哲学的考察と備忘録

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フィリップ・カウフマンの映画『 存在の耐えられない軽さ 』( 1988 )を哲学的に考える

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監督 : フィリップ・カウフマン  公開 : 1988

脚本 : フィリップ・カウフマンジャン・クロード・カリエール

原作 : ミラン・クンデラ

 

出演 : ダニエル・デイ・ルイス   トマシュ

   : ジュリエット・ビノシュ   テレーザ

   : レナ・オリン        サビーナ

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 存在の耐えられない軽さ 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいたものです。なので映画のストーリーのみを知りたい ( または深く考える事をしたくない ) という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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【 1 】  男女関係を先鋭化させる映画  

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a.   この映画の原作、ミラン・クンデラの 小説『 存在の耐えられない軽さ 』を読んだことのある人なら分かると思いますが、それは小説というよりは、哲学エッセイの要素が強いスタイルを採っていますね。しかも、小説の途中に哲学エッセイが挟まれているとうよりは、哲学エッセイと小説が併記されている作品といっていいくらいです。

 

b.   それはそれで小説として面白いのですが、フィリップ・カウフマンはそこから物語の要素を上手く抽出して男と女の関係性をよりクローズアップした興味深い映画に仕立て上げています。それは原作の小説が哲学叙述をしているといっても深く分析する事のなかったトマシュとテレーザの関係性を先鋭化して、哲学的に解釈する自由を拡げてくれているという事でもあるのです。そこでは男女の関係が映像化される事によって、より生々しいものになって小説という虚構 ( フィクション ) を超えた現実感さえ漂わせている と言ってもいいでしょう。

 

*   他の女と平気で寝るトマシュに対して一途に好きであるが故に苦悩するテレーザ。彼女のこの真剣さが、倫理観の希薄なトマシュを戸惑わせながらも魅了していく。

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*   彼女の一途さはやがて夢から妄想へと移行していく。

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*   水泳教室での女性指導者と生徒たちが、トマシュと全裸の女性たちに見えてしまうテレーザ。自分の妄想に驚いてしまう。

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*   そんなテレーザはついに、トマシュが他の女と寝るのを手伝うという自虐的発言に至る。あなたはどうしようもない男だけど、そんなあなたについていこうという私の気持ちが分からないの? という訳です。このように映画では、テレーザの狂気性を淡々とですがクローズアップする事で、男女の関係性を強調しているのです。

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c.   ここで重要なのは、『 存在の耐えられない軽さ 』が1968年前後のチェコスロバキア ( 1993年からはチェコ共和国スロバキア共和国に分離している ) を舞台にしている事です。1968年に社会主義国チェコスロバキアでは、プラハの春と呼ばれる改革が進められる中、それを封じ込めようとするソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍に占領される ( チェコスロバキア事件 ) という状況が発生していました。

 

d.   クンデラはそんなチェコスロバキア出身で、共産主義に抵抗する作家として有名になったのですが、『 存在の耐えられない軽さ 』では彼は共産主義体制下における男女の赤裸々な関係を描くことで、体制への抵抗を示していた訳です。具体的には、トマシュを反体制の象徴として描き出しているのですが、それについては以下で考えていきましょう。

 

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【 2 】  原作の哲学的真実を露にする映画 

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a.   共産主義への抵抗の象徴的作家であるクンデラですが、この映画においてトマシュとテレーザの振舞いを細かく見るならば、抵抗といっても、彼が 創作の上で共産主義体制に無意識的に依存している ことが明らかになるのです。

 

b.   これについて考えるには、まずトマシュの役割について考える必要があります。彼は女癖の悪い軽薄な人物として描かれるのですが、軽薄ではあるものの、共産主義を批判する論文を発表するなど共産主義体制に抵抗する側面もある事が徐々に明らかになります。

 

c.   そうするとトマシュの軽薄さは、単に倫理的に問題があるという事ではなく、共産主義体制への過激な抵抗の象徴機能を示している と解釈出来ますね ( クンデラが意識的にそのように設定していないとしても )。

 

d.   ではトマシュが抵抗の象徴であるならば、彼への愛情を示すテレーザの役割とは何でしょう。トマシュの過剰な振舞いを改めようとする彼女の姿勢とは、体制への順応主義者 のそれ以外の何物でもないでしょう。ただ付け加えなければならないのは、それが共産主義などの特定の政治体制ではなく、自分の生活基盤がある "故郷" としての政治体制、つまりそれ以外は知らないし、それ以外は馴染めないという意味での "故郷" への順応 という事です。

 

e.   その証拠に、ソ連軍のチェコスロバキア侵攻によって一端はスイスに脱出したトマシュとテレーザですが、テレーザは結局、トマシュに見切りをつけてチェコスロバキアに戻る事を選択してしまうのです。ここでの遣り取りは、映画のタイトルにもつながる場面 ( シーン 31. ) となっています。テレーザは体制を否定するトマシュ () ではなく、チェコスロバキアの政治体制 ( 故郷 ) を選んだという事なのですが、この時点で2人の関係は実質的に終わっているのですね。それを示すかのように、この後、トマシュはテレーザを追いかけてチェコスロバキアに戻るのですが、彼らはには死が待ち受ける。

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*   2人が交通事故で死んでしまうというラスト。トマシュを捨てきれずに故郷で暮らすテレーザとテレーザを追いかけるために軽薄さを捨てたトマシュ。主体として中途半端な2人はチェコスロバキアの田舎で仲睦まじく暮らすものの、自分の生き方を捨てた代償として死を受容れてしまう。これはロマンスの終焉としての人間的な死というよりは、自分の生き方や信念に関わる政治的主体としての死 と解釈すべきでしょう。

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f.   この映画 ( 原作も含めて ) が見た目よりも残酷なのは、恋愛関係にあろうとも政治的信念を捨てた者に対して罰 ( 死 ) を "巧妙に" 与えているという事です。共産主義体制が反乱分子に罰を与えるのに不思議はないとしても、共産主義に抵抗する側のクンデラ自身も "自由" を捨てる者に対して罰 () を与えるという反転した共産主義者的欲望を秘かに持っていた のです。この意味で、一般的な印象 ( 反体制作家 ) と違ってクンデラは創作の上で共産主義体制に無意識的に依存している ( 2a ) という訳ですね。

 

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ベルナルド・ベルトルッチの映画『 ドリーマーズ 』( 2003 )を哲学的に考える

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監督 : ベルナルド・ベルトルッチ  公開 : 2003

原作・脚本 : ギルバート・アデア

 

出演 : マイケル・ピット     マシュー

   : エヴァ・グリーン     イザベル

   : ルイ・ガレル       テオ

   : ジャン・ピエール・レオ  ジャン・ピエール・レオ / 本人役

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 ドリーマーズ 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいたものです。なので映画のストーリーのみを知りたい ( または深く考える事はしたくない ) という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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【 1 】  "映画" と "革命"   

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a.   ベルナルド・ベルトルッチはこの映画を、フランスで起きた1968年の5月革命と映画界の関わりについて語る事によって始めます。シネマテーク・フランセーズ創立者だったアンリ・ラングロワが当時の文化相アンドレ・マルローによって更迭されたのが、3ヶ月前の2月。結局、これは数々の映画監督・俳優によって結成されたシネマテーク擁護委員会のデモで覆され、4月にラングロワは復職するのですが、ベルトルッチはそこに 月革命へと流れ込んでいく革命的欲望の一端があった と考えているのですね。

 

b.   革命の先端に映画があったというのはフランスならではの偶然に過ぎないのですが、ラングロワ事件は映画界に社会的なもの力 ( 権力も革命も含めた ) が流れ込んできたことを示すひとつの "出来事" だった。映画はたんに観客の幻想を満たす娯楽的要素であるだけではなく、社会に影響を及ぼす革命的要素をも備えている 事をベルトルッチはここから学んだと言えるでしょう。

 

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*   ラングロワ事件当時のモノクロのフィルムも差し込まれている。トリュフォーの映画で有名なジャン・ピエール・レオは聴衆の前で熱弁をする当時の本人役 ( シーン 11.) をこの作品でも演じている ( シーン 8.)。モノクロのシーンには他に、俳優のジャン・ポール・ベルモンドフランソワ・トリュフォー、映画監督のマルセル・カルネアラン・レネ、の姿もある。

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*   シネマテークヌーヴェル・ヴァーグの作家たちとの関係が語られる ( シーン 17~22. )。

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*   ラングロワ追放への反対運動をベルトルッチ"文化革命" だと位置付ける 1

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*   イザベル ( エヴァ・グリーン ) とテオ ( ルイ・ガレル ) の双子と行動を共にするマシュー ( マイケル・ピット )。3人は映画愛好者として仲を深めていく。ゴダールの『 はなればなれに 』でのルーブル美術館を走り抜けるシーンを再現して疾走タイムを更新するという、まさにマニアとしか言いようがないベルトルッチのこの演出は有名ですね。

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【 2 】  "映画" と "性"  

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a.   しかし、3人を結びつけるものが "映画" から "性的なもの" に変質していくあたりから、この映画の核心が少しづつ露になっていく。イザベルとテオは双子でありながら、互いに "性的なもの" の虜になっていたが一線は越えていない関係だった (  "最後" までには至っていない )。3人の性的場面に惑わされずに仔細に観察すると、実は2人は僅かに残っている "モラル" のために、近親相姦の関係になる事が出来なかったのが分かりますね ( シーン 41~46. でイザベルが処女だった事が明らかになる )。

 

b.   だからこそ、イザベルとテオの2人は行き詰まりから逃れるべく "外部" の象徴であるマシューを必要としていたと精神分析的に解釈出来るのです。

 

*   実は処女なのに、嫌がるマシューと無理矢理セックスしようとするイザベル。

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*   イザベルに誘惑されて彼女とセックスするマシュー。自分とイザベルが越えられなかった最後の一線を越えるイザベルとマシューの行為を、フライパンで卵を焼きながら苦々しい表情で見るテオ。行為の後、イザベルが処女だった事が分かる。

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c.   この後、テオはマシュー、イザベルと共にデモに参加するのですが、火炎瓶を手に取るなどの過激な革命家的な気質を見せてしまいます。このような "性的なもの" において "モラル" を打ち破る事が出来ずに挫折や屈折を経験した主体が革命に走るというモチーフは、ベルトルッチの『 暗殺の森 』の主人公マルチェロにも見出せます【 2 】。

 

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【 3 】  "性" と "革命"  

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a.   それは偶然の一致ではありません。ベルトルッチにおいては、"性的なもの" における不均衡や不安定性が、世界に一時的な混沌をもたらす "革命" と並列的に描かれます。この事がベルトルッチの中でも面白い作品の原動力となっているといっても過言ではないでしょう。極端に言うならば、ベルトルッチにとっては、"性的なもの" ( 性行為自体の事ではない ) こそ"革命的" なのであり、それは主体と社会を十分に揺るがすひとつの "" になっているのですね。

 

b.   ここで肝心なのは、"性的なもの"ベルトルッチにおいては快楽の次元で捉えられるものではなく、それどころか、それが引き起こす不安定性が主体にとっての "トラウマ" になるという事です。そのトラウマが主体を出口のない内的世界から外部に向かっての "革命" というアクティングアウトへと至らせる訳です。

 

c.   しかし、そんなベルトルッチ作品にも例外と言うか、失敗作もあります。マーロン・ブランド ( ポール役 ) とマリア・シュナイダー ( ジャンヌ役 ) のセックスのみに焦点を合わせた『 ラストタンゴ・イン・パリ 』は "性的なもの" が主体を揺さぶらない ( 主体は性行為に成功しひたすら繰り返す ) という意味で、セックス以外は何も起こらないという致命的な失敗を犯してしまう。つまり、逆説的な事にベルトルッチにおいて、快楽的性行為 ( 哲学的な意味での "性的なもの" は消滅している ) は主体の死を招く( 最後にポールはジャンヌに射殺されてしまう ) 以外にはない という事を証明してしまうのです。

 

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【 4 】  革命の失敗・・・

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*   デモなどの実際の行動に関わらないテオを皮肉るマシュー。ここでも彼はテオとイザベルの閉塞的な関係を壊そうとする "外部" の象徴的役割を果たしている。そもそも彼の役自体がアメリカからの留学生ですからね。

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*   3人の淫らな生活を知った両親が彼らを見捨て出て行ってしまうという状況に絶望したイザベルはガス管自殺をしようとするが、窓から投げ込まれた石をきっかけに外で起こっているデモに、マシュー、テオと共に参加する。

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a.   さて、普通の監督なら3人がデモに参加した時点で、閉塞的な内部から外部へ脱出する事が出来たとして、そこでエンディングを迎えるようにするでしょう。しかし、ベルトルッチ "その続き" を描いてひねりを加えます。

 

b.   デモの中で革命的主体の方へと向うテオは、火炎瓶を手にして過激な姿勢を露にしようとする。そんなテオの振舞いをマシューは止めるのです。テオとイザベルをデモという外部に連れ出したのはマシュー自身なのに止めるのかと思われる人もいるかもしれません。

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c.   おそらく、ここでのベルトルッチの意図は、革命における暴力性を否定して平和的革命を目指すなどという日和見的なものではなく【 3 】、革命がいずれ失敗に終わる運命にある一時的なものだという事です。ここには革命の失敗の後を見るベルトルッチの視線があります。それは彼が成熟して奔放な若さから脱したという事ではなく、それどころか彼は若い時から革命に付きまとう失敗の運命を十分に承知していたのです ( 例えば1964年の『 革命前夜 』は20代前半で撮られている )

 

d.   この革命に付随する失敗までをも含んだものとしての映画を彼は撮っているのであり、熱狂から失敗という終息に向かう状況の中での主体を描く事こそが、彼の "映画的欲望" だと言えるでしょう。最後の場面において、マシューはテオを諭すためにキスをするのですが、これはマシュー、イザベル、テオ、の三角関係の中で敢えて触れられずに残されていたマシューとテオの "同性愛的関係" を示すものとなっています。しかし、ここでもテオはモラルの壁を乗り越える事が出来ず ( テオはマシューのキスを拒否する ) に、おそらくは失敗する運命にある革命的主体の姿を予兆する役割を果たしているのです。

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*  もちろん、これは自分達の為した事を毛沢東文化大革命 ( 1966~1967 ) に擬えている訳なのですが、その前提としてフランス国内における左翼の思想潮流としてマルクス・レーニン主義の中から当時の世界を席巻した "マオイスム ( 毛沢東主義 )" が出現していた状況があります。そのマオイスムを強調した映画がジャン・リュック・ゴダールの『 中国女 』( 1967年 )

 

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*『 暗殺の森 』についてはこちらの記事を参照。ベルトルッチにおいて """革命" がいかにして結びついているのかを考えています。

 

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*   というのも "マオイスム ( 毛沢東主義 )" を経験したものならば、革命にある種の "暴力性" が付随するのは必然的だと理解するからです。そうでなければ革命は到底成し遂げられるものではないという事ですね。この過激な一過性とは、革命が次の時代へと変化する移行期の混乱のなかで "消滅する媒介的役割" を果たしている事を示す指標でもあるという事です。

 

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B級戦争映画:ジョン・ミリアスの『 戦場 』( 1989 )

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監督・脚本 : ジョン・ミリアス  公開 : 1989

原作 : ピエール・シェンデルフール 『 L'Adieu au Roi ( さらば王様 ) 』1969年

 

出演 : ニック・ノルティ      リーロイド

   : ナイジェル・ヘイヴァース  フェアボーン大尉

   : マリリン・トクダ      ヨー

   : フランク・マクレー     テンガ軍曹

   : アキ・アレオン       三田村大佐

   : マリウス・ヴェイヤース   コンクリン軍曹

   : ジェームズ・フォックス   ファーガソン大佐

 

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1.   ジョン・ミリアスの『 地獄の黙示録

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*   フランシス・フォード・コッポラ地獄の黙示録 ( 1979 ) 』の脚本を書いたジョン・ミリアスによる別ヴァージョンの『 地獄の黙示録 』とでも呼べるB級戦争映画 1 。『 地獄の黙示録 』がジョン・ミリアスの着想でジョセフ・コンラッドの小説『 闇の奥 ( 1902 ) 』を基本にしているのは知られている所ですが、本作はフランスの作家・映画監督ピエール・シェンデルフールの『 さらば王様 ( 1969 ) 』を原作としつつも、ミリアスが監督として描きたかったもうひとつの『 地獄の黙示録 』だと言えるでしょう。

 

*   この背景には、『 地獄の黙示録 』が自分の脚本通りに映画化されなかったというミリアスの不満があったという。だからこそ、彼はわざわざ似たような話の映画を自分で手がけたのですが、その結果、『 地獄の黙示録 』には及ばない代物が出来上がった・・・。普通なら、自分にはこんな映画は撮れないと思い、同じようなテーマは避けるはずなのに、余程、自分に自信があったのか、血が騒いだのか、という所でしょうか。

 

*   ふたつの映画に共通するのは未開のジャングルに住む部族において白人が王となっているというモチーフなのですが、監督によってこんなにも違う映画になるという典型的な例となっています。もちろん、コッポラとミリアスでは集められる予算規模が違う【2 】とはいえ、描き方が全く違うものになっていて、同じ脚本家が関わっているとは思えない。これは到底、『 地獄の黙示録 』と同じレベルで語られる映画ではないと思う人がほとんどのはず。

 

*   コッポラは圧倒的な力量で『 地獄の黙示録 』を重厚感のある映画に作り上げているのに対して、ジョン・ミリアスの『 戦場 』は戦争における敵対性を乗り越えた男達の熱い人間関係を描き出すB級映画となっています。そう、この映画に限らずジョン・ミリアスは時に男達の精神的な強さ ( もちろんそれは彼が考えるものという意味での強さでしかない ) という紋切型にこだわってきた。ただし、その描き方は起伏の無い平坦な道筋となっていて退屈さを感じさせる。もちろんそういう映画だと割り切って見ればそれなりに楽しめるかもしれません。でも、第二次大戦中のボルネオにおける山岳部族と日本軍の戦いという設定の中での日本軍の描き方【 3を見れば、B級映画として素直に楽しめない人もいるでしょう・・・。

 

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  1

*   映画の原題が『 Farewell To The King 』、つまり『 さらば王よ 』となっているのに、あえて邦題を『 戦場 』としているのは、『 地獄の黙示録 』との関連性を打ち出そうとする商業的努力だと言えますね。僕が見たDVDのパッケージにも "もうひとつの地獄の黙示録" というキャッチコピーが載ってたくらいですから。でもこの映画ってよほどのマニアでない限り見ないでしょうね・・・。

 

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*  『 戦場 』の製作費は1600万ドル。『 地獄の黙示録 』は2倍の3150万ドル。

 

3

*   端的に言うと、日本兵によるカニバリズムの事。直接的な描写はないが、言及されるシーンがある。シーン33~38. を参照。

 

 

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 2.    いくつかの場面

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*   ボルネオの沿岸部に陣取る日本軍に対して戦う必要があると説くフェアボーン大尉と戦いを拒否する山岳部族の王リーロイド ( シーン 1~12. )。

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*   部族の村を日本軍飛行機に空襲され、リーロイドは村を守るべく連合軍と協定を結ぶ旨をフェアボーンに託す。しかしなぜか彼の上官たちの悪口を言い出す始末。そして今は王様だけどかつては労働組合員だったという興醒めの過去と共に、共産主義者からの政治的転向をしていたという衝撃の過去が明らかに ( 笑 )。続いて "共産主義者には戻らない" という皮肉がわざわざ込められる辺りはミリアスの反共主義者の一端が垣間見られます ( シーン 13~22. )。

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*   違う部族の女性との間に出来た赤ん坊 ( 相手の男はリーロイドの部族 ) を巡っての騒動が起きる。女性の部族では出産した母親が死亡してしまうと、赤ん坊も殺さねばならないという掟があるが、フェアボーンは敢えて進んでその殺す役を買って出る事によってリーロイドに赤ん坊を助けさせるという振舞いに出る。リーロイドは最初その意図に気付かず怒るが ( シーン 23. ) 、フェアボーンの思い ( シーン 24. ) を知ってはっとする。そしてリーロイドの赤ん坊を助けた振舞いに対して "君は真の王だ" と熱血ドラマみたく唐突に賞賛するフェアボーン。

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*    "幻の大佐" とは三田村大佐の事。リーロイドたちと戦い、彼らに打撃を与える。

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*   三田村大佐の部隊が虐殺した部族の村を訪れたリーロイドたち。"ヤツらは人食いだ。人を食って生き延びてるんだ" と言うリーロイド。ここまで堂々と言われると返す言葉もない。でも、食うに困って人食いがあったのは事実だけど、それが組織的な行動だったかどうかは微妙な所なんですよね。この映画では部隊による組織的な行動だと断定されてしまう。

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*   リーロイドたちと日本軍による数少ない戦闘シーン。

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*   日本軍に先を越されて戦闘員ではない部族の村人たちを殺されてしまう。日本軍への復讐を誓うリーロイド。最初は日本軍との戦闘をすべきだと言っていたフェアボーンが、なぜか急にトーンが下がって命の大切さを説きだす。

"報復しても空しいだけだ。大切なのは男らしさではなく命だ"  by フェアボーン

一説にはタカ派といわれるジョン・ミリアスにも平和的な部分もあるのかと思いきや、リーロイドの "血は血で償うものだ" というセリフから、彼にはタカ派などの政治的信念などではなく、内面世界の欠如したマッチョ主義を描く事しか出来ない頑固さが垣間見える。おそらくは、それこそが彼の映画に共通するツマらなさの原因でしょう。

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   怒ったリーロイドらは、ジャングルの谷間にいた日本兵たちを皆殺し!

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*  しかし、その反動からか、一気に我に帰り、呆然となるリーロイド。戦いはもう御免だという感じ。

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*   日本の敗戦が決まった後、三田村大佐はリーロイドに日本刀を献上するという形で、軍門に下る意志を示した。二人とも、ほとんど言葉を交わすことなく男らしい (?) 振舞いを強調する。

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 *   戦争終結後、ファーガソン大佐にリーロイドたちに干渉しないよう交渉するフェアボーン。彼はリーロイドらの部族との接触を冒険小説のようなものとしてお咎めがないよう気を配る。この時、字幕には出てないが、コンラッドの名前もフェアボーンは挙げている ( シーン 62~63. )。ここで、ミリアスは自分の思い入れのある小説、コンラッド『 闇の奥 』をそれとなく仄めかしているという訳ですね。

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*   子供へ別れのメッセージを伝えるというお涙頂戴のシーン。連行されるリーロイドの器の大きさを描く事にこだわる。

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*   リーロイドに虐待を加えた下級兵に怒り、彼に謝罪を表す大佐。ここでも男同士の熱い関係性が描かれる ( シーン 87~96. )。

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*   かつてはリーロイドの敵であった三田村大佐。死刑の直前であるにも関わらず、自分の事はそっちのけで、リーロイドをここぞとばかり持ち上げる ( シーン 97~108.) 。

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*   船からリーロイドを脱走させるフェアボーン。軍規もヘッタクレもない。王を彼にふさわしい場所に返すべきだと思ったから自分はそうしたんだと言わんばかりの自己陶酔の笑顔を見せるフェアボーン ( シーン117. )。彼の唐突な振舞いにリーロイドの方が戸惑ってしまう。自分が彼を脱走させておきながら "彼は自由の民として生きる" というフェアボーン。そして、それに続く"さよなら 私の王" という彼の自己満足的発言が映画のタイトル ( 映画の原題『 さらば王よ 』) に繋がるという締め括りがいかにもB級映画らしい ( 笑 )。

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 関連記事

 

 

 

 

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ラース・フォン・トリアーの映画『 アンチクライスト 』( 2009 )を哲学的に考える

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監督 : ラース・フォン・トリアー  公開 : 2009

出演 : シャルロット・ゲンズブール 

   : ウィレム・デフォー

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 アンチクライスト 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいたものです。なので映画のストーリーのみを知りたい ( または深く考える事はしたくない ) という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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【 1 】  崩壊する男女関係

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a.   ラース・フォン・トリアーがこの映画で描き出そうとしているのは、崩壊する男女関係、しかも女性の側に比重を置いた崩壊過程だと言う事が出来るでしょう【1 】。セックスに夢中になっていたシャルロット・ゲンズブールウィレム・デフォーの夫婦の近くで息子が転落死してしまうスローモーション映像 ( それは観る者に美しさを感じさせる倒錯的な映像でもある ) で話が始まるのですが、そこでは最初から夫婦の繋がりの象徴である子供の存在は排除されている。

 

b.   つまり、彼らは夫婦ではなく、夫婦以前の男女として描かれる。それは結婚し夫婦となり子供が出来ても、安定とは程遠い不確実で破裂しかねない緊張が奥底に潜んでいる事を明らかにしようとするものであり、男と女という異なる人間同士が結びつく時に起こる問題を示すものでもあるのです。

 

c.   その事はシャルロット・ゲンズブールウィレム・デフォーの夫婦自身が、お互いの関係性を精神的な意味での夫婦に昇華する事が出来ず、未だ問題を抱えた "男女" である ことを露呈させます。特に妻の方がその事に対して根強い気持ちがあるといえるのです、この映画においては。

 

d.   なぜなら、見逃している人もいるかもしれませんが、後の回想シーンでセックスの最中に、実は妻の方が、息子が窓際によじ登っていくのを見ているのが明らかになるからです。という事は、息子が転落する予兆にも関わらず、見て見ぬ振りをしてセックスに没頭していたのですね。

 

e.  ならば妻は何に対して罪悪感を覚えたのでしょう。答えは、偶然にでも子供を死なせてしまったという後悔ではなく、子供が死んでも構わないと瞬間的にでも思い、セックスに没頭した自分の肉欲に対してだといえるでしょう。

 

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【 2 】  自分がコントロール出来なくなるという女の本質

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a.   ということは、よくいわれるように妻は子供の転落死をきっかけに精神を病んでいったというよりは、自分の中の、いや 自分を超えたエデンの森という自然 ( ネイチャー ) で言い表されるように、制御出来ない "女性的なるものの本質 ( ネイチャー )"  に支配されていった と言うべきでしょう。もちろん、ここから女性が、男性にはない自然とつながっている生理現象の哲学的意味を考える事も出来ますね。自分の中に自分を超え出る本質を抱え込んでいるという事こそ女性の "魔女性" というべきものなのですね。

 

*   人間を超えた自然 ( ネイチャー ) = 主体を超えた女性の本質 ( ネイチャー )。

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*   セックスの最中に殴ってと無茶なお願いをする妻。自分を制御出来ずに暴走が止まらない。

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*   さらに暴走は止まらず、野外に出ての激しい自慰行為。もうここまで出来る女優は世界中でもいないのではないかと思わせる凄さを見せるシャルロット・ゲンズブール

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*   自分の本性を知った夫が逃げ出すのではないかという思いから、罵倒しつつ上から夫を攻める妻のSっぷりが炸裂する。ここまで来たら夫は逃げ出すしか対応策がなくなってしまうでしょう。

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【 3 】  トリアーの真実

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a.  妻の束縛はエスカレートしていき、砥石器で夫の足を貫き固定するという束縛にまでいたるのですが、最終的に夫は妻を殺す事によって妻との関係に終止符を打ちます。ここに至るまでの過程には、過激な描写が行われていて、観客の道徳観念を挑発するものであるのは間違いないのですが、それだけしか見なければ、この映画からいかなる解釈も引き出す事は出来ないでしょう。

 

b.   というのも、トリアーが男女関係の崩壊を描いているのは確かだとしても、それが女性的なるものの恐ろしさ、女性が自分ではどうにもする事が出来ない獰猛さ、によるものだとする視点にトリアーが無意識的に囚われているかもしれないからです。

 

c.   何が言いたいかというと、トリアーが女性差別主義者だという事ではなく、女性 ( ビョーク、二コール・キッドマン、シャルロット・ゲンズブールなど ) こそがトリアーの作品の中心的役割を果たしている事を考えれば、トリアー自身が女性的なものの獰猛な本質の中に、自分の映画作りの真実を無意識的に求めているかもしれない という事なのです。世間体や道徳観念などの枠組みを無視した、あるいは挑発した映画作りは、既存の形式性によって自分の衝動を表すというより、形式性に囚われない衝動をどうにかして表そうという極めて "女性的な" 振舞いであるかもしれないのです【 2 】。

 

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1 

トリアーの映画の本質としての崩壊作用については、以下の記事を参照。

 

2

それを追求した結果が、既存の物事の崩壊を描くというトリアーの方法なのですね。

 

 

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フランシス・フォード・コッポラの映画『 地獄の黙示録 』( 1979 )を哲学的に考える

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監督 : フランシス・フォード・コッポラ  公開 : 1979

脚本 : ジョン・ミリアス  フランシス・フォード・コッポラ

 

出演 : マーロン・ブランド      カーツ大佐

   : マーティン・シーン      ウィラード大尉

   : ロバート・デュバル      キルゴア中佐

   : フレデリック・フォレスト   ジェイ・“シェフ”・ヒックス

   : サム・ボトムズ        ランス・B・ジョンソン

   : ローレンス・フィッシュバーン タイロン・“クリーン”・ミラー

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 地獄の黙示録 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいたものです。なので映画のストーリーのみを知りたい ( または深く考える事はしたくない ) という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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【 1 】  ジョン・ミリアスとフランシス・F・コッポラ

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a.   地獄の黙示録 』、この製作過程における幾つものアイディアの挿入と脚本の改変によって繋ぎ合わされた作品が注目されたのは奇妙な感じだった。監督のコッポラをして何を主題にして撮っているのか途中で分からなくなったと言わしめた作品がカンヌ映画祭パルムドールを受賞 ( 1979 ) してしまったのですから。それは言うならば、争いの絶えない国家でどこかの政権が樹立されるまで主導権の在処が不安定な様に、コッポラがこの映画をコントロールするのにどれ程の苦労を味わされたかを察する事が出来ようというものです。

 

b.   コッポラが映画化の権利を得る前から、ジョセフ・コンラッドの小説『 闇の奥( 1902 ) を基にしてアイデアを練っていた ( 映画用の脚本を書き始めたのはコッポラが権利を得てから ) ジョン・ミリアスを発端として、この映画は始まった。なので基本的にはこの作品はジョン・ミリアスの脚本を骨子としつつコッポラの芸の細かい改変によって出来上がったのですね。

 

c.   実際に、この映画は『 闇の奥 』を基本モチーフにしているだけでなく、 原題の『 Apocalypse Now 』、BGMのドアーズ『 The End 』、爆撃シーンでのワーグナーワルキューレの騎行 』、そしてキルゴア中佐のサーフィンシーン、などの多くの映画ファンの関心を惹いたアイデアが実はコッポラではなくジョン・ミリアスによるのは今日では知られている所です。しかし、もし彼がこの映画の監督だったとしたら、コッポラほどの重厚さを産み出す事は出来なかったのは間違いないでしょう。ジョン・ミリアスが自分で監督するより、コッポラの方がジョンのアイデアを生かす演出が出来た事は、ジョンが監督した映画を観た人であれば納得するはずです。

 

d.   ジョン・ミリアスの力量では特にジョセフ・コンラッドの『 闇の奥 』でも見せ場のひとつでもあるカーツが死ぬ場面の緊張感を再現出来たかどうかは怪しい。観客にとっても分かりやすい戦争シーンが満載の前半よりも、いまいちピンとこなくて人気の無い後半のシーンはコッポラでさえ苦労した跡が伺えますからね。

 

 

【 2 】  原作を必要とする映画、そしてその逆も・・・

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a.   この記事では、そのカーツの死をクライマックスとするシーンを中心に考えていきます。正直、コッポラの演出は上手くいっているというよりは、説明足らずで分かりにくいでしょう。それは映画と原作の小説との形式的違いがその一因でもあるのです。つまり、映画は "客観的視線によって支えられるイマージュ" であるのに対して、コンラッドの『 闇の奥 』が最も面白くなるのは、マーロウの "1人称による圧倒的独白" が続く所であり、それは 主体の中の内的時間とでもいうべきものであって、可視化されたイマージュには還元されない何か であるのです。仮にそれを可視化しようとすれば、"" の中でマーロウの声だけが延々と続くという観客には耐え難い結果になるでしょう1

 

b.   という事で、クライマックスのシーンについてコッポラは明確な解釈を提示する事が出来ていないので、原作を解釈する事によって補完する必要があります。それは映画が原作を必要とするという一方的な関係性ではなく、原作も映画によって新たな生命を得るという双方性でもあり、極めてベンヤミン的な哲学テーマ2なのです。

 

c.   なぜこんな事を書くかと言うと、現在ではポストコロニアル批評による植民地批判の観点でのみコンラッドの『 闇の奥 』が語られてしまう傾向 ( 原住民への植民地的主義的言動がいくつかあるのは確かですが ) があり、そこでは "小説的なもの" が政治的なものが支配する空間に閉じ込められているからです。そのような空間では小説はそれ自体を楽しむ事が出来ない、つまりベンヤミン的視点では『 闇の奥 』は新たな生命を得る事が出来ないという事であり、やがては消え行く傾向に呑まれていく。

 

d.   そういうベンヤミン的視点に立った時、『 地獄の黙示録 』は製作者達の意図を超えて、コンラッドの『 闇の奥 』を現代に甦らせる映画として興味深いものなのです。ここに、原作によって映画の解釈を補完する事の意義があるのですね。

 

 

【 3 】  原作から微妙にずれるコッポラの解釈

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a.   カーツが地獄の恐怖について語りながら死ぬシーンこそ、この映画のクライマックスと言えるでしょう。以下 ( シーン 1 ~ 5. ) は原作にはないカーツのセリフ。地獄の恐怖と向き合い、それをどうにかしたいという思いが吐露されている。

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b.   そして死の直前の有名な "地獄だ。地獄の恐怖だ"  のセリフ。 原作では "The horror! The horror! " 。3

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 c.   さて、ここで原作を知らずに映画を観た人は、カーツは死ぬ事を恐れているのだろうかと思うでしょう、ウィラード大尉が軍の命令によってカーツを殺しに来た事を考え合わせれば。原作を読んだ人ならば、そうではない事が分かるのですが、実はカーツが死を恐れているという解釈は間違っていないのです、少なくとも映画に関しては。なぜなら、それはコッポラ自身が原作から "微妙に" 逸れた解釈を提示した結果だからです。

 

d.  端的に言うと、コッポラは "" "地獄" を同一視しているのです。恐れるべきものは "" なのであり、それはジャングルの奥地で増幅され、カーツを狂わせたとコッポラは考えている。だから "王殺しという神話的概念" を持込む事によって、ジャングルの王であるカーツと王を殺しに来たウィラードとを "死" で結びつける三角関係によって話を進めるという脚色を行った訳です。

 

e.   そして、このコッポラの脚色は、かなり凝ったものになっていますね。彼はコンラッドの『 闇の奥 』を骨子とするというジョン・ミリアスのアイデアに、同じくコンラッド繋がりでT.S. エリオットを接続する事によって表面上は話の流れに一貫性を持たせようとしているのです。

 

f.   20世紀モダニズムの詩人であるT.S. エリオットは、詩作においてコンラッドを参照していた事で有名なのですが、コッポラはその事を上手く利用している。エリオットを導入する事によって、彼が参照していたコンラッドジェームズ・フレイザーの『 金枝篇 』、ジェシー・L・ウェストンの『 祭祀からロマンスへ 』を画面中に一気に登場させ、王殺しの脚色を確定させるという教養的荒技を出すのです4

 

g.   カーツが死に至るシークエンスにおいては皆、コッポラの教養に惑わされて引用物に注目する事に留まり、それ以上解釈する事を忘れてしまう ( どれほど多くの批評がそうである事か ) のですが、王殺しの脚色はウィラードがカーツの王国に留まらずに外部に戻るという話によって破綻しているという事に注意すべきでしょう。なぜなら王殺しの神話は王国の再建・復活というモチーフが必須なのですが、ウィラードはそういう事に興味を示さないし、そもそもカーツは "爆弾を投下してすべてをせん滅せよ" と言っているのです。

 

h.   そうすると、ここから読み取るべきは、王殺しの脚色はカーツの死にアクセントを付けるためのアリバイに過ぎず、コッポラは カーツに忍び寄る死の実存主義的恐怖 を描いたというのが本当の所でしょう。王国を築いたカーツは、"" というものが自分の肉体のみならず、王国を含めた自分の世界そのものの滅亡である事を望んでいた。それを実現するのが眼前のアメリカ軍の爆撃なのであれば、コッポラは無慈悲な戦争の中で省みられない個人の世界を、死の実存主義に取り憑かれたカーツを通して浮かび上がらせた と言えるでしょう。

 

 

【 4 】  映画から原作へ・・・クルツの真実

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a.   さて先程、コッポラの解釈は、カーツは死を恐れていて "死" と "地獄" を同一視するものだが原作は違うと言いました。そこではクルツ ( ここでは映画ではカーツ、原作ではクルツというように既存の呼び方に倣っている ) は死の間際において絶望こそするものの、明晰さを保ちつつ決して死を恐れてはいないのです。この意味で3で述べるように、クルツの最後のセリフ "The horrorThe horror " は "恐怖だ恐怖だ!" の方が適切でしょう。

 

b.   クルツは、死の間際の深淵の中で覗き見た "恐怖" とは自分が死んで還っていく無の世界などではなく、それどころか、人間の存在がそこから産まれる "闇の胎動" だったのです。人間の形象などはまだあるはずもなく、そこから何かが産まれるであろう予兆としての鼓動が闇に響き渡る幻想を、クルツは明晰に "恐怖" と呼んだ のですね。

 

以下はクルツの事を語るマーロウ ( 映画ではウィラード役に当る ) の独白。

 

"俺も深淵を覗き込んだことがある人間だから、クルツのあの眼差しの意味はよくわかる。彼には蝋燭の炎が見えなかったが、その眼は宇宙全体が見えるほど大きく見開かれ、闇の中で鼓動するすべての心臓を見通せるほど鋭かった。彼はいっさいをまとめあげ ー 審判をくだした。『恐ろしい!』と。" 光文社古典新訳版 p173~174

 

"俺が一番よく憶えているのは俺自身が死にそうになった時のことじゃない ー 眼の前が何も形をなさない灰色一色になって、肉体的痛みがみなぎり、もうこの痛みを含めて、どうせ何かも儚いものだと、生きる努力を無造作に投げてしまう境地じゃない。違う! 俺はどうやらクルツが死に際に達した境地を経験してしまったようなんだ。" 光文社古典新訳版 p174

 

"俺としては、自分がもう少しで口にするところだった人生最後の言葉は、生きる努力を無造作に投げてしまう言葉ではなかったはずだと考えたいところだ。そんなものよりは、クルツの囁きのほうがいい ー ずっといい。あれは一つのことをちゃんと述べていた。数知れない敗北と、恐ろしい行為の数々と、忌まわしい欲望充足という代償によって得られた精神的勝利ではあったが、ともかく一つの勝利だった!" 光文社古典新訳版 p174~175

 

c.   コンゴの奥地のジャングルは人間存在の源泉の闇と共鳴して、クルツの中に正体不明の無意識的衝動として彼を刺激していた。おそらく、これこそがクルツの真実であり、彼に魅了されたマーロウの真実でもあるのです。最後まで闇の正体を見定めようとしていたクルツの言動を見ると、このコンラッドの『 HEART OF DARKNESS 』の邦題は『 闇の心臓 』と "逐語的に" 訳す方が相応しいと言えるでしょう。

 

"それからクルツは、『ああ、しかし私はまだこれからお前の心臓を絞りあげてやるからな!』と、見えない魔境に向かって声をあげた。" 光文社古典新訳版 p169

 

 

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1

   この "客観的視線によるイマージュ""主体の内的時間としての独白" こそが、映画と小説との形式的差異を表す対立テーゼだと言えるでしょう。小説の1人称による独白を映像化しようとする試みはほとんど失敗してしまう。この形式的差異を考慮する事のない観客にとっては全く面白みを感じないという訳ですね。

 

*   その失敗例のひとつが、ジム・トンプスンによるノワール小説『 おれの中の殺し屋 』を映画化したマイケル・ウインターボトムの『 キラー・インサイド・ミー 』です。主人公の内的独白の "" がほぼ失われているものの、サウンドトラックの "音楽性" がそれを補っているこの奇妙な映画については以下の記事を参照して下さい。

 

 

2

*   哲学者ヴァルター・ベンヤミン ( 1892 ~ 1940 )  は、『 複製技術時代の芸術 』で "オリジナル" の視点から "複製品" について語り ( これをテーゼ A とします )、『 翻訳者の使命 』では "翻訳 ( 複製品 )" の視点から "原作 ( オリジナル )" について語っている ( これをテーゼ B とします )。

 

*   テーゼ A では、オリジナルが大量工業化社会における複製化に抗う事が出来ないものの、オリジナルは複製品によってこそ、その中に新しい生命を得る ( より多くの人の目に触れる ) とされる。

 

*   テーゼ B では、翻訳が原作に忠実である事が翻訳者に課せられた使命とされる。ただし、この忠実性さというのが問題で、ベンヤミンは決して読者に読みやすく翻訳する事が原作への忠実さであるなどという常識的な主張をしている訳ではないのです。むしろ彼は逐語的な翻訳を望んでいて、読みやすさという視点は最初から廃棄されている。それについて解釈するには、ジャック・デリダの『 バベルの塔 』を参考にしつつ、多くの言語が存在する事自体が言語間の根本的な翻訳不可能性を示しているのを考慮に入れる必要があるのです。つまり、逐語的翻訳で明らかになる読みづらさこそが、根本的に翻訳不可能な言語間の隔たりを乗り越えて原作が新しい生命を得ようとする際の唯物的振舞いであると解釈しなければならないのです。

 

*   そして、ここで避けるべき過ちは、テーゼ B に依拠して映画は原作に忠実であるべきだという結論です。そうではなく、少なくとも1人称形式が多用される小説と映画では、その存在形式が違うのだから ( "視線によって支えられるイマージュ""主体の内的時間としての独白" との違い ) 、根本的に原作に忠実である事が出来ない、いや、そこでは忠実さという考え方自体に意味が無い。

 

*   むしろ、映画の場合は、翻訳と違って原作を自由に解釈すべきなのです。その結果、生じる原作との隔たり、軋轢、裏切り、などが根本的に移行が不可能な映画と小説との媒体的差異を明らかにし、それを乗り越えて出来た映画にこそ、小説の新しい命が宿ると考えられるのです。

 

*   つまり、原作  ( 小説 ) の映像化という紋切り型 ( 商業的意味での ) は、複製的な範疇に収まるものなの ( テーゼ A ) ですが、異なる媒体への移行作業である映画化においては解釈の自由性が必要となるのですね。これこそ映画におけるテーゼ B の変形ヴァージョンとしての新しいテーゼ C"移行物 ( 映画 )" の視点から "原作 ( オリジナル )" について考えるというものなのです。

 

3

*   この "The horrorThe horror " は現在、日本語訳の最新版である光文社古典新訳の『 闇の奥 』( 2009 ) では "恐ろしい恐ろしい!" となっている ( p171 )。この形容詞的翻訳では、クルツ自身の恐怖の心情を表していると受け止められかねないので、この部分に関しては中野好夫による訳 "地獄だ地獄だ!" ( 岩波文庫 1958年 ) の方が適切でしょう。

 

*   なぜならクルツは死の間際で、死ぬ事の恐怖を "感じた" のではなく、彼が生前から生活してきたジャングルの中で漠然と感じた闇を今まさに "見た" という事を訴えているからです。彼は "地獄を目撃した" と言っているのですね。そうすると "The horror! The horror!" は素直に名詞的に "恐怖だ! 恐怖だ!" と訳した方がいい訳です。とはいえ、光文社古典新訳版の黒原敏行の訳はこれまでの先人の業績も踏まえたものになっているので現状では一番お勧めです。

 

4

*   コッポラはカーツにコンラッドの詩『 うつろな人々 』を朗読させているのですが、その『 うつろな人々 』では『 闇の奥 』の一節 "クルツの旦那 ー 死んだよ ( 光文社古典新訳版 p172 ) " が引用されている。つまり、コッポラは "入れ子構造" を導入するという細かい芸を披露しているのですね。

 

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ロマン・ポランスキーの映画『 ローズマリーの赤ちゃん 』( 1968 )を哲学的に考える

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監督 : ロマン・ポランスキー  公開 : 1968

原作 : アイラ・レヴィン

出演 : ミア・ファロー      ローズマリーウッドハウス

   : ジョン・カサヴェテス   ガイ・ウッドハウス

   : シドニー・ブラックマー  ローマン・カスタベット

   : ルース・ゴードン     ミニー・カスタベット

   ラルフ・べラミー     サプスティン

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 ローズマリーの赤ちゃん 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいたものです。なので映画のストーリーのみを知りたい ( または深く考える事はしたくない ) という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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【 1 】  消滅する夫婦関係

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a.   ローズマリーの赤ちゃん 』は主人公のローズマリーが悪魔の子を身篭り、出産してしまうという悪魔主義的モチーフが主題の映画だと受け止められている事がほとんどでしょう。それ以外には、ローズマリーのマタニティブルーによる被害妄想という解釈があるくらいですね。

 

b.   サスペンスホラーの源流とでもいえるこの映画の悪魔主義については、他に任せるとして、ここではローズマリーのマタニティブルーを発端として、夫婦関係が消滅する過程が暗示的に描かれているという方向で解釈を進めていきたいと思います。

 

c.   夫婦関係の消滅といっても、形式的にに離婚していなくとも、相手への信頼や愛情が既に無くなっているという意味での "心理的破綻" を示しているという事です。ただ、この映画ではそれが最初から露骨に示されている訳ではなく ( むしろ仲睦まじい様子が描かれている )、ローズマリーが妊娠の前後から夫への不信を募らせていくのですね。この不信がよく表されているのが、悪魔とのセックスシーンです。夫に不信感を抱きながらも性的なものに抗う事が出来ず、恍惚感を味わうローズマリーが悪魔の幻想を産み出しているといえるでしょう。

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d.   そして重要なのは、ローズマリーが夫に対して表立って自分の不満をぶつけるのではなく、身篭った子供を守るというアリバイによって、自分を取り囲む人間関係から逃げ出すのを最初に選択するという事です。妊娠の前後から絡んできた人間関係 ( 色々と口出ししてくる隣のカスタベット夫妻と彼ら側に付く夫 ) よりも、身篭った子供との肉体的な関係性の方が優先するという訳です。つまり、そこでは新しい生命が宿るという経験が、彼女を規定する、もっと分かりやすく言うなら彼女自身を生まれ変わらせようとしているのです。

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e.   その事が彼女を不安にさせ、周囲から逃げ出そうとさせたのですが、結局、連れ戻されそこで子供を産む事になってしまう。

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【 2 】  夫婦関係から母子関係へ

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a.   子供が死産だったと伝えられ、嘆くローズマリー

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b.   ローズマリーを慰める夫のガイ。ローズマリーのこれまでの言動をヒステリー性の妄想だとして片付けようとする。ここで注意すべきなのは、この映画が、悪魔主義を隠すべくガイに分析医の診断を語らせる事によって、却って悪魔主義の現実性を浮かび上がらせている、つまり、ローズマリーの疑惑が本当であったというオチを選んでいるという事です。

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c.   通常であればこの種のサスペンスホラーは、主人公の周囲への疑惑は妄想に過ぎなかった、あるいは妄想なのか現実なのか分からない、という形で話を終わらせるのが定番なのでしょうが、この映画は主人公の妄想が本物であったという現実性を、言い換えると精神分析ジャック・ラカンが言う "現実界" ( 不可能なことが起きるという現実以上に現実的な効果 ) を、オチに持ってきているのです。

 

d.  その事が、この映画を単なるサスペンスでもなければ、単なるホラーでもない特殊な映画たらしめている訳なのですが、同時にそれは夫婦関係の消滅過程が描写されている事を、この映画の隠れた本質にしてしまっているのです。実際に、ローズマリーが子供を捜して悪魔的結社の集会場所に辿りついた時、子供は殺さないように頼んでおいたと言うガイに彼女は唾を吐きかけるのですね。その後、悪魔の相貌の子供に驚きながらも、悪魔主義的連帯の雰囲気の中で育てていく事を決意するのですが、それは夫と子育てをするくらいなら、悪魔的主義的連中と手を結ぶ方がマシという、それこそ悪魔的な選択をしたという意味でもあるのです。

 

e.   つまり、最初は夫と悪魔主義的連中から逃げ出す事を選択していたのが、最後には夫を捨てられるのなら彼らと手を結ぶという非情な選択へと移行している訳です。ここには夫婦関係から母子関係への移行が秘かに描かれている1のであり、1人の女性の精神的自立 ( 良い意味でも悪い意味でも ) の過程でもある2と言えるでしょう。

 

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1

*   夫婦関係から母子関係への移行についての考察は、『 ローズマリーの赤ちゃん 』にオマージュが捧げられている『 ノイズ 』( 1999 ) について書いたこちらの記事を参照して下さい。

 

2

*   ミア・ファローは本作が撮影された1968年にフランク・シナトラと離婚している。そして、この映画がサスペンスホラーであるにもかかわらず、今では一部の女性達の間でミア・ファローの髪型3やファッション4 に注目して彼女をファッションアイコンとする見方がありますね。つまり、彼女を映画の文脈から切り抜いて象徴的女性にしようとしている訳です。ユニセフ親善大使、ダルフール紛争に対する社会活動、養子の奨励、などのこれまでの彼女の社会的振舞いを考慮に入れると、そこに自立的女性像を見て取る人達がいても不思議ではないという事ですね。

 

3

*   いわゆるピクシーカット。ヘア・スタイリストの先駆けであるヴィダル・サスーンが、この映画に出演する彼女の髪をカットしたのは有名。

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*   『 ローマの休日 』のオードリー・ヘップバーンや『 悲しみよこんにちは 』のジーン・セバーグも披露している。ジーン・セバーグが同作で演じたセシル役にちなんでセシルカットとも呼ばれる。先程上述した『 ローズマリーの赤ちゃん 』にオマージュを捧げた映画『 ノイズ 』( 1999年 ) に出演したシャーリーズ・セロンもセシルカットにしています。

 

4

*   ここにはこの映画で衣装デザインを担当したアンシア・アルバートの影響が強く出ています。よく観ると、主要登場人物達の服装がやたらとオシャレだなと気付くはずです。本作でミア・ファローはシャネルの2.55を使用しているくらいなので。悪魔主義を題材にした映画なのに、登場人物はラグジュアリーな服や小物で装いされているというこのギャップ ( 笑 )。映画製作の舞台裏が垣間見えますね。

 

 

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アンドレイ・タルコフスキーの映画『 サクリファイス 』( 1986 ) を哲学的に考える

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監督 : アンドレイ・タルコフスキー  公開 : 1986

 

出演 : エルランド・ヨセフソン   ( アレクサンデル

   : スーザン・フリートウッド  ( アデライデ / アレクサンデルの妻

   : グドルン・ギスラドッティル ( 召使マリア

   : スヴェン・ヴォルテル    ( 医師ヴィクトル

   : トミー・チェルクヴィスト  ( アレクサンデルの息子

   : オットーアラン・エドヴァル ( 郵便配達員

   : フィリッパ・フランセーン  ( マルタ / アレクサンデルの娘

   : ヴァレリー・メレッス    ( 小間使いユリア

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 サクリファイス 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたい ( または深く考える事はしたくない ) という方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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1.  イデオロギーによって誤解されるタルコフスキー

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a.   アンドレイ・タルコフスキーほど、その作品の過激さが見落とされている監督はいないのではないでしょうか。皆、口を開けば "詩的映像の素晴らしさ" と言うし、この『 サクリファイス 』に限っても、核戦争の描写や、公開直後のチェルノブイリ原発事故などを含めて "核時代への反メッセージ" と "救済" が示されているなどのイデオロギー的解釈がもはや定番だといえるくらいになっていますね。

 

b.   もちろん、そういう解釈から環境的視点で人間の生存について考えていくのは大切なことだとは思いますけど、それはもうタルコフスキーの作品からは離れている事を意識すべきでしょう。つまり、そこで語られているのは、平和的イデオロギーなのであって、タルコフスキー作品の内在性は全く語られていないという事なのですね。違う言い方をすれば、なぜタルコフスキー "作品" を解釈しようとしないのかという事です。その点を踏まえて『 サクリファイス 』について考えていきましょう。

 

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2.  いくつかの場面・・・

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a.   やり取りをした郵便局員が自転車で帰っていくのを背景に、言葉を発せない息子が呻きながらこちらに歩いてきて、アレクサンデルが言葉を投げかけるシーン。

"おや 何を呻いているんだ?"

"初めにことばがあったと言うがお前は黙っているしかない。魚のように"

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■   "初めにことばがあった" というのは言うまでもなく新約聖書ヨハネ福音書のもの。次に "魚のように" というのは、魚が初期のキリスト教徒のシンボルであり、エスを意味した事を踏まえている ( ヨハネ福音書の中にもイエスの魚にまつわるエピソードがある )。つまり、アレクサンデルが息子をキリストに見立てているのを示唆しているのですね。このことはラストの場面において大きな意味を持つのでそこで述べましょう。ちなみに、しゃべる事の出来ない息子が最後で言葉を発するのを "奇跡" として解釈する人がいますが、残念なことにそれは間違いです。以下のシーン10. の後でヴィクトルは口の中の手術で一時的にしゃべれなくなっている息子の術後経過を見て "あと1週間もすればしゃべれる" と言ってるので。

 

 

b.   アレクサンデルが息子に語りかけているところに彼の妻と医師のヴィクトルが来るシーン。

 "あの独白は好きじゃない"  by  ヴィクトル

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   シーン9. のヴィクトルのセリフからアレクサンデルは独り言が多いことが分かりますね。

 

"私の坊やよ"  by  アデライデ

"私たち" だろ  by  アレクサンデル

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c.   このシーン11~12. のセリフを意味があるものとして受け止めるか、何となくスルーするかで以降の解釈は変わってくるので注意が必要な所です。おそらく妻は息子のことをアレクサンデルとのものではない事を無意識的に示しているのです。それに対してアレクサンデルは息子とは血縁関係がない ( ということは別人が父親という事になるのですが・・・) 事を分かった上で、育ての親という意味で "私たちの" といっている可能性が高いのです。この解釈は後でアレクサンデルがマリアと性交する事の意味に関わってきます。

 

d.   独白を延々と続けるアレクサンデル。でもこれらのシーンにもこの映画を解釈するヒントが隠されているので無駄に長くて退屈だなんて思わないようにしましょう。

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   シーン16~23. によってアレクサンデル自身も自分が話をするだけで何も出来ない男だと自覚している事が分かりますね。別の言い方をすれば、精神的に彼にとっては話し続ける事が何かを為し得ない事の代替行為になっている。つまり、話し続ける事で、何らかの行為から目を逸らす事が出来ているという訳です。

 

e.   では、その行為とは一体何でしょう。舞台俳優を辞めた今も、評論家などの仕事があるので何もすることがないという意味ではありませんね。何か、を行為する事が出来ない ( こう話すと、何が出来ないのか薄々気付く人もいるでしょう ) のです。話す事ではない本当の意味 ( 彼にとっての ) での行為へ一歩踏み出そうとして彼は悩んでいるという状態なのですね。このポイントを見失ってしまうとこの映画は全く理解出来ないものになるので注意しましょう。

 

f.   独白を続けていたアレクサンデルに、息子がじゃれ合おうと後ろから近づいてくるシーン。勢いが付きすぎて、息子はアレクサンデルの後頭部に顔をぶつけ鼻血を出してしまう。アレクサンデルは鼻血を流す息子の顔を見ながら、ぶつかった時の衝撃で気を失い倒れる ( シーン30.)。

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   シーン29. と30. 、そして以降に続くシーン31~34. には注意しましょう。なぜならここからこの映画の核心が動き出すからです。その核心とは、アレクサンデルの "妄想" に他なりません。多くの人はこの辺りのシーンを軽く見過ごしてしまう為、以降の話の展開を解釈する事が出来なくなってしまうのです。

 

g.   アレクサンデルが失神して妄想の世界に入っていくこれらのシーンで押さえておくポイントがあります。ひとつは、シーン29. つまり、アレクサンデルが鼻血を流す息子を見るショット ( これはアレクサンデル自身の視線を表す ) が、彼の妄想が、少年時代への回帰を伴うのを仄めかしているという事。もうひとつは、モノクロシーン31~34. が彼の少年時代に、戦争か、テロか、災害か、は分かりませんが幼い彼にとっては破滅的な出来事があったのを示しているという事。そして大切なのは、彼の妄想が、少なくともマリアとの性交シーンの後、ソファの上で目が覚めるまで続くという事です。 

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h.   さて以下のアレクサンデルがマリアとセックスする ( おそらく最後までは出来ていない ) 問題のシーン。何が問題かというと、セックスのシーンが倫理的にどうなのかという事ではなく ( なぜなら物議を醸すような直接的描写はないので ) 、核戦争が起きた世界を救うためにマリアとセックスしなければならないという理屈 ( 郵便配達員の話 ) が荒唐無稽だとして私達に真面目に受け止められていないという事です。でも、残念ながらそれが荒唐無稽に思えるのはこの映画の解釈が出来ていないからなのです。

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    よく見るとアレクサンデルの様子が様子がおかしい事に気付きます。それは皆を救うためにセックスして欲しいというお願いの荒唐無稽さ故に、自己卑下的になっている ( ほとんどの人はそう解釈している ) からではなく、僕を抱いて下さいという受身のセックス願望、別の言い方をすると、自分からは積極的にはセックス出来ない "不能性" を匂わせてしまっているからです。これこそ、行為する事が出来ずに彼が悩んでいた "何か" だったのです。とはいえ、これを単なる不能男の妄想話だと矮小化して片付けてしまう訳にはいかないでしょう。そうさせないだけの理屈付けをタルコフスキーは成し遂げているのですから。それについては後で述べるとして、セックスのシーンを続けて見ていきましょう。

  

"うまくいきますわ。うまくいきますわ"  by  マリア

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i.   度々繰り返されるマリアのセリフ "うまくいきますわ、うまくいきますわ" を始めとして、シーン41~46. がアレクサンデルのセックスに対する恐れ ( セックスする事が出来ないという ) を示しているのは明らかです。このマリア主導のセックスシーンの異様さをどう解釈すべきなのか。これについては以下の場面も含めて考えていきましょう。

 

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j.   このセックスシーン直後のモノクロのフラッシュバックは、アレクサンデルの失神後の妄想の世界を示すシーン31~34. の続きです。これによって彼の妄想の世界が如何なるものなのか推測する事が出来ますね。

 

k.   彼の妄想の世界は、少年時代への回帰とそこでの破滅的な出来事の体験というポイントがあると先に指摘しました ( シーン31~34. について )。それらは "少年時代の体験" という事に集約されるのですが、このシーン47~52. によって、そこにもうひとつの体験・・・すなわち母からの性行為の強要 ( その結果、セックスが出来なくなった )、が加わり文字通り複合的なもの ( コンプレックスという語の元来の意味 ) になっているのです。

 

l.   そして重要なのは、彼の妄想の世界では、少年時の何らかの破滅的出来事 ( 戦争、災害、テロ、などの ) と母からの性行為の強要が "短絡 ( ショートカット )" によって結びつきコンプレックス ( 複合的なもの ) の源泉となっている、という事です。

 

m.   そして、その短絡こそがマリアとセックスする事が世界を平和にするという一見荒唐無稽な理屈を可能にするのです。細かく説明するならば、短絡によって結びついたふたつの事柄を行為化 ( アクティングアウト ) によって乗り越えるという事です。この場合、行為化とはセックスするという事に他なりませんね。フラッシュバックシーン52. を見れば母親がマリアとそっくりで、アレクサンデルがマリアに母親の面影を見ていた事がわかります。だからこそ、マリアとセックスする事で母からセックスを強要されたという忌まわしいトラウマ  ( 不能の原因 ) を払拭しようとしたのであり、世界を救うとはそれに成功した事を意味するという訳なのです。

 

n.   しかし・・・アレクサンデルにセックスを強要する母の呪縛は彼の妄想の世界では乗り越える事が出来なかった ( つまりセックスする事が結局出来なかった ) 。彼の "私には・・・できない・・・" というセリフからそれが分かりますね。彼がソファで目を覚ます直前に響く母の声には不気味なものが漂ってます。しかし、母の声に背景にレオナルド・ダ・ヴィンチの『 東方三博士の礼拝 』が映るシーン53~54. では、別の解釈が現れようとしているのが示唆されています。

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o.   さて、ここでアレクサンデルの妄想の中で、娘マルタが馴染みの医師ヴィクトルを誘惑するシーンについて触れておく必要があるでしょう。下着姿のマルタがヴィクトルを誘惑するけど、ヴィクトルは慌てて逃げ出すという短いシーンです。そこで実際にセックスが行われたどうかは判断出来ませんが、娘のマルタであっても母親のような魔女性を備えているのではないかというアレクサンデルの恐れが投影されている事と、ヴィクトルがアレクサンデルの家族 ( 妻と娘、そして息子です・・・) に深く関わっている事が推測出来ますね。アレクサンデルが不能である事を考えれば、彼の家族とヴィクトルの口に出せない関係性が自ずと分かってくるでしょう。その関係性がシーン11~12. で仄めかされているのです、アレクサンデルと妻の間にヴィクトルが立つという構図によって。それと妻のセリフとそれに対するアレクサンデルの返答ですね。

 

p.   そこら辺は、はっきりと描写されている訳ではないので、推測の域を出ないのですが、少なくともアレクサンデルは自分を家族関係から弾き出している ヴィクトルー妻ー娘 の三人組とは別に、息子と象徴的な意味 ( 血縁的な意味ではなく ) での繋がりを築こうとしているのです。つまり、彼は血の繋がりはなくとも象徴としての父親になろうとしていた。そのために彼が取った行動が息子に語りかけ、話続け、息子の中に "言葉" を残す事だったのです。

 

q.   そして、その言葉こそが、アレクサンデルから息子への贈物に他ならなかった。ただし、その贈物には "犠牲 ( サクリファイス )" が欠けていた。贈物には犠牲が伴うと言ったのは、アレクサンデルに高価な地図をプレゼントした郵便配達人のセリフですが、アレクサンデルは少年時代のトラウマを清算する、つまり肉欲に囚われている自分を乗り越える、事によって犠牲を払おうとした。そうする事によって初めて "" を贈物として息子に与えようとしたと解釈する事が出来るのです。決して世界を救うために自分を犠牲にしたなどと誤解すべきではないでしょう。ましてや、マリアとのセックスで世界に平和が訪れたので神との約束を果たすべく、犠牲として家を燃やしたなどというよくある解釈 ( 多くの評論家はそう解釈している、残念な事に ) は全く筋が通っていないと言うべきです。

 

r.   彼が家を燃やしたのは、妄想の中で母にセックスを強要されるというトラウマを乗り越える事が出来ず、そのために目が覚めた現実世界での行為化 ( アクティングアウト ) として選択された最悪なものだったという事です。行為化のために彼が選択した家への放火は、取り返しがつかないという意味で少年時代に体験した惨事を繰り返したに過ぎず、結局はトラウマを乗り越える事ができなかったのです。

 

s.   それどころか、彼は狂気に至っていると家族から思われ、追い掛け回された挙句、捕まえられ救急車で運ばれてしまうという事態は余りにも救いがないのかもしれません。

 

t.   家族に隠れて、彼らがいなくなった隙に自宅に火を点けるアレクサンデル。家族と世界を救うために犠牲を払ったとはとても解釈出来ないでしょう。それこそ家族はいい迷惑です。

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u.   狂気的な行動をする父親を救急車に乗せようとする家族達。つかまるまいとして逃げ回るアレクサンデルと追いかける家族達。タルコフスキーが意図したかは分かりませんが、このシーンは喜劇的な調子を帯びていて思わず笑った人もいるでしょう。

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3.  タルコフスキーの恐るべき力業

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a.   この話は基本的にはアレクサンデルのトラウマを解消しようとする妄想世界での試みなのですが、それが結局失敗してしまい、現実世界で自宅への放火という最悪のアクティングアウトを選択してしまうというものです。こう書くと、物語の重心は、トラウマとその乗り越えというよくある精神分析テーマへと傾きがちになりそうなのですが、驚くべきことに、タルコフスキーはそこに "息子" を媒介にした聖書のテーマを接続する事によって、違う話に書き換えるという荒業を見せてくれるのです。

 

b.   ここでいう聖書とは新約聖書ヨハネ福音書に他なりません。映画の冒頭でアレクサンデルが言った "初めに言葉があった" が記されているものですね。しかし、なぜヨハネ福音書なのかと思う人もいるでしょう。それには新約聖書におけるヨハネ福音書の特殊な位置付けについて考える必要があります。

 

c.   ヨハネ福音書の特殊性は、しばしば問題とされた神の子であるはずのイエスの謎めいた出生を、書き換えてしまった所にあります。それまではイエスの神性は、聖霊によるマリアの処女懐胎というおよそありえない苦し紛れの出生話によって保障されてました ( マタイ福音書とルカ福音書 )。この点を踏まえると、アレクサンデルのマリアとのセックスの失敗は、最初から不可能なものとして失敗する運命にあったと解釈する事も出来るのです。

 

d.   しかし、アレクサンデルについての話を、処女懐胎の補助線で理解しようとすると、"現実の息子" をどう理解すればいいのかという問題にぶつかりますね。まさか息子が処女懐胎で生まれたという事はありえないので。

 

e.   ここで必要になるのがヨハネ福音書の特殊性です。端的に言うと、ヨハネ福音書は、肉体的なものによる神性の保障 ( 処女懐胎 ) という考え方とは手を切っているのです。そこで代わりに現れているのが、言葉という象徴的なもの ( ヨハネ福音書の前半 ) と非現実的なもの ( ヨハネ福音書の後半 ) です。この内、非現実的なものとは、死んだイエスが復活して弟子の前に姿を現すというものであり、信じられるものではないでしょう。それよりも、注意したいのは前半の、言葉という象徴的なものによって世界の始まりを書き直してしまっている ( 創世記とは違うやり方で ) という事です。

 

f.   ヨハネ福音書の最初を引用してみます。

"初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった"。

ここから理解すべきは、イエスの神性は、その出生由来によって保障されるのではなく、言葉によって保障されるという事です。なぜなら言葉は特定の誰かの所有物ではなく、言葉自体が神であるからだという理屈なのです。そこでは、イエスは神から遣わされた者であり、神の言葉を伝える者だという訳です。

 

g.   そうすると、そこでは出生や血筋はもはや問題とはならない。いや、出生や血筋に問題があったとしても、"言葉" に耳を傾ける者は誰であれ神の "息子" になる事が出来るのです。それこそが言葉の重みを知っていたアレクサンデルが息子に語り続けた事の意味なのですね。息子が血の繋がりのある者でなくとも、アレクサンデルは言葉を彼に贈る事によって、神に祝福される "息子" に育てようとした。そのために彼は犠牲を払ったのです。そして息子は父の言葉をしっかり聞いていた "初めに言葉があった。でもなぜ、父さん・・・"。

 

h.   アレクサンデルの妄想世界から始まった自宅への放火という最悪のアクティングアウトが、息子の神性へと繋がっていくこの驚くべき展開は、 まさにタルコフスキーならではの力業というしかありませんね。詩的な映像表現卑猥な妄想世界そしてキリスト教的モチーフが絡み合った世界観は聖性と暴力性が分かち難く結びついたタルコフスキーの哲学を示しているという事が出来るでしょう。これこそが多くの人が気付かずに見落とす所なのです。ちなみに、デンマークの映画監督ラース・フォン・トリアータルコフスキーにオマージュを捧げているのはよく知られる所ですが、それは暴力性のある映画でしばしば非番される彼がタルコフスキーの隠れた本質を見抜き、それに共感しているからなのですね。

 

 

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