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【 僕を哲学的に考えさせる映画 ブライアン・シンガーの『 ゴールデン・ボーイ 』 】

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公開:1998年

監督:ブライアン・シンガー

原作:スティーヴン・キング

出演:ブラッド・レンフロ  ・・・・・ トッド・ボーデン

  イアン・マッケラン  ・・・・・ クルト・ドゥサンダー

  :デヴィッド・シュワイマー ・・・ エド・フレンチ

 

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ユージュアル・サスペクツ 』、『 XーMEN 』シリーズ、『 ワルキューレ 』で知られるブライアン・シンガースティーヴン・キング原作の『 ゴールデンボーイ』を映画化した作品。この『 ゴールデンボーイ 』というタイトルは、原作の邦訳タイトルを踏襲しようという配慮から来ているのでしょうが、作品のイメージを伝えているとは言い難いですね。というのも "pupil" という単語が、教え子、弟子、門下生、などの " 師匠との絆 " 的なニュアンスがある事を考慮すれば、原作タイトルの『 Apt Pupil 』とは『 出来のいい教え子 』という意味になり、作品中で描かれるドゥサンダーとトッドという " 悪の継承 "にまつわる師弟関係を含ませた皮肉的な表現に他ならないからです ( もちろん、この映画の英語版タイトルは『 Apt Pupil 』)。それが『 ゴールデンボーイ 』になる ( 商業的なタイトルとしては響きがいいのかもしれないけど ) と、トッドの単独性しか示せていないという訳です。

とはいえ、作品の本筋が "悪の問題 " である事には変わりはない。その "悪" がドゥサンダーという老人とトッドという少年の "関係性" を通じて描かれる様には、原作者キングの凄みを感じざるをえないし、それを映像化したブライアン・シンガーの手腕は観客を十分楽しませるものだと思いますね。

 

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1. ナチスの "悪" に同調していくトッドの "悪" 

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f:id:mythink:20170330232931j:plain 原作と同じく、この映画でも一番の見所といえば、トッド ( ブラッド・レンフロ ) に強要されてナチスの制服を着用したドゥサンダー ( イアン・マッケラン ) が、最初は嫌がっていたものの、かつての強制収容所の副所長としての血が騒ぎ、次第にその気になって軍隊式行進を行う場面ですね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain アーサー・デンカーと名乗る老人が、実は元ナチスのクルト・ドゥサンダーである事に気付いた高校生トッド・ボーデンは、正体をばらされたくなければ、自分の言う事を聞くように脅す。

 

" 着てみろよ " by トッド

" わしを苦しませおって。張り倒すぞ " by ドゥサンダー

" ユダヤ人の苦しみにくらべたら何でもない " by トッド

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f:id:mythink:20170330232931j:plain 言われた通り、ナチスの制服を着て軍隊式行進を始めるドゥサンダー。次第にかつての姿の戻ったかのように熱を帯び、ナチス式敬礼まで行ってしまう ( シーン 8.~ 9. )。その余りの迫力にトッドは自分が言い出したにも関わらずひいてしまう。

" やめろ! " by トッド

" 気をつけろ 坊や " " これは危険な遊びだ " by ドゥサンダー

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f:id:mythink:20170330232931j:plain ここに至るまでのポイントは、トッドが元々、無邪気な少年で、ドゥサンダーと出会ってから悪に目覚めていくという設定ではなく、彼はドゥサンダーと出会う前から既に、" 悪の萌芽 "を自分の内側に抱えていたという事です。映画の冒頭で、トッドは高校の授業でナチスによるホロコーストについて知るという場面があります。通常ならば、多くの生徒はナチスの非人道的な虐殺という事実から、たとえ形式的にであれ、倫理的な教訓を引き出すのですが、稀にその倫理性よりも、命の尊重から懸け離れた野蛮な好奇心 ( ユダヤ人がどんな殺され方をしたのか、などの詳細を知りたがる欲望 )(※1) を優先させる特異な生徒がいる。それがトッドだったという訳です。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plainまり、ここには過去に実在したナチスの悪とは別の、1人の少年の中に存在する "悪" が、そのナチスの "悪" と出会い、覚醒していく過程があります。トッドは強制収容所での殺しの詳細を聞くなどしていたドゥサンダーとの関係に終止符を打とうする ( 学校の成績が下がってきたため ) が、もう手遅れだとドゥサンダーは言う、つまり、お前はもう悪の領域に踏み込んでいるという事ですね( シーン23.~24. )。

 

" 君は まだ人を殺すことを決心できないでいる "

" 殺すパワーはあるか?" by ドゥサンダー

" こんなことは終わりだ " " もうここへは来ない " by トッド

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" はじまりと終わりに乾杯 " by ドゥサンダー

" 勝手にしろ " by トッド

" わからんのか わしらは互いに地獄の底まで一緒だ " by ドゥサンダー

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f:id:mythink:20170330232931j:plain この後、ドゥサンダーは自分の命に保険を掛ける意味( これまでの関係を清算すべくトッドが自分を殺さないように)で、トッドに、自分達のやり取りを記した手紙を銀行の貸金庫に預けていて、自分が死ねばそれが公開される事になっていると脅す ( 結局、手紙の件はドゥサンダーの嘘なんだけど )。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ドゥサンダーは、あるきっかけで家に招きいれた浮浪者をナイフで殺そうとする。刺された浮浪者はドゥサンダーの家の地下へと転げ落ちたが、ここでドゥサンダーは心臓発作を起こしてしまい、後始末が出来なくなってしまう。動けないドゥサンダーは電話でトッドを呼び出す。トッドはドゥサンダーと距離を置いていたが、銀行の貸金庫にある手紙の件が気になり助けに行かざるをえなかった。トッドはドゥサンダーを死なせないために、救急車を呼ぼうとするが、息を吹き返した浮浪者を殺してしまう・・・。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain その一連の流れは、トッドの中の " 潜在的な悪 " がドゥサンダーによって引き出され、現実へと実在するようになった事を示す象徴的なシークエンスですね。それはトッドが自らの手で殺人を犯したという事だけでなく、それがばれない様に隠蔽し、自らの立場を守ろうとするズル賢さを同時に発揮するという" 悪と知 " が結びついた恐ろしさを示しています。つまり、" 生き延びようとする悪 " という事です。これこそ、イスラエルの追求から逃げて生きるドゥサンダーの存在様式であり、それを継承しようとしているのがトッドという訳ですね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 入院したドゥサンダーは、トッドに手紙の件は嘘だと告げる。その後、ドゥサンダーは隣のベッドの元強制収容所の捕虜だったユダヤ人に正体を見破られ、訪れたイスラエル機関とFBIの人間にエルサレムに送還する ( 裁判にはかけられるものの、それは死刑を意味する。例えば、実際のイスラエルによるアイヒマン裁判は余りにも有名。 ) と言われ自殺してしまう。

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 2. 引き継がれ、生き延びる " 悪 "

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f:id:mythink:20170330232931j:plain トッドの高校の卒業式で、カウンセラーのエドはトッドの両親との会話から、かつて面会 ( ドゥサンダーはトッドの成績が下がった時に、トッドの両親にバレないように、トッドの祖父だと偽って会っている。両親はこの事を知らない )したトッドの祖父であるはずの男が、元ナチスのデンカー ( ドゥサンダーの偽名 ) だった事を知るに至る。真相を確認すべくエドはトッドの所に向かう・・・。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain しかし、トッドは怯むどころか逆にエドを、" 性的関係の強要 " という嘘の演出で以って脅すのでした。自分を守る為なら何でもする男になっていたトッド・・・・・。

" ぼくが初めてか?"

" 成績を裏取引し電話番号を教え 会いにくる " by トッド

" 何の話だ?" by エド

" 男子生徒に手を出すとは " by トッド

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" 思い入れたっぷりに握手したな " by トッド

" まさか 私が君に何かしたと言うつもりか?" by エド

" 必要なら何だってやる " by トッド

" 私は君を助けようと " by エド

" 悪い噂を流せば汚名は一生消えない。どうだ エド " by トッド

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f:id:mythink:20170330232931j:plain このシークエンスでのトッドのズル賢さは、ブライアン・シンガーの前作ユージュアル・サスペクツの犯人であるキント ( ケヴィン・スペイシー ) と共通するものがありますね。左の手足に麻痺のある ( 自分が犯人ではないと思わせるための演技 ) キントが巧みな嘘を語り通し ( それこそが映画のストーリーとなっていた事が最後に分かる )  警察の取調べから解放され、徐々に姿勢を正しながら歩いていく姿は、彼こそが真犯人のカイザー・ソゼである事を示す有名なラストシーンですね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ゴールデンボーイ 』を見た後では、トッドこそ、カイザー・ソゼの少年時代だったのではないかと想像したくなるほど、" 生き延びる悪 " という存在が2つの映画の共通モチーフとしてある事が分かりますね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 原作者スティーヴン・キングの凄い所は、" 少年 " というものを" 未来に開かれた希望 " などではなく、そんな価値観を打ち砕くが如く、" 社会を脅かす悪の萌芽 " として描いている所です。社会を混乱に陥れる " 悪の存在 " とは、遠い世界の住人ではなく、最も身近な存在でありながら、時として理解不能な行動をする " 怪物 " である事の象徴として少年を取り上げているという訳です。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 原作では、トッドは最終的に銃による無差別殺人という狂気の行動に出て警察に殺される ( 邦訳ではそれが上手く伝わっていないけど ) ので、後味はよくないとはいえ、キングなりのケジメをつけているといえるでしょう。ところがブライアン・シンガーは映画では変更を加えています。トッドはキレて自分の立場を危うくするようなマネをせず、冷静にエド ( 原作ではトッドに殺されてしまう ) を脅迫するのですね。つまり、ブライアン・シンガーは、カイザー・ソゼと同様にトッドを生き延びらせるという選択をして、原作との差別化を図っているのです。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain この事は何を意味するのでしょう? 一見すると、原作のラストの方がセンセーショナルですが、映画の方がより " 不気味 " だといえます。社会に混乱をもたらす " 悪 " が排除される事なく、いつ爆発するか分からない危険物として留まっている事を示してるからです。いや、正確に言うなら、社会からそのような " 悪 " を取り除く事の不可能性が示されているという意味で、映画は原作以上に救いが無いと言えるし、それは同時に、よくある映画的な結末よりも、決着の無い、より現実的な方向に近づけたものだと言えるでしょう。

 

 

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(※1)

そこにあるのは、他人の殺害の中に、自分を満足させてくれる何かがあるかもしれないと期待する歪んだ欲望に他ならない。

 

 

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【 僕を哲学的に考えさせる映画 ギレルモ・デル・トロの『 パンズ・ラビリンス 』 】

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公開:2006年

監督:ギレルモ・デル・トロ

出演:イバナ・バケーロ ・・・・ オフェリア

  アリアドナ・ヒル ・・・・ カルメン ( オフェリアの母 )

  セルジ・ロペス ・・・・・ ビダル ( フランコ軍の大尉。カルメンの再婚相手)

  ダグ・ジョーンズ ・・・・ パン ( 牧神 )

  マリベル・ベルドゥ ・・・ メルセデス ( 小間使い )

 

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1. 〈 幻想 〉と〈 現実 〉

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f:id:mythink:20170330232931j:plain この映画、通常、思われている以上に、哲学的な深みがある。少なくとも、僕はそう感じましたね。大学などのアカデミックな哲学界では、哲学を人生論的な観点から語るというのは素人的な身振りであり問題にすらならないのですが、この映画は、その素人的な身振りは間違っていない事を示しています。

 人が他の誰でもない自分の人生を背負う限り、人生をどう考えて、どう生きるのかという問題が、その人にとって第一義的な哲学であるのは当然です。それ無くして、自分が存在するこの世界を理解する事は出来ないし、逆に言うと、この世界をどう理解するかは、自分の人生をどう考え、どう生きているか、という事によって左右される

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain なぜ、こんな話をするのかというと、〈 現実 〉の世界と自分の〈 人生 〉の間には、一定の〈 距離 〉があるからです。人間誰しも、成長していく過程で、社会という〈 現実 〉に参加するようになる、生きていくために・・・。

 その際、人はその〈 現実 〉に適応するために、水面下で自分を作り変える ( あるいは半ば強制的に作り変えらされる )。ではどう作り変えるのか。それは僕が思うに、それまで自分の中に保持していた自分の〈 世界 〉を改変していく事ですね。自分の〈 世界 〉とは、端的に言って〈 幻想 〉なのですが、その 〈 幻想 〉の改変を、哲学的、精神分析的にいうなら〈 幻想の横断 〉を、実行するという事になります

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain そういう言い方をすると、すごく崇高な印象を持つかもしれませんが、実際には各人の体験度合いによっては、それは横断というよりは、切り刻む、切り裂く、という耐え難い経験である場合もあるはずです。この時、各人において興味深い事が起きます。自分の〈 幻想 〉を横断して、〈 現実 〉の世界に適応する事が出来る人もいれば、〈 幻想 〉を切り裂く事に対する否定的な身振りを〈 現実 〉の世界へと転化する人もいるでしょう ( 攻撃的になったり、ひきこもったり、などの極端な行動化 )。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 以上の事を、アカデミックな哲学的・精神分析的観点から見ると、〈 幻想 〉とは、主体が〈 現実 〉の世界へと踏み出す ( アクティング・アウト ) ために必要な〈 要素 ( 細かく言えば、ラカン精神分析での "対象a" ) 〉としての価値しかない。もちろん、ここには最初に述べたように、人生を背負うのが他の誰でもない自分であるという〈孤独〉から来る人生論的観点が入り込む余地は全くない。御自分の人生哲学については、どうぞ御勝手に、という訳です。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain この映画が興味深いのは、そんな〈 幻想 〉を〈 要素 〉ではなく、ひとつの〈 世界 として提示している所です。外の〈 現実 〉も〈 世界 〉だけど、〈 幻想 〉も〈 世界 〉なのです。つまり、〈 幻想 〉も〈 世界 〉であるからには、〈 現実 〉に対して否定的に扱われる必要はないし、ましてや〈 現実 〉を構成する形而上的な〈 要素 〉でもない。〈 幻想 〉と〈 現実 〉は、並列的に、人が生きるに足る〈 世界 〉なのであり、もし同時に生きにくいのであれば、それは自分が〈 幻想 〉を保持する事を自ら放棄しようとしているからです。

 これを哲学的に非難しようとするのなら、その人は他人の人生を背負えるかどうか自問するべきですね。それが出来ないから、アカデミックな哲学は人生論を放棄しているのです( ※1 )自分の人生を背負うならば、人生を生き抜くために、幾つもの〈 世界 〉を自分の〈 聖域 〉、あるいは〈 秘密 〉として持つことは必要だと言えるでしょう。

 

 

2. 〈 幻想 〉というもうひとつの〈 世界 〉

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f:id:mythink:20170330232931j:plain ギレルモはこの映画を、魔法の王国が地底にあり、そこに住んでいるお姫様が、地上の人間界を夢見て、抜け出すという形で始める。魔法の王国は太陽がなく、わずかな月の光に照らされているかのように青暗い色調で描かれている ( シーン 1.~ 8. )。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain そして徐々に地上の世界に移行していく様子 ( 太陽の光に照らされている通常の風景 ) を交えながら、現在の話を始めていく ( シーン 9.14. )。一応、ここでは地上で死んだお姫様が魔法の王国に戻るという映画の結末が、それとなく仄めかされている。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain 魔法の王国の妖精 ( 妖精というには若干グロいけど、これこそギレルモ的キャラですね ) に誘われて、オフェリアは住処の近くにある森の迷宮に入り、地下へと降りていく。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain ここでオフェリアは迷宮の守護神パン ( ※2 ) に出会う。オフェリアは自分が魔法の王国のプリンセスである事を告げられる( シーン 21.26. )。

  ここから、オフェリアは、日常の〈 現実 〉と〈 幻想 〉のふたつの〈 世界 〉を生きる事になるのですが、ギレルモはこの落差を強烈な対比でもって描き出します。〈 現実 〉においては、フランコ政権下におけるスペイン内戦を、オフェリア周辺で起きる局地的な緊張状態として描き、〈 幻想 〉の〈 世界 〉においては、オフェリアの内面を誰にも知られる事のない秘密として描いているのです。

 それにしても、このパンも特徴的な造型で仮面ライダーの敵キャラに出てもおかしくない・・・。ギレルモのオタクぶりが表れていますね。

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 f:id:mythink:20170330232931j:plain 途中の過程は省略しますが、最終的にオフェリアは、魔法の王国に帰る条件として生まれたばかりの弟を一緒に連れてくるようにパンから指示されます。しかし、連れて来たのはいいもの、弟の血が必要だと言われ、拒否した結果、王国への帰還の話は無かった事になる。そして、子供を取り返しに来た義父のビダルによって射殺されてしまうという残酷な結果に・・・。

 でもギレルモはこれだけで話を終わらせません。ここからが大切なのですが、オフェリアの死は、揺るぎのない〈 現実 〉であるにも関わらず、ギレルモは〈 幻想 〉の世界を回収しようとするのです。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain 死に行く意識の中で、オフェリアはようやく王国に帰る事が出来ます。弟を殺す代わりに自分が殺された事で流した血によって、それが可能になったという訳です。さて、この場面をどう解釈すべきでしょう?

 現実逃避という事でしょうか?いや、それでは十分な説明にならない。なぜなら、〈 死 〉という最大の〈 現実 〉がオフェリアには既に訪れてしまっているからです。それにオフェリアは死の直前まで、弟を守るという現実的な行動を採っていた。ならば、この場面は、オフェリアは現実的な死の際にも、自分の中の〈 幻想の世界 〉を守るべきものとして最後まで手放さなかったという意味で、彼女の主体的な振舞いで満ちていると解釈すべきでしょう。

 これは自分の人生を背負う者としての孤独な主体にとって、大きな教訓ではないでしょうか。厳しい現実を前にして、〈 幻想 〉を自ら廃棄してあきらめて死ぬのか、それとも、〈 死 〉にも関わらず、自分の〈 幻想=秘密 〉を守り抜こうという主体としての使命を果たすのか、という訳です。もちろん、それは他の誰でもなく、自分にしか分からないのですが・・・・・。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain この後、ギレルモは〈 現実 〉のオフェリアの死の場面に戻します。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain ラストの一輪の花は、〈 幻想 〉の象徴だというべきでしょう。

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( ※1 )

人生論を説いた ( もちろんそれだけではない ) といえる最後の哲学者は、ニーチェですね。ニーチェは、それまでのヘーゲルを頂点とするドイツ観念論哲学の流れとは異質な哲学者であり、読者 ( ニーチェ的にいうなら人類 ) に強烈なメッセージを残した。それはマルクス主義的な革命のメッセージではなく、読者に自分の人生を再び生き直す( 永遠回帰 )べきだという人生論的メッセージ だった( 構造主義ポスト構造主義以降、このようなニーチェ像は薄まったけど )。彼は読者の人生に踏み込んでくる哲学者だったが、他人の人生を背負う代わりに、自分の破滅過程を差し出した ( たとえば、『この人を見よ』)。

 

( ※2 )

パンとは、ギリシャ神話における森や山、牧畜の神で笛を吹く半人半獣の神。ローマ神話ではファウヌス。文学や芸術分野ではよく用いられてきたモチーフでもある。最も有名な所で、フランスの詩人 ステファヌ・マラルメ象徴詩 牧神の午後 ( 1874 ) 』。それにインスパイアされたのが同じくフランスの作曲家クロード・ドビュッシーの『 牧神の午後への前奏曲 (1892~1894) 』。これに基づいてディアギレフのロシア・バレエ団のダンサーであったヴァーツラフ・ニジンスキーが振付した『 牧神の午後 ( 1912年初演 ) 』は伝統的バレエを無視したモダンバレエの元型として余りにも有名。

 

 

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【 僕を哲学的に考えさせる映画 ギレルモ・デル・トロの『 クロノス 』 】

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公開:1998年  監督・脚本ギレルモ・デル・トロ

出演フェデリコ・ルッピ   ( ヘスス・グリス )

  : タマラ・サナス      ( アウロラ

  : ロン・パールマン   ( アンヘル

  : クラウディオ・ブルック( クラウディオ )

  : マルガリータ・イザベルメルセデス

 

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1. ギレルモ・デル・トロの初期の傑作『 クロノス 』

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f:id:mythink:20170330232931j:plain ギレルモ・デル・トロの【クロノス】には、彼が影響を受けたと思われる幾つかの要素が見られますね。映画監督をする前には特殊メイクの仕事をしていた事もあって、小道具、この映画ではクロノス、の作り込みにはこだわりがあるようで、デビッド・クローネンバーグ的なグロテスク要素と共通するものが感じられます。

       

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       クローネンバーグの『裸のランチ』のバグライター

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain そして、そのクロノスが果たす機能のモチーフが漫画『JOJOの奇妙な冒険』の石仮面から来ているのではないかと多くの方が感じたであろう事は、ギレルモが日本の漫画・アニメに影響を受けている事を考えれば当然でしょう。吸血動物が組み入れられた機械仕掛けのクロノスは、通常は収納されている触手を人間に突き刺し血を吸う事で、その人間を吸血鬼と化し、肉体を大きな損傷を与える事故にでも遭わない限り、永遠に生きる事を可能にするという訳です。そのためには人間の血を吸わなければならない・・・だから吸血鬼なのですが、その点で、この映画は吸血鬼に完全になる事を拒否する主人公ヘススの振舞いが興味深いものとなっているのです。

 

 

2. 『 クロノス 』のストーリー

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f:id:mythink:20170330232931j:plain 中世の錬金術師ウベルト・フルカネリは迫害から逃れて渡ったメキシコの地で、永遠の生命を与える事が出来る"クロノス"を作った。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain そして、フルカネリは、そのクロノスを自らの身体に使用し400年間生き続けたのですが、建物の天井崩落事故に遭い、息絶えてしまう。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain しかし、フルカネリに関する事は謎のままであり、クロノスも天使像の中に隠されたままで知られる事はなかった・・・そしてタイトルクレジット、クロノス!ここから話が動き出す。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain 骨董屋を営むヘスス・グリス ( フェデリコ・ルッピ ) は天使像の中からクロノスを見つけるのですが、それが何なのか分からない・・・。で、ヘススの側にはいつも孫娘のアウロラ ( タマラ・サナス ) がいる事がポイントですね。この娘との結びつきによって、この映画がたんなるヴァンパイア・ホラーにならずに済んでいます。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain で、ヘススは手のひらにクロノスを乗せていたら、クロノスから突然延びて来た触手というか甲殻類的な爪に突き刺されてしまう。必死になってそれを引き剥がすヘスス。この辺りはジョジョの石仮面を彷彿とさせますね。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain 中盤の話は省略しますが、ヘススはクロノスによる吸血鬼化によって、大理石のような肌を、焼けただれ引きちぎられた皮膚の下から覗かせながら、クロノスを手にいれようとするクラウディオとアンヘルと戦わざるを得ない宿命 ( ※1 ) に巻き込まれていきます。

終盤には因縁のあるアンヘル ( ロン・パールマン ) と戦い、建物の上層部から2人とも落下してしまい息絶えてしまう。そこにヘススと行動を共にしていたアウロラが現れ、ヘススを優しく撫でる。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain アウロラはクマのぬいぐるみの中 ( ヘススはクラウディオとアンヘルに見つからないよう、クロノスをぬいぐるみの中に隠していた ) からクロノスを取り出し、ヘススの身体にあてがう ( シーン32. 33. 34. )。つまり、アウロラはクロノスによって、ヘススが長生き出来る事を、彼の過去の行為 ( ヘススは度々、クロノスを自分の身体に突き刺す事によって生命を永らえさせる衝動に突き動かされていた ) を見て知っていたのですね。そして、クロノスに支配されたヘススが人間の血を吸わざるを得ない事も彼女は知っていた・・・。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain なんとなく見ていると、見逃してしまうかもしれませんが、38.のシーンではアウロラは手から血を流し ( いつ彼女が自分の手を傷つけたかは、そのシーンがないので分かりづらいけど ) 、その手を自分の口元に持っていくのですね。つまり、私の血を吸っていいよ、おじいちゃん・・・という彼女の意思表示な訳です。復活したヘススは最初、吸血鬼としての欲望に負けそうになるのですが、このアウロラの自己犠牲的な献身と、彼女の "おじいちゃん" というセリフ ( 彼女はこのセリフ以外、この映画で言葉を発しない ) によって、我に帰るのですね。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain 我に帰ったヘススは、いつもなら高揚感を覚えたはずのクロノスの爪に、突如痛みを感じて惹き剥がし、石で叩き潰す。吸血鬼の欲望に打ち勝ち、人間性を取り戻したという事 ( この時、彼は何度も "自分はヘスス・グリスだ" と叫ぶ )ですね。吸血鬼化を拒否したヘススは、ダメージのため死ぬしかないのでしょうが、自宅のベッドでアウロラと妻のメルセデスに看取られながら束の間の平穏に包まれるというラストで映画は終わります。

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3. 『 クロノス 』の哲学的解釈

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f:id:mythink:20170330232931j:plain この映画の特徴は、ヘススが怪物になろうとも、孫娘アウロラの彼への親しさに揺るぎはないという点です。しかし、そこから、安易なヒューマニスム的感傷に浸るのは一端止めて、もっと細かい解釈をしていく事にしましょう。それは、ヘススへのアウロラの振舞いが彼女の内面から語りだされるものでは無い、つまり彼女の内面描写がないからです。彼女は感情を豊かに表す主体としては描かれていない ( たとえ監督の意図がどうであれ、結果としてという意味で ) という訳です。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 物語の冒頭から、アウロラはヘススと一緒にいるのですが、子供らしい喜怒哀楽を前面に表す訳ではない。もちろん、これは彼女の唯一のセリフ、シーン38."おじいちゃん" という部分とも繋がります。彼女の感情が余り見えないため、多くの観客は彼女の存在につい無関心になるのでしょうが、もし彼女の感情表現が最初から豊かであったなら、この物語はヘススという主人公に拮抗するもう1人の女性をヒロインとして描かざるえを得なかったでしょう。しかし、そうすると、物語の軸は、ヘススとアウロラの間の心理的緊張関係にひきずられる事になる。つまり、この映画の世界観は2人の主体の内面的関係性によって構築されるというヒューマンドラマになってしまっていた可能性があったという訳です。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain おそらく、そのような世界観はギレルモは望まなかったでしょう。なぜなら、この映画の設定を考えるならば、ゴシック小説 ( ドラキュラやフランケンシュタインなどの ) の系譜に連なる怪物的世界観をいかにして作り上げていくかという事が、彼のテーマであったと推測出来るからです。この種の怪物映画によくあるのが、人間から怪物に移行しきれずに、揺れ動きながらも人間性に回帰する ( たとえ死ぬ事になろうとも ) というストーリーですね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain ギレルモも、このモチーフに沿っているのですが、彼はヘススの内面を直接的に深刻に描くのではなく、アウロラメルセデス ( ヘススの妻 ) との家族関係という形式にヘススの内面を外化させる事によって世界観を作り上げるという手法を採っているのです。つまり、ヘススの内面性は、アウロラメルセデスとの、その時々の日常的関係を描写する場面によって "間接的に" 示されているという訳ですね。そうすると、ヘススへの揺ぎ無い優しさを持つアウロラとは、吸血鬼へと変貌したヘススの中に残っている人間性を象徴する存在だと解釈する事が出来るでしょう。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain この "内面の外化" というやり方のいいところは、登場人物の内面性に振り回される事なく( 逆に言うと、人間の内面とはそれくらい強力で凶暴なものだという事です) 、確固とした世界観を構築出来る所ですね。この映画におけるギレルモの世界観は、突如侵入してきた怪物的要素によって混乱させられるにも関わらず、最終的には、登場人物たちが形作る "家族" という在り方へとその悪夢が回収されていくようにまとめ上げられているものだと言えるでしょう。ラストの場面 ( シーン47. ) がその事を象徴しているし、オープニングタイトル後の最初の場面も、ヘスス、アウロラメルセデスの3人の食卓シーンで始まっていますね。このようなギレルモの世界観を一言で表すなら、"ゴシック・ファンタジー"という事になるでしょう。

 

 

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( ※1 )

でも、戦うといってもアメコミの映画ヒーロー ( バットマンスパイダーマンなど ) のように強靭な戦闘能力を獲得する訳じゃない。おじいちゃんが多少若返った分だけ元気になるっていう話だから、戦闘というよりは、トラブルに巻き込まれるっていうのが正確なところ。その辺は期待してはダメです(笑)。

 

 

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【 かつて格闘マシーンとして見る者を熱くさせた黒澤浩樹は晩年、懐の深い人間になっていた・・・・・。】

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■ 元極真空手聖心館空手道館長の黒澤浩樹氏が2017年3月25日、急性心不全のため、亡くなられました。享年54才。早過ぎる死です・・・。極真時代は、1984年の第16回全日本大会で初出場・初優勝して以降、松井章奎(国際空手道連盟・極真会館館長)・増田章(IBMA極真会館主席師範)と共に、三強時代を築き、その強烈な下段回し蹴りは黒澤氏の代名詞となりましたね。極真での大会出場を退いた後は、PRIDE.1に参戦(1997年)し、大山総裁の死去による極真会館分裂騒動では、松井派に所属したものの、松井氏との対立から独立して実戦空手黒澤道場を起こしました。その後、Kー1にも参戦(2000年)し、2011年には、黒澤道場を聖心館空手道に改名し後進の育成に当っている所でしたが、膝の手術後のリハビリの最中に亡くなられたという訳です。

 

■ 少なくとも、現在40代半ば以降の方なら、黒澤氏の全盛期であった極真時代における激しい戦いぶりをリアルタイムで体感し、熱い思いに駆られた事でしょう。〈格闘マシーン〉とは、その時期に付けられたニックネームであり、氏のパブリックイメージを確立させるものでしたね。ただ、今回は、氏のそんな格闘マシーン振りを示す詳細は他所に譲るとして、吉田豪によるインタビューを紹介する事によって、氏の晩年の人間性の一端を垣間見る事が出来るのではないかなと思います。

 

■ 中年以降のある程度長く生きてきた人ならば分かるでしょう、人間って、1つか2つのイメージで語りつくせる程単純な生き物ではない事を。つまり、格闘マシーンのイメージは黒澤氏の全てではなく、黒澤氏の1面なのであり、それ以外に日常を生きる人間性が当然あるという事ですね。このインタビューで分かるのは、彼は格好をつけて自分のパブリックイメージに固執するどころか、もはやそんな事にはこだわらず、インタビューを楽しみながら、ざっくばらんな自分の姿をさらけ出す懐の深さを見せてくれているという事です。

 

 

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吉田豪による黒澤浩樹へのインタビュー

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■ プロインタビュアーの吉田豪といえば、それこそ何人もの芸能人・著名人などにインタビューされているのですが、雑誌「BUBKA2015年6月号」の" BUBKA流スーパースター列伝 "というインタビュー連載で黒澤浩樹氏に登場してもらっています。今から約2年前。吉田氏の絶妙なインタビューによる黒澤氏の饒舌ぶりを読むと、氏の晩年における最後の本音のインタビューだったといっても過言ではないでしょう。

 

■ それにBUBKAってサブカル雑誌だから、そっち系に興味のある人じゃないと、読まないだろうし、黒澤氏へのインタビュー自体も、現時点では吉田氏の単行本には未収録という事もあるので紹介しておく事にしましょう。

 

以下、インタビューからの抜粋。

 

■ 冒頭の部分。黒澤氏、しょっぱなから自分の変化をあっさりと認めてますね。

( 吉田 ) 黒澤先生は現役時代からインタビュー嫌いという噂が流れていたわけですけど・・・・・。

( 黒澤 ) フフフフ、噂だけですけどね(笑)。

( 吉田 ) え!単なる噂だったんですか?

( 黒澤 ) 昔はそういうところがありましたね。〈 中略 〉最近、人あっての自分なんだと思えるようになってからはずいぶん柔らかくなって。 

 

( 黒澤 ) 〈 中略 〉 空手の世界もこれだけグチャグチャになって、独立して自分で道場やるとなると、毒もずいぶん飲まなきゃいけないので。簡単に言うと丸くなったというか、人間らしくなったというんですかね。なので、よっぽどのことがない限りはふつうに取材も受けます。

 

( 黒澤 ) 〈 中略 〉だからそういう意味では、極真を辞めてからのほうが内面的なところで鍛えられました。極真会館にいたときは大きな組織にいたぶんだけ大きな試合にも出られましたんで、そこで肉体的な部分を育てたと思うんですけど、辞めてからのほうが、ある意味不合理というか、毒はしょうがないから飲むしかない、みたいなことをやってたんで。      

 

正道会館との過去の確執や大山総裁についても触れてます。総裁の口癖をマネする黒澤氏。こんなに楽しい人だとは・・・。

( 吉田 ) 昔は、佐竹雅昭さんが女性の裸が出ている雑誌に出てただけで激怒したけれど(笑)。

( 黒澤 ) あの頃はホントに・・・・・子供だったんでしょうねぇ。やっぱり正道会館のあり方と、自分がいたときの極真会館のあり方は真逆にあって。「黒澤さん、そんなこと言ったって正道はこうなんですよ」とか「極真はこうなんですよ」とか、いろんなことを言われたりすると、俺はずいぶんきれいなところだけ見てやってたのかなって。

 

( 黒澤 ) 総裁と食事したとき、佐竹さんがまだこっちで稽古したりしてた時期で、佐竹さんと街ですれ違ったことがあるんです。「こっちは挨拶したんですが、向うは何も返さなかったんです」って言ったら、「君ィ、どうしてそこで叩きのめさなかったんだ!」と。

( 吉田 ) ダハハハハ!「それが極真だ」と。

( 黒澤 ) 「やらなくちゃダメだよ!」「それが極真だよ!」みたいなことを、総裁が亡くなる1年前、池袋の中華料理屋で言われて。まだそんなこと言っちゃうのか、言っちゃってもいいわけ?みたいな(笑)。

( 吉田 ) 90年代にもなってまだ(笑)。

( 黒澤 ) 緑健児が優勝して自分と増田章が呼ばれたときですよ。「君ィ、そういうときは、その場で叩きのめさなきゃダメだよ。なんでやらなかったんだ、だから君は世界チャンピオンになれなかったんだ!」と(笑)。

( 吉田 ) ダハハハハ!そのせい(笑)。

 

■ 他人が抱く自分のイメージについて

( 吉田 ) この辺りで話を戻すと、これまでに黒澤さんの本を出す人もいたけれど、そのお金は全然入ってなかったってことなんですかね。

( 黒澤 ) そうですね。本を書いていただいたときにはその人なりの黒澤浩樹像みたいなものがあるんですけど、それも主観なんですよ。

( 吉田 ) その黒澤浩樹像とズレてくると、向うはモヤモヤしてきたりもするわけですよね。

( 黒澤 ) 簡単に言うと、気に入らないんですよ。「こうじゃないと黒澤浩樹じゃない」って。 

( 吉田 ) 黒澤浩樹は取材嫌いでニホンオオカミみたいな極真空手家のはずなのに、どうしてPRIDEとかKー1に出てるんだよ!って。

( 黒澤 ) そうなんですよ。自分はイメージをすごく持たれやすいんですけど、くだらないことにこだわらないでいかなきゃなって。だから、組織が分裂してまたくっついてとか見ても、好きにやったらいいんじゃないかとか、もう極真にこだわらないで自分の腕で築き上げていったほうがいいのにとか、そんなふうに思った時期もあるんですけど、いまはそういうことすらも気にならなくなって。

 

■ 試合に勝てなくて多摩川と横浜港に飛び込んだ話とかも。凄すぎる。そんな空手家が他にいるのか!しかし・・・人間そう簡単には死なないという話なのですが、黒澤氏の早過ぎる死という事実が訪れた今となっては、複雑な思いを抱いてしまいますね・・・・・。

( 黒澤 ) 生徒とはいろんな話をするんですけが、「おまえら死ぬ死ぬってよく言うけど、人はそう簡単に死ねないよ」と。〈中略〉全然勝てないんで、もう死んでやれと思って多摩川に道着を全部投げ捨てて、自分も多摩川に飛び込んだことがあったんですよ。ところが、飛び込んだら、あまりにも冷たいんで、「死んじゃう死んじゃう!」って言いながら勝手に泳いで岸まで出てきて、そして「死にそうだ、死にそうだ!」って震えてタクシーに乗って家に帰ったことがあるんです(笑)。

( 吉田 ) 体力があればなんとかなる(笑)。

( 黒澤 ) 人間ってよっぽど腹が据わってないと、気がついたときには防衛本能が働くから、そう簡単に死なないよ、と。それから何年かして、今度は横浜港に飛び込んだんです。

( 吉田 ) えぇーっ!!

( 黒澤 ) それも12月なんですよ。バーンと飛び込んだら、やっぱり寒くて。なおかつ、川と違って海は潮があるから余計に冷たくて、そのときもやっぱりタクシーで帰って(笑)。

 

( 黒澤 ) 〈中略〉「だからそう簡単に死ねるもんじゃないよ。ということは、相当根性がないと自殺できないよ。おまえら死ぬだけの根性はあるのか?中途半端になると苦しいぞ。だったら乗り越えろ」と生徒に言うんです。死ぬ気でやるってことは大変なんだけど、でも死なないから。そう言うと、なんか納得してるみたいなんですよ。もしかしたら自分はそういうことを言うために、神様に試練を与えられてたのかな、と。

 

■ トレーニングについても話しています。黒澤氏の現役選手時代、筋トレのスクワットで確か330か340kgを挙げた時、膝はバキバキと音を立て、毛細血管が切れて鼻血が出たというエピソードを記憶していますが、そんな話を聞くと、もはや数字で示される筋力の凄さを超えた精神的なものの強靭さを感じてしまいますね。

( 吉田 ) 常にオーバーワークでしたもんね。

( 黒澤 ) 何かもがオーバーワークで、オーバーワークじゃないと安心できない。怖がりもあると思うんで。だから血尿が出ないと安心できない。よくないですけど。だから砂袋を蹴ると毛細血管が切れてそれがオシッコから出るだけだったんですけど、でも頑張って蹴ったりとか。でも、辛かったことと楽しかったことだと、辛かったことのほうが人はみんな記憶に残っている。たぶんそれが人間の成長の糧になってると思うので。だから、「俺なんか勝ってる試合も負けにさせられたよ、指がグチャグチャになったよ」って言いますけど、でもそれもう1回やってみろって言われたら、「もういいです」ってなるので。だから、格闘技の本なんかで「そういう思いをしたのは極真で黒澤さんだけですよね」って言ってくれると、ちょっと心のなかでは「そうそう、俺ってすごいでしょ?」っていうのがあるんですけど(笑)。

 

■ 失われていない闘志

( 吉田 ) 考え方が変わってきたんですね。

( 黒澤 ) でも、やっぱり奥底で眠っている・・・・・グローブを着けてスパーリングやっているときは、いまだに叩かれたら倍にして返すみたいなのはちゃんとあるんだな、と。根底には打たれたら3倍返し、5倍返しみたいなところはあるんだけど、でもそれを表に出すんじゃなくて、それがエネルギーとなっていけばいいんで。 

 

■ 自分の哲学についても語っています。ここでの話しは興味深いものになっていますね。人間歳をとって丸くなると、周囲の人としゃべるし、周囲の人の方からも話しかける程、馴染んで溶け込んでいく・・・黒澤氏はこれを "空気のようになる" と表現しています。こうなると人は周囲から浮き出る豪傑のような存在にはならないはずだ、と黒澤氏は語っています。多分、昔の黒澤氏ならば、むしろ、周囲に馴染まない豪傑のような存在の方に惹かれていたのかもしれないのに、晩年にはそうじゃないよ、というその哲学。黒澤氏の全盛期を知っているならば、驚きを覚える人もいるかもしれません。でも、そこには人間とはやはり周囲との関係性の中で生きていく動物なんだ(※1)、という事を客観的に分析出来る程の心境に達している晩年の黒澤氏がいるという事です。もちろん、そんな事を弱い人間が言ったって、説得力がないけど、幾多もの激戦の中を生きてきた黒澤氏の言葉だと色々と考えさせるものがある事は間違いないでしょう。

( 黒澤 ) 「英雄色を好む。いくつになってもいい女をはべらしてないと男は強くなれないよ」って総裁は言ってましたけど、自分としては違うよ、と。それはある程度までいくと、そういう欲はどんどんなくなっていってホントに丸くなる。そして空気のようになってきて、いつまでもこの人と話していたいなっていう気持ちになるから豪傑にはならない。総裁も歳をとって、90とか100歳くらいまで生きてらしたら、そういうふうに変わったかもしれない。

 

■ なんとVシネマについても語る。この辺はかなり面白いです。

( 黒澤 ) 仁義なき戦い』はバイブルでした。何年か前に久々に観たんですけど、俺なんでこんなのにハマッたのかなって(笑)。

( 吉田 ) 極真の人があれにハマるのはわかるんですよ。極真っぽい部分がありますからね。

( 黒澤 ) そう!ありますよね。あれを立て続けに観て、小笠原(和彦)先輩とかとそういう話をしてたなあ・・・・・。〈中略〉・・・、『首領への道』っていうVシネマのシリーズがあって、俺もこんなのに出て関西弁で演技してみたいなと思って、それでいろいろ頼み込んで。

( 吉田 ) 自分から頼んだ!

( 黒澤 ) ちょうどK-1の試合が一段落したときに、田代まさしさんがVシネマの仕事をやってて、『広島四代目』っていうVシネマの親分役で出てくれって言われたんですよ。で、行ったら田代さんに「黒澤さんじゃないですか!黒澤さんが来るんだったらもっといい役をやってもらいたかったです」と。加藤雅也さんとか、共演者もみんな空手とか知ってるんで、「なんで黒澤がいるんだ!?」みたいな感じで。言えないじゃないですか、「自分、ちょっと出たかったんですよ」って(笑)。ミーハーって思われちゃうから。だから「いや、ちょっと知り合いにどうしてもって言われたんで」って感じで。

 

■ プロレスの話も。長州力が好きだったとは。

( 吉田 ) 初出場で初優勝した84年の全日本大会の直前に、藤波と長州の試合を観ていた、みたいな話も本に出てましたね。

( 黒澤 ) ああいうのもすごく共鳴しましたね。

( 吉田 ) 共鳴してたんですか!

( 黒澤 ) 共鳴しましたね。そのちょっとあとに長州さんが独立して。ウチの兄貴が銀行員だったんで、たまたま「浩樹、いま俺、五反田支店でジャパンプロレスと取引があるんだよ」って、チケットをよくもらって観に行ったりとかして。長州力、大好きだったですね。だから変にプロレスを否定することもないし。

〈中略〉

( 吉田 ) しかし、黒澤先生がこんなに饒舌だとは思わなかったですよ!びっくりしました!

 

 

 

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(※1)

これに対して『 誰も学ばない、誰も知ろうとはしない、誰も教えない。一孤独に耐えることを。孤独に耐えてこそ、それを真の武士道という。』という黒澤氏の言葉がありますが、もちろんこれは "精神的な" 意味で解釈すべきであって、物理的に孤独になるような振舞いをする事を意味しないのは言うまでもないでしょう。

 

 

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【 レンブラントからジュネへ 1. 】

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新潮文庫の『泥棒日記』で有名なフランスの作家ジャン・ジュネが1967年に発表したレンブラント〈小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ込まれた一幅のレンブラントから残ったもの〉は小作品でありながら、ジュネの独特な哲学的思考によって、青年期を抜け出した自らの人生を、お気に入りの芸術家レンブラントと絡み合わせながら織りなした美しい傑作だといえるでしょう。現代企画室から鵜飼 哲による訳で出版されている『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』に所収されているこの作品について、今回は考えてみますね。 

    

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                                 ジャン・ジュネ (1910 ~ 1986)

 

一般的に知られているジュネの相貌は老年期のものなので、その老成した男が男娼であったという事実を信じられない人もいると思います。しかし、この若かりし頃のジュネを見ると、普通の青年であった事が分かるでしょう。最も、自分がイケメンでない事はジュネ自身も認めていましたが。しかし、服の着こなしを見ると洒落た所もあり、そこはフランス的なものを感じますね。この写真では、コートの襟を微妙に立てるという小技を何気なく使っている。完全に立ててしまうと、やりすぎ感が出てしまうのですが、このバランスが格好いい。当時、ジュネと近かったジャン・コクトーやジャン・ポール・サルトルなどもスーツ姿が決まっていました。ひらたく言うと、格好をつけていただけという訳ですが、着こなし(単に高い服を着るという意味ではないけど)に無頓着な知識人よりも、普通にそれが出来る方が〈センス〉が感じられて僕的には好感が持てます。

 

 

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1. 『小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ込まれた一幅のレンブラントから残ったもの』という長すぎるタイトルについて

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f:id:mythink:20170330232931j:plain この長すぎる異様なタイトルについては、『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』の訳者、鵜飼 哲による訳者付記を参照しましょう。サーカスの綱渡り芸人だったアブダラが自殺した事(1964年)にショックを受けたジュネ (アブダラはジュネの恋人だった) が、当時書いてあったレンブラント論をすべて破棄し、便器に流してしまったという。この話は、作家ゴイティソーロの妻がジュネのアシスタントをしていた時に、彼に語ったものらしいのですが、実際に便器に流してしまったかどうかは微妙だなと個人的には思いましたね。だってある程度の分量の草稿を破って実際に流すととしたら、詰まってしまうでしょう・・・。まさか、詰まらないように毎日、小分けにして流すマネなんてしないだろうし。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain なぜ、こんなつまらない話をするのかというと、〈小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ込まれた一幅のレンブラントから残ったもの〉というタイトルは、テクストの実際の成立過程とは逆の地点、つまりその後の〈未来〉から投げ込まれたものですが、〈過去〉の時点で作品になるかどうかも分からない草稿が果たして、その〈未来〉を待っていたかどうかという哲学的推理をしようとするならば、草稿が破られて便器に流されたという話を実際のものとして即物的に受け止めていては、その試みは難しくなるからですつまり、草稿が破られて便器に流されたという話は、たとえそれが実際の話だとしても、〈象徴的なもの〉として理解される必要があるという事ですね。

 

 

2.『小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ込まれた一幅のレンブラントから残ったもの』の成立過程への哲学的考察 Ⅰ.

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f:id:mythink:20170330232931j:plain それではテクストの成立過程を見ていきましょう。そもそもは、レンブラントについての草稿から抜粋された2つの文章が、アブダラの自殺による破棄〈以前〉アルジェリア戦争中(1954~1962年)に、ある雑誌に別々のテクストとして〈既に〉発表されていたという経緯がまずありました。その後、アントナン・アルトー全集の編集者だったポール・テヴナンがジュネの2つの文章の事を思い出し、前衛文芸雑誌『テルケル』に発表する事をジュネに提案し、その際、2つの文章が同じ頁上に2つの欄としてあるという特異な形式で掲載される事になった(1967年)という訳です。〈小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ込まれた一幅のレンブラントから残ったもの〉というタイトルも、その時に付けられという。こう書くと一見、違和感のないストーリーのように思えますが、幾つか考える点がありますね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain まず、レンブラントについての草稿から2つの文章が抜粋された、という言い方だと、まるで〈1つ〉のテクストの草稿から2つの文章が抜粋されたかのような印象を受けますね。しかし、この見方だと、草稿は形式的には、〈1つのもの〉として〈既に〉完成されていたという事になります。〈1つのもの〉として〈既に〉完成された草稿から2つの文章を抜粋して、わざわざ別々の文章として、発表するだろうか(編集者の介入の仕方という問題が仮にあったとしても)という疑問が起きますね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain そうすると、次のように考える事が出来ます。〈1つのもの〉としての草稿は完成されていなかった。2つの文章を抜粋する事が出来るというのは、草稿が幾つもの断章の集まりに過ぎなく作品として完成されていなかった、と。よくある話ですね。そして、この未完の草稿が数年後の1967年に『小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ込まれた一幅のレンブラントから残ったもの』というタイトルを与えられて完成されたと考えれば、魅力的な話だといえるでしょう・・・。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain しかし・・・〈小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ込まれた一幅のレンブラントから残ったもの〉も、それ以前に発表された2つの文章も、基本的には、同じもの。それ以前に発表された2つの文章は、アルジェリア戦争中(1954~1962年)のものであり、『小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ込まれた一幅のレンブラントから残ったもの』は1967年の発表。その間の1964年にアブダラの自殺があった訳ですが、ジュネがショックを受ける程の事件であったにも関わらず、その前後に発表されたテクストが同じであるとは、どういう事なのか・・・。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain つまり、それが意味する所は、アブダラの自殺(1964)により、ショックを受けたジュネがレンブラントについての草稿を破り捨てたものの、それ以前に発表されていた(1954~1962)2つの文章が、草稿の〈残り物〉として、後年、〈小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ込まれた一幅のレンブラントから残ったもの〉(1967)として陽の目を見る事になったというストーリーには矛盾が見られるという事です。

なぜなら、草稿が破り捨てられる以前から、テクストは2つの文章でしかなかったからです。もし〈小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ込まれた一幅のレンブラントから残ったもの〉が、2つの文章という形式にこだわらないものであったなら、草稿の〈残り物〉としてジュネが思い出しながら書き起こしたかもしれないと考えられるのですが、『小さな真四角・・・』は、その特異な形式から分かる通り、以前に発表したままの2つの文章という形式への強いこだわりが見られます。これは草稿の〈残り物〉どころか、草稿〈それ自体〉であるとさえ言えるでしょう。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain という事は〈残った物〉とは、直接的な意味で草稿の事ではない(全く関係ないという訳ではないが)と考えるべきです。〈破棄〉という言葉に囚われ、〈残った物〉を草稿と解釈するのは、1967年のテルケル掲載時の完成形テクスト『小さな真四角・・・』からの過去への遡及的投影に他ならないでしょう。1. でも言及したように、それでは即物的過ぎるのです。『小さな真四角・・・ 』は、アブダラの死による草稿破棄というストーリーを主軸として解釈するのではなく、もっと別様に、より〈思弁的〉に解釈する必要があるように思われますね。

 

 

3. 『小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ込まれた一幅のレンブラントから残ったもの』の成立過程への哲学的考察 Ⅱ.

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f:id:mythink:20170330232931j:plain では、別様に解釈するにはどの点から考え直すべきでしょう。〈残り物〉が草稿ではないとしても、それならば、その草稿をどう位置付けるべきなのかという問題が残りますね。〈残り物〉についての思弁的考察を行う上で、草稿は〈残り物〉存在論に思考する為に必要な最低限の実存的基盤であるからです。つまり、〈残り物〉について考えるには、〈草稿〉との関係性も未だ考える必要があるという事です。この〈草稿〉が、形式的にどのようなものであったか、未完成の断章であったのか、は実際の所、分からないと言う事しか出来ないでしょう。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain しかし、〈残り物〉存在論的に思考する上で、〈草稿〉を実存的に確定する事の出来る1つの可能性がありますね。それは、〈草稿〉〈既に〉発表されていた。それこそ、『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』に同収されているテクスト、レンブラントの秘密〉(1958年発表) だと、僕は推測します。あくまで、推測ですけどね。もちろん、〈草稿〉の〈全て〉が発表された訳ではない。〈草稿〉の内、発表されたのが〈レンブラントの秘密〉であり、残りは発表されていない。それこそが、あの2つの文章、今日では〈小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ込まれた一幅のレンブラントから残ったもの〉と呼ばれているものですね。つまり、そこにあった〈物たち〉とは、1つの作品になろうとしたものの、そこに収まりきれず分裂し増殖した〈草稿たち〉であったという訳です。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain それらの短い草稿をひとつのものとしてまとめる事が出来なかった事は、ジュネの整合力の無さによるというより、それこそがジュネの特徴であるとさえいえるのです。つまり、至る所に生え、至る所から繁殖していく、〈思考〉の雑食性が彼の中にはあるのであり、それはストーリー性のあるはずの小説だろうと、おかまいなく忍び込んで、〈雑草〉として自らを増殖させていくという極めてドゥルーズ的なテーマの最たる例となっていて、彼の小説の中に見られる思弁的叙述がその事を物語っていますね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain そう、ジュネの中では、〈思考〉はアカデミックに育まれたものとしてあるのではなく、〈思考〉が〈雑草〉として生活の中で繁茂して、その生域を確保していたという訳です。ジュネにおいて〈思考〉の実存的形式は、〈雑草〉に他ならなかった。ジュネにおける哲学的思弁性の由来を問う声がありますが、それは〈雑草〉の由来を問うのと同じくらい、意味の無い事でしょう。〈雑草〉は気付いたら、至る所にいつの間にか生えている。それが示す哲学的様態は、ドゥルーズの言う所の〈中間的なもの〉に他ならない。それは何処にも属さない。まず思考する事から始めるのではなく、何処に向かうのでもなく、〈中間的なもの〉に留まり、そこを住処とする事。その時、人は〈思考〉の最中にいる。この〈中間的なもの〉は、後ほど述べますが、ヘーゲルとの比較において大きな意味を持つと言えます。

話を戻すと、勝手に増殖していく雑草性のために、ひとつにまとめる事ができなかった事例が、レンブラントについての幾つかの草稿であり、分かりやすい解釈を許さない小説作品だったという事になるでしょう。

 

 

 

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次回へ続く

 

 

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【 僕を楽しくさせるカルト映画〈 ザ・ヤクザ 〉】

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公開1974年 監督シドニー・ポラック 原案:レナード・シュレイダー

脚本ポール・シュレイダー、 ロバート・タウン

製作総指揮俊藤浩滋

出演高倉健        ( 田中健 ) 

  :ロバート・ミッチャム ( ハリー・キルマー )

  :ブライアン・キース  ( ジョージ・タナー ) 

  :ハーブ・エデルマン  ( オリヴァー・ウィート )

  岸恵子        ( 田中英子 ) 

  :岡田英次       ( 東野 )

  :ジェームス繁田    ( 田中五郎 "健の兄" )

  :郷 鍈治       ( スパイダー "五郎の息子" ) 

  :待田京介       ( 加藤二郎 )

 

 

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 『 ザ・ヤクザ ( The Yakuza ) 』 というタイトルが示すように、田中健( 高倉健 )とハリー・キルマー( ロバート・ミッチヤム )という違う国の男同士の関係をヤクザ(というより任侠と言った方がいいでしょう)の世界における "義理" という概念で現し、その世界を垣間見せようとする映画です。今回はこの映画について考えていきましょう。

 

 

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1. 任侠イデオロギーとしての〈 ザ・ヤクザ 〉

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f:id:mythink:20170330232931j:plain 〈 ザ・ヤクザ 〉に対するよくある反応は、監督がアメリカのシドニー・ポラックだという事だけで、外国人が作った割りには良く出来ているとか、所々で過剰な演出はあるものの任侠というものの扱いが結構分かっているとか、いう所でしょう。もちろん、このような見方は日本的なものを扱う外人に対する日本人の見方です。外人だけど結構、日本の事分かってるね、という感じですね。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain しかし、この外人が日本人であれば、日本的なものを扱う日本人という訳で、日本の事を分かっているのは当然だという事になりますね。何が言いたいかというと、この映画の製作に当って、シドニー・ポラックが自分色に染める事が出来た部分は僅か(シドニー・ポラックの映画を見たことがある人なら、この映画には僅かしか彼のカラーを見出せないと思うはず)であり、大部分が日本の、いや東映の任侠的イデオロギーで占められているという事です。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain その東映任侠的イデオロギーの中心にいたのが、東映の任侠映画製作の筆頭であった俊藤浩滋(この映画においては製作総指揮)と、原案がレナード、脚本がポールの、日本通のシュレイダー兄弟であり、撮影場所もまさに仁侠映画にふさわしい東映京都撮影所であった(すべての撮影という事ではないですが)という訳です。この任侠的イデオロギーの要素の強調を果たして、シドニー・ポラックが望んでいたかどうかは微妙な所だと思われますね。この部分に関しては、やはり、俊藤浩滋がその豪腕でもって、シュレイダー兄弟と共に任侠カラーを強く主張した( ポラック、あるいは配給先のワーナーブラザーズに対して )と考えるべきでしょう。〈ザ・ヤクザ〉というポラックなら付けそうにもない露骨なタイトル、高倉健さんを印象付けようとする田中健という配役名、などにその一端が現れていますね。

 

 

2. フィルム・ノワールとしての〈 ザ・ヤクザ 〉

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f:id:mythink:20170330232931j:plain ではポラックは、どのような映画を撮りたかったのか、という仮定の話を考えてみるのも 面白いでしょう。ここで参考になるのが、もう1人の脚本家のロバート・タウンです。ロバート・タウンといえば、ロマン・ポランスキー〈 チャイナタウン(1974) 〉ブライアン・デ・パルマミッション:インポッシブル(1996)〉などで脚本を担当しているように、フィルム・ノワールやサスペンスものが得意ですね。特にフィルム・ノワールに特徴的な登場人物のモチーフである探偵、そしてファム・ファタール(運命の女)は、この映画に当てはまるといえるでしょう。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain フィルム・ノワールの虚無感を体現する探偵役のロバート・ミッチャムファム・ファタール(運命の女)としての岸恵子ここにロバート・タウンを起用したポラックの狙いがあったするのは的外れではないでしょう。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain ファム・ファタールの要素に、ポラック的手法である人間(男女)関係を交差させる事(代表的な所では、彼の映画である〈愛と哀しみの果て〉。ここでは田中花子を巡る夫の健とハリーの関係)によって物語を進行させるという特徴を加える事によって彼なりのフィルム・ノワール的映画を作ろうとしたといえるでしょう。

 

 

 

3. 任侠映画でもフィルムノワールでもなく・・・カルト映画としての〈 ザ・ヤクザ 〉

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f:id:mythink:20170330232931j:plain もちろんポラックの試みは中途半端なものになっているのは言うまでもないのですが、その要因は東映の任侠イデオロギーとの折合いが上手くいってない、いやそれどころか押し切られているという所にあるのはお分かりでしょう。ポール・シュレイダーとかは、ポラックのストーリー構築の手法(先に述べた人間関係の交差による物語の進行)が理解出来ずに、ラブストーリーを導入しようとしていると非難したくらいですから。しかしポラックによる田中花子を巡る健とハリーの複雑な関係性がなかったら、この映画は単なる海外向けの東映任侠映画でしかなく、ポラックが監督をする意味は全く無かったでしょう。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain そんな状況でもポラックは、東映任侠イデオロギーと折合いを付けるべく、田中健とハリー・キルマーの関係を、ハリーが健に感じた負い目 (健を花子から遠ざけ、彼の娘までを死なせてしまった事) を清算すべく指詰めするという形で描き上げたというのは、仕方のない帰結だったのかもしれませんね。

目の前で健の指詰めを見ておきながら知らないふりをしても、日本の流儀の異文化性を浮彫りにするだけだし、かといってハリーが指詰めをしても、日本の流儀が似合わない外人の部外者性がつきまとうだけに終わったという難しさがそこに残る訳です。

 

     健さんの指詰めシーン。やはりサマになっています。

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ハリーことロバート・ミッチャム指詰めシーン。

痛さが伝わってこない・・・。やる気あるのかな(笑)。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain この和洋折衷とでもいうべき〈ザ・ヤクザ〉は、映画の内容だけでなく、製作の舞台裏でも和洋間の微妙な力関係が働いていたわけですが、出演・製作者のほとんどが亡くなられた現在では、 この映画をひとつの娯楽作品として楽しむ事が適当なのでしょう。幾つかの力関係の中で作られてたこの映画は、年月の経過と共に視聴者にアナクロニズムを感じさせるものになっていますが、まさにそこを含めた〈カルト映画〉として味わう事こそが、ひとつの楽しみ方だという訳ですね。

 

 

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【 僕を哲学的に考えさせる映画〈 ヒメアノ~ル 〉】

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公開:2016年  監督:吉田恵輔  脚本:吉田恵輔  原作:古谷実

出演:森田剛 (森田正一)  :佐津川愛美 (阿部ユカ)

  :濱田岳 (岡田進)   :ムロツヨシ (安藤勇次)

 

 

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オープニングクレジットが上映開始から43分後に出てくるという効果的な演出が凝っている〈ヒメアノ~ル〉。もちろんこれは、それまでコメディー的要素のあった前半の物語が、岡田進(濱田岳)と阿部ユカ(佐津川愛美)が結ばれている事を知った(部屋の外の森田にまで、行為中の声が聞こえている)森田が明確に岡田を殺そうと決めたのをきっかけとして殺人行為が満載になる後半へと切り替わっていく事を示していますね。

観る人によっては、森田正一の感情の壊れた殺しっぷりについていけないかもしれませんが(もしそうなら、そう思わせるだけ森田剛の演技が凄まじかったという事ですね)、この映画について哲学的に考えていく事にしましょう。

 

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1. 〈衝動〉によって結びつく〈性行為〉と〈殺人行為〉

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f:id:mythink:20170330232931j:plain この映画の最大の見せ場は、岡田と阿部による〈性行為〉と森田による和草浩介(駒木根隆介)と婚約者の久美子(山田真歩)に対する〈殺人行為〉が細かく交互に映し出されるシークエンスだといえるでしょう。もちろん、このふたつの〈行為〉は別々の場所で起きているのですが、ふたつの行為が交互に映し出される事によって、まるで〈繋がり〉があるかのように見せていますね。人によっては、このシークエンスを二つの行為の〈並列〉だという見方をするかもしれませんが、それでは、観る人の性的快楽を交差的に刺激するエロチックなものという帰結以上のものをそこから引き出すのは難しいでしょう。

 

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f:id:mythink:20170330232931j:plain では、どのような意味で繋がっているといえるのでしょう?監督の吉田恵輔は「日常と非日常、コメディとサスペンスが融合する映画のキーとなるシーン」と言っています(※1)〈繋がり〉どころか〈融合〉と言っている所が興味深いですね。〈繋がり〉であれば、ふたつの〈行為〉は各々の形式を保ちながら、接続されるという所なのでしょうが、〈融合〉とは、各々が自らの形式を捨て相互に浸透していくというイメージになるでしょう。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain とはいえ、ふたつの〈行為〉は、表面的には違う行為なのだから、〈融合〉とはどのような位相でそうなるのか考える必要がありますね。そのためには精神分析でいう所の衝動(欲動)の概念を参考にしましょう。〈性行為〉における〈衝動〉も〈殺人行為〉における〈衝動〉も両方とも、最終的には身体における局部的な性器という器官において得られるオーガスムによって〈性的快楽〉へと転化してしまっているのです(※2)

 

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain そしてこの性的快楽以前の〈衝動〉の位相においてこそ、未だ区別も分化も知らない無差別的なものとしての〈衝動〉がカオス的に在るという意味で〈融合〉が可能になると言えるでしょう。つまり、〈性行為〉と〈殺人行為〉は社会性や日常性という視点では別物であっても、哲学的、あるいは精神分析的には、快楽以前の人間存在の原初の〈衝動〉という意味では共通しているのです。監督の吉田恵輔は、おそらく無意識的でしょうが、その事をこの映画で暴き出していると言えるでしょう。なのでこの映画は、一見すると倫理的に耐え難いように思えるかもしれないけど、実際には、人間という生物の原初の〈衝動〉を扱った存在論的な映画だと考えられるのです。

 

 

2. この映画の無意識性・・・

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f:id:mythink:20170330232931j:plain この映画での森田正一の犯行の原因が学生時代の強烈なイジメにあるという描かれ方は原作の漫画とは違う、という指摘が見られる事がありますね。漫画の森田はそれこそ外部の原因に関係なく自分の異常性に気付く点が彼の怪物性を際立てたせています。しかし、ある意味で人間を超えた〈衝動〉という無差別性の概念をここで導入するならば、犯行の動機を外部に求めようが自分に求めようが、犯行の残酷性という点からすると、彼が自分の中に抱え込んでいた〈衝動〉の獰猛さについては変わりないのではないかと考えられますね。仮に森田の殺人行為の動機がイジメであったとしても、彼は既にイジメの報復以上の行為を犯している訳であり、それどころか殺人行為そのものに快楽を覚えているという点からすると、イジメというトラウマは自らの殺人行為を正当化するために森田の中で保持されているアリバイに過ぎないというべきでしょう。

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain つまり、殺人行為を平然と為す森田に対して、アリバイになるような原因を提供する構成というのは、無意識的に彼に感情移入し過ぎているのです、あるいは感情移入させるような無意識的操作になっている。森田剛に周囲を突き放すような無感情的で驚くべき演技をさせておきながら、最終的には観客に彼に感情移入させるような構成は無意識的であれ、この監督の計算高さと同時に力技を示していると言えるでしょう。

 

 

f:id:mythink:20170330232931j:plain 岡田を連れて逃げる森田( 18.19.)。車で逃走中に犬を避けようとして電柱に激突してしまう( 20.21.22.)。この衝撃で森田は、岡田とゲームなどをして遊んだ過去への退行現象が出てしまう( 23.)。

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f:id:mythink:20170330232931j:plain 警察から車の外に引きずり出される森田。その右足は肉が削れて骨だけになっているというちょっとしたホラー状態( 25.)。連行されながらも「また遊びに来てよ」という笑顔の森田、壊れています( 26.)。車に残された岡田は、かつて森田と遊んだ少年時代を回想する( 27.28.29.)。ここで、森田の家の庭先に飼われている犬が先程、車で逃走中に避けた犬と重なって いる事は言うまでもありませんね( 30.31.)。

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(※1)

(※2)

岡田と阿部の性行為は当然の事として、森田の場合は、殺人後に自慰行為をするという点を説明として付け加えておきましょう。まあ、この自慰行為自体は、最初の殺人のシーンでしか描写されていませんが、以降の殺人でも同じだと考えるのが妥当でしょう。

 

 

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