僕を哲学的に考えさせる映画:アンジェイ・ズラウスキーの『 シルバーグローブ 』

f:id:mythink:20180514032025j:plain

 

 

f:id:mythink:20180520162403j:plain

 

公開:1989年  製作国:ポーランド

監督:アンジェイ:ズラウスキー

原作:イェジー・ズラウスキー  ( 『 月三部作 』)

出演:イェジー・グラヴェク    ( ピョートル )

  :イヴァナ・ビエルスコ    ( マルタ )

  :イェジー・トレラ      ( イェジー )

  :レシェク・ドゥーゴシュ   ( トマシュ)

  :エルジビェータ・カルシコ  ( アダ )

  :アンジェイ・セヴリン    ( マレク )

  :ヘンリク・ビスタ      ( マラフダ )

  :クリスティナ・ヤンダ    ( アザ )

  :ヴァルデマール・コフナツキ ( ロダ )

 

 

f:id:mythink:20180514032809j:plain

 

 

1.   『 シルバーグローブ 』の成り立ちと演出

f:id:mythink:20180514032025j:plain

 

a.   映画『 シルバーグローブ 』は、アンジェイ・ズラウスキーの大叔父であったイェジー・ズラウスキー1 】が発表したSF小説月三部作 』の第一部『 Na srebrnym globie ( 銀の惑星で ) 』( 1903年 ) と第二部『 Zwycięzca ( 勝利者 ) 』( 1910年 ) を原作としています。もちろん映画『 シルバーグローブ 』のタイトルは、『 月三部作 』の第一部『 Na srebrnym globie ( 銀の惑星で ) 』から来ているという訳です。

 

b.   ただし、この映画を見た人なら分かると思いますが、SF的なのは設定だけで中身は全く違う。これは原作に基づいた脚本を正確に表現していくような映画ではなく、俳優に振り切った演技をさせる事で過剰性を演出する映画2 】なんですね。それこそがアンジェイ・ズラウスキーならではの演出方法であり、そこではSF的設定は俳優が演技する上での必要な枠組みでしかなくなっている。なので設定やストーリーを理解しようとすることに気を取られて、この映画の特異性を見失わないようにしたいですね。

 

f:id:mythink:20180514032809j:plain

 

【 ※1 】

『 シルバーグローブ 』は難解な映画だと言われますが、大まかなあらすじ ( 念のためですが映画とは細部で違いがありますので ) を理解する上で一番いいのは、ウィキペディアイェジイ・ジュワフスキのページ、特に小説の項目 ( 月三部作 ) を参照する事でしょう。それを念頭において映画を見れば、原作との差異を認識しながら整理をしていく事が出来ると思います。それと共に、若い頃にベルン大学でスピノザの論文で博士号を取り、ニーチェショーペンハウエルポーランド語訳を出したり、『 月三部作 』でスタニスワフ・レム3 】に影響を与えるなど、イェジイ・ズラウスキーが興味深い人物であった事がわかりますね。

 

2 】

過剰性の演出という事であれば、 アンジェイ・ズラウスキーの『 ポゼッション 』におけるイザベル・アジャーニサム・ニールの狂気の演技を思い浮かべれば十分でしょう。この過剰性こそが彼の映画の特徴であり、そのために俳優を追い込んで演技させることも彼は厭わない。イザベル・アジャーニはあるインタビューで "監督の要求は暴力的で、あの作品でやったようなことはもう出来ない" と言っている。

『 シルバーグローブ 』でマレク役のアンジェイ・セヴェリンも "監督は気難しく要求も厳しかった。この撮影以降はどんな相手とも仕事が出来ると思ったくらいだ" と言っている。

 

3 】

スタニスワフ・レムといえば、やはりSFの古典『 ソラリスの陽のもとに 』でしょう。それを映画化したアンドレイ・タルコフスキーの『 惑星ソラリス 』については当ブログの記事を参照して下さい。

 

 

 

 

2.   『 シルバーグローブ 』のメタ映画的視点

f:id:mythink:20180514032025j:plain


a.   この映画の内容で特徴的なのは、ある惑星 ( 原作では月だけど映画では明言されていない ) に到着した宇宙飛行士たちが惑星での生活を小型カメラで記録する事です。最初はマルタとピョートル ( 原作ではペドロ ) が、そして彼らからカメラを取り上げたイェジー ( 原作ではヤン・コレツキー) が記録を続ける。

 

f:id:mythink:20180522000258j:plain

 

f:id:mythink:20180522000311j:plain

 

f:id:mythink:20180522000322j:plain

 

b.   原作ではコレツキーの手記という形が、映画ではイェジーによるカメラでの記録という形に変わっているのですね。これだけだと現代風になっただけではと思うかもしれませんが、ここにアンジェイ・ズラウスキーは大きなひねりを加え、彼ならではの演出を行います。そのひねりとは、ストーリーの進行上必要なのかと思われかねないのですが、カメラに向かって俳優に哲学論と俳優論を語らせることによってメタ映画的視点 ①を映画の中に導入してしまう事です。

 

地球に思いを寄せ哲学を語るイェジー

f:id:mythink:20180522194101j:plain

 

f:id:mythink:20180522194112j:plain

 

f:id:mythink:20180522194126j:plain

 

地球に思いを寄せ哲学を語るイェジー

f:id:mythink:20180522195120j:plain

 

f:id:mythink:20180522195136j:plain

 

f:id:mythink:20180522195147j:plain

 

f:id:mythink:20180522195159j:plain

 

f:id:mythink:20180522195209j:plain

 

f:id:mythink:20180522195220j:plain

 

突然語られる俳優論・・・

f:id:mythink:20180522195806j:plain

 

f:id:mythink:20180522195824j:plain

 

f:id:mythink:20180522195837j:plain

 

c.   これは非常に興味深い事です。というのも、この映画が撮影中止に追い込まれた旨のナレーションが冒頭から入り、ラストでもズラウスキー本人が出演し撮影中の1977年にポーランド文化省から撮影中止に追い込まれた事が語られるという事実に基づいたメタ映画的視点 ② がやはり導入されているからです。

 

d.   この ① と ② の双方のメタ映画的視点の存在をどう理解すべきでしょう。少なくとも、撮影時の ① は ② の基となる撮影中止を予期出来るはずもなかったので ① と ② の並列は偶然的だと考えるべきでなのでしょうか。いや、そもそも唐突な ① のメタ映画的視点がどうして必要だった考えてみると、それらが偶然ではなく、なるべくしてなった結果だという事が分かるはずです。

 

 

3.   メタ映画的視点の出現する背景

f:id:mythink:20180514032025j:plain

 

a.   一言でメタ映画といっても、それが映画の中の映画なのか、監督の自伝的要素が込められたという意味での自己言及的映画なのか、あるいはそれらが混ざった映画なのか、と様々な見方が出来ます。ここで僕の関心を惹くのは監督の自伝的要素の強い自己言及的映画なのですが、自伝的要素と言うと聞こえは良くても大概は夫婦関係に問題があるパターンが多い ( 苦笑 )。

 

b.   自己言及的映画というと、ジャン・リュック・ゴダールの『 軽蔑 ( 1963 ) 』を挙げておきましょう。この映画は、女優アンナ・カリーナと結婚したばかりのゴダールが彼女との上手くいかない当時の状況 ( 1965年に二人は離婚 ) を反映させています。こういうエピソードは作品の裏側にあるものとして語られたりしますが、それは作品の創造過程の余白に書きとめられる類のものではなく、それどころか創造性の不安定な起源であるとさえ言えるのです。

 

c.   離婚経験のある人なら分かると思いますが、夫婦同士の揉め事が続いていても、仕事を休む訳にはいかないし、子育てを止める訳にもいかない。解消する事の不可能な不安定さが行き場を失くし、くすぶり続ける。もう既に夫婦の絆など壊れている事は分かりきっているのに、その崩壊の現場に居続けることの苦痛・・・。

 

d.   そのような不安定さは、現実の夫婦関係においては解消できない困難でも、創造的的活動においては、驚くべき集中力の源泉になる事がある。自分の人生の一部が既に壊れているのに、逃げることが出来ず、それと背中合わせになった時、人は自分を創造的活動の方に押し出す事が出来る、まるでその不安定さから力を借りて来ているかのように・・・。

 

e.   それが『 軽蔑 ( 1963 ) 』の時のゴダールであり、『 シルバーグローブ 』の脚本執筆時に妻マウゴジャータ・ブラウネックと離婚したアンジェイ・ズラウスキーだった。おそらくこの時、ズラウスキーは映画製作を通じて意識的に自分の映画監督としてのアイデンティティーを強化する選択をした事は容易に推測出来る。映画の中で唐突に語られる哲学論、俳優論、そして俳優達によるSF映画どころか、暗黒舞踏的ともいえる振り切ったパフォーマンス・・・およそこれらはズラウスキーの強力な主導権の痕跡であり、自己言及的なメタ映画であるとも解釈出来るのです

 

f.   そうズラウスキーはこの映画を通じて夫婦関係において壊れた自分のアイデンティティーを回復しようとしたのであり、だからこそ1977年にポーランド文化省によって制作中止に追い込まれた後でもこの映画に執着し、1989年の公開に漕ぎ着けた。自分のアイデンティティーを喪失する訳にはいかないという事で。何よりもこの映画のラストでのズラウスキー自身の言葉 "私はアンジェイ・ズラウスキー。『 シルバーグローブの監督だ" がその事を示していると言えるでしょう。

 

f:id:mythink:20180523224726j:plain

 

f:id:mythink:20180523224739j:plain

 

f:id:mythink:20180523224751j:plain

 

f:id:mythink:20180523224811j:plain

 

f:id:mythink:20180523224827j:plain

 

f:id:mythink:20180523224840j:plain

 

f:id:mythink:20180523224852j:plain

 

 

 

f:id:mythink:20180514032025j:plain

 

 

 

 

 

 

視覚的印象が強いモーショングラフィックを使用したしたミュージックビデオ:U2 の "Get On Your Boots"

f:id:mythink:20180514032025j:plain

 

 ■   2009年に発表されたU2の12枚目のスタジオアルバム『 No Line on the Horizon 』からの1st シングル "Get On Your Boots" のMVを紹介しましょう。フランスの映像作家の Alex Courtes と Martin Fougeral (1 ) によるこのMVの総制作費が5億円って聞いた時驚いた、だって映画じゃなくてたった数分のMVですよ。でも、MV制作に5億円払えるミュージシャンも U2 しかいないよなって変に感心もした (笑)。

 

f:id:mythink:20180514032809j:plain

 

 

 U2 の "Get On Your Boots"

f:id:mythink:20180514032025j:plain

 

   このMVはたんなるモーショングラフィックではなく、U2 の演奏と絡めたスペーシーでサイケデリックなグラフィックがカッコよく仕上げられている。ここまでカッコいいのはそう見られるものじゃないでしょう。

 

   ギターのエッジは『 男達は、物事をどんどん悪くしていく、政治的にも、経済的にも、社会的にも、だから、今こそ物事の実験を女性に渡すべきなんだというアイディアが元になっているんだ。完成したビデオは本当に素晴らしいよ。釘付けになるね。』とコメントしている。たしかに背景には女性の姿が多く見られる。

 

 

 

 

f:id:mythink:20180514234533j:plain

 

 

f:id:mythink:20180514234550j:plain

 

 

f:id:mythink:20180514234612j:plain

 

 

f:id:mythink:20180514032809j:plain

 

(1 )

   ちなみにMartin Fougeral は B'z の『 SUPER LOVE SONG 』のMVも制作している。

 

 

f:id:mythink:20180514032025j:plain

 

視覚的印象が強いモーショングラフィックを使用したミュージックビデオ:VAMPS の "REVOLUTION"

f:id:mythink:20180514032025j:plain

 

以前の記事、

    僕を楽しませてくれた映画『 007 カジノ ロワイヤル 』のオープニングをクリス・コーネルの死から再び見直した

で映画『 007 カジノロワイヤル 』のオープニングで展開されるモーショングラフィックの事を書きました。同様に、今回は僕が好きなMV ( ミュージックビデオ ) のモーショングラフィック編ということで書いておきましょう。

 

f:id:mythink:20180514032809j:plain

 

 

VAMPS の "REVOLUTION"

f:id:mythink:20180514032025j:plain

 

  2010年に発表されたVAMPS ( ラルクhyde による別プロジェクト ) の2枚目のアルバム『 BEAST 』の収録曲 "REVOLUTION" のMV。映像制作を手がける株式会社 P.I.C.S の喜田夏紀と寺井弘典により作られた。喜田夏紀はラルクVAMPS のステージ映像の制作にも関わったりしている。P.I.C.S には欅坂46の MV監督 ( "サイレントマジョリティー" や "エキセントリック" )で有名になった池田一真も所属している。

 

 

 

 

f:id:mythink:20180514033040j:plain

 

 

f:id:mythink:20180514102134j:plain

 

 

f:id:mythink:20180514154410j:plain

 

 

 

f:id:mythink:20180514032809j:plain

 

 

このブログ内の関連記事

 

 

 

f:id:mythink:20180514032025j:plain

 

僕を哲学的に考えさせる映画:タル・ベーラの『 ニーチェの馬 』

f:id:mythink:20180419222403j:plain

 

 

f:id:mythink:20180506115242j:plain

 

監督:タル・ベーラ

脚本:タル・ベーラ  クラスナホルカイ・ラースロー

 

出演:デルジ・ヤーノシュ  ( 父 )

  :ボーク・エリカ    ( 娘 )

 

公開:2011

 

f:id:mythink:20180427202224j:plain

 

 

1.   ニーチェは関係ない・・・

f:id:mythink:20180419222403j:plain

 

a.   ニーチェの馬 』・・・このタイトルは多くの人 ( 哲学の先生でさえ ) を勘違いさせるかもしれない、この映画はニーチェの思想と何か関係があるかもって具合に。また、映画の中身を見ても、人によっては、父と娘の静かな生活の繰り返しがニヒリズム、または永劫回帰を表していると解釈し、無意識的にニーチェ的方向に傾いている事に気付かない場合もあるかもしれない (1 )

 

b.   しかし、この映画はニーチェ的思想とは何の関係もないとはっきりさせておくべきであって、"ニーチェ" という単語から即座にニーチェの思想をこの映画に見ようとするのは残念ながら短絡的でしょう。端的に言うならこの映画は、人間が "無" へと向かい消滅する生き物でしかない事を静かに示す映画なのですね。そう、この映画はニーチェというよりはハイデガー的モチーフに貫かれています。父と娘の質素な田舎生活、いうことを聞かない馬、そんな貧しさを写すモノクロの世界・・・それらは静かな感動を呼ぶのと同時に、貧しさの中から哲学的真理を開示しようとするハイデガーの姿勢に危険なくらい近いかもしれない (2 ) 、哲学的な意味で。

 

c.   話を戻して、紛らわしい『 ニーチェの馬 』というタイトルをどう解釈すべきか考えましょう。たしかに映画の冒頭で、1889年に、イタリア・トリノの広場で動かなくなった馬が御者に鞭打たれている所にニーチェが駆け寄り、その首を抱いて涙し、そこから発狂していったというエピソードがさしこまれている。そして、その後、その馬がどうなったかは分からない、という一文が付け加えられてますね。

 

d.   ニーチェ的補助線に頼りたくなるかもしれませんが、この一文によって、このエピソードにおけるタル・ベーラの興味はニーチェから既に "馬" に移行している事が分かる ( ニーチェを余り知らない人は、このエピソードでニーチェに興味を抱くでしょうけど )。ここで馬がタル・ベーラの興味を引いたのは、ニーチェのように感傷的な対象としてではなく( タル・ベーラはセンチメンタリズムが嫌いだと言っている )、"動かない馬" が人間のそばにおいて、その "終末" を予感させる何物かであると解釈した からでしょう。

 

e.   タル・ベーラが馬を使って試みたのは人間の終末についての映画だという訳なのですが、わざわざ馬を使わなきゃ人間の終末は描けないの?と思う人もいるでしょう。けど、彼がおそらく漠然と描いていた終末論に、インスピレーション与えたのはニーチェの発作エピソード (3 ) であり、彼はそれを強引に解釈して作品の形式を考えたと言うべきでしょう。なので彼の中では、馬があってこその終末論的作品を作るというのは筋が通っているのですね。

 

 

f:id:mythink:20180514032809j:plain

 

(1 )

Amazonのレビューを見れば、この映画を素朴にニーチェ的に捉えようとする人の意見が多いことが分かりますね。

 

 

(2 )

何が危険かというと、哲学者の学説と本人の人間性が乖離している事は珍しくないが、ハイデガーの場合はそれが極端だった。存在の概念を考え抜いた20世紀最高の哲学者は、ナチ党員であり ( 一時期だけど )、反ユダヤ主義の要素も持ち合わせていたし、不倫もしていた。そんな彼は貧しさや質素さの中から "存在" を開示する哲学的叙述を行っており、それが "本物" であるかのような印象を与えていた・・・。そんな哲学的学説を展開する一方で、本人の人間性がそれを裏切る場合のある事をハイデガーは証明してしまった 。もちろん、それによって彼の学説が全て否定される十分な理由にはならないのは強調しておかなければいけないけど、貧しさや素朴さは単純に感動されるべきものではなく、隠された緊張状態がそこに潜んでいる事に注意すべきでしょう。

 

 

(3 )

そしてニーチェのエピソード以上にタル・ベーラにインスピレーションを与えたのはロベール・ブレッソンバルタザールどこへ行く ( 1966 ) 』であるのは間違いないでしょう ( まあ、こっちはロバですけど )。彼はイギリスの映画雑誌 "Sight&Sound" の自分が選んだオールタイムベストに『 バルタザールどこへ行く 』を入れたくらいですから。

 

f:id:mythink:20180427202224j:plain

 

 

2.   終末論的映画 ( ※4 ) としての『 ニーチェの馬

f:id:mythink:20180417202554j:plain

 

a.   もう既に述べてますが、この映画って終末論的映画なんですね。映画は旧約聖書の創世記になぞらえて6日間の章分けで構成されています。ただし、それは創世記の逆ヴァージョンであり終末に向けての6日間となっています。そして付け加えておかなければならないのは、この映画の終末論は、信仰のある人間は助かるというような救済のある聖書的な終末論とは一線を画しているという事です。ここでの終末論は・・・人間という "存在" それ自体が "無" に向かうものであり、救済などという余りにも人間的なもの ニーチェ的表現を使ってしまった・・・) が入る余地がないものなのです。

 

 

 

   1日目の章からの数ショット。

 

ジャガイモの水煮。

f:id:mythink:20180508010834j:plain

 

 

娘が父と自分の分ふたつを大皿に取る。

f:id:mythink:20180508011142j:plain

 

 

テーブルに置かれたジャガイモ・・・このゴッホ的なショット。

f:id:mythink:20180508011207j:plain

 

 

ジャガイモを食べる父。

f:id:mythink:20180508012012j:plain

 

 

■   2日目の章からの数ショット。

 

ジャガイモを食べる娘。

f:id:mythink:20180508012759j:plain

 

 

通りすがりに酒を求めてきた男と会話をする父。男は町が吹きすさぶ風によって駄目になったから田舎のここに来たと言う。そしてその惨状の原因が人間自身にあると続ける。

f:id:mythink:20180508014117j:plain

 

 

 

f:id:mythink:20180508014840j:plain

 

 

 

f:id:mythink:20180508014856j:plain

 

 

 

f:id:mythink:20180508014921j:plain

 

 

 

f:id:mythink:20180508014936j:plain

 

 

 

f:id:mythink:20180508014948j:plain

 

 

■   4日目の章からのショット

 

井戸の水が枯れてしまい生活が出来ないので他の場所に移動しようとするものの、父は高齢で馬は言う事を聞かないので娘が荷車を引くはめに・・・。でも女性がずっと引き続けられるはずがなく家に戻ってきてしまう。ちなみに馬が馬車の役割を果たしていたのは、映画の冒頭で父が外から家に戻る時だけで後はずっと言うことを聞かない。

f:id:mythink:20180508213828j:plain

 

 

■   5日目の章からの数ショット

 

父と娘の食事。でも父は食事が進まない。

f:id:mythink:20180508231636j:plain

 

 

食事を途中で止めて窓際に座る父。

f:id:mythink:20180508231914j:plain

 

 

じっと外を見る。

f:id:mythink:20180508232018j:plain

 

 

ランプに火を点けようとしても上手くいかない。ここから画面が徐々に暗くなる。

f:id:mythink:20180508232231j:plain

 

 

■   6日目の章からの数ショット。

 

父と娘の食事。食べようとしない娘に父は "食え" 。

f:id:mythink:20180508233739j:plain

 

 

それでも食べない娘に父は "食わねばならん" 。でも娘は食べない・・・。

f:id:mythink:20180508233926j:plain

 

 

その後、画面は全て黒くなりエンディングとなる。

f:id:mythink:20180508234042j:plain

 

 

b.   父と娘の食事・・・ここでのそれは食文化へと昇華されたものからは程遠い原始的な営みでしかなくなっている。もう他にすることが何もなくても、食べるしかない。食べないと死ぬ。しかし娘はそれを拒否する、いや、諦めて終末を受容れていると言った方がいいでしょう。

 

c.  ジャガイモだけの食事のこのシーンは、余分なものが削られた最低限の営みでしかないという意味で、終末の1歩手前にいる人間の "存在" を描こうとしている。しかし、このシーンだけでは人間の "存在" を浮かび上がらせることは出来ない。

 

d.   このシーンに続くブラックアウトの画面において、人間の "存在" を描くことに成功する。つまり終末という次元を超えた "無" こそが人間の "存在" を浮かび上がらせる事が出来るのです。かつてそこにいた人間がもういない・・・今はそこに "無" がある。しかし、その無はかつて人間がいたからこそ認識される 無 なんですね。無 が文字通りに 無 であったとしたら、もはやそれは 無 であると認識されることさえないでしょう。つまり、無 であると認識される事柄の中には、文字通りの 無 ではない何かがあるのです。無 は何物か "である" のです。たとえ人間がこの世からいなくなったとしても、その "無" には、人間ではなく、人間の "存在" があるのですね、哲学的に考えれば。

 

 

f:id:mythink:20180514032809j:plain

 


(4 )

終末論的映画という事であれば、ラース・フォン・トリアーの『 メランコリア 』を参照する必要があるでしょう。

 

 

f:id:mythink:20180514032025j:plain

 

 

 

僕の記憶に残したいシンガー〈 クリス・コーネル 〉

f:id:mythink:20180419222403j:plain

 

以前、このブログの記事

■   僕を楽しませてくれた映画『 007 カジノ ロワイヤル 』のオープニングをクリス・コーネルの死から再び見直した

クリス・コーネルについて触れ、

 

■   僕を楽しませてくれた音楽のアルバムジャケット〈 サウンドガーデン 〉

でクリスの出発点であるグランジバンドのサウンドガーデンについても触れましたので、ここで彼のソロアルバムについて語っておきますね。

 

f:id:mythink:20180429220040j:plain

 

 

 

1.   Euphoria Morning 』

f:id:mythink:20180419222403j:plain

 

■   Euphoria Morning 』、1999年に発表されたソロアルバム1作目。"Euphoria Morning"・・・文字通り訳すなら "朝の幸福感" というところでしょう。でも、アルバムを聞けば分かるけど、それは幸福が溢れているというよりは、クリス・コーネルが、自ら創りだした世界に心ゆくまで浸るという内省的な幸せに包まれている感じですね。曲調としては、サウンドガーデン時代のアルバムに入っていてもおかしくないような曲 ( 彼らのアルバムの中にしばしば見られるクリスの内面を掘り下げたようなもの ) がソフトなロック調になったものといえるでしょう。彼のシンガーとしての才能を再認識させてくれるほとんど捨て曲の無い名盤。

 

 

■   サウンドガーデン時代には見られなかった癒しの雰囲気があるアートワーク。

f:id:mythink:20180429224749j:plain

 

 

■   Chris Cornell  "Can't Change Me"  fromEuphoria Morning 』

■   アルバムの冒頭を飾ったヒット曲。

 

 

■   Chris Cornell  "Preaching the End of the World"  fromEuphoria Morning 』


■   アルバム製作時にクリスが、あまりにもありふれた曲調だとしてアルバムに入れるのを躊躇した曲。確かにサウンドガーデンっぽさはほとんどない普通の曲だが、その装飾のないシンプルさが心に響く1曲。

 

 

■   Chris Cornell  "When I'm Down"  fromEuphoria Morning 』


■   この曲を聴くと、彼がグランジ出身とか、それを捨てようとしていたとか、そんな類の話なんてどうでもよくなるくらい純粋に彼の歌声を堪能できる素晴らしい1曲。

 

 

■   Chris Cornell  "Wave Goodbye"  fromEuphoria Morning 』


■   親友であったジェフ・バックリィ ( 1997年にミシシッピ川で溺死 ) に捧げた曲。

 

 

■   Chris Cornell  "Sweet Euphoria"  fromEuphoria Morning 』


■   後年のソロアルバム『 Higher Truth 』の萌芽とでも言うべきブルースロック調の味わい深い1曲。

 

 

2.  『 Carry on 』

f:id:mythink:20180419222403j:plain

 

■   Carry on 』、2007年に発表されたソロアルバム2作目。1枚目の『 Euphoria Morning 』が内省的なアルバムであったのに対し、こちらはロックンロール調 ( あくまでクリス・コーネル流だけどね ) でまとめられた秀作。悪くはないのだけど『 Euphoria Morning 』の出来が良すぎたものだから、ちょっと物足りなさが残るかも。そんな中でも『 You Know My Name 』だけは突出している。この曲のために他の曲があるといってもいいくらいのカッコよさ。『 007 カジノロワイヤル 』で主題歌として聞き、そのためだけにアルバムを買った人もいるでしょう。

 

 

■   アップに耐えられる顔のカッコよさでいっぱいのアートワーク。渋いね。

f:id:mythink:20180430201954j:plain

 

 

■   Chris Cornell   "You Know My Name  from 『 Carry on 』

■   このMVでの髪を逆立てたクリス・コーネルを見て、映画『 ファイトクラブ ( 1999年 ) 』の頃のブラッド・ピットを思い出した。カッコいい。

 

 

■   Chris Cornell   "Billie Jean  from 『 Carry on 』


■   このアルバムで "You Know My Name" と並んで聞き応えのある1曲。マイケル・ジャクソンのカバーだけど、クリス・コーネルの世界観でブルージーに歌い上げた傑作。

 

 

3.  『 Scream 』

f:id:mythink:20180419222403j:plain


■   2009年発表のソロアルバム3枚目の『 Scream 』。ラッパーであるティンバランドがプロデュースしたことでも話題になった作品。ティンバランドのプロデュースということから分かる通り、この作品はデジタルロック、あるいはデジタルR&Bというべきデジタル感満載の仕上がりになっている。故に、それまでの路線とは違うということから賛否両論となった。

 

■   ティンバランドがプロデュースしたジャスティン・ティンバーレイクの作品のように、彼のプロデュースとはミュージシャンの能力 ( 歌やギターが上手い、楽曲がカッコいい ) を前面に出すロック的なものではなく、打ち込みのビート、様々な効果音などを駆使したクールなデジタル空間 ( ヴォーカルもその中の 1要素 ) を包括的なものとして提供するところに特徴 ( いわゆるヒップホップ的手法 ) がある。

 

■   なのでティンバランドクリス・コーネルにいかに敬意を持っていたとしても、そもそも彼のやり方はクリスの能力を全開に引き出すロック的なものではないので、つまらないという批判 ( 気持ちは分かるけどね ) は1,2枚目のソロアルバム側の視点に立っているに過ぎず、このアルバムについては何も語っていないのと同じということになるでしょう。

 

 

■   アルバムの内容と噛み合っていないアートワーク・・・。これ見てアルバムを買った人は、内容を聴いてあれっ!と思ったはず。まあ、クリスとしてはそれまでのロック的なイメージを打ち壊すということを主張したかったのかもしれないけど。

f:id:mythink:20180503002506j:plain

 

 

■   Chris Cornell  "Enemy"  from 『 Scream 』


■   ティンバランドのデジタル的サウンドとクリス・コーネルの声の融合。以前のソロアルバムのファンからしたらつまらないだろうけど、このようなデジタルロックはティンバランドでなければ出来なかったという意味では新鮮味がある。こういうクールなサウンドが好きな人にはタマラナイでしょう。ただし、これがライブでどれだけ再現出来てたかというと正直キツかったと思う。

 

 

■   それと、少し前に発表されたジャスティン・ティンバーレイクのアルバム『 Man of the Woods ( 2018 ) 』でティンバランドがプロデュース ( その他の多くの曲はネプチューンズがプロデュース ) した曲 "Say Something" を聴くと、『 Scream 』も上手くやればロックファンが面白く感じるアルバムになってたかもって今更だけど思いましたね。

 

 

■   Justin Timberlake  "Say Something" ft.Chris Stapleton  from 『 Man of the Woods 』

■   この曲では今、最も知名度の高いカントリーミュージシャンのクリス・ステイプルトをフィーチャーして、アーバンR&Bとでもいうべきスタイルを披露している。ああ、ティンバランドってこういうプロデュースも出来るんだなって思った。こういうのを『 Scream 』でもやってほしかったな。

 

 

4.   『 Higher Truth 』

f:id:mythink:20180419222403j:plain

 

 ■   2015年に発表された4枚目のソロアルバムであり、生前のクリスの最後の作品となった。これまでのソロアルバムに垣間見られたサウンドガーデンっぽさは余り感じられないものの、アコースティックサウンドのブルースロックでまとめられ渋い仕上がりになっている。

 

■   この作品は前作『 Scream 』の賛否両論からの反動として原点回帰したものと説明できるけど、もはやソロ1枚目の『 Euphoria Morning 』を通り越しレイドバックし過ぎてカントリーやブルースロックに至っているとも言える。

 

■   この背景には前作『 Scream 』のセールス的な問題もあったかもしれないけど、先にも述べた通り、ライブでの再現性にも問題があった。ティンバランド的デジタル空間はライブでは思うように再現しにくいが故に、ステージ上のスカスカのサウンドは観客の盛り上がりを得ることが出来なかったと思う。

 

■   それならば、いっその事、自分の声や楽曲を純粋に味わってもらうためにアコースティックサウンドに回帰したのは容易に推測出来ますね。『 Scream 』と『 Higher Truth 』の間に発表されたアコースティックライブアルバム『 Songbook ( 2011 ) 』がその事を示していると言えるでしょう。

 

 

■   天に向かって鋭く尖っている山頂とそこに重なる太陽というデザインのアートワークがレトロっぽく、アルバムの内容 ( ブルースロック ) も象徴しているようでカッコいい。

f:id:mythink:20180504002454j:plain

 

 

■   Chris Cornell  "Nearly Forgot My Broken Heart"  from 『 Higher Truth 』

■   このMVはアルバムのアートワークを踏襲していて素晴らしい。もちろん曲もね。

 

 

   Chris Cornell  "Worried Moon"  from 『 Higher Truth 』


■   ホント、聞き入ってしまうよ。素晴らしい。

 

 

 

f:id:mythink:20180419222403j:plain

 

 

 

 

僕の記憶に残したいグランジロック 〈 サウンドガーデン 〉

f:id:mythink:20180401203356j:plain

 

以前、このブログの記事

■   僕を楽しませてくれた映画〈 007 カジノ ロワイヤル 〉のオープニングをクリス・コーネルの死から再び見直した

クリス・コーネルについて書いたので、彼の出発点のバンド " サウンドガーデン " について触れておくべきでしょう。

 

 

f:id:mythink:20180416230051j:plain

 

 

 
1. 『 Louder Than Love 』

f:id:mythink:20180417202554j:plain

 

   1989年に発表された2枚めのアルバム ( メジャーデビューとしては1枚目 )。A&M というメジャーレーベルからリリースされたグランジのアルバムということで注目を浴びた・・・。

 

 

■   ライブの熱気が伝わるアルバムアートワーク。

f:id:mythink:20180417223221j:plain

 

   でも僕の中では、グランジといえば余りにも一般的な意見だけどニルヴァーナなんですよね、サウンド的にも、風貌的にも。彼らの音楽って従来のロック的なものを破壊しようというパンク的な意志が強く感じられる。でもサウンドガーデンの音楽はロックあるいはメタルの枠組みの中で如何に自分達の意志を強烈に示すかという感じでロック・メタル寄りだと思う。レッド・ツェッペリン的要素+ブラックサバス的要素+変拍子の多用+バンドサウンドを決定するグランジで多用されるディストーションをかけたギター音。そしてグランジにしては歌が上手いヴォーカル 。これこそがサウンドガーデンの特徴でしょう。シアトルを中心に盛り上がったグランジシーンでしたが、バンドによって違いがやっぱりあるんですよね。

 

   で、普通ならこのアルバムを紹介する時は、"Hands All Over"、"Get on the Snake"、"Loud Love" とかを選んだりするんだけど、ここでは殆ど紹介されることのないブラックサバス的な曲 "Gun" をピックアップしますね。これはダークでドゥーミーで、いかにもサバス、いやサバス以上にサバス的な1曲になってます。だってサバスの方がまだメロディがあるけど、そんなもん振り切ってる重苦しいリフが繰り返される。最初はあまりのダークさに受容れにくさを感じるかもしれないけど、何回か聞いてるとクセになる・・・。

 

 

■   Soundgarden  "Gunfrom『 Badmotorfinger 』

■   "Gun" を聞いていると、メタリカのカーク・ハメットが "Enter Sndman" のメインリフのインスピレーションを『 Louder Than Love 』から得たというエピソードを思い出す。まあ、『 Louder Than Love 』のどの曲かについては彼は言及してないですけど。メタリカ史上、おそらく世間に最も有名な "Enter Sndman" がこうして出来たというのは興味深いですね。

                                         

 

■   Metallica  "Enter Sandman  fromMetallica

■   今ではもう見ることがない長髪が懐かしい。『 Metallica ( 1991年 ) 』( 通称ブラックアルバム ) を発表して間もない頃で、メンバーも20代だったからパワーがある。

 

 

2.  『 Badmotorfinger 』

f:id:mythink:20180419222403j:plain

 

   1991年に発表された3枚目のアルバム。個人的にはサウンドガーデンの中で一番好きなアルバム。初めて聞いた時、これグランジじゃないだろ、メタルだよって思った! それくらいカッコよかったし、激しさが伝わってきた。今、久し振りに聞いても若い頃に聞いて湧き上がった衝動が甦ってくる。それくらい良いアルバム。このアルバムをへヴィロックの名盤として紹介した人もいたくらいだから。

 

   でも・・・一番好きなアルバムが傑作とは限らない。『 Badmotorfinger 』の路線のままだったら、そこそこ有名なグランジバンドで終わってたかもしれない。サウンドガーデンが唯一無二のバンドになるのに『 Superunkown 』は必要な傑作だったと思う。あのアルバムがあったからこそ彼らは今でも語り継がれるのでしょう。

 

 

■   いかにもロックなアルバムアートワーク。 

f:id:mythink:20180419222532j:plain

 

 

■   Soundgarden  "Rusty Cagefrom『 Badmotorfinger 』

 

 

■   Johny Cash  "Rusty Cage from『 Unchained 』

■   あのジョニー・キャッシュも "Rusty Cage" をカバーしている。カントリーロック調で渋い。サウンドガーデンジョニー・キャッシュの組合せがいい。 

 

 

■   Soundgarden  "Jesus Christ Posefrom『 Badmotorfinger 』

 

 

■   The Dillinger Escape Plan  "Jesus Christ Posefrom 『 Plagiarism 』 

■   カオティック・ハードコアバンドの The Dillinger Escape Plan ( 1997~2016 ) が EP『 Plagiarism ( 2006 ) 』でカバーしている。このEPではナイン・インチ・ネイルズの "Wish" もカバー。 The Dillinger Escape Plan はハードで前衛的な音楽性で知られるけど、この2曲は基本的にオリジナルに忠実に演奏している。ちなみに、『 Superunkown 』が全米チャート初登場1位を獲得した時、2位だったのがナイン・インチ・ネイルズの 『 The Downward Spiral 』。でもサウンドガーデンクリス・コーネルナイン・インチ・ネイルズトレント・レズナーは仲が悪かった。

 

■   そんな彼らの仲をまるで取り持つかのようにThe Dillinger Escape Plan は2006年の『 Plagiarism 』で彼らをカバーし、8年後の2014年には一緒にツアーを始める彼らのオープニングアクトを努めたという話には不思議な縁を感じますね。

 

 

■   Nine Inch Nails  "Wish"  from 『 Broken 』

 

 

■   The Dillinger Escape Plan  "Wishfrom 『 Plagiarism 』

 

 

3.  『 Superunkown 』

f:id:mythink:20180419222403j:plain

 

 ■   1994年発表のアルバム。初の全米1位を獲得。この作品によってサウンドガーデンは名声を得たといえる。前作『 Badmotorfinger 』でのストレートなへヴィ路線から変化してクリス・コーネルの内面の世界観がより反映された。それと相俟って、サウンドは単純な重みを表現するのではなく、幾分か軽く抜けが良くなったものの "澱み" が表現されているという相反するいかにもグランジ的な不安定さが集約された作品となった。でもこの作品が発表された時は自分も若かったこともあって、その良さがあまり分からなかった・・・。

 

 

■   この人っぽい謎の姿がグランジ感を煽っているアルバムアートワーク。

f:id:mythink:20180422140657j:plain

 

 

■   Soundgarden  "Let Me Down"  from『 Superunknown 』

 

 

■   Soundgarden  "Black Hole Sun"  from『 Superunknown 』


■   このアルバムを象徴する1曲。どうしようもない絶望感が漂っているのに、逆にそれが感動的であるかのように思えてしまう危険なグランジ曲。だからこそ、多くの人を惹きつけカバーもされている。そしてデイヴ・グロールをしてビートルズ + ブラックサバスと言わしめた傑作でもある。

 

 

■   "Black Hole Sun by  Norah Jones


■   2017年、ノラ・ジョーンズが米デトロイトのフォックスシアターの公演でサウンドガーデンの "Black Hole sun" をカバーした。そこはクリス・コーネルが死去する数時間前に行われたサウンドガーデンとして最後の公演場所 ( 2017年5月17日 )であり、彼女の公演はその数日後のもの。彼に対して哀悼を込めたノラ・ジョーンズのパフォーマンスが感動的な1曲。

 

 

   "Black Hole Sun by  Peter Frampton


■   生前のクリスと『 Black Hole Sun 』の演奏で共演したことのあるピーター・フランプトンによるギターインストゥルメンタルカバー。トーキングモジュレーターの名手である彼の紡ぎだす "声" がクリスの不在を感じさせずにはいられない。哀悼に満ちたパフォーマンスが感動を誘う。

 

 

4.  『 Down on the Upside 』

f:id:mythink:20180419222403j:plain

 

■   1996年に発表。本作で一度解散している。アルバムアートワークはカッコいいんだけど・・・。ジャケ買いして後悔した若い頃の記憶が今でもある (笑)。音もスカスカだし、楽曲的にも響くものがなく、緊張感もない、と感じた。キツい言い方かもしれないけど、これまでの作品が良かったからね。前作と差がありすぎるよ。全米チャートで2位になったのが今でもよくわからない。バンド自体に勢いがあったのかな。

 

f:id:mythink:20180422182632j:plain

 

 

■   Soundgarden  "Ty Cobb"  from 『 Down on the Upside 』

    このアルバムからは "Pretty Noose"  とかが当然のように紹介されたりするけど、僕的には1曲選ぶとしたらこれかな。アルバムの退屈さをこの1曲で打破するパワーがある。

 

5.  『 King Animal 』

f:id:mythink:20180419222403j:plain

 

 ■   Soundgarden再結成後の6thアルバム 『 King Animal ( 2012 ) 』。彼らのアルバムアートワークの中では一番好きですね。雪原に集まった無数の動物達の骸の中央に君臨する王の亡骸という構図がカッコいい。

 

f:id:mythink:20180423114559j:plain

■   音楽的には、成熟しているなという印象が強いです。彼ら自身がサウンドガーデンらしさというものを理解した上での楽曲作りが余裕を持って行われているし、クリス・コーネルのソロっぽい曲を挟んでくる懐の深さも見せている。一言で表すなら、安心して聞いていられるアルバムという感じでしょう。たしかにかつてのグランジブームは去っていたし、彼ら自身もピリピリするような緊張感から抜け出していたかもしれない。それでもそこそこ良いアルバムをつくっちゃうという所に彼らの経験の積み重ねを感じましたね。

 

 

■   Soundgarden  "Been Away Too Long"  from 『 King Animal 』

 

 

   Soundgarden  "By Crooked Steps"  from 『 King Animal 』


フー・ファイターズデイヴ・グロールがこのPVの監督をしている。

 

 

 

 

f:id:mythink:20180427202224j:plain

 

 

このブログ内の関連記事

 

  僕を楽しませてくれた映画『 007 カジノ ロワイヤル 』のオープニングをクリス・コーネルの死から再び見直した

 

2017年5月17日に52才で死去したロックシンガー、クリス・コーネルが歌う " You Know My name " は『 007  カジノ・ロワイヤル ( 2006 ) 』のオープニングで印象的なグラフィックアニメーションと共に僕を楽しませてくれた・・・。

 

 

 

f:id:mythink:20180419222403j:plain

 

 

僕を哲学的に考えさせる映画:『 キラー・インサイド・ミー 』

f:id:mythink:20180402144317j:plain

 

 

f:id:mythink:20180413192313j:plain

 

公開 : 2010     監督 : マイケル・ウインターボトム

原作 : ジム・トンプソン

出演 : ケーシー・アフレック   ( ルー・フォード )

   : ケイト・ハドソン     ( エイミー・スタントン )

   : ジェシカ・アルバ     ( ジョイス・レイクランド )

   ジェイ・R・ファーガソン  ( エルマー・コンウェイ )

   : ビル・プルマン      ( ビリー・ボーイ・ウォーカー )

   : サイモン・ベイカー    ( ハワード・ヘンドリックス )

   : トム・バウアー      ( ボブ・メイプルズ )

 

f:id:mythink:20180402144413j:plain

 

この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 キラー・インサイド・ミー 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたいという方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 f:id:mythink:20180402144413j:plain

 

 

1.   映画、小説、それぞれのタイトルの差・・・

f:id:mythink:20180402144317j:plain

 

a.   キラー・インサイド・ミー 』・・・この映画タイトルは原題の『 THE KILLER INSIDE ME 』をカタカナにしたものだけど、扶桑社ミステリー文庫版タイトルは『 おれの中の殺し屋 』( 訳=三川基好 ) となっている (1 )。カタカナだと何となく見過ごしてしまうけど、小説版だと『 おれ・・』ってはっきり言い切っているのに気付かされる。

 

b.   よくある映画の客観的なタイトルとは違って、『 おれの中の殺し屋 』って主観性が強く刻まれた1人称のタイトルだという事ですね。"おれ" の中には殺人者がいるんだという告白にも思えるこのタイトル・・・。この物語が主人公のルー・フォードこと "おれ" の主観性によって彩られていることに気付かなければ ( いや、この映画を見る人が小説を読んでるとは限らないので気付かないのは仕方ないけど )、この映画は嫌悪を覚える快楽殺人鬼の客観的描写に過ぎなくなる可能性もある。

 

 

 

 (1 )

邦訳では、これ以前に1990年に河出文庫より村田勝彦の訳で『 内なる殺人者 』として出版されている。このタイトルだと確かに語呂が良くかっこいいのだけど、『 THE KILLER INSIDE ME 』におけるルーの1人称の効果を見えにくくしている。もちろん、それは翻訳スタイルの違いから来るもの。1人称の主体 ( 俺 ) を明示しなくても分かる場合は、"俺" を形式的なものという事で敢えて訳さないというこなれた感を出したりしますが、この小説のタイトルは、文字通り訳すのが正解でしょう。

 f:id:mythink:20180402144413j:plain

 

 

2.   この小説における1人称の効果

f:id:mythink:20180402144317j:plain

 

a.   というのも、主人公のルー・フォードは、『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクターのようなミステリアスな存在などではなく、テキサス州セントラルシティの単なる保安官助手でしかないから。大して特徴の無い ( 殺人を平気で犯すということ以外で ) 彼の振舞いが映像化されてしまえば、観客はストレート ( 彼を意味ありげな存在にさせる迂回的、間接的要素がないから ) に彼を快楽殺人者として認識する以外は出来ないでしょう。

 

b.   しかし、そんな彼を特徴付けるのは、実は、外見や性癖 ( まあ、人を躊躇なく殺すというのが性癖といえるかもしれないけど ) などを示す客観的描写ではなく、ルー・フォードである "俺" が1人称で語るというこの小説の構造上の形式だといえるのです。

 この "俺" が全て見て、全ての出来事を話し、時折、心境を話し、全てが進んでいく・・・。ジョイス・レイクランドを殺し ( 実際は死んでなかったけど ) 、エルマー・コンウェイを殺し、エイミー・スタントンを殺し・・・最後に自分も死ぬ。おれたち、みんな。

 

c.   この1人称の語りには、3人称の客観的描写にはない上っ面の裏に隠れた人間の本質に迫る生々しさがある。特に、周囲の状況について語る時ではなく、自分の心境を語る内省の時こそ、それを読む者に迫ってくる何かがそこにある。映像では冷酷な殺人者にでしかないルーだが、小説の1人称のルーこと "俺" の独白、建前の無い本音を聞かされる私達は、そこに人間の本質というものを否定的な形で知ることになる・・・。

 

 

3.   1人称の哲学的意味

f:id:mythink:20180402144317j:plain

 

a.   1人称の語りには、"俺" が一体誰に向かって話しているのか、という問題が関わって来ます。この1人称語りを自分の中で自分に向かって話しかけているだけじゃないのという単純な理解では、そこから哲学的意味を引き出す事は出来ないでしょう。1人称の哲学的意味には "俺" が" 俺" に向かって話す、という形式的理解では捉えられない深みがある。

 

b.   ではどう理解すべきなのか? ここで参考になるのが、フランスの哲学者ジャック・デリダが閉じられた自己同一性の円環を打ち破るべく、提唱した定式 "自分がー話すーのを聞く" です (2 )デリダはそこで "自分が話す""自分が聞く" とは同等の身振りではなく、円環が閉じられる事による自己同一性の形成を常にズラしていく差延作用を発生させる異なる身振りだと言うのですね。

 

     f:id:mythink:20180413191552j:plain

                               ジャック・デリダ ( 1930 ~ 2004 )

 

c.   彼の考えをさらに解釈するなら、より重要な身振りは "自分が聞く" 方です。なぜなら、これは "自分が話す" 以上の驚くべき作用を持っているから。自分の中では、"自分が話す" のはまず当然の事。発話行為の起点が自分でなければ、発話行為自体が成立しないのだから。ところが、"聞く" 方は、"自分が話す" のはもちろん "他人が話す" のも "聞く" 事が出来る・・・(3 )

 

d.   そうすると何が起こるのか? それが行き着く先は・・・ "他人が話す" のも "自分が話す" かのように聞こえてしまう錯覚に陥ることがあるのだという事 (4 )。これこそが1人称の構造的な強度であり、読む者に時間を越えて主人公の "俺" を経験させる危険な作用だと言えるでしょう。もちろん全ての1人称の小説がそれに成功している訳じゃないけど、ジム・トンプスンの『 おれの中の殺し屋 』はその点で非常に面白い作品になっている。

 

e.   そして俺という1人称の効果が高まるのが、ラストの場面です。ルー・フォードこと "俺" の独り言は自宅での自爆の瞬間と共に頂点を迎え、そのまま独り言で物語の幕が下ろされる、客観的描写など無く・・・。扶桑社ミステリー文庫の表紙にも、その英文が載っけられている。

 

     f:id:mythink:20180413202741j:plain

 

『  うん、これで終わりだと思う。おれたちみたいなやつらにも次の場所でチャンスが与えられるなら別だが。おれたちのようなやつら。おれたち人間に。

  ねじれたキューでゲームを始め、あまりに多くを望んで、あまりにわずかしか得られず、よかれと思って、大きな悪を為す者たち。おれたち人間。おれとジョイス・レイクランドとジョニー・パパスとボブ・メイプルズ、そしてでぶのエルマー・コンウェイに、ちっちゃいエイミー・スタントン。おれたち、みんな。おれたち、みんな。

 

" Yeah, I reckon that's all unless our kind gets another chance in the Next place. Our kind, Us people.

All of us that started the game with a crooked cue, that wanted so much and got so little, that meant so good and did so bad. All us folks. Me and Joyce Lakeland, and Johnnie Pappas and Bob Maples and big of Elmer Conway and little of Amy Stanton. All of us. All of us. "

 

 

f.   このラストで1人称の作用は最終点に達し、崩壊し始める。"俺" は、"俺が話す" のだけを聞くのではなく、ジョイス・レイクランドが話すのを聞き、エイミー・スタントンが話すのを聞き、それらを自分が話しているかのように聞く・・・。自分の欲望が起点となり、他人を巻き込み、ためらいなく彼女らを殺したという自分本位な振舞いは、全てを、彼ら、彼女ら、を一括りにして自分のもとに収めようとする分裂症的、別の見方をすれば偏執狂的な思い込みに収斂し、自分を壊していく・・・。おれたち、みんな。おれたち、みんな・・・。この小説を読むことによって、この1人称の特殊な経験を共有するおれたち、みんな・・・。

 

 

 

 (2 )

彼の著作『 声と現象 ( 1967 ) 』を参照。初期の代表的著作。以降の言い回しが複雑になる著作に比べて理論構成がはっきりしていて読みやすい。高橋允昭の翻訳による理想社版 ( 1970 ) と林好雄の翻訳によるちくま学芸文庫版 ( 2005 ) がある。

 

 

(3 )

違う角度から言うなら、"自分が話す" と "自分が話すのを聞く" という身振りに分節化するものこそ "声" だといえる。つまり "声" とは、どちらかの身振りに属するものではなく、どちらからもはみ出る特殊なものであり、自分のものであって自分のものではない"物質的なもの" だとさえ言える。この物質的なものに人は魅了され、翻弄される。

 

 

(4 )

これの典型的なパターンこそ、アルフレッド・ヒッチコックの映画『 サイコ ( 1960 ) 』におけるノーマン・ベイツ ( アンソニー・パーキンス ) の振舞いに他ならない。マリオン ( ジャネット・リー ) を殺害したノーマンの隠された振舞いとは、亡き母 ( ノーマン自身が殺したのだけど ) との同一化だった。そこで注意すべきは、女装するだけではなく、母の声色を真似てしゃべり、それを聞く事によって自分の中に母を住まわせる ( 自分自身が母であると錯覚して ) という1人称の崩壊作用が起きているという事です。

 

f:id:mythink:20180402144413j:plain

 

 

4.   映画の中の主観性とその失敗

f:id:mythink:20180402144317j:plain

 

a.   小説のことばかり話してきたので、この辺で映画の方に話を戻さなければいけませんね。今まで話してきた事から、1人称の小説の映像化には難しさが付いて廻ることが分かるでしょう。映像化するという事は、"おれ" ことルー・フォードも登場人物の1人 ( もちろん主人公として周囲とは差別化されてるけど ) として客観化されるという事であり、その時点で1人称の主観性は大きく損なわれてしまう

 

b.   そこで映画では、この点を補うために、"おれ" の独白を所々で挟んでいるのだけど・・・。それは冒頭から20分くらいまでは頻繁に行われるものの、次第に少なくなっていき、ラストで自宅ごと自爆する場面では、完全に消えてしまう・・・残念なことに。

 

c.   でもそれは1人称の小説側から映画を考えた場合の話であって、映画は1人称の欠損を別の形式で補い観客を楽しませようとしている。それこそ映画独自のサウンドトラックという形式に他ならない。

 

d.   とはいえ、小説の1人称効果と映画のサウンドトラックが同等であるわけないと思うでしょう。確かにその通りですが、自分のものであるかのように他人の声を聞くことが出来る主体の振舞いという観点からすると、それらは主体の経験を豊かにするという意味では同列にあるものだとこの場合考える事が出来るでしょう。

 

e.   特に、この映画のサウンドトラックは非常に興味深い。1950年代周辺のアメリカのR&B、カントリー、そしてマーラーなどのクラシック ( これはほとんどの人が知っているでしょう ) などがピックアップされているのですが、もちろん、それは『 おれの中の殺し屋 』が1952年に出版されている事に焦点を合わせている。

 

f.   しかし、その事は、映画を原作の出版当時の雰囲気で色付けようという洒落た試み以上の恐さを無意識的に観客に経験させている・・・。おそらく誰も気付かない経験なのですが、説明していきましょう。

 

 

5.   日常と狂気

f:id:mythink:20180402144317j:plain

 

 a.   余談になりますが、この映画のサウンドトラックを聞いた時、これってどうやって調べたのだろうと思いましたね。というのも、監督のマイケル・ウィンターボトムってイギリスの人なんですよ。しかも『 キラー・インサイド・ミー 』がアメリカでの初の撮影だったというくらいだから、1950年代前後のアメリカの音楽マニアだったか、その辺のアドバイスをしてくれる人がいたか、ということになりますよね。それくらいセンスのある選曲になっている。でも、あの頃のリトル・ウィリー・ジョンとかスペード・クーリーとかをイギリスの映画監督が知っていたとは思えないんだよね、彼がマニアでないかぎり・・・。あの頃のアメリカの音楽を知っている人にとっては当り前でも、普通の人は到底知らないような選曲ばかりだからね。細かい話だけど誰か知らないかな。

 

     f:id:mythink:20180413221843j:plain

         マイケル・ウィンターボトム ( 1961 ~ )

 

 

b.   このブログの以前の記事でも書いたけど、"fever"  を歌ったリトル・ウィリー・ジョンって殺人罪で服役中に亡くなったのですが、その "fever" は映画のオープニングに使われている。そして・・・アルコールをばら撒いた自宅でジョイス、保安官達を道連れにして自爆するラストの場面では、スペード・クーリーの "Shame on You " が使われているのですが、彼もまた殺人 ( 妻を殺した! ) による服役の経験があるのですね・・・。

 

     f:id:mythink:20180413203857j:plain

            LITTLE WILLIE JOHN "fever"

 

     f:id:mythink:20180413205424j:plain

  SPADE COOLEY & the WESTERN SWING DANCE GANG "SHAME ON YOU"

 

 

 c.   そのことに気付いた人は余りいないでしょうけど、これは偶然の一致でしょうか。それとも製作者の隠された意図でしょうか。真相は分かりません。いずれにせよ、それは映画の内容を隠れた所から規定している。しかも単にスキャンダラスな事件が映画の内容と被っているという点だけでなく、その popな曲調が、殺人という悲惨な事件とは一見対極であるかのような雰囲気を醸し出し、コミカルな方向に傾いている点でも規定していると言えるのです。

 

 d.   一体、そのことをどう考えたらいいのでしょう。殺人という狂気の出来事の衝撃を和らげている? いや、それならば最初からそのような小説を映画の題材として選んだりしなかったでしょう。この小説は、極端に言えば、殺人という出来事しか起こらないのだから。そうすると、考えるべきは殺人という狂気がどのようなものなのか、という事なのです。

 

e.   たしかにルー・フォードの中に潜んでいた殺人への欲望は、それ自体が倫理的に許しがたい危険なものであるは間違いありません。しかし、それが実行されて現実の世界に衝撃を与えながら起こったとしても、現実の世界は終わることなく続いていきます。つまり、殺人は世界をすべて滅ぼしてしまう ( 部分的には滅ぼしますが、その犠牲者など ) のではなく、現実の出来事のひとつとして世界と共に続いていくのですね。

 

f.   この世界とは私達の日常と言い換える事も出来るでしょう。そうすると、殺人は日常として存在する ( 現実としてであれ、潜在的なものとしてであれ ) という残酷な現実を私達は見ているのですね。別の言い方をするならば、昔から変わることなく続く日常の流れは殺人という狂気の出来事さえ自らの内に取り込んで未来に進んでいく・・・、時には喜劇的な調子を帯びながら。そう、真の狂気は、殺人でさえ含んで続いていく日常だといえるでしょう。この日常の狂気を表現しているものこそラストで流れる popな "Shame on You" という事になるという訳ですね。

 

 f:id:mythink:20180402144413j:plain

 

 

このブログ内の関連記事

 

 

 

 

f:id:mythink:20180402144317j:plain