、通常であれば家が激しく燃え尽きたところで話は終わるでしょう。しかしそこで終わらないのがアロノフスキーの恐るべきところなので、それについては以下で考えていきますね。

 

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 4. 母なるものを奪われた女

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   妻の感情が爆発し、自分自身を死に至らせる程までに家を燃やしてしまう ( 57~66. )。

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   普通の監督なら 66. で終わりそうなものなのですが、アロノフスキーはそこで終わらない。ここからシーンでこの作品の本質について解釈を深める事が出来るでしょう。夫はここで明言はしないけれど自分の事を神だと仄めかしているのが分かります ( 67~78. )。そして妻には "君は家だ" と言うのです ( 70. )。

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   "もう死なせて" と懇願する妻に "何か" をもらおうとする夫。この "何か" の事を夫は "君の愛だ" といって曖昧な形でしか言い表しません。そして妻の体内から水晶を取り出します。

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A.   アロノフスキーはこの水晶を心臓から取り出したものだと言っているのですが、それは建前でしょう。たしかに、この水晶を心臓に準えて、妻の命を "家" を再生させるために求めたとして解釈する事も出来ます。しかし細かく場面を辿っていくのなら、彼女はもう死にかけていて自分でもそれが分かっているのです。死につつある人間に命を差し出せという話はおかしいという事になりますね。

 

B.   ここで思い出すべきは、映画の導入部で、妻が子を授かりたくてもの性生活がないことへのプレッシャーや苛立ちが、家の内装を手がける ( 壁を塗るなど ) という行為へと転換されていたという事です。家が母なるものの象徴だとするならば ( それは話が進まないと分からないのですが )、妻がその内装を手がけるというのは "母なるもの" へ同一化しようとする欲望が反映された行為であるのです。

 

C.   そのことを考慮するならば、夫が死につつある妻に要求したものは、子を産むという母親の象徴的器官、つまり子宮であると考える方がストーリーに沿ったものになるはずです。アロノフスキーも子宮を取り出したなんて開けっぴろげに言う訳にもいかなかったでしょうし。最終的には妻から取り出された水晶 ( 子宮 ) は燃えた家を再生させるのですが、それは妻が最初の自分の欲望どおりに "母なるもの" に悲壮な形で同一化したものだと解釈出来る訳です。

 

D.   しかし、ここで解釈を終わらせるわけにはいきません。もし、ここで話を終わらせてしまうと、母なる地球論を端とする環境問題などのアロノフスキーの発言の一部でしかないものがこの作品の最終的帰結になってしまうからです ( そういう解釈をしている人は結構いる )。

 

E.   ここに至って省みられていないものは、子供を奪われた妻についての事なのです。これはフェミニズム的問題ではなく、女性とは何であるのかという哲学的問題なのであり、ここにこそアロノフスキーの隠れた関心があると思えます。注意すべきは水晶 ( 子宮 ) を手に入れた夫が不適に笑う場面 ( 87. ) です。これは彼の関心が妻であった "女性" ではなく、彼女の肉体に備わっていた出産という "母なるもの" にあったと解釈出来るでしょう。それを手に入れたから満足しているという訳です。

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F.   これまでの妻と夫のやりとりにはラカン精神分析の欲望の定義 "欲望とは他者の欲望である" を思い起こさせるものがあります。つまり、母親になりたいという妻の欲望は、夫の母なるものを望む欲望だったのです。形式的には、夫の欲望に従う事が妻の欲望であったという事なのです。場面 73. における妻のセリフ "私はあなたを満たせなかったのね" がその事を示していますね。

 

G.   厳密に言うなら、等号で結ばれた彼らの欲望の均衡は、子供が産まれる事によって崩れていました。夫の欲望の対象が自分ではなく子供にある事を妻が知ってしまうからです。そうすると、夫の欲望は自分に向いているはずだと思い込んでいた妻が選択する次の行動は、夫の欲望の形式それ自体を奪い取る事 ( 子供を欲望の対象とする事 ) なのです。それも実は倒錯した形で夫の欲望に沿ったものなのですが、違うのは妻が夫に代わって自分を主人としている事です。だからこそ、子供を渡せと言う夫にはっきりとノーという事が出来たのですね ( 25~30. )。

 

H.   しかし、最後に妻は子供のみならず、子宮という母なるものさえ奪い取られてしまいます。ここにおいて、"母なるもの" は宗教的共同体の欲望の源泉として作り上げられた対象物でしかない事が明らかになるのです。そうであるならば、母なるものを奪われた妻とは、女性とは、一体何であるのかという哲学的問題が発生するのですが、アロノフスキーはそれを直感して限界状況における女性の身振り ( 『 ブラックスワン 』も参照 ) を激しく描き出す事に専念したのだといえるでしょう。

 

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ダーレン・アロノフスキーの映画『 ブラックスワン 』( 2010 )を哲学的に考える

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監督 ダーレン・アロノフスキー

公開 2010年

 

出演 ナタリー・ポートマン   ( ニナ・セイヤーズ )

   ヴァンサン・カッセル   ( トマ・ルロイ )

   ミラ・クニス       ( リリー )

   ウィノナ・ライダー    ( べス・マッキンタイア )

   バーバラ・ハーシー    ( エリカ・セイヤーズ )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 ブラックスワン 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいたものです。なので、深く考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしか出来ない )、という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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 1. 黒鳥とニナ

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A.   二ナ ( この名前を聞くと、バレエダンサーのニーナ・アナニアシヴィリを思い出しますね ) が舞台の最後で自らの死と引き換えに黒鳥を演じきった結末をどう考えるべきなのでしょう。なぜ死ななければならなかったのか。ここで興味深いのは、"黒鳥という役柄との同一化" と "死の必然性" の両方が等しいものとして結びついてしまっているという関係性なのです。自分を追い詰める幻覚と戦いながらも見事に黒鳥となったニナのヒロイズムが頂点に達する結末は、私たちに奇妙な感動を覚えさせます。それが奇妙なのは彼女のヒロイズムと共に、精神の狂気が頂点に達していることを私たちが分かっているからに他なりません。このようなヒロイズムと狂気の結びつきを体現しているものこそ作品の主人公の演技なのですが、それについてここで考えていきましょう。

 

B.   この作品の見所は、ニナ役のナタリー・ポートマンによる狂気の演技と彼女が徐々に黒鳥に蝕まれていく様を描いたアロノフスキーの手法にあるのは間違いないのですが、まず考えてみたいのは、ニナが黒鳥を上手く表現出来ない事の原因を自分を解放していないからだと言う演出家トマの指導 ( 1~16. )についてです。

 

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C.   平たく言うと、黒鳥の官能性を上手く表現するには、ニナ自身も実生活から官能的である必要がある、つまり自分の中の官能性を解き放て、とトマは彼女に迫る ( 彼自身の欲望をそこに絡めて ) のですね。この役柄の内面に没入させるように指導するトマのやり方は通俗的なメソッド演技を極端にしたものだといえるでしょう。メソッド演技のアプローチ自体がややもすれば冷ややかな距離を以って見られている現代においてトマの指導は時代錯誤的なものなのです。

 

D.   とはいえ、アロノフスキーもそれくらいの事は承知なはず。極端化されたトマの指導はあくまでもストーリーを刺激的なものにするための誇張に過ぎないと考えるべきなのでしょう。そのような誇張的指導によってニナが黒鳥になろうとする過程を激的に描き出す事が可能になるという訳です。

 

E.   ただし、ここで気を付けなければならないのは黒鳥が官能性の象徴であるという設定です。いや、官能性という言い方は上品すぎますね。黒鳥とは性的なものの象徴であるという事です。そうすると、性的なものをどう表現するのかという問題にニナは突き当たります。これこそニナを悩まし続ける演技上の壁なのです。

 

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 2. 性的なものと演技

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A.   日常生活における性的経験の豊かさが、そのまま黒鳥の官能的演技に繋がるはずだというトマの一方的要求にニナはどうにか答えようとするのですが上手くいきません。しかし、それは無理もないのです。というのもトマが稽古以外の日常においてニナに要求するのはセックスや自慰などのエロティックな行為でしかないからです。率直に言うならトマがニナに求める官能性とは、ニナと肉体関係を持ちたいというトマの欲望でしかないという事です。

 

B.   そのようなエロティックな行為を求める事は、トマ自身のメソッド的手法の限界と同時に、そこに潜む性的なものについての浅はかな理解をも露呈させる事になるのです。ニナの立場からすると、トマの言う通りに官能的であろうとも、バレエという形式においてどう表現すればいいのかと悩むのは当然です。まさか舞台上でセックスや自慰をする訳にはいかないのですから。一方トマの立場では、日常生活での性経験が舞台上のニナの仕草や雰囲気から官能性を醸しだすはずだといういささか適当なものである事は否めないでしょう。ダンサーの振付自体は誰が踊っても変わらないのだから ( 実際、映画のラストでは舞台の開演に間に合わないかもしれないニナの代役はリリーという事で話が進んでいた )。

 

C.   このようにトマが黒鳥役に求める "性的なもの" とは性行為に他ならないという浅はかなものでしかなかったのですが、これに対するニナの反応はどうようなものだったか考えいきましょう。結局の所、ニナはトマの性的要求に答えていないのです。ニナにセックスを拒まれたトマはそれならば家で自慰をしろとニナに命じます。ニナは実家で寝起きに自慰をしようとするのですが、傍らで彼女の心配をしながら寝てしまった母親に気付いて途中で止めてしまうという具合なのです ( リリーとのレズ行為も二ナの妄想でしかなかった )。

 

D.   これはニナがトマの要求を拒んでいる事の表れだと考えるべきなのでしょうか。たしかにニナはエロティックな行為を結果的に拒んでいるのですが、だからといって "性的なもの" を拒んでいると単純に解釈すべきではないでしょう。これについて考えるにはフロイトのリビドー ( 欲動 ) の概念を参照する必要があります。

 

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  3. 性的なものとリビドー

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A.   フロイトのリビドーについてよくある一般的誤解は、リビドーを性の欲動と同一視する事です。つまりリビドーを性欲と同じ位相で考えようとする傾向があるという事ですね。これはフロイト自身が抱いていたリビドーについての初期の考え方でもあるのです。これが間違っているのは、本来、人間主体を何らかの行動に突き動かす普遍的なものとしてエネルギーの比喩が持ち出されているのに、そのエネルギーに特定の性質を付与してしまっているという事です。

 

B.   もしそうであるならば、性行為に直結しない諸々の人間行動については、その都度、何々エネルギーをという形式を際限なく持ち出さなければならなくなり、そこには理論的散漫さしか見出せなくなってしまう。なのでリビドーとはあくまで人間を何らかの行動化へと駆り立てる根源的エネルギーとして考える必要があるのですね。そのリビドーが肉体の器官 ( 性器や口唇、肛門など ) に流れ込んだ時、人間は性衝動を感じるという訳です。

 

C.   さてここで映画の方に話を戻しましょう。3.A. で述べたリビドーについての誤解こそ演出家トマの黒鳥という役柄に対する浅はかな理解と比することが出来るのです。黒鳥の演技上の秘密が官能性であるとしても、それを性的行為及びそこで消費される性的衝動としてしかトマは理解できません。彼は黒鳥の官能性に潜む崇高さに気付かないのです。

 

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 4. 死とリビドー、あるいは死と演技

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A.   2. D. においてニナは性的なものを拒んでいるのではないと言いました。これには条件を付けなければなりません。それはトマの言う性的なもの、すなわち性行為ではないという条件です。では性行為ではない性的なものとは何でしょう。それこそ 3. で述べた性衝動の根源であるリビドー、性的なものへと分化しようとする直前の緊張を孕んだリビドーに他なりません。

 

B.   ニナはトマに言われるがまま安易に性的なものへ身を委ねようとせずに、この根源的リビドーの激しさの中で黒鳥の演技の秘密を掴もうとするのです。なぜ根源的リビドーが激しいのかを考えるには、再びフロイトを参照する必要があります。フロイトは晩年、死の欲動と生の欲動という2つの考え方を提示したのですが、リビドーの根源性を考慮に入れるならば、欲動はやはりひとつのものだと考え直すべきでしょう。つまり、欲動は無差別的に動くものであり、生 ( 自己保存 ) と死 ( 自己破壊 ) はその欲動が向かう方向でしかないという事になります。この欲動が示す軌跡は生と死という両極の間で絶えず繰りかえされるという意味での激しさを備えているという訳です。

 

C.   おそらく、これこそが黒鳥の官能性の秘密であり、同時に、それは『 白鳥の湖 』の秘密でもあるのです。黒鳥に誘惑された ( 性的なものへの誘惑 ) 王子が最後に選択した行為は、白鳥と共に湖に投身自殺する事でしたね。自分の欲望を刺激して止まない性的なものの背後には "死" の背景があったという事です。もっと端的に言うなら、"性的なもの" とは、そのような "" の中から発生したリビドーに他ならないのです。単なる性的な演技を超えた先にあるものこそ、生きながら死ぬ、死につつ生きる、という未分化の両極であり、生と死のどちらが真でどちらが偽なのか見分けがつかない混沌に他なりません。ニナは黒鳥の演技において、リビドーの根源を身を以って示す事になるのです。

 

   黒鳥の舞台前にニナは控室で鏡に映る自分自身をリリーだと妄想して刺し殺してしまいます。黒鳥を演じるのは自分しかいないという執念のあまり ( 17~28. )。

 

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D.   つまり、ニナは黒鳥の舞台前に既に死んでいた。自分自身に起こった事に気付かない彼女は、まさしく生きながら死んでいたのです。そして彼女はこの状態で舞台に上がり死につつも生きて黒鳥を演じ切ります。しかし、最後の瞬間において彼女の表情には死への恐れは浮かんでいません。それどころか黒鳥を演じきった満足感で満ちているのです ( 29~36. )。

 

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E.   映画の結末において、ニナは黒鳥として生き、そして自分自身としては死にました。そのような生と死、あるいは希望と絶望、という両極は映画における自己言及的な演技設定、つまり演技についての演技、俳優が演技について演技するという設定の中で表す事が可能になったといえるでしょう。この映画における黒鳥の官能性というアロノフスキーによる設定は、ナタリー・ポートマンの狂気の演技がいかに迫真的なものであっても、それは演技についての演技であるという要素を既に含ませているという事でもあるのです。

 

F.   もしナタリー・ポートマンの狂気が演技ではなく本物であったならば、それは到底映画では使えないのであり、それが限りなく本物であるかのように匂わせる演技であるからこそ映画として成立する。つまり演技における狂気は、狂気それ自体の中にどっぷりと浸って本物であるかのように同調する事ではなく、狂気から身を引き離してどこまでも狂気であるかのように見せようとする冷徹さそれ自体の中にあるのです。そのような冷徹さに勝る狂気の演技はないのであり、そこにこそ演技の崇高さがあるといえるでしょう。

 

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ジョナサン・グレイザーの映画『 記憶の棘 』( 2009 )を哲学的に考える

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監督 ジョナサン・グレイザー

公開 : 2004

脚本 ジャン・クロード・カリエール

   ミロ・アディカ

 

出演 二コール・キッドマン  ( アナ )

   キャメロン・ブライト  ( ショーン )

   ダニー・ヒューストン  ( ジョセフ )

   ローレン・バコール   ( エレノア )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 記憶の棘 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいたものです。なので、深く考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしか出来ない )、という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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 1. 死んだ夫としての少年

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A.   10年前に夫ショーンを亡くし、ジョセフ ( ダニー・ヒューストン ) と再婚しようとしているアナ ( 二コール・キッドマン ) の前に、自分はショーンの生まれ変わりだと言う少年 ( キャメロン・ブライト ) が現れるという設定の作品。この作品を輪廻転生の話しだと感じる人もいるでしょう。結局、少年はショーンの生まれ変わりではないのが最後に明らかになるのですが、それでもこの作品は輪廻転生がテーマだと "象徴的に" 理解しようとする人がいるのは分からなくもありません。

 

B.   というのも、誰よりも輪廻転生を信じているのが他ならぬアナ自身であるかのように思われるからです。ある日、見知らぬ少年がショーンの生まれ変わりだと言って現れたものだからアナは拒否します。ところが少年の余りの一途さにアナは彼に興味を持ち出し、やがては家に招き入れるようになるのです。

 

C.   ここで注意すべきは、アナは婚約中のジョセフと既に一緒に暮らしているにも関わらず、少年を家に入れている点です。当然、ジョセフは気分がいいはずもなく、ある日、少年への怒りを大人気なく爆発させてしまったりします。そのジョセフが少年とアナの関係を疑って聞き耳をたてる以下のシーン。

 

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D.   入浴中のアナの所に少年が一緒に入ってくるというこのシークエンス ( そしてジョセフは聞き耳を立てている ) は、亡き夫を忘れられないアナと彼女への一途な思いを抱く少年との関係性が、輪廻転生をテーマにした純愛であるかのような見かけの裏で、恋愛感情と絡んだ性的欲望が秘かに進行しているのを示す注意すべきものになっています。監督のジョナサン・グレイザーが意図的にこのシークエンスを入れているのは明らかですね。

 

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 2. 女と男、あるいは女と少年

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A.  ここでのジョナサン・グレイザーの意図は、男女の恋愛関係の裏側に潜む性的欲望を一方的に暴き出すというよりかは、恋愛感情と性的なものの重層的な絡み合いを描き出すことを狙ったものだといえるでしょう。つまり、かつての恋愛の関係性 ( アナと亡夫 ) が現在における性的なものの力 ( アナと少年の関係性 ) によって秘かに変貌していく過程を描いているという事なのです。この辺は殆どの人が見過ごすところでしょう ( 薄々気付いていても )。

 

B.   アナの視点からすると、彼女は再婚相手のジョセフを恋愛感情の末に選んだというよりは今後の人生を考えてのパートナーとして認識している。だからこそ、ショーンの生まれ変わりだと言う少年の言葉を信じて、かつての恋愛感情を自分の中で燃え上がらせている訳です。

 

C.   ただし、1~12. においてバスタブに後から入ってきた少年の身体を見て、アナは現実に気付いたはずです。まだ大人に成り切れていない、これから大人になろうとする少年の身体が、アナの中の亡き夫への幻想とは別に、この少年がショーンではない1人の男であるとアナは認識せずにいられなかったでしょう。

 

D.   赤裸々に言うと、ここでのアナは、少年が亡き夫の生まれ変わりだという輪廻転生の話をアリバイとして、少年との恋愛を秘かに楽しんでいるとさえ言えるのですね。これは決して穿った見方だとはいえません。というのも、そのような見方は再婚相手のジョセフのものであるからです。彼は輪廻転生の話など信じていません。少年を少年として認識し怒りをぶつけるだけなのです。少年のくせに自分の婚約者と恋愛関係を持とうとするのは何事かと言う訳です ( 13~16. )。

 

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E.   そんなジョセフの不満に関わらず、アナは少年との恋愛感情を強めていきます ( 17~20. )。ここまで来ると、彼女は亡き夫への思いよりも、少年との恋愛関係という倫理的な一線を踏み越えることの興奮や情熱に身を傾けているのです。この後、彼女は少年がウソをついていたと告白するまで、彼との関係を持ち続けようとしていたくらいに ( 何年か後には彼がある程度の大人になるという算段をしながら )。

 

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F.   アナと少年の関係も、少年の告白 ( 嘘をついていた ) によって終わりを迎えます。そこで彼女は "私を騙していたのね" と怒るのですが、これを文字通りに受けるべきではないでしょう。彼がショーンではない事が分からないような大人ではないし、それでは解釈が単純過ぎますね。

 

G.   それではアナがどうして怒ったかというと、少年がショーンの振りをする事によって成り立っていたアナと少年との恋愛関係のゲームから、彼が降りてしまったからです。このゲームは彼女の欲望を満足させていた、たとえ少年が嘘をついていたとしても。いやむしろ少年が嘘を付いていたから、このゲームが成り立っていることにアナは興奮していたといえるでしょう。

 

H.   さらに踏み込んで解釈するならば、このゲームにおける少年のアナに対する裏切りは、アナの亡夫のショーンが生前に浮気していたという裏切りと重ねあわせる事が出来るでしょう。ショーンの浮気相手であったクララ ( アン・へッシュ ) が少年の嘘を暴くこと ( 少年がもしショーンの生まれ変わりであるならば浮気相手のクララが分かるはずなのに気付かなかった ) によってアナと少年の恋愛関係を結果的に終わらせた訳ですが、そこにアナを不幸にしようというクララの意図がショーンの生前と同様に働いていることの方がアナと少年のスキャンダラスな関係よりも実は恐ろしいのです。アナはおそらくクララの意図に気付かずに振り回されているのであり、そこにはある人間の人生 ( アナの人生 ) が特定の人間 ( クララ ) の意図によって狂わされていくことの恐ろしさがあると言えるでしょう。

 

 

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メアリー・ハロンの映画『アメリカン・サイコ 』( 2000 ) を哲学的に考える

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公開 2000

監督 メアリー・ハロン

脚本 メアリー・ハロン グィネヴィア・ターナー

原作 ブレット・イーストン・エリス

 

出演 クリスチャン・ベール   ( パトリック・ベイトマン)

   ジャレッド・レト     ( ポール・アレン / パトリックのライバル )

   クロエ・セヴィニー    ( ジーン / パトリックの秘書 )

   ウィレム・デフォー    ( ドナルド・キンボール / 探偵 )

   リース・ウィザースプーン ( イヴリン / パトリックの婚約者 )

 

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 アメリカン・サイコ 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいたものです。なので、深く考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしか出来ない )、という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。 

 

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 1. 抽象的主体としての悪

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A.   この映画の主人公であるパトリック・ベイトマンは実際に殺人行為を犯したのか、それとも殺人の妄想を抱いただけなのか、というのが映画ファンの間で話題になったことがありました。というのも映画のラストでベイトマンの職場の机の中から、殺人の様子が落書きのように描かれた手帖を秘書のジーンが見つけたからです。このシーンはそれまでの話で行われたベイトマンのよる数々の殺人が妄想に過ぎなかったのではと観客に思わせるものになっているという訳です。

 

B.   しかし、そのような議論に意味がない事は映画の冒頭から明らかなのを思い起こす必要があるでしょう。つまり、パトリック・ベイトマンは内実のある具体的登場人物ではなく "抽象的な主体" である事が既に明言されているからです ( 1~6. )。

 

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C.   この "抽象的人物" という言葉の意味を全く考えようとしていない人ほど、ベイトマンが実際に殺したのか、そうでないのか ( 妄想なのか )、という議論に囚われてしまう。彼が実際に殺人を殺したかのかどうかという以前に、まず彼は具体的人間としては存在していないのです。そこから考えていく必要があります。

 

D.   しかし、こう言うと、彼が抽象的存在ならば殺人行為は出来ないはず・・・よって殺人は妄想に過ぎないなどと結論を急ぐ人がいるかもしれません。そのような結論が凡庸なのは、ベイトマン "悪の抽象的主体" である、すなわち、殺人という形式的行為をひたすら実行するためだけに映画の中に導入された具体的属性を持たない "空虚な主体" であることを見逃しているからです。

 

E.   なぜ、空虚な主体をわざわざ導入する必要があるの? と思う人もいるでしょう。実在の人物として描けばいいのに、と。しかし、それではせいぜいのところベイトマンの裏のダークサイドがスキャンダラスなものであるという事しか明らかにならない。つまり、ベイトマンという凶悪殺人犯を生み出した1980年代のアメリカの消費文化の退廃的側面が描かれているというありふれた意見しか出てこないのです。それはブレット・イーストン・エリスの原作の視点でしかありません。

 

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 2. 社会と悪

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A.   この映画の監督メアリー・ハロン、そしておそらく脚本のグィネヴィア・ターナーは原作を超えて、さらに急進的な方へ踏み出していると解釈出来るのです。彼女らは、資本主義の退廃性に照準を絞っているのではありません。"社会と悪の関係性" において悪の出現が社会の副産物などではなく、それどころか、"悪それ自体" も社会を構成する要素のひとつであるというより過激で隠れたメッセージを無意識的に打ち出していると解釈出来るのです。

 

B.   社会のメカニズムは、そこに携わる多くの人々の心理的側面を無視出来ないものであるとすれば、社会にとって不都合な欲望もそこに流れ込む可能性が十分にある訳です。この映画に即して言うなら、ベイトマンはサラリーマンとして社会的成功を得た裏で殺人への欲望を抱いていたのではなく、殺人への欲望を昇華して社会的成功を得ていたという真にスキャンダルな内面が明らかになるのです。そして昇華しきれなくなった殺人の欲望が抽象化された人物像こそパトリック・ベイツマンに他ならない。

 

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3. ベイツマンの正体としてのポール・アレン、あるいはポール・アレンの真実としてのベイツマン

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A.   そうすると、ここで起きる疑問は、ベイツマンが抽象的人物であるならば、その源泉となった殺人の欲望を抱いた実際の人物がいるはずだがそれは誰かという事です。その答えはポール・アレンであり、映画の中でさりげなく示されています ( 7~14. )。

 

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B.   7~14. のシーンはベイトマンの視点から構成されているため分かりにくいのですが、7~10. を見ればポール・アレンとパトリック・ベイトマンが同じ格好 ( 眼鏡と髪型 ) で彼らが同一人物である事が示されていますね。なのでアレンのビジネス上のライバルはベイトマンであるはずもなくハルパーストラムである事も分かります。

 

C.   以下の15~26. のシーンは、実在するベイトマンがアレンを殺すのではなく、アレンが抱く殺人への欲望が抽象化されたベイトマンが、アレンの属性である事から離れて暴走していく契機となっていると "象徴的に" 解釈しなければそこで何が起こっているのか理解出来ないでしょう。

 

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D.   映画のラストでは結局、ベイトマンの殺人行為はなかったかのようになっていますね。ベイトマンが社会の中の悪を描くために仮想化された空虚な主体である事を理解すれば、それは驚くことではないのですが、それよりも不気味なのはベイトマンがアレン個人から離れて、不特定多数が抱く殺人の欲望それ自体へと移行している事です。つまり、ベイトマンはアレンの真実の姿である事に留まらずに、多くの誰かの真実の姿になりえる。分かりやすく言うならば、誰であれ何かのきっかけで殺人の欲望を抱く事が有り得るのであり、イトマンとはその欲望を表す名前となっているという事です。その名前ががヒッチコックの『 サイコ 』における殺人鬼ノーマン・ベイツに由来するのは明らかですね【 1 】。誰であれ殺人の欲望を抱く可能性があるという意味で、イトマンという抽象的主体はノーマン・ベイツが普遍化された姿である ( ベイツ + 人間〈 man 〉 ) と言う事が出来るでしょう。

 

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1

   ヒッチコックの『 サイコ 』については以下の記事を参照。

 

 

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ジョセフ・ルーベンの映画『 危険な遊び 』( 1993 )を哲学的に考える

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監督 ジョセフ・ルーベン

公開 1993年

 

出演 マコーレー・カルキン   ( ヘンリー・エヴァンス )

   イライジャ・ウッド    ( マーク・エヴァンス )

   ウェンディ・クルーソン  ( スーザン・エヴァンス / ヘンリーの母 )

   ダニエル・ヒュー・ケリー ( ウォレス・エヴァンス / ヘンリーの父 )

   デヴィッド・モース    ( ジャック・エヴァンス / マークの父 )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 危険な遊び 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいたものです。なので、深く考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしか出来ない )、という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。 

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 1. 少年と悪

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A.   今ではほとんど観られることのないB級サスペンス映画。共に子役時代のマコーレー・カルキンイライジャ・ウッドが共演している ( 2人とも当時12才くらい ) ことで記憶している人もいるでしょう。この映画の照準はマーク ( イライジャ・ウッド ) のいとこであるヘンリー ( マコーレー・カルキン ) の中に巣食う残虐な "悪" なのですが、ここではその悪の原因などは触れられることはありません。

 

B.   例えば、ヘンリーが妹のコニー ( クイン・カルキン 〔 マコーレーの実妹 〕) を殺しかけたり、弟のリチャード ( ロリー・カルキン 〔 これもマコーレーの実弟 〕) の死におそらく関わっている事、そして最後には母親を殺そうとするなどの残酷非道振りの前では、もはやその原因を問う事など問題にもならないという訳です。

 

C.   もちろん、原因を推測する事は可能です。例えば、自分以外の者が母から可愛がられる事への嫉妬などに起因を求める事は出来ますが、そのような結果から原因を推測する事の経済性は、行為のあまりの残虐さによって破綻してしまっている。

 

D.   つまり、そこにこそ "悪それ自体" がクローズアップされる意味があるのです。ヘンリーの悪に何らかのきっかけがあったとしても、その悪はもはやその原因から大きく解離してより自らの残酷さを享楽しようとする "悪の純粋さ" に既に移行してしまっているという事なのです。

 

E.   それが分かるのがマークと児童心理学者アリスとの会話シーン ( 1~8. )。ここでは悪が、たとえ少年にでも存在する可能性に気付かない大人の素朴な振舞いが示される。

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F.   マークはヘンリーの母親ウェンディにヘンリーの残酷さに気付いてもらおうと話すが信じてくれない。

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G.   しかし、子供の態度に敏感な母は、ヘンリーに少しづつ異和感を覚えていく。

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 H.   一方、ヘンリーも自分を疑う母親の態度に気付いて、殺すことを計画する。そして事もあろうか、母親の葬式で泣くというシュミレーションをする恐るべき振舞いを見せる。

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I.   母親をためらうことなく崖から突き落とすヘンリー。そこに一切の迷いはない。

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J.   崖の途中にかろうじて留まる母親にトドメを刺すために石を投げようとするヘンリー。それを阻止したマークとヘンリーの争いの中で、母親は何とか崖から這い上がり、今度は崖から落ちそうになる2人を彼女が助ける。

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 K.   体力的にに2人を同時に助けることが出来ないという究極の選択の場面で、彼女は実の息子であるヘンリーではなく、甥のマークを助けます ( 手を離されたヘンリーは落下死する )。このラストの帰結は、彼女がヘンリーに息子の形象を見たのではなく、悪の本質を見たという事です。つまり自分の理解を超えた異様な悪を絶つしかないという母親の悲壮な決意が最後に示された訳ですね。

 

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 2. 悪の象徴としての少年

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A.   この映画におけるヘンリーは、まさに悪の象徴として描かれています。一見純粋であるかのような少年のあどけなさとのギャップという意味で悪が存在するのではなく、まさに少年の幼さこそが純粋な悪の象徴になっていると理解する必要があるのですね。なので少年の未来に配慮して、彼の悪を矯正すべく原因を求めても無駄だという事です、この映画に関しては。それどころか少年とはまさに悪の萌芽であって、少年の未来とは、悪の未来に他ならないと予感させるのです。

 

B.  の映画と同様に、社会の中に蠢く悪が少年という形象において先鋭化された映画がブライアン・シンガーの『 ゴールデンボーイ 』です。『 ゴールデンボーイ 』において主人公の少年トッド ( ブラッド・レンフロ ) はナチスという悪と共鳴しながら自らの悪を覚醒させていくのですが、『 ゴールデンボーイ 』が『 危険な遊び 』よりも不気味なのはブライアン・シンガーが原作とは結末を変えてトッドを生き延びさせている所です。『 危険な遊び 』ではヘンリーは落下死して一応のケジメはつけられていますが『 ゴールデンボーイ 』では "悪" は死ぬ事なく、社会の中で自らを現実化させようとする可能性を残しているという意味で、より生々しいリアルなものになっているといえるのです。

 

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ブライアン・シンガーの映画『 ゴールデン・ボーイ 』を哲学的に考える - 哲学的抽象機械

 

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アーネ・グリムシャーの映画『 理由 』( 1995 ) を哲学的に考える

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監督 アーネ・グリムシャー

公開 1995年

 

原作 ジョン・カッツェンバック

出演 ショーン・コネリー      ( ポール・アームストロング )

   スカーレット・ヨハンソン   ( ケイティ・アームストロング )

   ブレア・アンダーウッド    ( ボビー・アール )

   エド・ハリス         ( ブレア・サリバン )

   ローレンス・フィッシュバーン ( タニー・ブラウン )

   ケイト・キャプショー     ( ローリー・アームストロング )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 理由 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいたものです。なので、深く考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしか出来ない )、という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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 1. 殺人の "理由"

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A.   タイトルの『 理由 』、もちろんこれは殺人事件の犯人ボビー・アールのケイティ・アームストロングへの復讐のことだけを指しているのではないと考えるべきでしょう。もし、そう考えてしまったら、この映画は、陰部を去勢されてしまった男の復讐劇に過ぎないという単一的な物語になり、解釈の余地は大幅に狭められてしまいます。

 

B.   この場合、"理由" とは "殺人の理由" であるのですが、それはボビー・アールだけでなく、ボビーと同じに刑務所に死刑囚として服役している連続殺人犯ブレア・サリバン、そしてボビーを無実だと信じて彼の無罪を立証するポール・アームストロング、3人の殺人の "理由" であると考えるべきなのです。

 

C.   まず、この3人の殺人の中で、ストーリーの表向きの主軸となるのはボビー・アールの場合です。彼は服役の原因である少女ジョーニーの殺人事件 ( ポールはこの事件でボビーの無罪を立証しようと奮闘している ) 以前にも、女性の誘拐事件でされていた。その事件の検事がポールの妻であるケイティ ( ポールと結婚する前の独身時代 ) だったのですが、彼女はボビーの弁護人側による無罪の主張を覆すことが出来ず、ボビーは無罪となった。

 

D.   ところが、この件でボビーは町の人々 ( おそらく警官も含む ) に暴行されて陰部を失う結果になり、それでケイティに復讐するためにブレア・サリバンと口裏を合わせてポールに無罪を訴え上手く騙すのです ( ボビーは実際は少女を殺していた )。そして釈放されたボビーがケイティと娘のローリーを殺しに行くという話が結末に繋がっていくものとなっています。

 

E.   この過程で、連続殺人犯ブレア・サリバンはボビー・アールを無罪とするために少女殺しは自分がやったと告白する ( ブレアは既に死刑が確定していたからボビーに協力した ) のですが、このやり取りで彼は自分の "殺人の理由" も告白するのです、"殺したいから殺すのだ" と。おそらくこの "理由" こそ、ボビーの理由以上に、この映画の真実に近づいているといえるのです。シンプルな理由であるからこそ、もはや正すことの出来ない凶悪性が示されている・・・。

 

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F.   そしてサリバンの "理由" の延長上にあるのが、ポールの "理由" なのです。シーン 1~6. の少し前で、興味深い2人の会話のシーンがあります ( 7~12. )。こともあろうかサリバンはポールに向かって言います "人殺しの目だぜ" 。このシーンを『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクタークラリススターリングのシーンを真似ているなどと冷めた目で見るべきではないでしょう。ここにはそれ以上のことが示されているのですから。

 

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 G.   一見すると、何の "殺人の理由" もないポール・アームストロングが殺人者であるかのように扱われているのです。このことは何を意味するのでしょうか。おそらくは何の理由もないからこそ、より根源的な人間性が問われる事態が描かれている、つまり、"殺す理由" ではなく "殺す欲望" が示されているのです。

 

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 2. 殺す "理由" から 殺す "欲望" へ

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A.   この映画でもっとも不気味なのは、まさにポールにおいて "殺す理由" "殺す欲望" へと移行してしまっている所です。ボビーにおいては "殺す理由" は復讐という分かりやすいものです。サリバンにおいては、ほぼ "殺す欲望" が現れているのですが、復讐をしたいというボビーの欲望に共感するという意味で、"殺す理由" から "殺す欲望" への移行期が示されている。そしてポールにおいては一見すると人殺しから最も程遠いからこそ、もはや何の "理由" も必要ない代わりに、"殺人の欲望" を容易に抱いてしまう事が可能な根源的な位置に移行してしまっているという逆説的転倒が示されているのです。

 

B.   この帰結が恐ろしいのは、殺す欲望がたんに殺すべきではないという倫理的規範では押さえつける事が出来ないという所です。殺す欲望とは、出来ないことを欲望しているのではなく、それが可能だからだと理解しているからこそ欲望しているのです。つまり、何らかの行為が現実化されるのが可能だと理解した時、殺人行為を選択することによって欲望を維持するのが "殺す欲望" の正体なのです。別の言い方をするならば、ある種の "現実化" に欲望を刺激される人間がいるという事なのです。

 

C.  その意味で、映画冒頭でポールは死刑廃止論者として討論しているのですが、それは反転したメッセージとしてポール自身の隠れた欲望、つまり、"殺人の欲望" を表しているのです。映画のラストでは彼は妻と娘を危険に陥れたボビー・アールを殺してしまう訳ですから。いや、正確に言うならポールはボビーにトドメを刺したのではなく、ボビーは沼地を舞台にしたラストでそこに潜むワニに喰われて亡くなってしまう。

 

D.   このことの意味に注意すべきです。つまり、ポールはボビーを殺すつもりでいたのに、最後にワニがボビーの命を奪ってしまう事によってポールの "殺す欲望" が私たち観客には隠されてしまう。このラストシーンによってこの映画は人間の根源的欲望を描きながらも、それが観客自身のものである事を気付かせないように蓋をしているように見えます。しかし、まさにその観客である私たちは、自分の欲望に気付かないポールと同じであることに気付くべきでしょう。

 

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