〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 4 〉

 

 

 前回 ( 上記 ) の記事の続き。

 



 6章 ハネケが無意識に考える集団的なもの



実は、ハネケが集団的なものの謎めいた不特定性を描いたのは『 白いリボン 』が初めてではありません。彼は既に、『 隠された記憶 ( 2005 ) 』の結末でも、集団的なものの不気味な不特定性を提示しています。学校の出口に溢れる子供たちの集団の左下で、ジョルジュとアンヌの息子であるピエロ ( 黒のリュックを背負った左向きの背が低い子 ) がマジッドの息子 ( Tシャツを着て右向きの背の高い方 ) と立ち話をする箇所が、両親を事件に巻き込んだ犯人の1人がピエロではないかと匂わせる場面ですね。

 

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ただ、残念ながら、ハネケの思惑は全く空振りに終わっています。というのも、ほとんどの観客はピエロとマジッドの息子に気付かないからです ( 笑 )。ハネケとしては画面に彼らをひっそりと仕込むことで思わせぶりな演出をしたかったはずです。彼らが事件の犯人だろうという推測に対して、それも解釈のひとつに過ぎないというハネケ節で答えるつもりだったのでしょう。インタビューでピエロたちが気付かれなかったことを少し嘆いていたくらいですから。

 

話を集団的なものに戻しながら、『 隠された記憶 』のラストシーンについて考えていきましょう。この映画は、ピエロの父であるジョルジュ ( ダニエル・オートゥイユ ) が少年の頃、養子にきたマジッドを家から追い出すように仕向けた過去が、父親になった彼に "復讐というようなもの" として回帰してくるという話です。

 

なぜ復讐というようなものという曖昧な言い方をするかというと、それがマジッド自身によっておこなわれるものではないからです。それはマジッドの息子とジョルジュの息子ピエロによって仕組まれたものです。しかも、それは、おそらくマジッドが仕向けたものではなく、マジッドの息子が父親から聞いた話を自分の犯罪のために利用したと解釈出来るものなのです。

 

つまり、ハネケは『 隠された記憶 』で、ジョルジュの過去の過ちが、復讐という形ではなく、息子たちによる犯罪という形式で回帰してくる様子を描き出している 訳です。しかし、ここで注意しなければならないのは、過去の過ちが復讐として回帰してくるのでないのなら、過去の過ちという設定自体が意味の無いことになりかねません。( マジッドが ) 復讐するのでなければ、何の為に回帰するのかという哲学的疑問が起こってしまいますね。ジョルジュが秘かに抱えていた罪の意識 ( マジッドへのひどい仕打ち ) がトラウマとして顕在化し、それに直面したのだという精神分析的解釈も可能なのですが、それが当事者ではない別の主体 ( 子供たち ) の 犯罪的欲望に利用される という形で為されるのであれば、ここには "回帰" とは違う別次元の要素 ( 子供たちの "犯罪欲望"  ) がハネケによって強引に接続されてしまっている と解釈しなければなりません。仮にここで、ジョルジュのトラウマの回帰説を第一義的なものとして認めてしまうと、子供たちの犯罪的欲望に大義名分を与えてしまうという危険性に陥るからです。

 

整理すると、ジュルジュとマジッドという親同士の過去の諍いを清算しようとする倫理的決着を彼らの子供たちが実行したのだという復讐物語的解釈ではなく、息子達は自分らの犯罪欲望のために親同士の諍いを利用したのだという欲望的解釈 の方に向かうべきだという事です。普通ならば、そこから、そんな異常な親子関係・家族関係を掘り下げる方に話は進んでいきそうなものですが、ハネケは違います。子供たちの内面性が示されることはほとんどなく、たんに彼らが親に対して犯罪的行為を為す行為が積み重ねられ続いていくばかりです。

 

これが、どういうことかというと、彼らが家族関係における子供という存在であることがハネケにおいては大して問題ではないという事です。これは『 白いリボン 』の子供たちと同じく、社会における子供という存在を通じて、がどれほど犯罪的欲望の源泉として機能しているかを描いている と考えるべきものなのです。そして、この悪はピエロとマジッドの息子という2人組において発生します、『 ファニーゲーム 』の凶悪犯の2人と同じく。これはハネケにおいては、2人組というものが人間関係における軋轢や矛盾・敵対性などを示す指標となっていると解釈出来るでしょう。

 

ただし、ハネケは、この2人組という結びつきに主体的反省を加えて内面を掘り下げる方には進みません。それらが自らの振舞いを通じて外部への接続を求める事自体が欲望、それも集団的なものの欲望となっているのをハネケは描き出しているのですが、それによって、悪とは、そのような "集団的なものの欲望における無反省性" が体現されてしまったもの だと解釈出来るのです。その意味で、『 隠された記憶 』のラストシーンは、ピエロとマジッドの息子において発生した悪が、周囲の人間に拡大していくかもしれない不気味な未来を予感させているといえるでしょう〈 終 〉。