哲学的抽象機械

Philosophical Abstract Machine

ダーレン・アロノフスキーの映画『 mother ! 』( 2017 )を哲学的に考える

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監督 ダーレン・アロノフスキー

公開 2017年

 

出演 ジェニファー・ローレンス ( )

   ハビエル・バルデム    ( )

   エド・ハリス       ( 客人・夫 )

  ミシェル・ファイファー  ( 客人・妻 )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想ではなく、『 mother ! 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいたものです。なので、考えることをせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さを求める、という方はこの場所は適当ではないかもしれません。しかし、限られた人生の時間の中で物事を深く考えることに意義を見出す人にとっては、十分に刺激的な記事であるのは間違いないでしょう。

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  1. 『 mother ! 』というタイトル

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a.   この映画のタイトル『 mother ! 』の頭文字が小文字であること、そして最後に感嘆符の ! が付けられていることを考え合わせるなら、これは『 母 』という名詞なのではなく、ある種の呼びかけに近い『 母よ ! 』と意味で捉えるべきでしょう。

 

b.   ただし、もしそうであるのなら、その呼びかけがいかなる意味を持つのかについて注意して考えなければなりません。母に対する賛歌なのか、それともため息混じりのつぶやきなのか、それとも・・・ "母なるもの" に対する執着なのか。アロノフスキーのこの驚異的な作品を見る限り、その呼びかけは、狂乱的騒ぎを起こすある集団が "母なるもの" を常に追い求める身振りであると同時に、1人の女性の自分の全てがその集団によって奪われてしまうことの悲劇的運命に対する叫びである、という少なくとも2つの事態を表していると言えるのです。そのことについて考えていきましょう。

 

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   2. タルコフスキーサクリファイス 』へのオマージュ

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a.   この記事の先頭画像、草原の中で燃え尽きた家の印象的なシーンは、タルコフスキーサクリファイス 』の草原の家の炎上シーンを思い起こさせますね。このシーンが『 サクリファイス 』へのオマージュだと考えるのは哲学的解釈をする上で有益になるでしょう【 】。『 サクリファイス 』が新約聖書 ( ヨハネ福音書 ) をテーマにしている対して『 mother ! 』は旧約聖書 ( 主に創世記 ) をテーマにしていると言えるのです。だからといって双方ともたんなる宗教についての映画なのではありません。宗教的なものを背景として登場人物たちがそこに絡み止められ、抵抗し、脱出しようとし、最後には服従あるいは同調してしまう行動過程を圧倒的な力で描写した哲学的映画なのですね【 】。

 

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アンドレイ・タルコフスキーサクリファイス 』( 1986 ) より

 

b.   もっと焦点を絞るなら『 サクリファイス 』は父と子の関係性を描き出し、『 mother ! 』は母というよりは "母なるもの"、そしてそれとの対比として1人の女性、を描き出しているのです。ただし、その描き方は不気味でグロテスクでもあり、アロノフスキーの流儀が十分に示されたものとなっています。そして興味深いのは、ユダヤ人であるアロノフスキー自身が旧約聖書的共同体を否定的に描いていている事です。家の中に集まった多くの人々による狂乱は観る人に嫌悪感を抱かせるのに十分なものとなっていますね。事実、この映画は客人とそれに続く人々を平気で家に招き入れる夫 ( ハビエル・バルデム ) に対する妻 ( ジェニファー・ローレンス ) の不満から始まるのです。つまり、妻は "共同体的なもの" ( その共同体は明らかに宗教的共同体、それもユダヤ的なものとして描かれている ) に対して否定的な立場にあるという訳です。

 

   ようやく子供を身篭った幸せを2人で味わおうとせず客人をどんどん招き入れる夫に不満をもらす妻 ( 1~6. )。

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   余りにも多く集まり過ぎた客人たちによる狂乱に耐え切れなくなった妻 ( 7~12. )。

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   客人たちの騒ぎから逃れて子供を出産する妻 ( 13~18. )。

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   出産の後、客人たちを追い払うように言う妻 ( 19~24. )。

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   生まれた子供を夫に抱かせようとしない妻 ( 25~30. )。

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   通常、こういうオマージュや影響の例として監督自身の発言が右にならうかのように引用されたりしますね。例えば、『 mother ! 』に対するルイス・ブニュエルの『 皆殺しの天使 』、『 ブラックスワン 』に対するロマン・ポランスキーの『 反撥 』【 】、などです。たしかにそれはたんなる事実の寄せ集めである "映画知識" としては正しいのですが、映画を "哲学的に考える" 場合、それは参考程度に留めておくというのが僕の考えです。つまり、哲学的解釈する上で他に有効な例 ( ここではタルコフスキーの『 サクリファイス 』) があれば、それを "接続" させて解釈を深めるべきなのです。監督や出演者の "言葉" や "意図" に拘りすぎていては何も目新しい考えは出てこない。それでは結局、核心的なことはなにひとつ引き出す事が出来ないといえるでしょう。映画知識を集めたいだけで、それ以外は考えたくない・・・というのなら話は別ですけど。

 

 

    アンドレイ・タルコフスキーの『 サクリファイス 』については以下の記事を参照。

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アンドレイ・タルコフスキーの映画『 サクリファイス 』( 1986 ) を哲学的に考える - 哲学的抽象機械

 

 

 *   ロマン・ポランスキーの『 反撥 』については以下の記事を参照。

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ロマン・ポランスキーの映画『 反撥 』( 1965 )を哲学的に考える - 哲学的抽象機械

 

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  3. 子供を奪われる女

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   睡魔に負けて眠った妻が目覚めた時、子供は夫から客人たちの手に渡っていた ( 31~36. )。

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   以下のシーンからがこの作品を解釈する上でのポイントとなりますね。子供を取り戻そうと客人たちの中に分け入った妻が見たものは、体中の肉を抉り取られた無残な子供の死骸でした ( 38. )。そこで繰り広げられていたものは狂気のカニバリズム的祝祭に他ならなかったのです ( 40. )。

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   ブチ切れる妻。しかし逆に客人たちによる集団リンチで半殺しの目に会う。

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   妻を助けに来た夫。しかし、客人たちを赦そうという理不尽な理屈を述べ始める。そんな夫に "正気じゃない" という妻。当然ですね。

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a.   ここで重要なのはカニバリズムのシーンをどう解釈するかという事です。これをそのまんま受け止めてしまってはただのホラー映画になってしまう。この映画の製作スタッフの中にも "これはホラー映画だ!" って言う人もいましたけど (笑)。しかしこれがホラー映画でないことは今までのアロノフスキー映画の傾向を見れば明らかでしょう。これをアロノフスキーが影響を受けているポランスキーの『 ローズマリーの赤ちゃん 』を引き合いに出してかろうじてサスペンスホラーの系譜に位置付けようとする人もいるのでしょうが、子供が母親の手から奪われているという事がそれとは決定的に違うものとして考察させるのです。

 

b.   まずカニバリズムのシーンは象徴的なものとして解釈する必要があります。では何の象徴なのかというと、"宗教的共同体" の象徴なのですね。細かく解釈するなら、子供は生まれた瞬間から母親のものではなく、共同体の一員であるという事が示されている訳です。

 

c.   しかし、それだけならありふれた話なのですが、カニバリズムという狂気の振舞いは子供を奪われた母親の視点から見られたものだと解釈すべきものです。そこには子供を失って狂わんばかりに高まった母親の感情が投影されているのです。その感情はそのまま家を燃やすという行為へと彼女を突き動かしていくのですが、通常であれば家が激しく燃え尽きたところで話は終わるでしょう。しかしそこで終わらないのがアロノフスキーの恐るべきところなので、それについては以下で考えていきますね。

 

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  4. 母なるものを奪われた女

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   妻の感情が爆発し、自分自身を死に至らせる程までに家を燃やしてしまう ( 57~66. )。

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   普通の監督なら 66. で終わりそうなものなのですが、アロノフスキーはそこで終わらない。ここからシーンでこの作品の本質について解釈を深める事が出来るでしょう。夫はここで明言はしないけれど自分の事を神だと仄めかしているのが分かります ( 67~78. )。そして妻には "君は家だ" と言うのです ( 70. )。

 

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   "もう死なせて" と懇願する妻に "何か" をもらおうとする夫。この "何か" の事を夫は "君の愛だ" といって曖昧な形でしか言い表しません。そして妻の体内から水晶を取り出します。

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a.   アロノフスキーはこの水晶を心臓から取り出したものだと言っているのですが、それは建前でしょう。たしかに、この水晶を心臓に準えて、妻の命を "家" を再生させるために求めたとして解釈する事も出来ます。しかし細かく場面を辿っていくのなら、彼女はもう死にかけていて自分でもそれが分かっているのです。死につつある人間に命を差し出せという話はおかしいという事になりますね。

 

b.   ここで思い出すべきは、映画の導入部で、妻が子を授かりたくてもの性生活がないことへのプレッシャーや苛立ちが、家の内装を手がける ( 壁を塗るなど ) という行為へと転換されていたという事です。家が母なるものの象徴だとするならば ( それは話が進まないと分からないのですが )、妻がその内装を手がけるというのは "母なるもの" へ同一化しようとする欲望が反映された行為であるのです。

 

c.   そのことを考慮するならば、夫が死につつある妻に要求したものは、子を産むという母親の象徴的器官、つまり子宮であると考える方がストーリーに沿ったものになるはずです。アロノフスキーも子宮を取り出したなんて開けっぴろげに言う訳にもいかなかったでしょうし。最終的には妻から取り出された水晶 ( 子宮 ) は燃えた家を再生させるのですが、それは妻が最初の自分の欲望どおりに "母なるもの" に悲壮な形で同一化したものだと解釈出来る訳です。

 

d.   しかし、ここで解釈を終わらせるわけにはいきません。もし、ここで話を終わらせてしまうと、母なる地球論を端とする環境問題などのアロノフスキーの発言の一部でしかないものがこの作品の最終的帰結になってしまうからです ( そういう解釈をしている人は結構いる )。

 

e.   ここに至って省みられていないものは、子供を奪われた妻についての事なのです。これはフェミニズム的問題ではなく、女性とは何であるのかという哲学的問題なのであり、ここにこそアロノフスキーの隠れた関心があると思えます。注意すべきは水晶 ( 子宮 ) を手に入れた夫が不適に笑う場面 ( 87. ) です。これは彼の関心が妻であった "女性" ではなく、彼女の肉体に備わっていた出産という "母なるもの" にあったと解釈出来るでしょう。それを手に入れたから満足しているという訳です

 

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f.   これまでの妻と夫のやりとりにはラカン精神分析の欲望の定義 "欲望とは他者の欲望である" を思い起こさせるものがあります。つまり、母親になりたいという妻の欲望は、夫の母なるものを望む欲望だったのです。形式的には、夫の欲望に従う事が妻の欲望であったという事なのです。場面 73. における妻のセリフ "私はあなたを満たせなかったのね" がその事を示していますね。

 

g.   厳密に言うなら、等号で結ばれた彼らの欲望の均衡は、子供が産まれる事によって崩れていました。夫の欲望の対象が自分ではなく子供にある事を妻が知ってしまうからです。そうすると、夫の欲望は自分に向いているはずだと思い込んでいた妻が選択する次の行動は、夫の欲望の形式それ自体を奪い取る事 ( 子供を欲望の対象とする事 ) なのです。それも実は倒錯した形で夫の欲望に沿ったものなのですが、違うのは妻が夫に代わって自分を主人としている事です。だからこそ、子供を渡せと言う夫にはっきりとノーという事が出来たのですね ( 25~30. )。

 

h.   しかし、最後に妻は子供のみならず、子宮という母なるものさえ奪い取られてしまいます。ここにおいて、"母なるもの" は宗教的共同体の欲望の源泉として作り上げられた対象物でしかない事が明らかになるのです。そうであるならば、母なるものを奪われた妻とは、女性とは、一体何であるのかという哲学的問題が発生するのですが、アロノフスキーはそれを直感して限界状況における女性の身振り ( 『 ブラックスワン 』も参照 ) を激しく描き出す事に専念したのだといえるでしょう。

 

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