『 サロメ 』光文社古典新訳文庫
著者 オスカー・ワイルド
訳者 平野啓一郎
2012年4月20日 初版第1刷発行
発行所 株式会社 光文社
目次
サロメ
註 田中 裕介
訳者あとがき 平野啓一郎
解説 田中 裕介
『 サロメ 』によせて 宮本 亜門
年譜
現在では『 サロメ 』といえば、オスカー・ワイルドの名前を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし、『 サロメ 』はワイルドのまったくの独創物ではないのですね。このことをまず考慮に入れておく必要があります。聖書に端を発する、サロメといわれる娘と彼女の母親であるヘロディアスにまつまる説話が長年に渡って引き継がれ、芸術の分野において〈 形象 〉を与えられ、改変・改作されてきた歴史があるという事であり、ワイルドの『 サロメ 』もその中のひとつとして位置するという事なのです。
その流れを知ると、『 サロメ 』をより楽しめるようになるし、19世紀末ヨーロッパのデカダンを体現する人物という伝記的イメージで語られがちなワイルドに対しても、芸術の歴史の流れを認識し、そこから何かを汲み取り、自らの芸術に生かそうとする作家としての彼の視線を認める事も出来るはずです。
その点において、今回、取り上げる『 サロメ 』古典新訳文庫版は、註・訳者あとがき・解説がコンパクトにまとまっており、"サロメ" について十分に理解を深める事の出来る1冊となっています。"サロメ" の歴史背景の大まかな流れが、この1冊で掴めることを考えれば、どれほどお得なものか分かるでしょう。
"サロメ" の変遷の歴史については、以下の記事で述べているので、そちらを参照して頂くとして、ここでは、以前の "サロメ" を題材とした作品と比べてワイルドの『 サロメ 』は何が違うのか、考えてみましょう。
決定的な違いは、サロメの官能的な踊りではなく ( それは既にフローベールの『 ヘロディアス 』において描写されているし、そもそもワイルドの『 サロメ 』ではわずかに1行、ト書きで示されているのみ )、サロメが望んだヨカナーンの斬首と "それ" へのキス なのです。これこそが、"サロメ" の歴史の中でワイルドが為した 独創的改変 といえるものです。
もっとも、斬首といっても、西洋の美術史においては 斬首のモチーフ が幾度も現れるので、それ自体は目新しいものではない (*A ) のですが、ワイルドはそれによってサロメを母親ヘロディアスから独立した主体、それも、異質性によってその場を支配してしまいかねない強度を持つ 女優的主体 を誕生させたのです。
そのようなワイルドの女優的主体に比べると、彼とほぼ同時代のチェーホフの演劇的主体は、どれほどエキセントリックに見えたとしても、劇の中に収まる予定調和的なもの ( 言い換えると、他の誰でもなんとか演じられる登場人物の雛型ということ ) でしかない。ワイルドの『 サロメ 』は演者を篩にかけてしまう程の強力な主体性を女優に求めるという意味で、困難な作品であるのは間違いないでしょう。事実、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『 サロメ 』は別であるにしても、かつて演じられた『 サロメ 』の多くが、性的な強調に依存するものであったこと は否めない。
それらは女優に性的な演技をさせることの意味を考えることが出来ない、性的なものを超えて、それ以上の意味を女優の演技に求めることが出来ない、のです。それは、いわば、ダーレン・アロノフスキー の映画『 ブラックスワン 』で、演出家トマ ( ヴァンサン・カッセル ) がニナ ( ナタリー・ポートマン ) に演技の向上のために性的行為を促してハクをつけさせるような単純性に陥っているようなものです (*B ) 。しかし、この映画の結末は、性的なものの裏面に死がある事 ( 精神分析的意味で ) を演技を通して明らかにする事にある。この事こそが女優の演技を崇高なものにしている といえるのです。
ニナは自分の死を賭して、最高の演技をするのと同様、ワイルドのサロメも最後には自分の行為の報いとしてヘロデ王によって殺されてしまう。それによってサロメはヨカナーンの首を欲した時から、既に 死の領域 に踏み込んでいた事が明らかになります。ヨカナーンを殺したいという欲望が一体どこから来ていたのか、サロメは無視することは出来ない。殺したい欲望は、衝動が渦巻く欲動の動きそれ自体 から派生しているのであり、 そこに無関係であることは出来ない訳です。そしてサロメとは、自らの振舞いにおいて、死の領域に演技を通じて踏み込む、つまり、疑似的に自らの限界を超える女優的主体である者に与えられる名である と解釈出来るでしょう (*C ) 。
( サロメ )
そこの兵たち、こっちへ来て。水溜の中に降りて行って、あの男の首を持ってきてちょうだい。王様、王様、兵たちにヨカナーンの首を持ってくるようにお命じになって。( 大きな黒い腕、首切り役人の腕が、ヨカナーンの生首を載せた銀の楯を持って水溜から現れる。サロメはその首を引っ掴む。ヘロデはマントで自分の顔を覆い隠す。へロディアは微笑みを浮かべて、扇を揺らしている。ナザレ人たちは、跪いて、祈り始める。) ああ! ヨカナーン、お前はその口唇に、キスさせてくれなかったわね。でも、いいの! わたし、今からそこにキスするのよ。熟れた果物を齧るみたいに、歯で口唇を噛んであげる。そう、わたし、お前の口唇にキスするの、ヨカナーン。
オスカー・ワイルド『 サロメ 』 平野啓一郎・訳 光文社古典新訳文庫 p.76
( サロメ )
で、お前は見たんだね、お前の神を、ヨカナーン、でも、わたしを、このわたしを、…… お前は、そう、わたしを決して見なかった。もし私を見ていれば、きっと、わたしを好きになったはず。わたしは、だって、ヨカナーン、お前を見て、お前を好きになったんだから。ああ! わたしがどんなにお前のことが好きだったか。今でもまだ好きよ、ヨカナーン。お前だけを愛している。…… わたし、お前の美しさに渇いているの。お前の体に飢えてる。お酒や果物じゃ、わたし、慰められないの。これからわたし、どうしたらいいの、ヨカナーン? どんな大河も、どんな海も、わたしのこの苦しい情熱の炎を消すことなんてできない。わたしは一人の王女だった、そしてお前はわたしを侮辱した。わたしは、処女だった、そしてお前は、わたしの血の管を炎で満たした。…… ねえ! ねえ! どうしてお前はわたしを見てはくれなかったの、ヨカナーン? もし見てくれてたら、お前はわたしに恋をしてたはずよ。わたしにはよくわかっている、お前がわたしに恋をしたはずだって。愛の神秘は、死の神秘よりも大きいの。人はただ、愛だけを見つめているべきなのよ。
オスカー・ワイルド『 サロメ 』 平野啓一郎・訳 光文社古典新訳文庫 p.78~79
( サロメの声 )
ああ! わたし、お前の口唇にキスしたよ、ヨカナーン。お前の口唇にキスした。苦いのね、お前の口唇って。血の味なの?…… ううん、ひょっとすると、恋の味なのかも。恋って、苦い味がするって、よく言うから。 …… でも、それが何なの? 何でもないことよね? わたし、お前の口唇にキスしたのよ、ヨカナーン、お前の口唇に、わたし、キスした。( 月光が、サロメと階段の上に射す。)
オスカー・ワイルド『 サロメ 』 平野啓一郎・訳 光文社古典新訳文庫 p.80
( ヘロデ )
( 振り向いて、サロメを見ながら ) あの女を殺せ!
( 兵たちは突進して、楯の下にサロメを、へロディアの娘を、ユダヤの王女を押し拉ぐ。)
オスカー・ワイルド『 サロメ 』 平野啓一郎・訳 光文社古典新訳文庫 p.81
( *A )
例えば、ワイルドが参考にした ハインリッヒ・ハイネ ( 1797~1856 ) の長編詩『 アッタ・トロル 夏の夜の夢 ( 1847 ) 』においても 、ヨハネの首にキスするヘロディアスが描かれている。これについては以下の記事を参照。
( *B )
ダーレン・アロノフスキーの『 ブラックスワン 』については以下の記事を参照。
( *C )
この辺の考察については、以下の記事を参照。
そして、このサロメ的女優の象徴が、ビリー・ワイルダー ( 1906~2002 ) の映画『 サンセット大通り ( 1950 ) 』における グロリア・スワンソン ( ノーマ・デズモンド役 ) ですね。サイレント映画時代のスターであったノーマが凋落後、年をとってもなお映画界へと戻ろうとする ( そのための脚本が "サロメ" ) 女優的執念を見せるのですが、それがノーマを演ずるグロリア・スワンソン自身の人生と重ね合わされているのが興味深い。実際に、以前に彼女は1925年のサイレント映画『 Stage Struck 』で短いシーンではあるがサロメを演じている。
『 サンセット大通り ( 1950 ) 』でノーマを演じる グロリア・スワンソン ( 1899~1983 ) 。