この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。安易に一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。ここの記事はそういうのとは対極にある。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもあるのです。この出会いをもっと味わいましょう。
監督 ジョナサン・デミ
脚本 テッド・タリ-
原作 トマス・ハリス『 羊たちの沈黙 ( 1988 ) 』
出演 ジョディ・フォスター クラリス・スターリング 役
アンソニー・ホプキンス ハンニバル・レクター 役
テッド・レヴィン バッファロー・ビル 役
スコット・グレン ジャック・クロフォード 役
アンソニー・ヒールド フレデリック・チルトン 役
▶ Chapter 1 知性のある悪として演出されたレクター
A. 1991年に公開され、その猟奇的突出性で世間に衝撃を与えた『 羊たちの沈黙 』も、時代の経過と共に今や古典的作品となってしまったのかもしれません。もう30年以上も前ですからね。今、振り返ると1990年代から2000年の初頭までの映画 ( 特にアメリカ ) には猟奇的テーマの前面化など、世間に衝撃を与えるような異様な過剰性・過激性がかなり見受けられた ( 典型的ホラーカテゴリー以外で )。今ではもう社会的に許容されにくい娯楽における過剰性が、スクリーンの上で観客にこれでもかと見せつけられていた稀有な時代がかつてはあったという事です ( それが良かったとか悪かったという話ではありません )。
B. 『 羊たちの沈黙 』は、そのような作品群を率先する特異性がありました。単に猟奇的であるだけでなく、FBIの女性捜査官のクラリス・スターリングと共にもう1人の主人公であるハンニバル・レクターが殺人者であると同時に精神科医であったという "悪と知性の結びついたミステリアスな存在性" あるいは "カリスマ性" が多くの人びとを魅了した のですね。
C. それで、レクターのキャラクターを模倣したかのようなフォロワーも映画やTVでも現れる有様だったのですが、これは『 羊たちの沈黙 』の一部をクローズアップした状況でしかなかった。そのようなレクター的猟奇性がこの映画の本質であるかのような表面的な見方が日本では強かった、いや今でも強い、のは否めない。というのも日本では映画の内容が細かく考えられる事はないので、それ以外の解釈のアプローチが見えてこない。
D. 例えば、アメリカではフェミニズム的映画批評の視点で、殺人鬼のバッファロー・ビルが同性愛者であるという設定は、同性愛者への偏見を助長するのではないかという批判が為されたりする。ジョナサン・デミはその見解に同意する事はなく、バッファロー・ビルという自分を女性であると自認する男が、完全な女性になろうと激しく切望するが故に女性の皮膚を集める目的で殺人を繰り返す "殺人衝動の猟奇的現われをあくまでも描いた" という旨の主張をする。しかし、これをよりフェミニズム的言語で考え直すならば、自分を女性であると性自認するトランスジェンダーが、完全なる女性への "移行態 ( まさしくこれは蛾の孵化の隠喩語です )" であるトランスセクシャルを目指す殺人鬼の物語だ といえるでしょう。
E. 興味深いのは、ジョナサン・デミ亡き後のインタビューの中でジョディ・フォスターが語る、映画の中ではカットされているがバッファロー・ビルが性転換について精神科医と対話する撮影シーンがあった、というものです。おそらくはこの精神科医こそハンニバル・レクターなのですが ( だからこそ映画内で彼はバッファロー・ビルについて詳細に語る事が出来ている )、ここで推測出来るのは、その臨床セッションにおいてバッファロー・ビルはレクターから大きな精神的挫折を受ける程のトラウマを味わったという事です。そうでなければその後のバッファロー・ビルの殺人という狂気のアクティングアウトは説明出来ない。トラウマを治療するはずの精神科医が患者にさらなるトラウマを与える というのは、大いなる皮肉であり歪みでもあるのですが、レクターならばやりかねないでしょう。
▶ Chapter2 レクターの中の聖域
A. おそらくはレクターは、バッファロー・ビルの性転換願望を精神科医として黙って聞き入れなかった。ここからの解釈はさらに踏み込んだものになるのですが、レクターの中には精神科医の立場を越えた人間として抱く "神聖な女性観" が絶対的なものとして君臨している。やや汚い言い方をするならば、世の中の下種な人間 ( おそれくそれはレクターにとって自分以外の "全員" を意味する ) を超える存在としての "神聖な女性観"、そして "歪んだ美学" ( 例えば彼が看守を殺した時でさえ、バッハの『 ゴルトベルク協奏曲 』を聴いて恍惚とするなど )、が彼の中にはある。精神科医であったからこその観察眼で捉えた人間存在の不潔さに彼は我慢出来ないのですが、その神聖な女性観があるからこそ彼は耐え忍び生きていける、どこかでその理想の女性に遭えるかもしれないという願望と共に。このハンニバル・レクターとクラリス・スターリングの出会い、こそが実はこの映画の核心であり、それは愛の歪んだ側面へと繋がるものなのです。
B. レクターにとってバッファロー・ビルの性転換願望は自分の神聖な女性観を汚すものでしかなかったからこそ、彼は精神科医としての倫理を捨ててバッファロー・ビルを地獄の底に突き落とすかのような強烈な罵倒を浴びせたであろう と容易に想像出来る。例えば、クラリスが初めてレクターに面会に来た場面で、通りすがりのクラリスの顔に、他の独房の囚人が興奮して自分の体液を投げつけた行為はレクターを激高させ、後に、その囚人を死に追い込むまでの罵倒・罵りをした ( 互いに独房なので言葉で遣り取りするしかない ) というエピソードにもそれは表れている。ちなみに囚人を死に追い込む程のレクターの激高の背景には、先に述べた彼の絶対的な "神聖な女性観" があるのも分かりますね ( そうでなければわざわざ死なせる必要はないですから )。
C. しかし、そうすると、このようなレクターの姿勢こそ、男性と女性というセクシャリティーの古典的固定化に拘る性差別主義者のものではないかというフェミニズムからの批判もあるかもしれません。確かにレクターのバッファロー・ビルに対する姿勢には古典的なセクシャリティーの擁護者の姿が映し出されているのですが、彼がそうであるのは女性に対してであって、自分以外の男性は女性を性的に貶める下種な存在でしかないと考えている点で、少し事情が違います。
D. レクターが下種な存在として殺すのは、自分及び理想の女性であるクラリスに対して礼節を欠き、敬意を示さない男どもなのです。つまり、レクターは自分とクラリスの2人のみを特権的存在として、それ以外の連中は敵 ( あるいは『 ハンニバル 』を観た後では強者である自分の為の "餌" だとも表現できる ) だと見做している。自分1人だけを世界の中心と考える異常者は数多くいても、自分と恋愛の対象のカップルを世界の中で特権化する異常者は数少ない。多くの殺人行為を犯しながらも同時に決して殺すことの無い唯一の神聖な対象 ( クラリス ) を同時に持つ、ここにこそ自分たちを守ろうとする歪んだ愛の保持者であるレクターの隠れた本質がある。
E. なので、気付いた人も多いとは思いますが、レクターとクラリスは元精神科医の殺人者とFBI 捜査官という互いの地位的見地からのコミュニケーションをしていたのではなく、その初めの出会いから愛が擬態的に練り込まれたプラトニックなコミュニケーションをしていた ( 鉄格子越しにレクターがクラリスの手に触れる場面など ) のであり、それはジョナサン・デミの確信的創造だったのです。
F. おそらく、そこには愛の歪んだ形が現れているのと同時に、愛の究極の形も現れている。その猟奇性故に愛の形など雲散霧消してしまっている、かのように多くの人が思いこみ、愛の要素をフェードアウトさせてしまう地点からこそ、真の愛が現れる。誰も関心を抱かず、見向きもしなくなる程、グロテスクさがクローズアップされる地点からこそ、当人同士にしか分からない愛の本質が秘かに現れる。誰かの理想であったり、誰かに受けのいい体裁的な愛の形など、おそらく本当の愛ではないのです。当人同士にしか分からず、当人同士でしか語り得ない事こそ本当の愛なのであって ( それがいかなる結末を迎えようとも )、『 羊たちの沈黙 』は秘かにそれを描いている のです。社会的体裁や一般的道徳性などに調和する愛の形などは外野の人間が望むだけのものでしかなく、当人同士の愛の関係性・本質などとは全く関係の無い抑圧的なものでしかないのです。もし『 羊たちの沈黙 』を観て、そこにレクターとクラリスの愛の香を全く読み取る事出来ないというのであるならば、その方々は、愛の自由など知らない社会的道徳による抑圧化、あるいは娯楽的猟奇性への偏愛、のいずれかに染まってしまっているのかもしれません。
[ END ]