〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 映画『 恐怖の岬 』( 1962 : directed by J・リー・トンプソン )を哲学的に考える

 

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監督  J・リー・トンプソン ( J.Lee Thompson : 1914~2002 )

公開  1962年

原作  ジョン・D・マクドナルド

脚本  ジェームズ・R・ウェッブ

出演  グレゴリー・ペック   ( サム・ボーデン )

    ロバート・ミッチャム  ( マックス・ケイディ )

    ポリー・バーゲン    ( ペギー・ボーデン / サムの妻 )

    マーティン・バルサム  ( マーク・ダットン / 警察署長 )

    テリー・サヴァラス   ( チャールズ・シーヴァース / 私立探偵 )

 



 1章    オリジナル版とリメイク版

 

J・リー・トンプソンによる映画『 恐怖の岬 ( 原題:Cape Fear ) 』( 1962年 ) は現在では、マーティン・スコセッシによるリメイク版の『 ケープ・フィアー 』( 1991年 ) ほど観られることはあまりないでしょう ( リメイク版ですらもう30年近く前のものだし、オリジナル版にいたっては60年近く前ですからね )。若い映画好きの方なら、リメイク版から遡ってオリジナル版を観て、そこで J・リー・トンプソングレゴリー・ペックロバート・ミッチャム を知るはずです。

 

スコセッシ版の『 ケープ・フィアー 』はオリジナル版にある程度は忠実なのでそれだけで十分ではないかと感じる人もいるかと思われますが、哲学的に考えると、オリジナル版はやはりスコセッシ版とは違うものだと解釈出来ます。つまり、オリジナル版も十分に観る価値がある ( それは映画ファンにありがちなオリジナル信仰の紋切り型に沿うという意味ではありません ) のであり、リメイク版との "差異を哲学的に考える" ことによってオリジナルを違う角度から楽しむ事が出来るという事なのです。

 

ではどのように考えるべきなのでしょう。二つの版に共通するモチーフは、刑務所から出所した男が弁護士に "復讐する" というものなのですが、注意すべきは、それがたんに純粋な復讐ではない という事なのです。よくいわれる仇討ちなどのような復讐の美徳という行為の純粋化が、二つの版では問題になっている訳ではないのです。

 

何が問題なのかと言うと、"復讐という危険を冒す外面的行動化" "性的欲望を満たそうとする内面の潜在的動き" が結びついている という事なのです。純粋な復讐として美化するには無理がある ( 性的欲望が付き纏うので ) し、たんに性的欲望を満たすのだと決めつけるには危険を冒し過ぎている ( 再び捕まる恐れがあるので ) 。そして、その結びつきは、二つの版では違う形で現れているのです。そこを考察することによって映画の楽しみをより深めようというのがここでの試みだという訳です。

 



 2章    復讐と欲望

 

出所してサム・ボーデンの前に姿を現すマックス・ケイディ。物語の冒頭からマックスの性的趣向が強調される ( 1~6 )。

 

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一方で、マックスはサムへの復讐を刑務所での約8年間ずっと考えていたことを吐露する ( 7~10 )。そこでマックスはサムを単に殺すだけでは "物足りない" と感じ、サムの妻と娘を襲うことをそれとなく仄めかす。ここでマックスは サムの殺人という復讐行為 に、逮捕のきっかけとなった 婦女暴行という歪んだ性的衝動 を繋げてしまうのです。恨みから芽生えたはずの復讐心を 性的衝動で裏書きしてしまうという倒錯性 がここで発生している訳です。その意味で、サムが言うように、たしかにマックスは変態野郎なのでしょう ( 16 )。

 

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マックスの変態性は、殺人行為と性行為が彼の中で区別されている事です。復讐心が性的欲望を一層掻き立て、性的欲望が復讐という行動化を導くという具合に、互いを相乗的に形作っている にも関わらず、実際の行動としては、彼は対象人物に応じて "行動を使い分ける" のです。サムは復讐の為に殺し、ペギーとナンシーは性的欲望を満たすために強姦しようとする、という具合に ( サムの一家を皆殺しにしようというわけではない ) 。ここにこそ、彼の変態性が凝縮されているといえるでしょう ( 一家を皆殺しにするならば、それはもはや残虐な殺人者に移行していることになる ) 。

 

それを示すかのように、物語のクライマックスに近づきつつある緊迫した場面においても、マックスは性的合意があれば犯罪にならない ( 後々の裁判を予期して ) として、ナンシーを強引に合意させようとする ( 17~26 )。もちろん、この後ナンシーを殺したりはしない。ちなみに、このシークエンスはロバート・ミッチャムならではの粘着的なエロティシズムと暴力性が最大限に発揮される箇所です。スコセッシ版における、演技に定評のあるロバート・デ・ニーロでさえ、この雰囲気は出せていない。

 

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 3章    再び性的欲望の方へ ……

 

サムはマックスとの死闘の末、ピストルで決着を付けようとする。しかし、撃ち殺さずに、マックスに刑務所での終身刑を受けさせる事を選択する ( 27~34 ) 。

 

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建前としては、サムが揺れ動きながらも、弁護士として法の正義に拠るラストに落ち着いた、とほとんどの人は考えるでしょう。たしかにそうなのですが、精神分析的に考えるならば、そもそもマックスにサム殺しを決意させるにまで至った "性的欲望" は、それまで結びついていた復讐の行為から再び切り離され、行き場を失ってしまった かのように思えるのです。

 

どういう事かというと、終身刑になったであろうマックスは復讐という行為は不可能になる訳ですが、それですべてが解決したのではなく、既に、"性的欲望" はマックスの異常性を形成していた個人的特質の役割から逃れ、サムの家族の中に秘かに移行していた という事なのです。マックスは混乱の種を撒いていたのです。

 

細かく考えるならば、この時、性的欲望は特定の対象に向かう動きをマックスの元で脱ぎ捨てることにより、根源的な "欲動" としての姿を現し、サムの家族の中にその身を潜めた のです。その "欲動" が再び "性的欲望" として現れるには、マーティン・スコセッシ版の『 ケープ・フィアー 』を待たなければならないのですが、それについては近いうちに別の機会で考えていくことにしましょう〈 終 〉。

 



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