〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ アラン・ロブ=グリエの映画『 快楽の漸進的横滑り 』( 1974 )を哲学的に考える

 

初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

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監督  アラン・ロブ=グリエ
公開  1974年
脚本  アラン・ロブ=グリエ
出演  アニセー・アルヴィナ
    オルガ・ジョルジュ=ピコ
    ジャン・ルイ・トランティニヤン
    マイケル・ロンズデール
    イザベル・ユペール

 

 

 

 『 快楽の漸進的横滑り 』、アラン・ロブ=グリエによるこの難解な映画に対する讃辞は、まさにその解釈不能性ゆえによるものだといえるでしょう。誰も理解出来ないのに、その誰もが讃辞を送る映画、あるいはアラン・ロブ=グリエの諸作品読んだことのある人でも、結局のところ上手く解釈出来ない映画・・・、これらのいわゆる 宙吊りにされるかのような経験 は、彼の小説よりも映画においてこそ最もその効果を発揮しているのかもしれません。

 

 そのような経験が今、Amazon Prime Video で気軽に出来るというのは喜ばしいことです ( A )。それは皮肉でも何でもなく、現在ではほとんど見られない作品を観るという経験が皆で共有される事が大切なのです ( 一部のマニアの間でのみ流通している状況とは意味合いが違う )。何十年も前の刺激的な作品が、それが産まれた時代性を内包させながら現在において開示される というのは、誰をも触発する哲学的出来事なのです ( それが映画に限ったことではないのは言うまでもありませんね )。

 

 ただし、この記事では、難解だという感想に満足してそこに留まるつもりはありません。誰もがまともな解釈が出来ないというのは、そこに、そう反応させてしまう 何か があるという事です。もちろん、その 何か は最初から観客の 解釈 を目的に作られたわけではなく、アラン・ロブ=グリエが自分の手法を突き詰めた結果、そうなったものだという事です。だとすると、その 何か は依然として解釈を、わたしたちの思考に対して要請していると哲学的に考えることが出来る訳です。以下では、その要請に応えるべく哲学的解釈を進めていきましょう。

 

(A ) 

2020年2月現在。『 快楽の漸進的横滑り 』以外にも、『 不滅の女 ( 1963 ) 』、『 ヨーロッパ横断特急 ( 1966 ) 』、『 嘘をつく男 ( 1968 ) 』、『 エデン、その後 ( 1971 ) 』、『 囚われの美女 ( 1983 ) 』、など。これらのラインナップが Prime Video に上がった時、驚きを覚えたのは僕だけではないでしょう。願わくば、それが期間限定的なものではなく、継続的なものであってほしい。

 

 

 

 『 快楽の漸進的横滑り 』、この刺激的なタイトルは、まさにそのタイトルだけで既に知的興奮を呼び起こし、作品を補強しているという意味で、ルイス・ブニュエルの『 欲望のあいまいな対象 』に比肩しうるものだといえます ( B )。しかし、一体何が横滑りしていくというのか。それを考えることは、同時に、横滑りという概念の意味も明らかにしてくれる事になるでしょう。

 

 ここで短絡的にタイトル通りに、快楽が横滑りする以外の何物でもないだろうと決め付けるべきではありません。そのような人はまず、果たして、快楽が横滑りすることがどういうことなのか疑問に思うべきです。そうすると、その疑問は、では横滑りとはどういう意味なのかと解釈したくなる方向へ人を誘うことになるはずです。

 

 ここで次の場面を参照してみます。

 

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 ノラ ( オルガ・ジュルジュ=ピコ ) 殺人の容疑をかけられたアリス ( アニセー・アルヴィナ ) が刑事 ( ジャン・ルイ・トランティニヤン ) に自分ではないと言い訳する冒頭の場面なのですが、特徴的なのは、1. で真正面を向いたアリスが 2. で右を向く身振りです。このような右方向に視線を送る身振りは、この後、度々、出てきます。そして、この 1. 2. の場面では 4. の浜辺の 波の音が先取り的に流れている事に気付いた人もいるでしょう。

 

 これらの意味を安易に見過ごすべきではありません。本来、4. に収まるべき音が、ずれて先取り的に流れているのを、1.2. でのアリスの右に向く身振りが示しているという事なのですが、これは、この映画の構成軸である 右方向への横滑り という運動が既に始まっていると解釈出来るものなのです。

 

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 そして、この横滑りの運動を象徴しているものが浜辺の波 ( 4.8. ) なのですが、浜辺という地表をなぞり滑るようにして横に連なる波に 横滑り というタイトルの起源を見出すことが出来すね。しかし、それ以上に重要なのが、波の寄せては引くという回帰的特性 です。ここに 横滑り の概念を重ね合わせるならば、横滑りしたものが、元の場所に回帰して収まるという循環的行程を描く事 こそが、アラン・ロブ=グリエの狙いであったといえるのです。

 

 1 ~ 4. でいうと、1.2. にずれこんでいる波の音が、4. において然るべき場所に収まるというような作業が随所に施されていて、最終的には、主人公のアリス自身が、その横滑りによる循環行程の目的地として目指される ように映画は構成されているのですね。

 

 

(B )  

ルイス・ブニュエルの『 欲望のあいまいな対象 』については以下の記事を参照。ちなみに、ラカンマルクス主義哲学者スラヴォイ・ジジェクの著作『 イデオロギーの崇高な対象 ( 1989 ) 』のタイトルが『 欲望のあいまいな対象 』を捩ったものであることは浅田 彰の教示によって知られていますね ( ジジェクは映画好きで有名 )。『 パララックス・ヴュー ( 2006 ) 』なども、アラン・J・パクラの同名映画 ( 1974 ) からタイトルを借用している。

 

 

 

 さて、アリス自身が循環行程の目的地だとするならば、その横滑りが運動を開始する契機とは一体何でしょう。これは横滑りが回帰していく目的地が、舗装された道路のごとく平面の延長上にあるようなものではない事に、まず注意する必要があるという事です。もし、そうであるなら、横滑りはたんなる永久運動として地表の上を滑り続けていくばかりになりますからね。すると、それはもう横滑りしているかどうかさえ分からなくなる

 

 それが横滑りの運動であると分かるには、ズレ始めとしての出発 が必要なのであり、それによって、出発点は、ズレが元の場所に収まろうと回帰していく目的地 にもなるのです。ここで問題なのは、この出発点が、どのようにして出現するのかということです。ひとつの可能性としては、平面の一部が崩落してある種の 欠損・決壊状態 が部分的に生じ、そこに横滑りの象徴である波の母体である海が流れ込み回帰運動が始まるという解釈です。

 

 では、なぜ、ここで崩落という設定が必要なのかというと、そこに両足でしっかりと立つ基盤の崩れる影響が人間主体にとってどれほど大きいのか 考えなければならない次元が侵入してくるからです。それは精神分析的意味での 〈 トラウマ 〉が暗躍する次元なのです。そのような意味で、アラン・ロブ=グリエは 横滑りの出発点 として、アリスのトラウマという設定を導入しているのですが、ここは少しわかりにくい部分でもあるので以下の場面を見ていきましょう。

 

 最初はノラ殺人を否定していたアリスですが、つい本音が出てしまう場面 ( 9~10. )。殺したのではなく、美しい死体を作ろうとしただけだという異様な論理を持ち出す。

 

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 アリスが地下牢で自分の殺人行為の契機となったトラウマについて回想する場面。もちろん、これがアリスのトラウマだ、などという説明はないので私たちが注意して解釈する必要があります。14. の「 大きな声である言葉を言うだけ 」というのは、23. 24. のセリフ「 そして今、愛は滑り落ちる 」のこと。この 滑り落ちる という言葉が、横滑りの運動の開始を示しているのは言うまでもありませんね。ここで重要なのが、2章で述べた波の〈 音 〉や、アリスが発したセリフの 〈 声 〉、などが事物や人間主体に属しながらも、そこに収まり切れずに独立したものであるかのような性質を帯びているという事です。つまり、音と声は、それ自体において既に事物や人間からずれたものである という意味で、横滑りの象徴だと解釈出来るのです。アラン・ロブ=グリエならば、そこまで考えていても不思議ではないでしょう。

 

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 パリから来た女性の先生が、他の生徒たちと特別な関係 ( レズビアン ) を結ぶ状況で、先生への一途な自分の思いが高まり、他の生徒に渡したくないという欲望がアリスの中に生まれる。

 

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 これはアリスの「 そして今、愛は滑り落ちる 」というセリフ。物語の循環及び横滑りの形式が、ここから始まる。アリスの先生に対する独占欲がその契機となっている。

 

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 ここからは解釈をさらに深めなければなりません、転落死した先生の死体にアリスはキスをするのですが、様子を見に来た他の生徒たちにそれを見咎められてしまう。このアリスの振舞いをどう解釈すべきなのか、考えていきましょう。

 

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 先生の死体は、生徒たちがあこがれの的だった先生に関わることがもう出来ないという意味で、生の快楽 が途切れた事を示しているのですが、この条件に当てはまらない生徒が1人います。それがアリスです。生の快楽に囚われた生徒たちが死体を目の前にしてどうすることも出来ないのと違って、アリスはただ1人、皆が手出しできない死体にキスをするという行為によって自分の独占欲を満たす のです。

 

 この時、アリスの中の欲望に決定的な変化が起きたといえるでしょう。自分の独占欲を満たすことは、他の生徒たちに対する優越感と結びついていたはずなのですが、キスという行為によって、死体という現実との接触 が、アリスの欲望を死体という 対象物それ自体 へと向かわせる事になったのです。

 

 今一度、整理すると、それまではアリスの欲望は先生の人格自体へと直接的に向かうものではなく、先生に憧れる生徒たちに対する優越感を得ようとする欲望でしかありませんでした。つまり、アリスにとっては他人に対する優越感を得るための媒介物でしかなかった先生を失った代償として、死体という対象物に行きつくしかなかった という訳です。

 

 その契機は、キスによる死体との接触という偶然の出会いだった。そこでアリスの欲望に現実の次元が介入してきたのです、死体にキスしても何の手応えもない 現実 が。この 現実 は、アリスにトラウマをもたらしたはずです。自分の愛がもはや届かずに死体の上を横滑りしていくしかない現実 が、自分の欲望の通路を決定付けていしまう事への トラウマ です。先生をいかに愛そうとも、それはもう届くことはない、いや、それどころか、それは人格的愛を求めても届かずに死体の上を横滑りしていくという強制的な形式回路を 反復する しかない のです。

 

 

 

 ここで大切な事は、このトラウマが、アリスを苦しめると同時に、彼女の快楽を掻き立てる両義性を帯びているという事です。これについて考えるには、快楽よりも、より精神分析的意味合いの強い 享楽 という用語を持ち出す方がいいかもしれません。横滑りという 形式 は、対象物に自分の愛が届かないという意味でアリスを苦しめるのですが、それ以上に、対象物を求める形式を反復する事 に歪んだ生き甲斐を求める享楽が彼女の中では勝る のです。

 

 この 形式の反復 は強迫神経症、または強迫性障害といえるべきものですが、これはアリスがトラウマの経験地点に立ち戻ろうとしているという意味で、2章で述べた波の回帰的特性に重ね合わせる事が出来るでしょう。形式の反復を支える 享楽 は、死を前にしてたじろぐ 生の快楽 などではなく、死 ですら局所的なひとつの対象にしてしまうという意味で、生物学的生死を超えた人間精神の狂気的産物 だといえますね。そのようなトラウマへの回帰が象徴的に示されているのが以下の場面。アリスは転落死した先生の靴を手元に飾っているのです。 

 

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 そして、アリスのトラウマへの横滑り的回帰を決定的に示しているのが、死体が人形へと置き換えられている事です。『 快楽の漸進的横滑り 』といえば、真っ先に思い出されることで有名なマネキンですね。

 

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 ここで注意すべきは、アラン・ロブ=グリエは、なぜ人間ではなく、人形を持ち出しているのか、という事です。これをたんに彼の、映画の美的効果を高めるための芸術的趣味だなどとして見過ごしてしまえば、その人は、もう解釈を放棄しているということになるでしょう。人形への置換が示しているのは、アリスが求めているのは 対象 の個別的側面、つまり、それが先生であるとか、ノラであるとか、などという人格的存在ではなく、トラウマの契機である、死体として具現化された 抽象的対象 それ自体だ、という事なのです。その抽象的対象によって、形式の反復による享楽が可能になる 訳です。

 

 その抽象的対象は、いかなる内的属性からも離れて、ひたすらアリスの強迫神経症的反復行為としての殺人を煽る欲望の対象になっているのですが、間違えてはならないのは、アリスは死体愛好者でもなければ、殺人行為を望む犯罪者でもないという事です。かといって、先に述べた 対象それ自体を望んでいる と単純に言い切ることも難しい

 

 というのも彼女が いかなる意味で 対象を望んでいるのか、を最終的に考えなければならないからです。重要なのは、彼女がトラウマを解決する、すなわち、死体という対象を通じて自分の歪みと向き合おうとするのか、それとも、形式の反復を享楽するというリビドー経済を維持するために対象を望んでいるのか、という事なのです。

 

 言うまでもなく、その答えは後者なのですが、そこにはアリスにおける 欲望の無反省性 が現れているといえます。つまり、対象との遭遇が、自身に内的反省を促す知的昇華へ至ることが無い、それどころか、それは、形式の反復を享楽するために必要な 盲目的対象 としてしか機能していない、という事です。ここでは、トラウマはもはや乗り越えられるべきものではなく、アリスの享楽を維持するための盲目的装置でしかなくなっている。そのままでは、アリスは、自分を享楽することは出来ても、もう知的に昇華させる事は出来ないでしょう。

 

 ただし、間違っても、人間性が欠落したが故のアリスの悲劇などという結論を引き出すべきではありません。アラン・ロブ=グリエはそこからほど遠い所にいるのですから。彼の手法とは、人間主体は確かにヒューマニズムという内的属性が付きまとう生き物なのですが、その人間主体が生きる世界は、ヒューマニズムで動いているのではなく、それとは違う物的システムとして作動している事 ( この映画でいえば、アリスを支配する強迫神経症的反復行為 ) を、双方の齟齬を通じて明らかにしようとするものなのです。例えば、人間が生きていく上で必要な経済活動が時として、ヒューマニズムに反するものである事 を考えれば、それは分かるでしょう。

 

 アラン・ロブ=グリエは、そのような物的世界の様相を、自身の作品における特殊な形式として抽象化し、人間主体と短絡 ( ショートカット ) させる事によって、世界と人間との間の乗り越えられない 乖離 を、不条理的に描き出す事を目的としているといえるでしょう。これについて、奥 純 は次のように言っています〈 終 〉。

 

言い換えれば、それはすなわち、人間と世界の間には決して越えることのできない溝が存在することを認めることである。ロブ=グリエは、初期に発表されたエセーの中で、「 世界はただそこにあるだけだ 」、「 ものはものであり、人間は人間である 」、「 ものを描写するということは、断固としてものの外側に、ものの正面に自分を位置付けることだ 」、「 人間は世界を見るが、世界は人間に視線を返さない 」などと主張している 

 

アラン・ロブ=グリエの小説 』奥 純 関西大学出版部 2000年  p.216