哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

リドリー・スコットの映画『 ブレードランナー 』ファイナルカット版( 2007 )を哲学的に考える

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公開 2007年 ( 初公開時は 1982年 )

監督 リドリー・スコット

脚本 ハンプトン・ファンチャー

   デヴィッド・ピープルズ

原作 フィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?

 

出演 ハリソン・フォード        ( デッカード )

   ルトガー・ハウアー        ( ロイ・バッティ )

  ショーン・ヤング         ( レイチェル )

  エドワード・ジェイムズ・オルモス ( ガフ )

   ダリル・ハンナ          ( プリス )

  ウィリアム・サンダーソン     ( セバスチャン )

  ブライオン・ジェイムズ      ( リオン )

   ジョー・ターケル         ( タイレル博士 )

  ジョアンナ・キャシディ      ( ゾーラ )

   ジェイムズ・ホン         ( ハンニバル・チュウ )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 ブレードランナー ファイナルカット 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいたものです。なので、考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さを求める、という方はこの場所は適当ではないかもしれません。しかし、限られた人生の時間の中で物事を深く考えることに意義を見出す人にとっては、十分に刺激的な記事であるのは間違いないでしょう。 

 

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  1.   デッカードレプリカント

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a.   『 ブレードランナー 』( 1982 ) における謎の解明や細部の説明については既に数多くの記事で確認出来るので、ここではより哲学的なアプローチをしていきましょう。『 ブレードランナーファイナルカット版 ( 2007 ) がデッカードレプリカント説を強化するリドリー・スコットの意向が完璧に反映されたもの【 】である事を考慮すれば ( 主要人物のほとんどがレプリカントであること )、この映画は人間とレプリカントの差異や対立を描いたものなのではなく、レプリカント同士の間の差異を通じて人間主体の構造を浮かび上がらせる映画だと解釈すべきでしょう【 】。そして、ここで言うレプリカント同士の格好の例が、デッカード ( ハリソン・フォード ) とロイ・バッティ ( ルトガー・ハウアー ) なのです。

 

b.   ロイは、"自分がレプリカントである事を知っているレプリカント" ( これを A とします ) であり、デッカードは、"自分がレプリカントである事を知らないレプリカント" ( これを B とします ) だと考えてみましょう。この AB というテーゼを出したところで、もうひとつ注意すべき変奏テーゼを挙げておきます。それが、"自分を人間だと思い込んでいるレプリカント"、というテーゼ ( これを C とします ) です。

 

・ テーゼ A 自分がレプリカントである事を知っているレプリカント  ( ロイ )

・ テーゼ B 自分がレプリカントである事を知らないレプリカント  ( デッカード )

・ テーゼ C 自分を人間だと思い込んでいるレプリカント  ( レイチェル ) 

 

 

c.   一見すると、C は人間の曖昧な自己同一性を暴く哲学的急進性を表したテーゼのように思われるかもしれません ( というのも、人間こそ自分を人間だと思い込んでいるレプリカントであると変奏テーゼを提示出来るので ) が、特定のレプリカントに当て嵌めてみると、これはレイチェルである事が分かるでしょう。ただし、デッカードのフォークト=カンプフ検査によって彼女がレプリカントであることが明らかにされるまでの途中という条件付きですが。

 

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   リドリー・スコットによってファイナルカット版に施された露骨なデッカードレプリカント説を裏付ける処理画像。ピントがぼけているので分かりにくい ( 映画でははっきり分かる ) が、このシーンの直前でレイチェルの瞳がオレンジ色に光るのに呼応するかのようにデッカードの瞳もオレンジ色に光っている。

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   ここで参照したいのは、『 THE Hollywood REPORTER 』によるルトガー・ハウアーへの最近のインタビューです ( 2018年2月18日 )。彼は『 ブレードランナー2049 』の感想を求められ手厳しい答えを述べながら ( 曰く、美しい物は続編など作らずにそのままにしておくべきだ ) 自身の出演した『 ブレードランナー 』について興味深い事を言っています。

" 多くの意味で、『 ブレードランナー 』はレプリカントについての映画などではなく、人間であるとは何を意味するのかについての映画だ。"

 

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  2.   ロイ、デッカード、レイチェルたちの自己意識

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a.   そうすると、レイチェルにおける変化とは、 から への移行過程に位置付ける事が出来るのですが、この移行がいかなるものなのかについて考えていきましょう。 のテーゼはレイチェルの自己同一性に潜む危うさを示す哲学的客観性であるといえるものなのですが、A はその客観性とは反対に位置するロイの "自己意識" を表したテーゼでしたね。人間性の装いが剥がされ、レプリカントであるという絶望的真実としての A にレイチェルは苦しむのですが、そこには人間性にしがみつこうとして精神のバランスを崩しかねない危険性があるといえるのです。

b  どういう事かというと、レイチェルはロイやデッカードに比べて自己意識の生成過程、あるいは逆の方向から見ると、自己意識の崩壊過程にあるという意味で危険なのです。それに対してロイとデッカードの存在様態は観客が思う以上に安定しています。既に述べたように、ロイは自分がレプリカントである事を "知っている" レプリカントであり ( テーゼ A )、デッカード自分がレプリカントである事を "知らない" レプリカント ( テーゼ B )でしたね。

 

c.   この両者に共通するのは、知る事、あるいは知らない事、という "知の次元" が出現していることです。この "知の次元" があるからこそ、A および "自己意識" についてのテーゼだといえるのです。人間主体の中に "知の次元" が出現する事の哲学的意味は、人間主体の心理的構造が "精神的なもの" として展開されていく上での契機となっています。人間心理は精神的なものとしてしか在り得なかったのであり、そのようなものとして構造化されなければ、人間性それ自体は野蛮なものの中に埋もれている事しか出来なかったでしょう。

 

d.   このような知の次元の重要性を説いたのがドイツ観念論の哲学者ヘーゲルです。彼の洞察は、一般的常識に反して、自己意識ですら知の1形態に過ぎないというラディカルなものです。私達の常識では、意識と知を切り離す、あるいは意識を知の上位にあるものだとするでしょう。ところがヘーゲルはそのような思い込みが哲学的には意味がないことを明らかにします。ヘーゲルは、私達が何かを知るというように、何らかの対象を捕獲するという意味での教養的な知について語るのではありません。そうではなく、彼は "知るという形式" それ自体の現実的意味について語っているのです。

 

e.   対象物を自らの元から切り離し、今度は自分自身にその対象化を施すという反照規定こそ知の作用であり、そこから分かるのは、対象物への偶像的呪縛から逃れた "知それ自体の抽象化" という現実がそこにあるという事なのです。そして、そのような知の抽象化が最高度に達したものこそ "自己意識" に他なりません。この意味でヘーゲルは意識 ( 自己意識 ) は知であると言っているのであり、その知の発動を "精神" と言うのです。

 

f.   そうであるならば、ロイのテーゼ A は、その "言表内容" ( 自分はレプリカントである ) に反し、自分はレプリカントであると意識する "言表行為" において、既に人間性を回復しているといえるのです、自分の限界 ( 寿命が4年しかない ) を規定する "自己意識" に到達しているという意味で。

 

g.   そしてロイに続いて考えなければならないのはデッカードのテーゼ B についてです。表面的な印象とは違って、ロイが逆説的に人間性を獲得しているのであれば、デッカードはどうなのかという問題が残るわけですね。ロイのテーゼ A が自己意識の "純粋内容" であるならば、デッカードのテーゼ B自己意識の "意識されない形式性" 、つまり、意識とは一体何であるのかという底無しの闇に引きずり込みかねない無意識性自己意識が在ることの無意識、を表していると考えられるのです。

 

h.   ここで整理すると、テーゼ AB は自己意識の "内容" と "形式" の差異であるという事であり、それはロイとデッカードが表裏一体、あるいは背中合わせ、の関係にある事を示しているといえますね。ここで思い出されるのは、映画中では採用されなかったものの、脚本家デヴィッド・ピープルズによる「 ロイと自分は兄弟だった 」というデッカードのセリフがあったというエピソードです。このエピソードで示される兄弟が比喩的なものに過ぎないとしても、それは自己意識にまつわる哲学的真理の一端を担っているといえるでしょう。そして、デッカードにおけるこの "無意識性" こそが、人間の同一性意識を動揺させる不安要素として観客を誘惑し、監督のリドリー・スコットファイナルカット版においてデッカードレプリカント説へと完全にシフトさせたものだと解釈出来るのです。

 

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  3.   再びレイチェルの方へ                   

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a.   ここで再び、レイチェルの不安定な内面の方へ戻ることにしましょう。 a. において、レイチェルはテーゼ C からテーゼ A に移行しつつあると述べました。自分が人間ではないという絶望からレプリカントであることを認める自己意識への途上にあるという事でした。しかし、ここで注意すべきは、彼女がロイなどのネクサス6型と違い、感情を抑制して、より人間らしく振舞える ( それに加えてレイチェルに生殖能力まであったことが『 ブレードランナー2049 』で明らかになる ) と自覚し、それに固執した事です ( 生殖能力によって彼女はネクサス6型がヴァージョンアップされたネクサス7型ではないかとの推測もありますね )。

 

b.   ここでのレイチェルは自己意識の生成過程にあるといえるのですが、ただし、それはロイのように人間と敵対して自分がレプリカントであると認識する単純な自己意識ではありません。彼女は自分がレプリカントであることを "知っている"。にも関わらず、人間らしく振舞えると "信じている" のです。そう、ここにあるのは "知" に対する "信仰" の優位です。自己意識がヘーゲルの言う "知" であるとするなら、"信仰" とはそのような知を停止させて自己意識を麻痺させる "陶酔的なもの" なのです。

 

c.   ラカンマルクス主義哲学者のスラヴォイ・ジジェクは『 ブレードランナー 』を論じた否定的なもののもとへの滞留において、そんなレイチェルの苦悩をキルケゴールを引き合いに出して説明しています。

" ブレードランナー 』のなかで、デッカードがレイチェルに、彼女がレプリカントであることを証明したとき、レイチェルがどんなふうに、静かに、声もなく、叫びはじめたのかを思い出そう。彼女の「 人間性 」の喪失に対する沈黙の嘆き、人間であること、あるいは、再び人間になることへの無限の憧憬、そうなることはけっしてありえないと彼女は知っているにもかかわらず。あるいは、裏返していうなら、私は本当に人間であるのか、それとも、ただのアンドロイドなのかという永遠に私を責め苛む懐疑 ー こういった決定されず中間的な状態にあること、それが私を人間にする " 否定的なもののもとへの滞留 太田出版 p70.

 

これについての注でジジェクキルケゴールに言及する。

" そしてこれはキルケゴールが信仰に関して成し遂げていたのと同じ身振りではなかったかわれわれ有限の死すべきものは「 自分は信じていると信じている 」べく呪われているわれわれはけっして自分が本当に信じているのかどうかについて確信することはできない( 中略 )ラカンのいうように強迫神経症者を突き動かしている問いが「 私は死んでいるのかそれとも生きているのか 」であるとするならその宗教版が「 私は本当の信仰者でわるのかそれともただ信じていると信じているだけなのか 」であるとするならここでは容易に見てとれるようにこの問いは「 私はレプリカントなのかそれとも人間なのか 」へと変形されている "否定的なもののもとへの滞留 太田出版 p383~384.

 

d.   しかし、ジジェクは、その懐疑を文字通りに受け止めすぎているかもしれません。というのも、もしその懐疑が "文字通りの真実" であるとするならば、人間主体はもはやそれ以降、行動することが出来ないでしょう。信じるという自分の行為 ( 信仰 ) でさえ信じることが出来ないのだから。そうすると、文字通りの懐疑に人間主体が陥ったとするならば、そこにあるのは主体性の崩壊 ( 狂気の侵入 ) であるか、懐疑を放棄して以後の人生を堕落して過ごす、という2択しかない。

 

e.   そうでないのなら、懐疑の中にありながらも人は、キルケゴールであれ、レイチェルであれ、既に無意識的にどちらかの選択をしているという事になりますね。キルケゴールが本当に信仰を信じていなかったならば、彼はそもそも信仰について語ることはしなかったでしょう。レイチェルも人間であることを信じていなかったならば、絶望することも無かったでしょう。つまり、彼らは懐疑あるいは絶望的真実 ( キルケゴールにとっての神の不在、レイチェルにとっての自分が人間ではないという事実 ) にも関わらず信じる事が出来るのを言外で表明しているのです。別の言い方をするばらば、懐疑あるいは絶望的真実に直面しているからこそ、信仰という形式の価値を高める事が出来るという訳です。

 

f.   では、ロイやデッカードの自己意識という人間的主体の構造的真理に対して、レイチェルの取る人間的なものへの信仰という身振りはいかなる意味を持つのでしょう。ここにはキルケゴール的不安とは袂を分かつレイチェル自身の欲望が色濃く反映された信仰、つまり、""、それも "デッカードへの愛" が現れているのです。

 

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  4.   レイチェルの愛・・・その結末

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a.   レイチェルはロイと同じく、レプリカントである事を認識したという意味で人間的自己意識を形式的に獲得したのですが、その事がいかなる振舞いを生むのかといういう点でロイと微妙な違いを出していて興味深いのです。

 

b.   ロイはデッカードとの決闘においてビルの屋上から落ちそうになるデッカードを助けるのですが、これをいかに解釈すべきでしょうか。寿命が尽きる直前のロイの気まぐれなのでしょうか。いや、その解釈では話は何も進まない。落下死しそうになっているデッカードはひとつのアクティングアウトをロイに選択させたのだと考えてみましょう。デッカードが生きるも死ぬもその生殺与奪権がロイに委ねられたわずかな時間が生まれた。その瞬間にロイは他人を救うというそれまでのやり方とは違う流儀を学んだのです。自分の寿命を延ばすために人間と敵対してきた彼は、もはやそれが叶わぬ ( 自分の命がわずかなため ) と感じた時、デッカードを殺す事の無意味さを知ったのだといえるでしょう。

 

c.   この時、ロイの "自己意識" は自分の死を受容れていたのですね。その結果として、彼は自分の死の間際において他者を救うという崇高な選択をしたという訳です。これに対してレイチェルはレプリカントであることの "絶望的自己意識" と引き換えに、他者を愛するという極めて人間的な振舞いに目覚めるのです。

 

d.   この愛がいかなる形を採ったかについてはデッカードとレイチェルが逃避行するというラスト ( これは『 ディレクターズカット版 』や『 ファイナルカット版 』よりも1982年に公開されプロデューサーの権限が反映された『 インターナショナル版または完全版 』の方ではっきりと表されている ) 以外には知る由はありませんでした。しかし、『 ブレードランナー2049 』によってレイチェルは備えていた生殖能力によってデッカードの子を身篭り、出産していた事が明らかになります。それと同時にレイチェルも亡くなったことが分かるのですが、驚くべきことに、そこには普通の人間と何ら変わりない生殖サイクルが現れているのです。

 

e.   この結末をどう考えればいいのでしょう。『 ブレードランナー2049 』以前の『 ブレードランナー 』の幾つものヴァージョンにおいては、レプリカントと人間はあくまで別個の主体として互いに引き合い、反撥して、人間的同一性を揺さぶる参照項同士であったはずです。ところが『 2049 』においてはレイチェルの生殖能力によって、人間とレプリカントの差異はほとんど消滅しかかっています。いや、それどころか、人間とレプリカントが融合しているとさえ言えるでしょう。これでは『 ブレードランナー 』における人間の同一性という哲学的問題は "問題" にさえならなくなる。というのも『 2049 』においては既に人間が自らの同一性を抜け出て別の何かになろうとする未来が暗示されていると解釈出来るからです。

 

f.   それを理解するには人間の象徴的器官である生殖器レプリカントであるレイチェルに備え付けることの不可能性を想像すればいいでしょう。それよりも、人間に不可欠な生殖器官をベースにその他の部分を機械的パーツで補った主体を想像する方が現実味がありますね。もちろんこのような事態の契機となるであろう医療処置の延長上には遺伝子操作などの人間の寿命や出産をコントロールしようとする将来的プロジェクトを予期することはそう的外れな事ではないでしょう。例えば "ある国家" において、急激な人口減少によってそれまでの社会基盤や国家予算 ( 人口が減れば税収も減るしかなくなる ) が維持できなくなる恐れがある場合など。

 

g.   ここまで読んでお気付きの方もいるかもしれませんが、私たちは、ロイにレプリカントであることを意識させるきっかけとなった "寿命" の問題、つまり、有限の命の中で生きる主体が自らを強く意識する事の変奏ヴァージョンであるテーゼ A に立ち戻っています。そして、ここに至るための離れた入口は、レイチェルのデッカードへの愛だったのです。彼女は生殖によって愛の結晶を残すこと引き換えに有限の命の世界から去っていったのですが、有限の世界に残された主体であるロイ、そして私達 ( 新たに生まれた命を含めて ) は、有限の命の中で生きるのを強いられた存在である事を嫌という程に思い知らされることになるのです、個人的にも、社会集団的にも。

 

h.   レイチェルの人間的なものへの信仰は、デッカードへの愛という形式で昇華された訳ですが、しかし、その結末が人間とレプリカントの融合的主体の出現であるのなら、そこには "人間の生殖サイクルがレプリカントによって利用される" という悪夢が生まれているとSF的に考えることが出来るでしょう。ただし、それを悪夢と言い切るには、私達が生殖サイクルという形式の "現実的意味" を知っている必要があります ( この "現実的意味" の例としてはd. 及びg. を参照 )。

 

i.   もちろん、私達は、その "現実的意味" を知らないのです。生殖サイクルが太古から続く遺伝子の伝達作業という便宜的な説明に流されてしまっているだけで、なぜそのような形式なのか、その形式によって生命が続くという現象の意味は何なのか、などの問いを立てると、私達は、その "現実" に震撼するしかないのですね【 】。とするならば、私達もレプリカントと同様に、生殖サイクルに乗っかって、それを利用しているに過ぎないという事になりますね。"現実的なもの" に対して盲目なる事が私達の無意識を形成するという意味で、私達はデッカードなのです。そして、苦悩や愛の最中で生殖サイクルを使用するという意味では、私達はレイチェルであり、最終的に自らの死を受け入れて自己意識の闇の中で眠りにつくという意味でロイであるように、人生において私達は『 ブレードランナー 』が提示する3つの主体として生きていると解釈出来るのです。 

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   ダブルバインド理論で知られるグレゴリー・ベイトソンも『 精神の生態学 』の中で、わずかながらも、この "現象" の現実的意味について言及している。

 

 

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