哲学的抽象機械

映画・哲学・音楽について考える

オスカー・ワイルドの戯曲『 サロメ 』について考える

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サロメ 』光文社 古典新訳文庫

 

■ 著者 オスカー・ワイルド

■ 訳者 平野啓一郎

■ 2012年4月20日 初版第1刷発行

■ 発行所 株式会社 光文社

 

 

目次

 

■ サロメ             

■ 註          田中 裕介   

■ 訳者あとがき     平野啓一郎    

■ 解説         田中 裕介    

■ 『 サロメ 』によせて  宮本 亜門      

■ 年譜                  

 

 

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   現在では『 サロメ 』といえば、オスカー・ワイルドの名前を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし、『 サロメ 』はワイルドのまったくの独創物ではないのですね。このことをまず考慮に入れておく必要があります。聖書に端を発する、サロメといわれる娘と彼女の母親であるヘロディアスにまつまる説話が長年に渡って引き継がれ、芸術の分野において、形象を与えられ、改変・改作されてきた歴史があるという事であり、ワイルドの『 サロメ 』もその中に位置するという事なのです。

 

 

   その流れを知ると、『 サロメ 』をより楽しめるようになるし、19世紀末ヨーロッパのデカダンを体現する人物という伝記的イメージで語られがちなワイルドに対しても、芸術の歴史の流れを認識し、そこから何かを汲み取り、自らの芸術に生かそうとする作家としてのワイルドの視線を認める事も出来るはずです。

 

 

   その点において、今回、取り上げる『 サロメ 』古典新訳文庫版は、註・訳者あとがき・解説がコンパクトにまとまっており、"サロメ" について十分に理解を深める事の出来る1冊となっています。"サロメ" の歴史背景の大まかな流れが、この1冊で掴めることを考えれば、どれほどお得なものか分かるでしょう ( 研究者でない限りは、これで充分 )。

 

 

    "サロメ" の変遷の歴史については、以前の記事、

佐藤祐市の映画『 累 かさね 』( 2018 )を哲学的に考える〈 2 〉

で述べているので、そちらを参照して頂くとして、ここでは、以前の "サロメ" を題材とした作品と比べてワイルドの『 サロメ 』は何が違うのか、考えてみましょう。

 

 

   決定的な違いは、サロメの官能的な踊りではなく ( それは既にフローベールの『 ロディア 』において描写されているし、そもそもワイルドの『 サロメ 』ではわずかに1行、ト書きで示されているのみ )、サロメが望んだヨカナーンの斬首と "それ" へのキスなのです。これこそが、"サロメ" の歴史の中でワイルドが為した独創的改変といえるものです。

 

 

   もっとも、斬首といっても、西洋の美術史においては斬首のモチーフが幾度も現れるので、それ自体は目新しいものではない〈 ※のですが、ワイルドはそれによってサロメを母親ヘロディアスから独立した主体、それも、異質性によってその場を支配してしまいかねない強度を持つ女優的主体を誕生させたのです。

 

 

   そのようなワイルドの女優的主体に比べると、彼とほぼ同時代のチェーホフの演劇的主体は、どれほどエキセントリックに見えたとしても、劇の中に収まる予定調和的なもの ( 言い換えると、他の誰でもなんとか演じられる登場人物の雛型ということ ) でしかない。ワイルドの『 サロメ 』は演者を篩にかけてしまう程の強力な主体性を女優に求めるという意味で、困難な作品であるのは間違いないでしょう。事実、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『 サロメ 』は別であるにしても、かつて演じられた『 サロメ 』の多くが、性的な強調に依存するものであったことは否めない。

 

 

   それらは女優に性的な演技をさせることの意味を考えることが出来ない、性的なものを超えて、それ以上の意味を女優の演技に求めることが出来ない、のです。それは、いわば、ダーレン・アロノフスキーの映画『 ブラックスワン 』で、演出家トマ ( ヴァンサン・カッセル ) がニナ ( ナタリー・ポートマン ) に演技の向上のために性的行為を促してハクをつけさせるような単純性に陥っているようなものです〈 ※。しかし、この映画の結末は、性的なものの裏面に死がある事 ( 精神分析的意味で ) を演技を通して明らかにする事にある。この事こそが女優の演技を崇高なものにしているといえるのです。

 

 

   ニナは自分の死を賭して、最高の演技をするのと同様、ワイルドのサロメも最後には自分の行為の報いとしてヘロデ王によって殺されてしまう。それによってサロメはヨカナーンの首を欲した時から、既に死の領域に踏み込んでいた事が明らかになります。ヨカナーンを殺したいという欲望が一体どこから来ていたのか、サロメは無視することは出来ない。殺したい欲望は、衝動が渦巻く欲動の動きそれ自体から派生しているのであり、 そこに無関係であることは出来ない訳です。そしてサロメとは、自らの振舞いにおいて、死の領域に演技を通じて踏み込む、つまり疑似的に自らの限界を超える女優的主体である者に与えられる名であると解釈出来るでしょう〈 ※

 

 

( サロメ )

"そこの兵たち、こっちへ来て。水溜の中に降りて行って、あの男の首を持ってきてちょうだい。王様、王様、兵たちにヨカナーンの首を持ってくるようにお命じになって。( 大きな黒い腕、首切り役人の腕が、ヨカナーンの生首を載せた銀の楯を持って水溜から現れる。サロメはその首を引っ掴む。ヘロデはマントで自分の顔を覆い隠す。へロディアは微笑みを浮かべて、扇を揺らしている。ナザレ人たちは、跪いて、祈り始める。) ああ! ヨカナーン、お前はその口唇に、キスさせてくれなかったわね。でも、いいの! わたし、今からそこにキスするのよ。熟れた果物を齧るみたいに、歯で口唇を噛んであげる。そう、わたし、お前の口唇にキスするの、ヨカナーン"

オスカー・ワイルドサロメ 』 平野啓一郎・訳 光文社古典新訳文庫 p76.

 

 

( サロメ )

"で、お前は見たんだね、お前の神を、ヨカナーン、でも、わたしを、このわたしを、…… お前は、そう、わたしを決して見なかった。もし私を見ていれば、きっと、わたしを好きになったはず。わたしは、だって、ヨカナーン、お前を見て、お前を好きになったんだから。ああ! わたしがどんなにお前のことが好きだったか。今でもまだ好きよ、ヨカナーン。お前だけを愛している。…… わたし、お前の美しさに渇いているの。お前の体に飢えてる。お酒や果物じゃ、わたし、慰められないの。これからわたし、どうしたらいいの、ヨカナーン? どんな大河も、どんな海も、わたしのこの苦しい情熱の炎を消すことなんてできない。わたしは一人の王女だった、そしてお前はわたしを侮辱した。わたしは、処女だった、そしてお前は、わたしの血の管を炎で満たした。…… ねえ! ねえ! どうしてお前はわたしを見てはくれなかったの、ヨカナーン? もし見てくれてたら、お前はわたしに恋をしてたはずよ。わたしにはよくわかっている、お前がわたしに恋をしたはずだって。愛の神秘は、死の神秘よりも大きいの。人はただ、愛だけを見つめているべきなのよ。"

オスカー・ワイルドサロメ 』 平野啓一郎・訳 光文社古典新訳文庫 p78~79.

 

 

( サロメの声 ) 

"ああ! わたし、お前の口唇にキスしたよ、ヨカナーン。お前の口唇にキスした。苦いのね、お前の口唇って。血の味なの?…… ううん、ひょっとすると、恋の味なのかも。恋って、苦い味がするって、よく言うから。 …… でも、それが何なの? 何でもないことよね? わたし、お前の口唇にキスしたのよ、ヨカナーン、お前の口唇に、わたし、キスした。( 月光が、サロメと階段の上に射す。)"

オスカー・ワイルドサロメ 』 平野啓一郎・訳 光文社古典新訳文庫 p80. 

 

 

( ヘロデ )  

"( 振り向いて、サロメを見ながら ) あの女を殺せ!

( 兵たちは突進して、楯の下にサロメを、へロディアの娘を、ユダヤの王女を押し拉ぐ。)"

オスカー・ワイルドサロメ 』 平野啓一郎・訳 光文社古典新訳文庫 p81. 

 

 

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〈 ※

  例えば、ワイルドが参考にしたハインリッヒ・ハイネの長編詩『 アッタ・トロル   夏の夜の夢 』( 1847 ) においても 、ヨハネの首にキスするヘロディアスが描かれている。これについては以下の記事を参照。

 

 

〈 ※

   ダーレン。アロノフスキーの『 ブラックスワン 』については以下の記事を参照。

 

 

〈 ※

   この辺の考察については、以下の記事を参照。

 

 

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桜庭一樹の小説『 私の男 』について考える

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『 私の男 』

 

■ 著者  桜庭一樹 

■ 発行所 文春文庫

■ 2010年4月10日 第1刷

■ 初出 別冊文藝春秋 2006年9号~2007年7月号

■ 単行本 2007年文藝春秋

 

 

目次

 

第 1 章 2008年6月 花と、ふるいカメラ p7.

第 2 章 2005年11月 義郎と、ふるい死体 p77.

第 3 章 2000年7月 淳悟と、あたらしい死体 p147

第 4 章 2000年1月 花と、あたらしいカメラ p193.

第 5 章 1996年3月 小町と、凪 p285.

第 6 章 1993年7月 花と、嵐 p343.

 

解説 北上次郎 p446.

 

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" 腐野淳悟は、わたしの養父だ。彼がわたしを引き取って育て始めたのは15年も前のことで、いまではもうはるか遠い、時の彼方の記憶だ。そのころ、わたしはたちは東京ではなくべつの町にいて、あるときからいっしょに暮らし始めた。わたしは小学四年生で、震災でとつぜん家族をなくした。淳悟は遠縁に過ぎなかったけれど、いくつかの複雑な手続きを経て養子縁組し、養父になってくれた。八年前、淳悟が三十二歳のとき、わたしたちは東京にやってきた。そしてわたしは二十四歳になって、明日、結婚しようとしている。" p13.

 

 

" わたしはいつのまにか大人になって、気づけば、養父が自分と出会ったころの年齢に差しかかろうとしていた。あのときどうして、腐野淳悟はわざわざ、面倒な小学生を引き取ろうとしたのだろうか。子供のころは、養父の気持ちがぜんぶわかっているつもりだった。でも、大人になったら、すこしもわからなくなってしまった。時が過ぎるほど、過去の若い淳悟は謎めいて、水に沈むように滲んで、遠ざかっていくばかりだ。淳悟という男の、過去の選択も、これからの行動も、わたしにはよくわからない。ただ確信できているのは、雨のような匂いのするこの養父こそが、まぎれもなく、私の男だということだけだった。" p13~14.

 

 

■   主人公の花と養父である腐野淳悟の奇妙な関係性は、親子である事と男女である事のふたつの関係性が二重に重ね合わされている 所に、その特徴があるといえるでしょう。そのような二重関係は、ここでは精神分析的に理解されるべきで、それをせずに近親相姦への嫌悪を読み取って、嫌悪感を吐露するばかりでは何の読解価値も生まれません。

 

 

   この二重関係は、淳悟にとっては近親相姦であるものの、花自身においては、近親相姦でありながらも、そこから脱け出し女性主体として淳悟を愛そうとする欲望が生まれる契機となっているものです。淳悟の近親相姦的欲望 と、花による男という他者を愛する女性的欲望、この二重性は、ある点で交差しながらも、そこを過ぎるとすれ違いが続いていくという奇妙な状況が生みだしているのです。

 

 

" わたしは、ここにやってきたときからずっと、おとうさんに抱かれている。誰にもこのことを話していない。大好きな友達にも。ほかの親戚にも。先生にも。誰にも。もし知られたら、おとうさんが捕まってしまうようなことだ。誰かに話したいとか、わかってほしいと思ったことはなかった。大事なことは、誰にも知られたくなかった。" p221.

 

 

" 腰に腕を回されて、起きあがらされた。下半身で淳悟を締めつけるようにして、きつぅくつながったままでじっとみつめあった。両手でわたしの乳房をいじりながら淳悟が、甘えるような顔つきをして、ゆっくりと口を開けた。こうやってつながっているときだけ、ほんのときどき、わたしと淳悟は、どっちが保護者でどっちが子供なのか、くるっと入れかわってしまうことがある。" p221.

 

 

" 起きあがった淳悟が、わたしを抱きしめて、子供のように泣き出した。手のひらでほっぺたを弱々しく撫でてから、恋人どうしのみたいな優しさで、唇をあわせた。汗と唾液のむっとするようないやな匂いが、ベッド上に漂っていた。あぁ。秘密の匂いだ。" p430.

 

 

" 唇が、離れた。お・・・・淳悟はひれ伏すように頭を垂れて、甘い声でわたしを呼んだ。おかあ、さぁん ーーー!" p430.

 

 

" 唾液でべとべとにされた腕をのばして、淳悟の頭を抱きよせてあげた。やっぱりそうだったのかな、と思った。わたしとこの人は、よく似ている。わたしとこの人には、おかしな縁がある。わたしとこの人は、血が……。おかあさぁん。おかあさぁん。花……。花……"  p430.

 

 

" 夜のあいだだけ、こっそりと大人になったような気持だった。大人だけど、人間じゃなかった。わたしは淳悟の、娘で、母で、血のつまった袋だった。娘は、人形だった。父のからだの前でむきだしに開いて、なにもかも飲みこむ、真っ赤な命の穴だ ーーー 。" p430~431.

 


 

■   淳悟の近親相姦の欲望が、母親を求める欲望であることが分かるのですが、彼に対して花は、娘であり、母であり、欲望の対象としての人形でもある、という多重性を演じる事になります。そのような状況で、花は、淳悟を父親でありながら父親ではない1人の男として見ようとする自分の中の 女の萌芽 が芽生えている事に無意識的に気づき、揺れ動いていくわけです。

 

 

■   もちろん、小説は、そこら辺についてはストレートには描写せずに、2人はあくまで近親相姦関係に過ぎないかのように話が進んでいきます。花の離れたくても離れられない父親依存は最後まで ( 最後といっても小説は過去に遡る形式なので、第1章が物語の結末になっている ) 残っているかのように見えるのですが、しかし、これは別の男性と婚約が決まっている花の、どうしようもない男である淳悟に対する遡及的美化でしかありません。

 

 

" わたしと養父はこんなふうに、これまでずっと、世間においていかれながら、二人きりで並んで歩き続けてきた。わたしが九歳のときから、二十四歳の今日まで、ずっと。" p39.

 

 

" あきれるのと同時に、むくむくと、おとうさんから離れられない、という気持ちが、不吉な雨雲のようにまた広がってきた。それは醜い病原菌にようにわたしのからだに棲みついて、あの懐かしい九歳の夏から、けして治らないのだった。" p40.

 

 

" 奇跡のようにうつくしかった瞬間も、目をそむけるしかない醜い行動も。正しいつもりの行いも、ただ安易だった選択も。すべて、わたしたち父娘だけのものだった。でもそれは、いままさに、澱んだ過去に変わろうとしていた。わたしが、捨てていくからだ。" p50.

 

 

" わたしは、できるならまもともな人間に生まれ変わりたかった。ゆっくりと年老いて、すこしずつだめになっていくのではなく、ちゃんと家庭を築き、子供を産んで育てて、未来をはぐくむような、つまりは平凡で前向きな生き方に、変えたかった。そうすることで、手ひどい過去までも、ずるく塗りかえてしまいたかった。そうやって自分を生き延びさせようとしていたのだけれど、いまこうして、こんな明るい場所にじっと座っていると、わたしのわたしそのものである部分 ―― 見たことも触ったこともない、魂の部分が、ゆったりと死んで、震えながら急速に腐っていくようにも感じられた。" p58.

 

 

" 養父と離れても、わたしからはあの、真っ黒な憎しみがあふれ続けていた。これからはいったい誰が、わたしからあふれるものを、奪ってくれるのだろう……。答える声はなくて、ただきらめく波だけが寄せては返すばかりだった。" p59.

 

 

■   つまり、精神分析的に見るならば、尾崎義郎と結婚する花にとって、義郎以外の "男" がいることは自分の奔放な欲望を認めてしまう事になるが故に、淳悟を "男" ではなく "父親" に固定しなくてはいけないのです。つまり、ここにあるのは 捏造された父親幻想 ということですね。

 

 

■   花の奔放な欲望は、ある意味で淳悟の近親相姦の欲望よりも強力であり、獰猛なものである といえます。そのような自分の中の激しさを認めきれずに、淳悟に父親幻想を投影することによって疑似倫理感に浸る花は、大人であるにも関わらず、少女である事 ( 桜庭一樹の小説における主人公の特徴的モチーフ ) に無意識的に固着している といえるでしょう。

 

 

■   ここで興味深いのは映画版『 私の男 』です 。映画のラストで、二階堂ふみは、原作では隠された花の奔放かつ獰猛な欲望を見事に表現して原作のキャラの壁を突破しているのです。ここに異和感を感じた原作ファンもいるでしょうが、この演出によって、花の隠れた欲望の真実が露になっているのは間違いないでしょう ( それを監督の熊切和嘉が狙ったかどうかは分かりませんが )。

 

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   映画『 私の男 』については次の記事を参照。

 

 

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ポール・シュレイダーの映画『 魂のゆくえ 』( 2017 )を哲学的に考える

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監督 : ポール・シュレイダー

公開 : 2017年

 

出演 : イーサン・ホーク      ( エルンスト・トラー )

   : アマンダ・サイフリッド   ( メアリー )

   : フィリップ・エッティンガー ( マイケル )

   : セドリック・カイルズ    ( ジェファーズ牧師 )

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 魂のゆくえ 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。

 

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  1.   宗教と環境問題

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a.   『 魂のゆくえ 』について、よく言われる謳い文句 "50年に渡って構想されてきた企画" を契機として、考えていくことにしましょう。というのも、そのような長期間の構想はポール・シュレイダーの集大成的な物だといえるでしょうし、そこにかかった時間は、シュレイダーの円熟さを示す指標にもなっているはずですから。

 

b.   その円熟さがいかなるものであるのかについて考えるのは、細かな事ではあるものの、哲学的には無駄ではありません。今までの彼の作品とは違う現象が、この作品において現れているのはラストを見れば明らかであり、それが彼が辿り着いた地点がいかなるものであるのかを示しているのですから。

 

c.   ただし、ここで注意しなければならないのは、『 魂のゆくえ 』における宗教と環境問題です。たしかにイーサン・ホーク演じる主人公トラーは牧師であるのですが、この映画は宗教と環境問題が余りにも短絡的に直結してしまっている という事に疑問を抱かなければならないでしょう ( 多くの人は気にしていませんが )。現実の牧師が、その情熱を宗教的なもの以外 ( ここでは環境問題 ) に傾けてしまうのは、違う領域、つまり、環境問題という名を借りた政治 へと踏み込むことを意味するからです  

 

d.   そこには、宗教と政治が直結する危険性があります。環境問題という大義が正しいにしても、それをどのように解決していくかを模索する上では、異なる様々な政治的立場の人々の間を調停する "事務的な作業の次元" というものが必ず必要になるのを考慮しなければなりません。それを無視して、環境問題という大義を盾に単純な正義を叫ぶだけでは、それの行き着く先は、トラーが試みようとした破滅的テロリズムでしかないでしょう。

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■   ただし、カルヴァン主義が、その始祖であるカルヴァンによるジュネーヴでの神権政治でみられるように 宗教の政治化 に積極的であったことを思い起こすならば、トラーにおいて宗教と政治が結びついても不思議ではないと解釈する事も可能ですね。

 

 

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  2.   社会から浮いた異質な男の存在

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a.   もちろん、シュレイダーは、この作品で政治的領域へと踏み込もうとしているわけではない ( 環境問題への具体的対策はない ) し、かといって宗教的なものについて語ろうとしているわけでもありません ( 彼のルーツであるカルヴァン派の教義を掘り下げたりしない )。

 

b.   ここで思い起こすべきは、彼の今までの映画 ( 監督、脚本を含めて ) に共通する特徴的なモチーフ、つまり、周囲の人間とは明らかに異質な男の社会との関わり方を描く、というものです。ザ・ヤクザ 1974 〉』の田中健 ( 高倉健 ) 、『 タクシー・ドライバー1976 〉』のトラヴィス ( ロバート・デ・ニーロ )、『 ローリング・サンダー1977 〉』のレーン少佐 ( ウィリアム・ディヴェイン Mishima : A Life In Four Chapters 1985 〉』の三島由紀夫 ( 緒形拳 )、『 ドッグ・イート・ドッグ2016 〉』のトロイ ( ニコラス・ケイジ )、マッド・ドッグ ( ウィリアム・デフォー )、など社会に馴染めない男たちの生き方を描くという手法が繰り返されている訳です。

 

c.   シュレイダーのストーリーには、まず、異質な男の存在が出発点として固定されている、ここに彼に 無意識的固着 があるといえるでしょう。それは『 魂のゆくえ 』においても同様で、牧師であるトラーは最初から明らかに社会とは異質な存在として描かれています。しかし、トラーはシュレイダーが今まで描いてきた行動的男とは違い、内面的独白を用いた孤独 によって、その異質さを醸し出しているように見えます。ここら辺は、シュレイダー自身が言うように、ロベール・ブレッソンの映画『 田舎司祭の日記 』( 1950 ) の影響が現れていますね。

 

d.   ただし、それを以て、『 魂のゆくえ 』において彼の映画手法が変わったなどと早合点してはいけないでしょう。既に彼は昔から、ロベール・ブレッソン小津安二郎からの影響を公言しているのですから ( それが彼の映画に上手く生かされているかということになると話は別ですが )。

 

e.   トラーの内面的孤独は、表面的にはシュレイダーが今まで描いた男たちとは違うように見えますが、それは、社会から引き籠ろうとする孤独ではなく、その鬱積が行動化の爆発へと至るまでに抑圧された、不満としての内面的孤独 なのです。この意味で、実はトラーはシュレイダーの描く男たちとは変わらない。違う言い方をするなら、トラーは いかにして行動化 ( アクティング・アウト ) へ至るのか についてシュレイダーは描いているという事です。ここの描写を念入りに行っているのが今までの主人公とは違うといえるでしょう ( ただし、それに匹敵するのが『 タクシードライバー 』のトラヴィスの描写。それがシュレイダーの手腕によるのか、マーティン・スコセッシによるものなのかは微妙な所ですが )。

 

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■   ザ・ヤクザ 』については次の記事を参照。

 

■   ローリングサンダー 』については次の記事を参照。

 

 

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  3.   自爆テロと自殺

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a.   ではシュレイダーは彼の集大成といわれる『 魂のゆくえ 』においても以前と何ら変わりがないのでしょうか。いや、ラストを見ると、そうとはいえないことが分かりますね。自殺した環境保護主義者のマイケルの思想に次第に浸食されたトラーはファースト・リフォームド教会の250周年の式典で、マイケルが遺した爆弾付きベストを着用して自爆テロを試みようとします。ファースト・リフォームド教会自体が間接的に、環境に悪影響を与えているとされるバルク工業の支援を受けていたこと、トラー自身が胃ガンであること、という要因によってトラーは自分が出来る最大の抗議として自爆テロを選択したわけです。

 

b.   しかし、亡くなったマイケルの未亡人であるメアリーが式典にやって来る様子を偶然見かけたトラーは慌ててベストを脱ぎ捨てて自爆テロを止めてしまう。

 

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c.   なぜ止めてしまったのか? それは言うまでもなく、トラーがメアリーのことを愛していたからです。いや、正確に言うなら、トラーはこの時、彼女を "本気で" 愛していることに気づいた。彼女を自爆テロに巻き込みたくない・・・私の愛する彼女を・・・という具合に。

 

d.   この場面以前にも、彼らの関係性を示す伏線は張られていましたね。夜、悪夢ゆえに眠れないメアリーはトラーを訪ねて、生前のマイケルとしていたのと同じように体を重ねて、呼吸と動きを合わせることによってトリップする "マジカル・ミステリーツアー" で気持ちを整えるのです。

 

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e.   もう既にこの時、2人はお互いを意識しているのは明らかなのですが、トラーの宗教家としての尊厳が、一線を越えることを踏みとどまらせているのでしょう。ちなみに、2人が宙に浮く場面は、アンドレイ・タルコフスキーの『 サクリファイス 』を彷彿とさせるものになっていますね

 

f.   トラーは自爆テロを止めた後、自らの身体に有刺鉄線を必死になって巻き付けます。まるで自分を人類のために犠牲になったキリストに倣うかのように。

 

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g.   続いてグラスに洗剤を注いで飲もうとするのですが、有刺鉄線で自らを縛り、洗剤を飲んで自殺しようとするこの一連の流れは、どう解釈すべきなのでしょう。

 

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h.   ほとんどの人は、これを自爆テロが出来ない代わりに、せめて自殺することによって、抵抗の姿勢を示そうとしたのだと考えるかもしれません。しかし、それは少し単純すぎるといえるでしょう。ここでは有刺鉄線で自らを縛ることの宗教的意味を考える必要があります。その意味とは、罪を償うために自分に罰を与えるという事です。

 

i.   ではどんな罪をトラーは犯したというのでしょう。自爆テロを止めたことに対する罪でしょうか。いや、仮にそうだしても、多くの人を巻き込む自爆テロはそれ以上の罪なはずなのをトラーは最初から分かっていたはずです。自分は罪を犯している、と。それでもテロを決行しようとしたのですから、ここで考え直すべきは、自爆テロを停止させる理由が自爆テロ以上の罪となってしまうというトラーの歪んだ主体性です。

 

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   サクリファイス 』については、次の記事を参照。

 

■   サクリファイス 』より。アレクサンデルとマリアが抱き合い空中浮揚する場面。

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  4.   シュレイダーの変化

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a.   つまり、トラーは、たとえ自爆テロという政治的行為に走っても、宗教家であることに誇りを抱いている。その "誇り" こそが、孤独に落ち込む彼に人間としての尊厳を与える唯一つの "慰め" であり、その "誇り" ( もっと俗的な表現だと "意地" になるでしょう ) こそが、彼にテロ行為未遂へと突き動かしたといえるでしょう。

 

b.   その誇りによって構成されるトラーの宗教的主体性を抹消するものこそ、メアリーへの愛です。トラーは自爆テロを止めた時、彼の宗教的主体性を保証する神への愛という普遍的な物を捨て、悩み深き未亡人であるメアリーへの個人的な愛に走った。これこそが、彼の罪、すなわち、神への裏切り、です。だからこそ、トラーは自分を許さず、自分に怒り ( 有刺鉄線を巻き付ける際、トラーの表情から明らかに読み取れる感情 )、自殺しようとした訳です。

 

c.   おそらく、ここまではどれほど過激に思えても、従来のシュレイダー路線の枠内に収まるものです。男の暴力的行動は、シュレイダーの作品の中では予定調和的なものに過ぎません。真に過激なのは、様子を伺いに来たメアリーの姿を目の当たりにしたトラーの振舞いです。

 

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d.   トラーは自殺を止めて、メアリーと抱き合い、キスするのですね。このトラーの振舞いの意味は、 彼のアイデンティティーである宗教的主体性を捨てて、メアリーを愛する 普通の男 になった、つまり、イデオロギーに拘る余り、孤独に陥ることよりも、他人 ( メアリー ) と愛し合い、共存する生き方を選んだ、という事なのです。

 

e.   これは、一見すると、平凡な選択なのですが、シュレイダーのこれまでの路線からすると、ひとつの変化だといえます。というのも、シュレイダーが描く男とは、親密な女性から介入されても、自らの生き方を変えることはしない、その延長上で、復讐や暴力などに関わる極端な存在として異彩を放ってきたわけです。しかし、そのような紋切型を自ら捨てるかのように、自殺を止めて女性と愛を確かめ合う描写をラストに持ってくるのは、シュレーダーの晩年において他者との関わり方について彼なりに考える事があったのだろうと推測出来ますね。

 

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ジャック・カーディフの映画『 あの胸にもういちど 』( 1968 )を哲学的に考える

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監督 ジャック・カーディフ

公開 1968年

 

原作 アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ

出演 マリアンヌ・フェイスフル    ( レベッカ )

   アラン・ドロン         ( ダニエル )

   ロジャーマットン        ( レイモンド )

  

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 あの胸にもういちど 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。

 

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 1.   原作と映画の乖離

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a.   マンディアルグの『 オートバイ 』を原作とする映画『 あの胸にもういちど 』の基本的モチーフ、レベッカがハーレー・ダヴィッドソンでダニエルで会いに行くという余りにも単調なストーリーは、その分かりやすさ故に、原作と映画の乖離を明らかにするものとして機能しています。しかし、そもそも、ここでマンディアルグの原作を持ち出さなくとも、マリアンヌ・フェイスフルの若かりし姿が見れる映画自体をカルト的に楽しめばいいのではないか、と思う人もいるでしょう。たしかに、その通りなのですが、そうしようにも、この映画のひねりのない単純過ぎるストーリーは、マリアンヌ・フェイスフルとアラン・ドロンの存在感に頼るしかないという機能不全によって逆に "不自然さ" を醸し出しているのです。

 

 

b.   この "不自然さ" について考えようとすると、マンディアルグの原作を参照する必要性が出てくる訳です。マンディアルグの原作タイトルは『 オートバイ 』というシンプルなものであり、そこに男女の不倫関係を匂わせるものはありません。しかし、このタイトルこそが事の本質を物語っています。

 

 

c.   先程、原作と映画の乖離という言い方をしましたが、内容的には、実は、それ程、差異はないのです。むしろ、映画はある程度、原作に忠実であろうとしています。では、何によって、原作と映画の乖離が発生してしまっているかというと、原作における描写手法だ、といえるでしょう。マンディアルグの『 オートバイ 』を読んだ人ならば分ると思いますが、彼はストーリーを、登場人物のセリフ、人物や背景の描写、などの構成要素をバランスよく用いて滑らかに進めるわけではありません。むしろ、時間の流れに抵抗するかのように、ゆっくりと世界を微細に深めていくのです。

 

 

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 2. 耽美性、あるいは享楽する時間

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a.   ここで、マンディアルグ三島由紀夫谷崎潤一郎の愛好家である耽美派作家であったことを思い起こしましょう。彼らの文体的特徴として、美、エロティシズム、幻想性、などが挙げられたりしますが、その文体の執拗な連続性の蓄積こそがストーリーを動かす原動力となっている のです。ストーリーを適切に進めるために耽美的文体を効果的に用いてるのではなく、耽美的文体の蓄積でしか前に進めない という事なのです。

 

 

b.   この耽美的文体は、人によっては退屈に感じることもあるでしょうが、実は、このことは、マンディアルグらの耽美性がいかなるものであるのかを明らかにしてくれるのです。退屈に感じさせるものとは、前に読み進めない事、いや、もっと適切に言うなら、その場面に出来る限り留まらせようとする詳細な描写の連続、に他ならないという事です。ここにこそマンディアルグらのエロティシズムの隠れた本質があると考えるべきです。通常、考えられるように、何らかの対象について快楽を煽るような描写がなされるからエロティックなのではなく、執拗な場面描写によって、読者にその場面を可能な限り享楽させようとする事に作家的欲望が注ぎ込まれている のがエロティックだという訳です。

 

 

c.   だから『 オートバイ 』というタイトルにも関わらず、小説にはあまり疾走感がない、いや、それどころか、原付を運転してるのかと思わせるくらい、読者に前に進ませない ( あまりに細かい描写がスピード感を削いでしまっている )。ならば、なぜマンディアルグは『 オートバイ 』というタイトルを付けたのでしょう。ヒロインのレベッカがダニエルに会うために、フランスのアグノーからドイツのハイデルベルクまで駆けつけるにも関わらず、そこにバイクの疾走感が抜け落ちているのなら、マンディアルグにとって "オートバイ" とは一体何を意味するのでしょう。

 

 

d.   ここで避けたいのは、オートバイが性的なものの象徴、それも男性的なものの象徴、という単純な解釈です ( たとえ、マンディアルグがそう考えていたとしても )。その解釈は原作から隔たった映画『 あの胸にもういちど 』にこそ相応しい。端的に言うなら、原作におけるオートバイとは、2. で述べた、ある場面を出来るだけ享楽させようとする執拗な描写文体という手法 の象徴だと解釈すべきなのです。

 

 

e.   そして、それが 時間の進行への抵抗という現象 へ至るのだとするならば、その現象を具現化するための設定こそ、アグノーからハイデルベルクまでの "長距離" に他なりません。この距離は、レベッカが愛するダニエルに会いたいが為に乗り越える空間的障壁に留まるものではありません ( 原作においてはという条件付きで )。これはマンディアルグによる 執拗かつ耽美的描写の蓄積作業の末に引き起こされる時間遅延効果の具現化 のための準備でもあるのです。

 

 

f.   分かりやすくいうなら、マンディアルグは、レベッカとダニエルの関係を実ることのない悲劇などというメロドラマに仕立てようとかこれっぽっちも思っていないのです。つまり、マンディアルグレベッカとダニエルの人間関係には大して興味がない、彼が本当に興味あるのは、レベッカとダニエルの間にある 永遠の距離 であり、停止した時間 であり、そこに留まるための 耽美的描写の実践 だ、という事です

 

 

g.   ならば、マンディアルグにとってオートバイが何を意味するのか、今一度、細かく考えて見ましょう。レベッカとダニエルの傍らにあり、彼らの関係の補助的な役割をしているものの、オートバイは彼らの "手前にある存在" であるという意味で、人間主体の世界に没入する事を止揚する "耽美的な物" である と解釈出来るでしょう。そのような "物" を媒介にして描写することで、人間主体を、内面ではなく、表面を物のように捕らえて執拗な耽美的描写を施す 事が可能になるのです。

 

 

h.   ただし、付け加えておかなければならないのは、そのような "物" は、美的であると同時に、人間主体に対して "無感情・無関心" であるが故に、"残酷さ" を触発することにもなります。原作の最後でレベッカは、オートバイの運転中に交通事故で亡くなってしまいます。このことは 耽美性が、"人間の死" ですら、実存論的カテゴリーから抜き取り、"物" として美的描写の中に収めてしまう残酷性に至る ことを示しているのです

 

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■   "時間への抵抗" という意味での "時間の停止" の別名こそ "永遠" に他ならないのですが、これを具現したのが三島由紀夫の『 豊饒の海 』。この作品は、よく "転生" という言葉で語られることが多い ( 三島自身もそう言っている ) のですが、それだと未だ人間主体中心の物語でしかない。おそらく、三島が目指したのは、限りある人生を超えて人間が転生によって永遠に生きるというような人間中心的モチーフではなく、転生する人間主体によって具現化される "永遠性" こそが最大の関心事であるという耽美的モチーフだという事です。 ここでは "美" 以外の人間感情には無関心であるが故の冷酷さが現れている。

 

 

   これの極端な例が、"作家として" の、つまり、牢獄期のマルキ・ド・サド に他なりません。彼は自分の快楽趣向を、小説という形式を媒介にしてひとつの耽美性にまで高めたのですが、そこに登場するのは人間的尊厳を剥ぎ取られた "物" であり、それはサドの耽美性における残酷さの犠牲として描かれるしかなかったのですね。

 

   哲学的に考えるならば、ここには過激なカント主義が現れているといえるでしょう。カントは『 判断力批判 』で美的判断における 無関心性 という概念を挙げています。これは通常、美以外の実用性や道徳性に対する無関心性の事として理解されますが、サドは違います。彼は美的対象から触発されて耽美性を追求するのではなく、女性の主体性に 無関心 であるが故に、女性を性的な とみなし、そこに自らの耽美性を刻み付けるのです。つまり、女性という 対象それ自体 において、その主体性を無視した結果、それを の位置に引き下げているという事であり、サドはカントの理論を "強力に" 実践しているといえるのです。

 

   この場合、"強力" というのは、標準的カント理論のように、美が対象物に内属するものではなく、対象物を表面的に扱う事、つまり、物として、そこに耽美性を刻み付けなければならないという、美的判断の裏に潜む 定言命法 ( 美を味わなければならない ) がサドによって彼の欲求を満たすように実践されているという事です。ここからラカンの『 カントとサド 』へ至るのはそう遠くないでしょう。

 

 

   このサドの 無関心性 について、フランスの作家モーリス・ブランショは次のように言っています。

おのれの形成を説明する目的で、サドは、無感動 ( アパティ ) という古めかしい名前をみずから付したきわめて奇妙な概念に助けを求めている。無感動 ( アパティ ) とは、主権者であることを選んだ人間に適用されたばあいの否定の精神である。

ロートレアモンとサドモーリス・ブランショ 小浜俊郎・訳 国文社 p218.

 

残酷さとは、破壊的爆発にまで形が変わるほど極端にまで推し進められた自己否定にほかならないし、サドが言うように、無感覚は全存在で震動し、また "魂が移行する一種の無感動 ( アパティ ) は、弱さによって獲得されるかもしれぬ快楽より何千倍も神聖な快楽にすぐ変貌する" のだ。

ロートレアモンとサドモーリス・ブランショ 小浜俊郎・訳 国文社 p220.

 

 

■   最近では、雑誌kotoba 』2020 Spring Issue No. 39  "悪の研究" 特集 にて、フランス文学研究者の中条省平 "悪魔の影の下に ― サドにおける悪" を寄稿していて、サドの無感動 ( アパティア ) について語っています。

 

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 3.   原作から映画の方へ

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a.   遠回りしましたが、ここから映画『 あの胸にもういちど 』の方に話を戻しましょう。この映画の何のひねりもないストーリーは、若かりしマリアンヌ・フェイスフルがレザーのつなぎを着てオートバイに乗る姿それのみによって、かろうじてその体裁を保っているといえますね。しかし、それは仕方のないことです。ジャック・カーディフがいかに原作に忠実であろうとしても、時間の流れに抵抗する執拗な描写文体を再現するのは困難なのですから。

 

 

b.   ここで確認しておきたいのは、それが、原作から乖離したこの映画の価値を貶めるものではないという事です。それどころか、原作と映画の双方向的関係によって、原作はその形式的属性を脱ぎ捨て、映画という異なる媒体において生まれ変わり持続していくのです。そして、この映画の面白い所は、ジャック・カーディフマンディアルグの耽美性をどのように再現するか苦心している事です。その場面に出来るだけ滞留しようとする耽美性が映像の進行と齟齬をきたすものであるならば、どう表現するのか、それについて考えていきましょう。


 

c.   原作には、レベッカがオートバイでスピードを出している最中にトリップ状態に陥る場面があります。少し長いですが、引用しておきます。

そこで若い女は、ほかの運転手たちに比べて非常な猛スピードで前進したため、やがて連中の車は、彼女の目に、まるで書き割りの一部みたいな、森林地帯の自動車道路を縁どる樅や山毛欅の並み木の前に停車しているのとかわらないような姿に映るのだった。両側の境界の無気味な接近感にも間もなく馴れた、それは超スピードの愛好者ならだれでも経験している強烈な快感を、いずれにせよ強烈な印象を生みだす空間の異様な縮小感であり、逆に、ハシッシュやコカインの作用下で、空間の拡大感が麻薬服用者にいだかせる例の感覚に引けを取らないものである。いまや世界には一つの次元しかなく、それは彼女が目くるめく思いでたぐり寄せ、アクセル・グリップを速度の限界に保つことによって、その厚みを背後へ投げ捨てていく、一本の線にまで縮まるのだった。

アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ『 オートバイ生田 耕作・訳 白水Uブックス p54.

 

 

d.   運転中のレベッカのトリップ状態、カーディフはこれをサイケデリックな色彩処理を施すことで表し、運転シーンのみならず、他のシーンでも使用することで、マンディアルグ 耽美的文体の代補物 としてしまったのです。ただし、運転シーン以外の使用によって、原作におけるスピードによるトリップ状態というそもそもの描写が薄められ、多くの人には唐突なサイケデリック処理だと受け取られたはずです。

 

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e.   通常ならば、このようなサイケデリック処理がマンディアルグの耽美的文体の代わりになるはずもないと思われるかもしれません。そこにあるのは、ひとつのポップカルチャー的要素で構成されたカルト映画でしかないのですから。オートバイに跨るマリアンヌ・フェイスフル、アラン・ドロン、耽美性を補うサイケデリックな映像・・・これらの要素が原作とは異なる作品を生み出すことを想像するのは難しくありません。

 

 

f.   しかし、原作と映画は、別々の方向からひとつの結末に向かって収斂していくのです。すなわち、レベッカの死として現わされる "主体の消滅" です。耽美的文体が最大の効果を発揮するための究極の帰結は、主体の死でしょう。主体が生きている限り、物語の進行が止まらないのなら、主体を殺すしかないという事です。

 

 

g.   一方、1960、70年代以降のポップカルチャーの傍ら ( 傍らであって帰結ではない ) においては、主体に死の影が付きまとっていた ( 例えば、ローリング・ストーンズブライアン・ジョーンズジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリン、など ) 。眩いばかりのサイケデリックなものには影があり、その影を担うのは人間主体以外にはあり得ないという事ですね。

 

 

h.   サイケデリック映像と若干のメロドラマ、原作とは違う方法でレベッカの死に至るわけですが、ここにマリアンヌ・フェイスフルとアラン・ドロンの存在感が加わることによって、この映画はカルト的なものになってるといえるでしょう。特に1960年後半までのマリアンヌ・フェイスフルはポップ・アイコンとして注目を浴び、ミック・ジャガーと付き合っていた ( 不倫でしたけど ) ことは今でも語られるくらいですからね。そんな彼女が映画の最後で役柄とはいえ亡くなるのは、以後の紆余曲折の人生を予感させるものとして、興味深いです。

 

 

i.   ここでは、マンデイアルグの耽美主義が、マリアンヌ・フェイスフルというアイコンを媒介にして、ポップカルチャーに接続されていく様が映画を舞台にして現れているといえるでしょう。いや、正確に言うなら、少数者にとってのマンディアルグの文学的崇高さは、消滅するのと引き換えに大衆の中に別の形式で浸透していったのです。『 オートバイ 』の翻訳者である生田耕作も、原作の中の大衆的な物の要素を感じて、あとがきで次のように言っています。

 

 

週刊誌『 エクスプレス 』の記事によれば、目下、パリでは、若者たちのあいだにオートバイが大流行だという。ホンダ、ハーレー・ダヴィドソン、ノートン、グッツイといった、耳なれぬ名の外国製品が国産車をはるかに圧倒して人気を集めているのも、ひとつの特徴らしい。

『 オートバイ 』訳者あとがき p209.

 

ところで、この現代パリ風俗の新しい風潮の源泉として、スチーヴ・マックイーン主演のアメリカ映画『 大脱走 』と、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの近作小説『 オートバイ 』の影響が指摘されているのがおもしろい。ハリウッド映画とカミナリ族の結びつきは無理のない取り合わせとしても、マンディアルグが現代フランス文壇において占める位置を知る者にとっては、後者の組み合わせは、奇異の感をいだかせずにはおかないからだ。けだし、マンディアルグは、今日まで、およそ時流から隔絶した高踏的な文学者として受け取られてきたからである。そのため、一部文学通のあいだでは、現代フランス最高の作家の一人として、つとに最大級の評価をあたえられ、小説・評論・詩の広い分野にわたる、その特異な作品群は、少数の熱烈な讃美者を一方に維持する反面、《 大衆 》とは程遠い、《 反動的 》存在として、一般文壇からは強い反感をもって冷遇されてきた。

『 オートバイ 』訳者あとがき p209 ~ 210.

 

 

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■   ミック・ジャガーということでいえば、映画『 メイド・イン・USA 』 ( 1967 ) でマリアンヌ・フェイスフルを登場させたジャン・リュック・ゴダールは『 ワン・プラス・ワン 』( 1969 ) でローリング・ストーンズのレコーディング風景 ( 『 ベガーズ・バンケット 』のレコーディング ) を映している。そこにはレコーディングの約1年後に死亡したブライアン・ジョーンズの姿も見られる。

 

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  4.   映画から原作の方へ

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a.   最後に、映画と原作のラストについて考えてみます。ジャック・カーディフはラストの場面で、それまで用いてきたサイケデリックな映像に頼らずに、原作の世界を再現しようとします。ダニエルとのエロティックな場面を回想して恍惚状態となる運転中のレベッカが事故に至る流れを、原作よりも効果的に演出する事に最後に成功したといえるでしょう。

 

 

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b.   その点においては、原作のラストは少々分かりにくいのです。運転中のレベッカの回想が、例によってマンディアルグの執拗な描写によって、それが運転中のことなのか、回想なのか、はっきりしないという事です。両方とも冗長に描かれているので。ただし、マンディアルグにとっては、それは大した問題ではないといえるでしょう。彼にとっては耽美的描写を積み重ねることが関心事なのですから。なので、ここで大切なのは、映画の再現性が原作を別の角度から楽しむための契機となっている、もっと哲学的に言うなら、映画という事後構築物が、原作という先行物を上手く理解するための 反省性 を与えてくれる、という事です。これによって原作をより現在的に楽しむ事が出来る、つまり、関連する文壇的教養やアカデミックな教養などがなくとも、マンディアルグの原作はそれ自体で十分に楽しめるのを 知らなけれなならない という事です。そうしなければ、マンディアルグに限らず、過去の作品は、その当時の布置に閉じ込められたままだと現代で顧みられることは増々なくなっていくでしょう、残念なことに。

 

 

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■   これを理論的に考えたのが、以下の記事。特に〈 2.   原作を必要とする映画、そしてその逆も・・・ 〉を参照。そこでは哲学者ヴァルター・ベンヤミンの『 複製技術時代の芸術 』における オリジナルと複製品 の関係性、『 翻訳者の使命 』における 原作と翻訳 の関係性、を参考に移行媒体の視点から 映画と原作 の関係性について考えています。

 

 

■   映画から原作に向かう事の知的刺激について書いた記事がこちら。B級映画監督のグァルティエロ・ヤコペッティとフランスの啓蒙思想ヴォルテールの組み合わせについて考えています。

 

 

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池上遼一の講演録『 劇画家・池上遼一ができるまで 』を読む

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  小学館の漫画家本 vol. 12 『 池上遼一本 』は、池上遼一の漫画家人生が凝縮された読み応えのある本でしたね。池上氏のメジャー作品 ( 例えば、有名な所で『 サンクチュアリ 』、『 HEAT ー灼熱ー 』など ) にしか興味のない方は結構いる ( 残念なことに ) かとは思われますが、数々の傑作の裏側にある氏の人生遍歴を知ることは、氏の作品を別の角度から楽しませてくれるきっかけとなるのではないかと思いますね。

 

 

   特に、本書冒頭の、池上遼一のファンだという高橋留美子インタビュー『 私は、池上先生の、おっかけでした 』と池上氏自身へのインタビュー『 "暗さ" との戦いだった 』は、池上氏が、世間が認める劇画作家としての池上遼一になる以前の、マイナーな存在だった池上氏の歩みに焦点が当てられていて、興味深いものがありました。知らないことが結構、書かれてましたからね

 

 

   僕自身の池上作品の体験は、小学生の頃に、立ち読みした週刊サンデーに掲載されていた「 男大空 」でした。当時はジャッキー・チェンの初期のカンフー映画が流行っていたこともあり、主人公の祭俵太が神骨拳法を会得する一方で、敵である鬼堂凱も対抗して暗黒拳法を会得して戦うという物語の後半の設定にすんなりと入っていけました。そして、何よりも衝撃的だったのが、その格好良すぎる劇画タッチで、虜になってしまいましたね。当時は、そんな "クセ" になるようなタッチの漫画が結構あって、僕にとっては良い意味でのトラウマになった訳です。

 

 

   例えば、週刊ジャンプで連載されていた車田正美のボクシング漫画『 リングにかけろ 』。見開き1ページを使い、剣崎順のギャラクティカマグナムによって、相手がローマ字の衝撃音と共に吹っ飛んでいくという贅沢な作画 ( 今ではあり得ないでしょうね )。同じくジャンプで連載が始まった鳥山明の『 Dr. スランプ 』の目新しい細かすぎる書き込み ( それは池上氏の劇画タッチの対極にあるかのような "カワイイ" タッチでした )。いずれも、僕だけじゃなく、友達の間でも、ずいぶん話題になりました。

 

 

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   例えば、氏がデビュー前、大阪にいた頃、共産党の民主青年同盟に入っていて、当時の学生運動の影響を受けていた事とか、安部公房遠藤周作大藪春彦山田風太郎、などの読書体験をしていた事、など。

 

( 池上 ) そうだね。学生運動も勢いがあったし、若い人たちが無意識のうちに、そういう思想や哲学的なものを求めていた。必要としていた時代だよね。

 

( インタビュアー ) 池上さんって、そういう、時代の風に当たったってことは、すごく良かったと思いますね。

 

( 池上 ) そうだね。あ、忘れてた。「 ゲーテ読め 」と、常に水木先生 が仰ってたこと。とにかく。兵隊に行ったときにゲーテを持って行った人だから

 

池上遼一本 』p 37.

 

 

   『 ゲゲゲの鬼太郎 』などの作者、水木しげるのこと。池上遼一水木しげるのアシスタントをしていた。その頃のことは、本書でもよく語られているのですが、面白いのは、本書には、その水木しげるが、池上遼一がアシスタント時代のことを描いた『 漫画狂の詩 =池上遼一伝= 』( 週刊少年サンデー 1975年6月20日臨時増刊号掲載分 ) が収録されていること。水木氏の池上氏への愛情が何気なく描かれていて、そのような日常を描き出すのに、水木氏の作風ほど秀逸なものはないなと改めて思わされます。

 

 


   正確には、ゲーテの著作ではなく、ゲーテとも交流のあったドイツの作家 ヨハン・ペーター・エッカーマンの『 ゲーテとの対話 』。そこから選んだ箴言で構成した水木の最後の著書が『 ゲゲゲのゲーテ双葉新書 2015年。そんなゲーテについても語った生前最後の水木のインタビューはこちら。

 

 

 

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  『 池上遼一本 』の中でも、氏の遍歴を知る上で、おすすめなのが〈 池上遼一 講演録「 劇画家・池上遼一ができるまで 」〉です。池上遼一の原画展「 極 ( きわみ ) 池上遼一展 」( 2019年 7/1~9/5 ) が氏の故郷・福井県越前市で開催されている中で行われた ( 2019年8月10日 ) もの。本人が語っているだけあって、面白い上に、上手く纏まっています。詳しくは本書を読んで頂きたいのですが、興味を持ってもらうために少し、紹介しておきましょう。

 

講演録は18の章立てになっています。

 

 

 劇作家・池上遼一ができるまで

" まあ、人に限らず、地球上の生きとし生けるものは、何ていうのか、時代とか場所、親を選ぶことはできませんよね。ポコンと生まれてきたところが、その子にとっての世界であって現実なわけでね。当たり前のことなんですけど。この年になると、その偶然性というか、不思議さを、しみじみと感じることがあるんです。"

 

 

 子供時代の楽しい思い出といえば

" 将来は自分も漫画家になりたいなんて、小学5、6年生のころには、もう考えてました。中学1年生のとき、父が病気で入退院を繰り返すようになり、実質、母子家庭みたいなものでした。姉二人に妹一人。高校へは行きたかったんですけども、子供ながら進学は無理だなあ、と職業コースに入って。当時はクラスの三分の一くらいは中卒で就職したもんです。だから別に、それ自体に気持ちが落ち込むことはなかったです。"

 

 

 漫画家になれば家が建つ

" 少年雑誌の編集後記のところにね、漫画家になってヒット作を一本出せば風呂付の家が建ちますっていうのが書いてあったんですよ。さらに、学歴関係なしってね。それが唯一僕の希望だった。"

 

 

 大阪の看板屋に就職

" とにかく、さいとう先生に絵をみてもらいたくてしょうがない。そのためには描かなきゃいけないと思って、看板屋さんに勤めながらね、休みは日曜1日しかなかったんですけど、休みの日と、仕事が終わって、みんながパチンコとか、酒を飲みにいったりとか、なんかそうしてる夜中にね、ミカン箱を机代わりにして描きました。夜、みんなが寝てるときは、毛布をかぶってね、明かりが外に漏れないようにして描いていた。"

 

 

 そして第一回目の壁が

" 結局ね、漫画家になりたいと思って一生懸命描いても、食えない。雑誌に投稿するんだけど、なしのつぶて。もう、絶望的な気持ちになった。"

 

 

 これが最後の挑戦だと思い・・・・・・

" 当時は僕ね、小説っていうのは大藪春彦くらいしか読んでなかった。あと、山田風太郎とか。ああいうエンターテイメント色の濃いものしか読んでなかった。純文学は全然読んでなかったから、つげ先生の芸術性なんてまったく理解できなかった。で、隣にいた同僚がね、「 こんなんだったら、お前も描けるんじゃないの。お前の方が、上手いんじゃないないの 」なんて言われましてね、それもそうかなと思ってね。それで、これが最後の挑戦だと思って奮起し、描いて出したら、それがたまたま「 ガロ 」の新人賞に入選したんですよ。"

 

 

 水木プロでの日々

" 先生の原稿、点描が多いですよね。ご存じの方もいらっしゃると思うんだけど、一番簡単なんですよ。誰でもやれる。要するに、ただペンに墨汁をつけて点々点々と写真を見ながら陰影を合わせていけばいいわけですね。それがね、僕にとっては地獄なんですよ。これはね、もう睡魔との戦い。もう寝ちゃうんですね。あるとき、先生が、「 君は寝てばかりいるなあ・・・・・・」って。「 池上氏は絵がうまいから、こっちのほうやってよ 」って、違うのを描かしていただけるようになったんです。"

 

 

 暗いものやってるから頼むんだ

" その辺でね、僕が、それで少し自分の暗さを払拭できたかなと思ったときに、講談社から『 スパイダーマン 』の仕事が来るんですね。「 ガロ 」描いてるときに、つげ義春さんと出会ったことによって、文学にめざめてたんですよ。特に純文学。大阪時代なんて一切読んでなかった純文学を好きになっちゃって、読んでました。大江健三郎とか、開高健とかね。最終的には救いがないんですよ、暗い、突き放したような終わり方。それが好きで、世の中の現実ってこんなもんだろうって、努力したってダメなやつはダメなんだから、みたいな、ウソは描きたくない、そんな気持ちがあったんです。だから『 スパイダーマン 』の依頼が来たときに、僕は生意気に断ったんですよ。喫茶店でコーヒーを飲みながら、「 池上君、違うんだよ。これはね、池上君だから頼むんだよ。池上君が暗いものやってるから頼むんだ。スパイダーマンは悩めるヒーローなんだ。君が思ってるようなスーパーヒーローじゃない。」って言われて、「 ああそうなんですか 」って。それで、お引き受けしたんですね。"

 

 

 小池先生の教えられたこと

" それまで、小池先生にはエンターテイメントの構成のやり方だとか、演出方法とか、見せ方とか、いろんなものを教えていただいた。小池先生っていうのはもともと、さいとう先生の『 ゴルゴ13 』の脚本を書いてらっしゃった人だからエンターテイメント性の高い劇画を熟知してらっしゃるんですね。最初の脚本、僕が初めて先生と組んだ時にはね、扉一考とかね、扉絵は、こういう絵、ここは見開きに、ここはクワッと叫ぶようにとか、いちいち書いてある。そうするとわかりやすいんです、新人でもね。慣れてくると、一切そういうのはナシになるんですけど、慣れるまでそうやって育ててくれました。"

 

 

 ブコメという "壁"

" ・・・第三の壁。僕ら劇作家にとって想像もしなかった壁が現れた。高橋留美子先生。ラブコメなんです、ラブコメディー。"

 

" だからその頃の僕は『 I・餓男 』のときみたいに、痩せた体格、筋肉質な男というより、もっとムキムキのね、要するに時代が飽食の時代だから、いっぱい食ってるだろうと思って、ものすごくいい体格を描き始めてたんだけども、イマイチ人気が出ないそうするうち、さっき言った高橋留美子先生のラブコメ。若い男の子と女の子の軽い恋愛をからめたファンタジーなコメディーが、爆発的な人気を得るようになった。"

 

" でも、その経験から、時代が変化する中で、あまり若い才能に合わせて、年取った作家がそれを真似をしたりなんかしてもね、結局は、バカにされるだけだと痛感しました。"

 

 

 さらに大きな壁が

" 次に、史村翔先生とのタッグでの『 サンクチュアリ 』。これはもう、僕の中では最高傑作だと思っています。売れ行きもすごくよかった。しかし、そこに第四の壁が現れたんですね。

 これが、大友克洋先生です。『 AKIRA 』って大作を引っ提げて現れたんです。フランスのコミック「 バンドテシネ 」の巨匠・メビウスのファンタジックな作風っていうんですかね、独特の世界観を持ってらっしゃった作家さんなんですが、そのメビウスの影響を受けたと思われる大友先生の作品、『 AKIRA 』の前の『 ショート・ピース 』などもそうなんだけど、僕なんかが描いてきた劇画の泥臭さと違って、知的なんですよ。"

 

" その、大友先生の影響を受けて、その後、多くの人が人気を獲得していく。完全にコミック界のベクトルが変わってきました。もう、劇画っていうのは隅っこのほうにあるっていう感じかな。やはり、時代の流れっていうんですかね、その頃、ハリウッドで『 ブレードランナー 』という映画があって、あれも近未来を舞台にした映画でしたね。バブル期で飽食の時代だったけど、なんとなく、そんな明るい未来を想像できない気配があったのかもしれないですね。"

 

 

 今がもう霧のようなものの中を

" それでまあ、現在に至ってるるんですけど、この仕事をやってる間はね、やっぱり常に壁は忍び寄ってくる。要するに、若いうちは今の空気を吸ってますからね、何が流行とか、何を求められているとか、別に意識しなくても自分の感性で描けるんですよ。僕みたいに長くやってると、だんだん若い人たちが何を考えてるかわかんなくなるんです。そうすると分析するんです。流行の本を読んだりとか。でも、分析しても、分析で終わっちゃう。うまくいかないんです。"

 

" 僕はもう75歳です。そんなのがね、20歳くらいの読者に相手にされるわけがないんです。"

 

" だから、僕なんかが面白いと思って描いても、読者が、なかなかついてこないっていうか、くらいついてこないというところがあってね、すごく今でも苦しんでるんだけど、それはもう霧のようなものですよ。"

 

 

 小学校の先生看板屋の大将

" 振り返ってみるとね、僕は、中卒でね、いろんな専門的な勉強は何もしてません。でも何とかこうしてね、生き延びていられるのはね、漫画の世界で、いろんな人との出会いがあったからなんです。その人達がさりげなくしゃべったひと言とか、書かれた文章の中の一節とか、それらを記憶に溜めて、自分の糧にしてきたような気がするんです。"

 

 

 人生は屁のようなもの

" ・・・( 水木 ) 先生から教わったのは、先生がね、60歳の頃かな、『 幸福論 』っていうエッセイを書かれて、その中に、「 人生は屁のようなもの 」っていう言葉を見つけたんです。"

 

" 考えれば考えるほど、含蓄があるんですよね。何かこう、宇宙の永遠の時の流れの中、ほんの瞬間を人間は生かされてるわけですよね。人生は一瞬の匂いのようなものであって、だからこそ人間は真摯に生きなければいけないよっていうようなことを言ってるのかなあと、僕は解釈したんです。"

 

 

 天下とっても二合半

" ・・・小池先生曰く、「 起きて半畳寝て一畳、天下とっても二合半 」。これは人間が生きる本当の基本というかね、欲を出さなければそれで人間は生きられるんだよ、ということらしいんです。"

 

" ところがね、あの先生はそう言いながら、『 子連れ狼 』が大ヒットして、すごくお金が入ると、秘書に運転させてロールスロイスを乗り回してましたけどね ( 笑 )。まあね、人間ってそういうもんですよね。僕なんか欲のかたまりですからね、そういう生き方はできませんけど、まあ、すばらしいじゃないですか。"

 

 

 大衆は豚だ!

" その次が、雁屋哲先生です。この先生は、過激なんですね。「 大衆は豚だ! 」っていうんです。これは『 男組 』の中で神竜剛次っていうキャラがいるんだけど、彼はすごい権力を持った影の総理と言われる男の息子で、高校を、不良を使って支配していましてね。その抵抗しない無力な生徒達に向かって、「 大衆は豚だ 」って叫ぶんです。"

 

" あ、この間ね、ここの展示会をやるためにね、『 男組 』の原画の展示の件で、雁屋先生に、許可していただけますかってメールを送ったら、先生が喜んじゃって、「 どう使っていただいても結構。久しぶりだから飲もうよ 」って。それで二か月ほど前に一緒に食事をしたんですよ。で、今の話をしたら、「 いや、俺、今も変わっていないよ 」って。神竜の言うとおりなんだよって ( 笑 )。"

 

 

 70歳過ぎたら何が起こっても

" その後、何年か後に、同業者の漫画家の方が、70歳前に亡くなって、そのお通夜のときに工藤先生もみえられていて、ポツリと、「 70歳過ぎたら何が起こっても不思議じゃないよね 」とか言うんですよ。その顔見たら、涼しげな顔をしてるんですよ。なるほどなあと、やっぱり、『 信長 』を書いた人だなと。「 是非もなし 」って言葉をうまく書いた人だなと思って。"

 

 

 200年は生きられないっす

" 何故かというと、『 サンクチュアリ 』は、内容がね、王道というか、建設的なんですね。ところが、『 HEAT - 灼熱 - 』の場合、主人公は "横道" なんです。俺はまっすぐじゃなくて横だよっていう。この考え方が、「 人間、200年は生きられないっすよ 」っていう、なんか冷めた言葉となって表現される。これでね、史村先生を見直したんです。先生は、上に上がる、そういう上昇志向だけの人かなあと思ってた。じゃないんだね。もう少し人生を客観的に見ていて、さっきの水木先生の話じゃないけど、「 人生は屁のようなもの 」みたいな、ああいう考えもできる、幅の広い方だなという認識をを抱いた、そういうことなんです。"

 

" で、最後になりますけど、これはね、僕がお会いした人ではありません。ドイツの方らしいんですけど、マルティン・ルター、ご存じですか? この人が残した言葉で、「 たとえ明日、世界が滅びようとも、私は今日、リンゴの木を植える 」。この言葉、これが僕の今の座右の銘なんです。素晴らしい言葉だなと思って、誰にでも当てはまると思います。「 たとえ明日、世界が滅びようとも、私は今日、リンゴの木を植える 」いいですね。未来ですよね、希望を捨てない。終わりです。"

 

 

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アラン・ロブ=グリエの映画『 快楽の漸進的横滑り 』( 1974 )を哲学的に考える

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監督 : アランロブグリエ

公開 : 1974

 

脚本 : アラン・ロブグリエ

出演 : アニセーアルヴィナ

   オルガ・ジョルジュ=ピコ

   : ジャン・ルイ・トランティニヤン

   : マイケル・ロンズデール

   : イザベル・ユペール

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 快楽の漸進的横滑り 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。

 

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  1. 宙吊りの経験

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a.   『 快楽の漸進的横滑り 』、アラン・ロブ=グリエによるこの難解な映画に対する讃辞は、まさにその解釈不能性ゆえによるものだといえるでしょう。誰も理解出来ないのに、その誰もが讃辞を送る映画、あるいはアラン・ロブ=グリエの諸作品読んだことのある人でも、結局のところ上手く解釈出来ない映画・・・、これらのいわゆる "宙吊りにされるかのような経験" は、彼の小説よりも映画においてこそ最もその効果を発揮しているのかもしれません。

 

 

b.   そのような経験が今、Amazon Prime Video で気軽に出来るというのは、喜ばしいことです 。それは皮肉でも何でもなく、現在ではほとんど見られない作品を観るという経験が皆で共有される事が大切なのです ( 一部のマニアの間でのみ流通している状況とは意味合いが違う )。何十年も前の刺激的な作品が、それが産まれた時代性を内包させながら現在において開示されるというのは、誰をも触発する哲学的出来事なのです ( それが映画に限ったことではないのは言うまでもありませんね )。

 

 

c.   ただし、この記事では、難解だという感想に満足してそこに留まるつもりはありません。誰もがまともな解釈が出来ないというのは、そこに、そう反応させてしまう "何か" があるという事です。もちろん、その "何か" は最初から観客の無ー解釈を目的に作られたわけではなく、アラン・ロブ=グリエが自分の手法を突き詰めた結果、そうなったものだという事です。だとすると、その "何か" は依然として解釈を、わたしたちの思考に対して要請していると哲学的に考えることが出来る訳です。以下では、その要請に応えるべく哲学的解釈を進めていきましょう。

 

 

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2020年2月現在。『 快楽の漸進的横滑り 』以外にも、『 不滅の女 』( 1963 )、『 ヨーロッパ横断特急 』( 1966 )、『 嘘をつく男 』( 1968 )、『 エデン、その後 』( 1971 )、『 囚われの美女 』( 1983 )、など。これらのラインナップが Prime Video に上がった時、驚きを覚えたのは僕だけではないでしょう。願わくば、それが期間限定的なものではなく、継続的なものであってほしい。

 

 

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  2. 横滑り・・・

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a.   『 快楽の漸進的横滑り 』、この刺激的なタイトルは、まさにそのタイトルだけで既に知的興奮を呼び起こし、作品を補強しているという意味で、ルイス・ブニュエルの『 欲望のあいまいな対象 』に比肩しうるものだといえます。しかし、一体何が横滑りしていくというのか。それを考えることは、同時に、横滑りという概念の意味も明らかにしてくれる事になるでしょう。

 

 

b.   ここで短絡的にタイトル通りに、快楽が横滑りする以外の何物でもないだろうと決め付けるべきではありません。そのような人はまず、果たして、快楽が横滑りすることがどういうことなのか疑問に思うべきです。そうすると、その疑問は、では横滑りとはどういう意味なのかと解釈したくなる方向へ人を誘うことになるはずです。

 

 

c.   ここで次の場面を参照してみます。

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 ノラ ( オルガ・ジュルジュ=ピコ ) 殺人の容疑をかけられたアリス ( アニセー・アルヴィナ ) が刑事 ( ジャン・ルイ・トランティニヤン ) に自分ではないと言い訳する冒頭の場面なのですが、特徴的なのは、1. で真正面を向いたアリスが 2. で右を向く身振りです。このような右方向に視線を送る身振りは、この後、度々、出てきます。そして、この 1. 2. の場面では 4. の浜辺の波の 音が先取り的に流れている 事に気付いた人もいるでしょう。

 

 

 これらの意味を安易に見過ごすべきではありません。本来、4. に収まるべき音が、ずれて先取り的に流れているのを、1.2. でのアリスの右に向く身振りが示しているという事なのですが、これは、この映画の構成軸である 右方向への横滑り という運動が既に始まっていると解釈出来るものなのです。

 

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 そして、この横滑りの運動を象徴しているものが浜辺の波 ( 4.8. ) なのですが、浜辺という地表をなぞり滑るようにして横に連なる波に "横滑り" というタイトルの起源を見出すことが出来すね。しかし、それ以上に重要なのが、波の 寄せては引くという回帰的特性 です。ここに "横滑り" の概念を重ね合わせるならば、横滑りしたものが、元の場所に回帰して収まるという循環的行程を描く事こそが、アラン・ロブ=グリエの狙いであったといえるのです。

 

 1. ~ 4. でいうと、1.2. にずれこんでいる波の音が、4. において然るべき場所に収まるというような作業が随所に施されていて、最終的には、主人公のアリス自身が、その横滑りによる循環行程の目的地として目指される ように映画は構成されているのですね。

 

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   ルイス・ブニュエルの『 欲望のあいまいな対象 』については以下の当ブログ記事を参照。ちなみに、ラカンマルクス主義哲学者スラヴォイ・ジジェクの著作『 イデオロギーの崇高な対象 』( 1989 ) のタイトルが『 欲望のあいまいな対象 』を捩ったものであることは浅田 彰の教示によって知られていますね ( ジジェクは映画好きで有名 )。『 パララックス・ヴュー 』( 2006 ) なども、アラン・J・パクラの同名映画 ( 1974 ) からタイトルを借用している。

 

 

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   3. アリスのトラウマ

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a.   さて、アリス自身が循環行程の目的地だとするならば、その横滑りが運動を開始する契機とは一体何でしょう。これは横滑りが回帰していく目的地が、舗装された道路のごとく平面の延長上にあるようなものではない事に、まず注意する必要があるという事です。もし、そうであるなら、横滑りはたんなる永久運動として地表の上を滑り続けていくばかりになりますからね。すると、それはもう横滑りしているかどうかさえ分からなくなる。

 

 

b.   それが横滑りの運動であると分かるには、ズレ始めとしての出発点が必要なのであり、それによって、出発点は、ズレが元の場所に収まろうと回帰していく目的地にもなるのです。ここで問題なのは、この出発点が、どのようにして出現するのかということです。ひとつの可能性としては、平面の一部が崩落してある種の欠損状態が部分的に生じ、そこに横滑りの象徴である波の母体である海が流れ込み回帰運動が始まるという解釈です。

 

 

c.   では、なぜ、ここで崩落という設定が必要なのかというと、そこに両足でしっかりと立つ基盤の崩れる影響が人間主体にとってどれほど大きいのか考えなければならない次元が侵入してくるからです。それは、精神分析的意味での "トラウマ" が暗躍する次元なのです。そのような意味で、アラン・ロブ=グリエは、"横滑りの出発点" として、"アリスのトラウマ" を導入しているのですが、ここは少し、わかりにくい部分でもあるので以下の場面を見ていきましょう。

 

 

 最初はノラ殺人を否定していたアリスですが、つい本音が出てしまう場面 ( 9~10. )。殺したのではなく、美しい死体を作ろうとしただけだという異様な論理を持ち出す。

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 アリスが地下牢で自分の殺人行為の契機となったトラウマについて回想する場面。もちろん、これがアリスのトラウマだ、などという説明はないので私たちが注意して解釈する必要があります。14. 大きな声である言葉を言うだけ というのは、23. と 24. のセリフ そして今、愛は滑り落ちる のこと。この "滑り落ちる" という言葉が、横滑りの運動の開始を示しているのは言うまでもありませんね。ここで重要なのが、2. で述べた波の "音" や、アリスが発したセリフの "声"、などが事物や人間主体に属しながらも、そこに収まり切れずに独立したものであるかのような性質を帯びているという事です。つまり、"音と声" は、それ自体において既に事物や人間からずれたものである という意味で、横滑りの象徴だと解釈出来るのです。アラン・ロブ=グリエならば、そこまで考えていても不思議ではないでしょう。

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 パリから来た女性の先生が、他の生徒たちと特別な関係 ( レズビアン ) を結ぶ状況で、先生への一途な自分の思いが高まり、他の生徒に渡したくないという欲望がアリスの中に生まれる。

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 これはアリスの魔女性に焦点をあてた映画ではないので、彼女の そして今、愛は滑り落ちる というセリフに呪文のような力がある訳ではありません。先生は他の生徒と密会中に "偶然に" 崖から落下したに過ぎないのですが、それが自分の呪文によるものだと思い込むほど、アリスの気持ちは強まっていたということです。

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 ここからは解釈をさらに深めなければならないのですが、転落死した先生の死体にアリスはキスをするのですが、様子を見に来た他の生徒たちにそれを見咎められてしまう。このアリスの振舞いをどう解釈すべきなのか、考えていきましょう。

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d.   先生の死体は、生徒たちがあこがれの的だった先生に関わることがもう出来ないという意味で、"生" の快楽が途切れた事を示しているのですが、この条件に当てはまらない生徒が1人います。それが、アリスです。"生" の快楽に囚われた生徒たちが死体を目の前にしてどうすることも出来ないのと違って、アリスはただ1人、皆が手出しできない死体にキスをするという行為によって、自分の独占欲を満たすのです。

 

 

e.   この時、アリスの中の欲望に決定的な変化が起きたといえるでしょう。自分の独占欲を満たすことは、他の生徒たちに対する優越感と結びついていたはずなのですが、キスという行為によって、死体という 現実 との接触が、アリスの欲望を死体という 対象それ自体 へと向かわせる事になったのです。

 

 

f.   今一度、整理すると、それまではアリスの欲望は先生自体へと直接的に向かうものではなく、先生に憧れる生徒たちに対する優越感を得ようとする欲望でしかありませんでした。つまり、アリスにとって先生は欲望の直接的対象ではなく、優越感を得るための媒介物でしかなかったという訳です。

 

 

g.   しかし、キスによる死体との接触が、アリスの欲望に変化をもたらしました。アリスの欲望に 現実の次元 が介入してきたのです、死体にキスしても何の手応えもない "現実" が。この "現実" は、アリスにトラウマをもたらしたはずです。自分の愛がもはや届かずに死体の上を横滑りしていくしかない現実 が、自分の欲望の通路を決定付けていしまう事への "トラウマ" です。対象物 ( 先生 ) をいかに愛そうとも、それはもう届くことはない、いや、それどころか、それは対象物を求めても届かずに横滑りしていくという強制的な形式回路を反復するしかない のです。

 

 

h.   ここで大切な事は、このトラウマが、アリスを苦しめると同時に、彼女の快楽を掻き立てる両義性を帯びているという事です。これについて考えるには、快楽よりも、より精神分析的意味合いの強い "享楽" という用語を持ち出す方がいいかもしれません。横滑りという "形式" は、対象物に自分の愛が届かないという意味でアリスを苦しめるのですが、それ以上に、対象物を求める形式を "反復" する事に歪んだ生き甲斐を求める享楽が彼女の中では勝る のです。

 

 

i.   この "形式の反復" は強迫神経症、または強迫性障害といえるべきものですが、これはアリスがトラウマの経験地点に立ち戻ろうとしているという意味で、c. で述べた波の回帰的特性に重ね合わせる事が出来るでしょう。形式の反復を支える "享楽" は、死を前にしてたじろぐ "生" の快楽などではなく、"死" ですら局所的なひとつの対象にしてしまうという意味で、生物学的生死を超えた人間精神の狂気的産物だといえますね。そのようなトラウマへの回帰が象徴的に示されているのが以下の場面。アリスは転落死した先生の靴を手元に飾っているのです。 

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j.   そして、アリスのトラウマへの横滑り的回帰を決定的に示しているのが、死体が "人形" へと置き換えられている事です。『 快楽の漸進的横滑り 』といえば、真っ先に思い出されることで有名なマネキンの "人形" ですね。

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k.   ここで注意すべきは、アラン・ロブ=グリエは、なぜ人間ではなく、人形を持ち出しているのか、という事です。これをたんに彼の、映画の美的効果を高めるための芸術的趣味だなどとして見過ごしてしまえば、その人は、もう解釈を放棄しているということになるでしょう。人形への置換が示しているのは、アリスが求めているのは "対象" の個別的側面、つまり、それが先生であるとか、ノラであるとか、などという事ではなく、トラウマの契機である、死体として具現化された "抽象的対象" それ自体だ、という事なのです。その "抽象的対象" によって、"形式の反復による享楽" が可能になる 訳です。

 

 

l.   その抽象的対象は、いかなる内的属性からも離れて、ひたすらアリスの強迫神経症的反復行為としての殺人を煽る欲望の対象になっている のですが、間違えてはならないのは、アリスは死体愛好者でもなければ、殺人行為を望む犯罪者でもないという事です。かといって、先に述べた "対象それ自体を望んでいる" と単純に言い切ることも難しいのです。

 

 

m.   というのも彼女が "いかなる意味で" 対象を望んでいるのか、を最終的に考えなければならないからです。重要なのは、彼女がトラウマを解決する、すなわち、死体という対象を通じて自分の歪みと向き合おうとするのか、それとも、形式の反復を享楽するというリビドー経済を維持するために対象を望んでいるのか、という事なのです。

 

 

n.   言うまでもなく、その答えは後者なのですが、そこにはアリスにおける 欲望の無反省性 が現れているといえます。つまり、対象との遭遇が、自身に内的反省を促す知的昇華へ至ることが無い、それどころか、それは、形式の反復を享楽するために必要な盲目的対象としてしか機能していない、という事です。ここでは、トラウマはもはや乗り越えられるべきものではなく、アリスの享楽を維持するための盲目的装置でしかなくなっている。そのままでは、アリスは、自分を享楽することは出来ても、もう知的に昇華させる事は出来ないでしょう。

 

 

o.  ただし、間違っても、人間性が欠落したが故のアリスの悲劇などという結論を引き出すべきではありません。アラン・ロブ=グリエはそこからほど遠い所にいるのですから。彼の手法とは、人間主体は確かにヒューマニズムという内的属性が付きまとう生き物なのですが、その人間主体が生きる世界は、ヒューマニズムで動いているのではなく、それとは違う物的システムとして作動している事 ( この映画でいえば、アリスを支配する強迫神経症的反復行為 ) を、双方の齟齬を通じて明らかにしようとするものなのです。例えば、人間が生きていく上で必要な経済活動が時として、ヒューマニズムに反するものである事を考えれば、それは分かるでしょう。

 

 

p.   アラン・ロブ=グリエは、そのような物的世界の様相を、自身の作品における特殊な形式として抽象化し、人間主体と短絡 ( ショートカット ) させる事によって、世界と人間との間の乗り越えられない乖離 を、不条理的に描き出す事を目的としているといえるでしょう。これについて、奥 純 は次のように言っています。

"言い換えれば、それはすなわち、人間と世界の間には決して越えることのできない溝が存在することを認めることである。ロブ=グリエは、初期に発表されたエセーの中で、「 世界はただそこにあるだけだ 」、「 ものはものであり、人間は人間である 」、「 ものを描写するということは、断固としてものの外側に、ものの正面に自分を位置付けることだ 」、「 人間は世界を見るが、世界は人間に視線を返さない 」などと主張している" 

アラン・ロブ=グリエの小説 』奥 純 関西大学出版部 2000年  p216.

 

 

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ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 4 〉

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 ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 3 〉からの続き

 

 

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   6. ハネケが無意識に考える集団的なもの

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a.   実は、ハネケが集団的なものの謎めいた不特定性を描いたのは『 白いリボン 』が初めてではありません。彼は既に、『 隠された記憶 』( 2005 ) の結末でも、集団的なものの不気味な不特定性を提示しています。学校の出口に溢れる子供たちの集団の左下で、ジョルジュとアンヌの息子であるピエロ ( 黒のリュックを背負った左向きの背が低い子 ) がマジッドの息子 ( Tシャツを着て右向きの背の高い方 ) と立ち話をする箇所が、両親を事件に巻き込んだ犯人の1人がピエロではないかと匂わせる場面ですね。

 

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b.   ただ、残念ながら、ハネケの思惑は全く空振りに終わっています。というのも、ほとんどの観客はピエロとマジッドの息子に気付かないからです ( 笑 )。ハネケとしては画面に彼らをひっそりと仕込むことで思わせぶりな演出をしたかったはずです。彼らが事件の犯人だろうという推測に対して、それも解釈のひとつに過ぎないというハネケ節で答えるつもりだったのでしょう。インタビューでピエロたちが気付かれなかったことを少し嘆いていたくらいですから。

 

 

c.   話を集団的なものに戻しながら、『 隠された記憶 』のラストシーンについて考えていきましょう。この映画は、ピエロの父であるジョルジュ ( ダニエル・オートゥイユ ) が少年の頃、養子にきたマジッドを家から追い出すように仕向けた過去が、父親になった彼に 復讐というようなもの として回帰してくるという話です。

 

 

d.   なぜ復讐というようなものという曖昧な言い方をするかというと、それがマジッド自身によっておこなわれるものではないからです。それはマジッドの息子とジョルジュの息子ピエロによって仕組まれたものです。しかも、それは、おそらくマジッドが仕向けたものではなく、マジッドの息子が父親から聞いた話を自分の犯罪のために利用したと解釈出来るものなのです。

 

 

e.   つまり、ハネケは『 隠された記憶 』で、ジョルジュの過去の過ちが、復讐という形ではなく、息子たちによる犯罪という形式で回帰してくる様子を描き出している 訳です。しかし、ここで注意しなければならないのは、過去の過ちが復讐として回帰してくるのでないのなら、過去の過ちという設定自体が意味の無いことになりかねません。( マジッドが ) 復讐するのでなければ、何の為に回帰するのかという哲学的疑問が起こってしまいますね。ジョルジュが秘かに抱えていた罪の意識 ( マジッドへのひどい仕打ち ) がトラウマとして顕在化し、それに直面したのだという精神分析的解釈も可能なのですが、それが当事者ではない別の主体 ( 子供たち ) の犯罪的欲望に利用されるという形で為されるのであれば、ここには "回帰" とは違う別次元の要素 ( 子供たちの "犯罪欲望"  ) がハネケによって強引に接続されてしまっている と解釈しなければなりません。仮にここで、ジョルジュのトラウマの回帰説を第一義的なものとして認めてしまうと、子供たちの犯罪的欲望に大義名分を与えてしまうという危険性に陥るからです。

 

 

f.   整理すると、ジュルジュとマジッドという親同士の過去の諍いを清算しようとする倫理的決着を彼らの子供たちが実行したのだという復讐物語的解釈ではなく、息子達は自分らの犯罪欲望のために親同士の諍いを利用したのだという欲望的解釈 の方に向かうべきだという事です。普通ならば、そこから、そんな異常な親子関係・家族関係を掘り下げる方に話は進んでいきそうなものですが、ハネケは違います。子供たちの内面性が示されることはほとんどなく、たんに彼らが親に対して犯罪的行為を為す行為が積み重ねられ続いていくばかりです。

 

 

g.   これが、どういうことかというと、彼らが家族関係における子供という存在であることがハネケにおいては大して問題ではないという事です。これは『 白いリボン 』の子供たちと同じく、社会における子供という存在を通じて、悪がどれほど犯罪的欲望の源泉として機能しているかを描いていると考えるべきものなのです。そして、この悪はピエロとマジッドの息子という2人組において発生します、『 ファニーゲーム 』の凶悪犯の2人と同じく。これはハネケにおいては、2人組というものが人間関係における軋轢や矛盾・敵対性などを示す指標となっていると解釈出来るでしょう。

 

 

h.   ただし、ハネケは、この2人組という結びつきに主体的反省を加えて内面を掘り下げる方には進みません。それらが自らの振舞いを通じて外部への接続を求める事自体が欲望、それも集団的なものの欲望となっているのをハネケは描き出しているのですが、それによって、悪とは、そのような "集団的なものの欲望における無反省" が体現されてしまったもの だと解釈出来るのです。その意味で、『 隠された記憶 』のラストシーンは、ピエロとマジッドの息子において発生した悪が、周囲の人間に拡大していくかもしれない不気味な未来を予感させているといえるでしょう。

 

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