【 僕を哲学的に考えさせる映画 : ルイス・ブニュエルの 『 欲望のあいまいな対象 』 】

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公開1977年   監督ルイス・ブニュエル

出演フェルナンド・レイ  ・・・・・ マチュー・ファベール

  :キャロル・ブーケ   ・・・・・ コンチータ

  :アンヘラ・モリー  ・・・・・ コンチータ

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説の記事ではなく、『 欲望のあいまいな対象 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、" 考える事を味わう " という個人的欲求に基づいています。分かりやすく言うなら、" 映画という教材 " にいかに哲学的解釈を施すか、という僕の欲望が現れているという事になりますね。なのでストーリー解説を求める方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

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1. 欲望のあいまいな対象とは・・・?

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a.『欲望のあいまいな対象』、この謎めいて魅惑的なタイトルは、これを解釈せざるを得ない誘導的な響きを漂わせていますね。哲学的解釈、精神分析的解釈、はもちろん、そのような解釈を退けてしまうような天邪鬼的な "あいまいさ" も、そこには含まれている。それだけに、この映画はタイトルの文字性が、映画の内容を上手く強化している例として考察する価値があるといえますね。

 

b. 欲望のあいまいな対象・・・もちろん、これはマチュー (フェルナンド・レイ) にとっての、コンチータ・・・というよりは "女性という一般的なもの" (※1) だと取り敢えず考えるのが妥当でしょう。コンチータが、キャロル・ブーケとアンヘラ・モリーナの2人によって演じられるという奇妙な設定からは、そこに何か意味があるというよりは、2人の差異がマチューにとって気になるものではないという意味で、マチューはコンチータという個別的人間ではなく、"女性的なるものという一般性" を欲望の対象にしているという解釈を導き出すべきなのです。そのような女性的なるものの投影先がたまたまコンチータであったという訳です。またブニュエルの一連の作品を見れば、"女性的なるものという一般性" が彼のテーマのひとつである事が分かりますね。

 

c. だからこそ、マチューはコンチータとの愛憎劇を懲りずに何度も繰り返す事が出来るのです。彼はコンチータとの愛憎劇を通して、彼の欲望の対象である "女性的なものという一般性" に接近しようとする。仮にこの "女性的なもの" を考慮に入れずに解釈を進めるならば、マチューの振舞いは、自分の欲望の対象であるコンチータに向かう途上にいつまでも留まる事によって、欲望を終わらせずに享楽しようとする歪んだものに他ならなくなってしまう。そうすると、この映画、いやブニュエルの映画における "女性的なもの" について考える方向性は閉ざされる事になる。つまり、ここにはなぜ男は女に魅了されるのか、という普遍的問題があるのであり、"女性的なもの" が果たして、男の欲望の向こう側にある "実在するもの" なのか、それとも、男の欲望が投影されただけの "幻想" なのかについて考える契機があるという訳ですね。

 

d. それにしても、コンチータはマチューの思いどおりにならず、彼を振り回す。もし、これをマチューがそんなコンチータの我儘振りさえも自分の欲望の範囲内に含めていたと解釈しようとしても、マチューがコンチータの顔を叩く場面を目にすると、少なくとも、この映画においては、そのようなマチューの自己享楽的解釈から有益な何かを引き出す事は難しいと思われますね。

 

e. そうすると、ここで欲望の運動の主導権を握っていたのは、マチューなのではなく、コンチータだったと考え直すべきでしょう。コンチータは身勝手な振舞いをしながらも、マチューの欲望の対象であり続けようとして彼を上手くその気にさせるのだから。そう、ここで支配的なのはマチューなのではなく、コンチータなのですね。コンチータへの終わる事ない欲望を維持させようとしているのは、マチューではなく、コンチータ自身であったという訳です。コンチータは自分がマチューの欲望の "対象" である事を意識した上で、その対象であり続けようとする隠された主体性にどっぷりと浸っているのに対して、マチューは表面的な主体性 (経済力など) にも関わらず、主導権を握れずにいる。

 

f. ここがマチューとコンチータの振舞いの違いですね。コンチータはマチューの欲望を操作するために、母親や恋人などを使って、マチューの欲望が自分に集中するような状況作りを行う狡猾さがあるのに、マチューはそれが出来ずに、不器用にコンチータを思い続ける事しか出来ないが故に、主導権が握れない。

 

g. 欲望の流れを支配するための状況を作り出す現実的能動性を発揮するコンチータに対して、マチューはコンチータの作り出す状況に追従するしかないという抑圧の中で自分の欲望を維持する。ここにおいてマチューの欲望の実存的形式が明らかになるでしょう。コンチータの打算的な振舞いに関わらず、マチューが彼女を求めてしまうのは、彼女を通じて "女性的なるもの" へ接近しようとしているからだといえますね。この "女性的なるものへの接近" こそが、マチューの欲望に他ならないのですが、その "女性的なるもの" は実在するかどうか分からないが、幻想のレベルでは存在する。この幻想に取り憑かれているのがマチューなのであり、彼の能動性は、その幻想を維持するだけという悲劇的なものであるのは明らかでしょう。

 

 

2. マチューの欲望の帰結

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a. 既に触れましたが、もちろん『欲望のあいまいな対象』を違うように解釈する事も出来ますね。"対象" というものの存在が、欲望の動きを見えにくくしている可能性があるという意味で。対象の存在に拘り過ぎる余り、欲望に織込まれている、自己の運動についての無意識的内省面を見落としているのではないか、という訳です。この映画においては、マチューがコンチータという対象を追いかけながらも、上手くかわされてしまうという話から、マチューの悲哀などではなく、対象をいつまでも追いかける事を望むマチューの自己享楽的な側面を引き出すべきだという事ですね。

 

b. そうすると、対象が何かという事より、対象へ向かおうとする欲望の回路の形成のされ方がいかなる症候を生むのかというより精神分析的な解釈の方向性に傾き過ぎてしまう。それでは、ブニュエルの作品に現れる "女性的なもの" について考える事が出来なくなるのではないでしょうか。とはいえ、少なくとも、この作品においてはブニュエルは "女性的なもの" それ自体について語ろうとしているのではなく、"女性的なもの" が男性に与える影響、または "女性と男性という組合せ" の "現実性" について語ろうとしているといえるでしょう。

 

c. 欲望の実存的形式が違うマチューとコンチータの遭遇とは、まさに "衝突という現実性" に他ならない。磁力の両極が互いに引き合うように、2人は異なる者同士であるにも関わらず、引っ付いてしまうのですね。しかし、この "組合せ" は、"衝突" という奇妙な現実を産み出してしまう。ここには、2人の結びつきの "継続性" より、破滅的な方に向かう "衝突" が結びつきの帰結として提示されているのですね。

 

d. 2人の結びつきが、継続的なものなのか、破滅的なものなのかは実際の所、本人たちでさえ、その時は互いの欲望が邪魔をして分からないでしょう、後に状況が醜くなっていくのでなければ。しかし、この作品においては、その点について、今までの解釈を踏まえた上で、さらに極端な解釈が可能だといえます。つまり、マチューの一見、女性的なものを求める姿勢には隠された欲望があるという事です。

 

e. ここで参照にすべきは、映画の中で度々差し込まれる有名なテロのシーンですね。このテロのシーンがブニュエル特有のシュルレアリスト的要素という意味での外部からの異化効果だとしても、そこに留まってしまっては解釈を放棄してしまう事になる。さらに解釈を施すには、テロのシーンをマチューの欲望として取り込む必要があるでしょう。映画の中でテロに言及するのはマチューであり、マチューの周辺で不穏な動きが起きる。これに対してマチューは積極的な発言や判断を下して、テロに対するはっきりとした距離を置くのではなく、あいまいな態度でテロを自分の周辺にあるものだとして無意識的に共存しようとしているかのようにも見える。

 

f. もし、このテロのシーンがマチューの隠された本当の欲望であるならば、最初の印象とは違ってマチューは、コンチータより恐ろしい人間である事が分かりますね。つまり、彼が求めていたのは、女性以前に、破滅的な何かであったという事です。極端に言うなら、破滅的なものへ向かう入口として自分を振り回す女性を経由しているという訳です。女性的なものとの結びつきにおいて、破滅的なものへと向かう事がマチューの隠された欲望であるならば、彼は意識的レベルでは自分の欲するものを分かっていないという意味で、『 欲望のあいまいな対象 』というタイトルは、その哲学性を十分に発揮する事になるでしょう。

 

 

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(※1)

a. これは男を魅了するという意味で、謎めいているが、普遍的なものでもありますね。男はなぜ女に惚れるのか、それは女を個別的なものとして惚れるのではなく、女性的なるものという一般性の具現者として惚れるのではないでしょうか。つまり、男は個々の女性を好きになる以前に、既に "女性という一般的なもの" を好きであったという症候

 

b. ここには、男の "欲望のあいまいな対象" があるのであり、それは男が自分で気付くのではなく、女性によってドキリとさせられる形で気付かされる。女性は、男性のそんな症候に気付いているかどうか分からないが、自分を他の女性と差別化する形で、つまり "個別的なもの" として愛される事を望む。例えば、女性は、全ての人に親切な男を優しいと "考える" 事が出来ても、優しいと "感じる" 事が出来ない。優しいと "感じる" 事が出来るには、"自分だけ" を優しく扱ってくれなければならないと男に望むという訳です。もちろん、このような女性の振舞いは傲慢さから来るのではなく、男の症候を敏感に察知しているからだと考えるべきでしょう。

 

 

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【 僕を哲学的に考えさせる映画 : ベルナルド・ベルトルッチの『 暗殺の森 』 】

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公開1970年  監督ベルナルド・ベルトルッチ

出演ジャン・ルイ・トランティニャン ・・・・・ マルチェロ・クレリチ   

  :ドミニク・サンダ ・・・・・・・・・・・・ アンナ・クアドリ     

  :エンツォ・タラシオ ・・・・・・・・・・・ ルカ・クアドリ教授    

  :ステファリア・サンドレッリ ・・・・・・・ ジュリア・クレリチ

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説の記事ではなく、『 暗殺の森 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。細かく言うなら、"映画という教材" にいかに哲学的解釈を施すか、という試みになりますね。なのでストーリー解説を求める方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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1. 〈政治〉と〈性〉

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a. この映画の秘密は、" 政治と性 " を描いている所にあるのですが、『 暗殺の森 』という邦題タイトルは、幾分その事を見えにくくしていると言えますね。確かにイタリアからフランスへの政治的亡命者であったクアドリ教授と、その妻アンナが森でファシストの連中に殺される場面は、ひとつの見所ですが、やはり最大のクライマックスは、ラストでマルチェロ (ジャン・ルイ・トランティニャン ) が、自分の人生の真実を知り、狂ったように叫びまくる場面でしょう。

ここにおいてこそ映画の原題である『 Il conformista 』が意味を持つものとなり、"政治と性に関する哲学的考察" (※1) が可能になる訳です。"conformista" には、" 同調者" " 追従者" などの意味がありますが、この場合、マルチェロに影響を与えていたのが、ファシズム (第2次大戦中のイタリアの国家イデオロギー) であった事を考えれば、" 信奉者" だという意味も重ね合わす事も出来るでしょう。

 

b. ここで重要なのは、マルチェロファシズムの信奉者になる前の段階として、"少年時代の性体験のトラウマ" を設定としてベルトルッチが導入している事です。マルチェロの少年時代の罪 ( リーノをピストルで撃ち殺したと信じている、が、実際には死んでいない ) を神父に告白する中での話しなので、私達は何気なく見過ごしてしまうけど、哲学解釈的には、ここは " 性的領域 " " 政治的領域 " に差し込まれていく過程であるという意味で注意すべきところですね。

 

c. 次のシークエンスでは、軍服姿のリノ ( 彼は本当の軍人ではなく、コスプレをしている。帽子を取ったら長髪だしね ) が少年時代のマルチェロを誘うシーン。ここで彼は唐突に "蝶々夫人を知っている?"マルチェロに聞く。"蝶々夫人" といえば、プッチーニのオペラで有名ですが、長崎での15歳の蝶々さんとアメリカ海軍士官のピンカートンの恋愛劇でしたね。しかし、ここでの "蝶々夫人" は "同性愛の符号"(2) に変化しているのです。

 

 

" 来いよ。東洋のキモノもある。蝶々夫人を知っている?" by リーノ

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d. しかも驚くべき事に、蝶々さんは15歳だったので、少年のマルチェロにその役割をさせるかと思ったら、リーノ自身が蝶々さん役の "ネコ" で、マルチェロにピンカートン役の "タチ" をさせるように仕向けるという、リーノの年齢差を無視した変態的趣向が露になる ( シーン 6. )。

 

e. 結局、マルチェロは性的関係をためらい、ピストルでリーノを撃ってしまう。この時、マルチェロはリーノを殺してしまったと勘違いし、この現実から逃げるようにファシストになっていく。このような、1人の男の政治的趣向に性的経験が関わっているという短絡(ショートカット)こそが、この映画を面白くしているといえるでしょう。主体の行動化 ( マルチェロファシスト化 ) へと突き動かすものは性的なものという訳なのですが、ここで言う "性的なもの" とは (※1) で記したように、たんなる衝動的なものではなく、"革命的要素としての性" (※3) なのです。

 

 

" いいから撃て。蝶々夫人を殺せ " by 自分の事を蝶々夫人と言ってしまうリーノ

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2. マルチェロのトラウマ

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a. しかし、ファシストらしくない雰囲気を漂わすマルチェロは、クアドリ教授にもその事を指摘されてしまう。実際に、森の暗殺場面でも、マルチェロは、クアドリ教授と、その妻のアンナに自ら直接手を下す事はない。組織の連中が殺すのを眺めているだけです。要は "中途半端" という事ですね。これは決して些細な事ではないでしょう。

 

b. ファシストに成り切れてないマルチェロの過去のトラウマは、リーノとの性行為でしたが、厳密に言うなら、性行為を始めようとした矢先に、マルチェロはそれを拒否したのです ( 少年だったのだから嫌がっても不思議はないだろって意見もあるでしょうけど )。そうすると、マルチェロのトラウマがリーノとの性行為だったという言い方は、この場合、正確ではない。

 

c. マルチェロにとって、真にトラウマになったのは、"未知の行為を最後まで成就する事を自ら拒否してしまった" という事です。つまり、"性行為を拒否したのに加えて、ピストルでリーノを撃ってしまったという一連の自分の行為そのものがトラウマになった" という事です。

 

d. この事が意味するものは何か?自分に何かを強制したり、圧力をかけるものから自分を守るための過度の身振りが、自分にとって衝撃的だったという訳です ( ピストルを撃ったくらいですからね )。そこには "自分を守らなければならないという強迫観念が潜んでいる" と言えるでしょう。

 

 

3. ファシストになりきれなかったマルチェロの本性

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a. そして、そのようなマルチェロの姿勢が、自分を中途半端なものにしている、ファシストとしても。注意すべきは、彼は忠誠心からファシズム"信奉者 (conformista)" となったとのではなく、自分を守るためにファシズムへの上辺だけの "同調者 (conformista)" になったという事です。

 

b. ファシストの仮面があれば、自分を守るための防護壁という事で、マルチェロは、偽りの自信を持つことが出来た ( クアドリ教授には見透かされていたけど )。しかし、ファシズムの崩壊と共に、ファシストである事が必要なくなった彼に残されたものは、長い間、ファシストの仮面によって抑圧されていた事による内面のヒステリックな解放しかなかった・・・・・。

 

c. 友人である盲目のイタロとファシズム崩壊後の街を歩いていたマルチェロ。そこで浮浪者と彼に声をかけている男娼らしき白いスーツの男の会話を耳にする (シーン11.~14.)。

 

" 蝶々夫人みたいなキモノもある。蝶々夫人だぜ " by 白いスーツの男

 

" 蝶々夫人・・" この言葉はかつて少年時代のマルチェロがリーノから聞いたものでしたね。マルチェロは白いスーツの男がリーノであり、彼が生きていた事を確信する (シーン15.16.)。

 

" リーノ! 拳銃を持ってただろ?" by マルチェロ

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d. しかし、リーノの方は突然、自分を猛烈に追及してくる男に戸惑い、昔の事を思い出すどころじゃないよう (シーン17.22.)。

 

" 何の話だ?" by リーノ

" 生きていたのか " by マルチェロ

" いったい何の用だ? by リーノ

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e. 困惑して逃げ出すリーノ。ここからマルチェロは激昂してリーノに罪をなすりつけるがごとく叫び始める (シーン23.28.)。

 

" 人殺し。政治亡命者を殺した、クアドリ教授を。"

" 妻のアンナも殺した。"

" あいつはホモだ。ファシストだ!" by 全てを他人のせいにするマルチェロ

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f. リーノが生きていた事を知り、自分がファシストになるきっかけだと思っていたトラウマ ( リーノをピストルで撃ち殺した )が、実は自分の思い違いであった事を知ったマルチェロ

 

g. ここで、注意しなければならないのは、マルチェロ"何に怒ったのか" という事です。これを常識的に、自分の人生が虚構に過ぎなかった事に怒ったと考えては哲学的な拡がりは得られないでしょう。もし、自分の人生が虚構だったとしたら、人は怒るより、取り返す事の出来ない年月の経過に落胆するはずですから。

 

h. しかし、マルチェロは落胆するのではなく、"怒った" のですね (シーン26.の表情)。これを解釈する上で幾つかの考え方がありますが、最も刺激的なのは、マルチェロは、私達が通常考えるのとは違って、"トラウマを自分のアイデンティティーの為の無意識的基盤としていた" という考え方です。

 

i. こう考えるにはトラウマの両義性を考慮する必要があります。通常、トラウマというと、私達はそれを成長する上での障害なので、乗り越え捨て去るべきものだと考えがちです。ところが、そのトラウマと共に人生を歩むと、人は経過した時間の積み重ねによって、"逆説的な無意識的愛着" を抱くようになる事があるといえます。誰だって自分の人生の時間を無駄だとは考えないでしょうから。

 

j. そのような無意識的愛着が露わになる瞬間が、他人によって邪魔される時です。すなわち、人は自分がトラウマに苦しんでいる事を告白するけど、いざ他人がそれを取り除いてあげようと助言すると、そうじゃない、分かっていない、と抵抗する事があるのです。

 

k. これこそ、自分を守ろうとするマルチェロの強迫観念的態度に他ならない。ここでもう一度、ラストシーンについて整理します。通常の理解だと、マルチェロはリーノが生きていた事によって、トラウマを含めて自分の人生が虚構であった事を認めたのだとするでしょう。しかし、マルチェロ"一体何に怒ったのか" を念頭において極度に解釈しなおすならば、マルチェロは自分の大切なトラウマが、その登場人物であるリーノに裏切られ破壊された事 (彼が生きていたという事実それ自体に他ならない) に対して理不尽的に激昂したそれ程、彼は自分への強力な愛着があったという訳ですね。

 

 

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(※1)

a. ベルトルッチの映画の中で面白い作品は、"政治と性" の両極を "並列的に" 描いているものです。そこでは "性" の領域における人間関係という出来事を、"政治" の領域に対して、最終的に如何にして拮抗させるかという事がベルトルッチの隠された "映画的欲望" となっていて、そこで起きる事は、ベルトルッチの秘かな "革命" だと言えるのです。

 

b. 彼の映画は、性的なスキャンダラスの側面ばかりが時としてクローズアップされるけれど、それを倫理的なタブーへの侵犯だとしか捉えないのであれば彼の本質を見落としてしまう。

 重要なのは彼が "性" をどう考えているかという事です。"性" をそれ自体としてエロス的なものだとする単純な考え方のみに、彼はとり憑かれている訳ではないでしょう ( もちろん、そういう側面は否定出来ないけど。例えば政治的なものを削ぎ落とした『 ラストタンゴ・イン・パリ 』。そこでは、"性" のもう一方の極は "人間性" になってしまっている。"人間性" を越え出る奔放な "性" が、結局、最後にはマーロン・ブランド演じるポールが、マリア・シュナイダー演じるジャンヌによって殺されてしまうというラストによって、常識的な "倫理" を呼び戻してしまう )

 

c. 彼は "性" を 衝動が渦巻くという意味での "性それ自体" としてではなく、もう1つの極である "政治" に対する "何物か" だと考えているのです。つまり、どの時代、どの場所、どの状況であっても、"性""政治" に取り込まれずに対抗するものである訳です。

 細かく言うなら、"性" とは、政治的には未だ定義する事の出来ないもの ( "政治" は基本的に"男と女という2つの性"を前提とするが、現実はそれだけではない事は言うまでもない。例えば、LGBT。そしてドゥルーズ=ガタリ"n個の性" 。) なのに "政治" の傍らにあるが故に、彼にとっては "政治" を揺さぶる "革命" の要素なのであり、映画を撮る事によって彼は "革命" を孤独に引き継いでいるというといえるでしょう ( 例えば、3人の男女の性的関係と1968年のパリ5月革命を描いた『 ドリーマーズ (2003年) 』)。

 

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(※2)

a. "蝶々夫人" "同姓愛的要素" の萌芽を植えつけた映画が、この暗殺の森であるとすれば、それを極度に拡大化した映画こそ、劇作家デヴィッド・ヘンリー・ホアンの戯曲を経由した、デヴィッド・クローネンバーグの『 エム・バタフライに他ならないでしょう。 

 

b. ただし、同性愛と言っても、この場合、正確には、"男性""男性"といった "ゲイ的関係" ではなく、"女性の振りをする男性""通常の男性" という "擬似男女関係" という意味ですね。そうすると、ここで何が起きているかというと、"女性的なもの" が実際の女性の肉体を離れて、"男性が所有する幻想" になってしまっているという事です。そうすると、その幻想は、実際の女性だけでなく、実際の男性にも投影される可能性が出てくる訳ですね。

 

c. その結果が、ジェレミー・アイアンズ演じるルネ・ガリマールがジョン・ローンが演じる舞台女優のソン・リンを本物の女性だと信じ込む『エム・バタフライ』の非現実的なストーリー ( しかし、この話に実話がある事は有名な話。) なのです。

 

d. ただし、昔の『 暗殺の森 』の方が、少しひねりがある。というのも、リーノは、相手の男性に女性の幻想を投影するのではなく、"自分を受身にする擬似女性的快楽に耽るという倒錯的欲望" に塗れているからです。

 

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(※3)                                

これには少し説明が必要でしょう。"革命的要素としての性" とは、政治に取り込まれずに対抗する "敵対性" として言い表す事が出来る。ただし、それは敵対という形式的距離性を取り除いた時に、自らの権力性や欲望に囚われてしまう危険もあると言えるでしょう。例えば (※1) でも記したように、"性" が単なるエロティックなもの自体としか見られず、それ以外の考察が受けいれられない状態。

 

 

 

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【 僕を楽しませてくれた映画〈 007 カジノ ロワイヤル 〉のオープニングをクリス・コーネルの死から再び見直した 】

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   長髪がトレードマークだった彼にしては珍しく短めの髪を立てている。

 

  2017年5月17日、クリス・コーネルが自殺しました (※1)。享年52歳。早過ぎる死ですね・・・。元々は、サウンドガーデンオーディオスレイヴのバンドにおけるヴォーカルとして出発しましたが、近年では、その歌唱力で1人のヴォーカリストとしてのパブリックイメージを確立していたと言っていいでしょう。最近ではサウンドガーデンを再結成したりしましたが、そこで彼がかつてバンドマンだったんだと知った若いファンもいるのではないでしょうか。

 

そして彼のヴォーカリストとしてのイメージに大きく貢献したのが、『 007 カジノロワイヤル 』の主題歌 " You know My Name " ( 2006年 ) であった事は間違いないでしょう。『 007 カジノロワイヤル 』はダニエル・クレイグが初めて起用された新生ジェームズ・ボンドの第1作であり、そのオープニングを飾るにふさわしい主題歌として、" You know My Name " は展開されるグラフィックアニメーションと共に、私達を楽しませてくれましたね。

 

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【 007の孤独を歌い上げる " You Know My Name " 】

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" You know My Name ( お前は俺の名前を知っているはずだ ) " ・・・もちろん、この歌は007の孤独について歌われたものですが、孤高という意味では007の主題歌を歌うのにクリス・コーネルほどの適任者はいなかったといえるでしょう。といのも彼のキャリアを振り返った時に分かるのが、特定のジャンルに安住するようなタイプの人間ではなかった、つまり何かのジャンルに縛られないが故に、音楽的には説明しにくい人間だったという事です。普通は自分が売れたジャンルの音楽をずっと作らざるを得ないのですけどね、生活のために・・・。でも彼はそんなタイプの人間ではなかった。音楽界において自分の趣向にこだわった数少ない人間だったという訳です。

 

例えばサウンドガーデン時代においても、グランジロックの祖として紹介されたりしますが、それはアルバム『 Superunknown (1994)』の時期であり、それ以前の『 Badmotorfinger (1991)』などはへヴィロック的に評価が高くアグレッシヴであったりする (ちなみに、このアルバムのプロデュースは、パンテラでもお馴染みのテリー・デイトが担当している)。

 

 その後は、オーディオスレイヴレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのメンバーと共にグランジを源泉とするオルタナティヴ・ロックをより洗練し簡素化させた方向 ( 結局の所、これは普遍的なロックに近づく事を意味するのだけど ) に向かう。そしてソロアルバムを4枚出している事を考えれば、彼が自分のその時々の音楽的嗜好 (※3) に忠実であった事が分かりますね。

 

 コレは、悪く言えば、一貫性がないとかいうことになるのかもしれませんが、クリス・コーネルは自分の歌声が、特定のジャンルではなく、より普遍的なロックにおいてこそ生きる事を実感していったという事の結果なのでしょう。

 

 

     

 

 

 007 カジノロワイヤルのオープニング。クリス・コーネルの " You Know My Name " と相俟ってカッコいい。それも、007シリーズの中でも間違いなくカッコいい部類に入ると言っていいでしょう。

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(※1)

メタリカのジェイムズ・ヘットフィールドはクリス・コーネルの死についてインタビューで答えている。

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" 今回の一件で、誰しもが自分自身にあるに出くわして、それに捕まってしまったような心地になってしまいかねないんだってことを気付かされたよ "

 

" そして、そうなってしまったらーー少なくとも俺は時々自分の闇の深さを思い知るんだけどさーー自分の闇の中に入ってしまったら、そこには自分を救ってくれる誰かがいることや、前にも乗り越えたことのある闇だってことに気が付くのは難しいんだよ。時には本当に自分を喪失してしまうことだってある。当然、俺には……クリス・コーネルが何に苦しんでいたかは分からない。けどさ、俺たちは誰しもが自分の闇を抱えているんだよ。お互いにチェックしないといけないんだ。お互いにチェックし合うんだよ。お互いが元気にやれてるか確認するんだ "

http://nme-jp.com/news/38395/ より

 

ジェイムズ・ヘットフィールド自身も、過去のインタビューでドラッグ・アルコール依存症であった事があり、そういうものに手を出してしまう弱さが自分の中にある事を語っている。クリス・コーネルアルコール中毒であった時期がある。

そして何よりも昔から彼の周囲に死の影 (※2) があり、そういった事に彼も気を配っていたであろうに、残念な結果になってしまった事にはやるせなさを感じてしまう。

 

(※2)

最も有名な所では、同じくグランジを代表するバンド、ニルヴァーナカート・コバーンによるショットガン自殺 ( 1994年 )。これ以前には、マザー・ラヴ・ボーンのフロントマンだったアンドリュー・ウッドがヘロインのオーヴァードーズによる死亡 ( 1990年 )。これまた同じグランジバンドのトーン・テンプル・パイロッツスコット・ウェイランドが薬物中毒が一因である事によって死亡 ( 2015年 )。

 

(※3)

キャット・スティーヴンスやニック・ドレイクなどフォーク・ロックの影響を受けるようになった事をインタビューで語っている。

http://rollingstonejapan.com/articles/detail/25094/1/1/1 を参照。

 

 

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【 僕を哲学的に考えさせる映画 ブライアン・シンガーの『 ゴールデン・ボーイ 』 】

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公開:1998年

監督:ブライアン・シンガー

原作:スティーヴン・キング

出演:ブラッド・レンフロ  ・・・・・ トッド・ボーデン

  イアン・マッケラン  ・・・・・ クルト・ドゥサンダー

  :デヴィッド・シュワイマー ・・・ エド・フレンチ

 

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a.ユージュアル・サスペクツ 』、『 XーMEN 』シリーズ、『 ワルキューレ 』で知られるブライアン・シンガースティーヴン・キング原作の『 ゴールデンボーイ』を映画化した作品。この『 ゴールデンボーイ 』というタイトルは、原作の邦訳タイトルを踏襲しようという配慮から来ているのでしょうが、作品のイメージを伝えているとは言い難いですね。

 

b. というのも "pupil" という単語が、教え子、弟子、門下生、などの " 師匠との絆 " 的なニュアンスがある事を考慮すれば、原作タイトルの『 Apt Pupil 』とは『 出来のいい教え子 』という意味になり、作品中で描かれるドゥサンダーとトッドという" 悪の継承 "にまつわる師弟関係を含ませた皮肉的な表現に他ならないからです ( もちろん、この映画の英語版タイトルは『 Apt Pupil 』)。それが『 ゴールデンボーイ 』になる ( 商業的なタイトルとしては響きがいいのかもしれないけど ) と、トッドの単独性しか示せていないという訳です。

 

c. とはいえ、作品の本筋が "悪の問題 " である事には変わりはない。その "悪" がドゥサンダーという老人とトッドという少年の "関係性" を通じて描かれる様には、原作者キングの凄みを感じざるをえないし、それを映像化したブライアン・シンガーの手腕は観客を十分楽しませるものだと思いますね。

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1. ナチスの "悪" に同調していくトッドの "悪" 

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a. 原作と同じく、この映画でも一番の見所といえば、トッド ( ブラッド・レンフロ ) に強要されてナチスの制服を着用したドゥサンダー ( イアン・マッケラン ) が、最初は嫌がっていたものの、かつての強制収容所の副所長としての血が騒ぎ、次第にその気になって軍隊式行進を行う場面ですね。

            

b. アーサー・デンカーと名乗る老人が、実は元ナチスのクルト・ドゥサンダーである事に気付いた高校生トッド・ボーデンは、正体をばらされたくなければ、自分の言う事を聞くように脅す。

 

" 着てみろよ " by トッド

" わしを苦しませおって。張り倒すぞ " by ドゥサンダー

" ユダヤ人の苦しみにくらべたら何でもない " by トッド

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c. 言われた通り、ナチスの制服を着て軍隊式行進を始めるドゥサンダー。次第にかつての姿の戻ったかのように熱を帯び、ナチス式敬礼まで行ってしまう ( シーン 8.~ 9. )。その余りの迫力にトッドは自分が言い出したにも関わらずひいてしまう。

" やめろ! " by トッド

" 気をつけろ 坊や " " これは危険な遊びだ " by ドゥサンダー

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d. ここに至るまでのポイントは、トッドが元々、無邪気な少年で、ドゥサンダーと出会ってから悪に目覚めていくという設定ではなく、彼はドゥサンダーと出会う前から既に、" 悪の萌芽 "を自分の内側に抱えていたという事です。映画の冒頭で、トッドは高校の授業でナチスによるホロコーストについて知るという場面があります。

 

e. 通常ならば、多くの生徒はナチスの非人道的な虐殺という事実から、たとえ形式的にであれ、倫理的な教訓を引き出すのですが、稀にその倫理性よりも、命の尊重から懸け離れた野蛮な好奇心 ( ユダヤ人がどんな殺され方をしたのか、などの詳細を知りたがる欲望 ) (※1) を優先させる特異な生徒がいる。それがトッドだったという訳です。

 

f. まり、ここには過去に実在したナチスの悪とは別の、1人の少年の中に存在する "悪" が、そのナチスの "悪" と出会い、覚醒していく過程があります。トッドは強制収容所での殺しの詳細を聞くなどしていたドゥサンダーとの関係に終止符を打とうする ( 学校の成績が下がってきたため ) が、もう手遅れだとドゥサンダーは言う、つまり、お前はもう悪の領域に踏み込んでいるという事ですね( シーン23.~24. )。

 

" 君は まだ人を殺すことを決心できないでいる "

" 殺すパワーはあるか?" by ドゥサンダー

" こんなことは終わりだ " " もうここへは来ない " by トッド

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" はじまりと終わりに乾杯 " by ドゥサンダー

" 勝手にしろ " by トッド

" わからんのか わしらは互いに地獄の底まで一緒だ " by ドゥサンダー

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g. この後、ドゥサンダーは自分の命に保険を掛ける意味( これまでの関係を清算すべくトッドが自分を殺さないように)で、トッドに、自分達のやり取りを記した手紙を銀行の貸金庫に預けていて、自分が死ねばそれが公開される事になっていると脅す ( 結局、手紙の件はドゥサンダーの嘘なんだけど )。

 

h. ドゥサンダーは、あるきっかけで家に招きいれた浮浪者をナイフで殺そうとする。刺された浮浪者はドゥサンダーの家の地下へと転げ落ちたが、ここでドゥサンダーは心臓発作を起こしてしまい、後始末が出来なくなってしまう。動けないドゥサンダーは電話でトッドを呼び出す。トッドはドゥサンダーと距離を置いていたが、銀行の貸金庫にある手紙の件が気になり助けに行かざるをえなかった。トッドはドゥサンダーを死なせないために、救急車を呼ぼうとするが、息を吹き返した浮浪者を殺してしまう・・・。

 

i. その一連の流れは、トッドの中の " 潜在的な悪 " がドゥサンダーによって引き出され、現実へと実在するようになった事を示す象徴的なシークエンスですね。それはトッドが自らの手で殺人を犯したという事だけでなく、それがばれない様に隠蔽し、自らの立場を守ろうとするズル賢さを同時に発揮するという" 悪と知 " が結びついた恐ろしさを示しています。つまり、" 生き延びようとする悪 " という事です。これこそ、イスラエルの追求から逃げて生きるドゥサンダーの存在様式であり、それを継承しようとしているのがトッドという訳ですね。

 

j. 入院したドゥサンダーは、トッドに手紙の件は嘘だと告げる。その後、ドゥサンダーは隣のベッドの元強制収容所の捕虜だったユダヤ人に正体を見破られ、訪れたイスラエル機関とFBIの人間にエルサレムに送還する ( 裁判にはかけられるものの、それは死刑を意味する。例えば、実際のイスラエルによるアイヒマン裁判は余りにも有名。 ) と言われ自殺してしまう。

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 2. 引き継がれ、生き延びる " 悪 "

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a. トッドの高校の卒業式で、カウンセラーのエドはトッドの両親との会話から、かつて面会 ( ドゥサンダーはトッドの成績が下がった時に、トッドの両親にバレないように、トッドの祖父だと偽って会っている。両親はこの事を知らない )したトッドの祖父であるはずの男が、元ナチスのデンカー ( ドゥサンダーの偽名 ) だった事を知るに至る。真相を確認すべくエドはトッドの所に向かう・・・。

 

b. しかし、トッドは怯むどころか逆にエドを、" 性的関係の強要 " という嘘の演出で以って脅すのでした。自分を守る為なら何でもする男になっていたトッド・・・・・。

" ぼくが初めてか?"

" 成績を裏取引し電話番号を教え 会いにくる " by トッド

" 何の話だ?" by エド

" 男子生徒に手を出すとは " by トッド

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" 思い入れたっぷりに握手したな " by トッド

" まさか 私が君に何かしたと言うつもりか?" by エド

" 必要なら何だってやる " by トッド

" 私は君を助けようと " by エド

" 悪い噂を流せば汚名は一生消えない。どうだ エド " by トッド

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c. このシークエンスでのトッドのズル賢さは、ブライアン・シンガーの前作ユージュアル・サスペクツの犯人であるキント ( ケヴィン・スペイシー ) と共通するものがありますね。左の手足に麻痺のある ( 自分が犯人ではないと思わせるための演技 ) キントが巧みな嘘を語り通し ( それこそが映画のストーリーとなっていた事が最後に分かる )  警察の取調べから解放され、徐々に姿勢を正しながら歩いていく姿は、彼こそが真犯人のカイザー・ソゼである事を示す有名なラストシーンですね。

 

d.ゴールデンボーイ 』を見た後では、トッドこそ、カイザー・ソゼの少年時代だったのではないかと想像したくなるほど、" 生き延びる悪 " という存在が2つの映画の共通モチーフとしてある事が分かりますね。

 

e.  原作者スティーヴン・キングの凄い所は、" 少年 " というものを " 未来に開かれた希望 " などではなく、そんな価値観を打ち砕くが如く、" 社会を脅かす悪の萌芽 " として描いている所です。社会を混乱に陥れる " 悪の存在 " とは、遠い世界の住人ではなく、最も身近な存在でありながら、時として理解不能な行動をする " 怪物 " である事の象徴として少年を取り上げているという訳です。

 

f. 原作では、トッドは最終的に銃による無差別殺人という狂気の行動に出て警察に殺される ( 邦訳ではそれが上手く伝わっていないけど ) ので、後味はよくないとはいえ、キングなりのケジメをつけているといえるでしょう。ところがブライアン・シンガーは映画では変更を加えています。トッドはキレて自分の立場を危うくするようなマネをせず、冷静にエド ( 原作ではトッドに殺されてしまう ) を脅迫するのですね。つまり、ブライアン・シンガーは、カイザー・ソゼと同様にトッドを生き延びらせるという選択をして、原作との差別化を図っているのです。

 

g. この事は何を意味するのでしょう? 一見すると、原作のラストの方がセンセーショナルですが、映画の方がより " 不気味 " だといえます。社会に混乱をもたらす " 悪 " が排除される事なく、いつ爆発するか分からない危険物として留まっている事を示してるからです。いや、正確に言うなら、社会からそのような " 悪 " を取り除く事の不可能性が示されているという意味で、映画は原作以上に救いが無いと言えるし、それは同時に、よくある映画的な結末よりも、決着の無い、より現実的な方向に近づけたものだと言えるでしょう。

 

 

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(※1)

■ そこにあるのは、他人の殺害の中に、自分を満足させてくれる何かがあるかもしれないと期待する歪んだ欲望に他ならない。

 

 

 

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【 僕を哲学的に考えさせる映画 ギレルモ・デル・トロの『 パンズ・ラビリンス 』 】

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公開:2006年

監督:ギレルモ・デル・トロ

出演:イバナ・バケーロ ・・・・ オフェリア

  アリアドナ・ヒル ・・・・ カルメン ( オフェリアの母 )

  セルジ・ロペス ・・・・・ ビダル ( フランコ軍の大尉。カルメンの再婚相手)

  ダグ・ジョーンズ ・・・・ パン ( 牧神 )

  マリベル・ベルドゥ ・・・ メルセデス ( 小間使い )

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説の記事ではなく、『 パンズ・ラビリンス 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。細かく言うなら、"映画という教材" にいかに哲学的解釈を施すか、という試みになりますね。なのでストーリー解説を求める方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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1. 〈 幻想 〉と〈 現実 〉

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a. この映画、通常、思われている以上に、哲学的な深みがある。少なくとも、僕はそう感じましたね。大学などのアカデミックな哲学界では、哲学を人生論的な観点から語るというのは素人的な身振りであり問題にすらならないのですが、この映画は、その素人的な身振りは間違っていない事を示しています。

 

b. 人が他の誰でもない自分の人生を背負う限り、人生をどう考えて、どう生きるのかという問題が、その人にとって第一義的な哲学であるのは当然です。それ無くして、自分が存在するこの世界を理解する事は出来ないし、逆に言うと、この世界をどう理解するかは、自分の人生をどう考え、どう生きているか、という事によって左右される

 

c. なぜ、こんな話をするのかというと、〈 現実 〉の世界と自分の〈 人生 〉の間には、一定の〈 距離 〉があるからです。人間誰しも、成長していく過程で、社会という〈 現実 〉に参加するようになる、生きていくために・・・。

 

d. その際、人はその〈 現実 〉に適応するために、水面下で自分を作り変える ( あるいは半ば強制的に作り変えらされる )。ではどう作り変えるのか。それは僕が思うに、それまで自分の中に保持していた自分の〈 世界 〉を改変していく事ですね。自分の〈 世界 〉とは、端的に言って〈 幻想 〉なのですが、その 〈 幻想 〉の改変 ( 哲学的、精神分析的にいうなら〈 幻想の横断 〉) を実行するという事になります。

 

e. そういう言い方をすると、すごく崇高な印象を持つかもしれませんが、実際には各人の体験度合いによっては、それは横断というよりは、切り刻む、切り裂く、という耐え難い経験である場合もあるはずです。この時、各人において興味深い事が起きます。自分の〈 幻想 〉を横断して、〈 現実 〉の世界に適応する事が出来る人もいれば、〈 幻想 〉を切り裂く事に対する否定的な身振りを〈 現実 〉の世界へと転化する人もいるでしょう ( 攻撃的になったり、ひきこもったり、などの極端な行動化 )。

 

f. 以上の事を、アカデミックな哲学的・精神分析的観点から見ると、〈 幻想 〉とは、主体が〈 現実 〉の世界へと踏み出す ( アクティング・アウト ) ために必要な〈 要素 ( 細かく言えば、ラカン精神分析での "対象a" ) 〉としての価値しかない。もちろん、ここには最初に述べたように、人生を背負うのが他の誰でもない自分であるという〈孤独〉から来る人生論的観点が入り込む余地は全くない。御自分の人生哲学については、どうぞ御勝手に、という訳です。

 

g.この映画が興味深いのは、そんな〈 幻想 〉を〈 要素 〉ではなく、ひとつの〈 世界 として提示している所です。外の〈 現実 〉も〈 世界 〉だけど、〈 幻想 〉も〈 世界 〉なのです。つまり、〈 幻想 〉も〈 世界 〉であるからには、〈 現実 〉に対して否定的に扱われる必要はないし、ましてや〈 現実 〉を構成する形而上的な〈 要素 〉でもない。〈 幻想 〉と〈 現実 〉は、並列的に、人が生きるに足る〈 世界 〉なのであり、もし同時に生きにくいのであれば、それは自分が〈 幻想 〉を保持する事を自ら放棄しようとしているからです。

 

h. これを哲学的に非難しようとするのなら、その人は他人の人生を背負えるかどうか自問するべきですね。それが出来ないから、アカデミックな哲学は人生論を放棄しているのです( ※1 )自分の人生を背負うならば、人生を生き抜くために、幾つもの〈 世界 〉を自分の〈 聖域 〉、あるいは〈 秘密 〉として持つことは必要だと言えるでしょう。

 

 

2. 〈 幻想 〉というもうひとつの〈 世界 〉

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a. ギレルモはこの映画を、魔法の王国が地底にあり、そこに住んでいるお姫様が、地上の人間界を夢見て、抜け出すという形で始める。魔法の王国は太陽がなく、わずかな月の光に照らされているかのように青暗い色調で描かれている ( シーン 1.~ 8. )。

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b. そして徐々に地上の世界に移行していく様子 ( 太陽の光に照らされている通常の風景 ) を交えながら、現在の話を始めていく ( シーン 9.14. )。一応、ここでは地上で死んだお姫様が魔法の王国に戻るという映画の結末が、それとなく仄めかされている。

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c. 魔法の王国の妖精 ( 妖精というには若干グロいけど、これこそギレルモ的キャラですね ) に誘われて、オフェリアは住処の近くにある森の迷宮に入り、地下へと降りていく。

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d. ここでオフェリアは迷宮の守護神パン ( ※2 ) に出会う。オフェリアは自分が魔法の王国のプリンセスである事を告げられる( シーン 21.26. )。

 

e. ここから、オフェリアは、日常の〈 現実 〉と〈 幻想 〉のふたつの〈 世界 〉を生きる事になるのですが、ギレルモはこの落差を強烈な対比でもって描き出します。〈 現実 〉においては、フランコ政権下におけるスペイン内戦を、オフェリア周辺で起きる局地的な緊張状態として描き、〈 幻想 〉の〈 世界 〉においては、オフェリアの内面を誰にも知られる事のない秘密として描いているのです。

 

f. それにしても、このパンも特徴的な造型で仮面ライダーの敵キャラに出てもおかしくない・・・。ギレルモのオタクぶりが表れていますね。

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g. 途中の過程は省略しますが、最終的にオフェリアは、魔法の王国に帰る条件として生まれたばかりの弟を一緒に連れてくるようにパンから指示されます。しかし、連れて来たのはいいもの、弟の血が必要だと言われ、拒否した結果、王国への帰還の話は無かった事になる。そして、子供を取り返しに来た義父のビダルによって射殺されてしまうという残酷な結果に・・・。

 

h. でもギレルモはこれだけで話を終わらせません。ここからが大切なのですが、オフェリアの死は、揺るぎのない〈 現実 〉であるにも関わらず、ギレルモは〈 幻想 〉の世界を回収しようとするのです。

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i. 死に行く意識の中で、オフェリアはようやく王国に帰る事が出来ます。弟を殺す代わりに自分が殺された事で流した血によって、それが可能になったという訳です。さて、この場面をどう解釈すべきでしょう?

 

j. 現実逃避という事でしょうか?いや、それでは十分な説明にならない。なぜなら、〈 死 〉という最大の〈 現実 〉がオフェリアには既に訪れてしまっているからです。それにオフェリアは死の直前まで、弟を守るという現実的な行動を採っていた。ならば、この場面は、オフェリアは現実的な死の際にも、自分の中の〈 幻想の世界 〉を守るべきものとして最後まで手放さなかったという意味で、彼女の主体的な振舞いで満ちていると解釈すべきでしょう。

 

k. これは自分の人生を背負う者としての孤独な主体にとって、大きな教訓ではないでしょうか。厳しい現実を前にして、〈 幻想 〉を自ら廃棄してあきらめて死ぬのか、それとも、〈 死 〉にも関わらず、自分の〈 幻想=秘密 〉を守り抜こうという主体としての使命を果たすのか、という訳です。もちろん、それは他の誰でもなく、自分にしか分からないのですが・・・・・。

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l. この後、ギレルモは〈 現実 〉のオフェリアの死の場面に戻します。

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m. ラストの一輪の花は、〈 幻想 〉の象徴 だというべきでしょう。

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( ※1 )

人生論を説いた ( もちろんそれだけではない ) といえる最後の哲学者は、ニーチェですね。ニーチェは、それまでのヘーゲルを頂点とするドイツ観念論哲学の流れとは異質な哲学者であり、読者 ( ニーチェ的にいうなら人類 ) に強烈なメッセージを残した。

 それはマルクス主義的な革命のメッセージではなく、読者に自分の人生を再び生き直す( 永遠回帰 )べきだという人生論的メッセージ だった( 構造主義ポスト構造主義以降、このようなニーチェ像は薄まったけど )。彼は読者の人生に踏み込んでくる哲学者だったが、他人の人生を背負う代わりに、自分の破滅過程を差し出した ( たとえば、『この人を見よ』)。

 

( ※2 )

パンとは、ギリシャ神話における森や山、牧畜の神で笛を吹く半人半獣の神。ローマ神話ではファウヌス。文学や芸術分野ではよく用いられてきたモチーフでもある。

 最も有名な所で、フランスの詩人 ステファヌ・マラルメ象徴詩 牧神の午後 ( 1874 ) 』。それにインスパイアされたのが同じくフランスの作曲家クロード・ドビュッシーの『 牧神の午後への前奏曲 (1892~1894) 』。これに基づいてディアギレフのロシア・バレエ団のダンサーであったヴァーツラフ・ニジンスキーが振付した『 牧神の午後 ( 1912年初演 ) 』は伝統的バレエを無視したモダンバレエの元型として余りにも有名。

 

 

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【 僕を哲学的に考えさせる映画 ギレルモ・デル・トロの『 クロノス 』 】

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公開:1998年  監督・脚本ギレルモ・デル・トロ

出演フェデリコ・ルッピ   ( ヘスス・グリス )

  : タマラ・サナス      ( アウロラ

  : ロン・パールマン   ( アンヘル

  : クラウディオ・ブルック( クラウディオ )

  : マルガリータ・イザベルメルセデス

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説の記事ではなく、『 クロノス 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。細かく言うなら、"映画という教材" にいかに哲学的解釈を施すか、という試みになりますね。なのでストーリー解説を求める方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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1. ギレルモ・デル・トロの初期の傑作『 クロノス 』

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a. ギレルモ・デル・トロの【クロノス】には、彼が影響を受けたと思われる幾つかの要素が見られますね。映画監督をする前には特殊メイクの仕事をしていた事もあって、小道具、この映画ではクロノス、の作り込みにはこだわりがあるようで、デビッド・クローネンバーグ的なグロテスク要素と共通するものが感じられます。

       

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       クローネンバーグの『裸のランチ』のバグライター

 

b. そして、そのクロノスが果たす機能のモチーフが漫画『JOJOの奇妙な冒険』の石仮面から来ているのではないかと多くの方が感じたであろう事は、ギレルモが日本の漫画・アニメに影響を受けている事を考えれば当然でしょう。吸血動物が組み入れられた機械仕掛けのクロノスは、通常は収納されている触手を人間に突き刺し血を吸う事で、その人間を吸血鬼と化し、肉体を大きな損傷を与える事故にでも遭わない限り、永遠に生きる事を可能にするという訳です。そのためには人間の血を吸わなければならない・・・だから吸血鬼なのですが、その点で、この映画は吸血鬼に完全になる事を拒否する主人公ヘススの振舞いが興味深いものとなっているのです。

 

 

2. 『 クロノス 』のストーリー

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a. 中世の錬金術師ウベルト・フルカネリは迫害から逃れて渡ったメキシコの地で、永遠の生命を与える事が出来る"クロノス"を作った。

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b. そして、フルカネリは、そのクロノスを自らの身体に使用し400年間生き続けたのですが、建物の天井崩落事故に遭い、息絶えてしまう。

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c. しかし、フルカネリに関する事は謎のままであり、クロノスも天使像の中に隠されたままで知られる事はなかった・・・そしてタイトルクレジット、クロノス!ここから話が動き出す。

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d. 骨董屋を営むヘスス・グリス ( フェデリコ・ルッピ ) は天使像の中からクロノスを見つけるのですが、それが何なのか分からない・・・。で、ヘススの側にはいつも孫娘のアウロラ ( タマラ・サナス ) がいる事がポイントですね。この娘との結びつきによって、この映画がたんなるヴァンパイア・ホラーにならずに済んでいます。

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e. ここで、手のひらにクロノスを乗せていたヘススは、クロノスから突然延びて来た触手というか甲殻類的な爪に突き刺されてしまう。必死になってそれを引き剥がすヘスス。この辺りはジョジョの石仮面を彷彿とさせますね。

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f. 中盤の話は省略しますが、ヘススはクロノスによる吸血鬼化によって、大理石のような肌を、焼けただれ引きちぎられた皮膚の下から覗かせながら、クロノスを手にいれようとするクラウディオとアンヘルと戦わざるを得ない宿命 ( ※1 ) に巻き込まれていきます。

g. 終盤には因縁のあるアンヘル ( ロン・パールマン ) と戦い、建物の上層部から2人とも落下してしまい息絶えてしまう。そこにヘススと行動を共にしていたアウロラが現れ、ヘススを優しく撫でる。

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h. アウロラはクマのぬいぐるみの中 ( ヘススはクラウディオとアンヘルに見つからないよう、クロノスをぬいぐるみの中に隠していた ) からクロノスを取り出し、ヘススの身体にあてがう ( シーン32. 33. 34. )。つまり、アウロラはクロノスによって、ヘススが長生き出来る事を、彼の過去の行為 ( ヘススは度々、クロノスを自分の身体に突き刺す事によって生命を永らえさせる衝動に突き動かされていた ) を見て知っていたのですね。そして、クロノスに支配されたヘススが人間の血を吸わざるを得ない事も彼女は知っていた・・・。

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i. なんとなく見ていると、見逃してしまうかもしれませんが、38.のシーンではアウロラは手から血を流し ( いつ彼女が自分の手を傷つけたかは、そのシーンがないので分かりづらいけど ) 、その手を自分の口元に持っていくのですね。つまり、私の血を吸っていいよ、おじいちゃん・・・という彼女の意思表示な訳です。復活したヘススは最初、吸血鬼としての欲望に負けそうになるのですが、このアウロラの自己犠牲的な献身と、彼女の "おじいちゃん" というセリフ ( 彼女はこのセリフ以外、この映画で言葉を発しない ) によって、我に帰るのですね。

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j. 我に帰ったヘススは、いつもなら高揚感を覚えたはずのクロノスの爪に、突如痛みを感じて惹き剥がし、石で叩き潰す。吸血鬼の欲望に打ち勝ち、人間性を取り戻したという事 ( この時、彼は何度も "自分はヘスス・グリスだ" と叫ぶ )ですね。吸血鬼化を拒否したヘススは、ダメージのため死ぬしかないのでしょうが、自宅のベッドでアウロラと妻のメルセデスに看取られながら束の間の平穏に包まれるというラストで映画は終わります。

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3. 『 クロノス 』の哲学的解釈

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a. この映画の特徴は、ヘススが怪物になろうとも、孫娘アウロラの彼への親しさに揺るぎはないという点です。しかし、そこから、安易なヒューマニスム的感傷に浸るのは一端止めて、もっと細かい解釈をしていく事にしましょう。

 それは、ヘススへのアウロラの振舞いが彼女の内面から語りだされるものでは無い、つまり彼女の内面描写がないからです。彼女は感情を豊かに表す主体としては描かれていない ( たとえ監督の意図がどうであれ、結果としてという意味で ) という訳です。

 

b. 物語の冒頭から、アウロラはヘススと一緒にいるのですが、子供らしい喜怒哀楽を前面に表す訳ではない。もちろん、これは彼女の唯一のセリフ、シーン38."おじいちゃん" という部分とも繋がります。彼女の感情が余り見えないため、多くの観客は彼女の存在につい無関心になるのでしょうが、もし彼女の感情表現が最初から豊かであったなら、この物語はヘススという主人公に拮抗するもう1人の女性をヒロインとして描かざるえを得なかったでしょう。

 

c. しかし、そうすると、物語の軸は、ヘススとアウロラの間の心理的緊張関係にひきずられる事になっていたかもしれない。つまり、この映画の世界観は2人の主体の内面的関係性によって構築されるというヒューマンドラマになってしまっていた可能性があったという訳です。

 

d. おそらく、そのような世界観はギレルモは望まなかったでしょう。なぜなら、この映画の設定を考えるならば、ゴシック小説 ( ドラキュラやフランケンシュタインなどの ) の系譜に連なる怪物的世界観をいかにして作り上げていくかという事が、彼のテーマであったと推測出来るからです。この種の怪物映画によくあるのが、人間から怪物に移行しきれずに、揺れ動きながらも人間性に回帰する ( たとえ死ぬ事になろうとも ) というストーリーですね。

 

e. ギレルモも、このモチーフに沿っているのですが、彼はヘススの内面を直接的に深刻に描くのではなく、アウロラメルセデス ( ヘススの妻 ) との家族関係という形式にヘススの内面を外化させる事によって世界観を作り上げるという手法を採っているのです。つまり、ヘススの内面性は、アウロラメルセデスとの、その時々の日常的関係を描写する場面によって "間接的に" 示されているという訳ですね。そうすると、ヘススへの揺ぎ無い優しさを持つアウロラとは、吸血鬼へと変貌したヘススの中に残っている人間性を象徴する存在だと解釈する事が出来るでしょう。

 

f. この "内面の外化" というやり方のいいところは、登場人物の内面性に振り回される事なく( 逆に言うと、人間の内面とはそれくらい強力で凶暴なものだという事です) 、確固とした世界観を構築出来る所ですね。この映画におけるギレルモの世界観は、突如侵入してきた怪物的要素によって混乱させられるにも関わらず、最終的には、登場人物たちが形作る "家族" という在り方へとその悪夢が回収されていくようにまとめ上げられているものだと言えるでしょう。

 

g. ラストの場面 ( シーン47. ) がその事を象徴しているし、オープニングタイトル後の最初の場面も、ヘスス、アウロラメルセデスの3人の食卓シーンで始まっていますね。このようなギレルモの世界観を一言で表すなら、"ゴシック・ファンタジー"という事になるでしょう。

 

 

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( ※1 )

でも、戦うといってもアメコミの映画ヒーロー ( バットマンスパイダーマンなど ) のように強靭な戦闘能力を獲得する訳じゃない。おじいちゃんが多少若返った分だけ元気になるっていう話だから、戦闘というよりは、トラブルに巻き込まれるっていうのが正確なところ。その辺は期待してはダメです(笑)。

 

 

 

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【 かつて格闘マシーンとして見る者を熱くさせた黒澤浩樹は晩年、懐の深い人間になっていた・・・・・。】

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極真空手聖心館空手道館長の黒澤浩樹氏が2017年3月25日、急性心不全のため、亡くなられました。享年54才。早過ぎる死です・・・。極真時代は、1984年の第16回全日本大会で初出場・初優勝して以降、松井章奎(国際空手道連盟・極真会館館長)・増田章(IBMA極真会館主席師範)と共に、三強時代を築き、その強烈な下段回し蹴りは黒澤氏の代名詞となりましたね。極真での大会出場を退いた後は、PRIDE.1に参戦(1997年)し、大山総裁の死去による極真会館分裂騒動では、松井派に所属したものの、松井氏との対立から独立して実戦空手黒澤道場を起こしました。その後、Kー1にも参戦(2000年)し、2011年には、黒澤道場を聖心館空手道に改名し後進の育成に当っている所でしたが、膝の手術後のリハビリの最中に亡くなられたという訳です。

 

少なくとも、現在40代半ば以降の方なら、黒澤氏の全盛期であった極真時代における激しい戦いぶりをリアルタイムで体感し、熱い思いに駆られた事でしょう。〈格闘マシーン〉とは、その時期に付けられたニックネームであり、氏のパブリックイメージを確立させるものでしたね。ただ、今回は、氏のそんな格闘マシーン振りを示す詳細は他所に譲るとして、吉田豪によるインタビューを紹介する事によって、氏の晩年の人間性の一端を垣間見る事が出来るのではないかなと思います。

 

中年以降のある程度長く生きてきた人ならば分かるでしょう、人間って、1つか2つのイメージで語りつくせる程単純な生き物ではない事を。つまり、格闘マシーンのイメージは黒澤氏の全てではなく、黒澤氏の1面なのであり、それ以外に日常を生きる人間性が当然あるという事ですね。このインタビューで分かるのは、彼は格好をつけて自分のパブリックイメージに固執するどころか、もはやそんな事にはこだわらず、インタビューを楽しみながら、ざっくばらんな自分の姿をさらけ出す懐の深さを見せてくれているという事です。

 

 

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吉田豪による黒澤浩樹へのインタビュー

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プロインタビュアーの吉田豪といえば、それこそ何人もの芸能人・著名人などにインタビューされているのですが、雑誌「BUBKA2015年6月号」の" BUBKA流スーパースター列伝 "というインタビュー連載で黒澤浩樹氏に登場してもらっています。今から約2年前。吉田氏の絶妙なインタビューによる黒澤氏の饒舌ぶりを読むと、氏の晩年における最後の本音のインタビューだったといっても過言ではないでしょう。

 

それにBUBKAってサブカル雑誌だから、そっち系に興味のある人じゃないと、読まないだろうし、黒澤氏へのインタビュー自体も、現時点では吉田氏の単行本には未収録という事もあるので紹介しておく事にしましょう。

 

以下、インタビューからの抜粋。

 

冒頭の部分。黒澤氏、しょっぱなから自分の変化をあっさりと認めてますね。

 

( 吉田 ) 黒澤先生は現役時代からインタビュー嫌いという噂が流れていたわけですけど・・・・・。

( 黒澤 ) フフフフ、噂だけですけどね(笑)。

( 吉田 ) え!単なる噂だったんですか?

( 黒澤 ) 昔はそういうところがありましたね。〈 中略 〉最近、人あっての自分なんだと思えるようになってからはずいぶん柔らかくなって。 

 

( 黒澤 ) 〈 中略 〉 空手の世界もこれだけグチャグチャになって、独立して自分で道場やるとなると、毒もずいぶん飲まなきゃいけないので。簡単に言うと丸くなったというか、人間らしくなったというんですかね。なので、よっぽどのことがない限りはふつうに取材も受けます。

 

( 黒澤 ) 〈 中略 〉だからそういう意味では、極真を辞めてからのほうが内面的なところで鍛えられました。極真会館にいたときは大きな組織にいたぶんだけ大きな試合にも出られましたんで、そこで肉体的な部分を育てたと思うんですけど、辞めてからのほうが、ある意味不合理というか、毒はしょうがないから飲むしかない、みたいなことをやってたんで。      

 

 

正道会館との過去の確執や大山総裁についても触れてます。総裁の口癖をマネする黒澤氏。こんなに楽しい人だとは・・・。

 

( 吉田 ) 昔は、佐竹雅昭さんが女性の裸が出ている雑誌に出てただけで激怒したけれど(笑)。

( 黒澤 ) あの頃はホントに・・・・・子供だったんでしょうねぇ。やっぱり正道会館のあり方と、自分がいたときの極真会館のあり方は真逆にあって。「黒澤さん、そんなこと言ったって正道はこうなんですよ」とか「極真はこうなんですよ」とか、いろんなことを言われたりすると、俺はずいぶんきれいなところだけ見てやってたのかなって。

 

( 黒澤 ) 総裁と食事したとき、佐竹さんがまだこっちで稽古したりしてた時期で、佐竹さんと街ですれ違ったことがあるんです。「こっちは挨拶したんですが、向うは何も返さなかったんです」って言ったら、「君ィ、どうしてそこで叩きのめさなかったんだ!」と。

( 吉田 ) ダハハハハ!「それが極真だ」と。

( 黒澤 ) 「やらなくちゃダメだよ!」「それが極真だよ!」みたいなことを、総裁が亡くなる1年前、池袋の中華料理屋で言われて。まだそんなこと言っちゃうのか、言っちゃってもいいわけ?みたいな(笑)。

( 吉田 ) 90年代にもなってまだ(笑)。

( 黒澤 ) 緑健児が優勝して自分と増田章が呼ばれたときですよ。「君ィ、そういうときは、その場で叩きのめさなきゃダメだよ。なんでやらなかったんだ、だから君は世界チャンピオンになれなかったんだ!」と(笑)。

( 吉田 ) ダハハハハ!そのせい(笑)。

 

 

他人が抱く自分のイメージについて

 

( 吉田 ) この辺りで話を戻すと、これまでに黒澤さんの本を出す人もいたけれど、そのお金は全然入ってなかったってことなんですかね。

( 黒澤 ) そうですね。本を書いていただいたときにはその人なりの黒澤浩樹像みたいなものがあるんですけど、それも主観なんですよ。

( 吉田 ) その黒澤浩樹像とズレてくると、向うはモヤモヤしてきたりもするわけですよね。

( 黒澤 ) 簡単に言うと、気に入らないんですよ。「こうじゃないと黒澤浩樹じゃない」って。 

( 吉田 ) 黒澤浩樹は取材嫌いでニホンオオカミみたいな極真空手家のはずなのに、どうしてPRIDEとかKー1に出てるんだよ!って。

( 黒澤 ) そうなんですよ。自分はイメージをすごく持たれやすいんですけど、くだらないことにこだわらないでいかなきゃなって。だから、組織が分裂してまたくっついてとか見ても、好きにやったらいいんじゃないかとか、もう極真にこだわらないで自分の腕で築き上げていったほうがいいのにとか、そんなふうに思った時期もあるんですけど、いまはそういうことすらも気にならなくなって。

 

 

試合に勝てなくて多摩川と横浜港に飛び込んだ話とかも。凄すぎる。そんな空手家が他にいるのか!しかし・・・人間そう簡単には死なないという話なのですが、黒澤氏の早過ぎる死という事実が訪れた今となっては、複雑な思いを抱いてしまいますね・・・・・。

 

( 黒澤 ) 生徒とはいろんな話をするんですけが、「おまえら死ぬ死ぬってよく言うけど、人はそう簡単に死ねないよ」と。〈中略〉全然勝てないんで、もう死んでやれと思って多摩川に道着を全部投げ捨てて、自分も多摩川に飛び込んだことがあったんですよ。ところが、飛び込んだら、あまりにも冷たいんで、「死んじゃう死んじゃう!」って言いながら勝手に泳いで岸まで出てきて、そして「死にそうだ、死にそうだ!」って震えてタクシーに乗って家に帰ったことがあるんです(笑)。

( 吉田 ) 体力があればなんとかなる(笑)。

( 黒澤 ) 人間ってよっぽど腹が据わってないと、気がついたときには防衛本能が働くから、そう簡単に死なないよ、と。それから何年かして、今度は横浜港に飛び込んだんです。

( 吉田 ) えぇーっ!!

( 黒澤 ) それも12月なんですよ。バーンと飛び込んだら、やっぱり寒くて。なおかつ、川と違って海は潮があるから余計に冷たくて、そのときもやっぱりタクシーで帰って(笑)。

 

( 黒澤 ) 〈中略〉「だからそう簡単に死ねるもんじゃないよ。ということは、相当根性がないと自殺できないよ。おまえら死ぬだけの根性はあるのか?中途半端になると苦しいぞ。だったら乗り越えろ」と生徒に言うんです。死ぬ気でやるってことは大変なんだけど、でも死なないから。そう言うと、なんか納得してるみたいなんですよ。もしかしたら自分はそういうことを言うために、神様に試練を与えられてたのかな、と。

 

 

トレーニングについても話しています。黒澤氏の現役選手時代、筋トレのスクワットで確か330か340kgを挙げた時、膝はバキバキと音を立て、毛細血管が切れて鼻血が出たというエピソードを記憶していますが、そんな話を聞くと、もはや数字で示される筋力の凄さを超えた精神的なものの強靭さを感じてしまいますね。

 

( 吉田 ) 常にオーバーワークでしたもんね。

( 黒澤 ) 何かもがオーバーワークで、オーバーワークじゃないと安心できない。怖がりもあると思うんで。だから血尿が出ないと安心できない。よくないですけど。だから砂袋を蹴ると毛細血管が切れてそれがオシッコから出るだけだったんですけど、でも頑張って蹴ったりとか。でも、辛かったことと楽しかったことだと、辛かったことのほうが人はみんな記憶に残っている。たぶんそれが人間の成長の糧になってると思うので。だから、「俺なんか勝ってる試合も負けにさせられたよ、指がグチャグチャになったよ」って言いますけど、でもそれもう1回やってみろって言われたら、「もういいです」ってなるので。だから、格闘技の本なんかで「そういう思いをしたのは極真で黒澤さんだけですよね」って言ってくれると、ちょっと心のなかでは「そうそう、俺ってすごいでしょ?」っていうのがあるんですけど(笑)。

 

 

失われていない闘志

 

( 吉田 ) 考え方が変わってきたんですね。

( 黒澤 ) でも、やっぱり奥底で眠っている・・・・・グローブを着けてスパーリングやっているときは、いまだに叩かれたら倍にして返すみたいなのはちゃんとあるんだな、と。根底には打たれたら3倍返し、5倍返しみたいなところはあるんだけど、でもそれを表に出すんじゃなくて、それがエネルギーとなっていけばいいんで。 

 

 

自分の哲学についても語っています。ここでの話しは興味深いものになっていますね。人間歳をとって丸くなると、周囲の人としゃべるし、周囲の人の方からも話しかける程、馴染んで溶け込んでいく・・・黒澤氏はこれを "空気のようになる" と表現しています。こうなると人は周囲から浮き出る豪傑のような存在にはならないはずだ、と黒澤氏は語っています。多分、昔の黒澤氏ならば、むしろ、周囲に馴染まない豪傑のような存在の方に惹かれていたのかもしれないのに、晩年にはそうじゃないよ、というその哲学。黒澤氏の全盛期を知っているならば、驚きを覚える人もいるかもしれません。でも、そこには人間とはやはり周囲との関係性の中で生きていく動物なんだ(※1)、という事を客観的に分析出来る程の心境に達している晩年の黒澤氏がいるという事です。もちろん、そんな事を弱い人間が言ったって、説得力がないけど、幾多もの激戦の中を生きてきた黒澤氏の言葉だと色々と考えさせるものがある事は間違いないでしょう。

 

( 黒澤 ) 「英雄色を好む。いくつになってもいい女をはべらしてないと男は強くなれないよ」って総裁は言ってましたけど、自分としては違うよ、と。それはある程度までいくと、そういう欲はどんどんなくなっていってホントに丸くなる。そして空気のようになってきて、いつまでもこの人と話していたいなっていう気持ちになるから豪傑にはならない。総裁も歳をとって、90とか100歳くらいまで生きてらしたら、そういうふうに変わったかもしれない。

 

 

なんとVシネマについても語る。この辺はかなり面白いです。

 

( 黒澤 ) 仁義なき戦い』はバイブルでした。何年か前に久々に観たんですけど、俺なんでこんなのにハマッたのかなって(笑)。

( 吉田 ) 極真の人があれにハマるのはわかるんですよ。極真っぽい部分がありますからね。

( 黒澤 ) そう!ありますよね。あれを立て続けに観て、小笠原(和彦)先輩とかとそういう話をしてたなあ・・・・・。〈中略〉・・・、『首領への道』っていうVシネマのシリーズがあって、俺もこんなのに出て関西弁で演技してみたいなと思って、それでいろいろ頼み込んで。

( 吉田 ) 自分から頼んだ!

( 黒澤 ) ちょうどK-1の試合が一段落したときに、田代まさしさんがVシネマの仕事をやってて、『広島四代目』っていうVシネマの親分役で出てくれって言われたんですよ。で、行ったら田代さんに「黒澤さんじゃないですか!黒澤さんが来るんだったらもっといい役をやってもらいたかったです」と。加藤雅也さんとか、共演者もみんな空手とか知ってるんで、「なんで黒澤がいるんだ!?」みたいな感じで。言えないじゃないですか、「自分、ちょっと出たかったんですよ」って(笑)。ミーハーって思われちゃうから。だから「いや、ちょっと知り合いにどうしてもって言われたんで」って感じで。

 

 

プロレスの話も。長州力が好きだったとは。

 

( 吉田 ) 初出場で初優勝した84年の全日本大会の直前に、藤波と長州の試合を観ていた、みたいな話も本に出てましたね。

( 黒澤 ) ああいうのもすごく共鳴しましたね。

( 吉田 ) 共鳴してたんですか!

( 黒澤 ) 共鳴しましたね。そのちょっとあとに長州さんが独立して。ウチの兄貴が銀行員だったんで、たまたま「浩樹、いま俺、五反田支店でジャパンプロレスと取引があるんだよ」って、チケットをよくもらって観に行ったりとかして。長州力、大好きだったですね。だから変にプロレスを否定することもないし。

〈中略〉

( 吉田 ) しかし、黒澤先生がこんなに饒舌だとは思わなかったですよ!びっくりしました!

 

 

 

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 (※1)

これに対して『 誰も学ばない、誰も知ろうとはしない、誰も教えない。一孤独に耐えることを。孤独に耐えてこそ、それを真の武士道という。』という黒澤氏の言葉がありますが、もちろんこれは "精神的な" 意味で解釈すべきであって、物理的に孤独になるような振舞いをする事を意味しないのは言うまでもないでしょう。

 

 

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