哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

マルクス・ガブリエルの『 なぜ世界は存在しないのか 』についての批判的考察

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   マルクス・ガブリエルの『 なぜ世界は存在しないのか 』・・・、この極端に単純化された哲学的説明によって覆われたこの本を読むと、僕は戸惑ってしまう【 】。この本でまず確認出来るのは、世界が存在しないことでもなければ、新実在論についてでもない。何よりも、"哲学を単純化しようとする著者の意志" です。それはおそらく、新実在論を世間に浸透させようとするための、そして新実在論哲学史に刻むための、著者の戦略なのでしょうが、それが徹底しているため、この本について真面目に考えることは果たして意義があるのかと自問してしまいます。単純化して考えるとは、結局の所、哲学的なものからの撤退になりかねないのだから。

 

 

   そして、そのような哲学の単純化が『 世界は存在しない 』という問題含みのテーゼを可能にしているとすれば、そのテーゼを批判的に考えることは、たとえ哲学に馴染みのない読者に分かりやすく伝える意義があるとしても、哲学の簡潔化の過程で省かれる余分なものや過剰なものが思考においてどれだけ重要な要素であるかということをも明らかにするでしょう。

 

 

   例えば、『 なぜ世界は存在しないのか 』 ( 2012 ) 以前に出版されたスラヴォイ・ジジェクとの共著である『 神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性ー 』( 2009 ) で垣間見えた理論的緊張が、そこでは排除されている・・・、哲学入門書という体裁のもとで。

 

 

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  1. "世界" と "包摂"

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" つまり数多くの小世界は存在していても、それらのすべてを包摂するひとつの世界は存在していません。これは、数多くの小世界がひとつの世界にたいする多様な視点にすぎないということでは断じてありません。むしろ数多くの小世界だけが ----- まさしくそれらだけが ----- 存在しているということにほかなりません "

『 なぜ世界は存在しないのか 』 p20.

 

 

a.   もしガブリエルの言うとおり世界が存在しなければなぜ "世界という表現" があるのでしょう世界が存在しないのならそもそも "世界という表現" は必要ないのではないかという事ですねこの点に関してガブリエルの説明は苦しくひとつの世界は存在しないが数多くの小世界は存在すると言うその前提としてあらゆるものを包摂するひとつの世界という言い方を彼はするのですがそもそも全てを包摂しなければそれは世界ではないのでしょうか

 

 

b.  ここで注意しなければならないのはガブリエルの中では〈 世界 〉と〈 包摂概念 〉が暗黙の内に結びつき〈 包摂概念 〉の方が〈 世界 〉を規定する優位性を見せているという事ですそのような〈 包摂 〉という "ひとつ" の哲学概念が〈 世界 〉の本質を決定してしまうのに異和感を感じずにいられないでしょう〈 包摂 〉が〈 世界 〉を決定づけるのであれば第1義的なものは〈 世界 〉ではなく〈 包摂 〉ということになってしまうつまりガブリエルが "世界は存在しない" と言う時正確には "全てを包摂するものは存在しない" と言うべきであってそれが〈 世界 〉であると言うのは飛躍であり強引な短絡 ( ショートカット ) でしかないという事です

 

 

c.   このような批判に対してだが〈 世界 〉の存在を証明する上で任意の哲学概念 ( 包摂などの ) を導入して説明を進めていく事は方法論としては間違っていないのではないのかと思う人もいるかもしれませんつまりガブリエルはここで〈 世界 〉をひとつの〈 概念 〉として存在証明のために動かそうとしているのだからという訳ですね包摂という哲学的機能あるいは集合論的機能を備えさせつつ

 

 

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 2. 世界とは何であるのか

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a.   しかしそのようなガブリエルの説明の仕方は重要な問いを前にして傍らを通過することになるすなわち"世界とは何であるのか" という根本的問いですこれこそがガブリエルが究極的に思考する事が出来ていないのを示す問いですね

 

 

b.   もちろんそれはガブリエルがその問いを全く無視しているということではありません彼は答えているのですが相変わらず包摂概念から離れられないのです

 

" 世界とは、物の総体でも事実の総体でもなく、存在するすべての領域がそのなかに現れてくる領域のことです。存在するすべての領域は、世界に含まれている。マルティン・ハイデガーが適切に定式化したように、世界とは「 すべての領域の領域 」にほかなりません   p69.

 

" 世界とは、すべての意味の場の意味の場、つまりそれ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場であり、もってすべてを包摂する領域である " p108.

 

 

c.   彼の中では "世界" "包摂" がどうしようもないくらい癒着している ( 何せ本人がそのことを全く疑問に思わないのだから ) のですが このことは彼が "具体的なもの" と共にしか思考する事が出来ないのを示していますこの場合"具体的なもの" とは思考という行為にとってのそれであり思考作業を円滑にしてくれるある種のイメージだといえるでしょうガブリエルにとってのイメージとは世界はすべてを包摂するはずだが・・・そうではないという包摂概念を軸とした否定的イメージなのです

 

 

d.   それのどこが問題なのかというと哲学的に十分に抽象的ではないという事です抽象性が悪く具体性が良いなどというのは日常生活においてのみ幅を利かせている思い込みに過ぎないのであって哲学においては抽象的でないというのは具体性から離れられず極限まで思考出来ていないことを意味するのです

 

 

e.   それについて考えるためにここで彼のテーゼに戻ってみます仮に "世界は存在しない" というテーゼが正しいとしてもそのテーゼで破綻している〈 世界 〉が別の意味を与えられて"数多くの小世界は存在する" というテーゼで再び〈 世界 〉を登場させる不自然さが目に付きますそこで彼のテーゼの表現を変えた2つのヴァージョンを考えてみましょう

 

テーゼ 1. ひとつの世界は存在しないが数多くの小世界は存在する

テーゼ 2. 数多くの小世界は存在するがひとつの世界は存在しない

 

 

f.   これは"ひとつの世界は存在しない" "数多くの小世界は存在する" の順番をたんに入れ替えて結びつけただけの2つの結果ではありませんテーゼ 1. 本書における彼の説明の仕方をそのまま踏襲したものだといえます問題なのはテーゼ 2. なのですがテーゼ 1. の説明の仕方とは裏腹にこれこそが彼の実際の思考の順序を示しているといえるのですそれは彼独特の "対象領域という概念" が用意周到に準備されている事から分かるでしょう対象領域という多くの具体的事例に重点を置くことが"世界とは何であるのか" という問いを抽象的に考えないで済ますためのアリバイとなっているのです

 

 

g.   テーゼ 2. こそが彼の思考の方向性を示している訳ですがだからこそテーゼ 2. における "数多くの小世界は存在する" から "ひとつの世界は存在しない" へと至る結びつきが必然的なものではないことを指摘しておく必要があるでしょう対象領域が数多く存在する事がなぜ世界は存在しない事になるのか・・・彼はそう考える前に世界に包摂性を付与して問いに蓋をしてしまう

 

 

h.   対象領域が数多く存在することが世界が存在しないことに繋がってしまうと"世界" がなぜ "出現した" のか全く説明出来なくなってしまう世界の出現について考えるために次のような新しいテーゼをここで提示します

 

テーゼ 3. 対象領域が数多く存在するからこそ世界は抽象的に存在する

 

 

i.   このテーゼ 3. こそテーゼ 2. が考える事の出来ない哲学的思考を含んでいるのですそれは具体的なものから "抽象的なもの" が出現するという極めてヘーゲル的な思考なのですがここで注意しなければならないのは対象領域から "何か" が高次の抽象領域へと達するなどというような擬似ヘーゲル的理解に陥ってはならないという事ですそうではなく対象領域の数多くの乱立・衝突・隣接性という "現実それ自体" 対象領域の形式的構造性を炙りだし抽象化する知的移行を引き起こしているという事なのです

 

 

j.   すなわち対象領域の具体的飽和こそがその形式的構造性に気付かせるような抽象化へと至らせるのでありその抽象化の結果が〈 世界 〉の出現という訳なのですよって "世界とは何であるのか" という問いには世界とは対象領域という具体においてその形式性が抽象化されたものであると答える事が出来るのですドゥルーズ的な言い方をするなら世界とは抽象化作用それ自体の強度が形式的に示された概念のひとつであるという事ですなので世界が対象領域を包摂する事が出来なくても世界は対象領域の乱立から出現するのですその抽象化として ( それは表象ではない )

 

 

k.   これこそが世界像という表象観念から切り離した "世界" に与える事の出来る概念ですたしかにガブリエルが世界を世界像という何らかの観念に結びつけるべきではないとハイデガーをふまえて考えるのは正しいしかしそこから彼は極端にも "世界は存在しない" というテーゼを提出するのですがこれは正確には"世界は表象としては存在しない" というべきですここで先程説明した "哲学の抽象化作用" を考慮に入れて次のようなテーゼを提出しましょう

 

テーゼ 4.   世界は表象としては存在しないが抽象として存在する

 

 

 l.   このテーゼ 4. はテーゼ 3. の変形ヴァージョンといえるものですがいずれもガブリエルの思考の限界を明らかにするものとなっています突き詰めると彼は〈 世界 〉という概念をどう理解すればいいのか迷っているということです ( これはガブリエルだけにいえることではないですけど )彼は "世界はすべての領域の領域である" と包摂概念による予備的説明を施しておきながらそのようなただひとつの世界はやはり存在しないなぜなら具体的な数多くの対象領域があるだかだから・・・と言うのですね

 

 

m.   しかしその帰結では彼が最初に包摂概念を与えた〈 世界 〉についての説明は宙に浮いてしまい一体何だったのかという事になるでしょう仮にその説明が世界に対する一般的誤解をガブリエルが代弁したものだとしても彼自身は〈 世界 〉に対して何らかの積極的説明を行うことが出来ていないのです彼が行った唯一の説明は "世界は存在しない" それだけですこの帰結が危険なのは〈 世界 〉についての哲学的説明を行わないことによってガブリエル自身が避けようとした "世界像" という一般的誤解による観念を暗黙の内に認めているという反転的メッセージを無意識的に拡散させているからですつまり"世界は存在しない" とガブリエルが言うのは"世界は世界像として存在している" という誤解による観念を打ち消そうとする否定的身振りからくる反転写的テーゼでしかないという訳ですなのでガブリエルの "世界は存在しない" という反転写的テーゼは哲学的抽象的考察からは離れた否定的メッセージでしかないといえるでしょう

 

 

n.   "世界は世界像として存在している" という誤解を否定するためとはいえ"世界は存在しない" と言ってしまえばおそらくそこには心理的反撥しか出てこないつまりそれでも世界は存在するという具合に"世界は世界像として存在している" を真に否定するには〈 世界 〉の存在を抹消するのではなく〈 世界 〉に哲学的意味を与えて世界像とは別の形式で〈 世界 〉を存在させなけれなならいのですこれについては既に哲学の抽象化機能によって "世界は抽象的に存在する" と説明してきた通りなのでここまでの考察を振り返ってもらうのがいいでしょう

 

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 3.  意味の場にはない〈 対象 〉

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a.   ガブリエルは本書において〈 対象領域 〉とは別に〈 意味の場 〉という概念を持ち出して次のように言います

 

" 意味とは対象が現象する仕方のことである、と定義することができます " p101.

 

" 意味の場とは、何らかのもの、つまりもろもろの特定の対象が、何らかの特定の仕方で現象してくる領域です " p102.

 

" 意味の場の外部には、対象も事実も存在しません。存在するものは、すべて何らかの意味の場のなかに現象します " p103.

 

 

b.   ガブリエルは以上の事を説明するために事前に自分の左手という事例を持ち出していますそしてそれがいくつもの意味の場で異なった仕方で現象することを説明するのです曰く左手は5本の指があり指先があり手のひらにはしわがある左手は素粒子の集積でもある左手は芸術作品であり道具でもある

 

 

c.   彼はその説明によって〈 対象 〉は意味の場が違えば異なる現象の仕方をすることを明らかにしてすべては〈 意味の場 〉にあると主張するのですしかしその説明を注意深く読める人はガブリエルが自分が主張しようとしているのとは逆の事を証明しているのに気付くでしょうつまり〈 意味の場 〉がいくら変わろうとも現象する以前の〈 左手 〉が〈 意味の場 〉に常に先行しているのであり彼がそれに気付いていないという事です

 

 

d.   これこそが先程の〈 世界 〉の時と同様にガブリエルが考える事の出来ない哲学の抽象化機能なのですその観点からすると彼の〈 左手 〉はいくつもの〈 意味の場 〉で現象するのだから〈 意味の場 〉の中にあるという説明は決定的に間違っている実際は〈 左手 〉はいくつもの〈 意味の場 〉での様々な現象という形式から抽象的に出現した〈 対象 〉であるというべきなのですすなわち〈 対象 〉という抽象物は〈 意味の場 〉には属していない

 

 

e.   しかしここでガブリエルのように単純に〈 意味の場 〉に属していないのだから存在しないのだと考えるべきでありません〈 意味の場 〉に属していなくとも〈 対象 〉は抽象的に存在する実質 ( 意味形象など ) を内包していなくとも〈 抽象物 〉はヘーゲル的な意味での〈 知 〉として存在するのですそこには哲学の抽象化機能が作用しているのでありそれは〈 具体 〉からの〈 知 〉への移行なのです

 

 

f.   ただしこの 〈 知 〉への移行は〈 具体 〉から "物的に" 離れてしまう訳ではありませんそのような誤解をする人は多いかもしれませんが現実はその〈 具体 〉という定義を施される〈 もの 〉に留まったままなのですその当の〈 もの 〉自体がそれ自身において抽象化という知的移行を起こすのですだからガブリエルの〈 左手 〉は抽象としていくつもの〈 意味の場 〉に先行して現れる訳です

 

 

g.   という事はここでは〈 意味の場 〉で現象する "具体" と〈 意味の場 〉に属さない "抽象" が同時に存在するという事態が〈 もの 〉自身において起こるのでありガブリエルのようにすべてが〈 意味の場 〉に現れるのではないという事になるのですこれがどういうことかというと〈 対象 〉は〈 具体 〉と〈 抽象 〉によって常に既に二重化されているという事ですヘーゲル的な言い方をすると〈 対象 〉は〈 具体 〉と〈 抽象 〉の両極において知的移行を繰り返しているという事なのです

 

 

h.   そこで作用している運動は "部分と全体の弁証法" ( ただし、フッサールのそれではない ) に他なりませんこの弁証法部分 ( 対象 ) が全体 ( 意味の場 ) に属していながらも同時に抽象として独立しているという二重性によって動き出しますこの運動が興味深いのはまさに部分 ( 対象 ) を上手く定義する事が出来ない難しさ ( なぜなら二重化されているから ) こそが運動の契機になっているという所なのです

 

 

i.   間違いないのは対象 ( 部分 ) が意味の場 ( 全体 ) とは異質なものだという事ですもし対象が意味の場と同質なものであれば対象 ( ガブリエルの左手 ) を説明する全体の他の要素 ( 素粒子芸術作品道具 ) の中に対象は紛れてしまって一体どれが当の対象なのか最終的には判別出来なくなってしまう全体の中の要素が何処に向かうこともなく同列に列挙される悪循環しか起きなくなるのです全体の中の幾つもの要素が "何か ( ガブリエルの左手 )" に対して意味を持つようになるには当の "何か ( ガブリエルの左手 )" が他の要素とは異質なものとして独立していなければならない異質である事によって初めて他の要素を自らを説明するために引き寄せる事が可能になるつまり異質であるためには他の要素が〈 具体 〉に留まっているのに対して〈 対象 〉は〈 具体 〉と〈 抽象 〉の両極によって二重化された特異な〈 もの 〉である必要があるのです

 

 

j.   ここでも〈 世界 〉と同様〈 対象 〉も具体的なものとしてしか存在しないと考えるガブリエルの思考の限界が表れている彼の思考の限界とは〈 抽象 〉について考えることが出来ない思考行為が〈 具体 〉から離れる〈 抽象化機能 〉それ自体である事を濃密に示したドイツ観念論哲学と同様の強度で思考しているとはとても言えないでしょう ( たとえ彼がシェリング研究を始めとしたドイツ観念論の "見取図" を上手く描いているとしても )

 

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    4.   世界は抽象的に存在する

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a.   ここで参照しておきたいのがジジェクとの共著であるガブリエルの『 神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性ー 』( 2009 ) です同書の巻末には『 なぜ世界は存在しないのか 』というボン大学での講演 ( 2009 ) が掲載されていますそれはこの記事で参照している『 なぜ世界は存在しないのか 』( 2012 ) とタイトルは同じものですが内容は若干違ってガブリエルの "心的揺らぎ" が垣間見えて興味深いのです

 

 

b.   どういうことかと言うとそこではガブリエルが "世界は存在しない" と言い切るのに無意識的躊躇を示しているのですそこで彼はハイデガーあらゆるものが生じる場所それ自体は生じることがないそれは出会われることのできない領域Gegend 〕であるという主張を引き合いに出しますそしてそのような自らは存在しない奇妙な領域ハイデガーに倣って "性起" と言うのですつまり"・・・世界は存在するのではなく性起するのです世界は端的に性起なのです" という事になる (『 神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性ー 』p324. )彼に従うのなら

 

 

c.   「世界は存在するのではなく性起する 」・・・この主張は『 なぜ世界は存在しないのか 』( 2012 ) では見られないものですこの些細な変化をどう考えるべきなのでしょう"性起" という特定の概念が世界を規定するのであればそれは 【 1. "世界" と "包摂" 】で示したように"世界" については何も語っていないのと同じですそこから世界は存在しないと言うことは出来ないのですガブリエルは自分の主張の脆さを反省的に補強しようとして "性起" の概念に言及するという躊躇を見せていたという訳ですが『 なぜ世界は存在しないのか 』( 2012 ) ではそのような思考の緊張は排除されてしまっているのです【 ※

 

 

d.   ガブリエルが世界について哲学的に語る事が出来ない原因は何でしょうその決定的原因はガブリエルが世界を "場所" として考えてしまっているからですこれは彼自身が批判したはずの "世界像" という罠に陥っている事に他なりません分かりやすく言うならガブリエルが世界を場所という "ひとつのイメージ" として考えていることが露呈してしまっているのです

 

 

e.    しかしそうは言っても最小限のイメージがなければ世界について考えることは出来ないのではないかその意味で世界を "場所" として考えることは間違っていないのではないかと思う人もいるでしょうたしかにその通りですただしそれは哲学的思考の篩いに掛けられる以前の一般的イメージとしてはそうだという条件をつけなければなりませんd.  で述べたようにそれでは哲学的には十分に抽象的ではないのですガブリエルのように具体的な対象領域に留まる思考では"世界" や "意識""主体" について何一つ刺激的な思考へ辿りつく事は出来ないでしょう

 

 

f.   "特定" のイメージが何らかの状況から出現した哲学概念を抽象的に思考する事を妨げてしまうのです ( ここで言うと世界=場所というガブリエルの出発点 )ここで急いで付け加えなければならないのはイメージは排除すべきだと言っているわけではないという事ですそのような事は不可能であるしそもそも世界以前の原初の物事の "出現" にはイメージという形式 ( でさえ ) が付き纏うとして受容れるべきでしょう重要なのはそのイメージによって物事の "出現" を見過ごすべきではないという事ですこの場合場所というイメージに拘りすぎて世界という概念が "出現" したことを見落としては哲学的考察は進まないという事ですなぜ "世界" が出現したのかを考えれば現実の対象領域の飽和性が領域という形式的抽象化を経由して世界という概念への知的移行を引き起こしている事が理解出来るでしょうそれゆえに世界は抽象的に存在するのです

 

 

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 【 ※

 

   このような迷いはガブリエルが「 世界は存在しない 」という "自分の" 主張をもっと突き詰めて考えるべきであった事を示しているいやそもそもその主張は実はガブリエルのものではないのだから彼がその主張に確信を持てないのは当然なのですではその主張は誰のものかそれは『 神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性ー 』の共著者であるスラヴォイ・ジジェクなのですジジェクは『 ジジェク自身によるジジェク 』で 私たちの知覚による歪曲の彼方に何らかのヌーメナルな実在があるというのは唯物論の本当の考えではありません唯一の首尾一貫した唯物論の見解は、世界は存在しないというものなのです 」( p137. ) と言っているのですがガブリエルはそのアイデアを "わざと" 借りている訳です

 

   「 世界は存在しない 」の元ネタがジジェクであるのを指摘したのはグレアム・ハーマンなのですが彼はジジェクの矛盾を指摘してその主張を否定する「 今述べた彼 ( ジジェク ) の立場は、事実とは真逆なものである 」 ( グレアム・ハーマン『 四方対象 オブジェクト指向存在論入門 』p99. 人文書院 )。その点については僕もハーマンに同意する

 

 

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ウィリアム・フリードキンの映画『 恐怖の報酬 オリジナル完全版 』( 2018:日本公開 )を哲学的に考える

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公開 2018年 ( オリジナル版は1977年 )

監督 ウィリアム・フリードキン

 

出演 ロイ・シャイダー   ( ジャッキー・スキャンロン "ドミンゲス" )

   ブルーノ・クレメル  ( ヴィクトル・マンソン "セラーノ" )

   フランシスコ・ラバル ( ニーロ )

   アミドゥ       ( カッセム "マルティネス" )

 

音楽 タンジェリン・ドリーム

   キース・ジャレット

   チャーリー・パーカー

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 恐怖の報酬 オリジナル完全版 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。

 

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 1.  『 恐怖の報酬 オリジナル完全版 』の評価

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a.   『 恐怖の報酬 オリジナル完全版 』を評価する上で"最も" 避けるべきはこの作品をアンリ・ジョルジュ・クルーゾーの『 恐怖の報酬 』( 1953 ) の "リメイク" だという考えですたしかにフリードキンの『 恐怖の報酬 』はクルーゾーのストーリーを踏襲したものですがそれが1977年に北米で初公開された当初の原題が『 SORCERER( ソーサラー:魔術師の意。マイルス・デイヴィスのアルバムから採られている ) という異様なものであったのを考慮すればフリードキンは仕上がった作品を見てそれがクルーゾーのものとは違う "異質な作品" である事を分かっていたと推測すべきでしょう 】。

 

 

b.   つまりフリードキン版を見てそれがクルーゾー版に劣るという評価ほど的外れなものはないということですフリードキンの世界観について考えることなく本家であるクルーゾーの足元には及ばないと言うだけでは何も語っていないのと等しい気付くべきはフリードキンの世界観のいかなる要素がクルーゾー版とは違うと思わせるのか考えてみるという事ですそうすることはフリードキン版を見て退屈だと思う人がこの作品の見方を変える上で役立つことでしょうこれは他の監督の作品についてもいえることですがある作品が "自分にとって" 本当に面白いかどうかを判断する時その作品に対する "自分の見方" について今一度考えることは無駄ではありません違う見方違う考え方も可能なのですからその後でやっぱり面白くないと判断しても遅すぎることはないはずです

 

 

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【 ※

   1977年の北米での初公開はユニバーサルとパラマウントによる共同製作・共同配給しかし2000万ドルを超えた予算に対して北米での興行収入は590万ドルという不調だったこれを受けて世界配給を担当したCICはフリードキンに無断で短縮版を編集した上でクルーゾーのリメイクであることを示すためにタイトルを『 SORCERER 』から『 恐怖の報酬 』に変更それでも世界興行収入は900万ドルにしかならなかった

 

 

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   2.   フリードキンのイマージュへの拘り

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a.   この作品でフリードキンの特徴が現れている以下のシークエンス3人の仲間が命を失い1人で消火用ニトログリセリンをトラックで運搬するドミンゲス ( ロイ・シャイダー )

 

 

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b.   南米ポルベニールのジャングルを困難の末抜け出し目的地の油田を近くにした山岳地帯を通行中にそれまでの出来事が悪夢のようにフラッシュバックしてドミンゲスを襲うのですがその描き方がフリードキンらしい2. でドミンゲスに山岳地帯の岩壁が重ね合わされ3. でその岩壁がなぜか数秒映し出される気付いた人もいるでしょうがここでフリードキンは岩壁の複雑な模様があたかも人の顔であるかのように匂わせ不穏感を演出しているのですね4. そして11. 12. のドミンゲスの「 知らんだと 」というセリフこれはスキャンロンがアメリカから国外へ高飛びする為に会った仲介業者がスキャンロンがどの国へ連れていかれるのか知らないことに対するものそれをあざ笑うかのように先程南米ゲリラに襲われて殺されたはずの相棒ニーロの高笑いの場面 5.ちなみにドミンゲスというのはスキャンロンの南米での偽名 ( 違法入国なので )

 

 

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c.   ドミンゲスのフラッシュバックは続く記憶はさかのぼりアメリカで強盗をして車で逃走するドミンゲスたちその際に事故を起こし運転していたドミンゲス以外の3人の仲間は即死する ( 8 ~ 11. )

 

 

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d.   さてここまで見るとこのフラッシュバックはドミンゲスの個人的な経験の総体のように思えるかもしれませんしかし以下のシークエンスでは事情が少し違うことが示されています13. 14. はセラーノとマルティネスの2人が運転するトラックが道を踏みはずし転落して爆発死するシーンなのですねこれはドミンゲスの経験ではないし彼が知らないことでもあるのです ( 少なくともその時は )もちろんこれはフリードキンのちょっとしたミスでありほとんどの人は気にかけないことでしょうしかしこのような些細な事が哲学的考察のための契機でもあるのです。

 

 

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e.   つまりここで考えたい事は一見ドミンゲスのフラッシュバックと思われた彼の記憶の積重ねという形式の中に"イマージュ" というものに対するフリードキンの趣向が現れているという事ですそれは作品のストーリーに合うように映像が組み込まれているというよりはストーリの流れから突出した映像の連続の方が観念論的なストーリーを引っ張るという "唯物論弁証法" が展開されているという事なのです。

 

 

■   セラーノが付けていた腕時計のクローズアップ

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f.   通常であれば観客は観念論的であるストーリーを理解する事によって作品にアプローチするのですがフリードキンの『 恐怖の報酬 』はフリードキンの映像への拘りという唯物論的手法の方がこの作品を動かす要因になっていると言えるのです ( 実際にこの作品のストーリー自体は冒頭から分かりにくく予備知識がないと4人の別々のエピソードが展開されている事に気付かないかも )そのようなイマージュへのフリードキンの拘りが現れた有名なショットが豪雨の中で脆い吊橋を渡るトラックでしょう

 

 

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g.   このトラックの吊橋シーンはドミンゲスとニーロのコンビが乗るトラックとセラーノとマルティネスのコンビが乗るもう1台のトラックがある為計2回描写されるのですがこの辺のシークエンスの緊迫感はこの映画の中でも最も映像の "強度" が高まっているといえるでしょう極端な言い方をするならばストーリーから突出したイマージュの強度だけでこの映画を成立させるという特異な "唯物論的出来事" が発生しているのですねその瞬間に限っては

 

 

h.   さらに哲学的に考えるならばこのジャングルへの困難な進入は人間存在の実存的闇への侵入であると解釈出来ますこれは決して大袈裟な表現ではなくフリードキンが追及する "悪夢のイマージュ" には人間存在の背後に蠢く恐ろしい何かがあると直感する彼の無意識的探求の意志が込められていると考えられるのです

 

 

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  3.   実存の闇

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a.   4人の男たちがジャングルへ進入するシークエンスを見てフランシス・フォード・コッポラの『 地獄の黙示録 』を想起した人もいるでしょうおそらくその参照項は間違っていません双方とも奥深いジャングルで人間が自らの実存的闇に出会うという意味で地獄の黙示録 』の原作であるジョセフ・コンラッドの『 HEART OF DARKNESS 』その邦訳タイトルである『 闇の奥 』が象徴的に物語っていますね【 ※

 

 

b.   両者はその唯物論的映像といいBGMといい ( 地獄の黙示録 』はワーグナー"ワルキューレの騎行" 恐怖の報酬 』はタンジェリン・ドリームによる "Betrayal" などのサウンドトラック  )人間が実存的闇すなわち自らの存在の根源である "狂気" との出会いを象徴的に描き出しているのです

 

 

   地獄の黙示録 』でマーロン・ブランド演じるカーツ大佐が恐怖について語る場面。

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   『 恐怖の報酬 』でドミンゲスに降りかかるフラッシュバックの嵐が頂点に達し、彼を通じて人間の狂気が垣間見える場面。

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c.   ここにおいてフリードキンが『 恐怖の報酬 』のリメイク版に当初『 SORCERER ( 魔術師 ) 』という タイトルをなぜ付けたのか推察する事が出来るでしょうおそらく彼の無意識的探求は常に人間の存在自体が狂気を根源としている事に向かっているのですドミンゲスセラーノニーロマルティネスたちの4人が運命に翻弄されながら不遇から何とか脱しようとしても ( 4人は大金を得るために危険なニトログリセリン運搬の仕事を引き受けた )その選択こそが実は最悪なものに他ならなかったのですつまり最初から彼らは "死ぬ" 以外の選択をする自由が無かった事をフリードキンは描き出している死に至る道の中でしか生きられず死に至る以外の選択が与えられていない人間はまさに死に踊らされる存在でしかありませんその意味で『 SORCERER ( 魔術師 ) 』とは人間存在を操る "" の擬人化であると解釈出来るのです

 

 

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【 ※

   地獄の黙示録 』についてはこちらの記事を参照

 

 

 

 

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佐藤祐市の映画『 累 かさね 』( 2018 )を哲学的に考える〈 4 〉

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■ 佐藤祐市の映画『 累 ーかさねー 』( 2018 )を哲学的に考える〈 3 〉 からの続き

 

 

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 6.   サロメの首、丹沢二ナの首

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a.   この映画において『 サロメ 』が特権化されているのは監督の佐藤祐市がクライマックスの場面で斬首された "カナーンの首" "丹沢二ナの顔 ( 頭部 )" を直結させるアイデアを思いついたからでしょうそれを示す以下の場面演技する淵累の手にあったヨカナーンの首が丹沢二ナの首に切り替わるそれと同時にそれまで丹沢二ナの顔で演技していた淵累が素顔 ( 芳根京子 役 ) に戻ってサロメがヨカナーンの首にキスするように丹沢二ナの首にキスをする

 

 

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b.   「 私 お前の唇にキスしたよ ヨカナーン 」というセリフの繰り返し ( 6 ~ 10. ) はワイルドの『 サロメ 』を踏襲したものですが注意すべきはこの演目の少し前に演劇場のビルの屋上で淵累と丹沢二ナがもみ合いになって2人とも転落したことですこの転落で丹沢二ナはほぼ死にかかっているのですがそれにも関わらず淵累は丹沢二ナの顔を借りて舞台の戻りサロメを演じきろうとするのです丹沢二ナが死んだかどうかははっきり描かれていないのですが1 ~ 5. で演技する淵累が素顔に戻ることから示されるのは丹沢二ナがその後死んでしまったため顔交換という魔力の効果が消えてしまったという事ですね 】。

 

 

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c.   ここにあるのはサロメとの "奇妙な二重性" ですいかなる意味で奇妙なのかというとサロメにおいてヨカナーンの首を手に入れることはヨカナーンを結局どうすることも出来なかった事を示しているように淵累が丹沢二ナの首を手にするのは彼女をどうにもすることが出来なかった事を示しているのです"処女ゆえに愛への幻想を異様なまでに膨らませたサロメ""演技への執着ゆえに他人の顔を自分のものとするのを厭わない淵累"首が示すものつまり自分の病的妄想を現実化したという意味で二重的なのですオスカー・ワイルドの『 サロメ 』と『 累 ーかさねー 』を短絡 ( ショートカット ) させたこの二重性こそクライマックスにおいて佐藤祐市が狙った効果でありだからこそこの映画において『 サロメ 』という戯曲を特権化したといえるのです

 

 

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【 ※

しかし原作の漫画では淵累の本当の母親である醜い相貌の誘 ( いざな ) が美貌の持ち主であった淵透世と顔の "永久交換" に成功しているそれに加えて漫画のラストではニナの母親である丹沢紡美が咲朱 ( さき:丹沢二ナの死後に野菊の顔を借りた淵累の女優名 ) を殺した時に、自分の年老いた姿で淵累に一生を過ごさせるという恐るべき復讐 ( なので結果的には丹沢紡美は自殺したことになる ) の為に"永久の全身交換" という禁じ手ともいえる手段を用いているこの辺については映画では取り上げられていないので興味のある方は原作を参照して下さい

 

 

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7.   サロメから女優へ

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a.   ただしここで見逃すべきではないのはサロメと淵累の間の差異ですワイルドのサロメ"女の男への欲望" を象徴する主体なのに対して淵累は"演技への欲望" を象徴するつまり誰かを演じることを自分の自己同一性にするという奇妙な主体であるのです奇妙というのはそこに自分ではない "誰か" を演じることを自己同一性とする女優的主体があるからです

 

 

b.   とはいえ人格的な "他の誰か" を演じる者が人格的な "現実の私" であっても誰かを "演じること""技能的なもの" であり人格的なものではないことはお分かりでしょう【 ※ 】。つまり女優的主体で問題なのは人格的なものではなく"演じること" を可能にする "根源的身振り" なのです

 

 

c.   この "根源的身振り" こそが主体を現実以上の主体だと観客に思わせてしまう "技能的なもの" である事を示すのがサロメなのです経験の少ない処女である若きサロメ大人顔負けの官能的なダンスという身振りによってヘロデ王を誘惑する姿は女優的であるといえるでしょうそこには演技の萌芽としての "根源的身振り" がありそれによってサロメはヨカナーンの首を手に入れるという望みを叶えることに成功するのです

 

 

d.   オスカー・ワイルドフローベールの『 ヘロディアス 』を大いに参考にしていたのですが実は『 ヘロディアス 』で細かく描写されているサロメのダンスはワイルドの『 サロメ 』ではわずかに1行( サロメ七つのヴェールを使った踊りを踊る ) とト書きで指示されているのみなのです

 

 

e.   しかしワイルドのこの意図的な省略 ( これが深い思慮によるものなのかイデアが浮かばなかったからかは分かりませんが ) が逆説的にも演者に表現の自由度を高めたという意味で女優的主体を登場させる秘かな契機となっているといえるでしょうこの "女優的主体"オスカー・ワイルド ( 1854 ~ 1900 ) と同時代を生きたロシアの劇作家アントン・チェーホフ ( 1860 ~ 1904 ) の "演劇的主体" とは異なりますリアリズムを体現するチェーホフ"演劇的主体" に対してワイルドの "女優的主体"作品における異質性を体現するいやそれどころか作品を宙吊りにしかねないエキセントリックな存在であるとさえ言えるのです

 

 

f.   この意味で映画『 累 ーかさねー 』における土屋太鳳によるサロメのダンスシーンは原作の情念的ストーリーに取り込まれてしまわずにそのシーンだけでも楽しめる程の強度があります監督の佐藤祐市土屋太鳳がコンテンポラリーダンスが得意なのを知っていてそれを生かすために『 サロメ 』という戯曲を特権化したのではないかと思えるくらいですただしここでの土屋太鳳のダンスからはサロメ通俗的な官能性は排除されていますそれはどちらかというと本家のワイルドの『 サロメ 』よりも有名になってしまったリヒャルト・シュトラウスのオペラ版『 サロメ 』の延長線上においてモダンな振付を施されたものとなっていると解釈出来るでしょう

 

 

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g.   フローベールからワイルドに至る "サロメの移行" で起こった秘かな変化とはまさに女優的主体が登場する可能性が発生したことですそしてそれを形式化したのがリヒャルト・シュトラウスだったのが大事なところですというのもシュトラウスによって官能的な情欲の海で溺れかねないサロメ演技する崇高な主体へと昇華されたからです

 

 

h.   この背景にはサロメ伝説の足元で蠢く欲動 ( リビドー ) が性的なものへの欲望としてしか姿を現さない危険性がありますそこには性的対象しか生まれません無論ワイルドのサロメはたんなる性的対象ではありませんそこでのサロメ男の欲望を操作すべく官能性に没頭しているかのような身振りを技術として披露する積極的主体なのです

 

 

i.   そう言うとサロメは冷静で計算高い女なのかと思う人もいるかもしれませんがそうではありませんサロメ男たちが自分を見て興奮する官能性とは違う官能に没頭しているのですそれはヨカナーンに対する空想的愛という官能性ですただしそこにはヨカナーン自身の思いは含まれていません彼自身の考えなどどうでもよくなるほどの空想的な愛の情熱を自分の中で燃え上がらせているという意味でサロメは病的なのですがこの時彼女は性的欲望ではなく生と死を貫く欲動 ( リビドー ) の領域に降り立っているのです【 ※ 】。

 

 

j.   性的欲望の源流としての欲動に身を浸し性的なもの以上に官能的な生と死という人間に取っての根源からサロメは演技という身振りを生み出しているのです自分の空想的愛を叶えるためならヘロデ王を誘惑する演技も厭わないいやそれどころかカナーンを手に入れるためならヨカナーン自身を殺すに至る演技も厭わないだがそれは同時にサロメ自分の命すら落としてしまう生と死の欲動の領域から逃れられない事を意味しますなのでワイルドにおいてサロメが最後に殺されてしまうのは精神分析的に当然の帰結だとしても激しい欲動の領域における苦しみを演技として昇華させたという意味でサロメは女優的主体の起源であるのだと解釈出来るでしょう

 

 

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【 ※

   このことに気付かない人は女優の素顔と役柄とのギャップを "人格的なもの" に集約させる憑依女優という女優神話に惑わされてしまう

 

 

【 ※

   女優の演技と欲動の関係についてはダーレン・アロノフスキーの映画『 ブラックスワン 』についてのこちらの記事を参照

 

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ダーレン・アロノフスキーの映画『 ブラックスワン 』( 2010 )を哲学的に考える

 

 

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佐藤祐市の映画『 累 かさね 』( 2018 )を哲学的に考える〈 3 〉

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 佐藤祐市の映画『 累 ーかさねー 』( 2018 )を哲学的に考える〈 2  からの続き

 

 

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 5.   "サロメ" の誕生

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a.   この映画のラストで使われている戯曲『 サロメ 』がオスカー・ワイルドによるものだということは既に述べましたそして前回ではワイルドの『 サロメ 』の源流として新約聖書の『 マルコ伝  』『 マルコ伝 』の中のエピソードから始まったサロメが西洋美術の対象であることを経て19世紀末のフローベールによって妖艶なダンスを披露する女性として小説の対象となったのを確認しましたね

 

 

b.   しかしフローベールの『 ヘロディアス 』においてもサロメはヘロディアスの娘であるという "従属的主体" の地位に留まっていますつまり未だ聖書のモチーフに縛られているという事なのですここに "創造的切断" を導入したのがオスカー・ワイルドですここで言う創造的切断とは哲学的概念として理解される必要があるので説明していきましょう

 

 

c.   オスカー・ワイルドによる創造的切断が何を意味するかというと聖書のモチーフにおけるサロメの母親ヘロディアスへの従属的地位を切断することなのですこれによってサロメは母親の意思でヘロデ王を惑わすダンスをした ( フローベールの『 ヘロディアス 』でもサロメは踊ることを母親に予め仕込まれている ) のではなく自分の意思で大人のヘロデ王を官能的に興奮させる処女として "独立的主体" となるのです自分の娘サロメ少女ではない大人の女の香りを察したのかワイルドの『 サロメ 』ではロディアスは踊ろうとするサロメを何度も引き止めます

 

 

d.   実はここは興味深いところなのですそもそもロディアスはカナーン ( ヨハネ ) を自分とヘロデ王が近親相姦婚だった ( ヘロディアスの前夫はヘロデ王の兄 ) ことを非難したが故に恨んでいたのですが自分の娘サロメが夫であるヘロデを誘惑した挙句にカナーンの首を恋しさの余り欲するという近親相姦関係 ( 学術的にはサロメヘロデ王の実子ではなくロディアスの連れ子だと推測されていますが ) の転移ギリシャ神話的であるとさえいえるでしょう

 

 

e.   ここにはさらに細かく解釈する余地がありますサロメヘロデ王の向こう側にカナーンを見ていたようにロディアスもまた夫であるヘロデ王の向うに側にヨハネを見ていた実は愛の対象として見ていたのではないかという解釈が可能になるのです憎悪の裏に隠された愛愛すが故に憎むという愛憎の対象としてのヨカナーンがいる訳ですがここではお気付きのようにカナーンはヘロディアサロメにとっての愛の同一の対象になっているのですね

 

 

f.   これを1人の男を母と娘で奪い合う悲劇だと考えてはそれ以上進むことは出来ませんここで参照すべきは切断されたヨカナーンの首の行方ですもしカナーンがヘロディアサロメの愛の対象であれば斬首されたヨカナーンの首に対して何らかの反応があるはずですねところがフローベールの『 ヘロディアス 』ではあれほど欲したヨカナーンの首に対してサロメロディアスの反応はほとんど描写されません彼女らの欲望を宙吊りにしたままフローベールはヨカナーンの首を3人の男たちに運ばせてキリストの元に向かわせるというラストで物語を閉じてしまうのですつまりフローベールはヨカナーンの首を愛の対象ではなく来るべきキリスト教の時代に向かっての象徴として考えたという訳です

 

 

g.   そうするとワイルドが師と仰いだフローベールの『 ヘロディアス 』からはサロメ 』におけるサロメの欲望やカナーンの首に口づけするサロメの身振りは導き出せないことになりますねそれは同時にサロメがヘロディアスから独立する機会が消滅することを意味しますだからこそワイルドの独創性が際立つのだと考えることも出来るのですがここで『 ヘロディアス 』以外に彼に影響を与えたハイネの『 アッタ・トロル 』を参照してみましょう

 

 

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h.   フローベールの『 ヘロディアス 』( 1877 ) に先立つ1843年ドイツ・ロマン派の作家ハインリヒ・ハイネ熊のアッタ・トロルを人間のように見立て私 ( おそらくハイネ自身 ) の視点から語る政治風刺詩の『 アッタ・トロル  ー夏の夜の夢ー 』を発表していますこの『 アッタ・トロル 』の第19章でヨハネの首に口づけするヘロディアと彼女の情念が描かれ20章においては語り人 ( ハイネ ) のヘロディアの愛が語られるという具合に愛の次元が発現するのですもちろん『 アッタ・トロル 』が風刺詩であることを考えれば唐突に現れたヘロディアユダヤ人の象徴でありそのユダヤ人を擁護している ( ハイネ自身もユダヤ人であり『 アッタ・トロル 』の他の箇所でユダヤ人の市民権に触れている ) と政治的解釈も出来るのですがここでは主体間の関係において愛という欲望の次元が導入されていることを重視しましょう

 

 

" 両手には、いつまでも

  ヨハネの首を載せた皿を持ち

  そして、それに接吻する。

  まったく熱情的にその首に接吻する。

 

  むかしヨハネに恋をしていたからだ ー

  聖書にそのことは書かれていない、

  が、民間にはヘロデアの

  血なまぐさい恋の伝説は生きている ー

 

  そうでなければ、この女王の

  情欲は説明されえない ー

  恋してもいない男の首なんぞ

  所望する女があるだろうか?

 

  ふとしたことで恋しい男を憤り

  その首をはねさせたにちがいない。

  だが皿に載る

  恋人の首を見るや、

 

  ヘロデアは泣いて気がふれ

  そして恋に狂って死んだのだ。

  ( 恋に狂う! とは言葉の重複!

  恋とはすでに狂気なのだ! )

 

  夜になると生きかえって

  血のしたたる首を手にして

  猟に出かけるという噂 ー

  しかも狂った女の気まぐれから

 

  子供のように笑いながら

  ときどき、その首を空中に投げあげ

  すばやくそれを受けとめて

  まり投げでもやっているよう。"

 

  『 アッタ・トロル -夏の夜の夢ー 』 第19章 p362.  井上正蔵 訳 筑摩書房 筑摩世界文学大系『 ドイツ・ロマン派集 』より 

 

 

 

i.   ここで注目すべきは"情欲" それ自体ですただしヘロデア ( ヘロディアス ) という特定の主体の情欲に限定されるものではありませんというのもここには様々な神話や説話において見られる主体の混同や移動がヘロデアにおいて示されているからです例えば" 夜になると生きかえって 血のしたたる首を手にして 猟に出かけるという噂 " という箇所は源流の "ロディアサロメ説話" とはもはや違う要素であるのが分かりますねここで想起されるのは旧約聖書外典『 ユディト紀 』に由来するユディト神話で見られる 魔女的ユディトです敵将ホロフェルネスの首を切り落とし持ち帰ってきたユディトが残虐でありながらも好奇の対象となっていたという歴史経過を踏まえると『 アッタ・トロル 』ではヘロデアとユディトの混同さらにサロメが重ねあわされているのです【 ※ 】。ということはそこでは特定の主体が問題になるのではなく幾つもの主体を呼び寄せる欲動の次元が精神分析的意味で活発になっていた事が重要なのです

 

 

j.   このような幾つもの主体間で激しく揺れ動く "欲動" に対して特定の主体へ向かう道筋を与えて官能的な "欲望" を明確にしたのがオスカー・ワイルドですそこで彼がサロメを選び彼女を中心とした戯曲を書き上げたことが"創造的切断" だった精神分析的にも哲学的にもサロメによる母ヘロディアスへの従属からの切断を象徴するものこそ切断されたヨカナーンの首でありそれを手に入れる事が母からの独立に成功した証であると精神分析的に解釈出来るのです

 

 

k.   そしてこの "切断"聖書に内在する哲学的概念でもあるのですここでフランスの女性哲学者ジュリア・クリステヴァ ( ブルガリア出身 ) を参照しましょう彼女は西洋における頭部頭蓋のイメージそしてそれに伴う切断について美術のデッサンの歴史を通して論じた『 斬首の光景 』で次のように言います

 

" 汝殺すなかれ、と聖書の神は言う。しかし、この道徳法則が可能となるのは、切断が構造的なものであることを認めるという条件においてのみである。切断は神の行為だと好んで言う人々もいる。はじめに神は、まさしく分離以外の何ものもおこなわなかった ー「 ベレーシース 」。「 はじめに神は天と地を創造された。」 天と地の分離、男と女、肉体と魂、無意識 / 前意識 / 意識の分離・・・・・。"

『 斬首の光景 』ジュリア・クリステヴァ p148. 星埜守之・塚本昌則 訳 みすず書房

 

 

l.   この目に見えない哲学概念としての切断切断線が人間と世界を横断していることが聖書の『 創世記 』には書かれているという事です切断線こそが世界を天と地を切り開いたという出来事が "はじめに" 書かれたことの哲学的重要性を見逃すべきではないでしょうそしてこの系譜にワイルドによる切断も位置付けることが出来ると哲学的に解釈出来ますそれはヨハネの首という西洋美術史における畏怖される対象を伴うだけにサロメの欲望の生々しさを表していると言えるのですさて遠回りになりましたが次回から映画『 累 ーかさねー 』の解釈に戻ることにしましょう

 

 

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【 ※

   サロメとユディトの混同の有名な例がグスタフ・クリムトの『 ユディト Ⅰ 』『 ユディト Ⅱ 』もちろんこの混同はクリムトの無知ゆえのものではなく両者を重ね合わせてファム・ファタール ( 宿命の女 ) の系譜に連なるものとしての姿を浮かび上がらせた結果だと解釈すべきでしょう

 

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   このように昔からサロメとユディトが非常に近い隣接物である事を示しているのがドイツ・ルネサンスの画家ルーカス・クラナッハ ( 1472~1553 ) の作品

 

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  佐藤祐市の映画『 累 ーかさねー 』( 2018 )を哲学的に考える〈 4 〉 に続く

 

 

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佐藤祐市の映画『 累 かさね 』( 2018 )を哲学的に考える〈 2 〉

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 佐藤祐市の映画『 累 ーかさねー 』( 2018 )を哲学的に考える〈 1 〉 からの続き

 

 

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 4.   サロメの系譜

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a.      『 累 ーかさねー 』の中で上演される『 サロメ 』( 1893 ) はアイルランドの作家オスカー・ワイルド ( 1854 ~ 1900 ) の戯曲なのですがこれは新約聖書におけるマタイ伝マルコ伝の話を基本的モチーフにしています【 ※ 】。しかし福音書の記述にはサロメの名前は出てきません ( サロメは母親であるヘロディアの娘としか記述されていない )【 ※ 】 。そこではサロメは未だ主要人物とはなっておらず福音書の中ではヘロデ王その妻ヘロディア洗礼者ヨハネの3人の枠組みで話が進んでいくのです

 

 

b.   その3人の中でサロメがどのような役割を果たしているかというとヘロデ王の誕生日祝いの饗宴の座で踊りを披露してヘロデ王を喜ばせます気を良くしたヘロデ王娘に褒美として望みのものを聞くのですがここでヘロディアはそれを利用し娘に「 ヨハネの首 」と言わせるのですロディアヘロデ王との結婚が近親相姦だとして非難したヨハネを恨んでいたのでお分かりのようにここでは娘は "サロメ" という主体ではなく母親ヘロディアの従順な道具でしかないのですヨハネの首を載せた盆を母親の所に持っていくという具合に

 

 

c.   その後サロメ西洋美術史において対象として様々な変遷を経ながら痕跡を残していきます面白いことに最初は "サロメの踊り" その対象になっていなかったというこれについて井村君江は次のように言っています

 

 

"   11世紀頃までは、「 聖ヨハネの斬首 」→ 「 サロメが首の載った皿を運び 」→ 「 それを王妃に渡す 」ー これら以外の場面のサロメ像として、「 サロメの踊り 」はなかった。

 サロメの踊りが描かれた古いものは、ドイツのヒルデスハイム大聖堂のものであろう。円柱の周りを巡るように彫られたレリーフがあるのだが、サロメは両手を広げ、それを空中に漂わせるように踊っている。

 これ以後13~4世紀までに多く見られるのが、「 逆立ちで踊るサロメ 」であるのは興味深い。まずイタリアのヴェローナにあるサン・ゼノ・マジョーレ聖堂。門扉にはニコッロとギグリエルモ作 ( 11世紀 ) といわれるブロンズのレリーフ〈 聖ヨハネの生涯 〉がある。このヘロデの宴会の場面に、踊るサロメが彫られているが、サロメは頭と足を床につかんばかりに二つに折り、身体を弓なりに曲げ、体を丸く曲げて芋虫のように見える。

 一方、14世紀のフランス、ルーアン大聖堂の入り口の門扉の上、半月のタンパンのレリーフには、〈 ヘロデの宴会 〉が彫られている。これには通称〈 逆立ちで踊るサロメ 〉として知られるサロメ像が描かれている。両手を床につき、両足を上げ、足首を曲げるポーズである " 

サロメ図像学 』 井村君江 あんず堂  2003年 p110~112.

 

 

 

ルーアン大聖堂 聖ヨハネ門の破風 ( タンパン )

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d.   ここに彫られたサロメの踊りこそ19世紀のフランスの作家ギュスターヴ・フローベールの小説『 ヘロディアス 』でサロメのダンスシーンを書かせるきっかけになったものですc. で述べたようにサロメは美術の世界では様々な形象となってきたのですが文学の世界で具体的対象 ( 主体 ) となるにはフローベールを待たなければならなかったそして19世紀末のフランスにおいてサロメという対象によって作家のフローベールと共鳴したのがもう1人のギュスターヴ画家のギュスターヴ・モローなのです踊るサロメとそこに現れたヨハネの首を描いた〈 出現 〉は余りにも有名ですね彼の "サロメ" はフローベール以上に影響力があったといえるでしょうサロメファム・ファタール ( 宿命の女 ) の系譜に位置付けるのに成功しているという意味でそして2019年の現在ギュスターヴ・モロー展 -サロメと宿命の女たちー 』が日本の各地 ( 東京大阪福岡 ) で巡回しているので興味のある方にオススメです

 

 

 

ギュスターヴ・モロー 〈 出現 〉1876   

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e.   フローベールの『 ヘロディアス 』において初めてサロメのダンスは具体的に記述されるのでありここにサロメの主体化の萌芽があるのですサロメの官能的ダンスはその場にいる男達を性的に刺激し興奮させる様子は物語のクライマックスにふさわしいフローベール的筆致の極みとなるつまり官能性ですら客観的文体で描写するというフローベール的抑制が逆説的にも却って興奮を高めていると言えるのです少々長くなりますが引用しておきましょう

 

 

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" 物腰のひとつひとつがこぼれるため息となり、全身これ悩ましさといった風情で、神を思って泣いているのか、神の御手にいだかれて息も絶えんとしているのか、わからないほどである。瞼は半ば閉じ、腰をくねらせ、波打たせるように腹をゆすり、両の乳房をふるわせる。顔はじっと動かぬまま、足先はなおも拍を踏む。

〈 中略 〉

 それは、幻ではなかった。ヘロディアスは、マカエラスから遥か遠いかの地で、我が娘、このサロメを、しかるべく仕込んでおいたのだった。アンティパスはこの娘に夢中になることだろう。その考えは的中した。もはや、間違いない。

 それから、思いを遂げんとする愛の狂乱の場が始まった。インドの巫女のように、大瀑布のほとりに住むヌビアの女のように、酒神に仕えるリディアの巫女のように、舞は続けられた。嵐になぶられる一輪の花もかくやと思うほど、前に後ろに、右に左に、その身はしなり、のけぞった。耳にきらめく石は跳ね、背中の絹は五色に光る。腕から、足から、衣装から、目には映らぬ火花があふれ、男たちを燃えあがらせる。竪琴が一鳴りすると、満場に歓声が沸き起こった。娘は膝を伸ばしたまま、両足を開き、顎が床に触れそうなほど、深々と身をかがめた。節制を旨とする遊牧民も、放蕩に慣れたローマ兵も、吝嗇な税務官も、論争で気を荒立てていた祭司たちも、皆が鼻孔をふくらませ、あの娘をわがものにできればと胸を高鳴らせた。

〈 中略 〉

 娘は逆立ちになり、踵を宙に躍らせると、巨大なスカラベのように、演壇を渡っていった。そしてぴたり、と止まった。

 うなじから背骨にかけての線が直角をなしていた。脚をつつむ色あざやかな袴は、肩の上に虹のように落ちかかり、その下に浮かぶ顔は、床から一キュビトほどの高さにあった。唇には虹が差され、眉はくっきりと黒く、目はほとんど恐怖すら感じさせた。額にきらめく汗の雫は、大理石に結ばれた露のようであった。

 娘は口をきかなかった。ふたりは見つめ合った。

 歩廊で指を鳴らす音がした。娘は上へと上がってゆき、再び広間に姿を現した。そして、わずかに舌足らずな発音で、子供のようにあどけなく、こう口にしたのだった。

「 では、ここへ持ってきてくださいな。お皿にのせて、首を・・・・・・」

 一瞬その名が出てこなかったが、やがてにっこりとして言った。

「 ヨカナーンの首を 」

 アンティパスは愕然として、その場にくずれおちた。" 

 

 『 ヘロディアス 』 谷口亜沙子 訳 光文社古典新訳文庫 p205~208. フローベール『 三つの物語 』から

 

 

 

f.   このようにフローベールは聖書の逸話に肉付けを施し文学にまで見事に昇華させましたしかしサロメのダンス描写は『 ヘロディアス 』の全てを象徴しているのではありませんよく知られるようにフローベールは自分の創作スタイルとして実証的資料を精査するという前準備を行っていましたこのスタイルは『 ヘロディアス 』にも表れていてそこでは資料に基づいて古代ユダヤ史を文学的に構成し直すつまり実証的エクリチュールを用いて事実に近い所でテクストを織り直しているのですそれが『 ヘロディアス 』という訳です

 

 

g.   ここで大切なのは実証的エクリチュールといってもそれは科学的なものではないという事ですもしそうであるのならそれはフローベールが熱読したジュール・ミシュレのような歴史学と何ら変わりないものになってしまうここで言う実証的エクリチュールとは限りなく事実であるかのような文学的表現であるという事ですこれに伴ってフローベールの文体を説明する際によく使われる客観的描写という言い方は次のように理解される必要があるでしょう

 

 

h.   フローベール物事をたんに客観的に記述するためだけの客観的描写を用いているのではなくある事実 ( 例えば『 ヘロディアス 』におけるユダヤ古代史ルーアン大聖堂のサロメ)ある事物 ( 『 聖ジュリアン伝 』におけるルーアン大聖堂のステンドグラス ) などの実的契機に創造的物語の糸を紡ぎ足すために客観的描写を用いていると考えるべきです詰まるところそのような創作的手法は文学的テクストという虚構物に現実性を纏わせるという文学創作における作家の欲望の源泉のひとつになっているといえるでしょう

 

 

i.   フローベールの『 ヘロディアス 』においてサロメは主体の萌芽として描かれたのですが物語の重心は依然としてキリスト教が生まれ出ようとする古代ユダヤの政治宗教的動向を描く事にあったのは間違いないでしょうつまり実証的エクリチュールによる古代ユダヤ史の文学的編集ですしかしフローベールのこのような創作的方法の傍らでサロメという1つの主体が誕生する契機が生まれましたそしてこの契機を拾い上げて "サロメ" を主体として誕生させたのがオスカー・ワイルドなのですそれについては次回で考えていきましょう

 

 

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【 ※

   ただしマタイ伝とマルコ伝には若干の相違があります井村君江が『 サロメ図像学 』でまとめてくれているので参照しましょう

 

"   まず「 マタイ伝 」によれば、ヘロデがヨハネ処刑を決するのは、王は誓ったことを実行するという威光を示すためであり、( 「 その誓と席に在る者とに対して、之を与ふることを命じ・・・」) 、また斬首を執行することを王が躊躇するのは、ヨハネ預言者だと信じている群衆の反感を恐れてのことである。

 しかし、「 マルコ伝 」では、ヘロデ王ヨハネを畏怖しており、その言の真なることを認めていたので、処刑を実施することは、王の心に反することだとなっている。

 〈 中略 〉

 また「 マタイ伝 」では、ヘロディアスの娘は、前もって母にヨハネの首を要求するよう命じられているが、「 マルコ伝 」ではこの考えは王の褒美の約束ののち、母と娘との問答を経て現れてきている。前者ではヘロディアスがこの事件を初めから仕組んでおり、後者ではその場の成行きから、彼女の意図がはからずも実現し、思っていた結末を招くことになる。" 

 

サロメ図像学 』 井村君江 あんず堂  2003年 p19~20.

 

 

【 ※

   サロメの名前が出てくるのは先史時代のユダヤを記録したフラウィウス・ヨセフスの『 ユダヤ古代誌古代の記録として貴重な書物ですがそこにはヨハネの処刑については書かれていてもサロメの踊りについての記述はありませんいやそもそもサロメの踊りが特権化されるのは後の時代の事であって福音書でも僅かに述べられているだけなのを考えると記述がないのは当然といえば当然

 

 

   サロメのダンスについての詳細な学術的分析に興味がある方はサロメのダンスの起源 』 大鐘敦子  慶応義塾大学出版会 2008年 p81~112. を参照

 

 

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  佐藤祐市の映画『 累 ーかさねー 』( 2018 )を哲学的に考える〈 3 〉 に続く

 

 

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佐藤祐市の映画『 累 かさね 』( 2018 )を哲学的に考える〈 1 〉

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監督 : 佐藤祐市

公開 : 2018年

脚本 : 黒岩 勉

原作 : 松浦だるま 『 累 -かさねー 』

 

出演 : 土屋太鳳   ( 丹沢ニナ たんざわにな )

   : 芳根京子   ( 淵 累 ふち かさね )

   : 浅野忠信   ( 羽生田 釿互 はぶた きんご ) 

   : 横山裕    ( 烏合零太 うごうれいた ) 

   : 檀れい    ( 淵 透世 ふち すけよ )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 累 かさね 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。
 

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 1.   ひとつの仮面とふたつの主体

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a.   この映画の主人公は一体 "" なのでしょうもちろん醜悪な相貌ではあるものの高い演技力を誇る淵累 ( ふち かさね ) であるのは間違いなのですが映画の中で彼女は淵累として輝くことはありません彼女は特別な口紅の力で美貌を持ちながら大根役者に過ぎなかった丹沢ニナの顔を借りる ( 演劇の舞台においてのみ ) ことで表舞台に踊りだし脚光を浴びる事が出来るのです

 

 

b.   実際この映画の外面的主人公は "舞台上での丹沢二ナ" なのであり演技が下手な丹沢二ナと淵累が変身した丹沢二ナを演じ分ける土屋太鳳が事実上のヒロインということになるでしょうそうするとありがちなのは芳根京子が演じる淵累は "舞台上の丹沢二ナ" の隠れた真実として人間の闇の情念を表しているというありふれた解釈に陥ってしまう事ですそれでは余りにも観たままの平凡な解釈でしかありません

 

 

c.   ここでこの映画における丹沢二ナと淵累は "舞台女優" を媒介にした関係である事を思い起こしましょう例えば2人の女優が同一的存在になっていくという話としてバーベット・シュローダー監督の『 ルームメイト 』( 1992 ) があります恋人のサムと別れたアリソン ( ブリジット・フォンダ ) の元に新しい同居人のヘドラ ( ジェニファー・ジェイソン・リー ) がやって来ます最初は野暮ったかったヘドラが徐々に洗練されて服装や髪型まで美しいアリソンそっくりになっていくのです

 

 

d.   しかし恋人のサムとよりを戻そうとするアリソンにヘドラは嫉妬し殺意を抱くようになりますこの背景にはヘドラには幼い頃に亡くした双子の片割れがいたという事実があるのですつまりヘドラがアリソンと同一的存在になっていくのは"一卵性双生児だったという過去への執着" が媒介にされていたという訳です2人でひとつであった事の記憶がヘドラの存在の核心において擬似真理として作用していると解釈出来るのです

 

 

   バーベット・シュローダーの『 ルームメイト 』姉妹が互いに口紅を塗ってキスをする冒頭場面この振舞いは『 累 ーかさねー 』において口紅の奇妙な力によって顔を交換することが出来るというアイデアを彷彿とさせますね

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e.   たしかに『 ルームメイト 』における一卵性双生児という事実への固執というような過去に囚われた人間が別の人間を巻き込み自らの欲望を現実化するという設定は累と丹沢二ナの関係性の雛型として考えることが出来るかもしれませんあたかも醜い淵累と美しい丹沢二ナも『 ルームメイト 』と同じく "擬似姉妹" であるかのように【 ※ 】。ただしこの雛形は『 累 』においてはもっと複雑化されています

 

 

f.   というのも『 ルームメイト 』ではアリソンがヘドラの欲望の中に巻き込まれヘドラは自分の妄想を現実化するという欲望のためにアリソンを利用するというように両者のバランスの均衡が固定化されていたのに対して『 累 』ではまず丹沢二ナが自分の演技力の無さを乗り越えるために淵累を利用し淵累も表舞台に出るために丹沢二ナの美貌を利用するという具合に両者が互いを利用するのです

 

 

g.   2人のバランスは時には丹沢二ナの方に偏り時には淵累の方に偏るというようにその均衡の支点が目まぐるしく移動を繰り返され常に不安定性に晒されていますこの不安定性の原因は何でしょう2人はライバルとして主演女優の座を争っている訳ではありませんなぜなら彼女らは2人で1人の丹沢二ナを演じているからです外見は丹沢二ナ演技力は淵累として

 

 

h.   ここで彼女らの関係性を媒介するものが "舞台女優" である事を考慮しましょう彼女らの不安定性の原因はその舞台女優の象徴である丹沢二ナの "" が丹沢二ナという主体から切り離され ( 事実丹沢二ナは上演中は自分の顔を淵累に譲っている )丹沢二ナと淵累の欲望が流れ込む "仮面" としてどちらにも属さない"抽象的顔貌" として彼女らを翻弄するからに他なりません

 

 

i.   この女優の顔を "仮面" として主題化した映画こそイングマール・ベルイマンの『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 ) ですベルイマン女優の演技の象徴である "顔それ自体"自分自身をある固定観念 ( 母としての振舞い女優としての振舞い ) に自ら縛りつけ苦しめるものとしてではなく"身体から分離したイマージュ"として対抗的に描き出しているのです【 ※ 】。ここでは "仮面" は誰にもどの主体にも属さないそれを示すかのように『 仮面 / ペルソナ 』においてはエリザベート ( リヴ・ウルマン ) の仮面の元でエリザベートとアルマ ( ビビ・アンデション ) らの2人の主体が融合し『 累 』においては丹沢二ナの仮面の元で丹沢二ナと淵累ら2人の主体が融合するのです

 

 

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【 ※

   原作の漫画を読んだ方なら御存知かと思いますが実は姉妹の設定は原作で出ていますそれは物語の前半の主要人物である丹沢二ナとの関係ではなく後半に登場する野菊が淵累の異母妹であるという関係性ですしかし野菊は丹沢二ナにように女優ではなく淵累に復讐を企てる娼婦という役柄であり物語を "舞台" から "血縁的なもの" へと舵を切らせる存在になっていますつまり物語がより情念的なものに進みすぎるきっかけとなっているのです

 

 

 【 ※

   "身体から分離したイマージュ" ・・・ 例えば『 仮面 / ペルソナ 』における以下の場面子供はもはや母親の顔を母親としては認識していないそこには母親という具体的存在からは切り離されたイマージュとしての抽象的顔貌とそれが一体何なのか手探りをする子供の姿しかない

 

 

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イングマール・ベルイマンの映画『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 )を哲学的に考える〈 1 〉

 

 

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 2.   仮面とその裏

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a.   しかしここで急いで付け加えなければならないのはベルイマンは "仮面" を単純に否定するような愚かなまねをしている訳ではないという事です問題なのは仮面の裏に抑圧された自己があるという擬似解放的心理学とでも呼べる神話ですこのような一般の人々をはじめとして一部の心理学者の間にも流布している神話の危険性は抑圧された自己が仮面というアリバイの元でその都度秘かに再生産されているのに気付かずに固定化されてしまう事です

 

 

b.   例えば淵累の自分の醜い相貌に抵抗しようとして丹沢二ナの美しい顔を借りてでも世に出ようとする欲望は仮面の裏に隠された本当の自己の欲望などではありませんそれは淵累と丹沢二ナの顔が重なり合った仮面が引き起こす欲望なのであってもし本当の自己の欲望であるように思えるとしたらその時主体の内面は仮面によって既に侵食されていると言えるでしょう

 

 

c.   つまり抑圧された自己の正体とは"仮面" に同一化した主体に他ならないのであってその結果自分の身振りを "仮面" に従属させてしまっている事に気付かないという無意識的状況を生み出してしまうのですこれに対してベルイマン"仮面"人間の理想が投影されたものであるどころか最も人間的なものとはかけ離れた "イマージュ" である事を無意識的に打ち出していますいやそれどころか過激な事に彼は人間的なものを構成するものがおよそ人間的でない切り離されたイマージュの諸々の寄せ集めであるという哲学的真理を明らかにするのです

 

 

d.    ここでベルマンから学び取る教訓は仮面との同一化を脱するためには仮面の裏に隠されたありもしない自己にこだわる事などではなく仮面の裏には何も無いつまり"無" しかないのを知る事なのです一見するとこれは残酷で絶望的な真実なのですが同時にこの "無" こそが主体が自由に動き回る自由な空間がある事を保障してくれますこの自由な空間があるからこそ主体は絶望して無の深淵に落ち込む事もああれば仮面などが生成される表層地帯で自由に活動する事も出来るのです絶望的な無こそが主体の自由な活動のためのスペースの基盤である事を理解すれば本当の自己などという擬似真実がいかに主体の活動を制限したり時として妨げるものであることが自ずと分かるでしょうそしてベルイマンも『 仮面 / ペルソナ 』の最後においてエリザベート"" を悟らせているのです

 

 

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3.   淵累の欲望

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a.  ここから問題となるのがもし淵累が丹沢二ナという仮面との同一化を止めてしまったならどうなるのだろうかという事です映画のラストでは丹沢二ナの顔で舞台に立っている淵累の顔が醜悪な素顔 ( といっても淵累を演じる芳根京子がきれいな顔立ちなのでメイクをしても醜悪に見えないのですが ) に切り替わって観客の前でその姿が突如晒されるという突発的な "事実の露呈" が幻想的な調子で表現されています

 

 

b.  これに対して原作の漫画においては淵累が素顔で舞台に臨むというラストまでの過程が徐々に描かれています最初は素顔での出演に難色を示していた淵累ですが羽生田釿互に説得されて苦悩しながらも本番へ臨むのです ( この辺の経緯については原作特に第14巻を読んでいただくのがよいでしょう )そこにおいて淵累からは当初の舞台で主演を演じるという欲望はまるで消え失せ母親の淵透世から続く血族的宿命を乗り越えるためだけに舞台に立つかのように自分を奮い立たせます

 

 

c.   この変化を一体どう考えるべきなのでしょう一見すると自らの生い立ちや宿命に向き合う淵累の姿勢は悲劇的ヒロインとしてドラマティックなラストに相応しいものだと思われるかもしれませんしかしそのような感傷的解釈では結局彼女は仮面の裏の本当の自己に拘ったのだという擬似心理学以上のものを引き出す事は出来ませんここからは哲学的思考によってそれ以上の解釈を推し進める事が必要になります

 

 

d.   彼女はラストのクライマックス ( ここは原作を念頭においています ) に向かっていく中で華やかな表舞台に立つという夢想的な欲望から自分の醜悪な相貌を大勢の眼前で晒すという恐ろしい現実に打ち勝とうとしたのだと解釈してしまっては失われるものがあるのですそれは淵累の当初の欲望表舞台で輝きたいという欲望が一体何だったのかという事についての考察しなければならないものです

 

 

e.   淵累の欲望が醜悪な相貌の裏側において形成されたものだとするなら彼女の演技力はまさに自分の相貌がどうにもならないという絶望的事実に抵抗するために表舞台に立つという不可能な妄想が昇華されたものだと解釈出来るでしょうとするならば丹沢二ナの美貌を借りて舞台に立つ事はたとえそれが圧倒的演技力に基づいていても自分の欲望の根源を未だ隠しているという意味で自分自身に向き合っているとはいえないのです

 

 

f.   ただし羽生田釿互に後押しされ本来の顔で舞台に立つ事は自分に向き合おうとする彼女の誠実さの現れだという解釈で済ますべきものではないでしょうなぜなら彼女の欲望は自分の相貌との対極化として形成されたつまり絶望こそが彼女の根源であるという事実が突きつける不可能性を背景にしているからですここで不可能性というのは醜悪な相貌を持ち続けながらも演技力で以って表舞台で輝くという同時性が不可能なものであるという事です

 

 

g.   この不可能性こそ物語のラストの舞台で淵累が成し遂げようとしたものに他なりません既にd. で述べたようにこれをドラマティックなものとして感傷的に受け止めては失われるものこそ不可能性についての考察なのです実際には淵累は舞台で演技する事には成功する ( 1回限りでしたが )つまり女優という主体としては成功するのですがその代償として淵累という人間としてはこの後その命を失うことになります彼女は命と引き換えに不可能性を一時的にであれ可能にした訳ですがこの不可能性は演技のために自らの命を差し出さなければならないというおよそ釣り合いの取れない残酷な選択を淵累に要求した訳です

 

 

h.   以上のような説明をしてもいや以上の説明で余計に淵累のラストを感傷的に解釈してしまう方はいるでしょうしかしその不可能な設定は感傷的な解釈ではなくより哲学的な解釈に移行する事を促しているのに気が付かなければなりませんつまりこの物語は淵累とその血族の因縁周囲の人間との生々しい関係性などについてのありふれた情念的物語ではなく女優的主体が経験する通過儀礼についての象徴的物語なのだ女優について語られた物語なのだと気付くべきなのです

 

 

i.   面白いことにそれを明らかにしてくれるのは原作の漫画ではなく映画の『 累 ーかさねー 』です原作と違い ( 原作においても『 サロメ 』は出てくるのですがそれは幾つもある演目の中のひとつでしかない )映画はラストに『 サロメ 』の舞台を持ってくるのですがその『 サロメ 』という演目がそこで特権化されていることこそが女優という存在が特殊な主体である事を明らかにしてくれるのですそれについては次回から考えていきましょう

 

 

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 佐藤祐市の映画『 累 ーかさねー 』( 2018 )を哲学的に考える〈 2 に続く

 

 

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リドリー・スコットの映画『 ブレードランナー 』ファイナルカット版( 2007 )を哲学的に考える

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公開 2007年 ( 初公開時は 1982年 )

監督 リドリー・スコット

脚本 ハンプトン・ファンチャー

   デヴィッド・ピープルズ

原作 フィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?

 

出演 ハリソン・フォード        ( デッカード )

   ルトガー・ハウアー        ( ロイ・バッティ )

  ショーン・ヤング         ( レイチェル )

  エドワード・ジェイムズ・オルモス ( ガフ )

   ダリル・ハンナ          ( プリス )

  ウィリアム・サンダーソン     ( セバスチャン )

  ブライオン・ジェイムズ      ( リオン )

   ジョー・ターケル         ( タイレル博士 )

  ジョアンナ・キャシディ      ( ゾーラ )

   ジェイムズ・ホン         ( ハンニバル・チュウ )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 ブレードランナー ファイナルカット 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいたものです。なので、考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さを求める、という方はこの場所は適当ではないかもしれません。しかし、物事を深く考えることに意義を見出す人にとっては、十分に刺激的な記事であるのは間違いないでしょう。 

 

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 1.   デッカードレプリカント

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a.   ブレードランナー( 1982 ) における謎の解明や細部の説明については既に数多くの記事で確認出来るのでここではより哲学的なアプローチをしていきましょうブレードランナーファイナルカット ( 2007 )デッカードレプリカント説を強化するリドリー・スコットの意向が完璧に反映されたもの【 ※である事を考慮すれば ( 主要人物のほとんどがレプリカントであること )この映画は人間とレプリカントの差異や対立を描いたものなのではなくレプリカント同士の間の差異を通じて人間主体の構造を浮かび上がらせる映画だと解釈すべきでしょう【 ※ 】。そしてここで言うレプリカント同士の格好の例がデッカード ( ハリソン・フォード ) とロイ・バッティ ( ルトガー・ハウアー ) なのです

 

 

b.   ロイは"自分がレプリカントである事を知っているレプリカント" ( これを A とします ) でありデッカード"自分がレプリカントである事を知らないレプリカント" ( これを B とします ) だと考えてみましょうこの A B というテーゼを出したところでもうひとつ注意すべき変奏テーゼを挙げておきますそれが"自分を人間だと思い込んでいるレプリカント"というテーゼ ( これを C とします ) です

 

 

テーゼ A 自分がレプリカントである事を知っているレプリカント  ( ロイ )

テーゼ B 自分がレプリカントである事を知らないレプリカント  ( デッカード )

テーゼ C 自分を人間だと思い込んでいるレプリカント  ( レイチェル ) 

 

 

 

c.   一見するとC は人間の曖昧な自己同一性を暴く哲学的急進性を表したテーゼのように思われるかもしれません ( というのも人間こそ自分を人間だと思い込んでいるレプリカントであるとさらなる変奏テーゼを提示出来るので )特定のレプリカントに当て嵌めてみるとこれはレイチェルである事が分かるでしょうただしデッカードのフォークト=カンプフ検査によって彼女がレプリカントであることが明らかにされるまでの途中という条件付きですが

 

 

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【 ※

   リドリー・スコットによってファイナルカット版に施された露骨なデッカードレプリカント説を裏付ける処理画像ピントがぼけているので分かりにくい ( 映画でははっきり分かる ) がこのシーンの直前でレイチェルの瞳がオレンジ色に光るのに呼応するかのようにデッカードの瞳もオレンジ色に光っている

 

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 【 ※

   ここで参照したいのは『 THE Hollywood REPORTER 』によるルトガー・ハウアーへの最近のインタビューです ( 2018年2月18日 )彼は『 ブレードランナー2049 』の感想を求められ手厳しい答えを述べながら ( 曰く美しい物は続編など作らずにそのままにしておくべきだ ) 自身の出演した『 ブレードランナー 』について興味深い事を言っています

" 多くの意味で、『 ブレードランナー 』はレプリカントについての映画などではなく、人間であるとは何を意味するのかについての映画だ。"

 

 

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 2.   ロイ、デッカード、レイチェルたちの自己意識

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a  そうするとレイチェルにおける変化とは から への移行過程に位置付ける事が出来るのですがこの移行がいかなるものなのかについて考えていきましょう のテーゼはレイチェルの自己同一性に潜む危うさを示す哲学的客観性であるといえるものなのですがA はその客観性とは反対に位置するロイの "自己意識" を表したテーゼでしたね人間性の装いが剥がされレプリカントであるという絶望的真実としての A にレイチェルは苦しむのですがそこには人間性にしがみつこうとして精神のバランスを崩しかねない危険性があるといえるのです

 

b.   どういう事かというとレイチェルはロイやデッカードに比べて自己意識の生成過程あるいは逆の方向から見ると自己意識の崩壊過程にあるという意味で危険なのですそれに対してロイとデッカードの存在様態は観客が思う以上に安定しています既に述べたようにロイは自分がレプリカントである事を "知っている" レプリカントであり ( テーゼ A )デッカードは自分がレプリカントである事を "知らない" レプリカント ( テーゼ B )でしたね

 

 

c.   この両者に共通するのは知る事あるいは知らない事という "知の次元" が出現していることですこの "知の次元" があるからこそA および "自己意識" についてのテーゼだといえるのです人間主体の中に "知の次元" が出現する事の哲学的意味は人間主体の心理的構造が "精神的なもの" として展開されていく上での契機となっています人間心理は精神的なものとしてしか在り得なかったのでありそのようなものとして構造化されなければ人間性それ自体は野蛮なものの中に埋もれている事しか出来なかったでしょう

 

 

d.   このような知の次元の重要性を説いたのがドイツ観念論の哲学者ヘーゲルです彼の洞察は一般的常識に反して自己意識ですら知の1形態に過ぎないというラディカルなものです私達の常識では意識と知を切り離すあるいは意識を知の上位にあるものだとするでしょうところがヘーゲルはそのような思い込みが哲学的には意味がないことを明らかにしますヘーゲル私達が何かを知るというように何らかの対象を捕獲するという意味での教養的な知について語るのではありませんそうではなく彼は "知るという形式" それ自体の現実的意味について語っているのです

 

 

e.   対象物を自らの元から切り離し今度は自分自身にその対象化を施すという反照規定こそ知の作用でありそこから分かるのは対象物への偶像的呪縛から逃れた "知それ自体の抽象化" という現実がそこにあるという事なのですそしてそのような知の抽象化が最高度に達したものこそ "自己意識" に他なりませんこの意味でヘーゲルは意識 ( 自己意識 ) は知であると言っているのでありその知の発動を "精神" と言うのです

 

 

f.   そうであるならばロイのテーゼ A その "言表内容" ( 自分はレプリカントである ) に反し自分はレプリカントであると意識する "言表行為" において既に人間性を回復しているといえるのです自分の限界 ( 寿命が4年しかない ) を規定する "自己意識" に到達しているという意味で

 

 

g.   そしてロイに続いて考えなければならないのはデッカードのテーゼ B についてです表面的な印象とは違ってロイが逆説的に人間性を獲得しているのであればデッカードはどうなのかという問題が残るわけですねロイのテーゼ A が自己意識の "純粋内容" であるならばデッカードのテーゼ B 自己意識の "意識されない形式性" つまり意識とは一体何であるのかという底無しの闇に引きずり込みかねない無意識性自己意識が在ることの無意識を表していると考えられるのです

 

 

h.   ここで整理するとテーゼ AB は自己意識の "内容" と "形式" の差異であるという事でありそれはロイとデッカードが表裏一体あるいは背中合わせの関係にある事を示しているといえますねここで思い出されるのは映画中では採用されなかったものの脚本家デヴィッド・ピープルズによる「 ロイと自分は兄弟だった 」というデッカードのセリフがあったというエピソードですこのエピソードで示される兄弟が比喩的なものに過ぎないとしてもそれは自己意識にまつわる哲学的真理の一端を担っているといえるでしょうそしてデッカードにおけるこの "無意識性" こそが人間の同一性意識を動揺させる不安要素として観客を誘惑し監督のリドリー・スコットファイナルカット版においてデッカードレプリカント説へと完全にシフトさせたものだと解釈出来るのです

 

 

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 3.   再びレイチェルの方へ                   

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a.   ここで再びレイチェルの不安定な内面の方へ戻ることにしましょうa. においてレイチェルはテーゼ C からテーゼ A に移行しつつあると述べました自分が人間ではないという絶望からレプリカントであることを認める自己意識への途上にあるという事でしたしかしここで注意すべきは彼女がロイなどのネクサス6型と違い感情を抑制してより人間らしく振舞える ( それに加えてレイチェルに生殖能力まであったことが『 ブレードランナー2049 』で明らかになる ) と自覚しそれに固執した事です ( 生殖能力によって彼女はネクサス6型がヴァージョンアップされたネクサス7型ではないかとの推測もありますね )

 

 

b.   ここでのレイチェルは自己意識の生成過程にあるといえるのですがただしそれはロイのように人間と敵対して自分がレプリカントであると認識する単純な自己意識ではありません彼女は自分がレプリカントであることを "知っている"にも関わらず人間らしく振舞えると "信じている" のですそうここにあるのは "知" に対する "信仰" の優位です自己意識がヘーゲルの言う "知" であるとするなら"信仰" とはそのような知を停止させて自己意識を麻痺させる "陶酔的なもの" なのです

 

 

c.   ラカンマルクス主義哲学者のスラヴォイ・ジジェクは『 ブレードランナー 』を論じた『 否定的なもののもとへの滞留 』においてそんなレイチェルの苦悩をキルケゴールを引き合いに出して説明しています

 

" ブレードランナー 』のなかでデッカードがレイチェルに彼女がレプリカントであることを証明したときレイチェルがどんなふうに静かに声もなく叫びはじめたのかを思い出そう彼女の「 人間性 」の喪失に対する沈黙の嘆き人間であることあるいは再び人間になることへの無限の憧憬そうなることはけっしてありえないと彼女は知っているにもかかわらずあるいは裏返していうなら私は本当に人間であるのかそれともただのアンドロイドなのかという永遠に私を責め苛む懐疑こういった決定されず中間的な状態にあることそれが私を人間にする " 

『 否定的なもののもとへの滞留 』 太田出版 p70.

 

 

 これについての注でジジェクキルケゴールに言及する

 

" そしてこれはキルケゴールが信仰に関して成し遂げていたのと同じ身振りではなかったかわれわれ有限の死すべきものは「 自分は信じていると信じている 」べく呪われているわれわれはけっして自分が本当に信じているのかどうかについて確信することはできない( 中略 )ラカンのいうように強迫神経症者を突き動かしている問いが「 私は死んでいるのかそれとも生きているのか 」であるとするならその宗教版が「 私は本当の信仰者であるのかそれともただ信じていると信じているだけなのか 」であるとするならここでは容易に見てとれるようにこの問いは「 私はレプリカントなのかそれとも人間なのか 」へと変形されている "

『 否定的なもののもとへの滞留 』 太田出版 p383~384.

 

 

d.   しかしジジェクその懐疑を文字通りに受け止めすぎているかもしれませんというのももしその懐疑が "文字通りの真実" であるとするならば人間主体はもはやそれ以降行動することが出来ないでしょう信じるという自分の行為 ( 信仰 ) でさえ信じることが出来ないのだからそうすると文字通りの懐疑に人間主体が陥ったとするならばそこにあるのは主体性の崩壊 ( 狂気の侵入 ) であるか懐疑を放棄して以後の人生を堕落して過ごすという2択しかない

 

 

e.   そうでないのなら懐疑の中にありながらも人はキルケゴールであれレイチェルであれ既に無意識的にどちらかの選択をしているという事になりますねキルケゴールが本当に信仰を信じていなかったならば彼はそもそも信仰について語ることはしなかったでしょうレイチェルも人間であることを信じていなかったならば絶望することも無かったでしょうつまり彼らは懐疑あるいは絶望的真実 ( キルケゴールにとっての神の不在レイチェルにとっての自分が人間ではないという事実 ) にも関わらず信じる事が出来るのを言外で表明しているのです別の言い方をするばらば懐疑あるいは絶望的真実に直面しているからこそ信仰という形式の価値を高める事が出来るという訳です

 

 

f.   ではロイやデッカードの自己意識という人間的主体の構造的真理に対してレイチェルの取る人間的なものへの信仰という身振りはいかなる意味を持つのでしょうここにはキルケゴール的不安とは袂を分かつレイチェル自身の欲望が色濃く反映された信仰つまり""それも "デッカードへの愛" が現れているのです

 

 

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 4.   レイチェルの愛・・・その結末

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a.   レイチェルはロイと同じくレプリカントである事を認識したという意味で人間的自己意識を形式的に獲得したのですがその事がいかなる振舞いを生むのかといういう点でロイと微妙な違いを出していて興味深いのです

 

 

b.   ロイはデッカードとの決闘においてビルの屋上から落ちそうになるデッカードを助けるのですがこれをいかに解釈すべきでしょうか寿命が尽きる直前のロイの気まぐれなのでしょうかいやその解釈では話は何も進まない落下死しそうになっているデッカードはひとつのアクティングアウトをロイに選択させたのだと考えてみましょうデッカードが生きるも死ぬもその生殺与奪権がロイに委ねられたわずかな時間が生まれたその瞬間にロイは他人を救うというそれまでのやり方とは違う流儀を学んだのです自分の寿命を延ばすために人間と敵対してきた彼はもはやそれが叶わぬ ( 自分の命がわずかなため ) と感じた時デッカードを殺す事の無意味さを知ったのだといえるでしょう

 

 

c.   この時ロイの "自己意識" は自分の死を受容れていたのですねその結果として彼は自分の死の間際において他者を救うという崇高な選択をしたという訳ですこれに対してレイチェルはレプリカントであることの "絶望的自己意識" と引き換えに他者を愛するという極めて人間的な振舞いに目覚めるのです

 

 

d.   この愛がいかなる形を採ったかについてはデッカードとレイチェルが逃避行するというラスト ( これは『 ディレクターズカット版 』や『 ファイナルカット版 』よりも1982年に公開されプロデューサーの権限が反映された『 インターナショナル版または完全版 』の方ではっきりと表されている ) 以外には知る由はありませんでしたしかしブレードランナー2049 』によってレイチェルは備えていた生殖能力によってデッカードの子を身篭り出産していた事が明らかになりますそれと同時にレイチェルも亡くなったことが分かるのですが驚くべきことにそこには普通の人間と何ら変わりない生殖サイクルが現れているのです

 

 

e.   この結末をどう考えればいいのでしょうブレードランナー2049 』以前の『 ブレードランナー 』の幾つものヴァージョンにおいてはレプリカントと人間はあくまで別個の主体として互いに引き合い反撥して人間的同一性を揺さぶる参照項同士であったはずですところが『 2049 』においてはレイチェルの生殖能力によって人間とレプリカントの差異はほとんど消滅しかかっていますいやそれどころか人間とレプリカントが融合しているとさえ言えるでしょうこれでは『 ブレードランナー 』における人間の同一性という哲学的問題は "問題" にさえならなくなるというのも『 2049 』においては既に人間が自らの同一性を抜け出て別の何かになろうとする未来が暗示されていると解釈出来るからです

 

 

f.   それを理解するには人間の象徴的器官である生殖器レプリカントであるレイチェルに備え付けることの不可能性を想像すればいいでしょうそれよりも人間に不可欠な生殖器官をベースにその他の部分を機械的パーツで補った主体を想像する方が現実味がありますねもちろんこのような事態の契機となるであろう医療処置の延長上には遺伝子操作などの人間の寿命や出産をコントロールしようとする将来的プロジェクトを予期することはそう的外れな事ではないでしょう例えば "ある国家" において急激な人口減少によってそれまでの社会基盤や国家予算 ( 人口が減れば税収も減るしかなくなる ) が維持できなくなる恐れがある場合など

 

 

g.   ここまで読んでお気付きの方もいるかもしれませんが私たちはロイにレプリカントであることを意識させるきっかけとなった "寿命" の問題つまり有限の命の中で生きる主体が自らを強く意識する事の変奏ヴァージョンであるテーゼ A に立ち戻っていますそしてここに至るための離れた入口はレイチェルのデッカードへの愛だったのです彼女は生殖によって愛の結晶を残すこと引き換えに有限の命の世界から去っていったのですが有限の世界に残された主体であるロイそして私達 ( 新たに生まれた命を含めて )有限の命の中で生きるのを強いられた存在である事を嫌という程に思い知らされることになるのです個人的にも社会集団的にも

 

 

h.   レイチェルの人間的なものへの信仰はデッカードへの愛という形式で昇華された訳ですがしかしその結末が人間とレプリカントの融合的主体の出現であるのならそこには "人間の生殖サイクルがレプリカントによって利用される" という悪夢が生まれているとSF的に考えることが出来るでしょうただしそれを悪夢と言い切るには私達が生殖サイクルという形式の "現実的意味" を知っている必要があります ( この "現実的意味" の例としてはd. 及びg. を参照 )

 

 

i.   もちろん私達はその "現実的意味" を知らないのです生殖サイクルが太古から続く遺伝子の伝達作業という便宜的な説明に流されてしまっているだけでなぜそのような形式なのかその形式によって生命が続くという現象の意味は何なのかなどの問いを立てると私達はその "現実" に震撼するしかないのですね【 ※ 】。とするならば私達もレプリカントと同様に生殖サイクルに乗っかってそれを利用しているに過ぎないという事になりますね"現実的なもの" に対して盲目なる事が私達の無意識を形成するという意味で私達はデッカードなのですそして苦悩や愛の最中で生殖サイクルを使用するという意味では私達はレイチェルであり最終的に自らの死を受け入れて自己意識の闇の中で眠りにつくという意味でロイであるように人生において私達は『 ブレードランナー 』が提示する3つの主体として生きていると解釈出来るのです。 

 

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【 ※

   ダブルバインド理論で知られるグレゴリー・ベイトソンも『 精神の生態学 』の中でわずかながらもこの "現象" の現実的意味について言及している

 

 

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