哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 4 〉

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 ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 3 〉からの続き

 

 

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 6. ハネケが無意識に考える集団的なもの

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a.   実は、ハネケが集団的なものの謎めいた不特定性を描いたのは『 白いリボン 』が初めてではありません。彼は既に、『 隠された記憶 』( 2005 ) の結末でも、集団的なものの不気味な不特定性を提示しています。学校の出口に溢れる子供たちの集団の左下で、ジョルジュとアンヌの息子であるピエロ ( 黒のリュックを背負った左向きの背が低い子 ) がマジッドの息子 ( Tシャツを着て右向きの背の高い方 ) と立ち話をする箇所が、両親を事件に巻き込んだ犯人の1人がピエロではないかと匂わせる場面ですね。

 

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b.   ただ、残念ながら、ハネケの思惑は全く空振りに終わっています。というのも、ほとんどの観客はピエロとマジッドの息子に気付かないからです ( 笑 )。ハネケとしては画面に彼らをひっそりと仕込むことで思わせぶりな演出をしたかったはずです。彼らが事件の犯人だろうという推測に対して、それも解釈のひとつに過ぎないというハネケ節で答えるつもりだったのでしょう。インタビューでピエロたちが気付かれなかったことを少し嘆いていたくらいですから。

 

 

c.   話を集団的なものに戻しながら、『 隠された記憶 』のラストシーンについて考えていきましょう。この映画は、ピエロの父であるジョルジュ ( ダニエル・オートゥイユ ) が少年の頃、養子にきたマジッドを家から追い出すように仕向けた過去が、父親になった彼に "復讐というようなもの" として回帰してくるという話です。

 

 

d.   なぜ "復讐というようなもの" という曖昧な言い方をするかというと、それがマジッド自身によっておこなわれるものではないからです。それはマジッドの息子とジョルジュの息子ピエロによって仕組まれたものです。しかも、それは、おそらくマジッドが仕向けたものではなく、マジッドの息子が父親から聞いた話を自分の犯罪のために利用したと解釈出来るものなのです。

 

 

e.   つまり、ハネケは『 隠された記憶 』で、ジョルジュの過去の過ちが、復讐という形ではなく、息子たちによる犯罪という形式で回帰してくる様子を描き出している訳です。しかし、ここで注意しなければならないのは、過去の過ちが復讐として回帰してくるのでないのなら、過去の過ちという設定自体が意味の無いことになりかねません。( マジッドが ) 復讐するのでなければ、何の為に回帰するのかという哲学的疑問が起こってしまいますね。ジョルジュが秘かに抱えていた罪の意識 ( マジッドへのひどい仕打ち ) がトラウマとして顕在化し、それに直面したのだという精神分析的解釈も可能なのですが、それが当事者ではない別の主体 ( 子供たち ) の犯罪的欲望に利用されるという形で為されるのであれば、ここには "回帰" とは違う別次元の要素 ( 子供たちの "犯罪欲望"  ) がハネケによって強引に接続されてしまっていると解釈しなければなりません。仮にここで、ジョルジュのトラウマの回帰説を第一義的なものとして認めてしまうと、子供たちの犯罪的欲望に大義名分を与えてしまうという危険性に陥るからです。

 

 

f.   整理すると、ジュルジュとマジッドという親同士の過去の諍いを清算しようとする倫理的決着を彼らの子供たちが実行したのだという復讐物語的解釈ではなく、息子達は自分らの犯罪欲望のために親同士の諍いを利用したのだという欲望的解釈の方に向かうべきだという事です。普通ならば、そこから、そんな異常な親子関係・家族関係を掘り下げる方に話は進んでいきそうなものですが、ハネケは違います。子供たちの内面性が示されることはほとんどなく、たんに彼らが親に対して犯罪的行為を為す行為が積み重ねられ続いていくばかりです。

 

 

g.   これが、どういうことかというと、彼らが家族関係における子供という存在であることがハネケにおいては大して問題ではないという事です。これは『 白いリボン 』の子供たちと同じく、社会における子供という存在を通じて、悪がどれほど犯罪的欲望の源泉として機能しているかを描いていると考えるべきものなのです。そして、この悪はピエロとマジッドの息子という2人組において発生します、『 ファニーゲーム 』の凶悪犯の2人と同じく。これはハネケにおいては、2人組というものが人間関係における軋轢や矛盾・敵対性などを示す指標となっていると解釈出来るでしょう。

 

 

h.   ただし、ハネケは、この2人組という結びつきに主体的反省を加えて内面を掘り下げる方には進みません。それらが自らの振舞いを通じて外部への接続を求める事自体が欲望、それも集団的なものの欲望となっているのをハネケは描き出しているのですが、それによって、悪とは、そのような "集団的なものの欲望における無反省" が体現されてしまったものだと解釈出来るのです。その意味で、『 隠された記憶 』のラストシーンは、ピエロとマジッドの息子において発生した悪が、周囲の人間に拡大していくかもしれない不気味な未来を予感させているといえるでしょう。

 

 

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ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 3 〉

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  ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 2 〉からの続き

 

 

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 5. 悪の出現

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a.   ようやく、ここにきて『 白いリボン 』におけるハネケの無意識的狙いを哲学的に解釈出来ますね。そのためには、ハネケの『 ファニーゲーム 』を念頭に置いておく必要があります。『 ファニーゲーム 』は通常は大雑把に暴力的映画として語られてしまうのですが、この映画は暴力ではなく、""、それも悪の暴力的行為についてではなく、"悪の出現" 、あるいは "悪の生成" 、についての映画だといえるのです。

 

 

b.   ハネケは『 ファニーゲーム 』について、次のように言っています。

 

( ハネケ ) この映画は、挑発という点において、私が望んだように機能してくれて、何人かの人たちを激怒させることになりました! しかし、実際には、観客が激怒しなければならないのは、自分自身に対してなのです。この映画を最後まで観ることのできた人はそれに相応しいと私はずっと思っています。なぜなら、彼らを上映室に残るように強いるものは何もないのですから。私の目的は、暴力の真の姿を見せること、そして、観客がいかにして虐殺者の共犯になりえるかを示すことにありました。

 

ミヒャエル・ハネケの映画術 彼自身によるハネケ 』 ( ミシェル・スィユタ / フィリップ・ルイエ 訳・福島 勲 水声社 2015年 ) p213.  

 

 

e.   今一度、確認しておくと、ハネケが『 ファニーゲーム 』で試みようとしたのは、殺人者たちと観客との共犯関係に他なりません。共犯関係・・・これは細かな解釈が必要な概念だといえるでしょう、少なくとも、ハネケが示そうとする哲学的身振りにおいて。ここで最も避けるべき凡庸な解釈は、ハネケは殺人行為の傍観者たる観客に罪の自覚を求めているという擬似神学的なものです。残念ながら、その解釈では、共犯という関係性によって接続された結果としての "殺人犯観客という集団的なもの" において、いかなる力学が働いているか、が見えてこないのです。

 

 

f.   では、集団的なものにおいて作用する力学とは何か。それは "権力" です。 ただし、ここで注意しなければならないのは、ここで言う "権力" は政治的パワーゲームとしての権力ではないし、"集団的なもの" に関しては、指導者とそれに従うフロイト的集団心理学が適用できる集団の深層心理ではないのです。

 

 

g.   ここで言う "権力" とは、政治以前の権力、つまり、人間が何人か集まると自然発生する "支配的力学" だといえるでしょう。この "支配的力学" は集団的の内部で働く場合もあれば、集団の外部に向かう場合もあります。例えば、内部の場合、子供たちが通う学校の1クラスでのいじめを考えてみましょう。何らかのきっかけである子供がいじめの標的となるとしても、そこに直接的には関わりのない周囲の大多数の子供たちが細かい事情を知らなくとも、標的の子供をいじめるという雰囲気を共有することで支配的力学を無自覚に形成するのです ( もちろん、そこにはいじめに関わっていない子供たちもいるのですが、いじめを "知っている" 事で支配的力学に関わっている )

 

 

h.   これと似たような事例はスラヴォイ・ジジェクの小話にも見出すことが出来ます。どこで読んだかは忘れたのでうろ覚えですが、ジジェクは次のような話をしています ( スロヴェニア出身の彼は一時期、東欧にちなんだ小話や経験談を定番的に用いていた )。ある戦争に衛生兵として参加したジジェクは、兵士たちのテントでの隠語による卑猥な会話を理解出来ない真面目な1兵士が、話を理解する皆に嘲笑されてしまう状況を目の当たりにします。ジジェクがここから引き出す結論は、真に "猥褻" なのは、兵士たちの会話ではなく、真面目な兵士をあざ笑う集団性であり、それこそが隠れた権力の "卑猥さ" に他ならない、という事です。つまり、集団性には、人間が人間を標的化する事で自らを維持しようとする権力の萌芽が猥褻的に潜んでいると解釈出来る訳です。これこそが、権力は "下から発生する"ジジェクが言うところの意味だといえるし、ここには、"どんな集団であれそこには何らかの権力が発生している" 、と付け加える事が出来るでしょう。

 

 

i.   ここで、今度は、 g. で述べた集団が外部に向かう場合を考えてみます。これこそが、『 白いリボン 』においてハネケが描き出す、集団的なものの支配力学が "" の出現基盤として権力を振る過程なのです。『 白いリボン 』の子供たちは幾つもの犯罪行為を犯すのですが、それははっきりと明示されないし、子供たち自身も自らをプロの犯罪集団とは意識していません。彼らは、子供たち同士の何となくの結びつき ( それは集団の明確さを未だ持ち得ていない故に "集団的なもの" と呼ぶべきでしょう ) の中で犯罪行為を "歪んだ無自覚さ" を以って為すのです。

 

 

j.   子供たちがその支配力学を外部に向けるというのは、標的に対して具体的な行動化を起こす ( 犯罪行為 ) という事なのですが、その過程において集団的なものは、標的へのアクティング・アウトと同時に、集団的なものにおける内部性である結びつきを外部へと拡張させて接続を求めようとする事です。犯罪を犯しながら集団的接続を求めていく。 『 ファニーゲーム 』の殺人犯は観客と結びついていく。いじめを行う生徒たちは、周りの傍観者を引き込もうとする。『 白いリボン 』の子供たちは、犯罪行為を行いながら自分達の集団性を形成し、大人の目を眩まそうとする。いずれも、集団性という構造が、犯罪行為の責任主体を炙りだすどころか、消失させる機能を作動させてしまうのです。これによって集団的なものにおける支配的悪の出現が可能になるといえるでしょう。誰が犯人なのかは分からないという不特定性がさらなる悪の行為を連鎖させる訳です。

 

 

k.   そして『 白いリボン 』における子供たちが恐ろしいのは、自分が子供であるが故に犯罪から遠い無邪気な存在であるのを大人に対して演じられると "信じている" 点です。それを見破られそうになり子供たちが焦る以下の場面。

 

   子供に問いただす教師。もう既に教師は、子供たちが事件の犯人であるのに気付いている。子供たちも教師の考えていることを察して内心追い詰められ、親を呼ぼうとする ( 15~30. )

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l.   教師の追及は、子供たちの親の介入によって失敗してしまうのですが、これによって、真犯人が誰だか分からないように謎めいた結末をハネケが用意したのだと考えてしまうのは余りにも平凡すぎるといえるでしょう。ここで、刺激的な哲学的解釈をするならば、ハネケは結末を謎にしたのではなく、犯人が誰だか分からない不特定性を本質とする集団的なものの最悪の権力行使を "はっきり" と描いたのだという事です。そして、最終的には、この集団的なものは、子供という階層を超え、子供を取り巻く尋常ではない大人たちを超え、人格を超えた猥褻な権力の原型である "村それ自体" として象徴されるに至る訳ですね。

 

 

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■ ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 4 〉に続く

 

 

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ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 2 〉

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 ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 1 〉の続き

 

 

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 4. ハネケのアプローチ

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a.   以上の事を踏まえた上で、『 白いリボン 』について考えていきましょう。多くの人が気付いているように、この作品はドイツの村での陰鬱な出来事がナチスの到来を予感させるものとして描かれています。ただし、気を付けなければならないのは、ハネケはそれをはっきりとは明示してはいない、という事です。村で起きた事件の首謀者が、おそらく "子供たち" である ( それもはっきりとは明示されていないが、そうであろうと思わせるストーリーになっている ) ことが、その後のナチスの台頭における担い手世代としての予備軍である、と解釈させるという意味で、ナチズムを "迂回的に" 描いているのです。このことは『 白いリボン 』のドイツ語原題である Das weiße Band の副題、Eine deutsche Kindergeschichte ( ドイツの子供たちのある物語 ) を見れば明らかでしょう。そして geschichte が "物語" と同時に、"歴史" を意味することを考慮すれば、『 白いリボン 』における子供たちの物語がその場限りのものではなく、ナチスの到来に繋がる歴史でもある事が自ずと理解出来るはずです。

 

 

b.   しかし、ここで注意しなければならないのは、副題、"Eine deutsche Kindergeschichte" の訳です。普通に訳すと、先に記したように、"ドイツの子供たちのある物語" になるのですが、ハネケは、これだと "ドイツの固有性のみ" に焦点が絞られるとして、この訳を否定するのであり、それどころか、この副題をドイツ語圏以外では削除させているのです。この経緯についてのインタビューが以下。

 

( インタビュアー ) 作品の副題 「 Eine deutsche Kindergeschichte 」がドイツ語圏以外では訳されないようにしていましたが・・・・・。

 

( ハネケ ) その通りです。私はその翻訳 (子供たちについてのドイツのある物語 」であって「 ドイツ人の子供たちについてのある物語 」ではない ) が外国の観客たちに、作品がドイツ固有の問題を扱っているという風に思わせてしまうのを恐れたのです。( ・・・ )。この副題がドイツ人と彼ら固有の歴史とを結びつけているのは明らかです。しかし、ドイツ語を知らない人々にも、この寓話が彼らの国でも同様に起こり得たのだと考えられるようにしたかったのです。

 

ミヒャエル・ハネケの映画術 彼自身によるハネケ 』 ( ミシェル・スィユタ / フィリップ・ルイエ 訳・福島 勲 水声社 2015年 ) p355.

 

 

c.   普通に考えると、「 Eine deutsche Kindergeschichte の訳は 「 ドイツ人の子供たちについてのある物語 」でも十分なのですが、ハネケが敢えて、それを「 子供たちについてのドイツのある物語 」とするのは、彼がドイツという "個別性" と、それが同時に、ドイツに限らない "普遍的な問題" でもある事を、"同時に" 考えさせようとする哲学的身振りから来ていると解釈出来るのです。

 

 

d.   このことを理解するには、「 子供たちについてのドイツのある物語 」という訳について細かく考える必要があります。ここで気付くべき事は、ハネケは、子供を "直接的対象" にしているのではなく、どの国でも共通の子供という "一般的存在""媒介" にして、その一般的存在に個別的問題 ( この映画の場合、ドイツの子供教育 ) が注ぎ込まれた場合、何が起きるのかという事を描き出そうとしているのです【 ※ 】。なので「 子供たちについてのドイツのある物語 」をもっと哲学的に修正するならば、「 子供たちという一般的存在の位相から描き出されたドイツの固有性問題 」とする事が出来るでしょう。このテーゼが、ドイツは他の国々に置き換えることの出来る普遍的なものである事は言うまでもありませんね。

 

 

e.   この "個別性""普遍性" への "同時的" アプローチこそが、この映画に埋め込まれているハネケの哲学的試みであると解釈出来るでしょう。それは個別的アプローチへの同一化を拒否するものであり、3. で述べた "神聖対象""表象不可能性" 、などのような特定の対象への固着化に潜む秘匿的抑圧に同調するのを防いでくれるのです。

 

 

f.   このアプローチの良い所は、悪の普遍性に対する根源的洞察、つまり、"悪の出現" について考察するのを可能にしてくれる点です。そのアプローチが、なぜ、個別性に拘っていては出来ないのかというと、ホロコーストという神聖対象の行き着く先は、 "個別 ( ナチスドイツ人 ) ""個別 ( ユダヤ ) " という人種間対立において悪の問題が局所化されてしまう以外にないからです。当然、そこでは悪はナチス以外の何物でもないのですが、そうすると、ナチス以外の悪について考察する余裕はないという事になり、悪の普遍性に関する一般的考察は必然的に失われていく訳です。

 

 

g.   もちろん、ハネケは個別性それ自体を否定しているのではありません。彼は、普遍性についての考察や解釈などの哲学的身振りが、個別的対象を中心とする圏域の中に囚われて身動き出来なくなる事を無意識的に嫌がっているのだと解釈出来るのです。だから、彼は自分の映画が、何らかのカテゴリーやルーツ、考察、解釈、などによって、特定化される事に常に抵抗しています。

 

 

h.   それが顕著に表れているのが、この映画における "子供たち" の取り扱い方だという訳です。ハネケの関心が、子供たち及び、子供たちへの教育方法に向かい、ひいては、その子供たちが成長した頃にはナチスイデオロギーを担う世代になるのを予感させる流れをこの映画で作り上げているのは間違いありません。ただし、ハネケはインタビューでこうも言っているのです。

 

( インタビュアー ) どうして時代を1913年から1914年に設定したのですか。

 

( ハネケ ) ドイツ語話者として、20年後、ナチスを政権に導いてしまう世代の少年期を扱いたかったのです。しかし、それと同時に、話を広げたいとも思っていました。ある理想を絶対とし、ある考えをイデオロギーとしてしまうことが常に危険であるということを示したかったのです。当然のことながら、今日、イスラム原理主義者に関して起きていることとは、細部において異なっています。しかし、問題の核心はいつも同じです。

 

ミヒャエル・ハネケの映画術 彼自身によるハネケ 』 ( ミシェル・スィユタ / フィリップ・ルイエ 訳・福島 勲 水声社 2015年 ) p355. 

 

 

i.   ここで、何が言いたいかというと、"個別性""普遍性" への "同時的" アプローチをしようとするハネケの試みにおいて、"子供たち" という表現で示唆されるものをどう考えるかによって、哲学的解釈を深められるかどうか決まるという事です。既にc. で記したように、ハネケが言う "子供たち" とは、普通の常識とは違い、父親や母親などの家族と同格であるような存在なのではありません。ここでの "子供たち" とは"個別性""普遍性" を繋ぐための "媒介物" なのであり、人格的なものではないのです。では人格的なものでなければないのなら、何かというと、それは "集団的なもの" だといえるのです。この場合、"集団的なもの" とは、人格的な個人の集まりの事をたんに指しているのではなく、ある事象の出現を可能にする力学が作用する上で必要な基盤であると解釈すべきものです。

 

 

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【 ※

  『 白いリボン 』においては確かにドイツのかつての子供教育であるシュレーバー教育を思い起こさせる場面があります。かつてのドイツでは教育家ダニエル・ゴットロープ・モーリッツ・ シュレーバー ( 1808~1861 ) によって提唱された厳格な子供教育、及び矯正器具を用いた身体矯正教育の時代があったのです。以下はそれを思わせる場面。長くなりますが見てみましょう。

 

・   牧師は、最近、様子のおかしい息子のマルティンに対して自慰行為をしたのかと問いただす( 1~14. )。牧師はここで自慰行為のやりすぎで亡くなった少年がいるという架空の話で息子を怖がらせ、事実を話させようとしています。もちろん、例によってハネケは、ここで自慰行為という直接的表現を使っていないのですが、それが逆に、この場面の緊張感を増幅させています。

 

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・   ここで興味深いのは、場面2~5. で使われている言い回しです。"神様が聖なる覆いで守っている・・・" ( 場面2. )。"繊細な神経に害をなす者に出会った" ( 場面3. )。"最後は全部の神経が犯されて死んでしまった" ( 場面5. )。これらの独特な言い回しに異和感を覚えた人もいるでしょう。婉曲表現にしては特殊すぎる、と。

 

・   おそらく、ハネケは、これらのシークエンスでは、モーリッツ・シュレーバー像を投影させている牧師に、モーリッツ自身ではなく、彼の息子であるダニエル・パウルシュレーバーが自伝『 ある神経症者の回想録 』で展開した異様な "神経概念" を語らせているのです。モーリッツの厳格な教育を受けたパウルは、"神経言語""神との神経接続""脱男性化"、などの妄想を後に言語化するにまで至る精神病を発したことで知られる人物なのですが、現代思想では、フロイトラカン、カネッティ、ドゥルーズ、らによって取り上げられ、父親以上に注目を浴びる存在になっていますね【 ※ 】。

 

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   この後、マルティンは自慰行為が出来ないようにベッドに身体を固定されてしまうのですが、近所で火事が起きた時に動けない為に兄弟に矯正具をはずすよう求める場面 ( おそらくシュレーバー教育の知識がない人にはピンとこない場面 ) があります。何気ない場面ですが、こんなところにもハネケの細かい演出が為されています。ただし、気を付けなければならないのは、以上のシークエンスを以って、『 白いリボン 』がモーリッツ・シュレーバーの子供教育の問題点を扱った映画なのだと決め付けないようにすべきだという事です ( そういう見解の人もいますが )

 

   既に、述べたようにハネケは『 白いリボン 』がドイツ固有の問題のみを扱った映画だと解釈されて普遍性を失うことにかなりの警戒感を持っています ( ドイツ語圏外の国では副題を削除させたことに表れているように )。用心深いとさえいえるでしょう。その用心深さが最も表れているのが、以下のインタビュー ( おそらく、シュレーバー親子についてはほとんど知識の無いインタビュアーが辛うじて知っている心理学者アリス・ミラー 〈 児童虐待心理的問題を論じている著作で有名 〉 を引き合いに出してハネケにインタビューする箇所 )

 

( インタビュアー )   犯した過ちを罰せられたのち、純粋無垢さの回復を象徴する白いリボンをつけるというアイデアもそうした読書から見つけたのですか。

 

( ハネケ )   ええ。児童教育に関するアドバイスを書いていた19世紀の著者の本にありました。ただ、どの著作だったかはもうわかりません。それほどたくさん読んだのです!

 

( インタビュアー )    それはアリス・ミラーの著作ではありませんか?

 

( ハネケ )    いいえ、違うとおもいます。その精神分析医には詳しくて、著作は全部読んだはずです。彼女は実践可能な具体的な例は絶対に出しません。最も役に立った著作は、現実に起きたケースを個別に記述している本です。教育の分野において、多くの善意が悲劇にいたっている例の多さにはびっくりさせられました。

 

  自分が参照した本がアリス・ミラーではないと言いながらも、何を読んだかを明言しないハネケの用心深さ・・・。アリス・ミラーに詳しいと言う彼が、ミラーでは太刀打ち出来ない世界観を持つシュレーバー親子の名前を忘れるはずがありませんからね。彼は自分の仕事や意図が特定され個別化されることに抗う普遍性への意志がよほど強いのでしょう。

 

【 ※

  ダニエル・パウルシュレーバーについては以下の当ブログ記事を参照。 

 

  ただし、以上の記事は僕独自の哲学的視点からのバイアスが掛かった記事なので、より学術的視点に興味のある方は以下のPDFを参照して下さい。記事で取り上げている平凡社版『 シュレーバー回想録 』の訳者の1人である金関 猛による分かりやすい講演 ( 岡山大学 2015 ) が読めます。そこでモーリッツ・シュレーバーの考案した矯正器具図を初めて見る人はちょっとした驚きを覚えるでしょう。

 

http://eprints.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/56886/2019070310112635947/rpkj_2019_001_012.pdf#search=%27%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E6%95%99%E8%82%B2%27

 

 

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ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 3 〉に続く

 

 

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ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 1 〉

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公開 : 2009年 

監督 : ミヒャエル・ハネケ

脚本 : ミヒャエル・ハネケ

 

出演 : クリスチャン・フリーデル   ( 教師 / エヴァと結婚する )

   : エルンスト・ヤコビ      ( 語り手 / 過去を語る年老いた教師の声役 )

   : レオニー・ベルシュ      ( エヴァ / 男爵家の乳母 )

   : ウルリッヒ・トクル      ( 男爵 )

   ウルシナ・ラルディ      ( 男爵の妻 )

   : ブルクハルト・クラウスナー  ( 牧師 )

   ライナー・ボック       ( ドクター )

   : スザンヌ・ロタール      ( 助産婦 / ドクターと肉体関係にある )

   ヨーゼフ・ビアビヒラー    ( 男爵家の家令 )

   : フィオン・ムーテルト     ( ジギ / 男爵家の長男 )

   : エディ・グラール       ( カーリ / 助産婦の息子 )

   : レオナルト・プロクサウフ   ( マルティン / 牧師の長男 )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 白いリボン 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。

 

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 .   ミヒャエル・ハネケが描き出そうとする事

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a.   『 白いリボン 』でミヒャエル・ハネケは何について語ろうとしているのでしょうか。そう思わせるほどの謎めいた世界観 ( この映画を観たほとんどの人は、そこで何が語られているのか理解するのが難しいはずです ) が、この映画では構築されているのですが、そこには、ハネケの哲学的思索が大きく反映されていると考えるべきです。そのことが、この作品を他とは違うものとして際立たせているのですから。

 

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 2.   悪の記録

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a.   では、彼の哲学的思索とは何か。率直に言って、それは、""、もっと正確に言うなら、"悪の出現" についての考察であると解釈出来るでしょう。『 ファニーゲーム 』( 1997 ) で描かれた "純粋な悪"、つまり、"悪の無意味な ( 無慈悲な ) 殺人行為" というテーマが、『 隠された記憶 』( 2005 ) を経て、この『 白いリボン 』で "悪の出現" というテーマへと秘かに移行しているのです。

 

 

b.   純粋な悪の行為が、ほとんど見るに耐えないものである事を『 ファニーゲーム 』は示したのですが、それは明らかに、その作品を見る観客への訴えを直接的に取り入れている ( 殺人犯は露骨に画面に向かって、私たち観客への挑発的態度を取っている ) という意味で、残酷なものを眺める観客自身に自分達の立場について考えさせようとするものになっています。

 

 

c.   その事の意味にピンと来ない人は、現実の凄惨な事件を思い出してみるといいでしょう。私たちが目を背けたくなるほどの個別の残酷事件がメディアによって報道される現実。そのような報道は、"悪の記録" であると哲学的に考える事が出来るとしても、それが犯罪に対する嫌悪による "倫理的抑止" になっているのか ( それは『 ファニーゲーム 』を観た大多数の感想でしょう )、それとも・・・一部の人間による新たなる犯罪への "欲望を引き起こす対象" になっているのか (ファニーゲーム 』の中の殺人犯の振舞いに悪の衝動を覚えること )、についてよく考える必要があるという事です。おそらく、答えは "その両方である" という事なのですが、注意すべきは、そのような事態が延々と繰り返されているという事です。そこにハネケが『 ファニーゲーム U.S.A. 』というリピート ( リメイクというより ) を行うことの狙いがあるといえるでしょう。

 

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 3.   欲望の対象としての悪

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a.   『 ファニーゲーム 』から引き出すべき教訓は、悪の "記録" は、時として、抑止効果以上に、新たなる悪を呼び起こす欲望の対象化作用の側面を肥大化させてしまうという事です。どういう事かというと、悪それ自体が残酷なものである事は、言うまでもないのですが、そこに付随する "記録化という機能" が、その悪を元の悪とは別の新たなる "欲望の対象" として生み出し、元の悪の上に重ね合わせてしまうのです。

 

 

b.   それの極限の象徴こそ、ナチスによるユダヤ人虐殺 ( ホロコースト ) を描いたクロード・ランズマンの映画『 SHOAH ショア 』( 1985 ) に他なりません。ホロコーストに関係した人々の証言を軸にした10時間近いこの "ドキュメンタリー的" 映画【 ※ 】は、公開当時、他の映画では見られない崇高さに到達しているかのように思われ、衝撃を以って受容れられました。それは、特に、現代思想に関わる人たちにおいて顕著であり、その結果、ホロコーストナチスの単なる悪の産物ではなく、人間行為の限界を超えた非道な出来事であるが故に、ホロコーストは表象不可能であるというテーゼが重視されるにまで至ったのです。

 

 

c.   たしかに、ホロコーストに単純な輪郭線を与えることは、様々な分析 ( 歴史、哲学、精神分析・・・等々 ) を綜合すると、難しいものであるのは間違いないでしょう。しかし、『 SHOAH ショア 』において問題なのは、関係者の証言という "当事者性" に暗黙の内に支配的な地位が与えられ、それ以外のアプローチが無意識的に抑圧されているという事なのです ( 言うまでもなく、『 SHOAH ショア 』に夢中になった人たちは、この "当事者の証言集" "リアル" を見出していた )。その事を示すエピソードが、多くのユダヤ人たちの命を救ったオスカー・シンドラーについてのスピルバーグの映画『 シンドラーのリスト 』( 1993 ) をクロード・ランズマンがドラマティックすぎると批判したことです。

 

 

d.   このランズマンの発言によって、多くの人は、『 シンドラーのリスト 』よりも『 SHOAH ショア 』の方がホロコーストについて真摯に扱った映画として優位さを与えるという擬似客観比較論に陥っていました ( もちろん、ランズマンの発言に批判的な意見もあった )。この比較がどうしようもないのは、『 シンドラーのリスト 』と『 SHOAH ショア 』の作品としての優劣関係を持ち出すような批判が、一体何を "対象" にしようとしているのか、ということについて批判者自身が気付いていない所です。

 

 

e.   そもそも、ランズマンとスピルバーグユダヤ人へのアプローチの仕方が違いが、映画製作において表されるのは当然であり、それが其々の映画の特徴を際立たせるものとなっているのは言うまでもないでしょう。まずいのは、そこにホロコースト"表象不可能なもの" として、つまり、それ以外の他の要素を秘かに抑圧してしまう "神聖対象" として導きいれる事です。ランズマンがスピルバーグを批判した時、彼はホロコーストを、"悪の対象" として見ていたのではなく、ユダヤ人、あるいはホロコースト、の理解 ( スピルバーグの ) が不十分であると批判するための "神聖対象" として見ていたと解釈出来るのです。ここにおいて、ホロコーストが、嫌悪しか感じさせない純粋な悪という対象ではなく、記録を媒介にした欲望の対象、それも他人への抑圧を秘かに欲望させる "神聖対象" に変貌している事の意味が分かるでしょう【 ※ 】。

 

 

f.   そして、最も最悪なのは、この "神聖対象" が、他人への抑圧どころか、他人への攻撃衝動の象徴的源泉として機能してしまうことです。ホロコーストという悪は記録される事によって、繰り返される事は抑止されるでしょう。ただし、それは他の悪を抑止する一般的禁止ではなく、ホロコーストのみを抑止する "個別的禁止" でしかないのです。実は、ここで議論は、c. に戻ってきています。つまり、"悪の記録" に伴う二つの機能、"倫理的抑止""欲望の対象化" です。

 

 

g.   ここでは、 "ホロコーストの記録" において奇妙な分離が起きています。"倫理的抑止" の点では、ホロコーストを繰り返してはならない、という倫理に訴える "個別的なもの" であるのですが、"欲望の対象化" という点では、ホロコーストではない他の個別的悪を為そうとする主体にとっての "普遍的なもの" となっているのです。ホロコーストという対象は、個別と普遍のふたつに分離ー分裂しているという点で、悪が抑止の目を逃れて欲望の源泉になりうること、つまり、悪それ自体が人間主体の欲望の一部になっているという意味で、普遍性の傾向を強く含んでいると解釈出来る訳です。

 

 

h.   この恐るべき傾向が、ホロコーストを暗黙の内に "神聖対象" として扱うことに含まれる危険性です。分かりやすく言うと、ホロコーストについての研究・分析を重ねれば重ねるほど、ホロコーストという個別性・特殊性に固着してしまい、ホロコーストの源泉であるはずの悪の "普遍性" についての解釈が失われていきます。そして、この "悪の普遍性" は、ホロコーストの記録と研究からは逃れていくものであるからこそ、ホロコーストの記録・研究は "悪" をどう位置付けていいのかわからなくなるのです【 ※ 】。

 

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【 ※

   "ドキュメンタリー的" と言ったのは、予備知識なしで『 SHOAH ショア 』を見た人が圧倒され、それを真実に限りなく近い "生の" ドキュメンタリーだと思い込むことに釘を刺しておく必要があるからです。今では『 SHOAH ショア 』にはランズマンの演出・編集が施されているのが明らかになっているという意味で、それはランズマンによって "火を通されたもの" になっていると考えるべきなのです。

 

   もちろん、それはやらせなどの低次元なものではなく、ランズマンが自分の思想、つまり、映像や文書・写真などの資料の集積体 ( アーカイヴ ) からでは掴みきれないホロコーストの悲惨さは "表象不可能である" という信念、に基づいたものであると理解する必要があります。それ故に、アーカイヴではない証言者の "" を重視した為に、製作・編集上の演出が掛かってしまうという訳です ( ただし、この映画の製作によってランズマンは証言者の声を結果的にアーカイヴ化している事に察しのいい方は気付くはず )

 

   そのような『 SHOAH ショア 』におけるランズマンの編集について詳細に ( ジャック・デリダ的な執拗さとでもいうべきか ) 論じたのが、アウシュヴィッツの巻物 証言資料 』( みすず書房 2019年、訳・二階宗人 ) の著者、ニコラス・チェアとドミニク・ウイリアムズです。特に、"結論 炎の輪を通り抜ける" p303~313. を参照。ただし、そこでの彼らの目的は、ランズマンを批判することではなく、ランズマンが自分の思想 ( ホロコーストの表象不可能性、あるいはアーカイヴの否定 ) にこだわる余り、"直接的には" 取り上げることのなかったゾンダーコマンド ( ユダヤ人から選ばれたユダヤ人の死体処理班 ) が何とか残した "文書" に、アーカイヴとしての光を与える事である点に注意すべきでしょう。

 

 

【 ※

   ホロコーストの人類史稀に見る残酷さゆえに、その特異性を歴史的相対化すべきではないとして、ホロコースト"当事者性""表象不可能性" を楯に異なる他者の意見を言説 ( ディスクール ) の次元で無意識的に抑圧してしまったのが、クロード・ランズマン、ジェラール・ヴァイクマン、ドミニク・ラカプラやソール・フリードランダー、に他なりません。彼らは "敵対性" を一体、誰に向けているのか、何に向けるべきなのか、について考えようとしない。そのようなホロコーストのイメージすら拒否する神聖化に反論したのが ジョルジュ・ディディ・ユベルマン (イメージそれでもなお平凡社 2009年、訳・橋本一)

 

" 語りえぬものにまつわる諸用語でアウシュヴィッツを語ることは、アウシュヴィッツに近づくことではなく、それどころか逆にアウシュヴィッツを遠ざけ、ジョルジョ・アガンベンが神秘的な崇拝にまつわる用語で巧みに定義した領域、つまりナチスの奥義自体の無意識的な反復という領域に近づけることである。" p37.

 

 

【 ※

   例えば、ナチス反ユダヤ主義の研究で著名なダニエル・ゴールドハーゲンクリストファー・ブラウニング。興味深いことに、彼らは第2次大戦中ドイツの第101警察予備大隊に関する "同じ" 歴史資料を参照しているにも関わらず、ドイツ人が犯した残虐行為について "違う" 結論を述べています。ゴールドハーゲンは、内面化された悪魔的反ユダヤ主義こそがホロコーストの原因なのだから、戦時中のドイツ人それ自体を "ユダヤ的主体" であるとして一般化しようとしている ( つまり、ドイツ人を反ユダヤ主義に対する "責任主体" として定立化すること )。これに対して、ブラウニングは、そのような "一般化" を警戒しているといえるでしょう。彼は、そのような内面化された反ユダヤ主義が一部のドイツ人に対しては妥当であるとしても、すべてのドイツ人がそうであるとするには単純すぎると考えるのです。反ユダヤ主義は、内面化された悪魔主義などではなく、内心は反ユダヤ主義に距離感を抱いている普通のドイツ人たちを形式的に従わせた "組織的イデオロギー" として強力に機能しているとブラウニングは考えます。だから彼は、ナチスドイツについての自著のタイトルを『 普通の人びと 』【 ※ 】としている訳です。

 

   この2人の間で起こっているのは、ナチス反ユダヤ主義についての研究が、どれほど掘り下げられても、悪の普遍性についての考察に容易に辿りつく事が出来ないのを示しています。というのも、悪の普遍性とは、よく想像されるような物事のさらなる深部にある神秘的謎などではなく、現前する私たち人間を強力に規定する基盤としての、人間関係性、つまり、支配的機能 ( 家族、友人、恋人、学校、職場、などの諸々のセクトにおける ) の暴力的行使のなかから、今まさに、常に既に、出現しているものだからです。その暴力的行使の目標とは、ターゲットの対象を、直接的・間接的に、いかに支配し、規定し、操るか、という事に欲望を注ぎ込む点にあるのです。

 

 

【 ※

   クリストファー・ブラウニング『 増補  普通の人びと 』( ちくま学芸文庫 2019年、訳・谷 喬夫 ) を参照。ここでブラウニングは自ら、ゴールドハーゲンとの相違を論じているし、訳者の谷喬夫も訳者あとがきで両者の見解について触れています。懸命にも、ここで、ブラウニングはゴールドハーゲンの解釈に対して、批判すべき点と評価すべき点とを選び抜き、出来るだけ公平であろうとしているのが読み取れる ( 特に増補  普通の人びとの "あとがき" p305~360. を参照 )

 

 

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ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 2 〉に続く

 

 

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マルクス・ガブリエルの『 なぜ世界は存在しないのか 』についての批判的考察

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   マルクス・ガブリエルの『 なぜ世界は存在しないのか 』・・・、この極端に単純化された哲学的説明によって覆われたこの本を読むと、僕は戸惑ってしまう【 】。この本でまず確認出来るのは、世界が存在しないことでもなければ、新実在論についてでもない。何よりも、"哲学を単純化しようとする著者の意志" です。それはおそらく、新実在論を世間に浸透させようとするための、そして新実在論哲学史に刻むための、著者の戦略なのでしょうが、それが徹底しているため、この本について真面目に考えることは果たして意義があるのかと自問してしまいます。単純化して考えるとは、結局の所、哲学的なものからの撤退になりかねないのだから。

 

 

   そして、そのような哲学の単純化が『 世界は存在しない 』という問題含みのテーゼを可能にしているとすれば、そのテーゼを批判的に考えることは、たとえ哲学に馴染みのない読者に分かりやすく伝える意義があるとしても、哲学の簡潔化の過程で省かれる余分なものや過剰なものが思考においてどれだけ重要な要素であるかということをも明らかにするでしょう。

 

 

   例えば、『 なぜ世界は存在しないのか 』 ( 2012 ) 以前に出版されたスラヴォイ・ジジェクとの共著である『 神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性ー 』( 2009 ) で垣間見えた理論的緊張が、そこでは排除されている・・・、哲学入門書という体裁のもとで。

 

 

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  1. "世界" と "包摂"

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" つまり数多くの小世界は存在していても、それらのすべてを包摂するひとつの世界は存在していません。これは、数多くの小世界がひとつの世界にたいする多様な視点にすぎないということでは断じてありません。むしろ数多くの小世界だけが ----- まさしくそれらだけが ----- 存在しているということにほかなりません "

『 なぜ世界は存在しないのか 』 p20.

 

 

a.   もしガブリエルの言うとおり、世界が存在しなければ、なぜ "世界という表現" があるのでしょう。世界が存在しないのなら、そもそも "世界という表現" は必要ないのではないかという事ですね。この点に関してガブリエルの説明は苦しく、ひとつの世界は存在しないが数多くの小世界は存在すると言う。その前提として、あらゆるものを包摂するひとつの世界という言い方を彼はするのですが、そもそも全てを包摂しなければ、それは世界ではないのでしょうか?

 

 

b.  ここで注意しなければならないのは、ガブリエルの中では〈 世界 〉と〈 包摂概念 〉が暗黙の内に結びつき、〈 包摂概念 〉の方が〈 世界 〉を規定する優位性を見せているという事です。そのような〈 包摂 〉というひとつの哲学概念が〈 世界 〉の本質を決定してしまうのに異和感を感じずにいられないでしょう。〈 包摂 〉が〈 世界 〉を決定づけるのであれば、第1義的なものは〈 世界 〉ではなく〈 包摂 〉ということになってしまう。つまり、ガブリエルが "世界は存在しない" と言う時、正確には "全てを包摂するものは存在しない" と言うべきであって、それが〈 世界 〉であると言うのは飛躍であり強引な短絡 ( ショートカット ) でしかないという事です。

 

 

c.   このような批判に対して、だが〈 世界 〉の存在を証明する上で任意の哲学概念 ( 包摂などの ) を導入して説明を進めていく事は方法論としては間違っていないのではないのかと思う人もいるかもしれません。つまり、ガブリエルはここで〈 世界 〉をひとつの〈 概念 〉として存在証明のために動かそうとしているのだからという訳ですね、包摂という哲学的機能、あるいは集合論的機能、を備えさせつつ。

 

 

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 2. 世界とは何であるのか

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a.   しかし、そのようなガブリエルの説明の仕方は、重要な問いを前にして傍らを通過することになる。すなわち、"世界とは何であるのか" という根本的問いです。これこそがガブリエルが究極的に思考する事が出来ていないのを示す問いですね。

 

 

b.   もちろん、それはガブリエルがその問いを全く無視しているということではありません。彼は答えているのですが、相変わらず包摂概念から離れられないのです。

 

" 世界とは、物の総体でも事実の総体でもなく、存在するすべての領域がそのなかに現れてくる領域のことです。存在するすべての領域は、世界に含まれている。マルティン・ハイデガーが適切に定式化したように、世界とは「 すべての領域の領域 」にほかなりません "   p69.

 

" 世界とは、すべての意味の場の意味の場、つまりそれ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場であり、もってすべてを包摂する領域である " p108.

 

 

c.   彼の中では "世界""包摂" がどうしようもないくらい癒着している ( 何せ本人がそのことを全く疑問に思わないのだから ) のですが、 このことは彼が "具体的なもの" と共にしか思考する事が出来ないのを示しています。この場合、"具体的なもの" とは思考という行為にとってのそれであり、思考作業を円滑にしてくれるある種のイメージだといえるでしょう。ガブリエルにとってのイメージとは、世界はすべてを包摂するはずだが・・・そうではない、という包摂概念を軸とした否定的イメージなのです。

 

 

d.   それのどこが問題なのかというと、哲学的に十分に抽象的ではないという事です。抽象性が悪く、具体性が良いなどというのは日常生活においてのみ幅を利かせている思い込みに過ぎないのであって、哲学においては抽象的でないというのは具体性から離れられず極限まで思考出来ていないことを意味するのです。

 

 

e.   それについて考えるために、ここで彼のテーゼに戻ってみます。仮に "世界は存在しない" というテーゼが正しいとしても、そのテーゼで破綻している〈 世界 〉が別の意味を与えられて、"数多くの小世界は存在する" というテーゼで再び〈 世界 〉を登場させる不自然さが目に付きます。そこで彼のテーゼの表現を変えた2つのヴァージョンを考えてみましょう。

 

テーゼ 1. ひとつの世界は存在しないが、数多くの小世界は存在する。

テーゼ 2. 数多くの小世界は存在するが、ひとつの世界は存在しない。

 

 

f.   これは、"ひとつの世界は存在しない""数多くの小世界は存在する" の順番をたんに入れ替えて結びつけただけの2つの結果ではありません。テーゼ 1. は、本書における彼の説明の仕方をそのまま踏襲したものだといえます。問題なのはテーゼ 2. なのですが、テーゼ 1. の説明の仕方とは裏腹に、これこそが彼の実際の思考の順序を示しているといえるのです。それは彼独特の "対象領域という概念" が用意周到に準備されている事から分かるでしょう。対象領域という多くの具体的事例に重点を置くことが、"世界とは何であるのか" という問いを抽象的に考えないで済ますためのアリバイとなっているのです。

 

 

g.   テーゼ 2. こそが彼の思考の方向性を示している訳ですが、だからこそテーゼ 2. における "数多くの小世界は存在する" から "ひとつの世界は存在しない" へと至る結びつきが必然的なものではないことを指摘しておく必要があるでしょう。対象領域が数多く存在する事が、なぜ世界は存在しない事になるのか・・・彼はそう考える前に世界に包摂性を付与して問いに蓋をしてしまう。

 

 

h.   対象領域が数多く存在することが世界が存在しないことに繋がってしまうと、"世界がなぜ出現したのか" 全く説明出来なくなってしまう。世界の出現について考えるために、次のような新しいテーゼをここで提示します。

 

テーゼ 3. 対象領域が数多く存在するからこそ、世界は抽象的に存在する。

 

 

i.   このテーゼ 3. こそ、テーゼ 2. が考える事の出来ない哲学的思考を含んでいるのです。それは具体的なものから "抽象的なもの" が出現するという極めてヘーゲル的な思考なのですが、ここで注意しなければならないのは、対象領域から "何か" が高次の抽象領域へと達する、などというような擬似ヘーゲル的理解に陥ってはならないという事です。そうではなく、対象領域の数多くの乱立・衝突・隣接性という "現実それ自体" が、対象領域の形式的構造性を炙りだし抽象化する知的移行を引き起こしているという事なのです。

 

 

j.   すなわち、対象領域の具体的飽和こそが、その形式的構造性に気付かせるような抽象化へと至らせるのであり、その抽象化の結果が〈 世界 〉の出現という訳なのです。よって "世界とは何であるのか" という問いには、世界とは対象領域という具体においてその形式性が抽象化されたものである、と答える事が出来るのです。ドゥルーズ的な言い方をするなら、世界とは、抽象化作用それ自体の強度が形式的に示された概念のひとつであるという事です。なので世界が対象領域を包摂する事が出来なくても、世界は対象領域の乱立から出現するのです、その抽象化として ( それは表象ではない )。

 

 

k.   これこそが、世界像という表象観念から切り離した "世界" に与える事の出来る概念です。たしかに、ガブリエルが世界を、世界像という何らかの観念に結びつけるべきではないと、ハイデガーをふまえて考えるのは正しい。しかし、そこから彼は極端にも "世界は存在しない" というテーゼを提出するのですが、これは正確には、"世界は表象としては存在しない" というべきです。ここで先程、説明した "哲学の抽象化作用" を考慮に入れて、次のようなテーゼを提出しましょう。

 

テーゼ 4.   世界は表象としては存在しないが、抽象として存在する。

 

 

 l.   このテーゼ 4. はテーゼ 3. の変形ヴァージョンといえるものですが、いずれもガブリエルの思考の限界を明らかにするものとなっています。突き詰めると、彼は〈 世界 〉という概念をどう理解すればいいのか迷っているということです ( これはガブリエルだけにいえることではないですけど )。彼は "世界はすべての領域の領域である" と包摂概念による予備的説明を施しておきながら、そのようなただひとつの世界はやはり存在しない、なぜなら具体的な数多くの対象領域があるだかだから・・・と言うのですね。

 

 

m.   しかしその帰結では、彼が最初に包摂概念を与えた〈 世界 〉についての説明は宙に浮いてしまい一体何だったのかという事になるでしょう。仮にその説明が世界に対する一般的誤解をガブリエルが代弁したものだとしても、彼自身は〈 世界 〉に対して何らかの積極的説明を行うことが出来ていないのです。彼が行った唯一の説明は "世界は存在しない" それだけです。この帰結が危険なのは、〈 世界 〉についての哲学的説明を行わないことによって、ガブリエル自身が避けようとした "世界像" という一般的誤解による観念を暗黙の内に認めているという反転的メッセージを無意識的に拡散させているからです。つまり、"世界は存在しない" とガブリエルが言うのは、"世界は世界像として存在しているという誤解による観念" を打ち消そうとする否定的身振りからくる反転写的テーゼでしかないという訳です。なので、ガブリエルの世界は存在しないという反転写的テーゼは、哲学的抽象的考察からは離れた否定的メッセージでしかないといえるでしょう。

 

 

n.   "世界は世界像として存在しているという誤解" を否定するためとはいえ、"世界は存在しない" と言ってしまえば、おそらく、そこには心理的反撥しか出てこない。つまり、それでも世界は存在する、という具合に。 世界は世界像として存在しているを真に否定するには、〈 世界 〉の存在を抹消するのではなく、〈 世界 〉に哲学的意味を与えて、世界像とは別の形式で〈 世界 〉を存在させなけれなならいのです。これについては既に、哲学の抽象化機能によって "世界は抽象的に存在する" と説明してきた通りなので、ここまでの考察を振り返ってもらうのがいいでしょう。

 

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 3.  意味の場にはない〈 対象 〉

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a.   ガブリエルは本書において、〈 対象領域 〉とは別に〈 意味の場 〉という概念を持ち出して、次のように言います。

 

" 意味とは対象が現象する仕方のことである、と定義することができます " p101.

 

" 意味の場とは、何らかのもの、つまりもろもろの特定の対象が、何らかの特定の仕方で現象してくる領域です " p102.

 

" 意味の場の外部には、対象も事実も存在しません。存在するものは、すべて何らかの意味の場のなかに現象します " p103.

 

 

b.   ガブリエルは、以上の事を説明するために事前に、自分の左手という事例を持ち出しています。そして、それがいくつもの意味の場で異なった仕方で現象することを説明するのです。曰く、左手は5本の指があり、指先があり、手のひらにはしわがある。左手は素粒子の集積でもある。左手は芸術作品であり、道具でもある、と。

 

 

c.   彼はその説明によって〈 対象 〉は意味の場が違えば、異なる現象の仕方をすることを明らかにしてすべては〈 意味の場 〉にあると主張するのです。しかし、その説明を注意深く読める人は、ガブリエルが自分が主張しようとしているのとは逆の事を証明しているのに気付くでしょう。つまり、〈 意味の場 〉がいくら変わろうとも、現象する以前の〈 左手 〉が〈 意味の場 〉に常に先行しているのであり、彼がそれに気付いていないという事です。

 

 

d.   これこそが先程の〈 世界 〉の時と同様に、ガブリエルが考える事の出来ない哲学の抽象化機能なのです。その観点からすると、彼の〈 左手 〉はいくつもの〈 意味の場 〉で現象するのだから〈 意味の場 〉の中にあるという説明は決定的に間違っている。実際は、〈 左手 〉はいくつもの〈 意味の場 〉での様々な現象という形式から抽象的に出現した〈 対象 〉であるというべきなのです。すなわち、〈 対象 〉という抽象物は〈 意味の場 〉には属していない

 

 

e.   しかし、ここでガブリエルのように単純に、〈 意味の場 〉に属していないのだから存在しないのだと考えるべきでありません。〈 意味の場 〉に属していなくとも〈 対象 〉は抽象的に存在する。実質 ( 意味、形象、など ) を内包していなくとも、〈 抽象物 〉はヘーゲル的な意味での〈 知 〉として存在するのです。そこには哲学の抽象化機能が作用しているのであり、それは〈 具体 〉からの〈 知 〉への移行なのです。

 

 

f.   ただし、この 〈 知 〉への移行は、〈 具体 〉から "現象的に" 離れてしまう訳ではありません。そのような誤解をする人は多いかもしれませんが、現実はその〈 具体 〉という定義を施される〈 もの 〉に留まったままなのです。その当の〈 もの 〉自体がそれ自身において、抽象化という知的移行を起こすのです。だからガブリエルの〈 左手 〉は抽象として、いくつもの〈 意味の場 〉に先行して現れる訳です。

 

 

g.   という事は、ここでは〈 意味の場 〉で現象する "具体" と〈 意味の場 〉に属さない "抽象""同時に存在する" という事態が〈 もの 〉自身において起こるのであり、ガブリエルのようにすべてが〈 意味の場 〉に現れるのではないという事になるのです。これがどういうことかというと、〈 対象 〉は〈 具体 〉と〈 抽象 〉によって常に既に二重化されているという事です。ヘーゲル的な言い方をすると、〈 対象 〉は〈 具体 〉と〈 抽象 〉の両極において知的移行を繰り返しているという事なのです。

 

 

h.   そこで作用している運動は "部分と全体の弁証法" ( ただし、フッサールのそれではない ) に他なりません。この弁証法は、部分 ( 対象 ) が全体 ( 意味の場 ) に属していながらも同時に抽象として独立しているという二重性によって動き出します。この運動が興味深いのは、まさに部分 ( 対象 ) を上手く定義する事が出来ない難しさ ( なぜなら二重化されているから ) こそが運動の契機になっているという所なのです。

 

 

i.   間違いないのは、対象 ( 部分 ) が意味の場 ( 全体 ) とは異質なものだという事です。もし対象が意味の場と同質なものであれば、対象 ( ガブリエルの左手 ) を説明する全体の他の要素 ( 素粒子、芸術作品、道具 ) の中に対象は紛れてしまって一体どれが当の対象なのか最終的には判別出来なくなってしまう。全体の中の要素が何処に向かうこともなく同列に列挙される悪循環しか起きなくなるのです。全体の中の幾つもの要素が "何か ( ガブリエルの左手 )" に対して意味を持つようになるには、当の "何か ( ガブリエルの左手 )" が他の要素とは異質なものとして独立していなければならない。異質である事によって初めて他の要素を自らを説明するために引き寄せる事が可能になる。つまり、異質であるためには、他の要素が〈 具体 〉に留まっているのに対して、〈 対象 〉は〈 具体 〉と〈 抽象 〉の両極によって二重化された特異な〈 もの 〉である必要があるのです。

 

 

j.   ここでも、〈 世界 〉と同様、〈 対象 〉も具体的なものとしてしか存在しないと考えるガブリエルの思考の限界が表れている。彼の思考の限界とは、〈 抽象 〉について考えることが出来ない、思考行為が〈 具体 〉から離れる〈 抽象化機能 〉それ自体である事を濃密に示したドイツ観念論哲学と同様の強度で思考しているとはとても言えないでしょう ( たとえ彼がシェリング研究を始めとしたドイツ観念論の "見取図" を上手く描いているとしても )。

 

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     .   世界は抽象的に存在する

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a.   ここで参照しておきたいのが、ジジェクとの共著であるガブリエルの『 神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性ー 』( 2009 ) です。同書の巻末には、『 なぜ世界は存在しないのか 』というボン大学での講演 ( 2009 ) が掲載されています。それは、この記事で参照している『 なぜ世界は存在しないのか 』( 2012 ) とタイトルは同じものですが、内容は若干違ってガブリエルの "心的揺らぎ" が垣間見えて興味深いのです。

 

 

b.   どういうことかと言うと、そこではガブリエルが "世界は存在しない" と言い切るのに無意識的躊躇を示しているのです。そこで彼は、ハイデガーの、あらゆるものが生じる場所それ自体は生じることがない、それは出会われることのできない領域〔 Gegend 〕である、という主張を引き合いに出します。そして、そのような、自らは存在しない奇妙な領域、をハイデガーに倣って "性起" と言うのです。つまり、"・・・世界は存在するのではなく、性起するのです。世界は端的に性起なのです" という事になる (『 神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性ー 』p324. ) 訳です・・・彼に従うのなら。

 

 

c.   「世界は存在するのではなく性起する 」・・・この主張は『 なぜ世界は存在しないのか 』( 2012 ) では見られないものです。この些細な変化を、どう考えるべきなのでしょう。"性起" という特定の概念が世界を規定するのであれば、それは 【 1. "世界" と "包摂" 】で示したように、"世界" については何も語っていないのと同じです。そこから世界は存在しないと言うことは出来ないのです。ガブリエルは自分の主張の脆さを反省的に補強しようとして "性起" の概念に言及するという躊躇を見せていたという訳ですが、『 なぜ世界は存在しないのか 』( 2012 ) では、そのような思考の緊張は排除されてしまっているのです【 ※ 】。

 

 

d.   ガブリエルが世界について哲学的に語る事が出来ない原因は何でしょう。その決定的原因は、ガブリエルが世界を "場所" として考えてしまっているからです。これは、彼自身が、批判したはずの "世界像" という罠に陥っている事に他なりません。分かりやすく言うなら、ガブリエルが世界を場所という "ひとつのイメージ" として考えていることが露呈してしまっているのです。

 

 

e.    しかし、そうは言っても、最小限のイメージがなければ世界について考えることは出来ないのではないか、その意味で世界を "場所" として考えることは間違っていないのではないか、と思う人もいるでしょう。たしかにその通りです。ただし、それは哲学的思考の篩いに掛けられる以前の一般的イメージとしてはそうだという条件をつけなければなりません。ー d.  で述べたように、それでは哲学的には十分に抽象的ではないのです。ガブリエルのように具体的な対象領域に留まる思考では、"世界""意識" "主体" について何一つ刺激的な思考へ辿りつく事は出来ないでしょう。

 

 

f.   特定のイメージが、何らかの状況から出現した哲学概念を抽象的に思考する事を妨げてしまうのです ( ここで言うと、世界=場所、というガブリエルの出発点 )。ここで急いで付け加えなければならないのは、イメージは排除すべきだ、と言っているわけではないという事です。そのような事は不可能であるし、そもそも世界以前の原初の物事の "出現" には、イメージという形式 ( でさえ ) が付き纏うとして受容れるべきでしょう。重要なのは、そのイメージによって、物事の "出現" を見過ごすべきではないという事です。この場合、場所というイメージに拘りすぎて、世界という概念が "出現" したことを見落としては哲学的考察は進まないという事です。なぜ "世界" が出現したのかを考えれば、現実の対象領域の飽和性が、領域という形式的抽象化を経由して世界という概念への知的移行を引き起こしている事が理解出来るでしょう。それゆえに、世界は抽象的に存在するのです。

 

 

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【 ※

   このような迷いは、ガブリエルが「 世界は存在しない 」という "自分の" 主張をもっと突き詰めて考えるべきであった事を示している。いや、そもそも、その主張は、実はガブリエルのものではないのだから、彼がその主張に確信を持てないのは当然なのです。では、その主張は誰のものか。それは『 神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性ー 』の共著者であるスラヴォイ・ジジェクなのです。ジジェクは『 ジジェク自身によるジジェク 』で 私たちの知覚による歪曲の彼方に何らかのヌーメナルな実在があるというのは唯物論の本当の考えではありません唯一の首尾一貫した唯物論の見解は、世界は存在しないというものなのです 」( p137. ) と言っているのですが、ガブリエルはそのアイデアを "わざと" 借りている訳です

 

   「 世界は存在しない 」の元ネタがジジェクであるのを指摘したのは、グレアム・ハーマンなのですが、彼はジジェクの矛盾を指摘して、その主張を否定する「 今述べた彼 ( ジジェク ) の立場は、事実とは真逆なものである 」 ( グレアム・ハーマン『 四方対象 オブジェクト指向存在論入門 』p99. 人文書院 )。その点については、僕もハーマンに同意しますね。ただし、それはジジェクの言う唯物論の見解が正しいかどうかという事ではなく、私たち人間の知覚とは別に、いや、私たちの知覚など気にかけない実在が冷酷に存在するという非人間的真理 ( 反ー人間的真理とは違う ) がそこにあるという意味においてです。

 

 

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ウィリアム・フリードキンの映画『 恐怖の報酬 オリジナル完全版 』( 2018:日本公開 )を哲学的に考える

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公開 2018年 ( オリジナル版は1977年 )

監督 ウィリアム・フリードキン

 

出演 ロイ・シャイダー   ( ジャッキー・スキャンロン "ドミンゲス" )

   ブルーノ・クレメル  ( ヴィクトル・マンソン "セラーノ" )

   フランシスコ・ラバル ( ニーロ )

   アミドゥ       ( カッセム "マルティネス" )

 

音楽 タンジェリン・ドリーム

   キース・ジャレット

   チャーリー・パーカー

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 恐怖の報酬 オリジナル完全版 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。

 

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 1.  『 恐怖の報酬 オリジナル完全版 』の評価

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a.   『 恐怖の報酬 オリジナル完全版 』を評価する上で、"最も" 避けるべきは、この作品をアンリ・ジョルジュ・クルーゾーの『 恐怖の報酬 』( 1953 ) の "リメイク" だという考えです。たしかにフリードキンの『 恐怖の報酬 』はクルーゾーのストーリーを踏襲したものですが、それが1977年に北米で初公開された当初の原題が『 SORCERER( ソーサラー:魔術師の意。マイルス・デイヴィスのアルバムから採られている ) という異様なものであったのを考慮すれば、フリードキンは仕上がった作品を見て、それがクルーゾーのものとは違う "異質な作品" である事を分かっていたと推測すべきでしょう【 ※ 】。

 

 

b.   つまり、フリードキン版を見て、それがクルーゾー版に劣るという評価ほど的外れなものはないということです。フリードキンの世界観について考えることなく、本家であるクルーゾーの足元には及ばないと言うだけでは何も語っていないのと等しい。気付くべきは、フリードキンの世界観のいかなる要素がクルーゾー版とは違うと思わせるのか考えてみるという事です。そうすることは、フリードキン版を見て退屈だと思う人が、この作品の見方を変える上で役立つことでしょう。これは他の監督の作品についてもいえることですが、ある作品が "自分にとって" 本当に面白いかどうかを判断する時、その作品に対する "自分の見方" について今一度、考えることは無駄ではありません。違う見方、違う考え方、も可能なのですから。その後で、やっぱり面白くないと判断しても遅すぎることはないはずです。

 

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【 ※

   1977年の北米での初公開は、ユニバーサルとパラマウントによる共同製作・共同配給。しかし、2000万ドルを超えた予算に対して北米での興行収入は590万ドルという不調だった。これを受けて、世界配給を担当したCICはフリードキンに無断で短縮版を編集した上で、クルーゾーのリメイクであることを示すためにタイトルを『 SORCERER 』から『 恐怖の報酬 』に変更。それでも世界興行収入は900万ドルにしかならなかった。

 

 

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   2.   フリードキンのイマージュへの拘り

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a.   この作品でフリードキンの特徴が現れている以下のシークエンス。3人の仲間が命を失い、1人で消火用ニトログリセリンをトラックで運搬するドミンゲス ( ロイ・シャイダー )。

 

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b.   南米ポルベニールのジャングルを困難の末、抜け出し、目的地の油田を近くにした山岳地帯を通行中にそれまでの出来事が悪夢のようにフラッシュバックしてドミンゲスを襲うのですが、その描き方がフリードキンらしい。2. でドミンゲスに山岳地帯の岩壁が重ね合わされ、3. でその岩壁がなぜか数秒映し出される。気付いた人もいるでしょうが、ここでフリードキンは岩壁の複雑な模様があたかも人の顔であるかのように匂わせ、不穏感を演出しているのですね。4. そして11. 12. のドミンゲスの「 知らんだと? 」というセリフ。これはスキャンロンがアメリカから国外へ高飛びする為に会った仲介業者がスキャンロンがどの国へ連れていかれるのか知らないことに対するもの。それをあざ笑うかのように、先程、南米ゲリラに襲われて殺されたはずの相棒ニーロの高笑いの場面 5. 。ちなみに、ドミンゲスというのはスキャンロンの南米での偽名 ( 違法入国なので )。

 

 

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c.   ドミンゲスのフラッシュバックは続く。記憶はさかのぼり、 アメリカで強盗をして車で逃走するドミンゲスたち。その際に事故を起こし、運転していたドミンゲス以外の3人の仲間は即死する ( 8 ~ 11. )。

 

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d.   さて、ここまで見ると、このフラッシュバックはドミンゲスの個人的な経験の総体のように思えるかもしれません。しかし、以下のシークエンスでは事情が少し違うことが示されています。13.14. はセラーノとマルティネスの2人が運転するトラックが道を踏みはずし転落して爆発死するシーンなのですね。これはドミンゲスの経験ではないし、彼が知らないことでもあるのです ( 少なくともその時は )。もちろん、これはフリードキンのちょっとしたミスであり、ほとんどの人は気にかけないことでしょう。しかし、このような些細な事が哲学的考察のための契機でもあるのです。

 

 

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e.   つまり、ここで考えたい事は、一見、ドミンゲスのフラッシュバックと思われた彼の記憶の積重ねという形式の中に、"イマージュ" というものに対するフリードキンの趣向が現れているという事です。それは作品のストーリーに合うように映像が組み込まれているというよりは、ストーリの流れから突出した映像の連続の方が、観念論的なストーリーを引っ張るという "唯物論弁証法" が展開されているという事なのです。

 

 

■   セラーノが付けていた腕時計のクローズアップ

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f.   通常であれば、観客は観念論的であるストーリーを理解する事によって作品にアプローチするのですが、フリードキンの『 恐怖の報酬 』はフリードキンの映像への拘りという唯物論的手法の方がこの作品を動かす要因になっていると言えるのです ( 実際にこの作品のストーリー自体は冒頭から分かりにくく、予備知識がないと4人の別々のエピソードが展開されている事に気付かないかも )。そのようなイマージュへのフリードキンの拘りが現れた有名なショットが豪雨の中で脆い吊橋を渡るトラックでしょう。

 

 

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g.   このトラックの吊橋シーンは、ドミンゲスとニーロのコンビが乗るトラックと、セラーノとマルティネスのコンビが乗るもう1台のトラックがある為、計2回描写されるのですが、この辺のシークエンスの緊迫感はこの映画の中でも最も映像の "強度" が高まっているといえるでしょう。極端な言い方をするならば、ストーリーから突出したイマージュの強度だけで、この映画を成立させるという特異な "唯物論的出来事" が発生しているのですね、その瞬間に限っては。

 

 

h.   さらに哲学的に考えるならば、このジャングルへの困難な進入は、人間存在の実存的闇への侵入であると解釈出来ます。これは決して大袈裟な表現ではなく、フリードキンが追及する "悪夢のイマージュ" には、人間存在の背後に蠢く恐ろしい何かがあると直感する彼の無意識的探求の意志が込められていると考えられるのです。

 

 

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  3.   実存の闇

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a.   4人の男たちがジャングルへ進入するシークエンスを見て、フランシス・フォード・コッポラの『 地獄の黙示録 』を想起した人もいるでしょう。おそらく、その参照項は間違っていません、双方とも、奥深いジャングルで人間が自らの実存的闇に出会うという意味で。『 地獄の黙示録 』の原作であるジョセフ・コンラッドの『 HEART OF DARKNESS 』、その邦訳タイトルである『 闇の奥 』が象徴的に物語っていますね【 ※

 

 

b.   両者は、その唯物論的映像といい、BGMといい (地獄の黙示録 』はワーグナー"ワルキューレの騎行"、『 恐怖の報酬 』はタンジェリン・ドリームによる "Betrayal" などのサウンドトラック  ) 、人間が実存的闇、すなわち自らの存在の根源である "狂気" との出会いを象徴的に描き出しているのです。

 

 

■   『 地獄の黙示録 』でマーロン・ブランド演じるカーツ大佐が恐怖について語る場面。

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■   『 恐怖の報酬 』でドミンゲスに降りかかるフラッシュバックの嵐が頂点に達し、彼を通じて人間の狂気が垣間見える場面。

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c.   ここにおいて、フリードキンが『 恐怖の報酬 』のリメイク版に当初『 SORCERER ( 魔術師 ) 』という タイトルをなぜ付けたのか推察する事が出来るでしょう。おそらく彼の無意識的探求は常に人間の存在自体が狂気を根源としている事に向かっているのです。ドミンゲス、セラーノ、ニーロ、マルティネス、たちの4人が運命に翻弄されながら不遇から何とか脱しようとしても ( 4人は大金を得るために危険なニトログリセリン運搬の仕事を引き受けた ) 、その選択こそが実は最悪なものに他ならなかったのです。つまり、最初から彼らは "死ぬ" 以外の選択をする自由が無かった事をフリードキンは描き出している。死に至る道の中でしか生きられず、死に至る以外の選択が与えられていない人間は、まさに死に踊らされる存在でしかありません。その意味で『 SORCERER ( 魔術師 ) 』とは、人間存在を操る "死の擬人化" であると解釈出来るのです。

 

 

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【 ※

   『 地獄の黙示録 』についてはこちらの記事を参照。

 

 

 

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佐藤祐市の映画『 累 かさね 』( 2018 )を哲学的に考える〈 4 〉

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■ 佐藤祐市の映画『 累 ーかさねー 』( 2018 )を哲学的に考える〈 3 〉 からの続き

 

 

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 6  サロメの首、丹沢二ナの首

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a.   この映画において『 サロメ 』が特権化されているのは、監督の佐藤祐市がクライマックスの場面で、斬首された "ヨカナーンの首""丹沢二ナの顔 ( 頭部 )" を直結させるアイデアを思いついたからでしょう。それを示す以下の場面。演技する淵累の手にあったヨカナーンの首が丹沢二ナの首に切り替わる。それと同時に、それまで丹沢二ナの顔で演技していた淵累が素顔 ( 芳根京子) に戻って、サロメがヨカナーンの首にキスするように、丹沢二ナの首にキスをする。

 

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b.   「 私 お前の唇にキスしたよ ヨカナーン 」というセリフの繰り返し ( 6 ~ 10. ) はワイルドの『 サロメ 』を踏襲したものですが、注意すべきは、この演目の少し前に、演劇場のビルの屋上で、淵累と丹沢二ナがもみ合いになって2人とも転落したことです。この転落で、丹沢二ナはほぼ死にかかっているのですが、それにも関わらず、淵累は丹沢二ナの顔を借りて舞台の戻り、サロメを演じきろうとするのです。丹沢二ナが死んだかどうかは、はっきり描かれていないのですが、1 ~ 5. で演技する淵累が素顔に戻ることから示されるのは、丹沢二ナが、その後、死んでしまったため、顔交換という魔力の効果が消えてしまったという事ですね【 ※ 】。

 

 

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c.   ここにあるのは、サロメとの "奇妙な二重性" です。いかなる意味で奇妙なのかというと、サロメにおいてヨカナーンの首を手に入れることはヨカナーンを結局どうすることも出来なかった事を示しているように、淵累が丹沢二ナの首を手にするのは、彼女をどうにもすることが出来なかった事を示しているのです。処女ゆえに、愛への幻想を異様なまでに膨らませたサロメと、演技への執着ゆえに、他人の顔を自分のものとするのを厭わない淵累は、首が示すもの、つまり、自分の病的妄想を現実化した、という意味で、二重的なのです。オスカー・ワイルドの『 サロメ 』と『 累 ーかさねー 』を短絡 ( ショートカット ) させたこの二重性こそ、クライマックスにおいて、佐藤祐市が狙った効果であり、だからこそ、この映画において『 サロメ 』という戯曲を特権化したといえるのです。

 

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【 ※

しかし、原作の漫画では、淵累の本当の母親である醜い相貌の誘 ( いざな ) が、美貌の持ち主であった淵透世と顔の "永久交換" に成功している。それに加えて、漫画のラストではニナの母親である丹沢紡美が、咲朱 ( さき:丹沢二ナの死後に、野菊の顔を借りた淵累の女優名 ) を殺した時に、自分の年老いた姿で淵累に一生を過ごさせるという恐るべき復讐 ( なので結果的には丹沢紡美は自殺したことになる ) の為に、"永久の全身交換" という禁じ手ともいえる手段を用いている。この辺については映画では取り上げられていないので、興味のある方は原作を参照して下さい。

 

 

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 7.   サロメから女優へ

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a.   ただし、ここで見逃すべきではないのは、サロメと淵累の間の差異です。ワイルドのサロメが、"女の男への欲望" を象徴する主体なのに対して、淵累は、"演技への欲望" を象徴する、つまり、誰かを演じることを自分の自己同一性にするという奇妙な主体であるのです。奇妙というのは、そこに、自分ではない "誰か" を演じることを自己同一性とする女優的主体があるからです。

 

 

b.   とはいえ、人格的な "他の誰か" を演じる者が、人格的な "現実の私" であっても、誰かを "演じること""技能的なもの" であり人格的なものではないことはお分かりでしょう【 ※ 】。つまり、女優的主体で問題なのは、人格的なものではなく、"演じること" を可能にする "根源的身振り" なのです。

 

 

c.   この "根源的身振り" こそが、主体を現実以上の主体だと観客に思わせてしまう "技能的なもの" である事を示すのがサロメなのです。経験の少ない処女である若きサロメが、大人顔負けの官能的なダンスという身振りによってヘロデ王を誘惑する姿は、女優的であるといえるでしょう。そこには演技の萌芽としての "根源的身振り" があり、それによってサロメはヨカナーンの首を手に入れるという望みを叶えることに成功するのです。

 

 

d.   オスカー・ワイルドフローベールの『 ヘロディアス 』を大いに参考にしていたのですが、実は『 ヘロディアス 』で細かく描写されているサロメのダンスは、ワイルドの『 サロメ 』では、わずかに1行、( サロメは、七つのヴェールを使った踊りを踊る ) とト書きで指示されているのみなのです。

 

 

e.   しかし、ワイルドのこの意図的な省略 ( これが深い思慮によるものなのか、アイデアが浮かばなかったからか、は分かりませんが ) が、逆説的にも演者に表現の自由度を高めたという意味で、女優的主体を登場させる秘かな契機となっているといえるでしょう。この "女優的主体" は、オスカー・ワイルド ( 1854 ~ 1900 ) と同時代を生きたロシアの劇作家アントン・チェーホフ ( 1860 ~ 1904 ) の "演劇的主体" とは異なります。リアリズムを体現するチェーホフ"演劇的主体" に対して、ワイルドの "女優的主体" は、作品における異質性を体現する、いや、それどころか作品を宙吊りにしかねないエキセントリックな存在であるとさえ言えるのです。

 

 

f.   この意味で、映画『 累 ーかさねー 』における土屋太鳳によるサロメのダンスシーンは、原作の情念的ストーリーに取り込まれてしまわずに、そのシーンだけでも楽しめる程の強度があります。監督の佐藤祐市は、土屋太鳳がコンテンポラリーダンスが得意なのを知っていて、それを生かすために『 サロメ 』という戯曲を特権化したのではないかと思えるくらいです。ただし、ここでの土屋太鳳のダンスからは、サロメ通俗的な官能性は排除されています。それは、どちらかというと、本家のワイルドの『 サロメ 』よりも有名になってしまったリヒャルト・シュトラウスのオペラ版『 サロメ 』の延長線上においてモダンな振付を施されたものとなっていると解釈出来るでしょう。

 

 

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g.   フローベールからワイルドに至る "サロメの移行" で起こった秘かな変化とは、まさに女優的主体が登場する可能性が発生したことです。そして、それを形式化したのがリヒャルト・シュトラウスだったのが大事なところです。というのも、シュトラウスによって、官能的な情欲の海で溺れかねないサロメが、演技する崇高な主体へと昇華されたからです。

 

 

h.   この背景には、サロメ伝説の足元で蠢く欲動 ( リビドー ) が性的なものへの欲望としてしか姿を現さない危険性があります。そこには性的対象しか生まれません。無論、ワイルドのサロメはたんなる性的対象ではありません。そこでのサロメは、男の欲望を操作すべく官能性に没頭しているかのような身振りを技術として披露する積極的主体なのです。

 

 

i.   そう言うと、サロメは冷静で計算高い女なのかと思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。サロメは、男たちが自分を見て興奮する官能性とは違う官能に没頭しているのです。それはヨカナーンに対する空想的愛という官能性です。ただし、そこにはヨカナーン自身の思いは含まれていません。彼自身の考えなどどうでもよくなるほどの空想的な愛の情熱を自分の中で燃え上がらせているという意味で、サロメは病的なのですが、この時、彼女は、性的欲望ではなく、生と死を貫く欲動 ( リビドー ) の領域に降り立っているのです【 ※ 】。

 

 

j.   性的欲望の源流としての欲動に身を浸し、性的なもの以上に官能的な、生と死という人間に取っての根源から、サロメは演技という身振りを生み出しているのです。自分の空想的愛を叶えるためなら、ヘロデ王を誘惑する演技も厭わない、いや、それどころか、ヨカナーンを手に入れるためならヨカナーン自身を殺すに至る演技も厭わない。だがそれは同時にサロメが、自分の命すら落としてしまう生と死の欲動の領域から逃れられない事を意味します。なのでワイルドにおいて、サロメが最後に殺されてしまうのは精神分析的に当然の帰結だとしても、激しい欲動の領域における苦しみを演技として昇華させたという意味で、サロメは女優的主体の起源であるのだと解釈出来るでしょう。

 

 

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【 ※

   このことに気付かない人は、女優の素顔と役柄とのギャップを "人格的なもの" に集約させる憑依女優という女優神話に惑わされてしまう。

 

 

【 ※

   女優の演技と欲動の関係については、ダーレン・アロノフスキーの映画『 ブラックスワン 』についてのこちらの記事を参照。

 

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 ダーレン・アロノフスキーの映画『 ブラックスワン 』( 2010 )を哲学的に考える

 

 

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