哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

佐藤祐市の映画『 累 かさね 』( 2018 )を哲学的に考える〈 1 〉

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監督 : 佐藤祐市

公開 : 2018年

脚本 : 黒岩 勉

原作 : 松浦だるま 『 累 -かさねー 』

 

出演 : 土屋太鳳   ( 丹沢ニナ たんざわにな )

   : 芳根京子   ( 淵 累 ふち かさね )

   : 浅野忠信   ( 羽生田 釿互 はぶた きんご ) 

   : 横山裕    ( 烏合零太 うごうれいた ) 

   : 檀れい    ( 淵 透世 ふち すけよ )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 累 かさね 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。
 

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 1.   ひとつの仮面とふたつの主体

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a.   この映画の主人公は一体 "" なのでしょうもちろん醜悪な相貌ではあるものの高い演技力を誇る淵累 ( ふち かさね ) であるのは間違いなのですが映画の中で彼女は淵累として輝くことはありません彼女は特別な口紅の力で美貌を持ちながら大根役者に過ぎなかった丹沢ニナの顔を借りる ( 演劇の舞台においてのみ ) ことで表舞台に踊りだし脚光を浴びる事が出来るのです

 

 

b.   実際この映画の外面的主人公は "舞台上での丹沢二ナ" なのであり演技が下手な丹沢二ナと淵累が変身した丹沢二ナを演じ分ける土屋太鳳が事実上のヒロインということになるでしょうそうするとありがちなのは芳根京子が演じる淵累は "舞台上の丹沢二ナ" の隠れた真実として人間の闇の情念を表しているというありふれた解釈に陥ってしまう事ですそれでは余りにも観たままの平凡な解釈でしかありません

 

 

c.   ここでこの映画における丹沢二ナと淵累は "舞台女優" を媒介にした関係である事を思い起こしましょう例えば2人の女優が同一的存在になっていくという話としてバーベット・シュローダー監督の『 ルームメイト 』( 1992 ) があります恋人のサムと別れたアリソン ( ブリジット・フォンダ ) の元に新しい同居人のヘドラ ( ジェニファー・ジェイソン・リー ) がやって来ます最初は野暮ったかったヘドラが徐々に洗練されて服装や髪型まで美しいアリソンそっくりになっていくのです

 

 

d.   しかし恋人のサムとよりを戻そうとするアリソンにヘドラは嫉妬し殺意を抱くようになりますこの背景にはヘドラには幼い頃に亡くした双子の片割れがいたという事実があるのですつまりヘドラがアリソンと同一的存在になっていくのは"一卵性双生児だったという過去への執着" が媒介にされていたという訳です2人でひとつであった事の記憶がヘドラの存在の核心において擬似真理として作用していると解釈出来るのです

 

 

   バーベット・シュローダーの『 ルームメイト 』姉妹が互いに口紅を塗ってキスをする冒頭場面この振舞いは『 累 ーかさねー 』において口紅の奇妙な力によって顔を交換することが出来るというアイデアを彷彿とさせますね

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e.   たしかに『 ルームメイト 』における一卵性双生児という事実への固執というような過去に囚われた人間が別の人間を巻き込み自らの欲望を現実化するという設定は累と丹沢二ナの関係性の雛型として考えることが出来るかもしれませんあたかも醜い淵累と美しい丹沢二ナも『 ルームメイト 』と同じく "擬似姉妹" であるかのように【 ※ 】。ただしこの雛形は『 累 』においてはもっと複雑化されています

 

 

f.   というのも『 ルームメイト 』ではアリソンがヘドラの欲望の中に巻き込まれヘドラは自分の妄想を現実化するという欲望のためにアリソンを利用するというように両者のバランスの均衡が固定化されていたのに対して『 累 』ではまず丹沢二ナが自分の演技力の無さを乗り越えるために淵累を利用し淵累も表舞台に出るために丹沢二ナの美貌を利用するという具合に両者が互いを利用するのです

 

 

g.   2人のバランスは時には丹沢二ナの方に偏り時には淵累の方に偏るというようにその均衡の支点が目まぐるしく移動を繰り返され常に不安定性に晒されていますこの不安定性の原因は何でしょう2人はライバルとして主演女優の座を争っている訳ではありませんなぜなら彼女らは2人で1人の丹沢二ナを演じているからです外見は丹沢二ナ演技力は淵累として

 

 

h.   ここで彼女らの関係性を媒介するものが "舞台女優" である事を考慮しましょう彼女らの不安定性の原因はその舞台女優の象徴である丹沢二ナの "" が丹沢二ナという主体から切り離され ( 事実丹沢二ナは上演中は自分の顔を淵累に譲っている )丹沢二ナと淵累の欲望が流れ込む "仮面" としてどちらにも属さない"抽象的顔貌" として彼女らを翻弄するからに他なりません

 

 

i.   この女優の顔を "仮面" として主題化した映画こそイングマール・ベルイマンの『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 ) ですベルイマン女優の演技の象徴である "顔それ自体"自分自身をある固定観念 ( 母としての振舞い女優としての振舞い ) に自ら縛りつけ苦しめるものとしてではなく"身体から分離したイマージュ"として対抗的に描き出しているのです【 ※ 】。ここでは "仮面" は誰にもどの主体にも属さないそれを示すかのように『 仮面 / ペルソナ 』においてはエリザベート ( リヴ・ウルマン ) の仮面の元でエリザベートとアルマ ( ビビ・アンデション ) らの2人の主体が融合し『 累 』においては丹沢二ナの仮面の元で丹沢二ナと淵累ら2人の主体が融合するのです

 

 

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【 ※

   原作の漫画を読んだ方なら御存知かと思いますが実は姉妹の設定は原作で出ていますそれは物語の前半の主要人物である丹沢二ナとの関係ではなく後半に登場する野菊が淵累の異母妹であるという関係性ですしかし野菊は丹沢二ナにように女優ではなく淵累に復讐を企てる娼婦という役柄であり物語を "舞台" から "血縁的なもの" へと舵を切らせる存在になっていますつまり物語がより情念的なものに進みすぎるきっかけとなっているのです

 

 

 【 ※

   "身体から分離したイマージュ" ・・・ 例えば『 仮面 / ペルソナ 』における以下の場面子供はもはや母親の顔を母親としては認識していないそこには母親という具体的存在からは切り離されたイマージュとしての抽象的顔貌とそれが一体何なのか手探りをする子供の姿しかない

 

 

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イングマール・ベルイマンの映画『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 )を哲学的に考える〈 1 〉

 

 

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 2.   仮面とその裏

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a.   しかしここで急いで付け加えなければならないのはベルイマンは "仮面" を単純に否定するような愚かなまねをしている訳ではないという事です問題なのは仮面の裏に抑圧された自己があるという擬似解放的心理学とでも呼べる神話ですこのような一般の人々をはじめとして一部の心理学者の間にも流布している神話の危険性は抑圧された自己が仮面というアリバイの元でその都度秘かに再生産されているのに気付かずに固定化されてしまう事です

 

 

b.   例えば淵累の自分の醜い相貌に抵抗しようとして丹沢二ナの美しい顔を借りてでも世に出ようとする欲望は仮面の裏に隠された本当の自己の欲望などではありませんそれは淵累と丹沢二ナの顔が重なり合った仮面が引き起こす欲望なのであってもし本当の自己の欲望であるように思えるとしたらその時主体の内面は仮面によって既に侵食されていると言えるでしょう

 

 

c.   つまり抑圧された自己の正体とは"仮面" に同一化した主体に他ならないのであってその結果自分の身振りを "仮面" に従属させてしまっている事に気付かないという無意識的状況を生み出してしまうのですこれに対してベルイマン"仮面"人間の理想が投影されたものであるどころか最も人間的なものとはかけ離れた "イマージュ" である事を無意識的に打ち出していますいやそれどころか過激な事に彼は人間的なものを構成するものがおよそ人間的でない切り離されたイマージュの諸々の寄せ集めであるという哲学的真理を明らかにするのです

 

 

d.    ここでベルマンから学び取る教訓は仮面との同一化を脱するためには仮面の裏に隠されたありもしない自己にこだわる事などではなく仮面の裏には何も無いつまり"無" しかないのを知る事なのです一見するとこれは残酷で絶望的な真実なのですが同時にこの "無" こそが主体が自由に動き回る自由な空間がある事を保障してくれますこの自由な空間があるからこそ主体は絶望して無の深淵に落ち込む事もああれば仮面などが生成される表層地帯で自由に活動する事も出来るのです絶望的な無こそが主体の自由な活動のためのスペースの基盤である事を理解すれば本当の自己などという擬似真実がいかに主体の活動を制限したり時として妨げるものであることが自ずと分かるでしょうそしてベルイマンも『 仮面 / ペルソナ 』の最後においてエリザベート"" を悟らせているのです

 

 

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3.   淵累の欲望

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a.  ここから問題となるのがもし淵累が丹沢二ナという仮面との同一化を止めてしまったならどうなるのだろうかという事です映画のラストでは丹沢二ナの顔で舞台に立っている淵累の顔が醜悪な素顔 ( といっても淵累を演じる芳根京子がきれいな顔立ちなのでメイクをしても醜悪に見えないのですが ) に切り替わって観客の前でその姿が突如晒されるという突発的な "事実の露呈" が幻想的な調子で表現されています

 

 

b.  これに対して原作の漫画においては淵累が素顔で舞台に臨むというラストまでの過程が徐々に描かれています最初は素顔での出演に難色を示していた淵累ですが羽生田釿互に説得されて苦悩しながらも本番へ臨むのです ( この辺の経緯については原作特に第14巻を読んでいただくのがよいでしょう )そこにおいて淵累からは当初の舞台で主演を演じるという欲望はまるで消え失せ母親の淵透世から続く血族的宿命を乗り越えるためだけに舞台に立つかのように自分を奮い立たせます

 

 

c.   この変化を一体どう考えるべきなのでしょう一見すると自らの生い立ちや宿命に向き合う淵累の姿勢は悲劇的ヒロインとしてドラマティックなラストに相応しいものだと思われるかもしれませんしかしそのような感傷的解釈では結局彼女は仮面の裏の本当の自己に拘ったのだという擬似心理学以上のものを引き出す事は出来ませんここからは哲学的思考によってそれ以上の解釈を推し進める事が必要になります

 

 

d.   彼女はラストのクライマックス ( ここは原作を念頭においています ) に向かっていく中で華やかな表舞台に立つという夢想的な欲望から自分の醜悪な相貌を大勢の眼前で晒すという恐ろしい現実に打ち勝とうとしたのだと解釈してしまっては失われるものがあるのですそれは淵累の当初の欲望表舞台で輝きたいという欲望が一体何だったのかという事についての考察しなければならないものです

 

 

e.   淵累の欲望が醜悪な相貌の裏側において形成されたものだとするなら彼女の演技力はまさに自分の相貌がどうにもならないという絶望的事実に抵抗するために表舞台に立つという不可能な妄想が昇華されたものだと解釈出来るでしょうとするならば丹沢二ナの美貌を借りて舞台に立つ事はたとえそれが圧倒的演技力に基づいていても自分の欲望の根源を未だ隠しているという意味で自分自身に向き合っているとはいえないのです

 

 

f.   ただし羽生田釿互に後押しされ本来の顔で舞台に立つ事は自分に向き合おうとする彼女の誠実さの現れだという解釈で済ますべきものではないでしょうなぜなら彼女の欲望は自分の相貌との対極化として形成されたつまり絶望こそが彼女の根源であるという事実が突きつける不可能性を背景にしているからですここで不可能性というのは醜悪な相貌を持ち続けながらも演技力で以って表舞台で輝くという同時性が不可能なものであるという事です

 

 

g.   この不可能性こそ物語のラストの舞台で淵累が成し遂げようとしたものに他なりません既にd. で述べたようにこれをドラマティックなものとして感傷的に受け止めては失われるものこそ不可能性についての考察なのです実際には淵累は舞台で演技する事には成功する ( 1回限りでしたが )つまり女優という主体としては成功するのですがその代償として淵累という人間としてはこの後その命を失うことになります彼女は命と引き換えに不可能性を一時的にであれ可能にした訳ですがこの不可能性は演技のために自らの命を差し出さなければならないというおよそ釣り合いの取れない残酷な選択を淵累に要求した訳です

 

 

h.   以上のような説明をしてもいや以上の説明で余計に淵累のラストを感傷的に解釈してしまう方はいるでしょうしかしその不可能な設定は感傷的な解釈ではなくより哲学的な解釈に移行する事を促しているのに気が付かなければなりませんつまりこの物語は淵累とその血族の因縁周囲の人間との生々しい関係性などについてのありふれた情念的物語ではなく女優的主体が経験する通過儀礼についての象徴的物語なのだ女優について語られた物語なのだと気付くべきなのです

 

 

i.   面白いことにそれを明らかにしてくれるのは原作の漫画ではなく映画の『 累 ーかさねー 』です原作と違い ( 原作においても『 サロメ 』は出てくるのですがそれは幾つもある演目の中のひとつでしかない )映画はラストに『 サロメ 』の舞台を持ってくるのですがその『 サロメ 』という演目がそこで特権化されていることこそが女優という存在が特殊な主体である事を明らかにしてくれるのですそれについては次回から考えていきましょう

 

 

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 佐藤祐市の映画『 累 ーかさねー 』( 2018 )を哲学的に考える〈 2 に続く

 

 

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