〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 映画『 あの胸にもういちど 』( 1968 : directed by ジャック・カーディフ )をマンディアルグ『 オートバイ 』と共に哲学的に考える

 

はじめに

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この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもあるのです。この出会いをもっと味わいましょう。

 

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映画  『 あの胸にもういちど ( La Motocyclette ) 』

監督  ジャック・カーディフ ( Jack Cardiff : 1914~2009 )  ( * )

公開  1968年

原作  アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ ( André  Pieyre de Mandiargues : 1909~1991 )

出演  マリアンヌ・フェイスフル ( Marianne Faithfull : 1946~ )    レベッカ

    アラン・ドロン ( Alain Delon : 1935~ )            ダニエル

    ロジャー・マットン                     レイモンド

  

( * )

マイケル・パウエルの『 天国への階段 』( 1946 )、『 黒水仙 』( 1947 ) 、『 赤い靴 』( 1948 ) 、を始めとしてリチャード・フライシャーの『 ヴァイキング 』( 1958 )、『 キング・オブ・デストロイヤー / コナンPART2 』( 1984 )、等の作品での撮影監督を務めた事で知られるジャック・カーディフですが、その命日 ( 2009年4月22日 ) は彼がかつて撮影を担当した『 五銃士 ( The Fifth Musketeer ) 』( 1979 ) の監督ケン・アナキン ( * ) の命日と同じだった。

 

( * )

ケン・アナキンの記事については以下参照。

 



1章  原作と映画の乖離

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 マンディアルグの『 オートバイ 』を原作とする映画『 あの胸にもういちど 』の基本的モチーフ、レベッカがハーレー・ダヴィッドソンでダニエルで会いに行くという余りにも単調なストーリーは、その分かりやすさ故に、原作と映画の乖離を明らかにするものとして機能しています。しかし、そもそも、ここでマンディアルグの原作を持ち出さなくとも、マリアンヌ・フェイスフルの若かりし姿が見れる映画自体をカルト的に楽しめばいいのではないか、と思う人もいるでしょう。たしかにその通りなのですが、そうしようにも、この映画のひねりのない単純過ぎるストーリーは、マリアンヌ・フェイスフルとアラン・ドロンの存在感に頼るしかないという機能不全によって逆に 不自然なまでの単調さ を醸し出しているのです。

 

 この 不自然なまでの単調さ について考えようとすると、マンディアルグの原作を参照する必要性が出てくる訳です。マンディアルグの原作タイトルは『 オートバイ 』というシンプルなものであり、そこに男女の不倫関係を匂わせるものはありません。しかし、このタイトルこそが事の本質を物語っています。

 

 先程、原作と映画の乖離という言い方をしましたが、内容的には、実はそれ程、差異はないのです。むしろ、映画はある程度、原作に忠実であろうとしています。では、何によって原作と映画の乖離が発生してしまっているかというと、原作における描写手法だといえるでしょう。マンディアルグの『 オートバイ 』を読んだ人ならば分ると思いますが、彼はストーリーを、登場人物のセリフ、人物や背景の描写、などの構成要素をバランスよく用いて滑らかに進めるわけではありません。むしろ、時間の流れに抵抗するかのように、ゆっくりと世界を微細に深めていく のです。

 

 

2章  耽美性、あるいは享楽する時間

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 ここで、マンディアルグ三島由紀夫谷崎潤一郎の愛好家である耽美派作家であったことを思い起こしましょう。彼らの文体的特徴として、美、エロティシズム、幻想性、などが挙げられたりしますが、その文体の執拗な連続性の蓄積こそがストーリーを動かす原動力となっているのです。ストーリーを適切に進めるために耽美的文体を効果的に用いてるのではなく、耽美的文体の蓄積でしか前に進めない という事なのです。

 

 この耽美的文体は、人によっては退屈に感じることもあるでしょうが、実は、このことは、マンディアルグらの耽美性がいかなるものであるのかを明らかにしてくれるのです。退屈に感じさせるものとは、前に読み進めない事、いや、もっと適切に言うなら、その場面に出来る限り留まらせようとする詳細な描写の連続、に他ならないという事です。ここにこそマンディアルグらのエロティシズムの隠れた本質があると考えるべきです。通常、考えられるように、何らかの対象について快楽を煽るような描写がなされるからエロティックなのではなく、執拗な場面描写によって読者にその場面を可能な限り享楽させようとする事に作家的欲望が注ぎ込まれている のがエロティックだという訳です。

 

 だから『 オートバイ 』というタイトルにも関わらず、小説にはあまり疾走感がない、いや、それどころか、原付を運転してるのかと思わせるくらい、読者に前に進ませない ( あまりに細かい描写がスピード感を削いでしまっている )。ならば、なぜマンディアルグは『 オートバイ 』というタイトルを付けたのでしょう。ヒロインのレベッカがダニエルに会うために、フランスのアグノーからドイツのハイデルベルクまで駆けつけるにも関わらず、そこにバイクの疾走感が抜け落ちているのなら、マンディアルグにとって オートバイ とは一体何を意味するのでしょう。

 

 ここで避けたいのは、オートバイが性的なものの象徴、それも男性的なものの象徴、という単純な解釈です ( たとえ、マンディアルグがそう考えていたとしても )。その解釈は原作から隔たった映画版『 あの胸にもういちど 』にこそ相応しい。端的に言うなら、原作における オートバイ とは、2章で述べた、ある場面を出来るだけ享楽させようとする執拗な描写文体という手法の 収斂的象徴 だと解釈すべきなのです。

 

 そして、それが 時間の進行への抵抗という現象 へ至るのだとするならば、その現象を具現化するための設定こそ、アグノーからハイデルベルクまでの 長距離 に他なりません。この距離は、レベッカが愛するダニエルに会いたいが為に乗り越える空間的障壁に留まるものではありません ( 原作においてはという条件付きで )。これはマンディアルグによる 執拗かつ耽美的描写の蓄積作業の末に引き起こされる "時間遅延効果の具現化" のための代補物でもあるのです。

 

 分かりやすくいうなら、マンディアルグは、レベッカとダニエルの関係を実ることのない悲劇などというメロドラマに仕立てようとかこれっぽっちも思っていないのです。つまり、マンディアルグレベッカとダニエルの人間関係には大して興味がない、彼が本当に興味あるのは、レベッカとダニエルの間にある 永遠の距離 であり、停止した時間 であり、そこに留まるための 耽美的描写の実践 だ、という事です ( * )。

 

 ならば、マンディアルグにとってオートバイが何を意味するのか、今一度、細かく考えて見ましょう。レベッカとダニエルの傍らにあり、彼らの関係の補助的な役割をしているものの、オートバイは彼らの 手前にある存在 であるという意味で、人間主体の世界に没入する事を止揚する〈 耽美的な物 〉である と解釈出来るでしょう。そのような〈 物 〉を媒介にして描写することで、人間主体を、内面ではなく、表面を物のように捕らえて執拗な耽美的描写を施す事が可能になるのです。

 

 ただし、付け加えておかなければならないのは、そのような〈 物 〉 は、美的であると同時に、人間主体に対して〈 無感情・無関心 〉であるが故に〈 残酷さ 〉を触発することにもなります。原作の最後でレベッカは、オートバイの運転中に交通事故で亡くなってしまいます。このことは 耽美性が〈 人間の死 〉ですら、実存論的カテゴリーから抜き取り〈 物 〉として美的描写の中に収めてしまう残酷性に至る ことを示しているのです ( * )。

 

 

( * )

時間への抵抗という意味での 時間の停止 の別名こそ 永遠 に他ならないのですが、これを具現したのが 三島由紀夫 の『 豊饒の海 』。この作品は、よく 転生 という言葉で語られることが多い ( 三島自身もそう言っている ) のですが、それだと未だ人間主体中心の物語でしかない。おそらく、三島が目指したのは、限りある人生を超えて人間が転生によって永遠に生きるというような人間中心的モチーフではなく、転生する人間主体によって具現化される〈 永遠性 〉こそが最大の関心事に他ならない耽美的モチーフだ という事です。 ここでは 美 以外の人間感情には無関心であるが故の冷酷さが現れている。

 

( * )

これの極端な例が、作家として の、つまり、牢獄期 の マルキ・ド・サド に他なりません。彼は自分の快楽趣向を、小説という形式を媒介にしてひとつの耽美性にまで高めたのですが、そこに登場するのは 人間的尊厳を剥ぎ取られた物 であり、それはサドの 耽美性における残酷さの犠牲 として描かれるしかなかったのですね。

 

哲学的に考えるならば、ここには過激なカント主義が現れているといえるでしょう。イマヌエル・カント は『 判断力批判 』で美的判断における 無関心性 という概念を挙げています。これは通常、美以外の実用性や道徳性に対する無関心性の事として理解されますが、サドは違います。彼は美的対象から触発されて耽美性を追求するのではなく、女性の主体性に 無関心 であるが故に、女性を性的な とみなし、そこに自らの耽美性を刻み付けるのです ( * )。つまり、女性を 対象それ自体 において、つまり、 物自体 として位置付けるという事であり、サドはカントの理論を強力に実践しているといえるのです。

 この場合、強力というのは、標準的カント理論のように、美が対象物に内属するものではなく、対象物を表面的に扱う事、つまり、物として、そこに耽美性を刻み付けなければならないという、美的判断の裏に潜む 定言命法 ( 美を味わなければならない ) がサドによって彼の欲求を満たすように実践されているという事です。ここから ジャック・ラカン の『 カントとサド 』へ至るのはそう遠くないでしょう。

 

( * )

このサドの無関心性について、フランスの作家 モーリス・ブランショ は次のように言っています。

 

「 おのれの形成を説明する目的で、サドは、無感動 ( アパティ ) という古めかしい名前をみずから付したきわめて奇妙な概念に助けを求めている。無感動 ( アパティ ) とは、主権者であることを選んだ人間に適用されたばあいの否定の精神である。」

 

 

ロートレアモンとサド 』モーリス・ブランショ 小浜俊郎・訳 国文社  p.218

 

「 残酷さとは、破壊的爆発にまで形が変わるほど極端にまで推し進められた自己否定にほかならないし、サドが言うように、無感覚は全存在で震動し、また "魂が移行する一種の無感動 ( アパティ ) は、弱さによって獲得されるかもしれぬ快楽より何千倍も神聖な快楽にすぐ変貌する" のだ。」

 

 

ロートレアモンとサド 』モーリス・ブランショ 小浜俊郎・訳 国文社  p.220

 

 

3章  原作から映画を考える

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 遠回りしましたが、ここから映画『 あの胸にもういちど 』の方に話を戻しましょう。この映画の何のひねりもないストーリーは、若かりしマリアンヌ・フェイスフルがレザーのつなぎを着てオートバイに乗る姿それのみによって、かろうじてその体裁を保っているといえます。しかし、それは仕方のないことです。ジャック・カーディフがいかに原作に忠実であろうとしても、時間の流れに抵抗する執拗な描写文体を再現するのは困難なのですから。

 

 ここで確認しておきたいのは、それが、原作から乖離したこの映画の価値を貶めるものではないという事です。それどころか、原作と映画の双方向的関係によって、原作はその形式的属性を脱ぎ捨て、映画という異なる媒体において生まれ変わり持続していく のです。そして、この映画の面白い所は、ジャック・カーディフマンディアルグの耽美性をどのように再現するか苦心している事です。その場面に出来るだけ滞留しようとする耽美性が映像の進行と齟齬をきたすものであるならば、どう表現するのか、それについて考えていきましょう。

 

 原作には、レベッカがオートバイでスピードを出している最中にトリップ状態に陥る場面があります。少し長いですが引用しておきます。 

 

 

「 そこで若い女は、ほかの運転手たちに比べて非常な猛スピードで前進したため、やがて連中の車は、彼女の目に、まるで書き割りの一部みたいな、森林地帯の自動車道路を縁どる樅や山毛欅の並み木の前に停車しているのとかわらないような姿に映るのだった。両側の境界の無気味な接近感にも間もなく馴れた、それは超スピードの愛好者ならだれでも経験している強烈な快感を、いずれにせよ強烈な印象を生みだす空間の異様な縮小感であり、逆に、ハシッシュやコカインの作用下で、空間の拡大感が麻薬服用者にいだかせる例の感覚に引けを取らないものである。いまや世界には一つの次元しかなく、それは彼女が目くるめく思いでたぐり寄せ、アクセル・グリップを速度の限界に保つことによって、その厚みを背後へ投げ捨てていく、一本の線にまで縮まるのだった。」

 

 

『 オートバイ 』 p.54 アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ 生田 耕作・訳 白水Uブックス

 

 運転中のレベッカのトリップ状態、カーディフはこれをサイケデリックな色彩処理を施すことで表し、運転シーンのみならず、他のシーンでも使用することで、マンディアルグ耽美的文体の代補物 としてしまったのです。ただし、運転シーン以外の使用によって、原作におけるスピードによるトリップ状態というそもそもの描写が薄められ、多くの人には唐突なサイケデリック処理だと受け取られたはずです。

 

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 通常ならば、このようなサイケデリック処理がマンディアルグの耽美的文体の代わりになるはずもないと思われるかもしれません。そこにあるのは、ひとつのポップカルチャー的要素で構成されたカルト映画でしかないのですから。オートバイに跨るマリアンヌ・フェイスフル、アラン・ドロン、耽美性を補うサイケデリックな映像・・・これらの要素が原作とは異なる作品を生み出すことを想像するのは難しくありません。

 

 しかし、原作と映画は、別々の方向からひとつの結末に向かって収斂していくのです。すなわち、レベッカの死として現わされる主体の消滅 です。耽美的文体が最大の効果を発揮するための究極の帰結は、主体の死でしょう。主体が生きている限り、物語の進行が止まらないのなら、主体を殺すしかない という事です。

 

 一方、1960、70年代以降のポップカルチャーの傍ら ( 傍らであって帰結ではない ) においては、主体に死の影が付きまとっていた ( 例えば、ローリング・ストーンズブライアン・ジョーンズジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリン、など ) 。眩いばかりのサイケデリックなものには影があり、その影を担うのは人間主体以外にはあり得ないという事ですね。

 

 サイケデリック映像と若干のメロドラマ、原作とは違う方法でレベッカの死に至るわけですが、ここにマリアンヌ・フェイスフルとアラン・ドロンの存在感が加わることによって、この映画はカルト的なものになってるといえるでしょう。特に1960年後半までのマリアンヌ・フェイスフルはポップ・アイコンとして注目を浴び、ミック・ジャガーと付き合っていた ( 不倫でしたけど ) ことは今でも語られるくらいですからね ( *6 )。そんな彼女が映画の最後で役柄とはいえ亡くなるのは、以後の紆余曲折の人生を予感させるもの ( この記事の執筆現時点で亡くなっているわけではないですよ ) として興味深いです。

 

 ここでは、マンデイアルグの耽美主義が、マリアンヌ・フェイスフルというアイコンを媒介にして、ポップカルチャーに接続されていく様が映画を舞台にして現れているといえるでしょう。いや、正確に言うなら、少数者にとってのマンディアルグの文学的崇高さは、消滅するのと引き換えに大衆の中に別の形式で浸透していったのです。『 オートバイ 』の翻訳者である生田耕作も、原作の中の大衆的な物の要素を感じて、あとがきで次のように言っています。

 

 

「 週刊誌『 エクスプレス 』の記事によれば、目下、パリでは、若者たちのあいだにオートバイが大流行だという。ホンダ、ハーレー・ダヴィドソン、ノートン、グッツイといった、耳なれぬ名の外国製品が国産車をはるかに圧倒して人気を集めているのも、ひとつの特徴らしい。」

 

『 オートバイ 』p.209 訳者あとがき

 

「 ところで、この現代パリ風俗の新しい風潮の源泉として、スチーヴ・マックイーン主演のアメリカ映画『 大脱走 』と、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの近作小説『 オートバイ 』の影響が指摘されているのがおもしろい。ハリウッド映画とカミナリ族の結びつきは無理のない取り合わせとしても、マンディアルグが現代フランス文壇において占める位置を知る者にとっては、後者の組み合わせは、奇異の感をいだかせずにはおかないからだ。けだし、マンディアルグは、今日まで、およそ時流から隔絶した高踏的な文学者として受け取られてきたからである。そのため、一部文学通のあいだでは、現代フランス最高の作家の一人として、つとに最大級の評価をあたえられ、小説・評論・詩の広い分野にわたる、その特異な作品群は、少数の熱烈な讃美者を一方に維持する反面、《 大衆 》とは程遠い、《 反動的 》存在として、一般文壇からは強い反感をもって冷遇されてきた。」

 

『 オートバイ 』p.209~210 訳者あとがき

 

( * )

ミック・ジャガーということでいえば、映画『 メイド・イン・USA ( 1967 ) 』 でマリアンヌ・フェイスフルを登場させた ジャン・リュック・ゴダール は『 ワン・プラス・ワン ( 1969 ) 』でローリング・ストーンズのレコーディング風景 ( 『 ベガーズ・バンケット 』のレコーディング ) を映している。そこにはレコーディングの約1年後に死亡した ブライアン・ジョーンズ の姿も見られる。

 

 

4章  映画から原作を考える 

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 最後に、映画と原作のラストについて考えてみます。ジャック・カーディフはラストの場面で、それまで用いてきたサイケデリックな映像に頼らずに、原作の世界を再現しようとします。ダニエルとのエロティックな場面を回想して恍惚状態となる運転中のレベッカが事故に至る流れを、原作よりも効果的に演出する事に最後に成功したといえるでしょう。

 

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■ その点においては、原作のラストは少々分かりにくいのです。運転中のレベッカの回想が、例によってマンディアルグの執拗な描写によって、それが運転中のことなのか、回想なのか、はっきりしないという事です。両方とも冗長に描かれているので。ただし、マンディアルグにとっては、それは大した問題ではないといえるでしょう。彼にとっては耽美的描写を積み重ねることが関心事なのですから。なので、ここで大切なのは、映画の再現性が原作を別の角度から楽しむための契機となっている、もっと哲学的に言うなら、映画という "事後構築物" が、原作という先行物を上手く理解するための "反省性" を与えてくれる、という事です ( * )。これによって原作をより現在的に楽しむ事が出来る、つまり、関連する文壇的教養やアカデミックな教養などがなくとも、マンディアルグの原作はそれ自体で十分に楽しめるのを知らなければならないという事です。そうしなければ、マンディアルグに限らず、過去の作品は、その当時の布置に閉じ込められたままだと現代で顧みられることは増々なくなっていくでしょう、残念なことに〈 終 〉。

 

 

( * )

これを理論的に考えたのが以下の記事。特に2章を参照。そこでは哲学者ヴァルター・ベンヤミンの『 複製技術時代の芸術 』における オリジナルと複製品 の関係性、『 翻訳者の使命 』における 原作と翻訳 の関係性、を参考に移行媒体の視点から 映画と原作 の関係性について考えています。

 

映画から原作に向かう事の知的刺激について書いた記事がこちら。B級映画監督のグァルティエロ・ヤコペッティとフランスの啓蒙思想ヴォルテールの組み合わせについて考えます。 

 

 終

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