哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

佐藤祐市の映画『 累 かさね 』( 2018 )を哲学的に考える〈 4 〉

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■ 佐藤祐市の映画『 累 ーかさねー 』( 2018 )を哲学的に考える〈 3 〉 からの続き

 

 

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 6  サロメの首、丹沢二ナの首

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a.   この映画において『 サロメ 』が特権化されているのは、監督の佐藤祐市がクライマックスの場面で、斬首された "ヨカナーンの首""丹沢二ナの顔 ( 頭部 )" を直結させるアイデアを思いついたからでしょう。それを示す以下の場面。演技する淵累の手にあったヨカナーンの首が丹沢二ナの首に切り替わる。それと同時に、それまで丹沢二ナの顔で演技していた淵累が素顔 ( 芳根京子) に戻って、サロメがヨカナーンの首にキスするように、丹沢二ナの首にキスをする。

 

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b.   「 私 お前の唇にキスしたよ ヨカナーン 」というセリフの繰り返し ( 6 ~ 10. ) はワイルドの『 サロメ 』を踏襲したものですが、注意すべきは、この演目の少し前に、演劇場のビルの屋上で、淵累と丹沢二ナがもみ合いになって2人とも転落したことです。この転落で、丹沢二ナはほぼ死にかかっているのですが、それにも関わらず、淵累は丹沢二ナの顔を借りて舞台の戻り、サロメを演じきろうとするのです。丹沢二ナが死んだかどうかは、はっきり描かれていないのですが、1 ~ 5. で演技する淵累が素顔に戻ることから示されるのは、丹沢二ナが、その後、死んでしまったため、顔交換という魔力の効果が消えてしまったという事ですね【 ※ 】。

 

 

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c.   ここにあるのは、サロメとの "奇妙な二重性" です。いかなる意味で奇妙なのかというと、サロメにおいてヨカナーンの首を手に入れることはヨカナーンを結局どうすることも出来なかった事を示しているように、淵累が丹沢二ナの首を手にするのは、彼女をどうにもすることが出来なかった事を示しているのです。処女ゆえに、愛への幻想を異様なまでに膨らませたサロメと、演技への執着ゆえに、他人の顔を自分のものとするのを厭わない淵累は、首が示すもの、つまり、自分の病的妄想を現実化した、という意味で、二重的なのです。オスカー・ワイルドの『 サロメ 』と『 累 ーかさねー 』を短絡 ( ショートカット ) させたこの二重性こそ、クライマックスにおいて、佐藤祐市が狙った効果であり、だからこそ、この映画において『 サロメ 』という戯曲を特権化したといえるのです。

 

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【 ※

しかし、原作の漫画では、淵累の本当の母親である醜い相貌の誘 ( いざな ) が、美貌の持ち主であった淵透世と顔の "永久交換" に成功している。それに加えて、漫画のラストではニナの母親である丹沢紡美が、咲朱 ( さき:丹沢二ナの死後に、野菊の顔を借りた淵累の女優名 ) を殺した時に、自分の年老いた姿で淵累に一生を過ごさせるという恐るべき復讐 ( なので結果的には丹沢紡美は自殺したことになる ) の為に、"永久の全身交換" という禁じ手ともいえる手段を用いている。この辺については映画では取り上げられていないので、興味のある方は原作を参照して下さい。

 

 

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 7.   サロメから女優へ

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a.   ただし、ここで見逃すべきではないのは、サロメと淵累の間の差異です。ワイルドのサロメが、"女の男への欲望" を象徴する主体なのに対して、淵累は、"演技への欲望" を象徴する、つまり、誰かを演じることを自分の自己同一性にするという奇妙な主体であるのです。奇妙というのは、そこに、自分ではない "誰か" を演じることを自己同一性とする女優的主体があるからです。

 

 

b.   とはいえ、人格的な "他の誰か" を演じる者が、人格的な "現実の私" であっても、誰かを "演じること""技能的なもの" であり人格的なものではないことはお分かりでしょう【 ※ 】。つまり、女優的主体で問題なのは、人格的なものではなく、"演じること" を可能にする "根源的身振り" なのです。

 

 

c.   この "根源的身振り" こそが、主体を現実以上の主体だと観客に思わせてしまう "技能的なもの" である事を示すのがサロメなのです。経験の少ない処女である若きサロメが、大人顔負けの官能的なダンスという身振りによってヘロデ王を誘惑する姿は、女優的であるといえるでしょう。そこには演技の萌芽としての "根源的身振り" があり、それによってサロメはヨカナーンの首を手に入れるという望みを叶えることに成功するのです。

 

 

d.   オスカー・ワイルドフローベールの『 ヘロディアス 』を大いに参考にしていたのですが、実は『 ヘロディアス 』で細かく描写されているサロメのダンスは、ワイルドの『 サロメ 』では、わずかに1行、( サロメは、七つのヴェールを使った踊りを踊る ) とト書きで指示されているのみなのです。

 

 

e.   しかし、ワイルドのこの意図的な省略 ( これが深い思慮によるものなのか、アイデアが浮かばなかったからか、は分かりませんが ) が、逆説的にも演者に表現の自由度を高めたという意味で、女優的主体を登場させる秘かな契機となっているといえるでしょう。この "女優的主体" は、オスカー・ワイルド ( 1854 ~ 1900 ) と同時代を生きたロシアの劇作家アントン・チェーホフ ( 1860 ~ 1904 ) の "演劇的主体" とは異なります。リアリズムを体現するチェーホフ"演劇的主体" に対して、ワイルドの "女優的主体" は、作品における異質性を体現する、いや、それどころか作品を宙吊りにしかねないエキセントリックな存在であるとさえ言えるのです。

 

 

f.   この意味で、映画『 累 ーかさねー 』における土屋太鳳によるサロメのダンスシーンは、原作の情念的ストーリーに取り込まれてしまわずに、そのシーンだけでも楽しめる程の強度があります。監督の佐藤祐市は、土屋太鳳がコンテンポラリーダンスが得意なのを知っていて、それを生かすために『 サロメ 』という戯曲を特権化したのではないかと思えるくらいです。ただし、ここでの土屋太鳳のダンスからは、サロメ通俗的な官能性は排除されています。それは、どちらかというと、本家のワイルドの『 サロメ 』よりも有名になってしまったリヒャルト・シュトラウスのオペラ版『 サロメ 』の延長線上においてモダンな振付を施されたものとなっていると解釈出来るでしょう。

 

 

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g.   フローベールからワイルドに至る "サロメの移行" で起こった秘かな変化とは、まさに女優的主体が登場する可能性が発生したことです。そして、それを形式化したのがリヒャルト・シュトラウスだったのが大事なところです。というのも、シュトラウスによって、官能的な情欲の海で溺れかねないサロメが、演技する崇高な主体へと昇華されたからです。

 

 

h.   この背景には、サロメ伝説の足元で蠢く欲動 ( リビドー ) が性的なものへの欲望としてしか姿を現さない危険性があります。そこには性的対象しか生まれません。無論、ワイルドのサロメはたんなる性的対象ではありません。そこでのサロメは、男の欲望を操作すべく官能性に没頭しているかのような身振りを技術として披露する積極的主体なのです。

 

 

i.   そう言うと、サロメは冷静で計算高い女なのかと思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。サロメは、男たちが自分を見て興奮する官能性とは違う官能に没頭しているのです。それはヨカナーンに対する空想的愛という官能性です。ただし、そこにはヨカナーン自身の思いは含まれていません。彼自身の考えなどどうでもよくなるほどの空想的な愛の情熱を自分の中で燃え上がらせているという意味で、サロメは病的なのですが、この時、彼女は、性的欲望ではなく、生と死を貫く欲動 ( リビドー ) の領域に降り立っているのです【 ※ 】。

 

 

j.   性的欲望の源流としての欲動に身を浸し、性的なもの以上に官能的な、生と死という人間に取っての根源から、サロメは演技という身振りを生み出しているのです。自分の空想的愛を叶えるためなら、ヘロデ王を誘惑する演技も厭わない、いや、それどころか、ヨカナーンを手に入れるためならヨカナーン自身を殺すに至る演技も厭わない。だがそれは同時にサロメが、自分の命すら落としてしまう生と死の欲動の領域から逃れられない事を意味します。なのでワイルドにおいて、サロメが最後に殺されてしまうのは精神分析的に当然の帰結だとしても、激しい欲動の領域における苦しみを演技として昇華させたという意味で、サロメは女優的主体の起源であるのだと解釈出来るでしょう。

 

 

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【 ※

   このことに気付かない人は、女優の素顔と役柄とのギャップを "人格的なもの" に集約させる憑依女優という女優神話に惑わされてしまう。

 

 

【 ※

   女優の演技と欲動の関係については、ダーレン・アロノフスキーの映画『 ブラックスワン 』についてのこちらの記事を参照。

 

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 ダーレン・アロノフスキーの映画『 ブラックスワン 』( 2010 )を哲学的に考える

 

 

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