〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ マーティン・スコセッシの映画『 ケープ・フィアー 』( 1991 )を哲学的に考える

 

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監督  マーティン・スコセッシ

公開  1991年

脚本  ウェズリー・ストリック

出演  ロバート・デ・ニーロ  ( マックス・ケイディ )

    ニック・ノルティ    ( サム・ボーデン )

    ジェシカ・ラング    ( リー・ボーデン / サムの妻 )

    ジュリエット・ルイス  ( ダニエル・ボーデン / サムとリーの娘 )

  



 1章   デ・ニーロが演じるマックス

 

この映画が公開された当時、メディアは悪役マックス・ケイディを演じるロバート・デ・ニーロの存在感を目玉に宣伝していた記憶がありますね。鍛え上げた肉体、体中に刻まれたタトゥーなど、デ・ニーロの有名な肉体改造アプローチを観客に彷彿させるかのように彼の役者としての存在がクローズアップされたという訳です。

 

こういう話は一見すると、映画の本筋とは関係のないたわいもない話のように思えるかもしれませんが、稀にこういう所にも映画を哲学的に考えるための契機が潜んでいることがあるものです。端的に言うなら、スコセッシ版『 ケープ・フィアー 』は悪役であるはずのマックスを、余りにも超人的、神的なもの ( 狂気を孕んだ ) として描き過ぎている という事です。

 

ここで J・リー・トンプソンによるオリジナル版『 ケープ・フィアー ( 邦題:恐怖の岬 ) 』におけるマックス・ケイディ ( ロバート・ミッチャムによって演じられる ) を思い出してみましょう。そこでのマックスは神的な存在であるどころか、復讐行為に走る粘着的犯罪者でしかない。それがいかにしてサムと彼の家族を追い込み、そしてサムがいかにしてマックスと戦うのかという具合に、対立する二つの主体間での争いがJ・リー・トンプソンならではのサスペンスタッチで "目に見える形で" 描かれているのです。

 



 2章    移行した性的欲望

 

そのような『 恐怖の岬 』において "目に見える形" で描かれていた対立は、スコセッシ版『 ケープ・フィアー 』でも維持されているのですが、それは表面的な事柄に過ぎなくなり、"目に見えないもの" が底に潜んでいるのを隠しているのです。J・リー・トンプソンによるオリジナル版『 恐怖の岬 』についての記事でも述べている ( A ) のですが、ここでいう "目に見えないもの" とはマックスの主体的属性であることから逃れた "性的欲望" であり、もっというなら、性的欲望の根源である "欲動" なのです。

 

そして、その "欲動" が移動した先こそがボーデン家です。この欲動こそがボーデン家における問題を明るみに出し、家族関係を揺るがすものとなる。だからスコセッシの『 ケープフィアー 』は注意深く見ると分かりますが、マックスが現れる以前に "既に" ボーデン家は歪んでいた のです。サムの不倫、その不倫を見て見ぬ振りをしながら自分に再び振り向かせようとして色気を出す妻のリー。大人の女に成りつつある娘ダニエルの情緒不安定な行動。これらの設定はオリジナル版にはないものです。

 

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そうすると、オリジナル版とスコセッシ版では同じマックス・ケイディでもその役割は全く違ってくるのです、哲学的に考えるならば。オリジナル版ではマックスは 外部から突然ボーデン家に "侵入する犯罪主体 ( 復讐のために )" である のに対して、スコセッシ版ではマックスは、欲動によって歪まされたボーデン家の狂気を具現化した人物として 内部的に出現した ( 侵入してきたのではない ) のです。元からそこにいただけなのです。このデ・ニーロによるマックスを復讐の為のみに来たと考えるには、彼は余りにも知的過ぎる。ボーデン家の問題を理解し過ぎているのです。それを示すのが、以下のダニエルとマックスの遣り取り。

 

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少女から大人になりつつあるダニエルは、自分の中に芽生える性的欲望にどう対応していいのか迷っているのですが ( もちろんこれは映画の中で明言されるわけではないので読み取らなければならない ) 、マックスはそんな彼女を大人の女の側に引き込む。彼女を少女としてしか見ていない両親に代わって、彼女の性的欲望を目覚めさせる のです。

 

ここで象徴的なのが、アメリカの作家の ヘンリ―・ミラー ( 1891~1980 ) が言及されることです ( これもオリジナル版にはない )。おそらく20世紀のアメリカ文学における最大の怪物作家だといっても過言ではないミラーは、奔放な性描写に留まらず、ストーリーの流れやリズムなどを時に平然と無視して異様かつ爆発的な描写で彩られた "小宇宙" を作品の中に何度もぶちこんでくるような異端の巨人なのです ( 10~16 )。行儀の良い文学愛好家では到底手におえない代物です ( だからこそ読む価値がある )。

 

そんな彼の作品を熱心にダニエルに勧めるマックスは、9~24 のシークエンスにおいてダニエルにとっての人生の異端教師としての役割を果たしているといえるでしょう ( ここで彼は学校に勝手に忍び込んでダニエルに教師だと偽っている )。この辺については、ほとんどの人はマックスはダニエルをたぶらかしているだけだとしか解釈しないと思いますが、サムとの戦いの中で彼女を傷つけないように ( 逆に彼女は家族の為にマックスを攻撃しますが ) 小部屋に閉じ込めたりして気を使っているのですね ( スコセッシの演出ではこの微妙さを伝えることが出来ていないけど ) ( B )。

 

サムへの復讐とは別に、ダニエルを大人にした教育という面がマックスにあったという事は、やはり彼の存在はオリジナル版のような犯罪者だという外面的理解をするよりも、ボーデン家の問題を露にする欲動が具現化された存在だという精神分析的解釈をする方が刺激的であるでしょう。

 

 

( A )

この記事については次を参照。

 

 ( B )

そのようなマックスの "教育" にダニエルが応える大人になった事を暗示するのが、映画の冒頭とラストで写し出される彼女の不気味なクローズアップ。そう、この映画はダニエルの回想形式になっているのですね ( オリジナル版にはない )。なぜ彼女の回想なのかと問うならば、彼女へのマックスの影響が強かったからだと解釈せざるを得ないでしょう。マックスがダニエルのへの贈物としてミラーの『 セクサス 』を玄関脇に置いてたりしてますしね。

 



  3章    マックスの死とボーデン家の再生

 

嵐の中でマックスと戦うサム。その顔には殺意がはっきりと刻まれ、マックスと同様の犯罪者そのものになっている。もう、ここには正義などなく、生き延びるために、どちらがより悪になれるかという凶暴性しかない。  

 

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それを示すかのように、サムは、手錠で足と支柱を繋がれ身動きの取れないマックスを岩で叩き殺そうとする ( 26~27 )。その時、マックスを乗せた木板が激流の川の中へながされてゆく ( 28~31 )。サムは自身の手を手を直接下さずに済んだものの、実質的に殺したのと変わらない。これはマックスが "" であるが故の演出だと考えるべきでしょう。誰かに殺されるのではなく、自らの手で死んでいく。マックスはもはや何の言語が分からない言葉 ( 誰も理解出来ないが故に神の言葉だとも解釈出来る ) を叫びながら沈んでいく・・・。

 

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最後に、マックスがサムに 旧約聖書ヨブ記 を読むように忠告していたのを思い出しましょう ( 興味深いことにサムはこの忠告を真面目に受け取り読んでいる )。言うまでもなくヨブ記のテーマとは "苦難の乗り越え" なのですが、マックスの忠告は、この苦難を乗り越えろという隠れたメッセージだと解釈することも出来ます。ただし、ヨブ記の中で試練を受けるヨブは罪を犯したわけではありません。つまり、善人の受ける苦難と乗り越えは神への信仰を試す機会になっているという壮絶さこそがヨブ記の真のテーマ なのですが、サムの場合もマックスに殺されなければならないほどの罪を犯したわけではありません ( 不倫をしたり、マックスの弁護が十分でなかったとかはありますが )。

 

なのに、試練を乗り越えなければならないというのは、家族内における不和が法律上の罪によって引き起こされたわけではないのを認めなければならないという事なのです。サムの不倫やダニエルの大麻使用などの違法行為によって家族が不和になったのではなく、既にボーデン家は元から不和であった という事に気付く必要がある。罪を犯したわけではなくとも、それと同等の衝撃を持つ "内的錯乱" が人間関係の内部において発生している のです ( そこにいる者は誰しも善人ではいられない )。ここにおいて、ボーデン家の底に潜む "欲動" が不和を引き起こしているのであり、その欲動が具現化された人物こそマックス・ケイディ と理解できるでしょう。

 

そして、サムがヨブと違うのは、神に信仰を誓うことによって苦難を乗り越えるのではなく、その神を殺す事によって決着を図 というものです。サムは実際にマックスを直接殺したわけではありませんが、ラストの描写は間接的に殺したといえます。つまり、神を殺す程の狂気で以てしかサムは家族内の錯乱を静めることは出来なかった神を殺さなければ家族を殺すしかなかったかもしれない のです。上辺だけの取り繕いではどうにもならない不和に対して、サムは命をかけるしかなかった。ラストの嵐はまさにその激しさを現していたと解釈出来るのです ( 終 )。