僕を楽しくさせる異形のアルバムジャケット〈 サウンドガーデン 〉

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以前、このブログの記事

僕を楽しませてくれた映画〈 007 カジノ ロワイヤル 〉のオープニングをクリス・コーネルの死から再び見直した

クリス・コーネルについて書いたので、彼の出発点のバンド " サウンドガーデン " について触れておくべきでしょう。といってもこの記事タイトル通り、彼らのアルバムジャケットという視点からの話になりますが。

 

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1. 『 Louder Than Love 』

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   1989年に発表された2枚めのアルバム ( メジャーデビューとしては1枚目 )。A&M というメジャーレーベルからリリースされたグランジのアルバムということで注目を浴びた・・・。

■   ライブの熱気が伝わるアルバムアートワーク。

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   でも僕の中では、グランジといえば余りにも一般的な意見だけどニルヴァーナなんですよね、サウンド的にも、風貌的にも。彼らの音楽って従来のロック的なものを破壊しようというパンク的な意志が強く感じられる。でもサウンドガーデンの音楽はロックあるいはメタルの枠組みの中で如何に自分達の意志を強烈に示すかという感じでロック・メタル寄りだと思う。レッド・ツェッペリン的要素+ブラックサバス的要素+変拍子の多用+バンドサウンドを決定するグランジで多用されるディストーションをかけたギター音。そしてグランジにしては歌が上手いヴォーカル 。これこそがサウンドガーデンの特徴でしょう。シアトルを中心に盛り上がったグランジシーンでしたが、バンドによって違いがやっぱりあるんですよね。

 

   で、普通ならこのアルバムを紹介する時は、"Hands All Over"、"Get on the Snake"、"Loud Love" とかを選んだりするんだけど、ここでは殆ど紹介されることのないブラックサバス的な曲 "Gun" をピックアップしますね。これはダークでドゥーミーで、いかにもサバス、いやサバス以上にサバス的な1曲になってます。だってサバスの方がまだメロディがあるけど、そんなもん振り切ってる重苦しいリフが繰り返される。最初はあまりのダークさに受容れにくさを感じるかもしれないけど、何回か聞いてるとクセになる・・・。

 

■   Soundgarden  "Gun"  from『 Badmotorfinger 』

   "Gun" を聞いていると、メタリカのカーク・ハメットが "Enter Sndman" のメインリフのインスピレーションを『 Louder Than Love 』から得たというエピソードを思い出す。まあ、『 Louder Than Love 』のどの曲かについては彼は言及してないですけど。メタリカ史上、おそらく世間に最も有名な "Enter Sndman" がこうして出来たというのは興味深いですね。

                                         

■   Metallica  "Enter Sandman"   fromMetallica

■   今ではもう見ることがない長髪が懐かしい。『 Metallica ( 1991年 ) 』( 通称ブラックアルバム ) を発表して間もない頃で、メンバーも20代だったからパワーがある。

 

 

2.  『 Badmotorfinger 』

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   1991年に発表された3枚目のアルバム。個人的にはサウンドガーデンの中で一番好きなアルバム。初めて聞いた時、これグランジじゃないだろ、メタルだよって思った! それくらいカッコよかったし、激しさが伝わってきた。今、久し振りに聞いても若い頃に聞いて湧き上がった衝動が甦ってくる。それくらい良いアルバム。このアルバムをへヴィロックの名盤として紹介した人もいたくらいだから。

 

   でも・・・一番好きなアルバムが傑作とは限らない。『 Badmotorfinger 』の路線のままだったら、そこそこ有名なグランジバンドで終わってたかもしれない。サウンドガーデンが唯一無二のバンドになるのに『 Superunkown 』は必要な傑作だったと思う。あのアルバムがあったからこそ彼らは今でも語り継がれるのでしょう。

 

■   いかにもロックなアルバムアートワーク。 

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■   Soundgarden  "Rusty Cage"  from『 Badmotorfinger 』

 

■   Johny Cash  "Rusty Cage"  from『 Unchained 』

■   あのジョニー・キャッシュも "Rusty Cage" をカバーしている。カントリーロック調で渋い。サウンドガーデンジョニー・キャッシュの組合せがいい。 

 

 

■   Soundgarden  "Jesus Christ Pose"  from『 Badmotorfinger 』

 

■   The Dillinger Escape Plan  "Jesus Christ Pose"  from 『 Plagiarism 』 

■   カオティック・ハードコアバンドの The Dillinger Escape Plan ( 1997~2016 ) が EP『 Plagiarism ( 2006 ) 』でカバーしている。このEPではナイン・インチ・ネイルズの "Wish" もカバー。 The Dillinger Escape Plan はハードで前衛的な音楽性で知られるけど、この2曲は基本的にオリジナルに忠実に演奏している。ちなみに、『 Superunkown 』が全米チャート初登場1位を獲得した時、2位だったのがナイン・インチ・ネイルズの 『 The Downward Spiral 』。でもサウンドガーデンクリス・コーネルナイン・インチ・ネイルズのトレンド・レズナーは仲が悪かった。

 

■   そんな彼らの仲をまるで取り持つかのようにThe Dillinger Escape Plan は2006年の『 Plagiarism 』で彼らをカバーし、8年後の2014年には一緒にツアーを始める彼らのオープニングアクトを努めたという話には不思議な縁を感じますね。

 

 

■   Nine Inch Nails  "Wish"  from 『 Broken 』

 

■   The Dillinger Escape Plan  "Wish"  from 『 Plagiarism 』

 

 

3.  『 Superunkown 』

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 ■   1994年発表のアルバム。初の全米1位を獲得。この作品によってサウンドガーデンは名声を得たといえる。前作『 Badmotorfinger 』でのストレートなへヴィ路線から変化してクリス・コーネルの内面の世界観がより反映された。それと相俟って、サウンドは単純な重みを表現するのではなく、幾分か軽く抜けが良くなったものの "澱み" が表現されているという相反するいかにもグランジ的な不安定さが集約された作品となった。でもこの作品が発表された時は自分も若かったこともあって、その良さがあまり分からなかった・・・。

 

■   この人っぽい謎の姿がグランジ感を煽っているアルバムアートワーク。

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 ■   Soundgarden  "Let Me Down"  from『 Superunknown 』

 

■   Soundgarden  "Black Hole Sun"  from『 Superunknown 』


■   このアルバムを象徴する1曲。出口が見えずどうしようもない絶望感が漂っているのに、逆にそれが感動的であるかのように思えてしまう危険なグランジ曲。だからこそ、多くの人を惹きつけカバーもされている。

 

■   "Black Hole Sun"  by  Norah Jones


■   2017年、ノラ・ジョーンズが米デトロイトのフォックスシアターの公演でサウンドガーデンの "Black Hole sun" をカバーした。そこはクリス・コーネルが死去する数時間前に行われたサウンドガーデンとして最後の公演場所 ( 2017年5月17日 )であり、彼女の公演はその数日後のもの。彼に対して哀悼を込めたノラ・ジョーンズのパフォーマンスが感動的な1曲。

 

   "Black Hole Sun"  by  Peter Frampton


■   生前のクリスと『 Black Hole Sun 』の演奏で共演したことのあるピーター・フランプトンによるギターインストゥルメンタルカバー。トーキングモジュレーターの名手である彼の紡ぎだす "声" がクリスの不在を感じさせずにはいられない。哀悼に満ちたパフォーマンスが感動を誘う。

 

 

4.  『 Down on the Upside 』

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■   1996年に発表。本作で一度解散している。アルバムアートワークはカッコいいんだけど・・・。ジャケ買いして後悔した若い頃の記憶が今でもある (笑)。音もスカスカだし、楽曲的にも響くものがなく、緊張感もない、と感じた。キツい言い方かもしれないけど、これまでの作品が良かったからね。前作と差がありすぎるよ。全米チャートで2位になったのが今でもよくわからない。バンド自体に勢いがあったのかな。

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このアルバムからは "Pretty Noose"  とかが当然のように紹介されたりするけど、僕的には1曲選ぶとしたらこれかな。アルバムの退屈さをこの1曲で打破するパワーがある。

 

■   Soundgarden  "Ty Cobb"  from 『 Down on the Upside 』

 

 

5.  『 King Animal 』

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 ■   Soundgarden再結成後の6thアルバム 『 King Animal ( 2012 ) 』。彼らのアルバムアートワークの中では一番好きですね。雪原に集まった無数の動物達の骸の中央に君臨する王の亡骸という構図がカッコいい。

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■   音楽的には、成熟しているなという印象が強いです。彼ら自身がサウンドガーデンらしさというものを理解した上での楽曲作りが余裕を持って行われているし、クリス・コーネルのソロっぽい曲を挟んでくる懐の深さも見せている。一言で表すなら、安心して聞いていられるアルバムという感じでしょう。たしかにかつてのグランジブームは去っていたし、彼ら自身もピリピリするような緊張感から抜け出していたかもしれない。それでもそこそこ良いアルバムをつくっちゃうという所に彼らの経験の積み重ねを感じましたね。

 

■   Soundgarden  "Been Away Too Long"  from 『 King Animal 』

 

   Soundgarden  "By Crooked Steps"  from 『 King Animal 』


フー・ファイターズデイヴ・グロールがこのPVの監督をしている。

 

 

 

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僕を哲学的に考えさせる映画:『 キラー・インサイド・ミー 』

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公開 : 2010     監督 : マイケル・ウインターボトム

原作 : ジム・トンプソン

出演 : ケーシー・アフレック   ( ルー・フォード )

   : ケイト・ハドソン     ( エイミー・スタントン )

   : ジェシカ・アルバ     ( ジョイス・レイクランド )

   ジェイ・R・ファーガソン  ( エルマー・コンウェイ )

   : ビル・プルマン      ( ビリー・ボーイ・ウォーカー )

   : サイモン・ベイカー    ( ハワード・ヘンドリックス )

   : トム・バウアー      ( ボブ・メイプルズ )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 キラー・インサイド・ミー 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたいという方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

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1.  映画、小説、それぞれのタイトルの差・・・

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a.   キラー・インサイド・ミー 』・・・この映画タイトルは原題の『 THE KILLER INSIDE ME 』をカタカナにしたものだけど、扶桑社ミステリー文庫版タイトルは『 おれの中の殺し屋 』( 訳=三川基好 ) となっている (1 )。カタカナだと何となく見過ごしてしまうけど、小説版だと おれ・・』ってはっきり言い切っているのに気付かされる。

 

b.   よくある映画の客観的なタイトルとは違って、『 おれの中の殺し屋 』って主観性が強く刻まれた1人称のタイトルだという事ですね。"おれ" の中には殺人者がいるんだという告白にも思えるこのタイトル・・・。この物語が主人公のルー・フォードこと "おれ" の主観性によって彩られていることに気付かなければ ( いや、この映画を見る人が小説を読んでるとは限らないので気付かないのは仕方ないけど )、この映画は嫌悪を覚える快楽殺人鬼の客観的描写に過ぎなくなる可能性もある。

 

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 (1 )

邦訳では、これ以前に1990年に河出文庫より村田勝彦の訳で『 内なる殺人者 』として出版されている。このタイトルだと確かに語呂が良くかっこいいのだけど、『 THE KILLER INSIDE ME 』におけるルーの1人称の効果を見えにくくしている。もちろん、それは翻訳スタイルの違いから来るもの。1人称の主体 ( 俺 ) を明示しなくても分かる場合は、"俺" を形式的なものという事で敢えて訳さないというこなれた感を出したりしますが、この小説のタイトルは、文字通り訳すのが正解でしょう。

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2.  この小説における1人称の効果

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a.   というのも、主人公のルー・フォードは、『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクターのようなミステリアスな存在などではなく、テキサス州セントラルシティの単なる保安官助手でしかないから。大して特徴の無い ( 殺人を平気で犯すということ以外で ) 彼の振舞いが映像化されてしまえば、観客はストレート ( 彼を意味ありげな存在にさせる迂回的、間接的要素がないから ) に彼を快楽殺人者として認識する以外は出来ないでしょう。

 

b.   しかし、そんな彼を特徴付けるのは、実は、外見や性癖 ( まあ、人を躊躇なく殺すというのが性癖といえるかもしれないけど ) などを示す客観的描写ではなく、ルー・フォードである "俺"1人称で語るというこの小説の構造上の形式だといえるのです。

 この "俺" が全て見て、全ての出来事を話し、時折、心境を話し、全てが進んでいく・・・。ジョイス・レイクランドを殺し ( 実際は死んでなかったけど ) 、エルマー・コンウェイを殺し、エイミー・スタントンを殺し・・・最後に自分も死ぬ。おれたち、みんな

 

c.   この1人称の語りには、3人称の客観的描写にはない上っ面の裏に隠れた人間の本質に迫る生々しさがある。特に、周囲の状況について語る時ではなく、自分の心境を語る内省の時こそ、それを読む者に迫ってくる何かがそこにある。映像では冷酷な殺人者にでしかないルーだが、小説の1人称のルーこと "俺" の独白、建前の無い本音を聞かされる私達は、そこに人間の本質というものを否定的な形で知ることになる・・・。

 

 

3.  1人称の哲学的意味

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a.   1人称の語りには、"俺" が一体誰に向かって話しているのか、という問題が関わって来ます。この1人称語りを自分の中で自分に向かって話しかけているだけじゃないのという単純な理解では、そこから哲学的意味を引き出す事は出来ないでしょう。1人称の哲学的意味には "俺" が" 俺" に向かって話す、という形式的理解では捉えられない深みがある。

 

b.   ではどう理解すべきなのか? ここで参考になるのが、フランスの哲学者ジャック・デリダが閉じられた自己同一性の円環を打ち破るべく、提唱した定式 "自分がー話すーのを聞く" です (2 )デリダはそこで "自分が話す""自分が聞く" とは同等の身振りではなく、円環が閉じられる事による自己同一性の形成を常にズラしていく差延作用を発生させる異なる身振りだと言うのですね。

 

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                               ジャック・デリダ ( 1930 ~ 2004 )

 

c.   彼の考えをさらに解釈するなら、より重要な身振りは "自分が聞く" 方です。なぜなら、これは "自分が話す" 以上の驚くべき作用を持っているから。自分の中では、"自分が話す" のはまず当然の事。発話行為の起点が自分でなければ、発話行為自体が成立しないのだから。ところが、"聞く" 方は、"自分が話す" のはもちろん "他人が話す" のも "聞く" 事が出来る・・・(3 )

 

d.   そうすると何が起こるのか? それが行き着く先は・・・ "他人が話す" のも "自分が話す" かのように聞こえてしまう錯覚に陥ることがあるのだという事 (4 )。これこそが1人称の構造的な強度であり、読む者に時間を越えて主人公の "俺" を経験させる危険な作用だと言えるでしょう。もちろん全ての1人称の小説がそれに成功している訳じゃないけど、ジム・トンプスンの『 おれの中の殺し屋 』はその点で非常に面白い作品になっている。

 

e.   そして俺という1人称の効果が高まるのが、ラストの場面です。ルー・フォードこと "俺" の独り言は自宅での自爆の瞬間と共に頂点を迎え、そのまま独り言で物語の幕が下ろされる、客観的描写など無く・・・。扶桑社ミステリー文庫の表紙にも、その英文が載っけられている。

 

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『  うん、これで終わりだと思う。おれたちみたいなやつらにも次の場所でチャンスが与えられるなら別だが。おれたちのようなやつら。おれたち人間に。

  ねじれたキューでゲームを始め、あまりに多くを望んで、あまりにわずかしか得られず、よかれと思って、大きな悪を為す者たち。おれたち人間。おれとジョイス・レイクランドとジョニー・パパスとボブ・メイプルズ、そしてでぶのエルマー・コンウェイに、ちっちゃいエイミー・スタントン。おれたち、みんな。おれたち、みんな。

 

" Yeah, I reckon that's all unless our kind gets another chance in the Next place. Our kind, Us people.

All of us that started the game with a crooked cue, that wanted so much and got so little, that meant so good and did so bad. All us folks. Me and Joyce Lakeland, and Johnnie Pappas and Bob Maples and big of Elmer Conway and little of Amy Stanton. All of us. All of us. "

 

 

f.   このラストで1人称の作用は最終点に達し、崩壊し始める。"俺" は、"俺が話す" のだけを聞くのではなく、ジョイス・レイクランドが話すのを聞き、エイミー・スタントンが話すのを聞き、それらを自分が話しているかのように聞く・・・。自分の欲望が起点となり、他人を巻き込み、ためらいなく彼女らを殺したという自分本位な振舞いは、全てを、彼ら、彼女ら、を一括りにして自分のもとに収めようとする分裂症的、別の見方をすれば偏執狂的な思い込みに収斂し、自分を壊していく・・・。おれたち、みんな。おれたち、みんな・・・。この小説を読むことによって、この1人称の特殊な経験を共有するおれたち、みんな・・・。

 

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 (2 )

彼の著作『 声と現象 ( 1967 ) 』を参照。初期の代表的著作。以降の言い回しが複雑になる著作に比べて理論構成がはっきりしていて読みやすい。高橋允昭の翻訳による理想社版 ( 1970 ) と林好雄の翻訳によるちくま学芸文庫版 ( 2005 ) がある。

 

 

(3 )

違う角度から言うなら、"自分が話す" と "自分が話すのを聞く" という身振りに分節化するものこそ "声" だといえる。つまり "声" とは、どちらかの身振りに属するものではなく、どちらからもはみ出る特殊なものであり、自分のものであって自分のものではない"物質的なもの" だとさえ言える。この物質的なものに人は魅了され、翻弄される。

 

 

(4 )

これの典型的なパターンこそ、アルフレッド・ヒッチコックの映画『 サイコ ( 1960 ) 』におけるノーマン・ベイツ ( アンソニー・パーキンス ) の振舞いに他ならない。マリオン ( ジャネット・リー ) を殺害したノーマンの隠された振舞いとは、亡き母 ( ノーマン自身が殺したのだけど ) との同一化だった。そこで注意すべきは、女装するだけではなく、母の声色を真似てしゃべり、それを聞く事によって自分の中に母を住まわせる ( 自分自身が母であると錯覚して ) という1人称の崩壊作用が起きているという事です。

 

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4.  映画の中の主観性とその失敗

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a.   小説のことばかり話してきたので、この辺で映画の方に話を戻さなければいけませんね。今まで話してきた事から、1人称の小説の映像化には難しさが付いて廻ることが分かるでしょう。映像化するという事は、"おれ" ことルー・フォードも登場人物の1人 ( もちろん主人公として周囲とは差別化されてるけど ) として客観化されるという事であり、その時点で1人称の主観性は大きく損なわれてしまう

 

b.   そこで映画では、この点を補うために、"おれ" の独白を所々で挟んでいるのだけど・・・。それは冒頭から20分くらいまでは頻繁に行われるものの、次第に少なくなっていき、ラストで自宅ごと自爆する場面では、完全に消えてしまう・・・残念なことに。

 

c.   でもそれは1人称の小説側から映画を考えた場合の話であって、映画は1人称の欠損を別の形式で補い観客を楽しませようとしている。それこそ映画独自のサウンドトラックという形式に他ならない。

 

d.   とはいえ、小説の1人称効果と映画のサウンドトラックが同等であるわけないと思うでしょう。確かにその通りですが、自分のものであるかのように他人の声を聞くことが出来る主体の振舞いという観点からすると、それらは主体の経験を豊かにするという意味では同列にあるものだとこの場合考える事が出来るでしょう。

 

 e.   特に、この映画のサウンドトラックは非常に興味深い。1950年代周辺のアメリカのR&B、カントリー、そしてマーラーなどのクラシック ( これはほとんどの人が知っているでしょう ) などがピックアップされているのですが、もちろん、それは『 おれの中の殺し屋 』が1952年に出版されている事に焦点を合わせている。

 

f.   しかし、その事は、映画を原作の出版当時の雰囲気で色付けようという洒落た試み以上の恐さを無意識的に観客に経験させている・・・。おそらく誰も気付かない経験なのですが、説明していきましょう。

 

 

5.   日常と狂気

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 a.   余談になりますが、この映画のサウンドトラックを聞いた時、これってどうやって調べたのだろうと思いましたね。というのも、監督のマイケル・ウィンターボトムってイギリスの人なんですよ。しかも『 キラー・インサイド・ミー 』がアメリカでの初の撮影だったというくらいだから、1950年代前後のアメリカの音楽マニアだったか、その辺のアドバイスをしてくれる人がいたか、ということになりますよね。それくらいセンスのある選曲になっている。でも、あの頃のリトル・ウィリー・ジョンとかスペード・クーリーとかをイギリスの映画監督が知っていたとは思えないんだよね、彼がマニアでないかぎり・・・。あの頃のアメリカの音楽を知っている人にとっては当り前でも、普通の人は到底知らないような選曲ばかりだからね。細かい話だけど誰か知らないかな。

 

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         マイケル・ウィンターボトム ( 1961 ~ )

 

 

b.   このブログの以前の記事でも書いたけど、"fever"  を歌ったリトル・ウィリー・ジョンって殺人罪で服役中に亡くなったのですが、その "fever" は映画のオープニングに使われている。そして・・・アルコールをばら撒いた自宅でジョイス、保安官達を道連れにして自爆するラストの場面では、スペード・クーリーの "Shame on You " が使われているのですが、彼もまた殺人 ( 妻を殺した! ) による服役の経験があるのですね・・・。

 

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            LITTLE WILLIE JOHN "fever"

 

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  SPADE COOLEY & the WESTERN SWING DANCE GANG "SHAME ON YOU"

 

 

 c.   そのことに気付いた人は余りいないでしょうけど、これは偶然の一致でしょうか。それとも製作者の隠された意図でしょうか。真相は分かりません。いずれにせよ、それは映画の内容を隠れた所から規定しているしかも単にスキャンダラスな事件が映画の内容と被っているという点だけでなく、その popな曲調が、殺人という悲惨な事件とは一見対極であるかのような雰囲気を醸し出し、コミカルな方向に傾いている点でも規定していると言えるのです。

 

 d.   一体、そのことをどう考えたらいいのでしょう。殺人という狂気の出来事の衝撃を和らげている? いや、それならば最初からそのような小説を映画の題材として選んだりしなかったでしょう。この小説は、極端に言えば、殺人という出来事しか起こらないのだから。そうすると、考えるべきは殺人という狂気がどのようなものなのか、という事なのです。

 

e.   たしかにルー・フォードの中に潜んでいた殺人への欲望は、それ自体が倫理的に許しがたい危険なものであるは間違いありません。しかし、それが実行されて現実の世界に衝撃を与えながら起こったとしても、現実の世界は終わることなく続いていきます。つまり、殺人は世界をすべて滅ぼしてしまう ( 部分的には滅ぼしますが、その犠牲者など ) のではなく、現実の出来事のひとつとして世界と共に続いていくのですね。

 

f.   この世界とは私達の日常と言い換える事も出来るでしょう。そうすると、殺人は日常として存在する ( 現実としてであれ、潜在的なものとしてであれ ) という残酷な現実を私達は見ているのですね。別の言い方をするならば、昔から変わることなく続く日常の流れは殺人という狂気の出来事さえ自らの内に取り込んで未来に進んでいく・・・、時には喜劇的な調子を帯びながら。そう、真の狂気は、殺人でさえ含んで続いていく日常だといえるでしょう。この日常の狂気を表現しているものこそラストで流れる popな "Shame on You" という事になるという訳ですね。

 

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〈 このブログ内の関連記事 〉

 

 

 

 

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【 僕を哲学的に考えさせる映画 :ベルナルド・ベルトルッチの『 暗殺の森 』 】

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公開:1970年  監督:ベルナルド・ベルトルッチ

出演:ジャン・ルイ・トランティニャン   ( マルチェロ・クレリチ )   

  :ドミニク・サンダ          ( アンナ・クアドリ )     

  :エンツォ・タラシオ         ( ルカ・クアドリ教授 )    

  :ステファリア・サンドレッリ     ( ジュリア・クレリチ )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 暗殺の森 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたいという方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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 1. 〈政治〉と〈性〉

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a. この映画の秘密は、" 政治と性 " を描いている所にあるのですが、『 暗殺の森 』という邦題タイトルは、幾分その事を見えにくくしていると言えますね。確かにイタリアからフランスへの政治的亡命者であったクアドリ教授と、その妻アンナが森でファシストの連中に殺される場面は、ひとつの見所ですが、やはり最大のクライマックスは、ラストでマルチェロ ( ジャン・ルイ・トランティニャン ) が、自分の人生の真実を知り、狂ったように叫びまくる場面でしょう ( シーン 23~28. )。

 

b.  ここにおいてこそ映画の原題である『 Il conformista 』が意味を持つものとなり、"政治と性に関する哲学的考察" ( 1 ) が可能になる訳です。"conformista" には、" 同調者" " 追従者" などの意味がありますが、この場合、マルチェロに影響を与えていたのが、ファシズム ( 第2次大戦中のイタリアの国家イデオロギー ) であった事を考えれば、" 信奉者" だという意味も重ね合わす事も出来るでしょう。

 

c. ここで重要なのは、マルチェロファシズムの信奉者になる前の段階として、"少年時代の性体験のトラウマ" を設定としてベルトルッチが導入している事です。マルチェロの少年時代の罪 ( リーノをピストルで撃ち殺したと信じている、が、実際には死んでいない ) を神父に告白する中での話しなので、私達は何気なく見過ごしてしまうけど、哲学解釈的には、ここは " 性的領域 " " 政治的領域 " に差し込まれていく過程であるという意味で注意すべきところですね。

 

d. 次のシークエンスでは、軍服姿のリノ ( 彼は本当の軍人ではなく、コスプレをしている。帽子を取ったら長髪だしね ) が少年時代のマルチェロを誘うシーン。ここで彼は唐突に "蝶々夫人を知っている?" マルチェロに聞く。"蝶々夫人" といえば、プッチーニのオペラで有名ですが、長崎での15歳の蝶々さんとアメリカ海軍士官のピンカートンの恋愛劇でしたね。しかし、ここでの "蝶々夫人" は "同性愛の符号" ( ※2 ) に変化しているのです。

 

 

" 来いよ。東洋のキモノもある。蝶々夫人を知っている?" by リーノ

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e.  しかも驚くべき事に、蝶々さんは15歳だったので、少年のマルチェロにその役割をさせるかと思ったら、リーノ自身が蝶々さん役の "ネコ" で、マルチェロにピンカートン役の "タチ" をさせるように仕向けるという、リーノの年齢差を無視した変態的趣向が露になる ( シーン 6. )。

 

f.   結局、マルチェロは性的関係をためらい、ピストルでリーノを撃ってしまう。この時、マルチェロはリーノを殺してしまったと勘違いし、この現実から逃げるようにファシストになっていく。このような、1人の男の政治的趣向に性的経験が関わっているという短絡 ( ショートカット ) こそが、この映画を面白くしているといえるでしょう。主体の行動化 ( マルチェロファシスト化 ) へと突き動かすものは性的なものという訳なのですが、ここで言う "性的なもの" とは ( 1 ) で記したように、たんなる衝動的なものではなく、"革命的要素としての性" ( 3 ) なのです。

 

 

" いいから撃て。蝶々夫人を殺せ " by 自分の事を蝶々夫人と言ってしまうリーノ

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2. マルチェロのトラウマ

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a.  しかし、ファシストらしくない雰囲気を漂わすマルチェロは、クアドリ教授にもその事を指摘されてしまう。実際に、森の暗殺場面でも、マルチェロは、クアドリ教授と、その妻のアンナに自ら直接手を下す事はない。組織の連中が殺すのを眺めているだけです。要は "中途半端" という事ですね。これは決して些細な事ではないでしょう。

 

b.  ファシストに成り切れてないマルチェロの過去のトラウマは、リーノとの性行為でしたが、厳密に言うなら、性行為を始めようとした矢先に、マルチェロはそれを拒否したのです ( 少年だったのだから嫌がっても不思議はないだろって意見もあるでしょうけど )。そうすると、マルチェロのトラウマがリーノとの性行為だったという言い方は、この場合、正確ではない。

 

c.  マルチェロにとって、真にトラウマになったのは、"未知の行為を最後まで成就する事を自ら拒否してしまった" という事です。つまり、"性行為を拒否したのに加えて、ピストルでリーノを撃ってしまったという一連の自分の行為そのものがトラウマになった" という事です。

 

d.   この事が意味するものは何か?自分に何かを強制したり、圧力をかけるものから自分を守るための過度の身振りが、自分にとって衝撃的だったという訳です ( ピストルを撃ったくらいですからね )。そこには "自分を守らなければならないという強迫観念が潜んでいる" と言えるでしょう。

 

 

3. ファシストになりきれなかったマルチェロの本性

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a.  そして、そのようなマルチェロの姿勢が、自分を中途半端なものにしている、ファシストとしても。注意すべきは、彼は忠誠心からファシズム "信奉者 (conformista)" となったとのではなく、自分を守るためにファシズムへの上辺だけの "同調者 (conformista)" になったという事です。

 

b.  ファシストの仮面があれば、自分を守るための防護壁という事で、マルチェロは、偽りの自信を持つことが出来た ( クアドリ教授には見透かされていたけど )。しかし、ファシズムの崩壊と共に、ファシストである事が必要なくなった彼に残されたものは、長い間、ファシストの仮面によって抑圧されていた事による内面のヒステリックな解放しかなかった・・・・・。

 

c.  友人である盲目のイタロとファシズム崩壊後の街を歩いていたマルチェロ。そこで浮浪者と彼に声をかけている男娼らしき白いスーツの男の会話を耳にする (シーン11.~14.)。

 

" 蝶々夫人みたいなキモノもある。蝶々夫人だぜ " by 白いスーツの男

 

" 蝶々夫人・・・" この言葉はかつて少年時代のマルチェロがリーノから聞いたものでしたね。マルチェロは白いスーツの男がリーノであり、彼が生きていた事を確信する (シーン15.~16.)。

 

" リーノ! 拳銃を持ってただろ?" by マルチェロ

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d.  しかし、リーノの方は突然、自分を猛烈に追及してくる男に戸惑い、昔の事を思い出すどころじゃないよう (シーン17~22.)。

 

" 何の話だ?" by リーノ

" 生きていたのか " by マルチェロ

" いったい何の用だ? by リーノ

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e.  困惑して逃げ出すリーノ。ここからマルチェロは激昂してリーノに罪をなすりつけるがごとく叫び始める (シーン23~28.)。

 

" 人殺し。政治亡命者を殺した、クアドリ教授を。"

" 妻のアンナも殺した。"

" あいつはホモだ。ファシストだ!" by 全てを他人のせいにするマルチェロ

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f.  リーノが生きていた事を知り、自分がファシストになるきっかけだと思っていたトラウマ ( リーノをピストルで撃ち殺した )が、実は自分の思い違いであった事を知ったマルチェロ

 

g.  ここで、注意しなければならないのは、マルチェロ "何に怒ったのか" という事です。これを常識的に、自分の人生が虚構に過ぎなかった事に怒ったと考えては哲学的な拡がりは得られないでしょう。もし、自分の人生が虚構だったとしたら、人は怒るより、取り返す事の出来ない年月の経過に落胆するはずですから。

 

h.  しかし、マルチェロは落胆するのではなく、"怒った" のですね (シーン26.の表情)。これを解釈する上で幾つかの考え方がありますが、最も刺激的なのは、マルチェロは、私達が通常考えるのとは違って、"トラウマを自分のアイデンティティーの為の無意識的基盤としていた" という考え方です。

 

i.  こう考えるにはトラウマの両義性を考慮する必要があります。通常、トラウマというと、私達はそれを成長する上での障害なので、乗り越え捨て去るべきものだと考えがちです。ところが、そのトラウマと共に人生を歩むと、人は経過した時間の積み重ねによって、"逆説的な無意識的愛着" を抱くようになる事があるといえます。誰だって自分の人生の時間を無駄だとは考えないでしょうから。

 

j.  そのような無意識的愛着が露わになる瞬間が、他人によって邪魔される時です。すなわち、人は自分がトラウマに苦しんでいる事を告白するけど、いざ他人がそれを取り除いてあげようと助言すると、そうじゃない、分かっていない、と抵抗する事があるのです。

 

k.  これこそ、自分を守ろうとするマルチェロの強迫観念的態度に他ならない。ここでもう一度、ラストシーンについて整理します。通常の理解だと、マルチェロはリーノが生きていた事によって、トラウマを含めて自分の人生が虚構であった事を認めたのだとするでしょう。しかし、マルチェロ "一体何に怒ったのか" を念頭において極度に解釈しなおすならば、マルチェロは自分の大切なトラウマが、その登場人物であるリーノに裏切られ破壊された事 ( 彼が生きていたという事実それ自体に他ならない ) に対して理不尽的に激昂したそれ程、彼は自分への強力な愛着があったという訳ですね。

 

 

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( 1 )

  ベルトルッチの映画の中で面白い作品は、"政治と性" の両極を "並列的に" 描いているものです。そこでは "性" の領域における人間関係という出来事を、"政治" の領域に対して、最終的に如何にして拮抗させるかという事がベルトルッチの隠された "映画的欲望" となっていて、そこで起きる事は、ベルトルッチの秘かな "革命" だと言えるのです。

 

  彼の映画は、性的なスキャンダラスの側面ばかりが時としてクローズアップされるけれど、それを倫理的なタブーへの侵犯だとしか捉えないのであれば彼の本質を見落としてしまう。

 

  しかし、重要なのは彼が "性" をどう考えているかという事です。"性" をそれ自体としてエロス的なものだとする単純な考え方のみに、彼はとり憑かれている訳ではないでしょう ( もちろん、そういう側面は否定出来ないけど。例えば政治的なものを削ぎ落としたラストタンゴ・イン・パリ。そこでは、"性" のもう一方の極は "人間性" になってしまっている。"人間性" を越え出る奔放な "性" が、結局、最後にはマーロン・ブランド演じるポールが、マリア・シュナイダー演じるジャンヌによって殺されてしまうというラストによって、常識的な "倫理" を呼び戻してしまう )

 

   彼は "性" を 衝動が渦巻くという意味での "性それ自体" としてではなく、もう1つの極である "政治" に対する "何物か" だと考えているのです。つまり、どの時代、どの場所、どの状況であっても、"性" は "政治" に取り込まれずに対抗するものである訳です。

 

   細かく言うなら、"性" とは、政治的には未だ定義する事の出来ないもの ( "政治" は基本的に"男と女という2つの性"を前提とするが、現実はそれだけではない事は言うまでもない。例えば、LGBTそしてドゥルーズ=ガタリ "n個の性" ) なのに "政治" の傍らにあるが故に、彼にとっては "政治" を揺さぶる "革命" の要素なのであり、映画を撮る事によって彼は "革命" を孤独に引き継いでいるというといえるでしょう ( 例えば、3人の男女の性的関係と1968年のパリ5月革命を描いた『 ドリーマーズ (2003年) 』)。

 

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( 2 )

■   "蝶々夫人" "同姓愛的要素" の萌芽を植えつけた映画が、この暗殺の森であるとすれば、それを極度に拡大化した映画こそ、劇作家デヴィッド・ヘンリー・ホアンの戯曲を経由した、デヴィッド・クローネンバーグの『 エム・バタフライに他ならないでしょう。 

 

  ただし、同性愛と言っても、この場合、正確には、"男性" 対 "男性"といった "ゲイ的関係" ではなく、"女性の振りをする男性" "通常の男性" という "擬似男女関係" である訳ですね。そうすると、ここで何が起きているかというと、"女性的なもの" が実際の女性の肉体を離れて、"男性が所有する幻想" になってしまっているという事です。そうすると、その幻想は、実際の女性だけでなく、実際の男性にも投影される可能性が出てくる訳ですね。

 

  その結果が、ジェレミー・アイアンズ演じるルネ・ガリマールがジョン・ローンが演じる舞台女優のソン・リンを本物の女性だと信じ込む『エム・バタフライ』の非現実的なストーリー ( しかし、この話に実話がある事は有名な話 ) なのです。

 

  ただし、昔の『 暗殺の森 』の方が、少しひねりがある。というのも、リーノは、相手の男性に女性の幻想を投影するのではなく、"自分を受身にする擬似女性的快楽に耽るという倒錯的欲望" に塗れているからです。

 

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( 3 )                                

   これには少し説明が必要でしょう。"革命的要素としての性" とは、政治に取り込まれずに対抗する "敵対性" として言い表す事が出来る。ただし、それは敵対という形式的距離性を取り除いた時に、自らの権力性や欲望に囚われてしまう危険もあると言えるでしょう。例えば ( ※1 ) でも記したように、"性" が単なるエロティックなもの自体としか見られず、それ以外の考察が受けいれられない状態。

 

 

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【 僕を楽しませてくれた映画〈 007 カジノ ロワイヤル 〉のオープニングをクリス・コーネルの死から再び見直した 】

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   長髪がトレードマークだった彼にしては珍しく短めの髪を立てている。

 

    2017年5月17日、クリス・コーネルが自殺しました ( 1 )。享年52歳。早過ぎる死ですね・・・。元々は、サウンドガーデンオーディオスレイヴのバンドにおけるヴォーカルとして出発しましたが、近年では、その歌唱力で1人のヴォーカリストとしてのパブリックイメージを確立していたと言っていいでしょう。最近ではサウンドガーデンを再結成したりしましたが、そこで彼がかつてバンドマンだったんだと知った若いファンもいるのではないでしょうか。

 

   そして彼のヴォーカリストとしてのイメージに大きく貢献したのが、『 007 カジノロワイヤル 』の主題歌 "You know My Name" ( 2006年 ) であった事は間違いないでしょう。『 007 カジノロワイヤル 』はダニエル・クレイグが初めて起用された新生ジェームズ・ボンドの第1作であり、そのオープニングを飾るにふさわしい主題歌として、" You know My Name" は展開されるグラフィックアニメーションと共に、私達を楽しませてくれましたね。

 

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1. 007の孤独を歌い上げる " You Know My Name "

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   " You know My Name ( 俺の名前は知っているはずだ ) " ・・・もちろん、この歌は007の孤独について歌われたものですが、孤高という意味では007の主題歌を歌うのにクリス・コーネルほどの適任者はいなかったといえるでしょう。といのも彼のキャリアを振り返った時に分かるのが、特定のジャンルに安住するようなタイプの人間ではなかった、つまり何かのジャンルに縛られないが故に、音楽的には説明しにくい人間だったという事です。普通は自分が売れたジャンルの音楽をずっと作らざるを得ないのですけどね、生活のために・・・。でも彼はそんなタイプの人間ではなかった。音楽界において自分の趣向にこだわった数少ない人間だったという訳です。

 

   例えば、サウンドガーデン時代においても、グランジロックの祖として紹介されたりしますが、それはアルバムSuperunknown (1994) の時期であり、それ以前のBadmotorfinger (1991) などはへヴィロック的に評価が高くアグレッシヴであったりする ( ちなみに、このアルバムのプロデュースは、パンテラでもお馴染みのテリー・デイトが担当している )。

 

   その後は、オーディオスレイヴレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのメンバーと共にグランジを源泉とするオルタナティヴ・ロックをより洗練し簡素化させた方向 ( 結局の所、これは普遍的なロックに近づく事を意味するのだけど ) に向かう。そしてソロアルバムを4枚出している事を考えれば、彼が自分のその時々の音楽的嗜好 ( 3 ) に忠実であった事が分かりますね。

 

   コレは、悪く言えば、一貫性がないとかいうことになるのかもしれませんが、クリス・コーネルは自分の歌声が、特定のジャンルではなく、より普遍的なロックにおいてこそ生きる事を実感していったという事の結果なのでしょう。

 

 

     

 

 

   007 カジノロワイヤルのオープニング。クリス・コーネルの " You Know My Name " と相俟ってカッコいい。それも、007シリーズの中でも間違いなくカッコいい部類に入ると言っていいでしょう。展開されるグラフィックアニメーションと歌詞のシリアスさの相乗効果が007の孤独を一層浮かび上がらせる。

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( 1 )

   メタリカのジェイムズ・ヘットフィールドはクリス・コーネルの死についてインタビューで答えている。

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" 今回の一件で、誰しもが自分自身にある闇に出くわして、それに捕まってしまったような心地になってしまいかねないんだってことを気付かされたよ "

 

" そして、そうなってしまったらーー少なくとも俺は時々自分の闇の深さを思い知るんだけどさーー自分の闇の中に入ってしまったら、そこには自分を救ってくれる誰かがいることや、前にも乗り越えたことのある闇だってことに気が付くのは難しいんだよ。時には本当に自分を喪失してしまうことだってある。当然、俺には……クリス・コーネルが何に苦しんでいたかは分からない。けどさ、俺たちは誰しもが自分の闇を抱えているんだよ。お互いにチェックしないといけないんだ。お互いにチェックし合うんだよ。お互いが元気にやれてるか確認するんだ "

 http://nme-jp.com/news/38395/ より

 

   ジェイムズ・ヘットフィールド自身も、過去のインタビューでドラッグ・アルコール依存症であった事があり、そういうものに手を出してしまう弱さが自分の中にある事を語っている。クリス・コーネルアルコール中毒であった時期がある。

そして何よりも昔から彼の周囲に死の影 ( 2 ) があり、そういった事に彼も気を配っていたであろうに、残念な結果になってしまった事にはやるせなさを感じてしまう。

 

( 2 )

   最も有名な所では、同じくグランジを代表するバンド、ニルヴァーナカート・コバーンによるショットガン自殺 ( 1994年 )。これ以前には、マザー・ラヴ・ボーンのフロントマンだったアンドリュー・ウッドがヘロインのオーヴァードーズによる死亡 ( 1990年 )。これまた同じグランジバンドのストーン・テンプル・パイロッツスコット・ウェイランドが薬物中毒が一因である事によって死亡 ( 2015年 )。

 

        ニルヴァーナ "Smells Like Teen Spirit"

  

 

                       マザー・ラヴ・ボーン "Stardog Champion"

     

 

 

   マザー・ラヴ・ボーンのアンドリュー・ウッド死後、クリス・コーネルはマザー・ラヴ・ボーンのメンバーだったジェフ・アメン、ストーン・ゴッサードと共に追悼の意味で Temple of the Dog を結成。当然、マザー・ラヴ・ボーンをカバーしている。

 

            Temple od the Dog "Stardog Champion ( Mother Love Bone cover )"

  

 

 

   スコット・ウェイランド・・・素行に色々と問題のある人だったが、声は好きだったな。

      ストーン・テンプル・パイロッツ "Interstate Love Song"

  

 

( 3 )

   キャット・スティーヴンスやニック・ドレイクなどフォーク・ロックの影響を受けるようになった事をインタビューで語っている。

 http://rollingstonejapan.com/articles/detail/25094/1/1/1 を参照。

 

                           キャット・スティーヴンス "Wild World"

  

 

       ニック・ドレイク "Day is Done"

  

 

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【 僕を哲学的に考えさせる映画 ブライアン・シンガーの『 ゴールデン・ボーイ 』 】

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公開:1998

監督:ブライアン・シンガー

原作:スティーヴン・キング

出演:ブラッド・レンフロ  ・・・・・ トッド・ボーデン

  :イアン・マッケラン  ・・・・・ クルト・ドゥサンダー

  :デヴィッド・シュワイマー ・・・ エド・フレンチ

 

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ユージュアル・サスペクツ 』、『 XーMEN 』シリーズ、『 ワルキューレ 』の監督で知られるブライアン・シンガーがホラー作家スティーヴン・キング原作の『 ゴールデンボーイ』を映画化した作品。彼の事を知っていても、この作品を観る人は今ではほとんどいないでしょう。それくらい地味な印象の作品。しかし、この作品で描かれる〈悪〉のモチーフは、彼の映画作りの一端を間違いなく成しているし、その〈悪〉が私達の日常の中に常に潜んでいる事を主人公トッドの変貌と共に明るみに出すその描き方は、ショッキングというより淡々と成されている。そこには〈怖さ〉というより〈不気味さ〉があるのですが、そこに気付かない人は〈不気味なもの〉に対して無感覚になっているとさえ言えるでしょう。

 

   ちなみに『 ゴールデンボーイ 』という日本におけるタイトルは、原作の邦訳タイトルを踏襲しようという配慮から来ているのでしょうが、作品のイメージを伝えているとは言い難いですね。というのも "pupil" という単語が、教え子、弟子、門下生、などの " 師匠との絆 " 的なニュアンスがある事を考慮すれば、原作タイトルの『 Apt Pupil 』とは『 出来のいい教え子 』という意味になり、作品中で描かれるドゥサンダーとトッドという " 悪の継承 " にまつわる師弟関係を含ませた皮肉的な表現に他ならないからです ( もちろん、この映画の英語版タイトルも『 Apt Pupil 』)。それが『 ゴールデンボーイ 』になる ( 商業的なタイトルとしては響きがいいのかもしれないけど ) と、師匠であるドゥサンダーとの絆は消え失せ、トッドの単独性しか示せていないという物足りなさを露呈してしまっているという訳です。

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1. ナチスの "悪" に同調していくトッドの "悪" 

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a.   原作と同じく、この映画でも一番の見所といえば、トッド ( ブラッド・レンフロ ) に強要されてナチスの制服を着用したドゥサンダー ( イアン・マッケラン ) が、最初は嫌がっていたものの、かつての強制収容所の副所長としての血が騒ぎ、次第にその気になって軍隊式行進を行う場面ですね。

            

b.   アーサー・デンカーと名乗る老人が、実は元ナチスのクルト・ドゥサンダーである事に気付いた高校生トッド・ボーデンは、正体をばらされたくなければ、自分の言う事を聞くように脅す。

 

" 着てみろよ " by トッド

" わしを苦しませおって。張り倒すぞ " by ドゥサンダー

" ユダヤ人の苦しみにくらべたら何でもない " by トッド

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c.   言われた通り、ナチスの制服を着て軍隊式行進を始めるドゥサンダー。次第にかつての姿の戻ったかのように熱を帯び、ナチス式敬礼まで行ってしまう ( シーン 8.~ 9. )。その余りの迫力にトッドは自分が言い出したにも関わらずひいてしまう。

" やめろ! " by トッド

" 気をつけろ 坊や " " これは危険な遊びだ " by ドゥサンダー

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d.   ここに至るまでのポイントは、トッドが元々、無邪気な少年で、ドゥサンダーと出会ってから悪に目覚めていくという設定ではなく、彼はドゥサンダーと出会う前から既に、" 悪の萌芽 "を自分の内側に抱えていたという事です。映画の冒頭で、トッドは高校の授業でナチスによるホロコーストについて知るという場面があります。

 

e.   通常ならば、多くの生徒はナチスの非人道的な虐殺という事実から、たとえ形式的にであれ、倫理的な教訓を引き出すのですが、稀にその倫理性よりも、命の尊重から懸け離れた野蛮な好奇心 ( ユダヤ人がどんな殺され方をしたのか、などの詳細を知りたがる欲望 ) ( 1 ) を優先させる特異な生徒がいる。それがトッドだったという訳です。

 

f.   まり、ここには過去に実在したナチスの悪とは別の、1人の少年の中に存在する "悪" が、そのナチスの "悪" と出会い、覚醒していく過程があります。トッドは強制収容所での殺しの詳細を聞くなどしていたドゥサンダーとの関係に終止符を打とうする ( 学校の成績が下がってきたため ) が、もう手遅れだとドゥサンダーは言う、つまり、お前はもう悪の領域に踏み込んでいるという事ですね( シーン23.~24. )。

 

" 君は まだ人を殺すことを決心できないでいる "

" 殺すパワーはあるか?" by ドゥサンダー

" こんなことは終わりだ " " もうここへは来ない " by トッド

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" はじまりと終わりに乾杯 " by ドゥサンダー

" 勝手にしろ " by トッド

" わからんのか わしらは互いに地獄の底まで一緒だ " by ドゥサンダー

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g.   この後、ドゥサンダーは自分の命に保険を掛ける意味 ( これまでの関係を清算すべくトッドが自分を殺さないように ) で、トッドに、自分達のやり取りを記した手紙を銀行の貸金庫に預けていて、自分が死ねばそれが公開される事になっていると脅す ( 結局、手紙の件はドゥサンダーの嘘なんだけど )。

 

h.  ドゥサンダーは、あるきっかけで家に招きいれた浮浪者をナイフで殺そうとする。刺された浮浪者はドゥサンダーの家の地下へと転げ落ちたが、ここでドゥサンダーは心臓発作を起こしてしまい、後始末が出来なくなってしまう。動けないドゥサンダーは電話でトッドを呼び出す。トッドはドゥサンダーと距離を置いていたが、銀行の貸金庫にある手紙の件が気になり助けに行かざるをえなかった。トッドはドゥサンダーを死なせないために、救急車を呼ぼうとするが、息を吹き返した浮浪者を殺してしまう・・・。

 

i.   その一連の流れは、トッドの中の " 潜在的な悪 " がドゥサンダーによって引き出され、現実へと実在するようになった事を示す象徴的なシークエンスですね。それはトッドが自らの手で殺人を犯したという事だけでなく、それがばれない様に隠蔽し、自らの立場を守ろうとするズル賢さを同時に発揮するという" 悪と知 " が結びついた恐ろしさを示しています。つまり、" 生き延びようとする悪 " という事です。これこそ、イスラエルの追求から逃げて生きるドゥサンダーの存在様式であり、それを継承しようとしているのがトッドという訳ですね。

 

j.   入院したドゥサンダーは、トッドに手紙の件は嘘だと告げる。その後、ドゥサンダーは隣のベッドの元強制収容所の捕虜だったユダヤ人に正体を見破られ、訪れたイスラエル機関とFBIの人間にエルサレムに送還する ( 裁判にはかけられるものの、それは死刑を意味する。例えば、実際のイスラエルによるアイヒマン裁判は余りにも有名。 ) と言われ自殺してしまう。

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 2. 引き継がれ、生き延びる " 悪 "、トッドあるいはカイザー・ソゼ

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a.   トッドの高校の卒業式で、カウンセラーのエドはトッドの両親との会話から、かつて面会 ( ドゥサンダーはトッドの成績が下がった時に、トッドの両親にバレないように、トッドの祖父だと偽って会っている。両親はこの事を知らない )したトッドの祖父であるはずの男が、元ナチスのデンカー ( ドゥサンダーの偽名 ) だった事を知るに至る。真相を確認すべくエドはトッドの所に向かう・・・。

 

b.   しかし、トッドは怯むどころか逆にエドを、" 性的関係の強要 " という嘘の演出で以って脅すのでした。自分を守る為なら何でもする男になっていたトッド・・・・・。

 

" ぼくが初めてか?"

" 成績を裏取引し電話番号を教え 会いにくる " by トッド

" 何の話だ?" by エド

" 男子生徒に手を出すとは " by トッド

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" 思い入れたっぷりに握手したな " by トッド

" まさか 私が君に何かしたと言うつもりか?" by エド

" 必要なら何だってやる " by トッド

" 私は君を助けようと " by エド

" 悪い噂を流せば汚名は一生消えない。どうだ エド " by トッド

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c.   このシークエンスでのトッドのズル賢さは、ブライアン・シンガーの前作ユージュアル・サスペクツの犯人であるキント ( ケヴィン・スペイシー ) と共通するものがありますね。左の手足に麻痺のある ( 自分が犯人ではないと思わせるための演技 ) キントが巧みな嘘を語り通し ( それこそが映画のストーリーとなっていた事が最後に分かる )  警察の取調べから解放され、徐々に姿勢を正しながら歩いていく姿は、彼こそが真犯人のカイザー・ソゼである事を示す有名なラストシーンですね。

 

d.  ゴールデンボーイ 』を見た後では、トッドこそ、カイザー・ソゼの少年時代だったのではないかと想像したくなるほど、" 生き延びる悪 " という存在が2つの映画の共通モチーフとしてある事が分かりますね。

 

e.    原作者スティーヴン・キングの凄い所は、" 少年 " というものを " 未来に開かれた希望 " などではなく、そんな価値観を打ち砕くが如く、" 社会を脅かす悪の萌芽 " として描いている所です。社会を混乱に陥れる " 悪の存在 " とは、遠い世界の住人ではなく、最も身近な存在でありながら、時として理解不能な行動をする " 怪物 " である事の象徴として少年を取り上げているという訳です。

 

f.   原作では、トッドは最終的に銃による無差別殺人という狂気の行動に出て警察に殺される ( 邦訳ではそれが上手く伝わっていないけど ) ので、後味はよくないとはいえ、キングなりのケジメをつけているといえるでしょう。ところがブライアン・シンガーは映画では変更を加えています。トッドはキレて自分の立場を危うくするようなマネをせず、冷静にエド ( 原作ではトッドに殺されてしまう ) を脅迫するのですね。つまり、ブライアン・シンガーは、カイザー・ソゼと同様にトッドを生き延びらせるという選択をして、原作との差別化を図っているのです。

 

g.   この事は何を意味するのでしょう? 一見すると、原作のラストの方がセンセーショナルですが、映画の方がより " 不気味 " だといえます。社会に混乱をもたらす " 悪 " が排除される事なく、いつ爆発するか分からない危険物として留まっている事を示してるからです。いや、正確に言うなら、社会からそのような " 悪 " を取り除く事の不可能性が示されているという意味で、映画は原作以上に救いが無いと言えるし、それは同時に、よくある映画的な結末よりも、決着の無い、より現実的な方向に近づけたものだと言えるでしょう。

 

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(※1)

  そこにあるのは、他人の殺害の中に、自分を満足させてくれる何かがあるかもしれないと期待する歪んだ欲望に他ならない。

 

 

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僕を哲学的に考えさせる映画 【 ギレルモ・デル・トロの『 パンズ・ラビリンス 』 】

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監督:ギレルモ・デル・トロ   公開:2006

出演:イバナ・バケーロ ・・・・ オフェリア

  :アリアドナ・ヒル ・・・・ カルメン ( オフェリアの母 )

  :セルジ・ロペス ・・・・・ ビダル ( フランコ軍の大尉。カルメンの再婚相手)

  :ダグ・ジョーンズ ・・・・ パン ( 牧神 )

  :マリベル・ベルドゥ ・・・ メルセデス ( 小間使い )

 

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 パンズ・ラビリンス 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたいという方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

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1. 〈 幻想 〉と〈 現実 〉

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a.   この映画、通常、思われている以上に、哲学的な深みがある。少なくとも、僕はそう感じましたね。大学などのアカデミックな哲学界では、哲学を人生論的な観点から語るというのは素人的な身振りであり問題にすらならないのですが、この映画は、その素人的な身振りは間違っていない事を示しています。

 

b.   人が他の誰でもない自分の人生を背負う限り、人生をどう考えて、どう生きるのかという問題が、その人にとって第一義的な哲学であるのは当然です。それ無くして、自分が存在するこの世界を理解する事は出来ないし、逆に言うと、この世界をどう理解するかは、自分の人生をどう考え、どう生きているか、という事によって左右される

 

c.   なぜ、こんな話をするのかというと、〈 現実 〉の世界と自分の〈 人生 〉の間には、一定の〈 距離 〉があるからです。人間誰しも、成長していく過程で、社会という〈 現実 〉に参加するようになる、生きていくために・・・。

 

d.   その際、人はその〈 現実 〉に適応するために、水面下で自分を作り変える ( あるいは半ば強制的に作り変えらされる )。ではどう作り変えるのか。それは僕が思うに、それまで自分の中に保持していた自分の〈 世界 〉を改変していく事ですね。自分の〈 世界 〉とは、端的に言って〈 幻想 〉なのですが、その 〈 幻想 〉の改変 ( 哲学的、精神分析的にいうなら "幻想の横断 " ) を実行するという事になります。

 

e.   そういう言い方をすると、すごく崇高な印象を持つかもしれませんが、実際には各人の体験度合いによっては、それは横断というよりは、切り刻む、切り裂く、という耐え難い経験である場合もあるはずです。この時、各人において興味深い事が起きます。自分の〈 幻想 〉を横断して、〈 現実 〉の世界に適応する事が出来る人もいれば、〈 幻想 〉を切り裂く事に対する否定的な身振りを〈 現実 〉の世界へと転化する人もいるでしょう ( 攻撃的になったり、ひきこもったり、などの極端な行動化 )。

 

f.   以上の事を、アカデミックな哲学的・精神分析的観点から見ると、〈 幻想 〉とは、主体が〈 現実 〉の世界へと踏み出す ( アクティング・アウト ) ために必要な〈 要素  〉としての価値しかない。もちろん、ここには最初に述べたように、人生を背負うのが他の誰でもない自分であるという〈孤独〉から来る人生論的観点が入り込む余地は全くない。御自分の人生哲学については、どうぞ御勝手に、という訳です。

 

g.   この映画が興味深いのは、そんな〈 幻想 〉を〈 要素 〉ではなく、ひとつの〈 世界 〉として提示している所です。外の〈 現実 〉も〈 世界 〉だけど、〈 幻想 〉も〈 世界 〉なのです。つまり、〈 幻想 〉も〈 世界 〉であるからには、〈 現実 〉に対して否定的に扱われる必要はないし、ましてや〈 現実 〉を構成する形而上的な〈 要素 〉でもない。〈 幻想 〉と〈 現実 〉は、並列的に、人が生きるに足る〈 世界 〉なのであり、もし同時に生きにくいのであれば、それは自分が〈 幻想 〉を保持する事を自ら放棄しようとしているからです。

 

h.   これを哲学的に非難しようとするのなら、その人は他人の人生を背負えるかどうか自問するべきですね。それが出来ないから、アカデミックな哲学は人生論を放棄しているのです ( 1 )自分の人生を背負うならば、人生を生き抜くために、幾つもの〈 世界 〉を自分の〈 聖域 〉、あるいは〈 秘密 〉として持つことは必要だと言えるでしょう。

 

 

2. 〈 幻想 〉というもうひとつの〈 世界 〉

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a.   ギレルモはこの映画を、魔法の王国が地底にあり、そこに住んでいるお姫様が、地上の人間界を夢見て、抜け出すという形で始める。魔法の王国は太陽がなく、わずかな月の光に照らされているかのように青暗い色調で描かれている ( シーン 1.~ 8. )。

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b.   そして徐々に地上の世界に移行していく様子 ( 太陽の光に照らされている通常の風景 ) を交えながら、現在の話を始めていく ( シーン 9.14. )。一応、ここでは地上で死んだお姫様が魔法の王国に戻るという映画の結末が、それとなく仄めかされている。

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c.   魔法の王国の妖精 ( 妖精というには若干グロいけど、これこそギレルモ的キャラですね ) に誘われて、オフェリアは住処の近くにある森の迷宮に入り、地下へと降りていく。

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d.   ここでオフェリアは迷宮の守護神パン ( 2 ) に出会う。オフェリアは自分が魔法の王国のプリンセスである事を告げられる( シーン 21.26. )。

 

e.   ここから、オフェリアは、日常の〈 現実 〉と〈 幻想 〉のふたつの〈 世界 〉を生きる事になるのですが、ギレルモはこの落差を強烈な対比でもって描き出します。〈 現実 〉においては、フランコ政権下におけるスペイン内戦を、オフェリア周辺で起きる局地的な緊張状態として描き、〈 幻想 〉の〈 世界 〉においては、オフェリアの内面を誰にも知られる事のない秘密として描いているのです。

 

f.   それにしても、このパンも特徴的な造型で仮面ライダーの敵キャラに出てもおかしくない・・・。ギレルモのオタクぶりが表れていますね。

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g.   途中の過程は省略しますが、最終的にオフェリアは、魔法の王国に帰る条件として生まれたばかりの弟を一緒に連れてくるようにパンから指示されます。しかし、連れて来たのはいいもの、弟の血が必要だと言われ、拒否した結果、王国への帰還の話は無かった事になる。そして、子供を取り返しに来た義父のビダルによって射殺されてしまうという残酷な結果に・・・。

 

h.   でもギレルモはこれだけで話を終わらせません。ここからが大切なのですが、オフェリアの死は、揺るぎのない〈 現実 〉であるにも関わらず、ギレルモは〈 幻想 〉の世界を回収しようとするのです。

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i.   死に行く意識の中で、オフェリアはようやく王国に帰る事が出来ます。弟を殺す代わりに自分が殺された事で流した血によって、それが可能になったという訳です。さて、この場面をどう解釈すべきでしょう?

 

j.   現実逃避という事でしょうか?いや、それでは十分な説明にならない。なぜなら、〈 死 〉という最大の〈 現実 〉がオフェリアには既に訪れてしまっているからです。それにオフェリアは死の直前まで、弟を守るという現実的な行動を採っていた。ならば、この場面は、オフェリアは現実的な死の際にも、自分の中の〈 幻想の世界 〉を守るべきものとして最後まで手放さなかったという意味で、彼女の主体的な振舞いで満ちていると解釈すべきでしょう。

 

k. これは自分の人生を背負う者としての孤独な主体にとって、大きな教訓ではないでしょうか。厳しい現実を前にして、〈 幻想 〉を自ら廃棄してあきらめて死ぬのか、それとも、〈 死 〉にも関わらず、自分の〈 幻想=秘密 〉を守り抜こうという主体としての使命を果たすのか、という訳です。もちろん、それは他の誰でもなく、自分にしか分からないのですが・・・・・。

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l.   この後、ギレルモは〈 現実 〉のオフェリアの死の場面に戻します。

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m.   ラストの一輪の花は、〈 幻想 〉の象徴 だというべきでしょう。

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( ※1 )

   人生論を説いた ( もちろんそれだけではない ) といえる最後の哲学者は、ニーチェですね。ニーチェは、それまでのヘーゲルを頂点とするドイツ観念論哲学の流れとは異質な哲学者であり、読者 ( ニーチェ的にいうなら人類 ) に強烈なメッセージを残した。

 

   それはマルクス主義的な革命のメッセージではなく、読者に自分の人生を再び生き直す( 永遠回帰 )べきだという人生論的メッセージ だった ( 構造主義ポスト構造主義以降、このようなニーチェ像は薄まったけど )。彼は読者の人生に踏み込んでくる哲学者だったが、他人の人生を背負う代わりに、自分の破滅過程を差し出した ( たとえば、『この人を見よ』)。

 

 

( 2 )

   パンとは、ギリシャ神話における森や山、牧畜の神で笛を吹く半人半獣の神。ローマ神話ではファウヌス。文学や芸術分野ではよく用いられてきたモチーフでもある。

 

   最も有名な所で、フランスの詩人 ステファヌ・マラルメ象徴詩 牧神の午後 ( 1874 ) 。それにインスパイアされたのが同じくフランスの作曲家クロード・ドビュッシー『 牧神の午後への前奏曲 (1892~1894) 。これに基づいてディアギレフのロシア・バレエ団のダンサーであったヴァーツラフ・ニジンスキーが振付した『 牧神の午後 ( 1912年初演 ) は伝統的バレエを無視したモダンバレエの元型として余りにも有名

 

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僕を哲学的に考えさせる映画 【 ギレルモ・デル・トロの『 クロノス 』 】

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公開:1998年  監督・脚本:ギレルモ・デル・トロ

出演:フェデリコ・ルッピ    ヘスス・グリス

  : タマラ・サナス      ( アウロラ

  : ロン・パールマン    アンヘル

  : クラウディオ・ブルック( クラウディオ

  : マルガリータ・イザベル( メルセデス

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 クロノス 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたいという方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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 1. ギレルモ・デル・トロの初期の傑作『 クロノス 』

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a.   ギレルモ・デル・トロの『クロノス 』には、彼が影響を受けたと思われる幾つかの要素が見られますね。映画監督をする前には特殊メイクの仕事をしていた事もあって、小道具、この映画ではクロノス、の作り込みにはこだわりがあるようで、デビッド・クローネンバーグ的なグロテスク要素と共通するものが感じられます。

       

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       クローネンバーグの『裸のランチ』のバグライター

 

b.   そして、そのクロノスが果たす機能のモチーフが漫画JOJOの奇妙な冒険』の石仮面から来ているのではないかと多くの方が感じたであろう事は、ギレルモが日本の漫画・アニメに影響を受けている事を考えれば当然でしょう。吸血動物が組み入れられた機械仕掛けのクロノスは、通常は収納されている触手を人間に突き刺し血を吸う事で、その人間を吸血鬼と化し、肉体を大きな損傷を与える事故にでも遭わない限り、永遠に生きる事を可能にするという訳です。そのためには人間の血を吸わなければならない・・・だから吸血鬼なのですが、その点で、この映画は吸血鬼に完全になる事を拒否する主人公ヘススの振舞いが興味深いものとなっているのです。

 

 

2. 『 クロノス 』のストーリー

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a.   中世の錬金術師ウベルト・フルカネリは迫害から逃れて渡ったメキシコの地で、永遠の生命を与える事が出来る"クロノス"を作った。

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b.   そして、フルカネリは、そのクロノスを自らの身体に使用し400年間生き続けたのですが、建物の天井崩落事故に遭い、息絶えてしまう。

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c.   しかし、フルカネリに関する事は謎のままであり、クロノスも天使像の中に隠されたままで知られる事はなかった・・・そしてタイトルクレジット、クロノス!ここから話が動き出す。

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d.   骨董屋を営むヘスス・グリス ( フェデリコ・ルッピ ) は天使像の中からクロノスを見つけるのですが、それが何なのか分からない・・・。で、ヘススの側にはいつも孫娘のアウロラ ( タマラ・サナス ) がいる事がポイントですね。この娘との結びつきによって、この映画がたんなるヴァンパイア・ホラーにならずに済んでいます。

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e.   ここで、手のひらにクロノスを乗せていたヘススは、クロノスから突然延びて来た触手というか甲殻類的な爪に突き刺されてしまう。必死になってそれを引き剥がすヘスス。この辺りはジョジョの石仮面を彷彿とさせますね。

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f.   中盤の話は省略しますが、ヘススはクロノスによる吸血鬼化によって、大理石のような肌を、焼けただれ引きちぎられた皮膚の下から覗かせながら、クロノスを手にいれようとするクラウディオとアンヘルと戦わざるを得ない宿命 ( 1 ) に巻き込まれていきます。

g.   終盤には因縁のあるアンヘル ( ロン・パールマン ) と戦い、建物の上層部から2人とも落下してしまい息絶えてしまう。そこにヘススと行動を共にしていたアウロラが現れ、ヘススを優しく撫でる。

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h.   アウロラはクマのぬいぐるみの中 ( ヘススはクラウディオとアンヘルに見つからないよう、クロノスをぬいぐるみの中に隠していた ) からクロノスを取り出し、ヘススの身体にあてがう ( シーン32. 33. 34. )。つまり、アウロラはクロノスによって、ヘススが長生き出来る事を、彼の過去の行為 ( ヘススは度々、クロノスを自分の身体に突き刺す事によって生命を永らえさせる衝動に突き動かされていた ) を見て知っていたのですね。そして、クロノスに支配されたヘススが人間の血を吸わざるを得ない事も彼女は知っていた・・・。

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i.   なんとなく見ていると、見逃してしまうかもしれませんが、38.のシーンではアウロラは手から血を流し ( いつ彼女が自分の手を傷つけたかは、そのシーンがないので分かりづらいけど ) 、その手を自分の口元に持っていくのですね。つまり、私の血を吸っていいよ、おじいちゃん・・・という彼女の意思表示な訳です。復活したヘススは最初、吸血鬼としての欲望に負けそうになるのですが、このアウロラの自己犠牲的な献身と、彼女の "おじいちゃん" というセリフ ( 彼女はこのセリフ以外、この映画で言葉を発しない ) によって、我に帰るのですね。

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j.   我に帰ったヘススは、いつもなら高揚感を覚えたはずのクロノスの爪に、突如痛みを感じて惹き剥がし、石で叩き潰す。吸血鬼の欲望に打ち勝ち、人間性を取り戻したという事 ( この時、彼は何度も "自分はヘスス・グリスだ" と叫ぶ )ですね。吸血鬼化を拒否したヘススは、ダメージのため死ぬしかないのでしょうが、自宅のベッドでアウロラと妻のメルセデスに看取られながら束の間の平穏に包まれるというラストで映画は終わります。

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3. 『 クロノス 』の哲学的解釈

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a.   この映画の特徴は、ヘススが怪物になろうとも、孫娘アウロラの彼への親しさに揺るぎはないという点です。しかし、そこから、安易なヒューマニスム的感傷に浸るのは一端止めて、もっと細かい解釈をしていく事にしましょう。

 

b.   それは、ヘススへのアウロラの振舞いが彼女の内面から語りだされるものでは無い、つまり彼女の内面描写がないからです。彼女は感情を豊かに表す主体としては描かれていない ( たとえ監督の意図がどうであれ、結果としてという意味で ) という訳です。

 

c.   物語の冒頭から、アウロラはヘススと一緒にいるのですが、子供らしい喜怒哀楽を前面に表す訳ではない。もちろん、これは彼女の唯一のセリフ、シーン38."おじいちゃん" という部分とも繋がります。彼女の感情が余り見えないため、多くの観客は彼女の存在につい無関心になるのでしょうが、もし彼女の感情表現が最初から豊かであったなら、この物語はヘススという主人公に拮抗するもう1人の女性をヒロインとして描かざるえを得なかったでしょう。

 

d.   しかし、そうすると、物語の軸は、ヘススとアウロラの間の心理的緊張関係にひきずられる事になっていたかもしれない。つまり、この映画の世界観は2人の主体の内面的関係性によって構築されるというヒューマンドラマになってしまっていた可能性があったという訳です。

 

e.   おそらく、そのような世界観はギレルモは望まなかったでしょう。なぜなら、この映画の設定を考えるならば、ゴシック小説 ( ドラキュラやフランケンシュタインなどの ) の系譜に連なる怪物的世界観をいかにして作り上げていくかという事が、彼のテーマであったと推測出来るからです。この種の怪物映画によくあるのが、人間から怪物に移行しきれずに、揺れ動きながらも人間性に回帰する ( たとえ死ぬ事になろうとも ) というストーリーですね。

 

f.   ギレルモも、このモチーフに沿っているのですが、彼はヘススの内面を直接的に深刻に描くのではなく、アウロラメルセデス ( ヘススの妻 ) との家族関係という形式にヘススの内面を外化させる事によって世界観を作り上げるという手法を採っているのです。つまり、ヘススの内面性は、アウロラメルセデスとの、その時々の日常的関係を描写する場面によって "間接的に" 示されているという訳ですね。そうすると、ヘススへの揺ぎ無い優しさを持つアウロラとは、吸血鬼へと変貌したヘススの中に残っている人間性を象徴する存在だと解釈する事が出来るでしょう。

 

g.   この "内面の外化" というやり方のいいところは、登場人物の内面性に振り回される事なく( 逆に言うと、人間の内面とはそれくらい強力で凶暴なものだという事です) 、確固とした世界観を構築出来る所ですね。この映画におけるギレルモの世界観は、怪物的要素による破滅的決着へと向かわずに、登場人物たちが形作る "家族" という在り方へとその悪夢が回収されていくようにまとめ上げられているものだと言えるでしょう。

 

h.   ラストの場面 ( シーン47. ) がその事を象徴しているし、オープニングタイトル後の最初の場面も、ヘスス、アウロラメルセデスの3人の食卓シーンで始まっていますね。このようなギレルモの世界観を一言で表すなら、"ゴシック・ファンタジー"という事になるでしょう。

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( 1 )

でも、戦うといってもアメコミの映画ヒーロー ( バットマンスパイダーマンなど ) のように強靭な戦闘能力を獲得する訳じゃない。おじいちゃんが多少若返った分だけ元気になるっていう話だから、戦闘というよりは、トラブルに巻き込まれるっていうのが正確なところ。その辺は期待してはダメです(笑)。

 

 

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