〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ミヒャエル・ハネケの映画『 白いリボン 』( 2009 )を哲学的に考える〈 1 〉

 

 

公開  2009年 
監督  ミヒャエル・ハネケ
脚本  ミヒャエル・ハネケ
出演  クリスチャン・フリーデル  ( 教師 / エヴァと結婚する )
    エルンスト・ヤコビ     ( 語り手 / 過去を語る年老いた教師の声役 )
    レオニー・ベルシュ     ( エヴァ / 男爵家の乳母 )
    ウルリッヒ・トクル     ( 男爵 )
    ウルシナ・ラルディ     ( 男爵の妻 )
    ブルクハルト・クラウスナー ( 牧師 )
    ライナー・ボック      ( ドクター )
    スザンヌ・ロタール     ( 助産婦 / ドクターと肉体関係にある )
    ヨーゼフ・ビアビヒラー   ( 男爵家の家令 )
    フィオン・ムーテルト    ( ジギ / 男爵家の長男 )
    エディ・グラール      ( カーリ / 助産婦の息子 )
    レオナルト・プロクサウフ  ( マルティン / 牧師の長男 )

 



 1章    ミヒャエル・ハネケが描き出そうとする事



白いリボン 』でミヒャエル・ハネケは何について語ろうとしているのでしょうか。そう思わせるほどの謎めいた世界観 ( この映画を観たほとんどの人は、そこで何が語られているのか理解するのが難しいはずです ) が、この映画では構築されているのですが、そこにはハネケの哲学的思索が大きく反映されていると考えるべきです。そのことが、この作品を他とは違うものとして際立たせているのですから。

 



 2章    悪の記録

 

では、彼の哲学的思索とは何か。率直に言って、それは、悪、もっと正確に言うなら、悪の出現についての考察であると解釈出来るでしょう。『 ファニーゲーム ( 1997 ) 』で描かれた 純粋な悪、つまり、悪の無意味な ( 無慈悲な ) 殺人行為 というテーマが、『 隠された記憶 ( 2005 ) 』を経て、この『 白いリボン 』で 悪の出現 というテーマへと秘かに移行しているのです。

 

純粋な悪の行為が、ほとんど見るに耐えないものである事を『 ファニーゲーム 』は示したのですが、それは明らかに、その作品を見る観客への訴えを直接的に取り入れている ( 殺人犯は露骨に画面に向かって、私たち観客への挑発的態度を取っている ) という意味で、残酷なものを眺める観客自身に自分達の立場について考えさせようとするものになっています。

 

その事の意味にピンと来ない人は、現実の凄惨な事件を思い出してみるといいでしょう。私たちが目を背けたくなるほどの個別の残酷事件がメディアによって報道される現実。そのような報道は、悪の記録 であると哲学的に考える事が出来るとしても、それが犯罪に対する嫌悪による 倫理的抑止 になっているのか ( それは『 ファニーゲーム 』を観た大多数の感想でしょう )、それとも・・・一部の人間による新たなる犯罪への 欲望を引き起こす対象 ( A ) になっているのか ( 『 ファニーゲーム 』の中の殺人犯の振舞いに悪の衝動を覚えること )、についてよく考える必要があるという事です。おそらく、答えは その両方である という事なのですが、注意すべきは、そのような事態が延々と繰り返されているという事です。そこにハネケが『 ファニーゲーム U.S.A. 』というリピート ( リメイクというより ) を行うことの狙いがあるといえるでしょう。

 

 

(A ) 

まさに、ホロコーストが悪の欲望の対象になっている例が、ブライアン・シンガーの画『 ゴールデンボーイ 』に他なりません。悪の萌芽を心の中に抱えていた少年トッドはナチスの生き残りである老人ドゥサンダーと出会う事によって、その悪を覚醒させていく。 

 



 3章    欲望の対象としての悪

 

ファニーゲーム 』から引き出すべき教訓は、悪の記録 は、時として、抑止効果以上に、新たなる悪を呼び起こす欲望の対象化作用の側面を肥大化させてしまうという事です。どういう事かというと、悪それ自体が残酷なものである事は言うまでもないのですが、そこに付随する 記録化という機能 が、その悪を元の悪とは別の新たなる 欲望の対象 として生み出し、元の悪の上に重ね合わせてしまうのです。

 

それの極限の象徴こそ、ナチスによるユダヤ人虐殺 ( ホロコースト ) を描いた クロード・ランズマン ( 1925~2018 ) の映画『 SHOAH ショア ( 1985 ) 』に他なりません。ホロコーストに関係した人々の証言を軸にした10時間近いこのドキュメンタリー的映画 ( B ) は、公開当時、他の映画では見られない崇高さに到達しているかのように思われ、衝撃を以って受容れられました。それは、特に、現代思想に関わる人たちにおいて顕著であり、その結果、ホロコーストナチスの単なる悪の産物ではなく、人間行為の限界を超えた非道な出来事であるが故に、ホロコーストは表象不可能である というテーゼが重視されるにまで至ったのです。

 

たしかに、ホロコーストに単純な輪郭線を与えることは、様々な分析 ( 歴史、哲学、精神分析・・・等々 ) を綜合すると、難しいものであるのは間違いないでしょう。しかし、『 SHOAH ショア 』において問題なのは、関係者の証言という当事者性 〉に暗黙の内に支配的な地位が与えられ、それ以外のアプローチが無意識的に抑圧されている という事なのです ( 言うまでもなく、『 SHOAH ショア 』に夢中になった人たちは、この当事者の証言集に 〈 リアル 〉を見出していた )。その事を示すエピソードが、多くのユダヤ人たちの命を救ったオスカー・シンドラーについての スティーヴン・スピルバーグ ( 1946~ ) の映画『 シンドラーのリスト ( 1993 ) 』をクロード・ランズマンがドラマティックすぎると批判したことです。

 

このランズマンの発言によって、多くの人は、『 シンドラーのリスト 』よりも『 SHOAH ショア 』の方がホロコーストについて真摯に扱った映画として優位さを与えるという擬似客観比較論に陥っていました ( もちろん、ランズマンの発言に批判的な意見もあった )。この比較がどうしようもないのは、『 シンドラーのリスト 』と『 SHOAH ショア 』の作品としての優劣関係を持ち出すような批判が、一体何を 対象 にしようとしているのか、ということについて批判者自身が気付いていない所です。

 

そもそも、ランズマンとスピルバーグユダヤ人へのアプローチの仕方の違いが、映画製作において表されるのは当然であり、それが其々の映画の特徴を際立たせるものとなっているのは言うまでもないでしょう。まずいのは、そこにホロコーストを 表象不可能なもの として、つまり、それ以外の他の要素を秘かに抑圧してしまう 神聖対象 として導きいれる事です。ランズマンがスピルバーグを批判した時、彼はホロコースト悪の対象 として見ていたのではなく、ユダヤ人、あるいはホロコースト、の理解 ( スピルバーグによる ) が不十分であると批判するための 神聖対象 として見ていたと解釈出来るのです。ここにおいて、ホロコーストが、嫌悪しか感じさせない純粋な悪という対象ではなく、記録を媒介にした欲望の対象、それも他人への抑圧を秘かに欲望させる 神聖対象 に変貌している事の意味が分かるでしょう ( C )。

 

そして、最も最悪なのは、この神聖対象が、他人への抑圧どころか、他人への攻撃衝動の象徴的源泉として機能してしまうこと です。ホロコーストという悪は記録される事によって、繰り返される事は抑止されるでしょう。ただし、それは他の悪を抑止する一般的禁止ではなく、ホロコーストのみを抑止する 〈 個別的禁止 〉 でしかないのです。実は、ここで議論は2章に戻ってきています。つまり、悪の記録 に伴う二つの機能、倫理的抑止欲望の対象化 です。

 

ここでは、 ホロコーストの記録において奇妙な分離が起きています。倫理的抑止 の点では、ホロコーストを繰り返してはならない、という倫理に訴える 〈 個別的なもの 〉であるのですが、欲望の対象化 という点では、ホロコーストではない他の個別的悪を為そうとする主体にとっての 〈 普遍的なもの 〉となっているのです。ホロコーストという対象は、個別と普遍のふたつに分離 ー 分裂しているという点で、悪が抑止の目を逃れて欲望の源泉になりうること、つまり、悪それ自体が人間主体の欲望の一部になっているという意味で普遍性の傾向を強く含んでいる と解釈出来る訳です。

 

この恐るべき傾向が、ホロコーストを暗黙の内に神聖対象として扱うことに含まれる危険性です。分かりやすく言うと、ホロコーストについての研究・分析を重ねれば重ねるほど、ホロコーストという 個別性・特殊性 に固着してしまい、ホロコーストの源泉であるはずの 悪の普遍性 についての解釈が失われていきます。そして、この悪の普遍性は、ホロコーストの記録と研究からは逃れていくもの であるからこそ、ホロコーストの記録・研究は 悪 をどう位置付けていいのか分からなくなるのです ( D )〈 続く 〉。

 

 次回 ( 下記 ) の記事に続く。

 

 

( B ) 

ドキュメンタリー的と言ったのは、予備知識なしで『 SHOAH ショア 』を見た人が圧倒され、それを真実に限りなく近い ドキュメンタリーだと思い込むことに釘を刺しておく必要があるからです。今では『 SHOAH ショア 』にはランズマンの演出・編集が施されているのが明らかであり、それはランズマンによって 火を通されたもの になっている。

 

もちろん、それはやらせなどの低次元なものではなく、ランズマンが自分の思想、つまり、映像や文書・写真などの資料の集積体 ( アーカイヴ ) からでは掴みきれないホロコーストの悲惨さは 表象不可能である という信念、に基づいたものであると理解する必要があります。それ故に、アーカイヴではない証言者の 声 を重視した為に、製作・編集上の演出が掛かってしまうという訳です ( ただし、この映画の製作によってランズマンは証言者の声を結果的にアーカイヴ化している事に察しのいい方は気付くはず )。

 

そのような『 SHOAH ショア 』におけるランズマンの編集について詳細に ( ジャック・デリダ的な執拗さとでもいうべきか ) 論じたのが、『 アウシュヴィッツの巻物 証言資料 』( みすず書房 2019年、訳・二階宗人 ) の著者、ニコラス・チェア と ドミニク・ウイリアム です。特に、"結論 炎の輪を通り抜ける ( p.303~313 )" を参照。ただし、そこでの彼らの目的は、ランズマンを批判することではなく、ランズマンが自分の思想 ( ホロコーストの表象不可能性、あるいはアーカイヴの否定 ) にこだわる余り、"直接的には" 取り上げることのなかったゾンダーコマンド ( ユダヤ人から選ばれたユダヤ人の死体処理班 ) が何とか残した 文書 ( これは ではない ) に、アーカイヴとしての光を与える事である点に注意すべきでしょう。

 

 

( *C ) ホロコーストの人類史稀に見る残酷さゆえに、その特異性を歴史的相対化すべきではないとして、ホロコースト当事者性表象不可能性 を楯に異なる他者の意見を言説 ( ディスクール ) の次元で無意識的に抑圧してしまったのが、クロード・ランズマン、ジェラール・ヴァイクマン、ドミニク・ラカプラやソール・フリードレンダー、に他なりません。彼らは 敵対性 を一体、誰に向けているのか、何に向けるべきなのか、について考えようとしない。そのようなホロコーストのイメージすら拒否する神聖化に反論したのが ジョルジュ・ディディ・ユベルマン。 

 

語りえぬものにまつわる諸用語でアウシュヴィッツを語ることは、アウシュヴィッツに近づくことではなく、それどころか逆にアウシュヴィッツを遠ざけ、ジョルジョ・アガンベンが神秘的な崇拝にまつわる用語で巧みに定義した領域、つまりナチスの奥義自体の無意識的な反復という領域に近づけることである。 

 

ジョルジュ・ディディ・ユベルマン  『 イメージ、それでもなお 』平凡社 2009年、訳・橋本一径  p.37

 

( D ) 

例えば、ナチス反ユダヤ主義の研究で著名な ダニエル・ゴールドハーゲンクリストファー・ブラウニング。興味深いことに、彼らは第2次大戦中ドイツの第101警察予備大隊に関する 同じ 歴史資料を参照しているにも関わらず、ドイツ人が犯した残虐行為について 違う 結論を述べています。ゴールドハーゲンは、内面化された悪魔的反ユダヤ主義こそがホロコーストの原因なのだから、戦時中のドイツ人それ自体を ユダヤ的主体 であるとして一般化しようとしている ( つまり、ドイツ人を反ユダヤ主義に対する 責任主体 として定立化すること )。これに対して、ブラウニングは、そのような 倫理の無差別化を警戒している といえるでしょう。彼は、そのような内面化された反ユダヤ主義が一部のドイツ人に対しては妥当であるとしても、すべてのドイツ人がそうであるとするには単純すぎると考えるのです。反ユダヤ主義は、内面化された悪魔主義などではなく、内心は反ユダヤ主義に距離感を抱いている普通のドイツ人たちを形式的に従わせた 組織的イデオロギー として強力に機能していた とブラウニングは考えます。だから彼は、ナチスドイツについての自著のタイトルを『 普通の人びと 』( *E ) としている訳です。

 

この2人の間で起こっているのは、ナチス反ユダヤ主義についての研究が、どれほど掘り下げられても、悪の普遍性についての考察に容易に辿りつく事が出来ないのを示しています。というのも、悪の普遍性とは、よく想像されるような物事のさらなる深部にある神秘的謎などではなく、現前する私たち人間を強力に規定する基盤としての、人間関係性、つまり、支配的機能 ( 家族、友人、恋人、学校、職場、などの諸々の対象における ) の暴力的行使 のなかから、今まさに、常に既に、出現しているものだからです。その暴力的行使の目標とは、ターゲットの対象を、直接的・間接的に、いかに支配し、規定し、操るか、という事に欲望を注ぎ込む点にある

 

( E ) 

クリストファー・ブラウニング『 増補  普通の人びと 』( ちくま学芸文庫 2019年、訳・谷 喬夫 ) を参照。ここでブラウニングは自ら、ゴールドハーゲンとの相違を論じているし、訳者の谷喬夫も訳者あとがきで両者の見解について触れています。懸命にも、ここで、ブラウニングはゴールドハーゲンの解釈に対して、批判すべき点と評価すべき点とを選び抜き、出来るだけ公平であろうとしているのが読み取れる ( 特に『 増補  普通の人びと 』の "あとがき" p.305~360 を参照 )。