〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ベルナルド・ベルトルッチの映画『 暗殺のオペラ 』( 1970 )を哲学的に考える〈 4 〉

  

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 "真実を知りながら、秘密を守る" ( 126~127 ) 、"僕もこの陰謀劇の共犯者でしかないからだ" ( 128 ) 、と英雄の死に対し沈黙を守り、英雄の伝説を三人組と同様に守ろうと考えるアトス。もちろんアトスは、先に述べた父の死に至る経緯の真相に薄々気付きながらも、三人組によって仕立て上げられた "文学的虚構" に乗っかっているだけなのですが ( 123~128. )。

 

■ ここで、話は ボルヘス の原作『 裏切者と英雄のテーマ 』に戻って来ています。英雄キルパトリックの死の真相が、同志であったノーラン ( 映画では三人組に相当する ) の草稿に記されているのを、現代のライアン ( 映画ではアトスに相当する ) が発見するものの沈黙を守るという筋書きが踏襲されているのですね。注意しなければならないのは、ボルヘスの原作は、これは架空の話だ、とボルヘス自身が物語の冒頭ではっきりと言明するように、文学的虚構による円環的入れ子構造を歴史的事象に落とし込もうとする試み に過ぎないものだという事です (A )。

 
(A ) ここで注意したいのは、ボルヘスの『 裏切者と英雄のテーマ 』と共に、この映画の参照項として機能しているのが ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『 リゴレット 』です。その詳しい内容については他所に譲るとして、ここで興味を引くのは、その上演に至る政治的背景。この作品の原作は ヴィクトル・ユーゴー の『 王の楽しみ ( Le Roi s'amuse ) 』なのですが、かつてのフランス・ルネサンス期の国王フランソワ1世を暗に非難する内容が当時の七月王政下における検閲に引っ掛かり、幾度も改変が行われて上演に至った経緯がある ( タイトルも変わったくらいですから )。つまり、ここにはボルヘスの作品と同様に、文学的虚構が政治を背景に創作されていて、なおかつ、それが歴史的事実でもあるという円環的入れ子構造の "実際例" がある のですね。おそらくベルトルッチはそのような事情も念頭に入れて『 リゴレットを使用したのでしょう。ちなみに、『 暗殺のオペラ 』とその原作である『 裏切者と英雄のテーマ 』で言及される シェークスピア の『 マクベス 』はヴェルディによってオペラとして上演されている。ベルトルッチの細かさが分かりますね。

 

 ■ 以上のボルヘスの試みをベルトルッチが参照しているということは、当然、アトスもノーランと同様に、架空の "抽象的主体" でしかない、という事になります。これに対して、小説や映画の登場人物はそもそも架空だろなどとつまらないことを言わないようにしましょう。それらは架空であっても物語的には実在の人物として機能していますからね。ところが、ごく稀に、架空のまま実在性を与えられること が起きます。実在しているかのように見えて実在していない。この "抽象的架空体" は観客の見方に対する挑戦であり、観客の凡庸な理解を覆そうとする作者・監督の超越的視点を媒介する人物として現れるものなのです (B )。

 
(B ) このような抽象的主体の謎めいた実在性を効果的に描いたのが メアリー・ハロン の映画『 アメリカン・サイコ ( 2000 ) 』。パトリック・べイトマンが殺人鬼と化し本当に殺人行為を実行したのか、それとも殺人はべイトマンの妄想に過ぎなかったのか、は曖昧なままで最後まで明らかにされない。

これとは対照的に分かりやすいのが、デヴィッド・フィンチャーの『 ファイト・クラブ ( 1999 ) 』。エドワード・ノートン演じる平凡な主人公の暴力性が投影された抽象的主体であるタイラー・ダーデン ( ブラッド・ピット ) は、自分の正体 ( 主人公の別人格 ) を明かして数々の暴力的テロ行為の責任を主人公自身に突き付けるのですが …… 。

 

■ アトスは、その抽象的架空体の最たる例だといえるでしょう ( シーン132. で自問するアトスに注目 )。では彼が抽象的架空体であるならば、その役割とは一体何なのか。ドライファと三人組の男の策略 ( ここで『 蜘蛛の策略 』という原題が生きてくる ) によって裏切りという名の罠に嵌められるアトス、彼の父、は政治体制の犠牲としての役割を抽象的に果たしているのです。違う言い方をするならば、アトスという抽象的主体によってファシズム的欲望が人々の心の中を浸食してしまっている事が露になるのだ といえるでしょう。ファシズムに抵抗していた三人組の男たちですら、アトスの父を殺すことによって結果的にファシズムに同調したのですから。

 



 

 以上のことを踏まえても、アトスの父が『 蜘蛛の策略 』に引っ掛かったのは分かるが、なぜドライファと三人組は、わざわざアトスを招待してまで罠にかけたのか、と思う人もいるでしょう、過去のことなのだから息子のことなどほっとけばいいではないかと。これに対しては、父の死の真相を明かそうとする人間が必要になるという実用的観点から家族である息子が設定されたといえるのですが、そう言ってしまうと、映画を愉しむという点からすると元も子もないので、次のように推測してみましょう。

 

■ もし、アトスが何らかの事情で父の死の真相を知っていたとするならば、自分たちの罪がバレてしまう恐れがあると、三人組とドライファは考えた。だから確認せねばならない。そう仮定すると彼らの行動に不思議はない。 この仮定が正しいかどうかはともかく、結局、アトスは三人組とドライファの提示した 真実という名の文学的虚構 に同意してしまったのだから、彼もまた父と同様に『 蜘蛛の策略 』に引っ掛かったのに変わりはありませんね。

 

■ この時点で、アトスの抽象的主体としての役割は終わったといえるでしょう。父の死についての文学的虚構に同意して開かれそうになった歴史的事象に再び蓋をしてしまった のだから。もちろんアトスは全面的に同意したのではなく疑問を感じていたのですが ( 135~140. )、役目を終えた彼は最後に消滅するしかなかったのです ( 140. 以後の駅での列車待ちの場面で唐突に消える )。

 



 

■ ではアトスの消滅によって、英雄の伝説的死が文学的虚構に過ぎなかったという真実は、歴史の闇に埋もれるしかない …… それがこの映画のテーマなのでしょうか。いや、ベルトルッチはそんな感傷的な敗北感を描きたかった訳ではありません。彼は確かに "敗北" を描いているのですが、それは "革命の敗北" なのです。反ファシズムの革命が失敗したのは、反ファシズム運動に関わる人々の中に 運動に抵抗しようとする "欲望の滞留" が形成されている事に因る のだとベルトルッチは描いているのです。人々の欲望が現在の状況 ( 政治体制 ) の中で動いている限り、欲望は自分が動き回る空間を自ら手放す事はしない。この "欲望の滞留" こそが、危険を冒してまで反ファシズム運動を急進化させる事を人々に躊躇わせるのですね。

 

■ この現状に踏み止まる "欲望の滞留" をベルトルッチは他の作品でも描いています。『 暗殺の森 ( 1970 ) 』においてマルチェロ ( ジャン・ルイ・トランティニャン ) は自分がファシストになる契機となったトラウマが幻想に過ぎなかった事を知ってヒステリックに叫びまくる。"欲望の滞留" の基盤であったトラウマが壊れていく事に耐えられなかったのですね ( C )。『 ドリーマーズ ( 2003 ) 』では、デモの行進の最中、マシュー ( マイケル・ピット ) のキスを拒否して同性愛的関係を否定するテオ ( ルイ・ガレル ) は、革命の最中でありなからも、それに歯止めをかける "欲望の滞留" を体現する人物であるといえます (D )。

 
( C )  暗殺の森 』については以下を参照。 

 

( D )  『 ドリーマーズ 』については以下を参照。

 

 ■ しかし、ベルトルッチは欲望の滞留を声高に非難する訳ではありません。それどころか彼は、"欲望の滞留" を政治的なものへの従属的主体である市民を強力に形成する要因である として距離を取りつつも冷徹に描き出す事に専念しているのです。政治的主体である市民の行動の奥で、欲望がいかなる動きをしているのか、それこそがベルトルッチの哲学的関心事であったと解釈出来るでしょう。