〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 2 〉

 

 

  前回 ( 上記 ) の記事の続き。

 



 4章  ハネケのアプローチ



以上の事を踏まえた上で、『 白いリボン 』について考えていきましょう。多くの人が気付いているように、この作品はドイツの村での陰鬱な出来事がナチスの到来を予感させるものとして描かれています。ただし、気を付けなければならないのは、ハネケはそれをはっきりとは明示してはいない、という事です。村で起きた事件の首謀者が、おそらく "子供たち" である ( それもはっきりとは明示されていないが、そうであろうと思わせるストーリーになっている ) ことが、その後のナチスの台頭における担い手世代としての予備軍である、と解釈させるという意味で、ナチズムを迂回的に描いているのです。このことは『 白いリボン 』のドイツ語原題である Das weiße Band の副題Eine deutsche Kindergeschichte ( ドイツの子供たちのある物語 ) を見れば明らかでしょう。そして "geschichte" が "物語" と同時に、"歴史" を意味することを考慮すれば、『 白いリボン 』における子供たちのその場限りの "物語" ではなく、ナチスの到来に繋がる "歴史" でもある事が自ずと理解出来るはずです。

 

しかし、ここで注意しなければならないのは、副題、"Eine deutsche Kindergeschichte" の訳です。普通に訳すと、先に記したように、"ドイツの子供たちのある物語" になるのですが、ハネケは、これだと ドイツの固有性のみ に焦点が絞られるとして、この訳を否定するのであり、それどころか、この副題をドイツ語圏以外では削除させているのです。この経緯についてのインタビューが以下。

 

( インタビュアー ) 作品の副題 「 Eine deutsche Kindergeschichte 」がドイツ語圏以外では訳されないようにしていましたが・・・・・。

 

( ハネケ ) その通りです。私はその翻訳 ( 「 子供たちについてのドイツのある物語 」であって「 ドイツ人の子供たちについてのある物語 」ではない ) が外国の観客たちに、作品がドイツ固有の問題を扱っているという風に思わせてしまうのを恐れたのです。( 中略 )。この副題がドイツ人と彼ら固有の歴史とを結びつけているのは明らかです。しかし、ドイツ語を知らない人々にも、この寓話が彼らの国でも同様に起こり得たのだと考えられるようにしたかったのです。

 

ミヒャエル・ハネケの映画術 彼自身によるハネケミシェル・スィユタ / フィリップ・ルイエ 訳・福島 勲 水声社 2015年 p.355

 

普通に考えると、「 Eine deutsche Kindergeschichte の訳は 「 ドイツ人の子供たちについてのある物語 」でも十分なのですが、ハネケが敢えて、それを「 子供たちについてのドイツのある物語 」とするのは、彼がドイツという "個別性" と、それが同時に、ドイツに限らない "普遍的な問題" でもある事を、"同時に" 考えさせようとする哲学的身振りから来ていると解釈出来るのです。

 

このことを理解するには、「 子供たちについてのドイツのある物語 」という訳について細かく考える必要があります。ここで気付くべき事は、ハネケは、子供自体を "直接的対象" にしているのではなく、どの国でも共通の子供という "一般的存在を媒介" にして、その一般的存在に個別的問題 ( この映画の場合、ドイツの子供教育 ) が注ぎ込まれた場合、何が起きるのか という事を描き出そうとしているのです ( A )。なので「 子供たちについてのドイツのある物語 」をもっと哲学的に書き換えるならば、「 子供たちという一般的存在の位相から描き出されたドイツの固有性問題 」とする事が出来るでしょう。このテーゼが、ドイツという単語を他の国々に置き換えることの出来る普遍的なものである事は言うまでもありませんね。

 

この "個別性" と "普遍性" への "同時的" アプローチこそが、この映画に埋め込まれているハネケの哲学的試みであると解釈出来るでしょう。それは個別的アプローチへの同一化を拒否するものであり、3章 で述べた "神聖対象" 、"表象不可能性" 、などのような 特定の対象への固着化に潜む秘匿的抑圧に同調するのを防いでくれる のです。

 

このアプローチの良い所は、悪の普遍性に対する根源的洞察、つまり、悪の出現について考察するのを可能にしてくれる点です。そのアプローチが、なぜ、個別性に拘っていては出来ないのかというと、ホロコーストという神聖対象の行き着く先は、 個別 ( ナチス:ドイツ人 )  対 個別 ( ユダヤ人 )  という人種間対立において 悪の問題が "局所化" れてしまう以外にない からです。当然、そこでは悪はナチス以外の何物でもないのですが、そうすると、ナチス以外の悪について考察する余裕はないという事になり、悪の普遍性に関する一般的考察は必然的に失われていく訳です。

 

もちろん、ハネケは個別性それ自体を否定しているのではありません。彼は、普遍性についての考察や解釈などの哲学的身振りが、個別的対象を中心とする圏域の中に囚われて身動き出来なくなる事を無意識的に嫌がっている のだと解釈出来るのです。だから、彼は自分の映画が、何らかのカテゴリーやルーツ、考察、解釈、などによって、特定化される事に常に抵抗しています。

 

それが顕著に表れているのが、この映画における "子供たち" の取り扱い方だという訳です。ハネケの関心が、子供たち及び、子供たちへの教育方法に向かい、ひいては、その子供たちが成長した頃にはナチスイデオロギーを担う世代になるのを予感させる流れをこの映画で作り上げているのは間違いありません。ただし、ハネケはインタビューでこうも言っているのです。 

( インタビュアー ) どうして時代を1913年から1914年に設定したのですか。

 

( ハネケ ) ドイツ語話者として、20年後、ナチスを政権に導いてしまう世代の少年期を扱いたかったのです。しかし、それと同時に、話を広げたいとも思っていました。ある理想を絶対とし、ある考えをイデオロギーとしてしまうことが常に危険であるということを示したかったのです。当然のことながら、今日、イスラム原理主義者に関して起きていることとは、細部において異なっています。しかし、問題の核心はいつも同じです。

 

ミヒャエル・ハネケの映画術 彼自身によるハネケ ミシェル・スィユタ / フィリップ・ルイエ 訳・福島 勲 水声社 2015年  p.355 

 

ここで、何が言いたいかというと、"個別性" と "遍性" への "同時的" アプローチをしようとするハネケの試みにおいて、"子供たち" という表現で示唆されるものをどう考えるかによって、哲学的解釈を深められるかどうか決まるという事です。既に4章で記したように、ハネケが言う "子供たち" とは、普通の常識とは違い、父親や母親などの家族と同格であるような存在なのではありません。ここでの "子供たち" とは "個別性" と "普遍性" を繋ぐための "媒介物" なのであり、人格的なものではないのです。では人格的なものでなければないのなら、その存在論的地位とは何かというと、それは "集団的なもの" だといえるのです。この場合、"集団的なもの" とは、人格的な個人の集まりの事をたんに指しているのではなく、ある事象の出現を可能にする力学が作用する上で必要な "基盤 / 基体" である と解釈すべきものです〈 続く 〉。

 

 

 次回 ( 下記 ) の記事に続く。

 

 

( A ) 

白いリボン 』においては確かにドイツのかつての子供教育であるシュレーバー教育を思い起こさせる場面があります。かつてのドイツでは教育家 ダニエル・ゴットロープ・モーリッツ・ シュレーバー ( 1808~1861 ) によって提唱された厳格な子供教育、及び矯正器具を用いた身体矯正教育の時代があったのです。以下はそれを思わせる場面。長くなりますが見てみましょう。

 

牧師は、最近、様子のおかしい息子のマルティンに対して自慰行為をしたのかと問いただす ( 1~14. )。牧師はここで自慰行為のやりすぎで亡くなった少年がいるという架空の話で息子を怖がらせ、事実を話させようとしています。もちろん、例によってハネケは、ここで自慰行為という直接的表現を使っていないのですが、それが逆に、この場面の緊張感を増幅させています。

 

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ここで興味深いのは、場面 2~5. で使われている言い回しです。"神様が聖なる覆いで守っている・・・" ( 2. )。"繊細な神経に害をなす者に出会った" ( 3. )。"最後は全部の神経が犯されて死んでしまった" ( 5. )。これらの独特な言い回しに異和感を覚えた人もいるでしょう。婉曲表現にしては特殊すぎる、と。

 

おそらく、ハネケは、これらのシークエンスでは、モーリッツ・シュレーバー像を投影させている牧師に、モーリッツ自身ではなく、彼の息子である ダニエル・パウルシュレーバー が自伝『 ある神経症者の回想録 』で展開した異様な "神経概念" を語らせているのです。モーリッツの厳格な教育を受けたパウルは、"神経言語"、"神との神経接続"、"脱男性化"、などの妄想を後に言語化するにまで至る精神病を発したことで知られる人物なのですが、現代思想では、フロイトラカン、カネッティ、ドゥルーズ、らによって取り上げられ、父親以上に注目を浴びる存在になっていますね ( B )。

 

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この後、マルティンは自慰行為が出来ないようにベッドに身体を固定されてしまうのですが、近所で火事が起きた時に動けない為に兄弟に矯正具をはずすよう求める場面 ( おそらくシュレーバー教育の知識がない人にはピンとこない場面 ) があります。何気ない場面ですが、こんなところにもハネケの細かい演出が為されています。ただし、気を付けなければならないのは、以上のシークエンスを以って、『 白いリボン 』がモーリッツ・シュレーバーの子供教育の問題点を扱った映画なのだと決め付けないようにすべきだという事です ( そういう見解の人もいますが )。

 

既に述べたように ハネケは『 白いリボン 』が ドイツ固有の問題のみを扱った映画だと解釈されて普遍性を失うこと にかなりの警戒感を持っています ( ドイツ語圏外の国では副題を削除させたことに表れているように )。用心深いとさえいえるでしょう。その用心深さが最も表れているのが、以下のインタビュー ( おそらく、シュレーバー親子についてはほとんど知識の無いインタビュアーが辛うじて知っている心理学者アリス・ミラー 〈 児童虐待心理的問題を論じている著作で有名 〉 を引き合いに出してハネケにインタビューする箇所 )。

 

( インタビュアー )   犯した過ちを罰せられたのち、純粋無垢さの回復を象徴する白いリボンをつけるというアイデアもそうした読書から見つけたのですか。

 

( ハネケ )   ええ。児童教育に関するアドバイスを書いていた19世紀の著者の本にありました。ただ、どの著作だったかはもうわかりません。それほどたくさん読んだのです

 

( インタビュアー )    それはアリス・ミラーの著作ではありませんか?

 

( ハネケ )    いいえ、違うとおもいます。その精神分析医には詳しくて、著作は全部読んだはずです。彼女は実践可能な具体的な例は絶対に出しません。最も役に立った著作は、現実に起きたケースを個別に記述している本です。教育の分野において、多くの善意が悲劇にいたっている例の多さにはびっくりさせられました。

 

自分が参照した本がアリス・ミラーではないと言いながらも、何を読んだかを明言しないハネケの用心深さ・・・。アリス・ミラーに詳しいと言う彼が、ミラーでは太刀打ち出来ない世界観を持つシュレーバー親子の名前を忘れるはずがありませんからね。彼は自分の仕事や意図が特定され個別化されることに抗う普遍性への意志がよほど強いのでしょう。

 

( B ) 

ダニエル・パウルシュレーバーについては以下の記事を参照。 

 

ただし、以上の記事は僕独自の哲学的視点からのバイアスが掛かった記事なので、より学術的視点に興味のある方は以下のPDFを参照して下さい。記事で取り上げている平凡社版『 シュレーバー回想録 』の訳者の1人である金関 猛による分かりやすい講演 ( 岡山大学 2015 ) が読めます。そこでモーリッツ・シュレーバーの考案した矯正器具図を初めて見る人はちょっとした驚きを覚えるでしょう。

 

http://eprints.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/56886/2019070310112635947/rpkj_2019_001_012.pdf#search=%27%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E6%95%99%E8%82%B2%27