〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ルイス・ブニュエルの映画『 皆殺しの天使 』( 1962 )を哲学的に考える

 

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監督  ルイス・ブニュエル
公開  1962年
出演  シルヴィア・ピナル    ( レティシア / ワルキューレ )
    エンリケ・ランバル    ( ノビレ )
    ルシー・ガヤルド     ( ルチア / ノビレの妻 )
    アウグスト・べネディコ  ( コンデ / 医師 )
    パトリシア・デ・モレロス ( ブランカ / ピアニスト )
    クラウディオ・ブルック  ( フリオ / 執事 )

 

 

ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるためでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 



 1章    ブニュエルの作品に対する沈黙・・・

 

1962年に公開されたルイス・ブニュエルのメキシコ時代の作品『 皆殺しの天使 』を彼の最高傑作とする人は未だ多い。しかし、そのような賛辞とは裏腹に『 皆殺しの天使 』に対する考察がなされることはほとんどありません。不条理映画、シュルレアリズム映画、ブルジョワ批判、心理的閉塞、停滞、反復・・・、そのような言葉が解釈不能性と共に繰り返されるばかりです ( 映画評論家をはじめとする多くの観客において )。もっとも、それはブニュエルの映画一般について言える事であり、ブニュエル自身も自分の映画に不条理の要素がある事を語っているのですけどね。

 

おそらく多くの人はルイス・ブニュエルという偉大な監督の作品を前にして、考える事を無意識的に放棄しているのかもしれない、あたかも『 皆殺しの天使 』の中でノビレ邸に集まったブルジョワたちが帰ろうとすれば帰れるのにそれを諦めてしまったかのように。ブニュエルの作品は、観る人の考える力を奪ってしまう・・・いや、結局の所、人間が 自分の意志では何も考える自由のない生き物である 事を露呈させるブラックユーモアに満ちたものであるのでしょう。

 



 2章    ブニュエルの映画における反復強迫

 

この映画の奇妙さを決定付けているのは、ブルジョワたちのノビル邸から "帰らない" という振舞いにある事は言うまでもないでしょう。"帰らない" といっても、物理的に帰れないのでありません ( ノビレ邸の出入口はもちろん、邸宅へ至る敷地の門扉も開かれている ) 。注意すべきは、帰ってはいけないし、それを口に出してもいけないという暗黙のルールがあるかのように、帰らない言い訳や振舞いをして、帰りたいのに帰れない不満を募らせていく。このような振舞いこそが不条理性を示す形式として突出的に注目され、この映画に対する不条理性、停滞、反復、という評価を導いている現状があります。

 

たしかに、登場人物たちの不条理的身振りはブニュエルの狙いのひとつである事は間違いないでしょう。登場人物がある特定の行動を目指そうとすると、それを実現する過程が直線的かつ素直に描き出されるのではなく、それどころか 特定の行動とは真逆の振舞いを繰り返してしまう "反復脅迫あるいは強迫性障害とでも呼ぶべき精神的混乱" が描かれる。それこそが『 皆殺しの天使 』における帰りたくても帰らないブルジョワであり、『 欲望のあいまいな対象 ( 1977 ) 』におけるコンチータと別れたくても別れる事の出来ないマチューの身振りになっているのです。

 

以上はブニュエルの作品を決定付けている特徴についての基本的考察であり、観客のほとんどが無意識的に読み取っているものです。しかし、ブニュエルはそれだけでは終わらない。彼は "反復強迫に回帰せざるをえない袋小路"、つまり、そのためには一端外部に出ようとする動きが必要になってくるのですが、それを含めたものを最後に描き出しています。彼自身はそれについて言葉で上手く説明する訳ではないのですが、だからこそ解釈する余地が残されていると言えるので以下で考えていきましょう。

 



 3章    レティシアについて

 

ノビル邸から帰ることの出来ないブルジョワたちの間に溜まった不満は、やがてノビルに対する殺意へと変化していく ( 1 ~ 8 )。自分たちを邸宅内での閉塞状況に陥らせたのは、他でもない邸宅に招待した主人のノビルなので、彼を殺せば状況を打開出来るかもしれないという空気がブルジョワたちを支配したのです。

 

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医師のコンデが皆に落ち着くように説得するが聞き入れられない。それどころか襲われてしまう ( 5 ~ 8 )。 

 

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皆の不満を鎮めるためにピストルで自殺しようとするノビル ( 9 ~ 12 )。 

 

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その時、ワルキューレとも呼ばれるレティシアが現在の皆の収まっている位置が邸宅に来た最初の夜と全く同じであるという発見を驚きをもって皆に知らせる。彼女は改めて、ここで "帰る" という行動原理を皆に再確認させるのですね ( 13 ~ 16 )。 

 

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 レティシアは自ら率先して皆を外に連れ出す ( 17 ~ 20 )。 

 

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ブルジョワたちを外に連れ出す事に成功したレティシアですが、彼女の役割について注意して考える必要があるでしょう。というのも、この作品を観たほとんどの人が彼女を、ブルジョワを救い出したという振舞いによって "解放の女神" であるかのように 解釈しているからです。しかし、これは決定的に間違っています。その解釈では、これ以降のストーリーは全く解釈出来なくなってしまう。不条理であるのを明確に解釈する事と、ストーリーが理解出来ないからとりあえず不条理としておこうというのでは天と地ほどの違いがあることを念頭に置かなければなりません。

 

四方田犬彦でさえ、そのような誤解に陥っています。彼はブニュエル論『 ルイス・ブニュエル 』において、レティシアの役割が "皆殺しの天使" から処女の純真無垢な "自己犠牲の天使" へと変化したと考えます ( A )。その自己犠牲の天使によってノビレ邸のブルジョワたちが解放されるというのですが、そもそもレティシアは何一つ犠牲を払っていないので、彼の考えは成立しない。

 

彼は処女による自己犠牲の天使という考え方の論拠として、アナがユダヤ神秘思想のカバラによる運命解読を行った結果、無垢なる血が必要だと言った発言を引き合いに出します。アナの言葉 "無垢なる血" 、そしてレティシアが処女であること ( しかし、それはアナが噂話をしているだけで本当にそうかは分からない ) を結び付けて、自己犠牲の天使といういささか苦しい考えを打ち出した訳です。

 

ここで、場面 1 ~ 4 に戻るならば、アナの言う、無垢なる血が必ずしもレティシアを意味するわけではないのが分かります。4 で ( ノビルを ) 殺せ! と叫んでいるのはアナに他ならないのですから。つまり、必要な "犠牲の血" とは監禁状態の現場である邸宅の主人、ノビルに責任を負わせるものだったという事です。仮に、そこでレティシアはノビルを傍らで助ける自己犠牲の天使の役割を果たそうとしていると好意的に解釈しようにも、これ以降の話の流れを考慮すると、依然として "皆殺しの天使" のままであり、ブルジョワたちを本当の意味で助けたのかどうかさえ疑わしくなる のです。それについては以下で考えていきますが、まずは皆殺しの天使という言葉の意味について触れてからにしましょう。

 

 

( A ) 四方田犬彦ルイス・ブニュエル 』作品社 p.372

 



 4章    ワルキューレ、そして皆殺しの天使・・・

 

『 皆殺しの天使 』というタイトルについて四方田は言っています。  

ブニュエル研究家たちは、この題名をめぐって、さまざまな出自の説を唱えている。たとえばビダルはそれが『 出エジプト記 』に由来するものであると説き、『 ヨハネの黙示録 』に登場する死の天使が出典であると主張する者もいる。 

 

四方田犬彦ルイス・ブニュエル 』作品社 p.352~353

 

おそらくこれが現在、一般的に流布している説であり、ブニュエル自身もこう言っています。 

この『 皆殺しの天使 』という語は、聖書の黙示録に出てくるもので、スペインの教団、『 1828年使徒団 』の教徒たちもこの名称を用いていた。確かモルモン教のグループだったと思う。

 

トマス・ペレス・トレント / ホセ・デ・ラ・コリーナルイス・ブニュエル 公開禁止令 』フィルムアート社 p.248

 

それらに加えて四方田は自分の見解として、レティシアの渾名である ワルキューレワーグナーの舞台祝祭劇『 ニーベルングの指環 』によって解釈します。ここにおいて彼の言う "自己犠牲の天使" という考え方は、実は『 ニーベルングの指環 』の4作目『 神々の黄昏 』の第3幕における ブリュンヒルデ ( ワルキューレの1人 ) の自己犠牲 に過ぎなかったことが分かるでしょう。しかし、『 ニーベルングの指環 』は北欧神話をベースにしているもののギリシア悲劇的な演出 ( 近親相姦や反抗に対する処罰、自己犠牲など ) がクローズアップされており、『 皆殺しの天使 』というタイトルを解釈するにはやや冗長なものであるのは否めませんね。

 

ここでは『 皆殺しの天使 』を解釈する上で、 ワルキューレ北欧神話的なものとしてシンプルに考えてみます。ワルキューレとは、戦場で勇敢に戦って死んだ戦士を選んで北欧神話の主神オーディンのいるヴァルハラへと運ぶ女性たちの事です。運ばれた戦士たちはそこで死せる戦士 ( エインヘリヤル ) として復活し終末の日である ラグナロク ( この語については、神々の黄昏 Götterdämmerung というワーグナーのドイツ語訳 の方が有名でしょう ) に備えるのです。

 

ここで注意すべきはワルキューレが勇敢に死んだ戦士を選別する者だという事です。死者の中から勇者を復活させるという意味でワルキューレは生と死の領域を司る女性なのであり、決して人を殺す者ではありません。そして、ワルキューレはもともと天使なのではないのです。そうすると、レティシアワルキューレという渾名を与えたこと、映画のタイトルを『 皆殺しの天使 』にしたこと、とは北欧神話に聖書の天使概念を接木したブニュエルの混成イメージによるものだと分かりますね。

 

しかし問題はまだ残ります。ブニュエルの混成イメージによって、レティシアが死の天使であるとしても、既に述べたようにワルキューレが本来、人を殺す者ではない事を考慮するならば、レティシア "生と死を選別する天使" だというべきものです。細かく言うと、勇敢に死んだものを復活させる者です。しかし、これによってタイトルにおいて天使の前に付けられた "皆殺し" という誰も気にかけることのない言葉の意味に重みが出てくるのです。

 

レティシアは、ワルキューレが死んだ者を復活させるのと同じく、ノビル邸に自ら監禁された客人たちを脱出させ外の世界に復活させるのだとしたら、確かに、そこには解放の女神的な雰囲気を感じ取る人がいても無理はないかもしれません。しかし、ここでワルキューレの神話に戻ってみると、ワルキューレが死からの解放を司る者であるかは、かなり怪しいといえるでしょう。というのも、ワルキューレが勇者を復活させるのは、ラグナロクにおける戦いに従事させる為 であるからです。そうすると、勇者達は復活しても、戦いの場における必然的な死の運命からは逃れられないし、それ以外の選択肢は消されている という意味で、"死への従属者" であるしかないのです。

 

死から復活しても、戦いにおいて死ぬしかないのであれば、この場合、生とは再び死ぬための "擬似的な生 ( それは常に復活という概念につきまとう )" でしかない。とするならば、ワルキューレの真の姿とは死への従属者を引き連れる恐るべき何者かであると言えるのです。この真の姿こそが、この映画で描かれるレティシアなのであり、以下の 5章で述べるように、客人たちをより強力な監禁状態に追い込むために、束の間の 擬似的解放 を与える姿こそ、皆殺しの天使の名称が相応しい と解釈出来るのです。

 

死の領域の中から生を選び出すはずのワルキューレすべてのものを死の領域に閉じ込める ( これはブルジョワたちがノビル邸に監禁されている事の比喩になる ) 恐るべき天使である ことを『 皆殺しの天使 』というタイトルは示していると解釈出来るでしょう。もちろん、これらはブニュエルが明確に意識した結果なのではなく、彼の中で無意識的な機知が働いたという精神分析的解釈である事は言うまでもありませんね。

 



 5章    監禁という反復強迫の回帰

 

ノビル邸から脱出したブルジョワたちが教会で礼拝を行う ( 21 ~ 22 )。しかし礼拝が終わっても誰も帰ろうとしない。ブルジョワたちだけでなく、その場にいた誰もがです。正確に言うなら、帰ろうとはしても、教会の外に出ることが出来ないのです。誰かが出たら自分も出ようという言葉が発せられるだけです ( 25 ~ 26 )。

 

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この状況はノビル邸での反復だとしか言いようがないものですね。しかし、それではレティシアブルジョワたちを解放したのは一体何だったのでしょう。いや、果たしてあれは解放だったのでしょうか。その答えは言うまでもなく、解放ではありません。それは自由になるための解放ではなく、ワルキューレが勇者たちを死に従属させるのと同様の、"さらなる監禁のための解放" というべきものなのです。つまり、ただでさえ何の理由もなく反復される監禁が、さらに強力なものとして回帰してくる ( そのために監禁内部の人間は一端は外部に出れたという擬似脱出に惑わされる ) という絶望的な状況 が待ち構えている訳です。

 

場面 27 はデモの人々が警察に鎮圧されるというものですが、これはもとから教会の外にいる人々なのか、それとも教会の外に出た人々なのかは分かりません。というかブニュエルはストーリーの時系列の一部としてというよりは、時系列に構造的効果を波及させる "異質要素" として差し込んでいる のですね。ブニュエルは言います。 

 

おそらく『 皆殺しの天使 』では、警察の襲撃と教会の監禁とは何も関係がないだろう。たまたま時を同じくして二つの事が生じたのだ。しかし私には、例えば教会の正面、発砲、喚声、教会に入っていく子羊そんなふうにしかイメージが湧いてこないのだだ。

 

トマス・ペレス・トレント / ホセ・デ・ラ・コリーナルイス・ブニュエル 公開禁止令 』フィルムアート社 p.262 

 

とはいえもうそれだけで十分に解釈を拡げていく事が出来ます。警察の襲撃というブニュエルの言い方から分かるように、それはまさに監禁の外部に存在するものが、いかにひどい世界であるかを予感させるイメージなのです。端的に言うなら、それはブニュエルにとってのスペイン内戦の経験という事になりますね。

 

ここにおいて監禁という反復脅迫に隣接するものが政治的危機的状況であることが分かります。ブルジョワたちは意味もなく監禁状況を繰り返していた訳ではなかったのです。彼らは監禁の外の危機的世界を漠然と予感していたという意味で間違った選択をしてはいなかった。ただし、それは 動物的反射として ( それこそ子羊として ) 外部の危機的世界から内部の監禁という別の危機的状況に逃げ込んだに過ぎない という絶望的なものです ( B )。そこは外部と同じく生が保障されていない死の領域であるのですから。この意味で、ブルジョワたちを袋小路に追い込むレティシアには "皆殺しの天使" という渾名こそが最もふさわしいといえるでしょう〈 終 〉。

 

 

( B ) ブニュエルはこのような政治的・社会的絶望を、様々な着想を用いて映画に昇華させようとしていたといえますね。

 

わたしは自分を抑圧し、堕落させようとする社会に抗して闘う人間というテーマへ、何度となく戻ってきた。ひとりひとりの人間は興味に値するように見えるが、かれらが集団になるとその攻撃性は束縛をなくして、攻撃または逃亡へと変貌し、暴力を行使するかそれに耐えるかになる。

 

ルイス・ブニュエルルイス・ブニュエル著作集 』思潮社 p.352

 



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