〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 映画『 累 かさね 』( 2018 : directed by 佐藤祐市)を哲学的に考える〈 1 〉

 

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監督  佐藤祐市 ( 1962~ )

公開  2018年

脚本  黒岩 勉 ( 1973~ )

原作  かさねー 』      松浦だるま ( 1984~ )

出演  土屋太鳳 ( 1995~ )   丹沢ニナ /  たんざわにな

    芳根京子 ( 1997~ )   淵 累 / ふち かさね 

    浅野忠信 ( 1973~ )   羽生田 釿互 / はぶた きんご

    横山裕 ( 1981~ )    烏合零太 /  うごうれいた

    檀れい ( 1971~ )    淵 透世 / ふち すけよ 

 



 1章    ひとつの仮面とふたつの主体

 

この映画の主人公は一体誰なのでしょう。もちろん、醜悪な相貌ではあるものの高い演技力を誇る淵累 ( ふち かさね ) であるのは間違いなのですが、映画の中で彼女は淵累として輝くことはありません。彼女は特別な口紅の力で、美貌を持ちながら大根役者に過ぎなかった丹沢ニナの顔を借りる ( 演劇の舞台においてのみ ) ことで表舞台に踊りだし脚光を浴びる事が出来るのです。

 

実際、この映画の外面的主人公は 舞台上での丹沢二ナ なのであり、演技が下手な丹沢二ナと淵累が変身した丹沢二ナを演じ分ける土屋太鳳が事実上のヒロインということになるでしょう。そうすると、ありがちなのは、芳根京子が演じる淵累は 舞台上の丹沢二ナ の隠れた真実として、人間の闇の情念を表しているというありふれた解釈に陥ってしまう事です。それでは余りにも観たままの平凡な解釈でしかありません。

 

ここで、この映画における丹沢二ナと淵累は 舞台女優 を媒介にした関係である事を思い起こしましょう。例えば、2人の女優が同一的存在になっていくという話としてバーベット・シュローダー監督の『 ルームメイト ( 1992 ) 』があります。恋人のサムと別れたアリソン ( ブリジット・フォンダ ) の元に、新しい同居人のヘドラ ( ジェニファー・ジェイソン・リー ) がやって来ます。最初は野暮ったかったヘドラが徐々に洗練されて服装や髪型まで美しいアリソンそっくりになっていくのです。

 

しかし、恋人のサムとよりを戻そうとするアリソンにヘドラは嫉妬し、殺意を抱くようになります。この背景には、ヘドラには幼い頃に亡くした双子の片割れがいたという事実があるのです。つまり、ヘドラがアリソンと同一的存在になっていくのは、一卵性双生児だったという過去への執着 が媒介にされていたという訳です。2人でひとつであった事の記憶が、ヘドラの存在の核心において "擬似真理" として作用している と解釈出来るのです。

 

バーベット・シュローダー ( Barbet Schroeder : 1941~ ) の 『 ルームメイト ( Single White Female : 1992 ) 』。幼い日の姉妹が互いに口紅を塗ってキスをする冒頭場面。この振舞いは、『 累 ーかさねー 』において口紅の奇妙な力によって顔を交換することが出来るというアイデアを彷彿とさせますね。

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たしかに『 ルームメイト 』における一卵性双生児という事実への固執というような、過去に囚われた人間が別の人間を巻き込み自らの欲望を現実化するという設定 は累と丹沢二ナの関係性の雛型として考えることが出来るかもしれません。あたかも、醜い淵累と美しい丹沢二ナも『 ルームメイト 』と同じく 擬似姉妹 であるかのように ( *A )。ただし、この雛形は『 累 』においてはもっと複雑化されています。

 

というのも、『 ルームメイト 』ではアリソンがヘドラの欲望の中に巻き込まれ、ヘドラは自分の妄想を現実化するという欲望のためにアリソンを利用する、というように両者のバランスの均衡が固定化されていたのに対して、『 累 』では、まず丹沢二ナが自分の演技力の無さを乗り越えるために淵累を利用し、淵累も表舞台に出るために丹沢二ナの美貌を利用するという具合に、両者が互いを利用し合うのです。

 

2人のバランスは、時には丹沢二ナの方に偏り、時には淵累の方に偏るというように、その均衡の支点が目まぐるしく移動を繰り返され、常に不安定性に晒されています。この不安定性の原因は何でしょう。2人はライバルとして主演女優の座を争っている訳ではありません。なぜなら彼女らは2人で1人の丹沢二ナを演じているからです。外見は丹沢二ナ、演技力は淵累として。

 

ここで、彼女らの関係性を媒介するものが 舞台女優 である事を考慮しましょう。彼女らの不安定性の原因は、その舞台女優の象徴である丹沢二ナの "顔" が丹沢二ナという主体から切り離され ( 事実、丹沢二ナは上演中は自分の顔を淵累に譲っている )、丹沢二ナと淵累の欲望が流れ込む "仮面" として、どちらにも属さない "抽象的顔貌" として彼女らを翻弄するからに他なりません。

 

この女優の顔を "仮面" として主題化した映画こそ イングマール・ベルイマン の『 仮面 / ペルソナ ( 1967 ) 』です。ベルイマンは、女優の演技の象徴である 顔それ自体を、自分自身をある固定観念 ( 母としての振舞い、女優としての振舞い ) に自ら縛りつけ苦しめるものとしてではなく、身体から分離した "イマージュ" として対抗的に描き出しているのです ( *B )。ここでは 仮面は誰にもどの主体にも属さない。それを示すかのように、『 仮面 / ペルソナ 』においてはエリザベート ( リヴ・ウルマン ) の仮面の元で、エリザベートとアルマ ( ビビ・アンデション ) らの2人の主体が融合し、『 累 』においては丹沢二ナの仮面の元で、丹沢二ナと淵累ら2人の主体が融合するのです。

 

 

( *A )

原作の漫画を読んだ方なら御存知かと思いますが、実は、姉妹の設定は原作で出ています。それは物語の前半の主要人物である丹沢二ナとの関係ではなく、後半に登場する野菊が淵累の異母妹であるという関係性です。しかし、野菊は丹沢二ナにように女優ではなく、淵累に復讐を企てる娼婦という役柄であり、物語を "舞台" から "血縁的なもの" へと舵を切らせる存在になっています。つまり、物語がより情念的なものに進みすぎるきっかけとなっているのです。

 

 ( *B )

体から分離したイマージュ …… 例えば『 仮面 / ペルソナ 』における以下の場面。子供は、もはや母親の顔を母親としては認識していない。そこには、母親という具体的存在からは切り離されたイマージュとしての抽象的顔貌と、それが一体何なのか手探りをする子供の姿しかない。

 

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 イングマール・ベルイマンの映画『 仮面 / ペルソナ 』( 1967 )を哲学的に考える〈 1 〉

 



 2章    仮面とその裏

 

しかし、ここで急いで付け加えなければならないのは、ベルイマンは "仮面" を単純に否定するような愚かなまねをしている訳ではないという事です。問題なのは、仮面の裏に抑圧された自己があるという擬似解放的心理学とでも呼べる神話 です。このような、一般の人々をはじめとして一部の心理学者の間にも流布している神話の危険性は、抑圧された自己が、仮面というアリバイの元で、その都度、秘かに再生産されているのに気付かずに、固定化されてしまう事です。

 

例えば、淵累の、自分の醜い相貌に抵抗しようとして、丹沢二ナの美しい顔を借りてでも世に出ようとする欲望は、仮面の裏に隠された本当の自己の欲望などではありません。それは、淵累と丹沢二ナの顔が重なり合った仮面が引き起こす欲望なのであって、もし本当の自己の欲望であるように思えるとしたら、その時、主体の内面は仮面によって既に侵食されていると言えるでしょう。

 

つまり、抑圧された自己の正体とは、"仮面に同一化した主体" に他ならない のであって、その結果、自分の身振りを "仮面" に従属させてしまっている事に気付かないという無意識的状況を生み出してしまうのです。これに対して、ベルイマンは仮面を、人間の理想が投影されたものであるどころか、最も人間的なものとはかけ離れた "イマージュ" である事を無意識的に打ち出しています。いや、それどころか、過激な事に彼は、人間的なものを構成するものが、およそ人間的でない切り離されたイマージュの諸々の寄せ集めである という哲学的真理を明らかにするのです。

 

ここでベルマンから学び取る教訓は、仮面との同一化を脱するためには、仮面の裏に隠されたありもしない自己にこだわる事などではなく、仮面の裏には何も無い、つまり、"" しかない のを知る事なのです。一見すると、これは残酷で絶望的な真実なのですが、同時に、この "無" こそが、主体が自由に動き回る自由な空間がある事を保障してくれます。この自由な空間があるからこそ、主体は絶望して無の深淵に落ち込む事もあれば、仮面などが生成される表層地帯で自由に活動する事も出来る のです。絶望的な無こそが主体の自由な活動のためのスペースの基盤である事を理解すれば、本当の自己などという擬似真実がいかに主体の活動を制限したり、時として妨げるものであることが自ずと分かるでしょう。そして、ベルイマンも『 仮面 / ペルソナ 』の最後においてエリザベートに "無" を悟らせているのです。

  

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  3章    淵累の欲望

 

ここから問題となるのが、もし淵累が、丹沢二ナという仮面との同一化を止めてしまったなら、どうなるのだろうかという事です。映画のラストでは、丹沢二ナの顔で舞台に立っている淵累の顔が、醜悪な素顔 ( といっても淵累を演じる芳根京子がきれいな顔立ちなのでメイクをしても醜悪に見えないのですが ) に切り替わって観客の前でその姿が突如晒されるという突発的な "事実の露呈" が幻想的な調子で表現されています。

 

これに対して、原作の漫画においては、淵累が素顔で舞台に臨むというラストまでの過程が徐々に描かれています。最初は素顔での出演に難色を示していた淵累ですが、羽生田釿互に説得されて、苦悩しながらも本番へ臨むのです ( この辺の経緯については原作、特に第14巻を読んでいただくのがよいでしょう )。そこにおいて、淵累からは当初の舞台で主演を演じるという欲望はまるで消え失せ、母親の淵透世から続く血族的宿命を乗り越えるためだけに舞台に立つかのように自分を奮い立たせます。

 

この変化を一体どう考えるべきなのでしょう。一見すると、自らの生い立ちや宿命に向き合う淵累の姿勢は、悲劇的ヒロインとしてドラマティックなラストに相応しいものだと思われるかもしれません。しかし、そのような感傷的解釈では、結局、彼女は仮面の裏の本当の自己に拘ったのだという擬似心理学以上のものを引き出す事は出来ません。ここからは哲学的思考によって、それ以上の解釈を推し進める事が必要になります。

 

彼女はラストのクライマックス ( ここは原作を念頭においています ) に向かっていく中で、華やかな表舞台に立つという夢想的な欲望から、自分の醜悪な相貌を大勢の眼前で晒すという恐ろしい現実に打ち勝とうとしたのだ、と解釈してしまっては失われるものがあるのです。それは淵累の当初の欲望、表舞台で輝きたいという欲望が、一体何だったのか という事について考察しなければならないものです。

 

淵累の欲望が醜悪な相貌の裏側において形成されたものだとするなら、彼女の演技力は、まさに 自分の相貌がどうにもならないという絶望的事実に抵抗するため に、表舞台に立つという不可能な妄想が昇華されたものだ と解釈出来るでしょう。とするならば、丹沢二ナの美貌を借りて舞台に立つ事は、たとえそれが圧倒的演技力に基づいていても、自分の欲望の根源を未だ隠しているという意味で、自分自身に向き合っているとはいえないのです。

 

なので羽生田釿互に後押しされ本来の顔で舞台に立つ事は、自分に向き合おうとする彼女の誠実さの現れだという解釈で済ますべきものではないのです。なぜなら、彼女の欲望は、自分の相貌との対極化として形成された、つまり 絶望こそが彼女の根源であるという事実が突きつける "不可能性" を背景にしているからです。ここで不可能性というのは、醜悪な相貌を持ち続けながらも、演技力で以って表舞台で輝くという同時性が不可能なものであるという事です。それは醜悪な相貌の "" でしか磨かれなかった、表に立つことが出来ないからこそ磨かれた、演技力だった。表に立つというのは、この演技力の根源・故郷を破壊してしまう事に他ならない訳です。それは演技を不可能にする事でしかない …… 。

 

この不可能性こそ、物語のラストの舞台で淵累が成し遂げようとしたものに他なりません。既に3章で述べたように、これをドラマティックなものとして感傷的に受け止めては失われるものこそ、不可能性についての考察なのです。実際には、淵累は舞台で演技する事には成功する ( 1回限りでしたが )、つまり、"女優という主体" としては成功するのですが、その代償として、淵累という人間としては、この後、その命を失うことになります。彼女は命と引き換えに不可能性を一時的にであれ可能にした訳ですが、この不可能性は、演技のために自らの命を差し出さなければならないという、およそ釣り合いの取れない残酷な選択 を淵累に要求した訳です。

 

以上のような説明をしても、いや、以上の説明で余計に淵累のラストを感傷的に解釈してしまう方はいるでしょう。しかし、その不可能な設定は、感傷的な解釈ではなく、より哲学的な解釈に移行する事を促しているのに気が付かなければなりません。つまり、この物語は淵累とその血族の因縁、周囲の人間との生々しい関係性など、についてのありふれた情念的物語ではなく、"女優的主体" が経験する通過儀礼についての象徴的物語なのだ、女優について語られた物語なのだ、と気付くべきなのです。

 

面白いことに、それを明らかにしてくれるのは、原作の漫画ではなく、映画の『 累 ーかさねー 』です。原作と違い ( 原作においても『 サロメ 』は出てくるのですが、それは幾つもある演目の中のひとつでしかない )、映画はラストに『 サロメ 』の舞台を持ってくるのですが、その『 サロメ 』という演目がそこで特権化されていることこそが、女優という存在が特殊な主体である事 を明らかにしてくれるのです。それについては次回から考えていきましょう〈 続く 〉。

 

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佐藤祐市の映画『 累 ーかさねー 』( 2018 )を哲学的に考える〈 2 に続く