〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ マルクス・ガブリエルの『 なぜ世界は存在しないのか 』についての批判的考察

  

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マルクス・ガブリエルの『 なぜ世界は存在しないのか 』・・・、この極端に単純化された哲学的説明によって覆われたこの本を読むと、僕は戸惑ってしまう ( A )。この本でまず確認出来るのは、世界が存在しないことでもなければ、新実在論についてでもない。何よりも、"哲学を単純化しようとする著者の意志" です。それはおそらく、新実在論を世間に浸透させようとするための、そして新実在論哲学史に刻むための、著者の戦略なのでしょうが、それが徹底しているため、この本について真面目に考えることは果たして意義があるのかと自問してしまいます。単純化して考えるとは、結局の所、哲学的なものからの撤退になりかねないのだから。

 

そして、そのような哲学の単純化が『 世界は存在しない 』という問題含みのテーゼを可能にしているとすれば、そのテーゼを批判的に考えることは、たとえ哲学に馴染みのない読者に分かりやすく伝える意義があるとしても、哲学の簡潔化の過程で省かれる余分なものや過剰なものが思考においてどれだけ重要な要素である ということをも明らかにするでしょう。

 

( A )

例えば、『 なぜ世界は存在しないのか ( 2012 ) 』 以前に出版されたスラヴォイ・ジジェクとの共著である『 神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性- ( 2009 ) 』で垣間見えた理論的緊張がそこでは排除されている・・・、哲学入門書という体裁のもとで。

 



 1章  "世界" と "包摂"

 

つまり数多くの小世界は存在していても、それらのすべてを包摂するひとつの世界は存在していません。これは、数多くの小世界がひとつの世界にたいする多様な視点にすぎないということでは断じてありません。むしろ数多くの小世界だけが ----- まさしくそれらだけが ----- 存在しているということにほかなりません 

 

『 なぜ世界は存在しないのか 』 p.20

 

もしガブリエルの言うとおり、世界が存在しなければ、なぜ "世界という表現" があるのでしょう。世界が存在しないのなら、そもそも "世界という表現" は必要ないのではないかという事ですね。この点に関してガブリエルの説明は苦しく、ひとつの世界は存在しないが数多くの小世界は存在すると言う。その前提として、あらゆるものを包摂するひとつの世界という言い方を彼はするのですが、そもそも全てを包摂しなければ、それは世界ではないのでしょうか?

 

ここで注意しなければならないのは、ガブリエルの中では "世界" と "包摂概念" が暗黙の内に結びつき、"包摂概念" の方が "世界" を規定する優位性を見せている という事です。そのような "包摂" というひとつの哲学概念が "世界" の本質を決定してしまうのに異和感を感じずにいられないでしょう。"包摂" が "世界" を決定づけるのであれば、第1義的なものは "世界" ではなく "包摂" ということになってしまう。つまり、ガブリエルが "世界は存在しない" と言う時、正確には "全てを包摂するものは存在しない" と言うべきであって、それが "世界" であると言うのは飛躍であり強引な短絡 ( ショートカット ) でしかないという事です。

 

このような批判に対して、だが世界の存在を証明する上で任意の哲学概念 ( 包摂などの ) を導入して説明を進めていく事は方法論としては間違っていないのではないのかと思う人もいるかもしれません。つまり、ガブリエルはここで "世界" をひとつの "概念" として存在証明のために動かそうとしているのだからという事ですね、包摂という哲学的機能、あるいは集合論的機能、を備えさせつつ。

 



 

 2章  世界とは何であるのか



しかし、そのようなガブリエルの説明の仕方は、重要な問いを前にして傍らを通過することになる。すなわち、"世界とは何であるのか" という根本的問いです。これこそがガブリエルが究極的に思考する事が出来ていないのを示す問いなのです。

 

もちろん、それはガブリエルがその問いを全く無視しているということではありません。彼は答えているのですが、相変わらず包摂概念から離れられないのです。

 

世界とは、物の総体でも事実の総体でもなく、存在するすべての領域がそのなかに現れてくる領域のことです。存在するすべての領域は、世界に含まれている。マルティン・ハイデガーが適切に定式化したように、世界とは「 すべての領域の領域 」にほかなりません

 

『 なぜ世界は存在しないのか 』p.69

世界とは、すべての意味の場の意味の場、つまりそれ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場であり、もってすべてを包摂する領域である 

 

『 なぜ世界は存在しないのか 』p.108

 

彼の中では "世界""包摂" がどうしようもないくらい癒着している ( 何せ本人がそのことを全く疑問に思わないのだから ) のですが、 このことは彼が "具体的なもの" と共にしか思考する事が出来ないのを示しています。この場合、"具体的なもの" とは思考という行為にとってのそれであり、思考作業を円滑にしてくれるある種のイメージだといえるでしょう。ガブリエルにとってのイメージとは、世界はすべてを包摂するはずだが、実はそうではない、という包摂概念を軸とした否定的イメージなのです。

 

それのどこが問題なのかというと、哲学的に十分に抽象的ではないという事です。抽象性が悪く、具体性が良いなどというのは日常生活においてのみ幅を利かせている思い込みに過ぎないのであって、哲学においては抽象的でないというのは具体性から離れられず極限まで思考出来ていないことを意味する のです。

 

それについて考えるために、ここで彼のテーゼに戻ってみます。仮に "世界は存在しない" というテーゼが正しいとしても、そのテーゼで破綻している "世界" が別の意味を与えられて、"数多くの小世界は存在する" というテーゼで再び "世界" を登場させる不自然さが目に付きます。そこで彼のテーゼの表現を変えた2つのヴァージョンを考えてみましょう。

 

テーゼ 1 ひとつの世界は存在しないが、数多くの小世界は存在する

テーゼ 2 数多くの小世界は存在するが、ひとつの世界は存在しない

 

これは、"ひとつの世界は存在しない" と "数多くの小世界は存在する" の順番をたんに入れ替えて結びつけただけの2つの結果ではありません。テーゼ 1 は、本書における彼の説明の仕方をそのまま踏襲したものだといえます。問題なのは テーゼ 2 なのですが、テーゼ 1 の説明の仕方とは裏腹に、これこそが彼の実際の思考の順序を示しているといえるのです。それは彼独特の "対象領域という概念" が用意周到に準備されている事から分かるでしょう。対象領域という多くの具体的事例に重点を置くことが、"世界とは何であるのか" という問いを抽象的に考えないで済ますためのアリバイとなっているのです。

 

テーゼ 2 こそが彼の思考の方向性を示している訳ですが、だからこそ テーゼ 2 における "数多くの小世界は存在する" から "ひとつの世界は存在しない" へと至る結びつきが必然的なものではないことを指摘しておく必要があるでしょう。対象領域が数多く存在する事が、なぜ世界は存在しない事になるのか、彼はそう考える前に世界に包摂性を付与して問いに蓋をしてしまう。

 

対象領域が数多く存在することが世界が存在しないことに繋がってしまうと、世界という概念がなぜ出現したのか 全く説明出来なくなってしまう。世界の出現について考えるために、次のような新しいテーゼをここで提示します。

 

テーゼ 3 対象領域が数多く存在するからこそ、世界は抽象的に ( 概念として) 存在する

 

この テーゼ 3 こそ、テーゼ 2 が考える事の出来ない哲学的思考を含んでいるのです。それは具体的なものから "抽象的なもの" が出現するという極めてヘーゲル的な思考なのですが、ここで注意しなければならないのは、対象領域から "何か" が高次の抽象領域へと達する、などというような擬似ヘーゲル的理解に陥ってはならないという事です。そうではなく、対象領域の数多くの乱立・衝突・隣接性という "現実それ自体" が、対象領域の形式的構造性を炙りだし抽象化する "知的移行" を引き起こしている という事なのです。

 

すなわち、対象領域の具体的飽和こそが、その形式的構造性に気付かせるような抽象化へと至らせる のであり、その抽象化の結果が "世界の出現"という訳なのです。よって "世界とは何であるのか" という問いには、世界とは対象領域という具体においてその形式性が抽象化されたものである、と答える事が出来るのです。ドゥルーズ的な言い方をするなら、世界とは、抽象化作用それ自体の強度が形式的に示された概念のひとつである という事です。なので世界が対象領域を包摂する事が出来なくても、世界は対象領域の乱立から出現するのです、その抽象化として ( それは表象ではない )。

 

これこそが、世界像という表象観念から切り離した "世界" に与える事の出来る概念です。たしかに、ガブリエルが世界を、世界像という何らかの観念に結びつけるべきではないと、ハイデガーをふまえて考えるのは正しい。しかし、そこから彼は極端にも "世界は存在しない" というテーゼを提出するのですが、これは正確には、世界は表象としては存在しない というべきです。ここで先程、説明した 哲学の抽象化作用 を考慮に入れて、次のようなテーゼを提出しましょう。

 

テーゼ 4   世界は表象としては存在しないが、抽象として存在する

 

この テーゼ 4 は テーゼ 3 の変形ヴァージョンといえるものですが、いずれもガブリエルの思考の限界を明らかにするものとなっています。突き詰めると、彼は "世界" という概念をどう理解すればいいのか迷っているということです ( これはガブリエルだけにいえることではないですけど )。彼は "世界はすべての領域の領域である" と包摂概念による予備的説明を施しておきながら、そのようなただひとつの世界はやはり存在しない、なぜなら具体的な数多くの対象領域があるだかだから・・・と言うのですね。

 

しかしその帰結では、彼が最初に包摂概念を与えた "世界" についての説明は宙に浮いてしまい一体何だったのかという事になるでしょう。仮にその説明が世界に対する一般的誤解をガブリエルが代弁したものだとしても、彼自身は "世界" に対して何らかの積極的説明を行うことが出来ていないのです。彼が行った唯一の説明は "世界は存在しない" それだけです。この帰結が危険なのは、"世界" についての哲学的説明を行わないことによって、ガブリエル自身が避けようとした "世界像" という一般的誤解による観念を暗黙の内に認めているという反転的メッセージを無意識的に拡散させているからです。つまり、"世界は存在しない" とガブリエルが言うのは、世界は世界像として存在しているという誤解 を打ち消そうとする否定的身振りからくる反転写的テーゼでしかないという訳です。なので、ガブリエルの世界は存在しないというテーゼは、哲学的抽象的考察からは離れた否定的メッセージでしかないといえるでしょう。

 

"世界は世界像として存在しているという誤解" を否定するためとはいえ、"世界は存在しない" と言ってしまえば、おそらく、そこには心理的反撥しか出てこない。つまり、それでも世界は存在する、という具合に。 世界は世界像として存在しているを真に否定するには、"世界" の存在を抹消するのではなく、"世界" に哲学的意味を与えて世界像とは別の形式で "世界" を存在させなけれならない のです。これについては既に、哲学の抽象化機能によって 世界は抽象的に存在する と説明してきた通りなので、ここまでの考察を振り返ってもらうのがいいでしょう。

 



 

 3章   意味の場にはない〈 対象 〉

 

ガブリエルは本書において、"対象領域" とは別に "意味の場" という概念を持ち出して、次のように言います。 

 

意味とは対象が現象する仕方のことである、と定義することができます 

 

『 なぜ世界は存在しないのか 』p.101

意味の場とは、何らかのもの、つまりもろもろの特定の対象が、何らかの特定の仕方で現象してくる領域です 

 

『 なぜ世界は存在しないのか 』p.102

意味の場の外部には、対象も事実も存在しません。存在するものは、すべて何らかの意味の場のなかに現象します  

 

『 なぜ世界は存在しないのか 』p.103

 

ガブリエルは、以上の事を説明するために事前に、自分の左手という事例を持ち出しています。そして、それがいくつもの意味の場で異なった仕方で現象することを説明するのです。曰く、左手は5本の指があり、指先があり、手のひらにはしわがある。左手は素粒子の集積でもある。左手は芸術作品であり、道具でもある、と。

 

彼はその説明によって "対象" は意味の場が違えば、異なる現象の仕方をすることを明らかにしてすべては "意味の場" にあると主張するのです。しかし、その説明を注意深く読める人は、ガブリエルが自分が主張しようとしているのとは逆の事を証明しているのに気付くでしょう。つまり、ガブリエルの主張においては、"意味の場" がいくら変わろうとも、現象する以前の "左手" が "意味の場" 常に先行している にも関わらず、彼がそれに気付いていないという事です。

 

これこそが先程の "世界" の時と同様に、ガブリエルが考える事の出来ない哲学の抽象化機能なのです。その観点からすると、彼の "左手" はいくつもの "意味の場" で現象するのだから "意味の場" の中にあるという説明は決定的に間違っている。実際は、"左手" はいくつもの "意味の場" での様々な現象という形式から 抽象的に出現した 対象 》 である というべきなのです。すなわち、対象 》という抽象物は "意味の場" のみに 属してはいない のです。

 

しかし、ここでガブリエルのように単純に、"意味の場" に属していないのだから存在しないのだと考えるべきでありません。"意味の場" に属していなくとも 《 対象 》 は抽象的に存在する。実質 ( 意味形象など ) を内包していなくとも"抽象物" ヘーゲル的な意味での 知 》 として存在する のです。そこには哲学の抽象化機能が作用しているのであり、それは 〈 具体 〉 からの 《 知 》 への 移行 なのです。

 

ただし、この 《 知 》 への移行は、〈 具体 〉 から現象的に離れてしまう訳ではありません。そのような誤解をする人は多いかもしれませんが、現実はその 〈 具体 〉 という定義を施される 《 もの 》 に留まったままなのです。その当の もの 》 自体がそれ自身において抽象化という知的移行を起こす のです。だからガブリエルの "左手" は抽象として、いくつもの "意味の場" に先行して現れる訳です。

 

という事は、ここでは "意味の場" で現象する 〈 具体 〉 "意味の場" に属さない抽象 〉 "同時に存在する" という事態がもの 》 自身において起こる のであり、ガブリエルのようにすべてが "意味の場" に現れるのではないという事になるのです。これがどういうことかというと、《 対象 》 は 〈 具体 〉 と 〈 抽象 〉 によって 常に既に二重化されている という事です。ヘーゲル的な言い方をすると、《 対象 》 は 〈 具体 〉 と 〈 抽象 〉 の両極において 知的移行を繰り返している という事なのです。

 

そこで作用している運動は "部分と全体の弁証法" ( ただし、フッサールのそれではない ) に他なりません。この弁証法は、部分 ( 対象 ) が具体として全体 ( 意味の場 ) に属していながらも同時に抽象として独立しているという《 二重性 》 によって動き出します。この運動が興味深いのは、まさに部分 ( 対象 ) を上手く定義する事が出来ない難しさ ( なぜなら二重化されているから ) こそが運動の契機になっているという所なのです。

 

間違いないのは、対象 ( 部分 ) が意味の場 ( 全体 ) とは異質なものだという事です。もし対象が意味の場と同質なものであれば、対象 ( ガブリエルの左手 ) を説明する全体の他の要素 ( 素粒子、芸術作品、道具 ) の中に対象は紛れてしまって一体どれが当の対象なのか最終的には判別出来なくなってしまう。全体の中の要素が何処に向かうこともなく同列に列挙される悪循環しか起きなくなるのです。全体の中の幾つもの要素が "何か ( ガブリエルの左手 )" に対して意味を持つようになるには、当の "何か ( ガブリエルの左手 )" が他の要素とは異質なものとして独立していなければならない。異質である事によって初めて他の要素を自らを説明するために引き寄せる事が可能になる。つまり、異質であるためには、他の要素が "具体" に留まっているのに対して、対象 》 は 〈 具体 〉〈 抽象 〉 の両極によって二重化された特異な 《 もの 》 である 必要があるのです。

 

ここでも、"世界" と同様、"対象" も具体的なものとしてしか存在しないと考えるガブリエルの思考の限界が表れている。彼の思考の限界とは、"抽象" について考えることが出来ない、思考行為が "具体" から離れる "抽象化機能" それ自体である事を濃密に示したドイツ観念論哲学と同様の強度で思考しているとはとても言えないでしょう ( たとえ彼がシェリング研究を始めとしたドイツ観念論の "見取図" を上手く描いているとしても )。

 



 

 4章    世界は抽象的に存在する

 

ここで参照しておきたいのが、ジジェクとの共著であるガブリエルの『 神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性- 』( 2009 ) です。同書の巻末には『 なぜ世界は存在しないのか 』というボン大学での講演 ( 2009 ) が掲載されています。それは、この記事で参照している著書『 なぜ世界は存在しないのか 』( 2012 ) とタイトルは同じものですが、内容は若干違っていて、ガブリエルの自分の主張に対する "心的揺らぎ" が垣間見えて興味深いのです。

 

どういうことかと言うと、そこではガブリエルが "世界は存在しない" と言い切るのに無意識的躊躇を示しているのです。そこで彼は、ハイデガーの、あらゆるものが生じる場所それ自体は生じることがない、それは出会われることのできない 領域〔 Gegend 〕である、という主張を引き合いに出します。そして、そのような、自らは存在しない奇妙な領域、をハイデガーに倣って "性起" と言う。彼曰く、"…… 世界は存在するのではなく、性起するのです。世界は端的に性起なのです"  (『 神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性ー 』p.324 )。

 

「 世界は存在するのではなく性起する 」…… この主張は『 なぜ世界は存在しないのか 』( 2012 ) では見られないものです。これは思考の深化・変化といえるものなのでしょうか。いや、残念ながらそうではありません。"性起" という特定の概念が世界を規定するのであれば、それは 『 1章 "世界" と "包摂" 』で示したように、"世界" については何も語っていないのと同じです。そこから世界は存在しないと言うことは出来ないのです。ガブリエルは自分の主張の脆さを反省的に補強しようとして "性起" の概念に言及するという躊躇を見せていたという訳ですが、『 なぜ世界は存在しないのか 』( 2012 ) では、そのような思考の緊張は排除されてしまっているのです ( B )。

 

ガブリエルが世界について哲学的に語る事が出来ない原因は何でしょう。その決定的原因は、ガブリエルが世界を "場所" として考えてしまっているからです。これは、彼自身が、批判したはずの "世界像" という罠に陥っている事に他なりません。分かりやすく言うなら、ガブリエルが世界を場所という "ひとつのイメージ" として考えていることが露呈してしまっているのです。

 

しかし、そうは言っても、最小限のイメージがなければ世界について考えることは出来ないのではないか、その意味で世界を "場所" として考えることは間違っていないのではないか、と思う人もいるでしょう。たしかにその通りです。ただし、それは哲学的思考の篩いに掛けられる以前の一般的イメージとしてはそうだという条件をつけなければなりません。2章 で述べたように、それでは哲学的には十分に抽象的ではないのです。ガブリエルのように具体的な対象領域に留まる思考では、"世界" や "意識" 、"主体" について何一つ極限的な思考へ辿りつく事は出来ないでしょう

 

特定のイメージが、何らかの状況から出現した哲学概念を抽象的に思考する事を妨げてしまうのです ( ここで言うと、世界=場所、というガブリエルの出発点 )。ここで急いで付け加えなければならないのは、イメージは排除すべきだ、と言っているわけではないという事です。そのような事は不可能であるし、そもそも世界以前の原初の物事の "出現" には、イメージという形式 ( 闇でさえ ) が付き纏う として受容れるべきでしょう。重要なのは、そのイメージによって、物事の "出現" を見過ごすべきではないという事です。この場合、場所というイメージに拘りすぎて、世界という概念が "出現" したことを見落としては哲学的考察は進まないという事です。なぜ "世界" が出現したのかを考えれば、現実の対象領域の飽和性が、領域という形式的抽象化を経由して世界という概念への知的移行を引き起こしている 事が理解出来るでしょう。それゆえに、世界は抽象的に存在するのです。

 

 

( B )

このような迷いは、ガブリエルが「 世界は存在しない 」という "自分の" 主張をもっと突き詰めて考えるべきであった事を示している。いや、そもそも、その主張は、実はガブリエルのものではないのだから、彼がその主張に確信を持てないのは当然なのです。では、その主張は誰のものか。それは『 神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性- 』の共著者であるスラヴォイ・ジジェクなのです。ジジェクは『 ジジェク自身によるジジェク 』で

 

私たちの知覚による歪曲の彼方に何らかのヌーメナルな実在があるというのは、唯物論の本当の考えではありません。唯一の首尾一貫した唯物論の見解は、世界は存在しないというものなのです 

 

 p.137 

 

と言っているのですが、ガブリエルはそのアイデアを "わざと" 借りている訳です。 「 世界は存在しない 」の元ネタがジジェクであるのを指摘したのは、グレアム・ハーマンなのですが、彼はジジェクの矛盾を指摘して、その主張を否定する。

  

今述べた彼 ( ジジェク ) の立場は、事実とは真逆なものである 

 

グレアム・ハーマン『 四方対象 オブジェクト指向存在論入門 』p.99  人文書院

 

その点については、僕もハーマンに同意しますね。ただし、それはジジェクの言う唯物論の見解が正しいかどうかという事ではなく、私たち人間の知覚とは別に、いや、私たちの知覚など気にかけない実在が冷酷に存在するという 非人間的真理 ( 人間的真理とは違う ) がそこにある という意味においてですが。