〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

サミュエル・マオズの映画『 運命は踊る 』( 2018 )を哲学的に考える〈 2 〉

 

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■ 息子のヨナタンに聖書の代わりにPLAYBOY誌を渡すというミハエルの行動 ( 69. )は、彼の内面ではユダヤ教の伝統が形骸化され、無意識的にそれを繰り返すだけのものになっていた事を意味する。もちろん、その行為に対して悪ふざけにも程があるだろうという意見もあるかと思われますが、重要なのはミハエル自身が、その行為の意味を分かっていなかったという事なのです。違う言い方をするならば、その行為はヨナタンを通じて、ヨナタンから自分が理解出来なかった事の意味合いが帰ってくることを期待していたミハエルの無意識的行為だったといえます。

 

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■ ヨナタンから帰ってくる無意識的メッセージとは、古代ギリシャの哲学警句 "汝自身を知れ" を文字った "女性自身に教えてもらえ" であると言い換える事が出来るでしょう。女性を知り、女性に教えてもらわなければならない、自分がどういう男であるのかを。自分が "どんな" 男であるのかは宗教は教えてくれない。パートナーである女性自身の視線を通じて男は自分がどんな人間であるのか、どうすべきなのか、を知ることが出来るのです ( 興味深いことにミハエルの妻は 哲学者 という設定になっている )。ミハエルは、それが出来ていなかった、聞く耳を持っていなかった、息子ヨナタンが本当に死んでしまう前に。

 

■ この自分自身を知ることが出来なかったミハエルの無知を示すものこそ、既に指摘したシーン 1.3. で露になった女性の顔なのですね。そして、ミハエルの母がシーン 4~5. で彼のことを認識できず兄のアヴィドグルの名前を呼んだのは、ミハエルがユダユダヤ教の伝統には属していない、つまり、父なる神の元にはいない宙に浮いた "息子" である事を象徴的に示している と考えられるのです。

 

■ 自分がそのような宙に浮いた息子であったという事実は、ミハエルを秘かに不安にしていた。自分に息子 ( ヨナタン ) が出来た時、彼は安心したというが、しかし、それは彼が自分と向き合ったとはいえなかったのです。ヨナタンが本当に亡くなった時に、ミハエルは自分と向き合うことになる。亡くなった息子こそが、"自分の実存の原型 ( 若き自分 )" であったと知る のです。

 

■ それを示すかのように、ヨナタンたちが国境を通過しようとした若者たちの集団を誤って射殺する直前、彼らの車の助手席の乗った女性にヨナタンが心を奪われるのが読み取れるシーンがあります。その意味は、彼が女性をたんなる性的欲望の対象としてのみではなく、自分に何かを教えてくれる ( 性的なものを含めて ) 存在であると直感して心をときめかせているという事なのですね。

 

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■ ヨナタンが自宅への帰還途中に事故で本当に亡くなった時、ミハエルは自分と向き合うようになる。ヨナタンがノートに書き残したイラスト ( 68~87. ) を見て涙を流すミハエル ( 88~89. )。

 

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■ 妻のミハエルに対する非難めいた言葉 "まるで何かの罰か仕返しみたい" 、これは息子のヨナタンの死がミハエルに対する罰だということなのですが、一体何の罰だというのでしょう。そして、なぜ妻に責められなければならないのでしょう。3章でもこれについて述べましたが、もう一度よく考えてみる必要がありますね。

 

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■ というのも非難されるべきは、ミハエルの少年時代の振舞い、聖書と引き換えにPLAYBOY 誌を手にいれたこと、のはずであり、それによりミハエルの母が精神を病んだとはいえ、息子の死を以て償わなければならない程の事なのでしょうか。

 

■ ここで振り返るべきは、78~85. のミハエルの家父長的男性像が描かれたシークエンスです。確かに家父長的男性像は時代錯誤的ですが、それがフェミニズムの視点から批判されるというような単純な見取り図に収まる映画ではありませんね。

 

■ ではミハエルの少年時代の反宗教的振舞いが非難されているのというのでしょうか。いや、それは違います。真に問題なのは、父権的なユダヤ教の信仰を裏切ったにも関わらず依然として強権的な男性像を演じてきたミハイルの無意識的振舞いにある のです。

 

■ そして、その原因は、子供時代の例の振舞いの意味を "意識的に" 考える事が出来なかったミハイル自身にあるというのが、この映画の見所です。"意識的に" 考える事が出来ていないから、ミハイル家の伝統の聖書を安直に PLAYBOY 誌に置き換えて、上辺だけの引継ぎ作業を無意識的に繰り返してしまう。

 

■ 父権的伝統を捨てたミハイルが今だに父権的男性像を演じようとするのは無知な振舞いでしかない というのが彼に対する非難の要点だと解釈出来るでしょう。そこで彼が考えることが出来ていないのは、妻というパートナーがいるにも関わらず、彼女の考えを無視しているという事です。

 

■ しかし、ここで間違えるべきでないのは、この映画は、妻の言うことを尊重するという余りにもありふれた道徳的行為の大切さを訴えているのではなく、妻の視点を通じてこそ自分を知る事が出来る、妻の眼に写る自分の姿に触れてこそ自分がどんな人間なのかを知る事が出来るというパートナーの大切さを説いているのですね。ここにおいて "女自身に教えてもらえ" という "汝自身を知れ" の変形ヴァージョンとしての現代的警句が効果的なものになる。実際、映画のラストではミハイルと妻のダフナは互いに寄り添って手を取り、FOXTROT のステップを踏むことに成功します。息子のヨナタンが1人であるが故に踊る事が出来なかったシーン ( 31. ) は伏線として、ようやくここで回収されます。ここにおいて、これは伝統に縛られた宗教的主体の単独性から、男と女の組み合わせ ( カップ ) への移行 を描いた映画であると解釈する事が可能になるのです。