哲学的考察と備忘録

ブログタイトルをクリックすると先頭ページのカテゴリー欄が現れます。

手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(4)

f:id:mythink:20180615224043j:plain

 

僕の別ブログの記事 ( 3年前 ) をこちらのブログで備忘録的にまとめておこうと思い移動させたものです。

 

f:id:mythink:20180615224139j:plain

 

手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(3)からの続き。

 

 

a.   このテーゼの内容を掘り下げる必要があるでしょう。手紙が彷徨うとはどういう事であるのか? 受取られても逃げ去るのはなぜなのか? それは手紙の行程そのものに関わる問題でもあります。手紙は一体何処に向かうのか? 宛名人に向かってなのか? 確かにそうでしょう。しかしそれは宛名人が最終の目的地である事を意味するのか? もしそうであるならば、最終とはいかなる意味でそうであるのか? 手紙の行程がそこで全て終わる事を意味するのか?

 

b.   確かに象徴的身振りとしては受取りは差出しから始まる手紙の行程を完了させるものです。しかし、その身振りは手紙の内容に同意するにせよ、しないにせよ受容れ( 受取りとは違う )を一旦保留する事を意味する行為でもあるのです。とりあえず受取りました、あなたの気持ちは受け止めておきますという事であり、そこから先どうするかは受取人の自由なのです。

 

c.   そのような自由の行使権は、受取人が既に手紙の行程の一部として巻き込まれている事に対する抵抗でもあります。手紙における宛名の署名が受取人本人ではなく差出人によって先取りされているという受取人の自由の剥奪に対して、受取人は自分の自由を行使して対応・対抗するのです。受取人が手紙を受容れる ( これはもちろん手紙の内容に全面的に同意する事を意味するとは限らない ) にせよ、手紙の受容れを拒否する ( 自分を手紙の行程の最終目的地としての受取人になるのを否定する事 ) にせよ、それは受取人の裁量に委ねられている。

 

d.   そしてそのような余地があるという事は、手紙の受取りが行程の最終目的地とする見方が局地的・限定的である事を意味しているのではないでしょうか。手紙の受取りが差出人の行為に賭けられたものを全て返済するものであるというのは困難であるのではないでしょうか。というのは差出しという行為は手紙の内容を含む差出人の固有圏域の唐突な送り出しであり、それに対して受取人はいかなる態度で対応すべきなのか即座に判断する事は困難であるからです。それがプライヴェートなもの ( 愛の告白など ) であればなおさらそうです。

 

e.   それ故に一度動き出した差出人の固有圏域は、受取人がそれをすべて受容れる事の困難さによって、受取を最終地点としてそこに留まる事が出来ずに通過する。それが手紙が彷徨うという事の意味なのです。そのような自らを受取ってもらえない事の報われなさは悲劇であるのでしょうか。いや、そうではありません。その報われなさは確かに差出人を気落ちさせるかもしれないが、それこそが個人の固有圏域がある事を示しているのです。

 

f.   それは報われなさという否定性から展開される弁証法的論理ではない。報われなさの身振りとしての彷徨いは、幽霊が取り囲むかのように、個人の固有圏域に触れる。いかなるものによっても定義する事が困難な( なぜなら個人という言い方でも十分に個人的でないから )個人の固有圏域は、何処にも届く事なく、承認される事なく、見向きもされなくても、実在する。ただし彷徨いながらであるが。それは終わる事のない差出しとして人々の間を通過し漂流する、そうする事しか出来ないのです。なぜならいかなるものも個人の人生を定義出来ないし、いかなるものも個人の世界を知らないから、手紙を差出す本人以外は。しかしここで言う本人とは僕であり、あなたであり、すべての者の事であるのです( 終 )。

 

 

f:id:mythink:20180615224139j:plain

 

手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(3)

f:id:mythink:20180615221724j:plain

 

僕の別ブログの記事 ( 3年前 ) をこちらのブログで備忘録的にまとめておこうと思い移動させたものです。

 

f:id:mythink:20180615204919j:plain

 

手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(2)からの続き。

 

 

a.   宛先における〈 死 〉・・・それは宛名人の〈 死 〉なのです。差出人が宛名を書く時、それは自分の言う事を聞いてもらう、あるいは受取ってもらう、受け入れてもらう為なのですが、それは同時にそうしてもらわねばならない、それしか出来ないよう宛名人の自由を奪い受取りの行為のみに特化させる事、しかも宛名人の許可なく彼らの知らない間にする事でもあるのです。それは宛名人の立場を奪い、自由を奪い、可能性を奪い、意思を奪う、つまり知らない間に殺す事でもあります。この言い方が耐え難いのであれば、殺すのではなく、死んだ者として扱う事と言い変えましょう。

 

b.   そのような罪なくしては、そもそもメッセージを伝える事など出来ないのです。相手の人生を中断して割り込み、そこに自分のメッセージを差し込む。自分の思いや悩みなどの個人的告白や事務的連絡であれ、メッセージを宛名人に送るというのは、たとえそれが相手に非礼がないよう敬意が持たれていたとしてもそれ以上に自分への愛や忠実さがなければ実行出来ない行為であるという意味で宛名人を自らの犠牲にする事なのです。相手に迷惑であるのなら止めるべきだろうかという憂慮を振り切り、自分のメッセージに根拠や信用がある、あるいは宛名人とって有益であるとさえ思わせる盲目的な愛がそこにはあるのです。

 

c.   もちろん実際にはそのメッセージを受取人がどう受取ろうが、あるいは受取らなかったように振舞おうが自由であるのですが、手紙を差出す事は相手を知らない間に( 受取人だけではなく差出人自身にとっても )殺す事なくして不可能なのであり、それは死者に手紙を送る事なのであり、それ故に実際にそれが必ず受取られてたとしてもその瞬間から手紙は逃れ去り漂流するといえるのです。

 

 

d.   そうすると、今では手紙は宛先に届くという命題を違う意味で肯定する事も出来るでしょう。手紙は宛先に届かない事もありえるという命題はそれに反するものではなく、まさに手紙が宛先に届く時に何が起きているのかを説明するのです。

 

e.   手紙は宛名人の所に到着する時をもってそれとして認識され、その行程を終了するように見えるがそうではありません。手紙が手紙として認識されなければ、それは一体何なのか。それは手紙と呼ばれるべきものではないのか。そのような事態は考えられるのでしょうか。

 

f.   手紙が宛名人において受取られ認識されるという行為は、手紙の差出とは全く別の事態であり、象徴界の一地点における出来事です。しかし手紙の行程において、その差出という行為は、到着点において受取りという行為に自動的に切り替わるのではないのです。

 

g.   手紙が受取られたとしても、差出は消滅せずに自分に忠実であり続ける。手紙の受取りとは象徴界における必然的な出来事ですが、まさにその受取りという行為の必然性故に、それ以前の手紙の差出という事実を回収できずに野放しにして彷徨わせ続けているのです、未だに。手紙の差出という事実は、それが宛名人において受取られたとしても、消去できず、未だ終わりなく彷徨い続ける。それは象徴界に安定的に登録される行為ではなく、未だ上手く定義出来ない〈 死 〉に関する行為であるが故に象徴界に安住する地を持たず、〈 幽霊 〉として漂うのです。

 

h.   ここにおいてテーゼを書き換える事が出来るでしょう。

手紙は宛先に届く。しかし届くや否や、それは逃げ去り彷徨い続ける

 

 

f:id:mythink:20180615204919j:plain

 

 

手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(4)へ続く。

 

 

f:id:mythink:20180615204929j:plain

 

 

手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(2)

f:id:mythink:20180615204929j:plain

 

僕の別ブログの記事 ( 3年前 ) をこちらのブログで備忘録的にまとめておこうと思い移動させたものです。

 

f:id:mythink:20180615204919j:plain

 

手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(1)からの続き。

 

 

a.   先に述べましたが、手紙の受取りが上手くいかない場合がありえるように象徴空間が十分に構造化されていないのであれば、事態はどうなるのでしょう。言語を媒介にした対人関係としての象徴空間においては、手紙という記号表現とその行程は人間関係という結びつきを保障するはずだと精神分析的には考えれられるはずです。しかし、同時にその記号表現は 並行しているが故に上手く交わらない二つの事態、つまり〈 差出す事 〉〈 受取る事 〉をも奇妙に結び付けている奇妙な記号表現だとも考えれられるのです。なぜ上手く交わらないのでしょう。〈 差出 〉から〈 受取 〉への行程とは見通しの良い舗装された純粋な交通路ではないのでしょうか。それともそこは気付かれずに通過されてしまうものがあるのでしょうか。

 

b.   まさしくそこで分岐点となるのは 文字としての〈 手紙 lettre 〉の概念をどう考えるのかという事です。これをラカンが言うところのシニフィアンの物質性、つまり分割不可能なものとしての〈 手紙=文字 〉の理念的同一性( lettre文字という意味も持つことから手紙はバラバラになっても、つまり単なる文字の集まりになっても手紙であるというラカン的解釈 )として受け止めるのではなく、手紙の理念性から逃れていく文字それ自体の( シニフィアンの、ではない )物質性として受け止めようと僕は考えます。

 

c.   〈 手紙は宛先に必ず届く 〉とは、主体へと円環状に向かい再自己固有化する記号表現の理念的物質性により普遍的なものにまで高められた精神分析の公理ですが、もし文字としての〈 手紙 lettre 〉が記号表現という普遍性の中においてその理念を保障する特殊なものではなく、〈 手紙 - lettre 〉から〈 文字 - lettre 〉へと自らの属性を分割・分離して普遍性から遠ざかっていく特殊なものであるとしたら、どうでしょうか。

 

d.   記号表現の換喩的な横滑りの行程には乗らずに、〈 手紙 - lettre 〉という理念を構成する他性的( "手紙" から見て )なものとしての物質である〈 文字 - lettre 〉へと転移させる事で、自らを保留し何者からも離れて宙吊りにする。それは切り離され何者も手を出せないひとつの "物質性" となって "書き込まれた事実" を示し、そのような書き込むという行為があった事、そしてそのような行為を成した者を浮かび上がらせる。私であれ、あなたであれ、〈 書く 〉という行為はひとつの事実を産み出す事であり、〈 文 - lettre 〉とはたとえそれを書き込んだ者が消えてしまおうとも、自らの痕跡を刻むものなのです。そしてそこからその事実に関わるものを生起させるのです。

 

e.   その意味でそこには〈 死 〉がある。〈 書かれたもの 〉という事実とともに、あるいはその傍らに、書き込む者の〈 死 〉だけではなく、書き込まれた者( つまり宛名 )の〈死〉もある・・・。

 

f.   これはジジェクが言うような〈 死 〉が私達すべてに訪れるという意味で〈 手紙=死 〉は必ず〈 宛先=私達 〉に届くという事ではありません。洗練されているように見える考え方ですが、〈 象徴的負債=死 〉清算とは誰にでも共通して平等に訪れるという意味で不安を煽りながらも予定調和的な〈 死 〉でしかありません。しかし〈 宛名 〉における〈 死 〉はもっとラディカルな事態を示しているのです。

 

 

f:id:mythink:20180615204919j:plain

 

 

手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(3)へ続く。

 

 

f:id:mythink:20180615204929j:plain

 

 

手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(1)

f:id:mythink:20180615204929j:plain

 

僕の別ブログの記事 ( 3年前 ) をこちらのブログで備忘録的にまとめておこうと思い移動させたものです。

 

f:id:mythink:20180615204919j:plain

 

a.   エドガー・アラン・ポーの小説『 盗まれた手紙 』の読解から引き出した〈 手紙は宛先に必ず届く 〉という精神分析ラカンのテーゼとそれに対する〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉という哲学者デリダのアンチテーゼは、かつて興味深い対立のひとつでした。

 

b.   ラカンの影響力により、〈 手紙は宛先に必ず届く 〉というテーゼは精神分析的でありながらも哲学の圏域にも入り込んでくるものだった。そしてそのテーゼに対して〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉デリダが言った時、そこで何が起こったのか。そのテーゼの中には精神分析概念の支配からは逃れていく別のものが紛れ込んでいる事を示したと言えます。テーゼが完成され閉じられてしまう前に、そこに異質なものがある事を示してテーゼを保留状態にしまうという異議申し立てでもあったのです。しかし〈 手紙は宛先に届かない こともありうる 〉とは何を示しているのか。これについて僕の考えを述べ、さらに展開していこうと思います。

 

c.   〈 手紙は宛先に必ず届く 〉と いうテーゼは、手紙がひとつの記号表現として、それの受取手である主体に向かう行程における転移関係によって構造化されていく象徴空間を示している。それは "記号表現"の大いなる行程とその主体への最終的帰着であり、記号表現というラカン的論理の軌跡が各対人間における転移関係を分配するという象徴空間の編成を描いているとさえ言えます。

 

d.   では逆にそのような転移関係から免れた、あるいは"上手くいかない"象徴空間は少なくとも精神分析といえるでしょうか。少なくともそのような象徴空間が 一体何を意味するのかを詳細に分析する事は、治療という限定的意味での精神分析的身振りには収まりきれないものを明らかにする事ではあるかもしれない。

 

e.   〈 手紙は宛先に届かないこともありうる 〉、 それがもし転移関係が上手く構造化されない象徴空間もありえる、つまりラカンのテーゼが精神分析的に十分ではないという主張であれば批判的でありながらも、その立場は精神分析の一派に過ぎないものでしょう( 実際にそれを名乗っていないとしても )。しかし転移関係が上手く構造化されない象徴空間が、精神分析概念でありながらも精神分析が "全て" を囲い込む事の不可能性を示しているとすれば、それは自らの要素 ( シニフィアンなど ) の動きが予期出来ない場合がある事、つまり受取り手としての主体である宛先に届かない事、に影響されているからではないでしょうか。その予期出来ない場合がある事によって象徴空間は十分に構造化されず、転移関係が行き渡らない事もあるのではないかと考える事も可能なのです。

 

f.   その前に〈 手紙は宛先に必ず届く 〉についての考え方に触れてみましょう。一見洗練されているように思えるが実は十分ではない考え方はこうです。

『 手紙はそれが受け取られた主体においてその宛先が自分であるのだと認識される事によって初めて手紙となる。』

しかしこういう手紙が届く事の必然性を説明する事後成立性の遡及効果は認識論的なものであり、既に届いてしまっているものの事しか、届いた後でしか、言及出来ない。つまり、それは手紙の "誤配" ( 言うまでもなく東浩紀の概念 ) により届かなかったものについては言及出来ないし、そもそも手紙が出されたどうかすら永遠に気付かれないままでいるかもしれないのです。

 

g.   この点からするとスラヴォイ・ジジェクの回答はもっと洗練されている。彼は手紙を入れた瓶を無人島から海に流すという例えで、実際には届かないかもしれないが海に流した瞬間にそれは象徴的なものとしての受取人である大文字の他者に届くというのです。受取人側の行為に基づくのではなく、差出人の手紙を出すという行為自体が既に〈 手紙は宛先に必ず届く 〉の象徴的行程として既に確定されているという訳ですね。

 

f:id:mythink:20180615204919j:plain

 

 

手紙は宛先に届くのか? ラカンとデリダの対立から考える(2)へ続く。

 

 

f:id:mythink:20180615204929j:plain

 

 

ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(10)

f:id:mythink:20180531225552j:plain

 

僕の別ブログの記事 ( 3年前 ) をこちらのブログで備忘録的にまとめておこうと思い移動させたものです。

 

f:id:mythink:20180531225624j:plain

 

ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(9)からの続き。

 

 

複数性としての幽霊 2. 】

f:id:mythink:20180531225552j:plain

 

a.   幽霊的なものの特徴は、時間的にも、場所的にも、複数的である可能性を保持しているにも関わらず、それらを束ねて単独的であるかのように振舞える事です。しかし、複数可能性を束ねるこの単独性、つまり一者の効力は何に起因するのだろうか? それがなければ、何に対しての複数的であるのか分からなくなり、複数可能性は文字通り複数的なものとしてばらばらになり、もはや複数である事さえ分からなくなる。

 

b.  ならば、ひとつであるとはどういう事なのでしょう? 幾つかの数のまとまりが、複数的なものであると言うには、一者への対自性を獲得しなければならないが、問題は一者が、複数的なものからどのようにして出現するのかなのです。もし、一者が最初から複数的なものとは別に無条件にあるというのなら、それは間違っている。なぜなら、自らを一者とする為には、自らの単独性を証明するための判断基準としての複数的なものが隣接していなければならないからです。

 

c.   一者の出現は複数的なものを背景とするが、この一者を複数的なものとは全く別のものと考えてしまうと、一者は神的なものとして知的保留を示す標識でしかなくなってしまう。一者は同質の傾向性を共有する幾つかの数のまとまりが、自らの運動の中で自らに向かう対自性を獲得しようとして、自らを自己疎外する時に出現するこれは自己という対象が自らの元にはなく、自己に先立つ対象化の作用によって自らの元から離れることによってしか成立しないのと同様です。

 

d.   重要なのは、ここで出現する自己が、実在する個体ではないという事です。それは実在の個体ではないが、実在の個体の中で経験される対象からの反照であり、不可視のものでありながら実在する精神の経験なのです。自己という対象が自らの元にないという事は、実在の個体は自己であろうとする限り、永遠に自己という対象には到達出来ず、離れているしかない事を意味する。

 

e.   複数的なものが自らに到達出来ない運動の中で、その近づき得ない距離それ自体が疎外された時、単独的なものとしての一者が出現したといえるのですそれ故に、複数的なものは自己の運動として一者に向かう

 

f.   だが、その時、一者は既に実在する個体とは別のものであり、精神が全体的運動の過程において個体に留まる姿、すなわち幽霊なのです。そして我々とは、実在する個体において経験される幽霊であると言えるでしょう ( 終 ) 。

 f:id:mythink:20180531225552j:plain

 

ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(9)

f:id:mythink:20180531225552j:plain

 

僕の別ブログの記事 ( 3年前 ) をこちらのブログで備忘録的にまとめておこうと思い移動させたものです。

 

f:id:mythink:20180531225624j:plain

 

ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(8)からの続き。

 

複数性としての幽霊 1.】

f:id:mythink:20180531225552j:plain

 

a.   精神は移行の運動という全体性において自らの真理を知る、つまり精神は知となる。しかし、移行に抵抗する個物が自らの中に収縮する時、精神は知に至らず、個物から離れる事が出来ず、個物の影として幽霊となる最も個物的である人間という存在の最も人間的なものの表象が幽霊なのです。精神の側から見ると、幽霊とは知へと至る事の出来ない精神であり、人間が自らの存在をひとつの知としては理解出来ないものなのです。

 

b.   ヘーゲルの『精神現象学』が英語版において、ゲルマン語系の ghost ではなく、ラテン語系の spirit が採用されているのは、精神が知的なものという一般性として了解されている事以外の何物でもないでしょう。しかし、もしその精神を個別的なものとしての ghost とするならば何が見えてくるのでしょうただし、既に述べたように、Ghost は個別的なものであるので、一般性としての精神が展開されるという現象性を意味するPhenomenology ではなく、『 Philosophy of Ghost 』という仮タイトルを付けた場合に何が見えてくるのだろうかという事です。

 

c.   これを別の言い方をするならば『個物の哲学』という事が出来るでしょう。個物は自らにこだわり、自らの中に収縮するこれに対して哲学はひとつの知として個物の外へ出て行こうとする。知は移行を積み重ね、自らがたんなる個物ではなく、絶対知である事を知る。つまり、哲学は人間という個物の中に収まりきれるものではなく、知の移行の運動として人間的なものを越え出る非人間的なものなのです( これが反-人間的なものや野蛮なものではない事は既にヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(6)で述べました )。

 

d.   ではこの相反する組み合わせの哲学的言説をどう考えるべきでしょう。個別から一般性へのヘーゲル弁証法的移行でなければ、個別それ自体についての存在論的言説だというのでしょうか。しかし、ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(8)で述べたように、ハイデガー存在論的言説も一般性から個別への崩壊である限り、一般性についての別ヴァージョンに過ぎない。

 

e.   そうすると考えられるのは、個物が自らを一般性との関係性において掴むのではなく、自らをひとつの〈形象〉として、つまり一者として掴む事です。それこそ人間的なものの形象に固執する幽霊的な身振りだといえるでしょう。

 

f.   人間が自らの存在を知として理解するのを止める時、そこにあるのは一般性の残滓にしがみつく幽霊としての人間です。幽霊は消えてしまう事に抵抗し、何度でも回帰して現れ、あたかもずっとそこにいるかにように同じ〈私〉として振舞う同じ〈私〉がそこにいて、しかも一人であるかのように振舞う。肉体が滅びても、それは続く。

 

g.   この終わる事のない〈私〉の振る舞いこそが幽霊としての人間の本質なのです。幽霊は自らの居場所である〈個物〉を全力で支え、維持しようとする。ここにおいて幽霊は〈個物〉を〈一者〉として支えるべく複数的な可能性となる複数的なものが同時に同じ場所にあるという事ではなく、違う時間、違う場所に散在するという意味での複数可能性です。この複数性を束ねる一者において作用しているのが離接的綜合の論理である訳です。

 

h.   ここでの重要なポイントは複数性が最初からあるのではなく、〈人間的形象〉が常にバラバラに分割され、引き離され、散在している事の結果として生じるという事です。もっと言うならば、分割されるのではなく、引きちぎられ、奪われ、食べられるのです。人間が集団である限り、誰かと共にいる限り、他者を見る視線、他者についてしゃべる事、他者に何かする事などの日常的なささいな事から既に、他者の存在を引き裂く簒奪行為が始まっている。ここから倫理的なものとしての人間的形象、つまり他者を支える〈幽霊〉が動き出す。

 

i.   この人間的形象である他者を最大限に高める行為のひとつが喪に服す事です。フロイトからデリダを経由する喪についての概念の作業は、他者の体内化の失敗、あるいは体内化に抵抗する他者を示しているしかし、それは果たして最初から他者であったのでしょうか。我々に対して〈他者というもの〉は最初から無条件に完成されてはいないのではないでしょうか。私達が持つ相手の〈断片的表象〉を相手の〈全ての人間的形象〉として形成する事の不可能性こそが他者の体内化の失敗の真実ではないでしょうか。

 

j.   そうすると他者という人間的形象とは何でしょう。 人間的なものを全て網羅する形象が不可能であるならば、他者とは何でしょう。それは我々の中にある相手の断片が帰っていこうとする〈宛先〉としての〈一者〉だと考えられないでしょうか。 その相手が実際に生きていようが、いまいが、断片が帰っていこうとする他者は実在の人物とはおそらく違う。実在の人物がいなければ、他者はありえないが、それでも他者は実在の人物とは違う。

 

k.   バラバラに散在する相手の断片的表象が帰っていこうとする場所がもし実在の人物のみであるならば、実在の人物が亡くなると、我々の中の断片的表象も帰るべき場所をなくして消滅してしまうかもしれない。しかし、実在した人物が既に亡くなった後でも他者の断片的表象が一者の元に帰っていこうとする動きがあるという事は幽霊的なものとしての他者が消滅する事なく彷徨っているという事なのです

 

 f:id:mythink:20180531225624j:plain

 

 

ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(10)へ続く。

 

 

f:id:mythink:20180531225552j:plain

 

ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(8)

f:id:mythink:20180531225552j:plain

 

僕の別ブログの記事 ( 3年前 ) をこちらのブログで備忘録的にまとめておこうと思い移動させたものです。

 

f:id:mythink:20180531225624j:plain

 

ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(7)からの続き。

 

 弁証法存在論

f:id:mythink:20180531225552j:plain

 

a.   自分に先行するものとしての精神を否定して自らの存在に固執する人間とは何でしょう。ヘーゲルは『 精神現象学 』の 「理性」において現実に対する個人の二つの態度を挙げている。それを参考にして現実への対応を考えてみます。

 

b.   ひとつは自分が現実に適応する事ですこれは自分を捨てて、現実に歩み寄るという単純な事ではないです。現実の一般的なものの視点から、自分を個別的なものではなく一般的な対象として扱う事である。そのときには自分に可能な事・不可能な事、足りているもの・足りていないもの、などの区別が発生し、個人の行為化のための準備的状況が発生する。

 

c.   もうひとつは現実を自分の為に適応させる事ですもちろんこれは全ての現実を変えるという物理的に不可能な試みの事じゃない。選び出した現実の対象に対抗させるかのように、自分の存在を特殊な現実として、一般性のなかに組み込もうとする心理的試みである。

 

d.   では自らの存在に固執する人間の立場はどちらなのか? 言うまでもなく後者です。ふたつの対場は見かけほど対等ではなく、否定の力が単純に働く後者こそ、人間的なものの力の源泉になっている。しかしこれは厄介な事でもある。なぜなら、自分の存在を一般的なものにしようとしているのに、目の前にある現実が自分の障害なので都合のいいように心理的に適合させる事は、精神の運動の要である移行に逆らい、自分は行動しないという事を意味するからです。

 

e.   移行抜きで無媒介に自分という個別の存在を一般的存在にしようとするこの不可能な心理的試みは、人間的なものの内奥に、病理的な核が一般的なものの代償として備え付けられている事を意味する。現実的には行動していなのに何かをしたつもりになっているこの心理的思い込みは行動の抑圧といえます。この行動化を阻むものこそ存在という根本的なトラウマなのです

 

f.   逆説的だけど、行動化こそ、存在というトラウマを脅かし、人間を不安定な状況に陥れる。なぜなら、存在する事こそ、人間に対して最も根本的で原初になされた行動という意味での移行の産物だから、自分以外の行動は自分を脅かすものとして抑圧しなければならないのです。自らに固執する人間の立場においては個別から一般性への移行の為の行為化は、存在という原初の移行によって抑圧されてしまう訳です。

 

g.   では、その存在という原初的移行は一般から個別への移行であるのでしょうか。 個別が自らを高め一般性へ移行する事は、物が精神へと至るという絶対知の哲学的意義を示しているが、一般性が再び、個別へと戻る事は果たして精神の移行といえるのでしょうか。 実はそこでは精神の移行とは別の事が起きていると考えられないでしょうか。

 

i.   人間の存在自体 ( 存在者 ) は個別的なものであるが、その人間を存在させる存在化の作用自体は一般的なものなのです仮に、この存在論の巧妙さを無視して、一般的なものの正体が個物の現実から遡及的に反照された理念に過ぎないというマルクス的な弁証法的転倒を主張してしまうと、大切なポイントを見落とす事になります。

 

j.   つまり、個別から一般性に向かう精神の運動は、最初から対象物という物が自らを自己として認識していく過程であるという概念の主体的運動なのですが、一般から個別へと逆移行する存在においては、最初に一般性として把捉しておくべき対象物がないのです。この事が存在論を分かりにくくしている要因となっている訳です。

 

k.   存在論においては、一般的な対象は不明瞭だが個物の位相において初めて人間という対象が現れます。それはハイデガー個物における現れ ( 存在者 ) を一般性の次元で捕らえなおそうとして存在の概念を練り上げた事で示されている。この一般性の次元を考察する事によって、現れを何かの現象ではなく、現れ自体という出来事として考える事が可能になる。だから存在とは存在する何かの事ではなく、その何かをそこに存在させる存在化の作用、あるいは出来事という一般性の事であるのは言うまでもないでしょう。

 

l.   しかし、存在論において一般的なものとしての対象がないとはどういう事なのでしょう。 正確に言うなら、対象物のない一般性とは何かという事です。この点において存在論弁証法的移行とは違うのです。精神の弁証法的移行においては予め与えられていた物が究極的には自己であると主体的に理解される。

 

m.   それに対して存在論においては、なぜ自己であらねばならないのか、つまり自己であると強制されている事こそが問題になる 【 ※1 】強制するとは、人間を存在させるという事( たとえ無でありたいと望んでも、残酷なことにそれはかなえられない )であり、人間を存在させるものとは何であるのかという事でもある。それこそが、存在論という視点からの一般性についての問題なのである。

 

n.   そして、おそらく存在論の一般性に対象がないのは、それが対象を持たないからではなく、まさに一般的なものの内部についての問題であるからです。つまり、一般性の次元で何かが起こったという事なのですその結果、人間が存在する。

 

o.   この一般性から個物への移行は主体的なものではない。それは一般性へと後戻りする事の出来ない偶然的事故、つまり一般的次元の均衡が崩れた結果という意味での存在論的崩壊といえる初めから存在するものが壊れるのではなく、一般的なものが壊れる事によって存在という出来事が可能になるという事です。

 

p.   では対象物ではない一般的次元とは何か? これこそハイデガーが取り組みながらも未完のまま残した問題、つまり時間( "時間と存在" )である。ただし、それは一日が二十四時間であるなどという個別的な時間ではなく、その個別的時間が可能になる永遠という内在平面の事です

 

q.   この一般性である時間は、自らの時間の流れにより、一般的なものの変化のない持続が自らの同一性である事を否定するつまり一般的なものでさえ、自らを持続できずに崩壊するという過程を保持しているのです。そして存在は一般的なものの崩壊の過程において発生するものなのです個別に存在する ( 時間を持つ ) とは、一般性 ( 時間性あるいは無ー時間性 ) において崩壊する事なのであり、これこそハイデガーが行き詰った問題であると言えるでしょう。

 

r.   弁証法の一般性に時間を導入する事によって存在論は可能になる。この意味で弁証法存在論もやはり、一般性についての問題であるのですが、個別的なものについての問題は取り残されている。

 

f:id:mythink:20180531225624j:plain

 

【 ※1 】

ハイデガー的に言うなら、被投的存在という存在者の受動者的側面の事。

 

f:id:mythink:20180531225624j:plain